終着点はいましばらく

中川 夜

終着点はいましばらく
  1. 始点
  2. くちびるに緑色
  3. ふたをあけたとき
  4. 女友だち
  5. 明日はどっちだ
  6. 通過点
  7. 折り返し地点
  8. 重なり合う

始点

しとしとと、降り注ぐ雨の中で、私はガラケーを操作していた。キーボードの上へ雨雫がつーっと、流れても手は忙しなくタッチをくり返した。
気になるのは、未だに呪いの言葉のように、耳をつんざくあの声が止まない。
(ねえ)
生温い温度が制服の袖の上から伝ってくるのと同時に、不釣り合いなはっきりとした声調で、語りかけてきた。
(しよう?)

「歳……いくつ?」
伊越 多佳子(いごし たかこ)は20過ぎの男性の問いかけに面倒臭そうな表情をちらりと覗かせた後で、愛嬌のある笑顔を見せた。
「そんなこと、知る必要はあるの?」とでも言いたげな、妖艶をうっすらと含めて。多佳子は男の後ろにあった自分の姿を見た。自分がこんな嘘くさい笑顔ができるのが意外だった。
制服は脱いで、コインロッカーの中へ置いてきた。多佳子の出で立ちは、グレーのスエットパーカーとハーフパンツの白パンツを身に着けていた。ハーツパンツから覗くのは、制服の時に着たままであった色気のない黒タイツだ。
今回の男はアタリだなと思った。恋人という間柄でもないのに、身も知らずの男に抱かれる嫌悪感は当然ある。けれど、今日の男は、清潔感のあるこざっぱりした男性だ。どことなく、気弱な様子もある。多佳子は、「付き合うなら、こういう優男だろうな」と一枚脱いだ。男の表情がスケベに色づく。多佳子は、その欲情にぞくり、とした。
けれど、すぐに、男が、腕へ手を伸ばし、多佳子の自由を奪い、肌を重ねると、ぞわりとした不調和ぶりに「やっぱり無いな」と幻滅した。今回も「所詮、そんなものか」と思い至る。
だが、多佳子は自分にそんな言葉を言う資格はない。多佳子は男に体を売ることで金を得る。

発端は、綾子の葬式以後、多佳子は、高熱に罹っていた。体中が熱くて逆上(のぼ)せそうな状態で、夢と現の間を行き来していた。綾子が求めていた正体は一体何だったのか。多佳子は真実に近い正答を引き出しかねていた。蓋をしている壺へ開けようか開けまいか、そういうどっちつかずの態度をしていた。知ってしまったら元に戻れない。
時折、「多佳子姉」と呼ぶ声に目覚め、現実に引き戻されて涙が出る。幼い妹とは言えど、13歳間近のあかりは、驚きの様子を見せつつも、声を出さなかった。機械的に、義母から言いつけられただろうと思われる作業をこなしている。窓を開け換気し、食事のトレイをちゃぶ台の上を拭いてから配膳する。
多佳子は上半身だけ起き上がって、あかりが新しく注いだコップの水を飲む。水を自然に欲するその行動が多佳子は嫌だった。
汗ばんだパジャマから、柔軟剤の香りのする衣服に着替えたいという意思があることも、嫌悪した。
13歳も同然のあかりは、春休みで中学校の入学式まであと何日か猶予があった。けれど、「いずれはこの子もこの世の理不尽をあの身に引き入れるのだろう」と思った。大小はあるだろうが。
多佳子は現在18歳で、そのため歳が離れているせいか、会話はあまりしたことがない。ましてや、親の連れ子同士の再婚だ。多佳子は父の方だった。物心ついたときは、母はいなかった。父と祖母で育ててくれた恩はあるが、3年前、再婚が決まると多佳子は心中複雑だった。だから、あかりに対しては良くない印象を持っている。
けれど、人寂しさで、シーツの取り替えを終わらせて立ち去ろうとする、あかりへ「ちょっと待って」と一言かけた。

「百万回生きた猫って知ってる?」
「うん、知ってる」

突拍子のない質問へ、ためらいながら返ってきた応答に多佳子は安心する。

「結末、どうなるか覚えている?」
「うんっと、最後に恋人の猫が死んじゃって、猫が大泣きして、それから……」

必死に答えようとしてくれる態度に、多佳子は「少なくとも嫌われてないようだ」と思った。少しだけ優位性を携える。なので重ねてずるい問いをかけた。

「あの後、猫は死んだと思う? あのまま生き続けたと思う?」

あかりは、本当に困惑した顔をした。
多佳子は、「もういいよ」と断りを入れてあかりを部屋の外へ出した。それから用意された衣服の前で、ボタンを一つ外していった。それから膨らんだ乳房がゆっくり、現れた。しげしげ眺めてから両手でそれを下から掴んで、また指で乳首へ触れた。
何の感慨もなかった。ほんとうに何も、なかった。
多佳子は「一体」と「何で」と幾度か呟いて感情が煮沸していく様にこらえきれず、嗚咽した。
ベッドの近くで揺れているカーテンの下から光が漏れてこぼれて、影がいくつも連なった。


「そう言えばお金、前もって請求するのを忘れていた」と気づいたときは、すでに男と事を終えた後で、殺伐としたラブホテルの一室に間接照明が灯っているもとで、諭吉が1枚几帳面に白い寝具の上で置かれた。多佳子は声を出さず、頭を下げて、受け取った。

「また会える?」

多佳子は何も言わず、そそくさと着替えて、一礼すると、先へ出た。見えない受付が多佳子を一瞥したかもしれなかった。
携帯に一通のメールが来たので、開けるとそれは多佳子をこの未知なる世界へ案内してくれた柳沢 実日子(やなぎざわ みかこ)からだった。多佳子は時間を見て、承諾の意のメールを返信して、すぐさま送られた、指定地へ、赴いた。

雨で濡れたアスファルトは水溜りができる余地はなく、多佳子は傘を一室へ忘れたことに気づいて、「まぁいいか」と思った。


(続)

くちびるに緑色

くちびるに緑色

多佳子は覚束ない意識の中で、道を、ふらふらと歩いた。足と足との間の異物感がまだ、した。実日子は、する前に、工夫して濡らした方が後先都合が良いと言った。もう、その場の雰囲気で濡れるのは難しくなった。高2の時に学んだ羅生門の一節を曖昧に、諳(そら)んじた。

