それは音にならずして
それは音にならずして
 雪の降らないこの町は、ただ白い空と乾いた空気だけが今は冬だと伝えてくれる。 
 大学入試を終えた俺はどこにも行くことができず、まっすぐ通い慣れた高校へ向かっていた。 
 これでよかった、なんて言えるほど気持ちの整理ができているわけじゃない。でも、そんなときこそ俺を支えてくれるのは音楽。小学校から続けてきた毎日の練習をどうしてもやめられずにいる。 
 からっぽの昇降口に靴を仕舞って音楽室へ向かった。鍵は部長権限で持っている。好き勝手させてくれるこの自由な校風に感謝する。 
 鍵を回すと、手応えが軽い。 
 開いている。ピアノと、椅子と、奥に打楽器が整然と並ぶ。 
 そして手前に、男子生徒。 
「寝てる……?」 
 ピアノ脇の机に突っ伏して眠る男子。長い前髪が影を落としている。顔の下にめくれ上がったネクタイは二年生であることを示す臙脂色。腕の下には、書きかけの五線譜。 
 触れてはいけないのだと本能的に察した。そんなわけあるはずないのに、この男子生徒が人間だとはどうしても思えなかった。チープな言い方をすれば天使。それはあまりにも安すぎると自嘲した。
 準備室でケースを開き、組み立てる。 
 黒いボディーに銀のホール。二枚の木が合わさったリード。 
 オーボエと呼ばれるこの楽器は、俺の一部だ。 
 身体の一部を拡張して、歌う。 
 
 念入りにロングトーンをはじめとする基礎練習をして、一曲吹いた。 
 高校一年の時、市内の選抜バンドに選ばれ、吹くことができなかったソロパート。 
『ソロパートは原則三年生が吹いてください。異論がある者はオーディションをするので申し出ること』 
 俺は、言えなかった。ソロを吹きたい、と。 
 中学生のとき、俺は全国大会に出場した。吹奏楽強豪校であるこの高校にも吹奏楽部の特待で入った。特にオーボエに関しては誰よりもうまく吹ける自信があった。誰よりも多くの時間をこの楽器と共にして、誰よりのこの楽器を、オーボエを愛していた。 
 けれど言えなかった。人の目を気にして、そして、オーディションに負けることを恐れて。 
「……祈織先輩?」 
 目を覚ました彼が俺を見ていた。俺のことを彼は下の名前の 「祈織」と呼んだ。
「起きたか。起こしてすまん」 
 どこかで会ったか、なんて野暮なことは、この現実味のない 少年に聞くことはできなかった。
「いえ、すみません僕こそ。なんていうか、その」 
 歯切れの悪い彼の言葉の続きを俺は待った。彼の瞳は揺れて、そして、俺をまっすぐ見据える。 
「……許された気持ちになりました」 
「許された、か。君、なんでここに居る? まだ二年だろ?」 
「ここにしか、いられないから」 
 彼は瞳を伏せた。長い睫毛が揺れている。 
 彼は「ごめんなさい、ここにいて」と言うと腕の下の五線譜を抱えて立ち上がる。しかし、彼の膝は支えを失ったように容易く折れた。 
「おい、大丈夫か?」 
 俺は駆け寄って肩を支える。抱きしめたオーボエと一緒に。 
「すみません、なんでもないんです」 
 彼は震えていた。呼吸が浅い。 
 どうしようかと狼狽えていると、背後から「まひろ!」と叫ぶ女子の声がした。 
「真宏は私がみるので、すみませんが保健の先生呼んできて貰ってもいいですか?」 
 焦りを含んだ彼女の声に俺は頷いて音楽室を飛び出した。 
 彼の冷たい身体が、まだここは冬なのだと俺に知らせた。 
 
 彼、瀬戸真宏は教室へ行くことがとある事情で難しいのだと話した。授業のプリントを受け取って保健室で解くか、音楽室で楽譜を書いているのだという。楽譜はクラシック音楽から最近流行のポップス、幼少期に流行ったアニメソングや昭和歌謡まであった。それらを吹奏楽曲にアレンジするのが真宏の日課だった。 
「真宏は何か音楽やってたのか?」 
 二人きりの音楽室で俺は尋ねた。 
 彼は柔和に「ピアノを少し。クラシックとジャズの両方をやりました」と答えた。 
 真宏とここで過ごすようになって数日。まだ冬の厳しさは残っていて、この先に春がやってくるなんて信じることが難しい。けれど真宏の表情は少しずつ晴れて、俺とこうして話をしたり、俺はオーボエを吹き、彼は音楽配信アプリで聴きながら楽譜を書き起こしていた。
 深くは干渉しない。真宏がここにいることも、そして俺がここにいることも許されたいから。許せないこともある。例えば俺の弱さとか。 
 
