春の鼓動、夏の亡羊、秋の虚無、冬の空白
はるに、たぶん、わすれてきたのだと思う、音があって、なつになると、その音がむしょうに、恋しくなります。
わたしたちは、だれしもがみんな、すこしずつ、星に帰化している。
あきになったら、はるの音の存在すらも、うすらいで、ふゆになったら、もう、なにもおぼえていないのに、はるになると、また、思い出しては、なつかしんでいる。まだ、懐古にひたるほど、ながく生きていないだろうに、というのは、大学の近くにある喫茶店の、しろくまのマスターの談。わたしは、マスターのつくる、たまごサンドをもしゃもしゃたべながら、でも、その、はるの音をなつかしむ瞬間が、なんとなく、生を感じられていいのだと話すと、マスターは、ぼくよりおとなみたいですね、と微笑む。その微笑み方が、どうにもいやみったらしくないのが、マスターのいいところだと思います。くちのなかのたまごサンドを、ゆっくりとからだのなかにおしやってから、オレンジジュースをのむ。たまごサンドと、オレンジジュースが、くちのなかでまざるのは、にがてなので。
なつは、だから、音が聴けなくて、すごい、欲求不満になる。
わたしのことばに、マスターが、グラスの水滴を拭いながら、答える。キュ、キュ、という、小さな動物の鳴き声みたいなものが、店内の、幽かなバックグラウンドミュージックにかぶさる。それはそれは、と言っているような表情を、マスターはするけれど、それは、どうしてか、ぜんぜん、ムカつかないやつで、わたしは、ちょっと癪、と思いながら、オレンジジュースを、じゅるじゅると啜った。
春の鼓動、夏の亡羊、秋の虚無、冬の空白