「ある日の暮方の事であった。ひとりの下人が、羅生門の下で雨ふりを待っていた」

それから。口籠もらせて、適当にそれらしくまとめた。その行為は多佳子にとって、意味があるようで、ないようなものだった。

「そうして、下人は老婆を、押しのけたあと、羅生門をくぐって、走り抜けた」

淡々と続けて多佳子の目は虚ろになる。

「深い深い暗闇の、門の先へ。それは、真っ逆さま、闇へ、落ちることと、同義で、あった」

多佳子は実日子の元へそのまま行く気になれなかった。けれど、人に会いたかった。矛盾を孕んだまま、多佳子はチェーン店のファミリーレストランへ赴いた。のっぺらぼうの店員が声を発した。
「連れがいる」と声をかすかに返すと、「どうぞ」と不明瞭な声調が耳障りに入った。

「多佳子ちゃん」

多佳子は実日子の姿を見つけると、頷くだけでそのまま座った。事務的に呼び出しスイッチを指で押して、「ドリンクバーを」と注文すると、飲料が並ぶテーブルへ移った。氷を入れて、アイスを添えて、クリームソーダを作った。
実日子の心配する声音がかろうじて入ってきて、多佳子はこう伝えた。

「いま……しんどくって。そこにいるだけいてほしい」

実日子が頷き返したのを視野で把握した。炭酸の緑色が喉を潤した。舌がびりびりとしびれる。そうした味をくり返し味わったあとで、多佳子は実日子をぼんやりと見つめた。

「田木綾子(たぎあやこ)を、知っている?」

誰に向けて言ってるのか確かではない。実日子へ呼びかけているようで、多佳子自身へ問いかけているようであった。

――お前は逃げた。

「知っているよー」という明るい声の反響が耳へ届いて多佳子はくぐもった声色で重ねて問うた。

――ならば、贖罪を。

「私が綾子を、殺しちゃった」

涙はとっくの前に枯渇していて、多佳子はもう泣きはしなかったが、なぜか重い鉛を背負われされたようで、辛かった。

「どういうことなの?」

――話してみろ。

実日子ではない声が幻聴のように伝った。

――他でないお前がしてしまったことを、すべて。そして地獄の業火に、焼かれてしまえばいい。骨までひとつも残さず。

「うん、……わかった」


クリームソーダをごくりと飲み干した後で、爽快感が一時的に現れた。けれど一時的なものにしか過ぎない。この暗闇は永遠にずっと抱えていく。人を殺してしまった事実。

「綾子は、いつも本を読んでいる一つ上の、先輩で。私が先に綾子へ興味を、持ったの。綾子へ、興味を……ひかれたのが、すべて、の、間違いだった、のかも」
「とても仲が良かったんだね」

実日子は、多佳子がとても話しづらそうにしているのと、自分が聞き手に回るのは苦手な性分だったことで、そのように、合いの手を打たずにいられなかった。

「どうして?」
「多佳子ちゃんは、いきなり呼び捨てするようなキャラじゃないから」
「……綾子からの要望。それに、綾子は早生まれだったことから、そう歳は変わらないって言ってた」
「あたしの記憶が正しければ、彼女は」

実日子は耳を指で示した。多佳子は頷いた。

「そう、耳の聴こえない人だった。補聴器はしていたけれど、ほとんど聞こえなかったみたい……だから、本ばかり読んでたのはそのせいかもね」
「前、小学校で、“もみじ“っていう難聴学級っていうのがあったけど……そういうなにかなんだね」

実日子は言ってから「しまった」と思った。自分の中では耳の聴こえない、いわゆる“身体障がい者“はよくわからないカテゴリーに属している。自分より劣っている人間のというように、少なからず差別感情を携えて。けれど、多佳子にとっては、友人であったのだ。
第一、聴覚障がい者は、耳が聴こえないだけで、紙で書いて伝えれば、健常者と何ら変わりない。そのように、実日子は思って、その場だけの罪悪感を抱いた。
だがしかし、多佳子は実日子の言葉に頷いた。

「そう、そういうなにかね。あの人は、障がい者で、わけのわからない人よ」

実日子は息を呑んだ。多佳子の発言には毒が含まれていた。多佳子は、もう飲み干したクリームソーダのストローの下を、舐めた。

「……わけがわからない人だったよ。けれど、死ぬほどじゃなかった。たぶん、すべて、私が、悪いの」

か細く頼りなく、そう、声が発せられた。実日子はその多佳子からの不穏な空気に怯えて、多佳子に理性的な発言を引き出そうと試みた。

「殺したって、直接じゃないよね?」
「殺したのも同じ」
「殺したわけないよね。警察だって馬鹿じゃない」
「けれど、警察は気づいたよ」
「多佳子ちゃんが、捕まってないのはどうして?」
「……直接は殺してないからかな」

それを聞いて、実日子はほっと胸を撫でおろして、落ち着いた。そして、こうも聞いた。

「どうやって殺したの」
「嫌だって言ったの」
「……何を?」
「その数時間、死んだの」
「何をしようとしたの? その綾子さんは」

多佳子は、今でもあの光景をくり返し思い出せる。鮮明に。

「しよう、と言われたの」

実日子は首を傾げた。言葉を促すと多佳子は言葉を止めた。
多佳子は無言になった。そして、実日子は、「長くなりそう……」と、勝手知ったメニューを見て、ハンバーグ定食を注文し、待ち構えていた。そして、突拍子に思いついたことをつぶやいた。

「まさか、女の子同士でセックス……」

多佳子の目がみるみる見張るのと同時に、実日子は察した。
それでいて、実日子は「案外、つまらない理由ね」とぼんやり思った。



(続)

ふたをあけたとき

ふたをあけたとき

多佳子はあの日以来、親友を殺してしまったという思い込みに囚われていた。
実日子は、「そういうこともあるのか」と不思議がった。
多佳子から打ち明けられた時、そのように思い、しかし、実日子は多佳子の援助交際を止めはしなかった。

「援交しているって本当?」

それをトイレで待ち伏せしていた多佳子から訊かれた時、「いつものこと」とそう念じ、傷を最小限に抑えようとした。
あたしはロボットじゃない。
体は売るけれど、いたずらに嘲笑して傷つけていい権利は誰にだってない。けれど、実日子のそれは、どうしたっても、世間からはいい顔をされないことをしている。けど、歳十何年しか生きてない実日子なりの覚悟はあった。嫌なものを見る覚悟を決めて、その上でやっている。
実日子は多佳子の発言を、「教師のテコ入れ?」と勘ぐった。しかし、そうではなかった。

