軍神 空 途中

西川詩乃

まだまだ途中です

戦友【軍神】
① 仲五郎(東郷平八郎)
馬に乗り、信長様の敵討ちに向かう豊臣秀吉がいた。

月夜に、仲五郎は目を覚ます。真っ黒な家の囲炉裏のそばで、家族で雑魚寝している。
でも、薩摩の9月の夜は、それほど寒くはなかった。
美しい月を見るため、窓のそばに行くと、母親が声をかけた。
「仲五郎、寝なさい。」
「うん。」
仲五郎の胸は苦しかった。真っ黒な床に敷いた布団に戻り、隣に歩いてきた虫をつぶし、口にいれた。
「僕は豊臣秀吉でした。」
仲五郎がつぶやくと、
「何言ってるだ。」
父親が言った。

「これは本当なんです。お父さんとお母さんには、分からないかもしれませんけど。」
「うん、それはいいから、もう寝なさい。」
母親が言った。
仲五郎は、美しい茶室と、寝室と、豪華な着物を思い出して、涙をこぼした。

お父さんは、金持ちの家来をしている。
みすぼらしい青い着物を着た仲五郎は、父親と手をつないで、田んぼ近くの道を歩いた。
「仲五郎は、農家になるのはどうだ?」
絶望的に感じた仲五郎は、口を閉ざした。
「何がやってみたい?」

「うーん、馬に乗ってみたい。」
「ああ、そうか。でも、家に馬はない。だから、今度、島津さんの家に行って、乗せてもらえ。」
「うん‥。」
「自分が豊臣秀吉だったという話は、他の人にしちゃダメだぞ。みんな、変だと思うからな。」
「分かりました。でも、お父さんは信じてくれますか?」
「まぁ~‥信じるとまではいかないけど、嘘ではないと思っている。」
父親は笑った。


② 無人(乃木希典)
1849年12月25日、乃木希典は現在の東京六本木に生まれた。
でも、その頃の東京は、今とは全く違う場所だった。
希典の幼名は無人である。上に兄が2人いたが、2人とも亡くなっていた。
無人には、兄達のように夭折することなく、壮健に成長してほしいという願いが込められている。
父親の希次は、江戸詰の藩士だったため、無人は10才までの間、長府藩屋敷において生活した。この屋敷は、赤穗浪士の武林隆重ら10名が切腹するまでの間、預けられた場所であったので、無人も赤穗浪士に親しみながら成長した。

無人はよく泣く子供だった。それは、大人になってからも治らず、スピーチの際には、必ず涙ぐんだ。

③ 仲五郎(東郷平八郎)
元服し、平八郎と名乗るようになった仲五郎は、1862年、初めて出陣した。
その後、戊辰戦争では、春日丸に乗り込み、新潟・箱館まで転戦して、阿波沖海戦や、箱館戦争、宮古湾海戦で戦った。

20才くらい(現27才)の平八郎は黙っている時は、とても良い男で、芸者たちを虜にしたが、一度口を開くとおしゃべりが止まらなくなった。酒は好きだったが、酒を口にすると、どんどん毒が入るように、悪い話をしてしまった。
悪い言葉を言ってしまって芸者を泣かせた時に、今までの戦いで人を殺した時に、悪い呪いにかかったのかなとも思ったりした。
「どうしよう、やめようかな。」
平八郎は涙が出てしまって、料亭の廊下で赤い顔で自分を恥ずかしく思った。
「おそらく、悪い呪いにかかってしまったのだろう‥。」
平八郎は、壁に手をつき、つぶやいた。
見えない声が聞こえた。
『仕方ないさ。嫌でも、お前は軍人として、人生を生きるしかない。』
「もう嫌だ、やめたい。」
別の見えない声が聞こえる。今度は女みたいだ。
『確か‥こう言ってなかったかしら?僕は‥豊臣秀吉だって。』 
見た事もない可愛らしい女は、平八郎に笑い、消えた。

「へ?」
平八郎は少し元気になった。

④ 無人(乃木希典)
無人は元服し、名前は源三にした。1864年、少年時代から通っていた集道場の仲間たちと、盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した。
1865年、第二次長州征討が開始されると、萩から長府へ呼び戻された。
源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉戦争に加わった。奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの成功を挙げた。
しかし、勉強が好きな源三は、軍にとどまることなく、明倫館文学寮に復学した。

⑤ 渋沢栄一
1840年2月13日、埼玉県に生まれた渋沢栄一の幼名は、栄二郎である。
1861年に江戸に出て、海保漁村の門下生となり、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門する。
23才の頃に尊王攘夷の思想に目覚め、幕府を倒すという計画を立てるが、尾高長七郎の説得を受け、中止する。
父親から勘当を受けた体裁を取って京都にでるが、八月十八日の政変直後だったため、勤皇派が没落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣、平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕える事となる。

慶喜が将軍となった事に伴い、栄一は幕臣となり、パリ万博を視察する。


⑥ 板垣退助
1837年5月21日、土佐藩上士、乾正成の嫡男として、高知城下中島町に生まれた。
乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である。坂本龍馬とは親戚である。
「うわあああーー!!!!」
少年時代の退助はわんぱくそのものだった。

1856年8月8日、高知城下の四ヶ村の禁足を命ぜられ、神田村に蟄居し、身分の上下を問わず庶民と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父、正成の死後、家禄を220石に減ぜられて、家督相続を許された。
1861年10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を命ぜられ、11月21日に江戸に向かう。
1862年6月、小笠原唯八とともに、佐々木高行に会い、勤皇に尽くすことを誓う。
10月17日、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、尊王攘夷を唱える。
1863年1月4日、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(利通)と会う。
1月11日、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により、下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に勝麟太郎(海舟)を招聘し、坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議し、4月12日に土佐に帰った。

退助は、土佐藩の上士としては珍しく、武力倒幕を一貫して主張していた。
1867年の5月には上洛し、中岡慎太郎の手紙を受けて、5月18日に、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次、船越洋之助らとともに、中岡と会見し、武力倒幕を議した。
さらに、5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松清廉邸で、毛利恭助と西郷吉之助(隆盛)と、武力倒幕を議し、退助は、「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて、薩摩藩に合流する。」と決意を語り、薩土密約を結ぶ。
6月2日に土佐に帰り、藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。
8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受けるが、のちに中止した。
9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助らを釈放する。
これに応じ、七軍勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。
10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。


⑦ 大隈重信
1838年3月11日、佐賀藩上士の家に生まれる。幼名は八太郎。
重信は7才で藩校弘道館に入学し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、1854年に同志とともに藩校の改革を訴え、1855年には退学となる。
このこと、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した勤皇派の「義祭同盟」に、副島種臣、江藤新平らと参加した。
1856年、枝吉の推挙で、佐賀藩蘭学寮に転じた。
1867年、尊王派と活動していた重信は、副島とともに、徳川慶喜に会った。
慶喜は重信に心を許し、本当の笑顔を向けた。
「それで‥。」
重信が切り出すと、慶喜は少し目を丸くした。
「はい?」
「慶喜様は、江戸幕府をどうお考えになっておられますか?これからも続けるべきかどうか。」
「ええと‥。それはやめさせないといけないと考えております。」
「そうですか。では、いつ頃までに‥。」
ザザ‥。ふすまの向こうで聞き耳を立てていた幕臣が立ちあがった。

「慶喜様。」
ふすまの向こうより、幕臣が声をかけ、慶喜は立ち上がった。
「もうしばらくです。」『10月』
慶喜は聞こえない声をくれ、重信はうなずいた。

その後、重信は捕縛のうえ佐賀に送還され、1カ月の謹慎処分を受けた。


⑧ 大政奉還
栄一がヨーロッパ周遊中の1867年10月14日、大政奉還が起こる。
10月19日にマルセイユから帰国の途につき、12月16日に横浜港に帰国した。
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会した。
栄一は、ヨーロッパ周遊中、ひしひしと思い出していた徳川家への恨みをかみしめていたが、一目慶喜を見ると、ヨーロッパでの土産話が止まらなくなってしまった。
まるで、慶喜は懐かしいお父さんのような感じだった。
慶喜は、栄一に静岡藩より出仕することを命じるつもりだった事を話すと、栄一は下を向き、それを素直に受け入れようと思った。
でも、慶喜は続きを言った。
「これからはお前の道を行きなさい。」

1868年1月27日から1869年6月27日まで、戊辰戦争が勃発する。
「日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」旧幕府軍と新政府軍が交戦した。
新政府軍の指揮官に、西郷隆盛・板垣退助・大村益次郎がつき、新政府軍が勝利した。

1868年3月に五箇条の御誓文が出され、4月には江戸城無血開城が行われた。
勝海舟は、慶喜に自決を諭すつもりでいた。しかしいざ、慶喜を目の前にすると、開いた口がふさがらなかった。徳川慶喜は強そうな良い男だった。西郷隆盛はずっと前から慶喜を知っていたので、『わしが身代わりになるわい。』とも言った。しかし実際には、お金を渡して似ている男を用意するつもりだった。2人は冷や汗をかき思った。
『一橋慶喜殿を殺すわけにはいかない。』
戊辰戦争で新政府軍の指揮官に西郷隆盛、旧幕府軍の指導者に徳川慶喜がついていた。戊辰戦争でのトップ同士が、江戸城で向き合い、無血開城が行われたのである。
西郷隆盛の最終階級は陸軍大将である。それは元帥を意味している。


⑨ 東郷平八郎の留学
美男子の平八郎は、イギリスへの官費留学の話を耳にする。
「留学をさせてください。」
平八郎は、大久保利通に頼み込んだが、良い返事をもらえなかった。
大久保利通は目をそらし、「わしにはまだ分からん。」と言った。
利通には、平八郎はただの男にすぎなかった。
戦争にうずもれ、死にゆく男だ。そんなただの人を、イギリスに行かせるわけにはいかなかった。

「なぜ、平八郎はダメなんですか?」
平八郎を見込んでいる役人が、利通にたずねると、利通は眉間にしわをよせ、言葉を考えた。
「うーん‥。平八郎はおしゃべりだからダメだ。」

それを伝え聞いた平八郎は寡黙に努めた。
平八郎は、泣く泣く西郷隆盛に、イギリス留学を頼み込んだ。
そして、西郷隆盛から大久保利通に手紙を書いてもらい、平八郎はイギリス留学することとなる。1871年からの11年の留学中に、平八郎は、国際法について学んだ。

⑩ 御堀耕助と源三の昇格
源三の従兄に、御堀耕助という男がいた。
源三よりも立ち回りの良い男で、慶喜に対するあこがれを抱きながらも、倒幕派にいた。
1867年8月、西郷隆盛や大久保利通らと、倒幕の実施計画について会談をした。
倒幕についての考えを問われた耕助は、作り笑顔で言った。
「いや、幕府なんてダメですよぉ‥。慶喜なんて男には、日本を任せられません。」
源三は作り笑いで目じりを下げた。本当は、慶喜に対する憧れがあった。
もしもお仕えできれば、幸いだった。

隆盛と利通は、偽笑いの耕助を熱心に見つめた。
『我らは必ず歴史に名を残す。我らの中で、一番偉いのは‥。』
隆盛と利通は、顔を見合わせた。
『この男は、何番手なのだろう‥。』

『でも、悪い男ではない。普通とまではいかないが、平凡な男である。』
1869年、耕助は藩命により、山縣有朋や西郷従道と共に欧州視察に向かうが、香港まで行って、病気のためにいったん帰国した。同年11月、モンブラン伯爵らと横浜を発ち、パリで山縣有朋たちと合流した。
帰国後、薩摩で病気の治療を受けていたが、病状が悪化して、三田尻に帰った。

源三が耕助の見舞いに来た。
「お兄さん、具合いかがですか?」
「うーん。今は悪くない。ところで、お前の方はどうだ?」
「報国隊の漢学助教になったんです。」
「そうか。軍人の道をやめ、学者になるということか?」
「軍の仕事も好きですけれど、知識のない軍人は、ただ鬼畜と同じでしょう。」
源三が言うと、耕助は笑った。
「そうだな。でも、軍人の道に進むのなら、源三に、黒田さんを紹介できるぞ。」

