落下から始まる物語3

坂松然世子さんの物語の続きです。
10代っぽい面倒くさい感じが出ていると良いのですが・・・
昔は同年代だった登場人物達が、はるか歳下になってしまい、何だか彼等に向ける自分の眼差しが優しくなった気がします(笑)

00210902ー2
 「現代社会」の復習(通学路)

「世界共和国大統領暗殺事件」
 頭上のヘリの爆音は、否応無く、然世子に、その言葉を思い起こさせた。
 統一歴二十年一月十二日、あの日は、あり得ないほど多数の航空機がニュートーキョーの上を飛び交った。
 その日、第四代世界共和国大統領、ジョン=T=カネダ=フレヤマンが、演説中に狙撃され、命を落としたのだ。
 驚くべき事に、取るに足るほどの犯行声明は一切出されなかった。
 誰が、何のために彼の暗殺を企て、実行したのか、今も全くの謎である。TVニュース、新聞、雑誌、書籍、ネットワークの噂まで、関連するあらゆる情報を、然世子も貪るように見、又は読んだが、殆ど無数とも言える推測や分析から然世子が結論できたのは、「みんな、何がなんだか分からないらしい」と言うことだけだった。
 勿論、事実上世界唯一の反政府組織であり、世界最大のテロ組織でもあった「機械民解放機構」の関与を疑わない者はいなかった。しかし、彼らは完全な沈黙を貫くことで、無関係であることを強く主張していた。
 その事件が起きるまで、「機械民解放機構」又はその略称である「M.L.O」という言葉は、然世子にとって、ニュースで時折耳にする、無法者の団体、といった程度の認識でしかなかった。
 彼らについて然世子が多少とも詳しく知るきっかけになったのも、フレヤマン大統領暗殺事件だった。
 世界共和国の設立に先立つ「暴力の時代」、後に「統一大戦」と呼ばれる二十年におよぶ戦乱の時代に、多くは身体欠損の治療目的、時には兵士の戦闘能力を強化する目的から、身体の一部、または大部分を機械化した人々がいた。
 世界共和国が成立して後、主に保安上の理由から、彼らの居住地変更や、長距離旅行については許可制とされ、四半期ごとの身体検査、公共交通機関利用時の透視検査の義務づけといった、様々な社会的な制約が課されることになった。
 さらに、彼らのメンテナンスを、定められた公的機関以外で行うことを禁止する法案の提出を受け、ついに、統一歴十六年、スリランカで、その権利回復を訴えるための会議が開催された。この時の「第一回機械民権利回復会議」で採択された「機械民解放宣言」に基づいて設立されたのが「機械民解放機構」である。
 会議の発起人であり、機械民解放機構の初代議長でもある山下守男という人物は、当時の著名な人道主義者で、会議の内容も、機械民解放機構という団体自体も、最初は人道支援を目的とした十分に穏当なものだった。
 話が急転するのは、会議のわずか四ヶ月後。きっかけは、山下守男議長の暗殺だった。
 その後就任した、フランクリン=スタイン議長を中心として、当時まだ相当数存在した戦争継続派の諸勢力、反共和国派の活動家達が合流し、程なく、機械民解放機構は戦闘的な性格が突出する組織となってしまう。
 この悪名高い第二代議長は、組織の創立メンバーの一人であり、彼自身も脳神経系の一部を除く身体の九割以上を人工物で作り替えた機械民であったと言う。
 フランクリン=スタイン体制のMLOは、主に、建造物、交通機関を標的とした破壊活動を活発に行い、機械民の人権回復を叫び続けることになるが、一方の世界共和国政府は、そもそも人権侵害は存在しないと主張し、さらにMLOの破壊活動を理由に、むしろ機械民への制約をより強化してゆく。
 その頃になると、機械民からも、より穏当な声が上がり始め、それは自由機械民会議として、政治の舞台を中心に制約の撤廃を求める活動へつながっていった。
 これが、然世子が自分を取り巻く社会の成り立ちとして理解した物語だった。
 その後、永世議長という肩書きに変わったという発表を最後に、執拗とも言える経歴の抹消によって、フランクリン=スタインのプロフィールの殆どは謎に包まれてしまう。
 このMLOを巡る物語、とりわけフランクリン=スタインについての謎めいたエピソードは、然世子の想像力をひどく刺激した。
 それは、十七歳と言う年齢に達して、然世子が初めて触れた「現実」の手触りであり、初めて垣間見た「現代社会」の横顔でもあったからだ。