「どうやったら、それ、できるの?」

勇気を絞った声だった。
実日子は驚いて呆気にとられた。今までにそういうこともあった。遊び半分でお金がほしいという子もいた。そういう子に限って、後で逃げられてボスから、難癖をつけられるので、実日子はそういうのを忌避していた。

「お願い、教えてほしいの」

声に切なる懇願がこもっていた。
誰かがトイレのドアが開くのと同時に、多佳子は口を噤んで、一足先出ていった。
その帰りがけ、校門の前で待ち伏せしていた多佳子は、実日子がやって来ると一心に見つめた。

(子犬みたい)

実日子と多佳子は1年、2年、3年とも同じクラスではあったが、ジャンルが違いすぎた。実日子の思い出す限り、多佳子はどこにも属してない一匹狼キャラだった。容姿が整っている分、新学期にどこかのグループが多佳子を誘うこともあったと思う。しかし、多佳子は、その誘いを受けず、一つ先輩の女性と仲良くしていた。それで噂になることもあった。だから、目下、注目の的になっていた。
その先輩が先日、自殺をした。
実日子はあんまり朝礼に出ないから、そのニュースを聞いたのは、お節介で押し付けがましい、クラスメートの一人からだった。

「伊越さん、超ショックだよね。最近、休みがちだし」

実日子は、他人事のように聞いていた。その時は、多佳子とは面識があまりないのも同然で、同情心もわかなかった。実日子にもやることはある。あと、1年で、逃げ切らないとならない。
けれど、毎日が忙しいわけでなかったので、多佳子と話すくらいの余地はあった。

「そんなに怖がらないでよ」
「……」

ファーストフード店に入った多佳子と実日子は、それぞれ会計を済ませて、向かい合わせのテーブルと椅子へ座った。多佳子は依然として怯えている。実日子はひらめいてこう訊いた。

「援交しているというのは、ホントだよって言ったら?」
「お願い、教えてほしいの」

すると、途端に多佳子は前のめりになった。実日子は、「なるほど、あたしが援交しているかわからないから、不安な気持ちになったのね」と理解した。

「してないって言ったら?」
「……」

実日子は多佳子の落胆ぶりに、くすくすと笑った。
多佳子は思いの外、シンプルな性格の持ち主なのかもしれない。実日子も、美味しいものは素直に美味しいと思うし、嫌なことがあったら、素直に落ち込む。
だから、感情はわかりやすい子の方が好きだ。人は犬や猫のように、尻尾を持ってるわけでないから、わかりづらい。敵意を持ってるか好意を持ってるか。裏もあるから、その判断をしづらい。その点については、多佳子は合格点だった。

「嘘」
「えっ」
「してるよ、援交」
「ほんとにしてる?」
「してるって」

多佳子はまた懇願するような目つきになった。こういう子は、いじめたくなる。そして、最後には真実を打ち明けて、優しく抱きしめたくなる。今の彼氏もそういうところが好きになったのだ。援交しているなんて、口が裂けても言えないけれど。

「けど、条件があるよ」
「……何?」
「仕事から放り出さないこと、あたしに逆らわないこと、報告はすること、この三つ、かな」
「守れたら、紹介してくれるの……?」

実日子は、多佳子を過去の印象も含めて、一通りジャッジした。多佳子は、そういえば、入学時は、気だるそうで憂いのある顔をしていた。その点について、実日子は気が合いそうだなと思った。
けれど、実日子には外見コンプレックスがあった。それを肉感のある体で誤魔化してはいるが、時々、心のない人には「ブスだねw」とからかわれる。
多佳子の外見レベルは客観的に見ても、高い。だから、交流などしたら、比較対象される。

「でも、何でしたいわけ? 伊越さんくらいのレベルなら彼氏、すぐ作れるでしょ」
「……」
「お金が欲しいの?」
「お金……って、貰えるの?」

この回答には首を傾げざるを得なかった。
実日子は不謹慎に、「面白くて抜けているなぁ」と多佳子へ俄然、好奇心を持つ。

「条件ひとつ加えるよ、どうして、援交したいの? それ教えて」

多佳子は、口を閉じたり開いたりをくり返し、やがて声を絞るようにして出てきた。

「ひどい目に遭いたいの。それを、することで、圧倒的なまでに、私を壊されたい、満たされたい」

実日子は、「合格」と心内で呟いて、正直なアリスを誑(たぶら)かす、チェシャ猫のように笑んだ。

「わかった、ちょうど良い仕事あるから、今から1時間後、一緒に行こうか」

その発言に一瞬怯え、多佳子の目が光るのを見逃さなかった実日子は、「見どころがあるかも」と密かにわくわくした。

(続)

女友だち

女友だち

実日子は追想する。
初対面ではないが、こうして、直接会って会話した時のことを思い出し、「多佳子ちゃんは、変わっているなぁ」と。
実日子は、「みんな違って、みんな良い」という金子みすゞの詩の一節を口ずさむ。そうすると、落ち込んでいた多佳子は、顔を上げた。

言語は同じなくせに、考えていることはまるで違う。
それが良いか悪いかは、好みの分かれることだが、実日子は多佳子を気に入っている。

多佳子の処女を喪失した時、実日子もその場にいた。相手はかなりのやり手の社長と聞いたことがある30代の男性だった。実日子にとってはまぁまぁだが、結婚する相手と見れば、相当、格上の男性だ。性格も豪快で、今回のことは融通がきけた。
気さくに、多佳子の肩を叩き、様子を見て、頭を撫でる。見た所、多佳子の拒絶反応はないので、生理的嫌悪はクリアーしている感じだ。
実日子はそこまで多佳子を心配する必要もなかったのだが、自分の初めての経験を振り返ると、かなり最悪だったことから、二の舞にしたくない気持ちもどこかであった。

「あたしって、お節介だなぁ」と思いつつも、その男性にじゃれついて、甘えるように、「あたしも、なでて」とねだった。「どこを?」と訊かれて、前戯を楽しむ。

前戯を余裕を持って遊んでくれるオトコは最高に良い。実日子は1枚1枚脱いで、生まれた時の姿になる。多佳子も実日子に倣って脱ぎ出した。ここに来ただけあって、度胸が固まっていた。
勢い良さがあって、ムードに欠けた。緊張した面持ちは変わらなかったので実日子はこう耳打ちした。