源三は、黒田清隆と対面した。
そして、12月には藩命により、伏見御親兵兵営に入営して、フランス式訓練法を学んだ。
1870年2月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍連兵教官として、馬廻格100石を給された。

それでも、落ち着かない日々が続いた。役職や格上げの話合いが、上の人たちの間で行われていたのだ。
しかし、「源三が少佐になる。」と前の週には知らされた。
「よし!」「よし!」
源三は、ガッツポーズをして、何度も喜びをかみしめ、鏡の前で敬礼をしてみたりした。

1872年1月3日、黒田清隆の推挙を受けて、大日本帝国陸軍の少佐に、源三は任命された。
22才の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢だった。
源三はまだ見ぬ未来の栄光の舞台で、インタビューを受けた。
フラッシュがまぶしい。
「今日という日は、生涯何より愉快な日です。」
「これから、どんな事を頑張りたいですか?」
「まずは、少佐として‥。」
源三は頑張りたい事を言った。


源三は正七位に叙され、名を希典と改める。

⑪ 東郷平八郎のイギリス生活
イギリスに留学した平八郎は、ダートマスの王立海軍兵学校を希望したが、イギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズアカデミーで学び、その後、商船学校のウースター協会で学んでいた。

最初は、気軽に英語で話していた平八郎だったが、だんだん英語が分からなくなる。
「To go, China」
金髪の奴らにからかわれて、平八郎は学校の廊下で立ち止まり、赤い顔で涙をぬぐった。

夜、平八郎は誰もいない部屋で言った。
「ねぇ、僕にも、英語を話させてよ。」
「ダメよ。日本にいる男たちは、英語なんて話せないの。」
「どうしてだよ!僕はイギリスにいるんだぞ。英語ができなきゃ、何も分からないじゃないか。」
「英語の魔法は少しだけあげる。でも‥それ以上は‥。」
「なんだい。僕は嫉妬にあたっているってことかよ。」
「そう。その通りよ。平八郎には幸せになってもらいたいけど、私はみんなのための神様なの。」
「へぇ、わかった。じゃあ、もう向こうに行ってくれ!」
「Goodbye。」
「グッバイ。」

「僕にも英語を分からせてよ!!」
平八郎はまた、大声で叫んでしまった。
『静かに。みんな寝ているのだから。』
「だけど‥、みんなが話している事が、全然わからないんだ。昔みたいに、おしゃべりをしてみたいのに。」
『おしゃべりをするかわりに、口笛を吹いていなさい。』
平八郎は昔のように、楽しくおしゃべりをする自分を想像した。
それを消すように、平八郎は口笛を吹いてみた。
すると、口で吹いていると思えないような音色が、口から流れ出した。
「英語の代わりにくれるのは、これかよ。」
平八郎は布団を頭までかぶった。
そして、もう一度口笛を吹くと、安心した気分になった。
これで、イギリス人と仲良くできるかもしれない。

次の日もその次の日も、口笛を披露することはなかったが、平八郎は元気になった。
でも、また、英語が出来ない事に悲しくなる日がきた。
夢の中で、誰もいない廊下に向かって、叫ぶ。
「僕にも、英語を分からせてくれよ!!」

『平八郎、その部屋に行ってみなさい。』

平八郎は部屋に入ると、自分の名札が置いてあった。ここは、軍人としての自分だけの部屋みたいだ。引き出しを開けると、重くて小さなピストルが入っていた。
護身用としてのものだが、万が一の時、自分の頭を撃ちぬくための物だ。
平八郎は目を閉じ、それを閉まった。

平八郎は、その時から、黙る事を覚えた。

⑫ 栄一、実業界へ
渋沢栄一は、株式会社制度を実践する事や、新政府からの拝借金返済のために、
1869年1月に、静岡で商法会所を設立した。ところが、大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。
大蔵官僚として民部省改正掛を率いて、改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。
1872年には紙幣寮の頭に就任した。ドイツで印刷された明治通宝を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。

「失敗したら大問題。」
と、ハナから大隈重信とは対立しがちだった。重信は、栄一にとって、『ちょっとこわいおっさん』だった。時々、『ちょっと嫌なおっさん』に変わったりした。

「お前の希望はなんだ?」
「いや、あなたには分かんないと思うので、いいです。」
そして、逃げる夢を何度も見た。
しかし、予算編成を巡って、大隈重信と大久保利通と対立した時、そんな無礼な態度はとれなかった。
「一体いくら使いたいだ?」
「ええと‥。」
あの時のように、栄一はうなだれた。
そして、重信が慶喜のような言葉をくれるのを待ち、上目で見た。
「まぁ、いい。何やるにせよ、しっかりと国を思い、生きなければいかん。」
栄一は、1873年に井上馨と共に退官した。
その後、実業界に身を置く事となる。


⑬ 隆盛と利通の最後
1877年9月24日、西郷隆盛が亡くなる日が来る。
西郷隆盛は食料を切らし、腹はペコペコだった。薄暗い中で、袋から食料をあさるように取り出し、食べた時は、若い頃に戻ったかのようだった。
いまだ、自分の中にみすぼらしい少年がいた事を知り、泣きたくなった。
前日に流れた葬送曲が、未だ、城山に小玉していた。

頭を少しおかしくした隆盛は、子分に聞いた。
「利通は来ているか?」
「来てないです。」
「そうかい。」

『死ぬ時の高揚はこんな感じなのだな。』
隆盛は、目を見開いた。目の前がくらくらしている。

政府軍が総攻撃を仕掛けた時、隆盛は、腹と股に被弾した。
急所の付近で、隆盛は目を開き、感覚をなくしたまま、膝をついた。
「西郷どん!」
別府晋介が、隆盛の肩にふれると、すぐにどこに当たったのか分かった。
「大丈夫か?」
「はぁはぁ‥。」
「どうする?」
「首はねてくれ。」
かすかに、隆盛が言った。
「晋どん、俺ら、もうここらでよか。」
「ごめんなったもんし。」
晋介が、隆盛の首をはねると、隆盛の頭はごろりと転がった。
隆盛は目を開き、『こんな事をするなんて信じられない。』という顔だった。
「でも、頼んできたでしょう!!」
晋介は頭まで血を浴び、腰をつき、怖気づいた。

仲間が、隆盛を心配しているうちに、晋介は刀で自決した。


隆盛の死を聞いた栄一は、具合が悪くなった。そして、イラ立つ事が多くなった。
隆盛の死のニュースが出た日でも、自分の前にいる若い連中は、笑い合っている。
『ふざけるなよ。』
「こんな大変な時に、先に逝ってしまうなんて、あいつ多分せこいよな。」
栄一はイラついて泣き、若者たちに憤慨した。


隆盛は、あの世ではとても暗くなり、怒っていた。
「なんで来なかっただ。」
隆盛は暗い目で、大久保利通を呪った。
『最後は一騎打ちの掟を交わしたのに。』

あの世でも隆盛を慕っていた武士たちが、利通殺害計画を持ち掛ける。
隆盛はその計画書を読むと、雲に乗った小さな天の神様が現れた。
『そんな事を実行すれば、あなたは二度と地上へ戻れなくなりますよ。』
「いいよ。」

「ダメです!!」
天の神様は大きくなり、隆盛の前に立った。
「どうして?俺だけあんなに無様な死に様はないぜよ。」
「それは仕方ありませんよ。」
「仕方なくないぜよ。」

「あなたが愛していた物は何ですか?」
「それは、日本じゃ。」
「あなたが地上に戻れなくなれば、日本は弱くなってしまうでしょう。」
「ふーん。結構。」

結局、殺害事件を決行する事となる。
あの世の布団に寝転がり、隆盛は笑顔で言った。
「俺が一番愛していた物は、利通じゃ。」

利通は、首に刀を刺され、目を開け死んだ。
あの世から、その死にざまを、隆盛は見た。
隆盛の心は凍り、二度と地上に戻れなくなってしまった。
利通は、隆盛と離れ離れになった事を呪った。
利通は生き返ったが、隆盛は生き返らず、2人はまだ会えていない。

「ええ、利通さんまで‥。」
新聞を読んだ栄一は、口をおさえ、息を飲んだ。

⑭ 希典の結婚
希典も西南戦争で指揮をとっていた。しかし、連隊旗を奪われ、自分もケガをするなど、散々な目に遭った。
特にショックだったのはあの事件だ。
戦いの最中、初老の兵が人質にとられた。普段なら気にとめないが、その時はなんかちがった。希典は涙目で敵を諭し、解放してもらった。しかし、翌日の夕方に初老の兵は死んでしまっていた。
体には踏まれた後もあった。希典は遺体のそばで涙をぬぐった。
そして、本気で自殺を考え、死のうとしたが、仲間に止められた。


その後、舞踏会で、希典は娘を紹介されたが、嫌いなタイプだった。
以前から目を合わせていた、藩医の娘お七を嫁にとる事にした。
ようやく自分も結婚が決まり、落ち着けると思った。
希典は煙草を吸い、空を見た。
「お前、お七を一生大切にできるのかい。」
神様の声が響いた。
「はい。できますとも。俺はお七さんのクソだって、食べれますよ。」
ピカッ。希典が言うと、遠くで小さな雷が光った。
「今のはダメだったか。」
希典は頭を抱えた。

別の日、夜空を見上げて、希典は昇進について願い事をしていた。
すると、大きな龍が来た。
「お前、結婚するんだってな。」
「はい。とても良い娘でして‥、僕らきっと、幸せになります。」
「そうか。その娘が年をとってからも、ずっと大事にしろよ。」
「分かりました!」

希典はお七と結婚をし、お七は静に名前を改名した。
2人で散歩中、希典は可愛らしい子猫を見た。
希典は静に言った。上空には、美しい曇り空が広がっている。
「静、あの雲、なんだと思う?」
「ええ。ただの曇り空だと思いますけど。」
「ちがう。ああいう雲は、天使を連れてくるのさ。」
希典は言い、笑った。

1978年、イギリスに留学していた平八郎は、帰国することになった。
帰国途中、西郷隆盛が自害したと知った平八郎は、
「もし私が、日本に残っていたら、西郷さんの下に馳せ参じていただろう。」
と言い、船の上で手を合わせた。
平八郎の実兄である小倉壮九郎も、城山攻防戦の際に亡くなっていた。


⑮ 敵多き男、大隈重信
重信にとって利通は、隆盛という仲間のいる恐い男だった。もしかしたら、江戸という首都が、薩摩に持って行かれるかもしれないと思うほどだった。
隆盛はいかめしい男で、神々しいといわんばかりの権力を誇っていた。
「こちらからしてみれば、お前さんの方がいかめしいんだぞ。」
夢の中で、隆盛から顔をのぞきこまれたことがある。

大蔵省の実力者としても、利通と隆盛には、気を使う必要があった。
官営の模範製糸工場、富岡製糸場、鉄道・電信の建設などの事業を重信が進めた時、民力休養を考えていた利通は、重信を嫌うようになった。
1870年に利通が、大蔵・民部の分離を行うよう運動を始めた時、重信はすぐに立ち上がり、利通に頭を下げた。
「大久保殿、ごめんなさい。許してください。」
「はぁ‥。」
利通は、重信の誠意ある態度に納得したようだった。

重信は、木戸孝允や岩倉具視とも対立するようになる。
重信は大蔵大輔に任じられていたが、免ぜられてしまう。
しかし、重信にとっての転機が訪れる。
重信にとって敵だった、孝允、具視、利通が、岩倉使節団として、アメリカに行くことになったのだ。

重信は、隆盛の信任を得て、大蔵省の実権を手にした。
内心、岩倉使節団のメンバーで、いなくなってほしくない男がいないほどであった。
しかし、戻ってくることになる。
その日、重信は朝から胃が重かった。でも、隆盛はちがっていた。
利通を見て、隆盛は笑って言った。
「おお、薩摩の浦島太郎さんよ、ようやく戻ったのかい。」
「そんな言い方ないじゃないか。」
「土産買ってきてくれた?」
「おう、あるよ。」
利通は、心がすっきりしたかのようだった。重信は利通と協力し合うようになる。

利通、重信、隆盛は3人で笑い合っていた。しかし、暗雲が立ち込めるようになる。
島津久光が、重信の免職を要求したのだ。重信は、病気を理由に辞表を提出したが、辞職はさせられなかった。

