論より現実

この理由もなく溢れ出てくる破壊衝動は何だろう?
現実逃避。欲求不満?・・・・・・何なのだ。
私は別に何もしてないのに、神というものは、
理不尽に私に向けて雷の刃を降り落してくる。
私は直にそれを受け止める為、
その度身体全体が焼け爛れ破壊される。
私は止めてくれと叫び、受け身をとろうとするのだが、
神様は一向に容赦する気配がない。
「手加減」というものを知らないのだ。
恐らく、私がぼろぼろの残骸になるのが楽しみなのだろう。
残虐趣味である。
神というものをリアルで見たことは無いが、そう思う。
さて。神様が消滅する(つまり世界の秩序が無くなる)
事を望む私であるが、それはすなわち、
私自身の存在証明を否定すると言うことになる。
私という思考の秩序は私には相容れない。
私には「私」と名付けられた人間という生き物を
飼い慣らす自信がない。
と言っているのである。
それは「私というもともと生み出された生物」と
それを「操作し、容器にうまく誘導し収める」存在とが、
イコールの力関係で結ばれていないということになる。
何で、人間という生き物は完全ではないのだろう?
完璧に作り上げられ、失敗しないということが、無いのだろう?
自殺というものが存在するのだろう。
全身に向けて数多の傷を作り、
何度も何度も同じ経路を辿り、
そして簡単に困難を忘却することができるのだろう。
同じ失敗は繰り返したくない、というのが通常の人間の心情だろう。
なのに、個々人の思考回路のはじき出す計算方法というのは、
(生まれたときから)あらかじめ決まっており、
それはよっぽどそれこそ脳味噌を丸ごと入れ替えない限り、
変えることは不可能なのだ。
ならば、人間の運命というものは、
生まれたときから既に決定しており、(まるで数学の解答のように)
そこから(地獄のようなパズルゲームだ)逃げ出すことはできないのだろう。
じゃあ、何故、生き物は存在している?
全ての生き物が全ての解答を持って、
あらかじめ決められた決定事項の上を進むだけなのだとしたら、
一体、その行動に何の意味があるというのだろう?
戦争だって、地球滅亡だって、
いずれもある一定の要素が結合して、条件が揃えば、
もう誰が何と言ったって、それを避けることはできないのだ。
自然事象と、そこに点在する不確定要素たち。
誰が何という哲学を読み解こうとも、
私たち人間という命は、ひとつひとつ小っさいのだ。



決して抗えない運命に、放り出されるまま投げ出されて、
私は不本意ながら、前進せざるを得ない。
理屈をいくらこねようが、まだ私の寿命の半分は残っているのだ。

論より現実

論より現実

ぐだぐだと哲学ばっかり述べる、現実世界不器用者の話です。 読んで頂けると、幸いです。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-06

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