「これはオトコを楽しませるゲームだよ」

多佳子はよくわからないような顔つきをした。実日子は多佳子の後ろに回って、実日子より薄い胸を揉んだ。性感帯であろう部分をもさりげなくさすりながら、その拍子で、多佳子が「うひゃあっ!?」と奇声を上げる。今日の上客の鈴木はくっくっと笑う。

「ね、ああして喜ばせるの。何も考えずに、感じて声出せば良いよ。今日はそれだけ覚えて」

多佳子が頷くのを見て、実日子はにっこりと笑む。「あたしの後に真似をすれば良いよ」と、口添えをした後で、実日子は白八木へ体を寄せた。そして、快感に泡立つような余韻に浸りながら、多佳子を呼び寄せてリードする。

「保健体育授業やってる気分だ」

鈴木は愉快になって、軽快な一言を発する。実日子はそれにけらけら笑う。多佳子は居たたまれない気持ちになった。その後も鈴木の手のタッチの加減によって、めくるめく快楽に溺れる。
多佳子の番になったときは、実日子が寝転んで、側で、手を握った。ちらりと鈴木へ「いい?」と伺うと、柔らかい表情筋が広がった。
事がそれぞれ終わると、鈴木はこうぽつりと呟いた。

「本当だったら、捕まる立場だろうな。俺は」
「そんなこと気にしなくて良いのに」
「流石に、今日は気にするぞ」

実日子は、今日感傷的な一面を素直に、露わにしている鈴木に好感を持った。だから、良い。この仕事を始めた所以はここにある。人の思いがけない飾り気のない心を見出すところだ。
お金で成り立っている関係だが、人情というものはどうしたって生じる。それは、鈴木が良いオトコだからだろう。

「でも必要だからほしいんでしょ? あたしも逃げるためのお金がたくさん欲しいもの」

実日子はちょっとだけなら良いかなと、多佳子に聞かせる形で、言う。

「そうか、そうだったな」

と言って、鈴木は実日子を猫のように顎を触る。実日子は妙なサービス心が沸いて、「胸も触る?」と妖艶な声を出し、手をそこへ寄せた。「触る、触る」と上機嫌に、興奮した声色で、実日子へ覆いかぶさる。二人の目から、しばしの間、多佳子の姿はフェードアウトされた。

*

「いい人だった」
「そだね」

終了時刻の後、鈴木と別れ、多佳子と実日子はちょっと値の張るイタリアンレストランへ赴いた。
いい仕事、もとい、セックスした後は、安いレストランへ行く気にはなれない。あれはコスパがよくて良いものだが、財布を気にしなくて良いときには、こういう内装がこじゃれたレストランへ行きたくなるのが乙女心だ。

「……」
「なあに?」
「お金、悪いから」

とそう言って、多佳子は報酬の半分の入った料金を実日子へ渡そうとした。実は、レストランへ赴く前に、実日子は援交を仕切っているボスへ多佳子を引き合わせた。そこから貰った報酬を実日子へ譲ろうとしている。
実日子は損得勘定をした。鈴木も、想定外の美人の処女を相手にできて、いたく満足していている様子だった。それで、お金をはずんでくれたらしい。それをボスから聞いて、今回のイレギュラーに対して咎めなしだ。だから、多佳子は、正当に受け取って良い理由はある。それに、多佳子は実日子の言いつけを素直に飲み込み、守ろうと心がけてくれた。
大抵の同級生は、あれやこれや実日子をジャッジして難癖をつけて、値踏みする。会話の内、多佳子はそれが、一切なかった。むしろリスペクトしている言動がある。

「受け取れないよ」
「でも」
「多佳子ちゃん、だよね」
「うん」

名前を改めて確認した後で、実日子は改めて多佳子を認識した。それで、実日子も多佳子へ自分の名前を確認した。合っていたので満足する。

「あたしたちは仕事しているの、だからこれは見合った報酬だよ」
「あれで…?」

その発言を聞いて、多佳子にとっても上客の鈴木の対応が良く、ある程度満足していたことを知る。それに居心地悪い思いをしているのかもしれない。

「今日はたまたまだよ。いつも嫌なことは当然ある」
「……もしかして気遣ってくれた?」
「まぁね」

実日子はこの店の目玉の、窯で焼き上げるピザをかじった。ふわふわなパン生地が実日子の口内へ広がる。ああ、もう今日は幸せだと、愉悦に浸る。なおかつ出会いのきっかけがあれでも、同級生と一緒にご飯をする、こんなシュチュエーションが実日子はずっと前から憧れていたのだ。その多佳子も実日子を色眼鏡で見ない。

「……良かった」
「うん?」
「嫌なことは当然、あるんだよね」
「あるよ? あって、当然」
「……もっとひどい目に遭いたいから」

実日子はその発言を聞いて、「変わってるなぁ」と思った。何事も、ラクで、楽しくて幸せな方が良い。

「念のために言うけど……、あたしたちの体は子どもを産んじゃうこともあるから、そこは気をつけて」

多佳子は思い至らなかったことに気づいたような様子を見せて、「――あ、そうか」とひとりごちるように呟いた。

伏線はここにあったと、実日子は追想しているうちに思い出した。
実日子より頭のいいはずの、多佳子がそういうことを全く意識しなかったのは、まずはじめ、女から体を求められたからだ。それも、一つ上の歳の近い先輩に。

恐らく多佳子は、その時、信じられない気持ちになったのだろう。

――そうだよね、あれは本当は楽しいんだもの。

しかし、友だちが欲しかった実日子は何にしても、この機会を与えてくれたその先輩に感謝した。

実日子は現在も、苦痛に歪んでいる多佳子を素知らぬフリをして、ボスからの新たなメールを読んで多佳子へ呼びかけるタイミングを待った。


(続)

明日はどっちだ

明日はどっちだ

多佳子は、もっと打ちのめされてひどい目に遭いたかった。それから、どうするか見当もつかなかった。
淡々と朝日の眩い、光が差し込む通学路を歩く。
目の前には、ただ広い荒野の道がある。
見渡す限り、果てはなく、ただ荒涼としている。
多佳子の頭の中では、考えることをやめた。