00210902ー3
 メグル(田中ラボ)

 時は少し戻り、ここはニュートーキョー第五層の一角にある田中情報力学研究所である。
 貯水池を背にした、ゆとりのある敷地には、生化学、微細工学、電子工学の三棟の研究棟と、事務局の四つのビルが輪になるように建てられ、その輪に取り囲まれるようにして、中央に、一際大きなドームが配置されている。
 簡潔に、セントラルドームと呼ばれるこの中央の建物が、この研究所の名前にも冠された情報力学研究棟である。
 ここに、カスガノ=メグルとタナカ=アゼミが暮らしていた。
 セントラルドームの外縁に沿った、湾曲した廊下を足早に進んでいる女性を、田中流子と言う。彼女は、先年物故した前所長の娘であり、三十三歳の若さにして、この研究所の最高責任者でもある。
 彼女は、ここ最近ずっと繰り返し、半ば癖になりかかっている言葉を、また胸の中で呟いた。
 それにしても、オシリスは何でまた、こんな事を思いついたのか。
 廊下の左手は、ほぼ全面が窓になっており、第五層を特徴づけている明るい緑地が広く望めるようになっていた。一方の右手側はパステルトーンの飾り気のない壁が続き、規則正しい一定の間隔で、これまた特徴のないシンプルなドアが配置されている。
 流子は、そのドアの一つを前にして立ち止まった。
 ドアには嵌まった小さなプレートに「第四十四部材保管室」と記されている。
 流子がドアの表面に掌を押し当てると、掌紋を認証する一瞬の間を置いて、音もなくドアが横に滑り、入り口が開いた。彼女は眼を閉じ、小さく深呼吸すると、意を決してその中へ足を踏み入れた。
 雑多な機器類を納めた数台のパレットが、さして広くもない部屋を占領している。流子は、その間を抜け、何の変哲もない壁面の前に立つと、再び自分の掌を壁に押しつけた。
 壁の一部が音もなく開き、そこに現れたのは、高級マンションにでも似合いそうな小綺麗な玄関である。流子は、当たり前すぎて、かえって違和感を感じずにはいられない普通のインターホンのボタンを押した。
「はーい」間を置かず、インターホンから、アゼミの明るい返事が返ってきた。
「流子です。メグルさん、そろそろ時間ですが。」
 ドタドタと、聞き慣れたアゼミの足音が聞こえたのに続いて、玄関のドアが勢いよく開き、白磁のような顔をした、髪の長い少女が顔を出した。彼女がタナカ=アゼミである。その後ろには背の高い青年が立っている。こちらも、色合いこそ多少生々しかったが、やはり陶器のような質感の肌をしていた。
「直々のお迎えとは恐れ入ります」メグルが微笑を浮かべながら軽く会釈した。
「そう言う口の効き方は皮肉にとられかねない事をそろそろ覚えなさい」流子は少し眉をしかめて言った。「もう少し年相応の言い方ってものを覚えた方が良いわね。まあ、これから嫌でも覚えるんでしょうけど。」
「いいなあ。いいなあ」アゼミが羨望のまなざしでメグルを見上げている。
「アゼミも近いうちに外に行くことになるんじゃないかな」メグルが慰めるようにそう言った。
「それは、どうかしらね」そう言う流子の顔はあからさまに不機嫌である。メグルとは反対に、アゼミの場合は言動が年相応すぎて、心臓に悪そうだと考えていた。
 その流子の考えを察して、メグルは苦笑いを浮かべる。
「用意は出来てますよ」メグルは話題を変えようと、意識的に笑顔を作りながら言った。もっとも、メグルとアゼミにとって、無意識の表情などは、決してあり得ない物だったのだが。
「じゃあ、行きましょう。アゼミさんはここで見送りなさい。」
 流子の言葉に、アゼミが唇を突き出して抗議する。
「ヘリの搭乗申請は二人分しか出してませんから」最後まで言い終わらない内に、流子の眉間にしまった、と言う皺が寄った。
「ヘリって!」
「きゃあ!」
 メグルは渋面になり、アゼミは目を輝かせた。
「見たい見たい。見るだけで良いから」アゼミが流子にしがみついて大騒ぎを始める。
 その後、派遣された共和国警察の高速ヘリを目の当たりにして、メグルは呆れ返り、アゼミは狂喜することになる。
 断固として搭乗を拒否したメグルは、電車の駅まで警備員三人に付き添われて車で移動することになり、流子は仕方なくアゼミと遊覧飛行をすることになった。
(オシリスにこんな一面があるとは知りませんでした)移動する車内で、メグルの意識に、柔らかな声が直接響いてきた。(高速ヘリまで手配するとはね。あなたが心配で仕方ないんでしょう。)
(おはようございます、アテナ。まったくです)心の中で苦笑いする。メグルの意識に浮かぶアテナの心象も苦笑したようだった。
(さて、今日はあなたにとってだけでなく、我々にとっても記念すべき第一日です)アテナが少し改まった調子で言った。(高校生活へ、ようこそ、カスガノ=メグルさん。今日からの出来事が素晴らしい物になりますように。では学校でお待ちしています。)
(ありがとうございます。)
 そう、今日から、彼の高校生活が始まるのだ。
「高校生」
 その言葉を、メグルは胸の内で何度でも繰り返した。
 それは、うっとりするほど甘美な言葉だった。