 俺は三年間、市内の選抜バンドに選ばれ続けた。三年生ではトップ奏者にも選ばれた上、県の選抜バンドにも市内で八人の枠を勝ち取り抜擢された。 
 舞台の上でスポットライトと、絶え間ない喝采を浴びる。それが俺の生きている意味で、認められるために吹き続けた。負けることだけはしたくない。誰よりも、そして、俺自身にも。 
 だから俺が経済的に音楽の道で生きていけないと分かったとき、死んでしまってもいいと思った。けれど死ねなかった。この楽器が、音楽が、喝采が、俺の生を諦めさせてくれなかったから。 
 誰にも言えなかった。そしてこれからも誰にも言わない。 
 ただ逃げるように毎日音楽に執着するんだ。 
 
「祈織先輩は、音楽大学に進むんですか?」 
 そう訊かれた日は静かな雨の降る日だった。凍ることもできず、暖めることもない。雨は降り注ぎ、俺たちからぬくもりを奪った。 
「違うよ。M大の経済学部」 
 俺は地元で一番大きな総合大学の名を上げた。 
「そう、なんですね。すみません、思い込みで話して」 
 真宏は頭を下げる。 
「気にすんな。みんなそう思ってるから」 
 慣れた科白を吐いて彼の髪に触れた。湿気で膨らんで柔らかな髪だった。 
 彼が頬を染める。そのことに俺は気付かないふりをした。 
「別にどこでだって音楽はできる。先輩からアマチュアの楽団に入らないかって話も貰ってる。だからそんな……」 
 どんな顔だろうか、真宏の顔は。 
 俺に触れられて頬を染める彼は。 
「とにかく、残念そうにするなよ」 
 勢いを失った俺の言葉は着地点が見つからないままで。 
「はい。僕、伊織先輩のオーボエ、大好きですから」 
 真に受けるな。喜ぶな。彼が欲しているのは俺じゃない。 
「真宏、迎えに来たよ」 
 音楽室に顔を出す女子生徒。きっと真宏の――。 
「傘忘れちゃった」と話す女子に「じゃあ入っていきなよ」と真宏が答えるのが聞こえた。 
 なんでこんなに傷付いているのだろう。 
 
 真宏から楽譜を受け取ったのは翌週のことだった。 
「祈織先輩、これ吹いてくださいませんか?」 
 タイトルにはピンとこなかったが、楽譜を読むと数年前にヒットしたミュージカル映画の劇中歌だと分かった。結ばれない男女が運命を変えようと歌い上げる恋の歌。 
「この曲、祈織先輩に似合うと思ったので……僕が伴奏を弾くので、ダメ、ですか?」 
 どんな皮肉だよ、と言ってやりたくなった。 
「俺が叶わない恋をしているみたいだな」 
「してないんですか?」 
 あまりにもまっすぐ真宏が問うものだから、俺は答えられなかった。 
 嘘を吐いてはいけないと、彼の声に言われている気がした。 
 気付きたくはなかった。でも、確実に俺は、真宏に……。 
「祈織先輩のオーボエ大好きなんです。だから、楽しみにしています」 
 どうしたって真宏が好きなのは俺の音楽で、俺自身ではない。 
 オーボエ吹きとしては光栄なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろうか。 
 
 真宏の書いた楽譜をさらった。なぜだか涙がこみ上げてきて、俺は天を仰いで涙をとどめた。流れ出してはいけない。雫も、この思いも。 
 彼の音楽が流れ込んでくる。今までにない感情の動きを感じていた。満たされるのに、触れられているのに、どうしたって届かない。 
 真宏が好きな俺に、どうしたらなれるのだろうか。 
 
 二月最終日。明日は卒業式だった。 
 音楽室で俺たちは奏でた。運命を書きかえてしまおう。そう歌って。 
 オーボエの音色は甘い。甘いけれどどこか寂しさを含んでいる。俺の感情を拡張する相棒に俺は愛しさを感じる。しっとりとした真宏のピアノは音楽室いっぱいを蜜色に染めた。 
 好きだ、とは言えない。なら、音楽にしてしまえばいい。 
 演奏を終える。観客はいない。けれど俺たちは満たされていた。 
「真宏、俺の音楽は好きか?」 
 真宏は頬を染めて言う。 
「はい、大好きです」 
 俺は高校を卒業する。何も言えないまま。言うこともできないまま。 
 真宏は高校を中退するという。彼はたった一言「祈織先輩と出会えて楽しかった」と言い残した。
それは音にならずして
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