痛みには、痛みであがなえば、多少はマシになる。
放課後になって、昨日実日子から伝言を受けた指定地へ向かうため、教室を出た。
多佳子の目は虚ろであった。
それを誰も気に留めるものはいなかった。

“あれ”が容易く簡単なものであると知ってから、多佳子の中はなにかが瓦解した。けれど、実日子の言うとおりに、不躾な客というものは当然いて、多佳子は同じ人間として恥辱を覚えた。

けれど、逆らえない。

多佳子は記憶の糸を引っ張るその手から逃れるように、身体を売る。それを代償にしてお金を得る。お互いの利害一致が合って、良いことだと思う。けれど、親にバレたらひとたまりもない。

「……っう」

異物を挿入されて、かすかに呻きを上げた。快楽は待てど待てど来ない。回数を重ねれば重ねるほど、現場の空気に慣れてしまう。多佳子は必死に、小説の挿絵の官能箇所を思い出そうとした。
今日の客は生理的に嫌な男だった。体型は筋肉質のやせ型でスタイルはよいのだが、シャワーを事前に浴びない。
独特の体臭が鼻について、行為に集中できない。口を開けば、多佳子のプライバシーへ質問攻めする。
やんわりと無言で、笑い、受け流すと、執拗に食いついてくる。
一点張りに無口を通すと、力づくで多佳子の身体を支配にかかった。
余り良い気分ではない。けれど、それが正しいのだと思う。

それでも、事前に濡らしておいたおかげで、力は弱まった。それで、男性の口調は柔らかくなった。

けれど、不愉快な臭いは依然として変わらず、とてつもなく居心地が悪かった。それで良い。
セックスとはそういうものであるのだ。

事が終わると、再び男性は、多佳子へ質問を容赦なしにぶつける。多佳子は困った。困っている内に、終了時刻が迫ってきて、多佳子は機械的に「時間ですので」と伝えた。

「それじゃ、延長するよ。お金いくら?」

冗談じゃなかった。
冗談じゃないと声を出さずに呟くと、なぜか悲しいほどに笑いだしたくなった。笑いを押し堪えている不自然な表情は男性に伝わったようで、怒りが見えた。
そして「なんなの、それ」という不愉快だという声色が多佳子の耳に伝うと、止まらなかった。笑いながら、涙が後から後から止まらなかった。

一人取り残された部屋の中で多佳子は、少し眠った。男性は多佳子を気味悪がって帰っていった。ベッドは異臭が残っていたので固い床の上で寝ていた。
あの記憶はどこまでも追い掛けていく。風化は、いつか来るかも知れないけれど、その可能性は遠く、見えない。多佳子はむくり、と起き上がると、シワを正して、ホテルの受付へ延長代を支払って、出ていった。

実日子からメールが来ていて、多佳子はそれに打ち返すつもりになれなかった。電車へ乗り、途中のコンビニで食事を購入し、帰宅した。義母がいる頃合いだったが、多佳子はある程度、覚悟はしていたものの、久しぶりの帰宅に目を丸くする義母が、多佳子へあれこれと世話を焼きたがる。うんざりした。

自分で出来るよ、あんたがいなくてもやっていけたんだからと、そう言いたくても言えない。とっくに、この三年前から、家事の主要を義母に取って代わられた。

「多佳子、今まですまなかったな」

と、言った父親は、それが最善だと信じてるようであった。
それがどれだけ残酷な仕打ちなのか。
父と義母はそれを汲み取れてなかった。
再婚が決まり次第、多佳子の介入など無視する形で、二人は「子どものために」と信じて疑わず、新居を構えた。父と多佳子が長年慣れ親しんだアパートの一室から離れる、それが大きなストレスだった。
義母は早く新しい家に馴染むように、せっせと無駄なく、これまでの多佳子をねぎらうかのように、「あなたは何もしなくて良いのよ」と優しい言葉をそっと投げかける。

多佳子にとって、その台詞は「お前は無価値だ」と言われたのと同様だった。
なにかがねじれて、そのように伝わる。
何の相談もなしに推し進められていき、自分のこれまでの日常が変わっていく違和感。それを口にする手段もわからず、見えない力で押しつぶされる。

――大人は勝手だ。

父は多佳子と何の相談もなしに、再婚を決めたそれを裏切りだと思った。義母と義妹を住まわせ、多佳子のこれまでの存在意義を消失させる。
言いようのない不快さは吐きどころも見つからない。もともとそういった愚痴を出せる友だちもいなかった。小学の時に些細な人間関係のトラブルがあってから、忌避している。
父以外に、信じられる人はいなかった。
その父も、自分だけを最も理解してくれる最重要人だった。しかし、それは大きな誤解で、父は自分の都合だけしか考えてなかった。だから、あんなひどいことを平気で言える。

「お前はもう何もしなくても良いんだぞ、学生らしくいなさい」

義母とその子どもと同居して以来、早朝起きていつもどおりに家事し続ける多佳子は、それを義母に良く思われてなかった。よく思われようがどうでも良かった。これが多佳子の日常であったのだから。それから数日後のある日、父の怒気のこもった、遠回しのいたわりで台無しにされた。

「わかるよな?」

と言う声に義母の存在が浮き上がる。父にとって最優先なのは、もはや自分でなく義母なのだ。多佳子は泣きたかったけど、泣けなかった。
その日以来、多佳子はその母娘を受け入れようと努力はしたが、恨みがどうしても抜けない。

(よくも、私のいる場所を奪ったな)

多佳子は自分を振り返ってみて諸悪の根源は義母のような気がして、けれど、父でもあるような気もして。そして自分の子どもじみた感情のせいだとも思った。
なにかが絡まってねじれている。それはわかっているのに、どうすることもできない。
どんどん深みに嵌っていって、止まらない。

「うるせぇんだよ」

自分らしくない台詞を吐いて後悔した。
義母のショックな顔を見て、多佳子はもっと罵詈雑言をぶつけたかった。
(あんたには何もわからない、あんたが奪った、あんたが悪い)

その前に、何かの空気を察した義妹のあかりがやって来て、多佳子は自室へ逃げる機会を得られた。
3年目となるまだ新しい自室は、義母が勝手に入って掃除された箇所があり、反吐の出る思いをした。そういう自分が嫌だった。とてつもなく嫌だった。

(明日も……)

