せんせいのなかにふれたい
ふたりは、どうにか、生命体になりたかった。
白い花の群れが、目を刺すようにまぶしかった。せんせいは、一体いつの時代のものなのか、古めかしい写真集を抱えて、真昼の公園にいた。公園には、せんせい以外のひとはいなくて、遊具も、ベンチも、むなしくそこにあるだけで、ときどき、知らない鳥の鳴き声がした。肉体的繋がりを、ぼくはせんせいには求めていなかったけれど、せんせいにはすこしだけ、そういう気があるのかもしれないと思っていた。むし一匹殺せないような、おとなしそうなひとであるのに、案外と倫理観だの、道徳的云々だのに軽薄だったとして、それはつまり、せんせい、という立場上、いろいろやばいのではと、ぼくは思っていたのだけれど、せんせいは、ぼくの言うことには、よろこんで頷くので、たいせつなものを持って十三時の公園に来てください、という命令にも、快く応じたのだった。
夏はもうすぐそこまでせまっている。
陽射しのなかでたたずむ、青白い肌のせんせいというのは、なかなかに異質であり、それでいてその浮いている感じがよかった。世間や季節に馴染めず、いつまでも不完全なままで、おそらく、永遠に、せんせいは、せんせいという存在で色褪せずに生きてゆくのだろうと想像すると、からだの熱がじわじわと高くなってゆくのを覚えた。それは性的興奮にも似ていたし、真逆の感情のようにも思えた。あの写真集が、せんせいにとってどれほどたいせつなものかはわからないけれど、約束の十三時になっても現れないぼくを、ただじっと立って待っている健気さには、こう、ぐっとくるものもあった。だれもいないブランコが風に揺れる。きい…、きい…、と、つめたい不安を植えつけてくるような音がする。木陰には生命体になりきれなかった、なんらかのものものが漂い、絡み合っている。この世界にはぼくにしか見えないものが、あまりにも多すぎる。夏は暑いのに、だれかの体温とまざりあいたいと思うことが、ふしぎだった。たとえばせんせいの、あの、コバルトブルーのシャツの下の、雪のように青白い皮膚の裏側とかは、ひんやりとしているのかもしれないので。
せんせいのなかにふれたい