重信を嫌っていた木戸が復帰してくる。重信は、病気が悪化したとして出仕せず、三条、具視、利通は、重信の大蔵卿からの解任を検討したものの、後任候補がいなかったため、続投させた。
しかし、孝允と板垣退助が、重信の辞任を要求し、利通が重信を庇護する形となった。
久光と退助が辞職し、孝允の病気が悪化した事で、重信への攻撃は消滅した。

利通が暗殺されると、政府の主導権は伊藤に写った。
重信は言った。
「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう。」

1880年、重信は、後輩である佐野を大蔵卿とし、財政の影響力を保とうとしたが、重信が提案した外債募集案を佐野が反対し、重信による財政掌握は終焉を迎えた。
また、重信は、伊藤、井上からも冷眼視されるようになる。

しかし、1881年1月には、熱海の温泉宿で、伊藤、井上、黒田清隆とともに、立憲体制について話し合った。
しかし、伊藤との仲は再び悪くなる。
10月11日には、払い下げの中止と、1890年の国会開設、重信の罷免が奏上され、裁可された。これは、同日中に、伊藤と西郷従道によって伝えられ、重信も受諾した。

野に下った重信は、犬養毅らと協力し、1882年3月に立憲改進党を結成し、党首となった。
また10月21日には、早稲田大学を開設した。


⑯ 明治六年政変
1869年、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信とともに参与に就任する。1870年に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令した。1871年に参議になる。

1868年頃の西郷隆盛は体調を崩し、外出や閣議出席も控えていた。李氏朝鮮問題は、1868年に李朝が維新政府の国書受取を拒絶したことが発端だが、この国書受取と朝鮮との修好条約締結問題は留守内閣時にも一向に進展していなかった。
そこで、進展しない原因とその対策を知る必要があって、隆盛と退助、副島らは、調査のために1872年8月15日に、池上四郎、武市正幹、中平を、清国、ロシア、朝鮮探偵として満州に派遣し、27日には北村、河村、別府を花房外務大丞随員として釜山に派遣した。それは実際には、変装しての探偵活動だった。

1873年の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰国後、李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると報告し、それを外務少輔、上野景範が内閣に議案として提出したことに始まる。
この議案は6月12日から閣議により審議された。

板垣退助は、居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張したが、隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。
すると、太政大臣三条実美が、『丸腰では危険であり、兵を同行するべきだ』としたので、隆盛は拒絶した。
議会で立ちすくむ隆盛から三条は目をそらし、決定は清に出張中の副島の帰国を待ってから行う事を告げた。

「お願い致します。わしを満州に行かせてください。」
7月末より隆盛は涙目で三条に遣使を要求したが、三条は冷たい目で隆盛を見た。
「どうせ殺されるのがオチだぞ。」
「わしなら、いつ死んでもかまわねぇです。」
「命を粗末に考えないでもらいたいね。例え、自分だけの命だったとしてもだ!!」
三条は隆盛を指さしながら、強い口調で怒鳴った。

【朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる】
8月17日の退助宛の書簡で、隆盛はこう述べている。
どうしても自分が遣使として行きたいことと、隆盛が相手に合わせて意見を巧妙に変化させていることが分かる。

そして8月17日の閣議で隆盛の遣使は決定されたが、詳細については決まっていなかった。
三条は、箱根で療養中の明治天皇の元を訪れ、決定を奉上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき。」という回答がくだされた。
内藤一成は、明治天皇はまだ二十歳そこそこであり、三条の意見をなぞったものに過ぎないと見ている。

9月13日、岩倉使節団が帰国した。
利通を見て、隆盛は笑って言った。
「おお、薩摩の浦島太郎さんよ、ようやく戻ったのかい。」
「そんな言い方ないじゃないか。」
「土産買ってきてくれた?」
「おう、あるよ。」
利通は、心がすっきりしたかのようだった。

少し休んだ利通と隆盛は、他のメンバーと共に談笑した。あんなに嫌だった岩倉も、こちらを見て微笑んでいる。
利通と2人きりになった時、隆盛は利通を覗き込んで言った。
「三条のおっさん、おいらを満州に行かせてくれないんだぜ。」
「どうゆうこと?」
「利ちゃんはいいだろ?長くエメリカに行ってきたから。」
「いいや、別に楽しいんじゃなかったよ。」
利通は鼻をかき言った。隆盛は正直言って、今にも涙がこぼれそうだった。

「ふーん、隆ちゃんが行きたいなら、満州に行かせてもらえば?」
「そうだな。もう一度、頼んでみる。」

次の日、使節団がいない間に、留守政府がどういう改革を行ったのかを、退助がすまし顔で説明して、隆盛が補佐で言葉を交わした。
学制改革、徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革などである。
『ええ、そんなに?』
利通は隣にいる岩倉と木戸を見た。岩倉も木戸も目を丸くしている。

『利ちゃんがそっちを選んじゃったんだから。』
隆盛を祈るような気持ちで利通を見た。利通は鋭い目で隆盛を見たが、隆盛の目を見ると、すぐに視線を下に降ろした。
『許せない。』
利通は口元を少し動かした。
「どうしただ?」
隆盛が聞くと、利通はうなだれて、口をおさえて、下を見た。

「どうしたじゃないだろう?なんだよ、これは。」
岩倉が言った。
利通は隆盛の手前、ふくれてみようと思った。隆盛も利通と仲良くしたいと思った。
しかし、2人は神様の糸に動かされてしまう。
2人は仲たがいしてしまった。

「みんな驚いた顔してたね。」
退助は隆盛に言った。退助はいつでも元気である。留守内閣時代、隆盛は退助に腕を組まれた事もあったし、退助が名前にTを持つ者が多いと言った事もある。よく夢の話もされた。清で中華まんを食べたというホラ話である。

利通は人が変わってしまった。利通は妖艶なオーケストラの音色に包まれ、隆盛と対決する意向を決め、子供達に遺書を書いた。一方で、隆盛は遣使の決定が変更されるなら自殺するという書簡を三条に提出した。

10月14日、岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張した。板垣、江藤、後藤、副島らは遣使の延期については同意していたものの、西郷は即時遣使を主張した。このため15日の閣議では、板垣、江藤、後藤、副島らは西郷を支持し、西郷の即時遣使を要求した。
決定は太政大臣の三条と右大臣の岩倉に一任されたが、三条はここで西郷の派遣自体は認める決定を行った。しかし、期日等詳細は決まっておらず、単に8月17日の決定を再確認したものにとどまった。
10月17日に岩倉、大久保、木戸が辞表を提出したことで閣議は行われなかった。
三条は大木喬任とともに岩倉邸を訪れて、18日の閣議に出席するように説得したが、岩倉は受け入れず両者は決裂した。夜になって三条は自邸に隆盛を呼び、決定の変更を示唆したが、隆盛はこれに反発した。
翌日、三条は病に倒れた。
10月19日、副島、江藤、後藤、大木の4人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とすることを、徳大寺実則に要望し、明治天皇に奏上された。
10月20日、22日に岩倉が太政大臣摂行に就任し、西郷、板垣、副島、江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にでも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行になっているから、三条の意見でなく自分の意見を奏上するとして引かなかった。
四参議は「致し方なし。」として、退去した。

岩倉は10月23日に参内し、閣議による決定その経緯、さらに自分の意見を述べたうえで、明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上した。岩倉と大久保は目を合わせた。利通は祈るような気持ちだったが、岩倉は昨晩数時間かけて考えた明治天皇への脅しの芝居を決行するか悩んでいて、冷や汗だらけだった。
岩倉は肩で息をした。大久保も顔が真っ赤になった。西郷は遣使反対派をちらりと見て、また前を向いた。利通は隆盛に声をかけようと思ったが、声が出なかった。完全にあちらのゆすりである。あちらというのは、神の国の人の事だ。
「エメリカに行った時、面白くなかったのかな。」
隆盛はふと、そんな事を思ってしまった。
隆盛は潔く辞表を提出し、帰途についた。自分がやらんと決めていた事は、2人がいないうちにやっておいた。隆盛はずっと自分のパートナーは利通だと思い込んでいた。退助という偽パートナーを見た時、イライラした。この男はいつでもパーティー気分である。しかし、退助とならうまくいった。もしかしたら、本物の俺のパートナーが退助だと想像を始めた時、胃がきりきりと痛んできた。3カ月前にウサギを食べた事が体をもたらせていたと思う。前に古事記を手にとり、パラパラとめくってみたが、よく理解しなかった。神など不思議なものだ。不思議なものなど、この世で信じなくていい。
隆盛はよく酷い事をした。人を殺めた思い出があるとしたら、瀕死の婆さんが川のそばで寝ていて、息を確認するために口に手をかざし、もしかしたら押さえた時の事だ。でも、あれは夢でいい。隆盛がした酷い事は、動物を殺す事だ。小さい頃からよくやった。優しく話しかけて、首をぽきんと折るだけ。そうやって呪いを集めていた。自分でも知らない間に。

10月24日、岩倉による派遣延期の意見は通った。
退助、江藤、後藤、副島らが辞表を提出し、25日に受理された。
本当は受理されたくはなかった。受理された時、本当にイライラして、涙が出てしまった。
この一連の辞職に同調して、政治家、軍人、官僚600名が次々と辞任した。
事実上の解体である。明治六年政変。

利通は意味が分からなかった。黒い悪魔に取り憑かれたようで、便も奈落の底で固くなっている感じだった。ただ悪魔に突き動かされた。
「国家将来のために悪評をかぶるつもりで実行しました。」
利通はか細く震える声で、部屋で寝間着姿で何度か繰り返した。
「あなた‥。」
障子の向こうに妻がいた。こちらにどうしてもらいたいのかは、知っているつもりだった。こういう事は、確かに嬉しい日もあった。だけど、ささやかな事だ。翌日に妻と何をしたのか知っているような議員が怒鳴る時は、世間は厳しいと感じる。妻の事も嫌いになる。
でもそんな時、頼りになった人は、隆ちゃんだ。
「ずっと、我らは友人でしょう?ねぇ、隆ちゃん。」
布団の中で言い、涙をぬぐった。

大隈重信は、西郷が遣使を望んだ事は、征韓論の盛り上がりを見て、朝鮮宮廷で殺害される事を最後の花道として望んだ、自殺願望ではないかと推測している。


1875年9月20日、江華島事件が起こる。
「江華島事件大変だな。」
退助がそう言った時、隆盛は西洋の空気で気分が朦朧としていた。夢を見ていたのかもしれない。一瞬、退助が朝鮮語をしゃべったのかと思った。
『本当はこっちと仲良くしなければならない。』
何度、一人言を言い、顔を手でぬぐったことだろう?よくよく考えてみれば、もしもお隣と仲良くすれば、エメリカという大国が攻めてくるに決まっていた。
「雲揚号事件、大変な事になっちゃったんじゃない?」
退助はキャンディーをなめながら言った。
「こっちには死者がいなかったからよかったんだけど。」
「死者は出ずに?」
「いや、いたけど、一人だけ。」
退助は人差し指を上げた。


⑰ 新選組
下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、1874年に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。
1875年、大阪会議によって参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞して再び自由民権運動に身を投じた。
1877年、西郷が亡くなったと聞かされた時、退助は股を抑えて座り込んだ。すごく息ぐるしいのが分かった。涙さえ出ない。肌はみるみるうちに白くなった。
息苦しいのは何日か続いた。
『何か甘いの食べれないかな。』
「ちくしょう。」
こういう時にでさえ、食い意地を張る自分が悔しかった。今まで悔しかった事は数えきれない。一番は、戦いの最中に仲間がウサギを食べていて、自分だけが食べそこねた事だ。

1881年、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。

1882年3月10日、板垣退助は東海道演説旅行のために東京を出発した。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5日に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。