繰り返される日常をなんとか堪えておけるのは、痛みだった。それをもっと欲しい。それがあれば、どうにか正気でいられる。痛みによって、自分がここにいられる確証を得られた。それは安堵だった。それに、お金も稼げる。ここから逃げられるお金をいくらか貯めておけば、ここから出られる。
あと少しの辛抱と思えば、まだ生きる気になれた。それが不健全だと気づくだけの正常を多佳子は失っていた。



(続)

通過点

通過点

多佳子は、見かけは健康だけれど、その実、心は満身創痍の中で、学校の後、今日も客である男と寝た。
できるなら、こんなこと、したくない。安くても良いから正当に働いて、給料を得て、自活したい。
けれど、すればするほど、見知らぬ男性への噴き上がる嫌悪の感情により、綾子との記憶が薄まる。だから、この行為は必要なのだ。誰も救わない、救えない。なら、自らで贖うしかない。男を使って。

ある日、見覚えのある何度か目の客が調子に乗って、「本番やって良い?」と聞いた。多佳子は本番というものが何なのか理解次第、首を振った。
「先っちょだけ、先っぽだけだから」

多佳子が抵抗すると、唇を塞がれた。口臭のする口内が迫り、顔を避けようとした。舐(ねぶ)られて、咄嗟に身をすくませると、太ももの上に乗られた。がっちりと固定されたそこから動けず、じたばたと手を上げて抵抗した。
こういう事柄になったらとにかく逃げ回れというお達しだった。
男は興奮状態で、多佳子の腕を絡み取り、事前に準備してあったらしい拘束具で多佳子の手腕をがっちりと捕らえると、ぐるぐる巻きにした。
抵抗も間もなく、ずいっと、嫌な感触がすると、多佳子の中で射精された。

多佳子は事が終わると呆然とした。
呆然し続けると、膣が痛みを訴えていて、「これは現実なのだ」と認識せざるを得なかった。
こういうこともあるという説明はあったようでなかった。
多佳子は今までは、人の善意や良心を信じようとしていた。嫌なことがあってもまだそれでも、最後の最後まで信じ切ろうとした、糸が切れた今、どうすれば良いかわからず、実日子へ連絡した。

「ピル飲めば、大丈夫だから」

多佳子の希望で、ネカフェの個室で待機している内に、実日子が後からやって来た。実日子の発言で、人心地がついて涙が出た。

「妊娠しない……?」
「するかもしれないけど、二日以内に飲めば、OK。ほとんどのリスクは抑えられる」
「しちゃうんだ」
「しない、しない。あたしも、何度か中出しされたけど、そうそうそんな目に遭わないよ」

多佳子が胸を撫で下ろすと、実日子のケータイの着信音が鳴った。実日子が操作すると、困ったようにため息を吐いた。

「多佳子ちゃんに仕事」

多佳子はギョッとした。

「だよね、明日なんだけど。一日くらい休みほしいよね」

多佳子は弱々しげに頷いた。けれどそれは許されないのかもしれない。多佳子が不安そうになると、実日子は思い切った決断をした。

「よし、わかった。あたしと一緒にやろ」

多佳子はそれで生きた心地がした。しかし、何かの疑問が湧く。それは、ほんの些細なことだったから、無視をした。「ありがとう」と呟くと、実日子は嬉しそうに微笑む。このままネカフェで一夜を明かしたかったが、無断外泊はとくにやかましかった。なので、仕方無しに、義母が寝る頃を見計らって帰る。夜11時ほどになると、多佳子は帰路へ向かった。

「多佳子」

帰宅の途中で、父親に会った。多佳子はぎくりとした。父は夜暗い道を歩いてる多佳子の無防備さにちょっと文句をつけたかったが、言いかけてやめた。多佳子は無言で、父親と足並みをそろえた。

「勉強はどうだ」

多佳子はその質問にさまざまな思惑を読み取って、ため息をつきたくなった。父は多佳子を大学に行かせたがっている。小学、中学生の時、多佳子は父親に楽させたいために、すぐに就職したいと躍起になっていた。だから、中学を卒業する頃には、高校を卒業したら、専門学校に入って、看護師になると決め込んでいた。
しかし、父は高校入学と同時に、義母と一緒に並んで、「多佳子の好きなようにやりなさい」と背中を押した。急激に選択肢が広がった未来が多佳子を大いに困惑させた。それは喜ぶことなのだろうと思う。
ともかくも、父はもう自分を必要としない。父がほしいのは、平凡な家庭なのだ。

(それをぶち壊そうとしている自分は一体、なんなの)

わからない。
多佳子は、父と並んで、帰宅に至り、シャワーを浴びた。お腹をじっと見つめて、ぞっとした。
そういうことを想像しない多佳子ではない。自分は危ない綱渡りをしている。けれど、止まらないのだ。止まったら、あの亡霊が多佳子へ囁く。

(多佳子が、してくれたら、あたし生きて行けられたよ)

それを誰も救ってくれない。
言っても、気休めにしかならない言葉を貰うだけだ。タオルを被り、ぶるぶると身体を震わせて、しばらく身を縮めた。

その次の日の休日、一日をたっぷりかけて、一人ずつ男と寝た。実日子と一緒だったから、多少安心して、快楽に溺れ、果てた。恐怖はあったが、頭が無になる瞬間が欲しかった。ランナーズハイになるまで走っても得られない、頭を空っぽにした状態。それが続くなら、いくらでもして良かった。けれど、あの日、あの時、二人してお互いそういう快楽に酔いしれたら、多佳子はこんな未来を選んでなかったのだ。
だから多佳子はだんだん迷う。どちらも捨てられない。どちらも抱えきれない。だからこのままを続けるしか無い。

帰りたくない家へ戻って、リビングのテーブルで待ち構えた父が異様な空気を醸し出していた。
多佳子は気づかないふりをして自室へ戻ろうとした。そして、父からの呼びかけに、多佳子は渋々正面に座った。

「お前、援交してるな」

その声を聞いた瞬間、お腹が潰れそうな重苦しい痛覚が襲った。多佳子は白を切ろうとしたが、几帳面に整えた三十数枚の万札束を見せられて、瞬時に義母を探した。後ろにいた義母は気まずそうに床を見つめ続けた。鍵をかけたつもりでも、毎回、こっそり義母が開けて、隅々まで掃除している間に見つけたのだろう。