00210902ー4
 然世子(文化部長屋SF研究会)

 志織と分かれてから程なく、然世子は校門に辿り着いていた。まだ時間が早いせいか、ゲートバーが降りている。
「おはようございます。坂松然世子さんですね。すみません。直ぐに開けます。」
 ゲートの門柱に埋め込まれたモニターに「アテナ」の見慣れた顔が現れ、そう言う間にも、ゲートバーは音もなく開いた。
 「アテナ」はこの東七高等学校を含む、ニュートーキョー東地区の教育施設を管理する「情報生命」だ。
 コンピューターネットワークの中で、情報生命と呼ばれる奇妙な生命現象が発見されてから、すでに半世紀が過ぎていた。その発生当初から、彼らは人類とのコミュニケーションに積極的であると同時に、不思議なほど協力的な存在だった。有り体に言えば、彼らは異常なほど「人なつっこい」知性体だったのだ。
 そうしたいと望むなら、彼らを排除する方法は最初からはっきりしていた。彼らがコンピューターネットワークに寄生している事は判明していたのだから、ほんの一時的にでも、全てのネットワークを停止させれば良かった。当時、すでに人の手に置き換えることが事実上不可能になっていた分野、例えば金融や医療分野などで相応の犠牲を払うだけの覚悟、或いはそれだけの理由が存在すれば、人類は迷わずにそうしただろう。
 しかし、実際には、彼らの生存を危うくするほどの規模で、その決断が下されることはなかった。その原因は、言うまでもなく彼らの異常なまでの「人なつっこさ」にあった。
「おはよう、アテナ。さっき共和国警察のヘリが飛んでいたけど、何かニュースはある」然世子は自転車をゲートの内側へ進めながら聞いてみた。
「いえ、今のところ何も報道されていないようです。何かあれば、携帯端末へお知らせしますね。」
「ありがとう。」
 どうしてこれほどまでに彼らが人類に好意的なのかは、誰にも分からなかったが、結局の所、人類は初めて出会った「他者である」知的生命体との共存関係を、こんな具合に、すでに半世紀にわたって続けていた。彼らは、事も無げに人々の生活に溶け込んでしまい、世界は、直ぐに、彼らの存在なしには進めないところまで辿り着いてしまった。
 アテナにしても、然世子が初等学校に入学して最初に出会って以来、学校という場所には必ずその存在があった。最早「学校」へ行く事と「アテナ」のいる場所へ行く事とが区別して考られないほど、当たり前の存在だった。
 そして、どの学校へ行っても、常に同じ見守り手が存在すると言う事実は、教育の内容や学校生活に、有形無形の大きな影響を及ぼしていたのである。
 少なくとも、未成年が犯罪に巻き込まれるケースが統計的に激減した事だけは、誰もが認めざるを得なかった。
 こうしている今も、アテナは同時に数百人の子供達や教師と会話しているに違いなかったが、それが、不思議とは思えないほど、然世子達にとってはアテナのいない学校など最早考えも及ばなかった。
 もう一人、誰もが知る情報生命としてはオシリスがいる。
 オシリスは「死の海」の危機解決に活躍した情報生命の一人であり、その後、ニュートーキョーに建造された、最初の実用型量子コンピューターの中に住み着き、そのオペレーティングシステムの役を担っていた。この量子コンピューターは、無数の統計情報や数多の政策シミュレーションの処理といった、世界共和国政府が必要とする莫大な計算量を賄うために建造された物だった。
QC0002SGという型番が正式名称として用意されていたが、今では「そのコンピュータ」を指すときには「オシリス」と呼ぶ事が一般的になっていた。
 実際、量子コンピューターを効率的に運用するオペレーティングシステムの開発は頓挫しており、情報生命の存在なしには、稼働させる事が不可能に近いという現実があった。そのため、政府機関では、単純な情報の閲覧から高度なシミュレーションの実行まで、このコンピュータを利用するあらゆる事が、「オシリスに頼む」事と同義になり、いつのまにか彼の役割は、単なる計算機のオペレーターから事実上の政府顧問へと変わっていた。結果、マスコミへ露出する機会も多くなり、現在では情報生命の代名詞的な存在となっている。
 他にも、統一大戦の前後には、世界共和国設立準備委員会と共同でテロリストと戦った多くの情報生命が存在し、然世子達はその内の何人かの事蹟を現代社会の授業で教わっていた。
 然世子自身は、彼らの最大の特徴は、人間顔負けに気が利くことだと思っている。
 さっきのアテナとの会話を、平均的なAIとのやりとりに置き換えれば、直ぐに分かる。それは、多分、こんな具合になるはずだ。