4月6日午後1時、岐阜県厚見群富茂登村(現岐阜市)の神道中教院にて、板垣、内藤ロイチらが自由党懇親会の演説を行い、午後6時頃演説を終えた。

退助は演説の後はいつも神経が高まるのを感じていた。大きく呼吸をする。

ふいに、隆盛の事を思い出す。
『隆盛殿、文久の時…。』
「おーい、西郷さーん!!」
退助が隆盛に話しかけた時、邪魔が入った。隆盛の足の間にしゃがんで顔と手を出した事はもう覚えていない。もともと自分は幽霊みたいなヤツだ。いや、もとは幽霊だった。戦に出て、死んできたんだし‥。
隆盛は話終わり、こちらを見た。
「あの‥。」
「文久って、八月十八日やろ?」
「はい。その時はどこに?」
「俺は島流しになっていたから、話にしか聞いておらん。あの日の事はな。」
「僕はその場にいたんですよ。」
退助は顔をほころばせた。
「わいが思うには‥、三条のおっさんが力を持っているから、そういう事が起こるんだぜ。」
隆盛は少し笑った。
「新選組はどうしましょう?」
「あいつらの事は別にいいぜよ。好きにやらせときゃ。」
隆盛は言ったが、黒い瞳の奥はきらりと光っていた。



1860年。のちに新選組局長となる近藤勇は、松井つねと結婚する。この頃の勇には、新選組の気配すらなかった。
1861年8月27日には、府中六所宮にて、天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。
勇は天然理心流の門人同士で交流を持ち、特に兄の音五郎や惣兵衛、寺尾安次郎、佐藤彦五郎、小島鹿之助、沖田林太郎、粕谷良循らがいる。沖田林太郎は沖田総司の義兄である。

勇は、ツネが待つ家に気まぐれに帰ってきた。
「あなた、外で女の人が待っているの?」
「別に待ってないよ。」
勇はヨウジで歯の掃除をしながら言った。

4日帰らなかったある日、突然勇が帰ってきた。
「おーい、ツネ!いるか!」
「はーい。」
ツネが顔を出すと、男の連れがいた。土方歳三、沖田総司である。佐藤彦五郎は立って、笑っていた。
「俺達、これから仲間やから。」
「はあ、そうですかぁ‥。」
「そうですかって、なんよお前!」
勇はツネの頭を軽く叩いた。

1863年正月、江戸幕府は旗本の松平忠敏、出羽国庄内藩出身の清河八郎の献策を容れ、14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。
勇ら試衛館の8人はこれに参加することを決める。
正月16日に勇は小野路村の小島家で鎖帷子を借りている。2月8日、浪士組一行と共に京都に向けて出発した。勇は宿割りを命じられ、本隊より先行して出発した。
「お願い、一晩だけ止めてやってください。」
勇は宿主に困り顔で手をすり合わせた。
「お代は、○○円多く払います。一人‥。あ‥、やっぱり、宿代はそのままで、朝飯ぬきでいいです。」
「朝飯は用意しなくていいだね?」
「はい、構いません。」

2月9日に本庄宿に止宿した際に宿の手配に漏れが生じ、水戸藩の芹沢鴨が激怒して大篝火を焚き、勇と池田が詫びた。

一行が京都に到着した23日夜、清河は新徳寺において浪士組上京の真の目的は朝廷に尊王攘夷の志を建白することであると宣言し、浪士組の江戸帰還を提案し、翌24日に清河は学習院国事参政掛に建白書を提出した。これにより浪士組は清河ら江戸帰還派と勇・芹沢ら京都残留派に分裂し、異議を唱えた勇や芹沢ら24人は京に残留した。
清河八郎という男は、新選組を作る流れを作り、虎尾の会を率いて明治維新の火付け役となった。

3月10日、二条城において京都守護職を務める会津藩主・松平容保は幕府老中から京都の治安維持のため浪士を差配することを命じられ、勇・芹沢ら17名の京都残留組は会津藩に嘆願書を提出し、3月12日に受理され会津藩預かりとして将軍在京中の市中警護を担う「壬生浪士組」が結成された。浪士組24名のうち試衛場出身者は勇ら8名を占めている。

結成当初の壬生浪士組は運営がスムーズに行かず、勇は仲間を暗殺したり、切腹させたりした。浪士組は近藤派と芹沢派5名の二派閥体制となった。

3月25日、勇・芹沢ら浪士組が狂言を見物しているのを、遅れてきた土方と沖田が目撃する。揃いの羽織を着ているので、土方が声をかけた。
「なんだよ、それ。俺たちにはねぇの?」
「うーん、まだ。」
勇はニヤニヤと笑い、曖昧な答えをした。
「えーなにそれ。」
土方と沖田は驚いた。仲間外れになったようで、恥ずかしかった。

「近藤天狗になり候。」
4月17日、土方・沖田・井上は、井上松五郎に相談している。

8月18日、長州藩を京都政局から排するために、中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩主導の八月十八日の政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。
その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組」の隊名を下賜された。勇・土方らはまず、副長の新見錦を自殺させた。
9月13日には勇の意に応じないとして、田中伊織を暗殺した。

9月、芹沢鴨が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行っている。

朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は芹沢の所置を命じたと言われるが、確証はない。また13日には、芹沢は、土方・沖田らと有栖川宮家を訪れ、壬生浪士の「交名」と警護の用があれば何事に限らず申し付けてくださいと記した書付を渡した。

9月16日あるいは18日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。芹沢は平山五郎・平間重助・土方らと早めに角屋を出て、壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓・桔梗屋吉栄、平間の馴染みの糸里が待っていた。

土方歳三が刺客だった。
前日、八木家に訪れた土方は言った。
「吉栄います?」
「は‥?吉栄ならまだ‥。」
「いえ、じゃなくて、明日用意しておいてもらえます?平山さんの馴染みですので。」
「はい。他には‥?」
「糸里ちゃん‥。それから、お梅ちゃん。お願いします。」
土方は、糸里の名を言った後、迷ったようだった。
「土方さん、あなたのお気に入りは誰でしょうか?」
主人は手をすりあわせて聞いた。
「ええと、僕は‥もう、いいですから。」
土方は両手を下で組んで言った。
主人は、歳三が女に体を知られている男だと悟った。その頃の歳三は肌が白く、妖艶な感じで、その点で神に愛されていた。

八木家での宴会が終わるとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと同衾した。
糸里は、土方の体に添いなでてみたが、土方は固い表情のまま、頭の下で手を組み、天上を見上げていた。土方は全員を殺すつもりだったが、飲み会の席で、平間や平山、芹沢に良い言葉をかけられ、好きになってしまっていた。糸里は土方の股間に手をかけたが、土方は糸里の手を握り、作り笑いで言った。
「も、もういいから。俺、本当、もう行くね。」

大雨の夜、外で待っている沖田総司、原田左之助、山南敬助の下に走った。
「遅い。」
「すまぬ。あのさ、芸妓は殺さないで。」

敬助が聞いた。
「何、お前だけいい事してたの?」
「ちがうよ!お梅は鴨の相手だからやっていいけど、他の女は殺すな。なぁ、頼む。」
土方は沖田の手を握った。
「はい。御意。」
「そうか。よろしく。」
土方は沖田の顔をのぞきこんだ。

走りながら、土方は念のため、左之助と敬助にも言った。
「女の命は助けてくれよ。お梅以外。な?」
「お梅って誰?」
「わからねーなら、誰も殺さんでいい。女のことは。」
「はい。」「へーいへい。」
ブッ
左之助は屁をした。

深夜、4人は芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害すると、沖田が芹沢に斬りつけた。
「小寅の仇をとってくれる。」
「ひぃぃ。」
芹沢は息を飲んだが、
「小寅と俺は何もやっとらんぞ!小寅はお前が好きやったから、俺には肌を許さんかった。」
そう言うと、真っ裸のまま、隣の部屋に逃げた。左之助と敬助が追いかけた。

土方は隣の部屋で平間と向き合っていた。
平間は腰巻のまま刀を持ち、歳三と向き合っていた。女2人はすみで震えている。
「よい、逃れよ。」
土方は言った。
「女を連れて、逃れよ。」

「うわあああーー!!!!」
芹沢は逃げ、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまずいて転び、そこをよってたかってずたずたに斬りつけられた。
目が斬られるまで、まだ意識があった。

沖田は布団をかぶりぶるぶる震えている梅子を見た。
沖田は布団をとると、梅子は何かを求めるかのように沖田を見た。
『小便しろ。』梅子の腹を殴ると、「うっ!」という声を出し、梅子の口からは血が出た。
沖田は梅子を切っている最中、芹沢の犠牲になった小寅について想った。小寅と一緒に過ごした人生で一番やさしい時間を思い出した。
それが、俺なりの、最後の愛し方だったのかもしれない。

土方は、沖田が梅子を殺したのを聞いて、顔をしかめた。
「だって、梅子はいいって言ってたじゃん。」
「まぁ、そうなんだけど、女を殺すなんて、俺にはちょっとできないから。」
「好きな女じゃないなら、俺は殺せる。‥好きな女がいたんだろ?兄さん。」
「ああ‥。そういうわけじゃないよ。」
土方は、糸里にもう一度くらいは会えるだろうと期待していた。でも、沖田に見破られた時、もうダメだと分かった。

4人は肩膝をつき、芹沢の暗殺に成功した事を勇に告げた。
「よし、よくやった。」
勇は赤い顔で驚いたように言った。土方は立ち上がり、勇に耳打ちをした。
『それと、沖田がお梅という芸妓一人やった。平間には逃げられましたけど。』
「お梅をぉ!?」
勇は大きな声を出した。
「だから、お梅って誰ぇ?」
左之助と敬助が言った。

「沖田、女でもやれるんだな。」
「うん‥。なんで?どうしていけないだ?」
「いや‥。相手は武器も持っていないのに。は、裸やったんやろ?」
「うん。でも、兄さんがいいって言っていたから。」
「ふーん。」
勇は腕組みをして、歳三をじろじろ見た。
「それにさ、俺の女だって、もう殺されてんだぞ。」
沖田が言った。

「ああ。お前のことはもういい。しかし、平間に逃げられた事は赦さんぞ。」
「けれど、糸里がいたんですよ。そいつを逃がしてもらったから、仕方ないじゃないですか。」
「へぇ、お前の女を?」
「うん‥。」
タタタタ‥
走る音がしたので、土方は外を見た。
「走り出したら止まらん奴らだから、仕方ないわ。」
勇が言った。

「え、糸里、殺されちゃうの?」
土方が沖田に聞いた。
「知らない。俺は、兄さんの人なら殺さないぜ。知ってんだろ?」
沖田は答えた。沖田は生意気だったが、強いので許されていた。


渋沢栄一は京都に来ていた。新選組が仲間を切腹させたようで、葬式をするために道をぞろぞろと歩いてくる。尊王攘夷を否定する言葉が書かれた旗を持っている。
もともと尊王攘夷派だった栄一は、口を抑えてぶるぶると震えた。
『尊王はヤバいぞ。攘夷派は殺されるんだな。‥し、新選組に!!』
「こわい。」
栄一はさっそく実家に報告をし、一橋慶喜に仕える事となった。



八月十八日の政変で、長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊王攘夷派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新撰組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。
1864年(元治元年)5月下旬頃、新選組は、炭薪商を経営する古高俊太郎の存在を突き止め、捕縛した。
沖田総司は男も相手にしていた。「やーれ、やれ、もっとやれー。」沖田総司は扇子を持ち、踊ったり、舞ったりした。そして、拷問の上に古高を自白させた。
「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜、松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる。」というものだった。

「切り捨て御免!!」
新撰組は簡単に人を斬った。

1864年7月8日(元治元年6月5日)亥の刻、近藤勇率いる部隊は、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。20数名の尊攘派に対し、当初踏み込んだのは、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で残りは屋外を固めた。
屋内に踏み込んだ沖田は、戦闘中に病に倒れ、戦線から離脱した。また藤堂は血液が目に入り、戦線離脱した。

裏口を守っていた新撰組のところに、土佐藩脱藩、望月亀弥太らが必死で斬りこみ逃亡。
望月は負傷しながらも必死で走り、長州藩邸まで逃延びた。
望月は口から血を流しながら、扉を叩いだ。
「おねげえです、開けてください!!おねげえいたします!!」
しかし、長州藩邸は扉を開けなかった。

門の内側では槍を構え、応戦に備えていた。
「うわああ‥。」
望月は自刀した。

新撰組は、一時は近藤・永倉の2人となるが土方歳三の部隊の到着により、戦局は新選組に有利に傾き、方針を、「斬り捨て」から「捕縛」に変更した。9名討ち取り4名捕縛の戦果を挙げた時、会津・桑名藩の応援が到着した。
土方は手柄を横取りさせないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。