(人の部屋を漁るくらい、いい趣味してんじゃねえ)

目を瞠りながら、多佳子はそれでも白を切ろうとした。

それから、明るい茶色の真新しいテーブルへ、今日のホテル前の証拠写真が置かれた。
多佳子と実日子と代わる代わるの男の写真が映られていた。
万事休すだった。


(続)

折り返し地点

多佳子は店員に頼んで、一人用個室から、カップルシートへ移った。付いてきた義妹のあかりと共に。
無料自動販売機からコーンスープを一杯持っていき、中に入ると隅っこで、あかりは多佳子を見るなり、怯えた様子を見せた。
しばらく無言が続いた後で、あかりが小さな声で発言した。

「追い出さないの?」
「邪魔だと感じたら、追い出すよ」

それであかりは余計、緊張でカチコチになった。

「あんた、お父さんとお義母さんには言ってないでしょうね」
「言ってない……!」

あかりは大きく首を振った。縦の方向に。
多佳子はそれであかりに対する、第一関門の警戒を解いた。

「なんで、付いて来たの」

多佳子はコーンスープの傍らで、雑誌を持って来ていた。目線はそちらの方で、口はそのようにあかりに問うた。真っ先に目と目を合わせて会話するほど親しくはないし、追求したら逆にあかりは居たたまれなくなり、ここから出ていく可能性も考えて。今はまだしばらく、一人になりたくなかった。

「……うまく言えないよ」
「なんで」
「わ、わかんない」

なんでという詰問が少々きつかったらしい。戸惑い怯えるあかりは、今年、中学へ上がったばかりだ。対して、多佳子は高校生だ。年の差が威圧を自然と与えてるらしかった。

「じゃあ、質問変える。あんた、ずっと話を聞いてたの?」
「……う、うん」
「私の部屋を掃除したのはあんたのお母さんで、写真を撮ったのもあんたのお母さんね?」
「えっと……。お母さんが掃除していたのかわからないけど、……多分、お母さんは掃除好きだから多分、したんだと思う。写真って、何?」

多佳子が稼いだお金のことは、やはり義母が見つけたのは確定だろう。写真のことは、話してみて、気づいた。ホテル街に妙齢だと言えど、女性一人行くのは心もとないはずだ。ならば、必然的に残るのは父になる。父は、どんな気持ちで撮った現場からその場で飛び出さず、堪えていたか。
どんな気持ちで、何枚かの証拠写真を撮り、証拠を握り、家で待ち構えていたのか。どんな気持ちで、探偵のようなことをしたのだろう。本物の探偵に頼んだ可能性もあるかもしれないが、どちらでも良かった。いずれにしても最悪な結果になった。もう手も足も出せない。多佳子は鬱屈した気分になった。

「家に帰りたくないな……」

その呟いた声はあかりに届いたらしい。あかりは何も言わずにただ同じ空間をともにする。多佳子は時間を潰そうと、漫画を数冊見繕った。あかりもそれに倣って、多佳子と入れ違った慌てて、腕いっぱいに巻数を十冊以上持参した。多佳子はそのあかりの行動に、自分がいなくなるのを、心配してるのかもしれないと思った。多佳子は座っている姿勢から寝転ぶと、あかりも数分後、控えめがちだったが、寝転んだ。

夜は長かった。
夜が深まるにつれ、あかりはうとうとし出した。しかし、多佳子の一挙一動をさりげなく見張っているようだった。多佳子はそれを多少はうざいなと思ったが、追い出すほどでなかった。
多佳子はシャワーをホテルで済ませていたが、あかりは済ませてないだろうなと思い至ると、あかりを呼んで、カップルシートを出た後で、フロントからタオルを借りると、あかりに押し付け、シャワー室へ案内した。
あかりはキョドって中々入ろうとしない。

「出ていくときは、あんたと一緒に出るから」

多佳子の声にあかりは、キョトンとなって質問で返した。

「シャワー浴びたら、出るの?」

多佳子はその質問に数秒考え込んで、首を振った。今は家へ帰る気にもなれないし、かといって、どこへも行く気にはなれなかった。
あかりはその返答に安心したらしく、やがてシャワー室へ入って行った。

「お姉ちゃんはシャワー浴びないの?」

戻ってきたあかりがそのように尋ねた。
多佳子は「もう済ませたの」と返事した。あかりは釈然としない顔だったが、多佳子が「夕ご飯、何にする?」とメニューを見せると、あかりは数秒、逡巡した。多佳子もメニューを見る限り、丼かファーストフード系で、どれもこれも美味しくなさそうだなと思ったので、外へ食べるかと提案した。あかりも強く頷いた。

受付でスタッフへ、一時出ると告げてからお金を少し渡し、外へ出た。
夜道、「何が食べたい?」とあかりへ訊いた。あかりはびくつきながら「わかんない」と答えた。「わかんないってことはないだろう」と思いながら、多佳子は今のあかりの立場を思い出して、強く言えない状況に、多佳子は思い至る。
おしゃれなイタリアンならあかりも嫌いでないだろう、と決めて、路地のイタリアンレストランへ赴いた。以前に、実日子と一緒に来たことのある店だった。

「おねえちゃん、あのね、その」

メニューを取って、あかりがぼそぼそとこう言った。「お金ないの」と声を出した。「いいよ、奢るから」と素っ気なく伝えると、あかりは遠慮がちに1000円丁度のピザを頼んだ。多佳子も金額を多少気にして、1000円くらいのピザをあかりと違う種類を頼んだ。
30数万でどれだけ、家出は可能か。できるなら、一生、家に戻りたくない。今はまだ考えられない。

「あんた、そのピザ頂戴。1枚あげるから」

あかりは驚いたように、頷いてからピザの載せた大皿を多佳子へ向けた。多佳子は何の感慨もなく、受け取って、一口食べた。
会計を済ませて外へ出ると、満腹になったことでいくらか気持ちの余裕が出来た。