「おはよう、さっき共和国警察のヘリが飛んでいたけど、何かニュースはある。」
「現在報道されているニュースで、共和国警察に関連するものは九十三件、ヘリコプターに関するものは二十九件あります。両方に該当するものは八件です。」
「その中に今朝の事件はある。」
「はい、最新のものは今日午前二時のものです。詳細が必要ですか。」
「いいわ。」
「今後報道された内容に該当するものがあればメールを送ることもできます。」
「お願いするわ。」
「メールの送り先は携帯端末でよろしいですか。」
「ええ。」
「では、語彙関連性の高いニュースから優先的に配信します。配信停止の場合はまたお申し付け下さい。」
「ありがとう。」

 アテナが、どれくらい気が利くか、そして、それがコミュニケーションにおける負担をどれくらい軽減しているかが分かってもらえるだろうか。
 これが「本物の人間」の場合どのようなやりとりになるかは敢えて書かないが、想像することは難しくないだろう。
 そう、然世子の身近に、アテナほど気の利く「人間」を探すのも、それほど簡単なことではなかった。

 校門を抜けると広い前庭があり、その先にコの字型をした、4階建ての校舎がある。
 一度校舎に入り、そのまま真っ直ぐに通り抜けると、広い中庭へ出る。中庭の中央にある3階建ての小さな建物が、生徒会室や様々なクラブの部室に割り当てられている「生徒活動棟」である。これが然世子の目指す場所であり、彼らの言うところの「文化部長屋」だった。
 校門のすぐ脇にある駐輪場に自転車を置き、小走りに中庭に入ると同時に、生徒達の声と、木工や金属加工の音が聞こえ始めていた。
 やばい。もう誰か来ちゃってるか。
 然世子は、足早に文化部長屋のエントランスに飛び込んだ。
「坂松さん、先ほどは失礼しました。SFワークショップのセキュリティは、今解除しました。」フロントに設置されたスクリーンに、アテナの立体映像が現れ、然世子に告げた。
「ありがとう。」
 とりあえず、部長の面目は保てたようだった。
 安堵しながら、ふと然世子は自分が何か違和感を感じていることに気が付いて、数秒、考え込んだ。
「アテナ、あなた、なんだか機嫌が良いんじゃない。」
 その然世子の言葉は、ほんの一瞬、それでも情報生命には滅多にない長さだけ、アテナを沈黙させた。
「そうですか。ええ、今日はこの後ちょっと楽しいことがあるので。」
「そっか。」
「こんな言い方は失礼なのかも知れませんが、どうして、そう思われたのですか。」
「ん、そう言われるとよく分からないけど。多分、あたしがちょっと落ち込んでいる所為かなあ。」
「なるほど。そう言う物ですか。」
「ごめんね。変なこと言って。」
「いえいえ。こちらこそお急ぎの所を申し訳ありませんでした。」
「ううん。じゃあ、行くね」然世子は階段を駆け上がり、直ぐに二階の一番奥にある部室の前まで辿り着いた。
 ドアに貼り付けられた看板の「East Seventh High School S.F. Workshop」の文字を見るたびに、然世子はいつも少し誇らしげな満足感に口元を緩めてしまう。このクラブは、去年一年生だった彼女が、仲間を募り、一から作り上げたものだった。
 ほんの一年前のことなのに、あの時の自分を思い返すと、その純真な一途さが気恥ずかしかった。
 反動だったのよね、中学時代の。
 誰に見られているわけでもなかったが、照れ隠しに少し笑いながら、然世子は部室に入った。
 それなりに奥行きがある室内は、一番奥のテラスへ通じた窓から差し込む光だけでは、少し薄暗かった。
 それでも、毎日見慣れた然世子の目には、両側の壁全体に渡る書棚を埋める、部員が持ち寄った本や雑誌の表紙、手前に並べられた事務机四卓の上のコンピュータ二台と、その間に堆く積み上げられた無数の書類の文字まで見分けられるようだった。