近藤勇は目を開けたままの死体をちらりと見て、気まずそうに目をふせた。新撰組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機した。
沖田総司は仲間にはさまれて、白い顔でぶるぶる震えている。死体の中には、前に優しくしてくれた大人の男もいたのだ。
近藤勇は腕組みをして、不信そうに沖田を見た。何ももらしていないのを不思議に思った。人殺しをした後は必ずイライラしてしまう。本当は斬り捨てた後、潔く去るのが理想だった。父親もそうしていた。
祖父は首をちょん切られて死んでいる。反逆で処刑されたのだ。昔、酒に酔った父親が赤い顔で話していた。父親は楽しそうに笑っていて、子供ン時の自分はそれがなんだか情けなくて、家の影で泣いた。その時、黒い犬が見ていたような気がする。

新撰組は、死体がゴロがる池田屋で寝た。近藤は横になって眠り、目の前に死体がいる夢を見て、声をあげて目をさますと明け方だった。
辺りは明るかった。沖田たちは座ったまま眠っている。
近藤は10分ほど眠った後、「おい。」と言って、足元に転がる死体を足で小突いた。
仲間の遺体にはしっかりと布がかけられている。
潔く寝ている紳士を、仲間に入れたかった。

仲間が目覚め、おしゃべりを始めた。勇はまだ、狸寝入りをしている。
「いさ。」
仲間の一人が呼び、沖田と土方が睨んだ。
「局長、起きなよ!」
結局、沖田が言った。

「あー、眠れんかった。」
そう言って、勇は体を起こした。
「ぐっすり眠ってたやん。」
2人の仲間が目を丸くして、笑い始めた。
『きもくせぇ。』『小便くせぇ!!』
近藤は声を出さずに言い、口を横に広げて、鬼の目で死体に向かって怒鳴った。
「何?」
仲間が聞いた。
「いや、なんでも。」

「ちょっと小便してくら。」
『朝飯どうするかい?』
勇は口をつぐんだ。
「あー、くらくらする。」
空腹で頭と体がからっぽになっていた。

壁に腕をつき、その上に額をのせた。用を足す準備をする。あの場でもらしてもかまわなかった。いや、一度してしまった気がするが、もうその形跡はなかった。
小便の湯気が顔にかかる。
「アー俺ぁ、小便くせぇわ。」
用をすませると、一気に情けなさがこみあげて、赤い顔で泣いた。
そして、涙を拭き、赤い厳しい顔で、仲間の元に戻った。

朝飯はどこで食べたか覚えていない。確か、土方が持っていた甘いヤツだけを口にふくみ、噛み砕いた気がする。アン時ァ、昼過ぎまで何も食べれんかった。
みんな怖がって、作り笑いをしておったわ。そして、店の中に向かい入れた。
誰も毒殺なんて、企んでおらん。


桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており、難を逃れた。談話中に外の騒ぎで異変に気づいた桂は、現場に駆け付けようとしたが、大島に制止されたため思いとどまった。


新撰組はこの日までにたくさんの仲間を暗殺してきた。後になって、『しまった』と思う事もある。新選組は息一つせず隠れるのがすごくうまかった。それができない男などいらないほどに。そして、背後から襲うのが新撰組の暗殺の手段だった。


一橋慶喜の下に、池田屋事件の連絡が入る少し前から、慶喜は新撰組についてぼんやりと考えていた。
『新選組の組長って、坂本龍馬でしたっけ‥?』

町娘の雪愛は、馬に乗った慶喜を見た瞬間から、運命的な物を感じていた。時々、正室の美賀子になる事がある。雪愛は城を眺め、池田屋事件を起こした新撰組について想った。
『あなたのためよ、ケイキさん。新選組は、あなたのためにそれをやったの。』
「新選組の組長は、坂本龍馬さんでしたっけ?」
「え?」
雪愛は辺りを見回した。慶喜からのメッセージが届いたと分かり、心が温かくなった。
『もう池田屋事件の事を聞いたのかな?』
雪愛は嬉しくなって、駆け出した。
坂本龍馬には前に会った事がある。雪愛が働いているお茶屋に来たのだ。今風の良い感じの男だった。椅子に軽く腰を下ろして、お茶と和菓子を注文し、食べた後に、腕組みをして町を眺めていた。長居してほしかったが、10分ほどで町を出てしまった。

雪愛は夜、「新選組の組長は龍ちゃんじゃないわ。もっと強い男の人よ。」と、いないはずの慶喜相手に一人芝居をした。その時、慶喜は池田屋事件について聞かされていた。
雪愛は楽しい夜を、慶喜は深刻な夜を迎えている。しかし、布団の中では慶喜にも、雪愛のあまえた声が届き、一瞬だけ、優しい気持ちになれる。

翌朝、慶喜は会議をする事になった。美賀子をちらりと見る。美賀子も慶喜がこちらを求めるように見てきたので、驚いてまゆをあげた。慶喜は、美賀子は雪愛が昨日言った言葉をかけるのではないかと心配した。でも、そうやって気分を晴らして、庶民の夫婦を演じられれば面白い。『こんなの贅沢だ。』そう言って、家来が慶喜の着物を蹴るのを見た。
こんな暮らしをしているので、庶民を演じられない。
緊張の瞬間が続いて、汗がにじみ出る。黒ひげだらけの小柄な家来は、口から泡を吹く寸前でかなり動揺しながら、慶喜に話しかけた。
「どういたしましょう、殿。」
『お前、よくそんなんで、この職についておるな。』
でも‥。慶喜はその男が、切腹させられる時の事を想像した。なんとかやってのけられる男であるが、口ひげをそればおしまいだ‥。一度、美賀子が切腹をする時の想像をした。なんとも立派な物で、それで、少し好きになった。
『守りたい。』
黒ひげだらけの男が言った。
「殿、なんとか言ってください。」
「ええと‥。焼き討ちにするか?」
「ええ‥。」
家来がどよめいた。
ガラガラ
「失礼いたしやす。ずいぶん遅れてしまいやした。」
西郷隆盛である。
「西郷さん、今、殿下が焼き討ちと‥。」
家来の一人が隆盛に耳打ちをし、西郷隆盛は慶喜をまっすぐ見た。
「それでようござんす。」
隆盛は言った。

禁門の変は、池田屋事件で襲撃を受けた長州藩と、江戸幕府・新選組の戦いである。
長州藩の指導者の中には、久坂玄瑞(吉田松陰の妹の夫)もいた。
1864年8月20日(元治元年7月19日)の出来事である。
戦闘そのものは一日で終わったものの、長州藩屋敷と中立売御門付近の家屋から火があがった。
もちろん慶喜はその場にはいなかったが、火を放つ現場に、隆盛はいた。
この大火「どんどん焼け」により、京都市街地は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。
有名な寺院では、東本願寺、本能寺、六角堂が焼失している。
京都が焼ける姿を見た隆盛は、煙で大きくむせこみ、手で口を抑えて、涙をながした。憐れな青年だった頃の顔に戻り、悲しい気持ちで炎を見上げた。
女子を炎の中からさらって持ってきたい、ああ、そうやって自由にできたのなら。本能寺が焼けたと聞いて、一度この目で見たかったと思う自分がいて、よけいに涙が出た。

隆盛は死んだ後に天国から一度降ろしてもらって、この世にきた。もう一度あの人に出会えるのかと菩薩に聞いたが、許してはくれなかった。一人でじめじめした山の寺院に来て、祈らねばならなかった。その後で赤い鳥居を見て祈った時に、あらためて自分の命の意味が分かり泣いた。
『わしは、あの時の事で、許してもらえなかっただねぇ‥。』
『よけいにわしはくだらなく思えてくる‥。』
『神さん、あんたがたの事だよ。』
隆盛は赤い目で神社を指さした。


1864年9月、「新選組局長近藤勇と沖田総司を向かい入れよ。」
慶喜は栄一に命じた。『え‥?沖田総司?沖田総司って誰だ?確か、新選組の二番は土方歳三のはずだぞ。』
「ええでも、殿。エー・・、近藤の右腕は土方では?」
「そう聞いておる。でも、活躍したのは沖田の方が多いから沖田だけでよい。」
『ええ‥。』

「あああ!」
栄一は新選組の本部に行かねばならない上に、二番の土方を抑えて、沖田だけを慶喜に会わせる事を近藤に告げなければならず、とても苦しい思いをした。
『もう最悪だ。本当に最悪だ。誰かの家来になるのなんか、これで終わりにしてやる!!』

「ちくしょう‥!!」
当日が来た。栄一は近藤に会った。
「会ってみると存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣などは無く、よく事理の解る人であった。しかし近藤は飽くまで薩摩を嫌いな人で、薩州人とは俱に天を戴かざる概を示しておったものだから、薩州人に対してのみは過激な態度を取ったりなぞしたので、一件暴虎馮河の士の如くに世間から誤解せらるようにもなったのである。」
1866年12月5日、慶喜は将軍職につく。

1865年2月、山南敬助は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませた。新選組の法度で脱走は切腹とされており、勇と土方は直ちに沖田を追手として差し向けた。
大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻された。
2月23日、切腹。介錯は山南の希望により、沖田が務めた。

1867年10月13日、公武合体の考えを捨てた下級公家の岩倉具視らの働きかけにより、倒幕及び会津桑名討伐の密勅が下る。この動きに対し、翌14日、徳川慶喜は大政奉還を上表した。
武力倒幕の大義名分を失った薩摩藩の西郷隆盛は、浪人を使い江戸市内を攪乱させ、旧幕府を挑発することによって、旧幕府側から戦端を開かせようと画策した。

11月15日、坂本龍馬が暗殺される。
朝、新選組にも知らせが入った。勇たちは夢の続きを見ているかのようだった。夢の中で、自分達が坂本を暗殺したのだ。
「手柄は入らない候。」
沖田が言うと、「まあ、ええやん。」勇が笑った。
土方が言った。
「坂本龍馬なんて名前、聞いたこともねえ。」
「俺は知っとったぞ。へこへこしとって、女っちゅう噂やったから、目ぇつけへんかったんよ。」
「剣術が弱いと聞いてましたわい。だから、うち、勝負ならんと思って、命狙わんかったんです。」
沖田が言った。

12月18日、沖田総司が療養のため滞在していた近藤の妾宅を、元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃した。前月に彼らの指導的立場であった伊藤甲子太郎を殺害した新選組への報復だが、沖田は伏見奉行所へ出立した後で、難を逃れた。阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を狙撃し、重傷を負わせる。

12月23日夜、エスカレートしていた薩摩藩の浪人たちの挑発行為で、江戸城二ノ丸が炎上し、遂に堪りかねた旧幕府側は薩摩藩上屋敷の浪人処分を決定し、12月25日に薩摩藩に浪人たちの引き渡しを求めたが、薩摩側が拒絶したため、庄内藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。
この報が、28日に大阪城に移っていた慶喜の下に届くと、「薩摩討つべし。」慶喜は言った。
慶喜は隆盛の事を思い出しては、気味悪がった。

同じく28日、京都にいる西郷隆盛は、退助あてに、「討幕の開戦近し」の伝令を出した。

1868年元日、慶喜は「討薩表」を発し、朝廷への訴えと薩摩勢討滅のため、2日から3日にかけて京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の軍勢を進軍させた。
1月3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。
戊辰戦争の初戦となった「鳥羽・伏見の戦い」である。

3日、朝廷では緊急会議が召集された。大久保利通は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張したが、春獄は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。

鳥羽・伏見の戦いの結果は新政府軍の勝利であるが、これは新政府軍が圧倒的な重火器を擁していたことが大きい。

1月7日、朝廷より「徳川慶喜追討」の勅が出され、これに対抗する勢力は「朝敵」であるとの公式な判断が下った。

1月10日、慶喜、松平容保、松平定敬をはじめ幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を処分するなどの処分を行った。