「今日はあの、ネカフェで泊まるけどあんた、どうする」

あかりは提示された質問に、迷いなく答えた。

「一緒に行く」

多佳子はその返答に少なからず、安心した。しかし、このように、念を押した。

「おとうさんとおかあさんに連絡したら、出て行ってもらうよ?」

あかりはこくこくと頷いて、強く言った。絶対と言わないところが、予想は出来たけど、少なくともあかりはそれほど馬鹿でないと判断した。

ネカフェへまた戻ると、年齢確認をされたので、こっそり持参した健康保険証を提示した。多佳子は早生まれで18歳であったし、私服でもあったので、ギリギリで現役高校生と見破られない。ただ、年若い妹の存在は不信と見られる材料だろう。もって、1日で限界だろうと思って、「それならどうするか」と考えた。行き当たりばったりだが、その日の内にネカフェを転々するしかない。
前提が妹と共にいるということに気づいて、多佳子は呆気にとられた。
当の義妹は、多佳子がカウンターから貰ったブランケットを被ってすぅすぅと健康な寝息を立てて眠っていた。
多佳子も「今日は疲れた」とあかりから距離を取って寝た。


(続)

重なり合う

重なり合う

その次の日は、起床したときにはあかりはとうに起きていて、黙って体育座りをして漫画の続きを呼んでいた。

「お腹すいたけど、あんたは?」

あかりは頷いて、多佳子の後を付いていく。「何が食べたい」とは聞かずに、モーニングセットのある喫茶店で済ませることにした。

コーヒーを残したあかりの分を貰って、多佳子は一人物思いに耽る。あと残金は、29万いくらか。このまま家を出て逃げ切れることはできないだろう。
それに、あかりも今日、本来ならば学校がある。それを一人じゃ心細いから、一緒に側にいてほしいというワガママで引き止めている。

「あんたは、家に帰りたい?」

あかりはキョトンとしていて、それから首を振った。

「学校だってあるでしょ」
「お姉ちゃんは、私がいない方が良いの?」

多佳子は口を閉ざした。
それは、暗黙の裡で「まだ帰らないで」という本音だった。あかりは目ざとくそれに気づいていた。

「まだしばらく、お姉ちゃんといたい」
「ネカフェを転々して、それからシャワーしか浴びれないよ?」
「良いよ」

こともなさげにあかりはそう言う。
それで多佳子は、家出継続を決めた。


*

それから10日経ってから、各所のネカフェ生活に慣れつつも、残金が減りつつあるさなかで、多佳子は焦燥を覚えた。
できるだけあかりに不便な思いをさせまいと、衛生面では気を揉んで、配慮した。
食事の合間に、コインランドリーへも行き、衣服の替えも、それを入れる大きめのリュックも購入した。
ネカフェのパソコンから、周辺地図を見て、息抜きに、景色の良いところへ連れ出すことも意識していた。
あかりは従順で、多佳子の「側にいてほしい」という希望を叶えた。多佳子の気に障るような発言や態度を一切もせず。
だから、多佳子は頻りに、「そろそろ家へ帰れば」とあかりに伝えるようになった。あかりは「帰らない」と一点張りだったが、慣れないネカフェ泊まりの連続で、疲労の色が見えていた。
そのニ日後に、昼ごはんを食べる傍ら、気分転換に外をほっつき歩く。どことも知れず、歩いて、「あかりをそろそろ帰らせよう」と覚悟を決めた。
問題は、どのタイミングで言うか。
それを迷いながら、多佳子はタイミングを見ていた。

都会から、海が見える方へいつのまにか移動をしていた。見晴らしの良い駅へ下りて、しばし散策することに決めた。もちろん、多佳子の発案であり、あかりは黙って付いてきている。それでも、嬉しそうにしていた。
一羽の白いカモメが、地面に足をついて、羽ばたいて毛づくろいしている。頭上には大空が広がっていて、鳶が、飛び、舞っている。
多佳子はベンチを見つけてそこへ座った。あかりは、カモメを捕まえられないとわかってても、捕まえる素振りをしつつ、静かに観察していた。飽きてきたあかりが多佳子へ戻る。その拍子に家族連れの子どもが群れをなしていたカモメらへ走って近寄る。
一斉に飛び立つ。
なにかのイベントのように、それは神々しいロケーションだった。
あかりは目を見張って多佳子を見る。多佳子は涼しい顔をしつつも、感動を抑えられなかった。そして顔に出たと思う。

――いつまでもこうしていられたら良いのに。

「――お父さんもお義母さんも、あんたを心配しているだろうからそろそろ帰れば」

当然、そこであかりは首を振るだろうと思った。そして、その通りだった。

「あの家に、私は帰る気、無いよ?」
「でも、あたし、もう少しお姉ちゃんと居たい、もう少し居たいの、居させて」

多佳子はそのいじらしさに心をぐっと掴まれた。私だって。あんたと居たい。けれど、この家出にあかりを連れ回すのはそろそろ、道徳・倫理面では限界に近づいているのだ。
首を振って、できるだけ優しく突き放せる言葉を探した。その寸前にあかりが、持たせた紺色のリュックから、何かを取り出した。どこかで見たような銀行名がそこに記されていた。通帳だ。

「ごめんね。お姉ちゃんは怒るかもだけど、お父さんからお金を貰ったの」

多佳子は目を点にした。

「お父さんは好きにして良いって言ってた。けど、必ず帰ってくるならって、そう言ってたの。」

いきさつはどうあれど、この世で頼りたくない父親と再び関わる羽目になるのが、やるせなかった。多佳子としては、縁を切ったつもりだった。しかし、縁を切ったとしても、まだ多佳子は高校を卒業をしていない。金銭面では、まだ親に頼らざるを得ない。それはわかる。けれど、感情が追いつけない。

「なんてことするの、あんたは!」

憤りが募り、全身に回り、ほとばしり出る。咄嗟に手を上げ、打とうとして、しかし、怒られた恐れで身をすくんだあかりが、どうしようもなく可哀想で、できなかった。
あかりが見上げると、強い眼差しを携えて、こう言った。

「必死に考えたの。あたし、お姉ちゃんと、居たい! だからそれにはお金が必要なんだよね? そうだよね?!」

言葉に詰まった。それを肯定と捉えると、あかりは畳み掛けるように、強く言い切る。

「あたしたちはまだ大人じゃないよ。だから、こうしてズルい手も考える必要あるよ。でもそれでも、あたしお姉ちゃんと一緒に帰りたい……帰りたいの」

途中から、涙声になったあかりを前にして、多佳子はもう何も言う気になれなかった。しゃくりあげるあかりを、置いてきぼりにしようかと思いつつも、それができない自分をただ、呪うばかりだった。


(続)

終着点はいましばらく

終着点はいましばらく

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-05-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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