「先輩、おはようございます。」
 然世子に少し遅れて、白石咲子がカフェテリアのトレーを手に部室へ入ってきた。トレーの上に置かれた五つのカップからは、淹れたてのコーヒーの香気が立ち上り、然世子には、急に室内が明るくなったように感じられた。
「おはよう」返事をしながら、然世子は事務机の上の書類を端に寄せて積み上げ、トレーを置くための場所を作ってやる。
「ありがとうございます」そう言う咲子の笑顔が、然世子には眩しい。
 咲子に「先輩」と呼ばれるだけで、然世子は不思議と明るい気持ちになった。然世子にとって、咲子は初めて手にした「後輩」と言う存在だった。
「先輩、どうぞ」そう言って咲子が差し出すコーヒーを、然世子は笑顔で受け取った。咲子が毎朝のコーヒーの配布を始めるまで、実は然世子は全くコーヒーを飲めなかったのだ。
 初めて咲子がコーヒーを配った時、それを笑顔で飲み干した然世子を見て、アランと上田は驚きを通り越して呆れていた。
「ドうして、サキコにはあンなに甘イんだ」そう言うアランが、一寸不満そうだったのは、
「そっか、そういうこともあるのかな。」
「え、なんですか。」
 咲子の戸惑い顔に、然世子はうろたえた。思っていた事を、いつの間にか声に出していたらしい。
「なんでもないの、独り言」然世子は慌ててそう言って、一寸考えて「ごめんね」と付け加えた。それが、咲子に向けられた言葉なのか、それともアランに向けられた物なのか、然世子自身にもはっきりしなかった。とりあえず、胸の奥の鈍い痛みを紛らすために吐き出した言葉だった。
「はよーっす」いつもどおり、どこか縺れたような口調の挨拶と一緒に、上田が現れた。
「おはようございます」
「うっす」咲子からコーヒーを受け取りながら、上田は然世子の様子が少しおかしい事に気がついた。「部長、どうしたんすか。顔が難しいっすよ。」
「ん、そうかな」そう言いながら、出来れば放っておいて欲しいと思ったのが然世子の顔に表れたのだろう。上田はそれ以上は追求しない事に決めたようだった。
「おはヨうございまス」
「おはよう」
 アランと茅が同時に現れ、咲子の用意したコーヒーは無事に全員の手に行き渡った。咲子は満足そうな笑顔で最後に残ったカップを手に取ると、一口飲んだ。
 普段なら、そう言う咲子の挙動を見逃すどころか、視線が釘付けになっているような然世子だったが、今日に限って、それどころではなかった。
「お、はよう」茅とアランに向かって、そこまで言ったが、それが精一杯で、そのまま固まってしまう。然世子の中で、アランから咄嗟に目を逸らしそうになる自分と、もう一人の自分が渾身の力で闘っていたのだ。
「さよちゃん」急場を察して、茅が助け船を出す。
「え」そう言って茅を振り返った然世子の顔は、安堵と緊張が相半ばし、見ようによっては泣き顔にも見えるような、控えめに言ってもかなり笑いを誘うような状態だった。
「あのね」吹き出しそうになるのをぐっと飲み込んで、茅は続けた「昨日、芝崎先生に言われた件だけど、残念ながら彼の言う通りみたい。」
「え、そっか」然世子が真顔に戻る。
 トラブルは、同じくらいのトラブルで相殺しようという、茅の思いつきが奏功した。然世子の異変を訝しんでいた他の三人も、次の言葉を待つように茅を見ていた。
「昨日、運輸局の支所で説明を受けてきたんだけど、結局、この校内に常駐していないと、有資格者の名義だけあっても駄目なんだって。根拠法制なんかも教えられたけど、それはまあ、資料を山ほどもらってきたから、後で見てね。要するに、この校内に、先生でも生徒でも、誰か第二種特殊精密機器整備士免許を持った人がいなければ、駄目という事なの。」
「うっわー」その上田の呻き声は、居並ぶ全員の声を代弁していた。