1月11日、慶喜は品川に到着する。12日、江戸城西の丸に入り、今後の対策を練った。

1月13日、迅衝隊は土佐城下致道館前で出動祈願を行う。その最中も土佐藩門閥派の重鎮・寺村左膳らが「行ってはならぬ」と止めに入るが、それらの制止を振り切って出陣。その直後、「讃岐高松、伊予松山両藩及び天領川之江征討」の勅を拝し「錦の御旗」を授けられた。皇威を畏み、正式に官軍としての命を奉じ、また、いよいよ坂本龍馬、中岡慎太郎らの仇討ちができると喜び勇んで進軍した。迅衝隊が高松、松山に到着すると両藩は朝敵となることを恐れて一戦も交える事なく降伏した為、無血開城となるが、その最中も京都からは佐幕派の土佐藩士らの妨害から進軍を阻止する伝令が出された。しかし情報を得て川路、陸路の食い違いから、阻止派の動向を巧みにかわして京都への上洛をはたす。
山内容堂は当初、鳥羽・伏見の戦いを私闘と見做し土佐藩士の参戦を制止したが、「薩土討幕の密約」に基づいて初戦から参戦した者が数多くおり、追討の勅が下がった後は、もはや勤皇に尽すべしと意を決した。京都で在京の土佐藩士と合流した迅衝隊は、部隊を再編し軍事に精通した乾退助を大隊司令兼総督とした。退助はさらに朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられ、2月14日京都を出発し東山道を進軍した。
この京都を出発した火が乾退助の12代前の先祖とされる、板垣信方の320年目の命日にあたる為、天領である甲府城の掌握目前の美濃で、武運長久を祈念し「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」との岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。

2月28日、近藤勇は幕府から「甲陽鎮撫」を命じられ、幕府から武器弾薬を、幕府や会津藩から資金を与えられると3月、近藤は『大久保剛』の変名を用いて新選組は甲陽鎮撫隊と改名した。また、日野宿では佐藤彦五郎が一行に加わっている。
「俺達も命落とす覚悟しておかなければ。」
土方は言い、勇はうなずいた。新撰組の名と自分の名を改名することで、自分によくしてくれた人達に迷惑がかかるのをやめさせたかった。

3月4日花咲宿にて、勇は可愛い娘と出会う。妻ツネの事はいつでも思い出していたが、戦いですさんだ男の心は癒された。娘も勇に声をかけられることを期待したが、板垣退助の率いる迅衝隊が甲府を制圧した連絡が入ってしまった。
近藤はハチマキをつけ、娘をじろりと睨むと、戦いに向かった。隣にいる沖田総司は娘をちらりと見もしない。土方も娘の存在など完全に無視をした感じで、ハチマキを強く巻きなおした。
『下流なのかな‥。』
娘は足元を見た。
「サチ、うちも危ないので、もう逃げますよ。」
母が言った。
「え?」
「うちは新選組を泊めたから、きっと狙われる。」
「ああ、はい。」
サチは素直に寺に逃げた。

土方は馬に乗り、援軍要請に向かったが成功しなかった。
3月6日に勃発した甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で迅衝隊と戦うが破れて敗走する。
勇らは敗走し、3月8日には八王子宿において江戸引き上げ宣言した。この頃、永倉新八、原田左之助らは勢力を結集して会津において再起を図る計画を立て、3月11日には江戸和泉橋医学所において勇と面会するが、勇は永倉・原田らの計画に対して勇の家臣となる条件を提示したため両者は決裂し、永倉・原田は離脱した。勇・土方は会津行きに備えて隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田で募集し、隊士は227名に増加した。
勇は変名をさらに『大久保大和』と改めた。

4月には下総国流山市に屯集するが、新政府軍は3月13日にすでに板橋宿に入っていた。
新政府軍は流山に集結した新選組が背後を襲う計画を知る。新選組側に、新政府軍のスパイが混ざっていたのだ。大久保が近藤勇だとバレ、そのため総督府が置かれた板橋宿まで勇は連行されてしまう。
「だからー、ちがうって言っているやろ。」
「うーん。それもちがう。俺はぜんぜん分からない。」
「あのぉ、もうやめてくれませんか?知らないって何度も言っているでしょう。」
バン
「なんなんですか!僕の父は農家でノミを扱っていたんですよぉ!!」
勇は幽閉され、連日取り調べが行われたが、勇は大久保の名を貫き通した。
「僕は大久保ですけど、幕府軍の大久保さんとは違う男です。」
「あー。家は京都ですけど、ドンドン焼きでね、焼けちゃいましたぁ。」

幽閉されている牢屋に、かつての仲間が会いに来る。
「わしちゃん‥。」
「ほらぁ!!やっぱり、近藤勇じゃないかぁ!!」
「きよちゃん。ちがう。俺は本当に近藤勇じゃないんだよ。」
「わからない!!俺たちに向かって威張り腐っていたあの近藤局長だろう!!」
「2人とも、お願い。この事は誰にも言わんといて。」
近藤は手をのばして、仲間の手を握った。
一瞬ひるんだが、2人は大きな声を出した。
「汚らわしい!!」
「二度とさわらないでくれ!!」


土方は江戸に向かい、勝海舟らに直談判し、勇の助命を嘆願した。
「お願いです、勝さん。近藤局長の処刑を取りやめてもらえませんか?」
「それは、できん。」
「なぜですか?」
膝をつき、手をすり合わせていた土方は立ち上がった。
「あの男がいくら人を殺したのか分かっとるのか?」
「は?言っている意味が分かりません。局長は幕府のために戦ったんですよ。」

「気味悪ぃ。」
土方はそう吐き捨て、屋敷を出た。

土方は新選組を斉藤一改め山口二郎に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大島圭介らが率いる旧幕府軍と合流。4月11日に江戸開城が成立すると江戸を脱走し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。
下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。しかし壬生の戦いに敗れ、新政府軍と宇都宮で再戦した際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送される事となった。


土佐藩と薩摩藩との間で、勇の処遇をめぐり対立が生じたが、結局土佐藩が押し切った。


4月25日、処刑当日までの間、勇は妻あてに手紙を書いて過ごしていた。書いた手紙を目の前で、看守がビリビリに破いた事もある。手紙は全て燃やされてしまっている事は、聞こえてくる笑い声で知っていた。
『ツネ、俺の事、最後まで愛してくれるやろう?』
『もちろんよ、あなた。』
勇とツネは心の中でいつでも愛し合った。

「本当に、俺はお前だけなんやから。」

外で女と男の大きな声がして、その後、赤い顔の看守が俺の様子を見に来た。
きっと、ツネが会いにきたんとちゃう?ついに、看守に言い出せなかった。
俺の女の哀れな事を、どんなに憐れで可哀想かという事を、聞きたくなかったんぜよ。
この頃俺は、命が恋しくて、デタラメな長州弁を使うようになっておった。こんな事になるんなら、もっとしっかりと、あいつらの話に耳を傾けるべきだったわい。

「ツネにも男がついておる、よかったわ。」

絶対に来ないと恐れていた4月25日の朝が来て、看守が迎えに来た前で、勇は牢屋の中で後ろを向き、いないはずのツネに向かって話しかけた。
「ツネ、本当にお前は最高の女だった。」
「そんなこと言わんといて~。」
勇は口にグーを当てて、空笑いをしてみせた。
「あれぇ、ツネ、お前はこんなに小さかったかのぉ。」
「ほんまに、可愛らしゅう。」

「もう、よいか?」
「え?まだ‥。」
「ならば、よし。」
勇は連行された。

勇は白い服に着替えなければならず、お坊さんのような人が手伝った。
お坊さんは足袋をはかせてくれた。勇は良い気持ちになった。
板橋刑場には、醜い遺体がたくさん置いてある。
『みんな同じよ、局長。みんな同じ。同じ。ね。』
沖田総司の声がする。
『打ち首かぁ~‥。ううう。』
土方歳三が身震いをするのが見える。
『局長、亡くなったら、俺の事を守ってね。』
「最後は勇でいい。」
『勇。死んだ後は、俺たちのことをよろしく。』
「分かった。」
『今までありがとう。愛してた。』
「ずっと一緒だぞ。」
『うん、永遠にね。』

「最後はやっぱり男かよ。」

「ん?」
勇は執行人の男が昔処刑した仲間に見えた。心のどこかでは、処刑してあげれば俺たちのようなヤクザではなく、立派な人物に生まれ変われると思っていた。
もう一度見上げると、看守は別の男だった。

退助は、憎き鬼、近藤勇の最後を見届けに行くか悩んだ。これから立派な大将になるんだから、処刑くらい見に行かないといけない気がした。盗人の処刑を見てもつまらない。でも、近藤勇なら。近藤勇の命が枯れる所を見て見たかった。近藤勇の赤い血がほしかった。
こんなに立派な剣士の処刑は二度と拝めないだろう。
退助は刀を置き、命を投げだすつもりで、よろよろと立ち上がった。

わぁー!わぁー!
野次馬がたかっている。女や子供までいた。
退助は白い襦袢姿でよろよろと、野次馬の後ろについた。

勇は切腹用の剣が置いてあることを驚いた。今まで、手下たちが勝手に切腹なしで打ち首にしたことがあったのだ。それでもべつによかった。
『手が汚れずに済んだのに。』

勇は最後に女について想いたかった。今まで愛した女とツネの事を想い、短刀を手にとった。短刀をしげしげと眺め、前に使った男の事を想った。すると涙がこぼれ、刃の先に雫が落ちた。
やっぱり、新選組の仲間の事を思い出した。池田屋で死んだ男も思い出した。
次に、この刀を使う男の事を想った。
『俺が先にいってやるでな。』
勇は腹を一文字にかき切った。
一秒、二秒‥、そんなもんだったわ。もう少し、苦しませてほしかったけれど、倒れ込んだら、もうおしまいや。以前な、介錯に失敗して、切腹した男と目が合ってしまってな、男が首を振ったんで、布団に寝かせて、3日目に死なせたんよ。それで、女が会いに来て、男も意識があったんで、手をとりあって、最後のお別れをしたらしいよ。そんな事があったらしいわ。
すぐに介錯が入った。上手かったわ。
仕方ないぜよ。

退助は勇が首をはねられる姿を見た。みんな声も出なかった。
ピョーンと飛んで、それでおしまいだった。

勇の首は、京都の三条河原で、粘度で固定されてさらし首になった。
みんなが見物に来たが、多くの人が白い花を持ってきた。
近藤の首は美しかった。凜と目と口を結んでいた。黒い髪の毛はたなびき、額に巻いた透明な白いたすきには、大日本帝国と書かれていた。

「うんと綺麗だよ、勇さん。見に行っておいで。」
ツネの所に知らせが入った。
「大丈夫、恐くないから。」

勇と会った事もある芸妓でさえ、お花を置きにきていた。
「あたいの事、お気にでしょ?ねぇ、いさちゃん。」
芸妓たちは白くて細い指で、勇の頬に触れた。

ツネは、勇の首が綺麗だと言われた事がショックだった。
「わいだけの、勇でいて‥!!」
ツネは勇の首の所まで走った。ツネがつくと、勇は黒目を開き、口を半開きにし、かけた歯をのぞかせた。
ツネは勇の首を盗んで、風呂敷に包み、家に帰った。

ツネは勇の首を枕元に置き、眠りにつくと、勇に抱きしめられているような心持がした。

新選組が、ハチマキと水色の正装で勇の首を見に来た。夢の中で、土方と沖田も来た。
「いざ。」
新選組がカゴを開けると、勇の首がなかったので、みんな慌てふためいた。そして、走り出す。どこなのか、見当はついていた。

「ツネー!!!!」
土方は激走した。土方と沖田たちがツネの寝床に押し入り、勇の首を奪った。
その時には、美しい勇に戻っていた。

目を覚ましたツネは、勇の首が消えていたので、ハッとした。
「なぜないの?」
「もういいから。ツネはしっかり休みなさい。」
ツネの世話人が言った。
「土方さんが来たの?」
「そう。新撰組が全員で押し掛けてきたんだぞ。」
「そうなんだ。」

『土方が来たから、喜んでいる。仕方ない女やのぉ。俺のツネは。』



1882年4月6日午後6時半ごろ、退助は帰途につこうと中教院の玄関の階段を下りた。
「将来の賊―!!!」
退助は短刀で左胸を刺された。そして、次に腹を刺そうとする犯人の腕をつかんだ。

「板垣死すとも、自由は死せず。」

相手は目を見開いた。
そして、退助の仲間が来て、犯人を取り押さえた。

1868年、泣きはらした後の新選組は寺で話していた。天寧寺に勇の墓を建てたのだ。
「俺達が盗んだのならまだしも、ツネに盗まれるとはな。」
「本当、まさかですよねぇ。」
「愛には叶わんね。」
腕組みをした土方が言った。

その頃、沖田総司は幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われていた。
沖田総司は剣の達人だった。日野の八坂神社に奉納された天然理心流の額には、4代目を継ぐことが決まっていた近藤勇より前に沖田の名前が記載されている。
沖田の剣技で有名なのが「三段突き」であり、平晴眼の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出した。

書き物をしている松本に、沖田が声をかけた。
「局長、死んじゃったんだろ。首をはねられてさ。」
松本は何も答えず、うなだれた。
沖田は、畳の縁を歩いている。
「そんな所、歩いちゃ危ないよ。」
松本は声をかけた。
「大丈夫。」
沖田は歩き続けた。
「別に危なくないか。」‥『なぜ危ないと言ったんだ?』
松本は首をかしげた。

「局長さ、歌とか書いたのかなぁ?」
「さあ。歌って、辞世の事?」
「うん。」
「まぁ、書けないでしょう。近藤さんには。」

「なんでそんな事言うの?」
「いや‥。」
松本は書き物をしながら、首をかしげた。

孤軍援け絶えて俘囚となる 顧みて君恩を思へば涙 更に流る

一片の丹衷 能く節に殉ず 睢陽は千古是れ吾が儔

他に靡き今日復た何をか言はん 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん電光三尺の剣 只に一死をもって君恩に報いん

「これ、書いた。局長のために。」
沖田は勇の辞世を書いて持ってきた。
「なんでこんな事を。やらなくていい。」
松本は辞世をゴミ箱に捨てようとした。
「嫌!何するの?」
「これさ、あんたの詩だろ。近藤さんなんかもう死んでるから、こういうことはやらないでちょうだい。」
沖田は背を向けて、泣いているようだった。
今まで人を50人殺した男がこんな事で泣くか?普通‥。
「総ちゃん。」
松本が声をかけた。
「いい!」
沖田は布団に行き、猥褻な書を読んでいるようだった。
松本は、沖田の事が可愛くて手放せなかった。もうこの男には人を殺す力はない。

「先生、一生のお願いです。僕が死んだら、局長の便りを預かっていたと言って、この辞世を局長の物としてください。」
沖田は言い、松本は黙って沖田を見つめた。
「これが唯一の、僕の遺言です。だから‥。」
「あんたは最後まで師匠を思うんだな。」
「はい。」

庭に黒猫が来る。誰もいない時は、よく俺に話をした。
「それがしの名は黒ベえ。そなたの名を何と申す。」
「それがしは、沖田総司と言います。」
「へえ、良い名だ。よろしくな。」
「よろしくって‥どうして?」『人殺しの依頼かな。』
「友達としてだよ。」
黒べえは垣根に登り、消えてしまった。

黒べえはまた来た。俺は刀を持ち、待ち構えた。
にんまりと笑い、黒ベえをなでる。
黒ベえはごくりと唾を飲み、沖田をまっすぐ見た。
「それがしはただ、総司と地獄の話がしたかっただけだよ。」
「地獄なんていいんだよ。俺には関係ない所だから。殺された人が行く所だからね。」
「総司は変わっちゃったな。子供の頃とは全くちがう。」
「子供の頃の俺なんて、どうして知っているの?」
「川でなでてもらった事があるから。」
黒べえは言い、沖田はあの時の事を思い出した。
「ああ、お前、あの時の子猫かぁ!」
「うん。」
沖田は黒ベえを抱っこした。黒ベえは驚いた顔をして持ちあげられる。もうすぐ死ぬというのに、沖田に猫を抱くほどの力が残っていると思わなかった。
沖田は黒べえを抱きながら言った。
「あの頃の事はね、ほとんど覚えていないんだ。その時一緒にいた男も、もう戦争で死んでしまったから。」
「総司とあいつらはずっと仲間だったの?」
「ううん。あいつらは攘夷派だったから、敵になっちゃったんだよ。」

「俺にはもっと良い仲間がいたんだ。一人はもう死んでしまったけど。」
「そうなんだ。総司はさみしいんだな。」
「うん、もう誰も見舞いにきてくれない。」
『俺が殺したからさ。』
総司は黒ベえを抱きしめると、涙を流した。

「じゃあもう行くぜよ。」
「うん、さいなら。」
総司は笑顔で黒ベえにお別れを言うが、後ろを向くと、自分の中から冷徹な鬼が顔を出した。そういうのが本当に辛かった。
また黒ベえが来たが、総司の中に冷徹な鬼が顔を出したままだった。
松本の前でも、総司は冷酷な目をすることがあり、松本は内心、沖田に剣を握らせればまずいのではないかと自分の身を心配した。でも、剣は置き場所に置いてある。沖田が剣さえ持たなければ、力では自分の方が上だ。夕食は美味しい物を用意した。すると、総司は笑顔を見せ、機嫌をよくした。

黒ベえはまた来店した。そして、総司は冷徹な鬼の目を向けた。剣を持つことは禁止されている。黒ベえは遊びを提案した。総司は、最初は冷酷な目で笑っていたが、黒ベえが提案した遊びをしているうちに本当に元気になった。

最後に黒ベえが来た時、総司はまた冷酷な目をしていた。
「剣を持っていいよ。」
「ええ、でも、もう俺は持てないから。婆さんが持っちゃダメだって。」
「いいさ。ほら。」
黒ベえはまじないで、総司に剣を持たせた。
「俺を斬ってごらん。」
黒ベえはぴょんぴょんと飛び回る。総司は瞳孔を開かせて、剣を振り下ろしたが、一向に斬れない。
「総ちゃん?」
総司が何度か剣を振り下ろしている間に、松本の妻が帰ってきた。
「危ないじゃない、刀なんか持っちゃ。」
「え‥。」
「ダメ、刀はしまいなさい。」
「でも‥。」
もう一度、総司は刀を振り下ろした。
「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ。」

刀をしまった総司は、ぼんやりと黒ベえを抱いた。
「全然ダメだったな。」
「うん、全然切れなかった。」
総司は空を見上げた。
「でも、俺は安心したんだ。死ぬ間際の総司が、自分で自分を斬っちゃうんじゃないか心配していたから。」
「大丈夫、斬らないさ。自分で自分を斬れば、もう人を斬れなくなってしまう。」
やはり、最後に沖田は冷酷な目をした。
沖田の死は真夜中に来た。松本も薄々感づいたが、体が動かなかった。
沖田が今まで犯した数々の殺人を思い出すと、恐かった。
あの愛しの総ちゃんが‥。松本の目から涙がこぼれ、体は温かくなり、松本は起き上がった。

総司の下に阿弥陀如来は来ない。金の蓮華だけが現れた。しかし、どこかさびている感じがする。沖田は乗るのをためらったが、「にゃ~ん。」という少し気味の悪い黒ベえの声がして、体が動かされた。沖田は胸が痛かった。
「新選組一番隊隊長、沖田総司!」
見上げると、局長がいた。
「よく頑張ったな。」
局長は笑い、総司を金の蓮華に載せた。

総司の息を確認した松本は妻と共に泣き崩れた。

金の蓮華の旅は楽しかった。思うより長く、旅をしたと思う。局長の霊はすぐに消えてしまい、黒ベえと一緒に旅をした。局長に対し、『消えてしまえ。』とも言った。
地獄の渦の上に来た時、とても疲れていた。地獄の悪魔が、総司を蓮華から落とそうとしている。すると、声が聞こえてきた。

「少し休ませてやれ。」

その声はお釈迦様の声だった。今まであんなに嫌いだった人の声だ。でも、自分を助けてくれるのはお釈迦様しかいなかった。
だから、信じて従うことにした。
それで幸せになれるのなら。

総司の魂は休み、お釈迦様の指示に従い、地獄の渦の中に落ちていった。


『水の北 山の南や 春の月』
好きだった人を殺した。春の月がまだ出ない頃である。土方は切腹へと向かう山南の猫背を忘れられなかった。
天保6年5月5日生まれの薔薇餓鬼は、新撰組の二番になった。

天の世界ではツボミという女神がもうすぐ人間になると言われていた。菩薩様と共に人間の様子を眺めている。
「人間になればどんな問題が起こりますの?」
「まずはそなたの体が痛んだり、心が苦しくなったりする。」
「体が痛むのは問題ありませんわ。私は何度だって治療をしていますもの。心の痛みは心配ですわ、いまだ未経験なんですから。」
「心が痛むのは、人を愛した時だよ。」

「さっきから何をご覧になっているの?」
「日本の様子さ。そなたも降りる事になる。」
「素敵ね。美しいサムライさんだわ。もしも人間を愛するなら‥あんな方がいいでしょうね。」
「よしておけ。そなたには向かん。」
「あら、私が愛する人まで、菩薩が決めるのですか?」
「いや、そうではないけど‥。」
「私、行って見てきますわ。」
ツボミは飛び立った。


新選組の副長、土方歳三は少し笑いながら木箱を持ち、走っていた。多数の女性からの恋文を親戚の家に送るのだ。
「へぇ、それで。これ何だい?」
「大事な物だよ。俺にとってはね。」
土方は満面の笑みを見せた。

ふわふわと飛び、土方を眺めていたツボミは、ふわりと地上に降り立ち、土方にピッタリとついて歩き出した。土方にはツボミの姿は見えないが、土方は頭をかいた。

ツボミはずっと土方を見守ることにした。池田屋事件の後、沖田総司は吹っ切れたように土方について一人で話すようになった。沖田はもう少し女について知りたかったが、許されない。しかし、兄さんは‥、どこかで隠れて女を抱いているようだった。
沖田は一人で話した。
「お前、土方歳三さんの何がいいんだ?あの人な、剣は結構弱いぜ。剣だけでやり合えれば、俺の方が上だけどさ、あの人は卑屈なんだよ。おい、卑屈。目に砂をかけたりさ、血をながして倒れ込んだ敵の首を絞めて殺したりさ。そんな事なんてしていいか?ある時は、こうだぜ?瀕死の敵にむかって、うわぁーって。」
沖田は、土方が敵を殺す際に見せる鬼の顔をした。
『はぁ‥。』
ツボミはため息をついた。
「お前、人を愛するなら、俺にしてみろ。」
沖田は親指で自分を指した。「でも、無理だ。そんな事をしたら‥。」
沖田は立ち上がり、隠し持っている春画を見て、想像をふくらませた。しかし、ある晩、沖田はそれを燃やしてしまった。
『どうして?それをまだ見ていればいいのに。』
「ううん、見られたらおしまいだ。俺昨日、三人もやったんだぜ。」
『大丈夫?』
「うん‥。小寅。」
沖田はそう言って一人芝居を始めたので、ツボミは土方を見に行くことにした。

土方は女といた。時には女二人といることもある。土方の手は温かすぎず、白くて太い指だった。その手と握り合っても決して愛を感じられない。土方の吐息を感じ、女はようやく愛を感じられた。土方は女に相応な事をし、自分は脱がなかった。脱いだら立派なものだ。女はどうやっても土方を脱がせたがる。しかし、土方はもう一度キスをした。土方の温もりを感じた女は真顔になり、倒れ込む。口の周りにはべたべたとした土方の透明な唾液がついている。
土方は気にせず、女にまたがり何度かキスをし、服の上から何度か繰り返した。女だけはみだらだったのかもしれない。土方は絶対に脱がなかった。
鬼の土方が超歴史的人物になった理由は強いだけではなく、女に自分の異物をくわえさせなかったことにある。近藤・沖田も同じ理由を持っていた。

しかし、ツボミという御守りがついていなければ、土方が戊辰戦争最後の戦いまで生き延びることは不可能だった。近藤・沖田が貞操を守っていた頃に、土方はまだ女の吐息を感じていたのだから、2人に追いつくためには、生き延びる事が必要だった。