「どの位までなら、オーケーなのかな」頭の中で目まぐるしく計算を働かせている然世子が、半ば独り言のように呟く。
「ホントは全く駄目らしいよ。ただ、学校の場合は、教育的な事と言うことであれば、ある程度大目に見てもらえるから、実際に組み上がらなければ、ひとまずは大丈夫みたい。基礎的な制御プログラムとか、部分的な部品状態と見なせれば、良いみたいだね」然世子に答えながら、同時に皆に聞かせるように茅が言った。
 茅の言葉を聞きながら、自然と、皆の目が部室奥に鎮座している物体に集まる。それは、今度の文化祭に出品する為、三台の補助動力付自転車、パソコン二台と、この夏の大部分の時間、そして、彼らの情熱の殆ど全てを費やして作られた、自作のパワードスーツだった。
 もっとも、彼らは、パワードスーツと言い張っているが、人が装着し、その活動能力を拡大する装備は、軍事、警察、医療などの様々な分野で「パワーアシスト・スーツ」又は「サポート・ユニット」の名で広く普及していた。
 従って、主立ったハードウェアから、制御プログラムなどのソフトウェアまで、基礎技術の殆どは広く民生化されており、高校生である然世子達にも辛うじて手の届くところにあった。しかし、皮肉にもそのことで、運輸局の認可、警察への登録など、実社会で必要とされる無数の制約が然世子達に課せられることになったのだ。
「まあ、最悪の場合は、これをバラして展示するだけの事よね」動揺を抑えるように、然世子は言った。
「いざとなれば、それらしく組み立ててある、ただのオブジェってことで切り抜けられないっすかね。」
「見る人が見ればバレるんじゃないかしら。」
「ナガ芋に巻かれヨ、だな。」
「長いもの、です。」咲子は、小さくアランに突っ込みを入れてから、続けた「でも、まだ、今の状態だと、動かない事よりも動く事を証明する方が大変なくらいですよね。」
 咲子の言葉に、一瞬沈黙がよぎった。
「イつもノことだけド、サキコはキついナ」
 アランが一同の感想を引き受て溜息混じりに言う。
「そうよ、ともかく、全てはこれが動くとしたら、の話よ」然世子が語調を強めて言った「さあ、昨日の続きを始めましょう。」
 彼女の号令に、皆が「パワードスーツ」を取り囲み始めた。
 ただ、アランは、わざと数歩遅れて、一同から少し距離を置き、然世子だけに聞こえるように、声を掛けるのを忘れなかった。
「きノウはアリがトウ。サヨコはナにも気にするナ。僕ラのことも、きノウの続きかラ初めてもラえルかナ。」
「うん。うんうん」然世子は、訳もなく泣きそうになるのを懸命に堪えて、必死でそう繰り返した。
 アランが気障なウィンクをして然世子に背を向けた直後、彼女の携帯端末がメッセージの着信を告げた。
「なにこれ」一晩越しの緊張から解放された気の弛みも手伝ってか、メールを見た然世子は、彼女らしからぬ頓狂な声を上げた。
「どウした」振り返ったアランに、然世子は慌てて携帯端末を見せた。
「アテナからメールが来たんだけど。」
「ン・・・本日二年B組に転入生一名。へー然世子のトコに・・・一斉メールでもナいし、ナンでこンナメッセージをサヨコに送ったンだろう」
「あたしが頼んだのは高速ヘリ関連のニュース配信だったんだけど。」
 そのアテナからのメッセージは、それからしばらくの間、然世子を悩ませる事になる。然世子がその謎を解いて、アテナのユーモアに顔をほころばせるのは、まだ大分先の事だった。

落下から始まる物語3

続きます。

落下から始まる物語3

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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