勇の死から3カ月後、足の怪我から全快して戦線に復帰し、会津の防戦に尽力するが、8月に母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。歳三は援軍を求めて庄内藩に向かうが、すでに新政府軍への恭順に転じていた庄内藩においては入城さえ叶わなかった。歳三は会津から仙台藩へ向かうことを決めた。
土方は、会津藩領では新選組に復帰していなかった。そして、城下に残る山口らと、仙台へ天寧寺から離脱した隊士たちとに新選組は分裂する。

土方は仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。榎本とともに奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。まもなく奥羽越列藩同盟が崩壊し、同盟藩が次々と新政府軍に降伏したあとは、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らとともに10月12日仙台折浜を出航し、蝦夷地に渡った。
10月20日、蝦夷地鷲ノ木に上陸後、歳三は間道軍総督になり五稜郭へ向かった。新選組は総督大鳥圭介のもとで本道を進んだが、歳三には島田魁ら数名の新選組隊士が常に従っていたという。

ツボミは歳三に話しかけた。
『大丈夫?ケガしてない?』
「うん。大丈夫だけど、もしも俺がケガしてたら、治してくれるんすか?」
『うん。』
「え?じゃ、これ。」
ツボミは土方の足の怪我を消した。
「ありがとう。お前、使えんだな。」
『ええ。私はあなたの御守りよ。』
「ひどい。」
土方はツボミの言葉に笑った。

「よくそういう言葉を平気で言えるもんだよな。」
土方はなんとなく深い優しさを持っている男で、ツボミが消えた後もツボミに話しかけた。

箱館・五稜郭を占領後、歳三は額兵隊などを率いて松前へ進軍して松前城を陥落させ、残兵を江差まで追撃した。このとき、榎本武陽は土方軍を海から援護するため、軍艦「開陽丸」で江差沖へ向かったが、暴風雨に遭い座礁。江差に上陸して開陽丸の沈没していく姿を見守っていた榎本と歳三は、そばにあった松の木を叩いて嘆き合ったと言われ、今でもその「嘆きの松」が残っている。江差を無事に占領した歳三は、松前城へ一度戻り、12月15日に榎本が各国領事を招待して催した蝦夷地平定祝賀会に合わせて五稜郭へ凱旋した。

その後、幹部を決定する選挙が行われ、榎本を総裁とする「蝦夷地共和国」が成立し、歳三は幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねた。箱館の地でも歳三は冷静だったという。
ツボミが歳三の胸に手をのばしても、少し赤くなる程度で、構いはしなかった。
酒を一口飲み、歳三は言った。
『何、お前死んじゃっだ?』
『誰の事を言っているの?私はあなたの恋人じゃないわよ。』
「ふーん、じゃ、いいけど。」
やっぱり、歳三は優しい所があった。

1869年1月から2月にかけては箱館・五稜郭の整備にあたり、3月には新政府襲来の情報が入ったため、歳三は新政府軍の甲鉄艦奪取を目的とした宮古湾海戦に参加。しかし作戦は不運続きで失敗。多数の死傷者が出るも、歳三は生還する。

4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。歳三は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦する。その戦闘中に新政府軍は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる行動をとった。これに土方軍の将兵は動揺したが、歳三は「本当に包囲しようとするなら、音を隠し気づかれないようにする」と冷静に状況を判断し、部下を落ち着かせた。

『よくやったな。』
「はい。」
ふいに勇の声が聞こえて、歳三は振り返った。今では自分の方が勇よりも上だと見ていたが、久しぶりに聞く勇の声に、歳三は涙が出た。

『歳三さん、これ、お酒よ。』
「おう、ありがとう。」
ツボミが持ってきたお酒を、歳三は笑顔で受け取った。

歳三は部下たちに自ら酒を振る舞って回った。
「酔って軍律を乱してもらっては困るので皆一杯だけだ。」
「ありがとう。」
部下は笑い、礼を言った。

土方軍が死守していた二股口は連戦連勝したが、もう一方の松前口が破られて退路が断たれる危険が起こったため、やむなく二股口を退却、五稜郭へ帰還した。

そして5月11日。
仕度をする土方の下へツボミがやってきた。
『今日がお別れの日よ。』
「今日は俺が死ぬ日?なんで決めんの?お前がさ。」
歳三は見えないツボミをじろりと見上げた。

歳三は鏡の前に来た。戦闘の傷で、右頬だけがこけている。
『いい男ね。歳ちゃんって。』
「そう、前の方がもっといい男だったんだぜ。‥なんであんな風にしちまったんだろうな、お前のこと。」
『大丈夫よ。』

5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣。新政府軍艦「朝陽丸」が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て「この機を逃すな」と大喝、箱館一本木関門にて陸軍奉行添役・大野右仲に命じて敗走してくる味方を押し出し、「我この柵にありて、退く者を斬らん」と宣告した。歳三は一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮をとった。

バン
大きな音だった。歳三は腹部に銃弾を受け落馬した。馬は歳三のそばに座り込み、歳三の匂いをかいだ。歳三はふいに子供の頃のことを思い出した。あの時の兄ちゃんは、田舎の賊に入って、死んじまった。父ちゃんは生まれる前からいない。打ち首とは無縁な家に生まれたから、こうして死ねる事ありがたいかもしれない。
歳三はうっすらと目を開け、曇り空を見上げた。美しくいつまでも見ていたい空だった。ふわりと雪が舞い、歳三の頬に落ちた。
こんなに痛くて無感覚になる、これが死だと分かった。人が最期に経験する感覚は無感覚なのである。

透明なツボミは、歳三にすがり泣き、天界からそれを眺めた菩薩はツボミをからかってやろうと笑った。

歳三はよく歌を書いた。そういう事が好きだった。
『鉾とりて 月見るごとに おもふ哉 あすはかばねの上に照るかと』
これは歳三の辞世の句である。

5月14日、相馬主計が新選組局長に就任し、弁天台場の新選組が降伏をする。
5月18日、旧幕府軍が降伏し、戊辰戦争は終結した。

-参考資料 Wikipedia

朝焼けや夕日の中で桜を見ると、なぜか新選組を思い出してしまう。
勇は私の手にお金を握らせた。
だから私は、この美しい人達のために、耐えなければならない。

⑱ 日清戦争
日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。

東郷平八郎は緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦、黄海開戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦第一遊撃隊司令官として澎湖諸島攻略戦に参加した。

乃木希典は1892年12月8日、10カ月の休職を経て復職し、東京の歩兵第一旅団長となった。日清戦争が始まると、10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した。
乃木率いる歩兵第1旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品港を出港して、10月24日、花園口に上陸した。11月から乃木は、破頭山、金州、産国および和尚島において戦い、11月24日には旅順要塞をわずか1日で陥落させた。
1895年、乃木は蓋平、太平山、営口および田庄台において戦った。特に蓋平での戦闘では日本の第1軍第3師団を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ、「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けた。
日清戦争終結間際の4月5日、乃木は中将に昇進して、宮城県仙台市に本営を置く第2師団の師団長となった。

1896年10月14日、乃木は台湾総督に命じられたが、1897年11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退による台湾総督の職務実行困難だった。

⑲ 日露戦争
日露戦争とは1904年2月8日から1905年9月5日にかけて大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争である。

図書館で本を借りた東郷平八郎は本が破れているのに気がつき、直すことにした。
図書館の係員は言った。
「あの、こういうのは直さなくていいですから。」
「へ?」
「ほら、二枚、貼りついちゃってる。」
「はあ、すんません。ほんまに申し訳ないです。」
「いや、いいですけど‥。」
係員は海軍の服を着た東郷という男がどれほどの男なのか観察した。
平八郎は小恥ずかしい気分で図書館から出た。
ドン
ぶつかってきたのは、桃色の着物を着た娘だった。
「ああ‥。」
「だ、大丈夫かや?」
「ええ、ありがとう。」
娘は平八郎の手をとった。
「ああ、次回からは気をつけるように。」
平八郎は何度か娘と出くわすようになるが、日露戦争に向かう事が決定する。
平八郎は一人きりの部屋で言った。
「僕のこと、好きなんですか!」
「自分のこと、愛してますか!」

「ならばついて来ないで下さい!!これから、難しい戦争をしますから。」

東郷平八郎は、旗艦「三笠」に座乗して、海軍の作戦全般を指揮する。
旅順封鎖作戦時の触雷による戦艦「初瀬」「八島」の喪失を報告されても周章狼狽せずに両艦の艦長を労い、海軍内の動揺を収めた。6月6日には大将に昇進している。


そして1905年5月27日に、ロシアのバルチック艦隊を迎撃する。
作戦会議が行われたが、一週間前になっても本筋が立たない。東郷はイラついて、拳で机を叩いた。みんなが部屋を出ていくと、東郷は落ち着いて地図を広げ、作戦を練り始めた。
途中、女神のささやきや、女性の悲鳴が聞こえたが、無視するしかなかった。霊の声が作戦を教えたが、東郷はそれをやったらダメだという説明をした。
東郷は一人で本筋を立てた。

この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。
また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。
東郷は敵前で大回頭を行うという大胆な指示を出し、海戦に勝利を納めた。
これを「トウゴウ・ターン」という。

乃木希典は第3軍司令官に任命された。乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。
『名誉の戦死を喜べ』と電報には記載されており、勝典の戦死は新聞でも報道された。
1904年6月6日、乃木は児玉源太郎と共に大将に昇進し、12日には正三位に叙せられている。
第3軍は6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回、10月26日に第2回、11月26日に第3回の総攻撃を行った。また、白襷隊ともいわれる決死隊による突撃を敢行した。

途中、作戦はうまくいかず、乃木に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2400通も届けられた。

そんな中、11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死する。
『お父さんが偉い人だからといって、お前たちが隠れるような真似があっては困る。』
乃木は息子達に、自分が先頭に立って戦えという指導をしてきた。
息子達とはよく戦争ごっこをし、乃木は味方の影に隠れる兵士のモノマネをして、息子達を笑わせた。
しかし、長男の勝典が戦死して以来、『勝典が死んで、お前まで死なれたら困る!』と保典に言い聞かせたが、保典は兄への愛を選んでしまった。
保典の戦死を知った乃木は呆然とした後に、顔を赤くしたが笑顔で言った。
「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。」

長男と次男を相次いで亡くした乃木に日本国民は大変同情し、戦後には、「一人息子と泣いてはすまぬ、二人亡くした人もある」という俗謡が流行するほどだった。

乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦だったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された。
しかし、東郷平八郎と向き合った時は辛かった。『海の東郷、陸の我。』乃木は舌で上唇をさわり、下を向いた。生えかけの頬の髭にさわると、泣きそうになってしまった。
東郷は軍人としての言葉を言い、「立派だった。」と言った。そちらの方が一つ年上だったので、少しだけ安心した。しかし、家に帰ると一人の布団の上でわあわあ泣いた。船のおもちゃをぶつけ合い、『だけど、向き合って人を殺すなんてやらないんだろう?』白髪交じりの髭に涙をこぼした。船の戦がぶつけ合いじゃないとは、知りたくはなかった。
ふいに、息子の辛い顔を思い出してしまって、よけい涙が出た。


⑳ 乃木希典
明治天皇の勅命により、乃木は軍事参議官と学習院長を兼任することとなった。学習院長は文官職であり、陸軍武官が文官職につく場合、予備役に編入される規定だったが、乃木が予備役に編入されることはなかった。

『いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ』

明治天皇は、乃木に対し、自身の子供を亡くした分、生徒らを自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれている。

乃木は生徒と寝食をともにし、駄洒落を飛ばして生徒を笑わせた。学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した。
乃木は本当に面白くて、時々つばを口の周りにこぼしていた。この人が日露戦争に行ってあんなに嫌われた人だとは信じなかった。でも、日本全員が一度嫌っておいて、息子2人を亡くした乃木を、全員また好きになったのだ。乃木はそういう人だった。
ある男子生徒が、「クソ戦争。」と言った時、乃木は顔を暗くした。そして、腕組みをして、涙をこぼした。その時、やっぱりこの人が乃木大将なんだと、皆が実感した。皆沈黙して、男子生徒を睨み小突いている時、ある女子生徒が言った。
「だけど、先生って、元帥にもなれるんでしょ?」
「いや、私はならん。」
「えー、なんでー。」
女子生徒は顔をしかめてしまった。親が昇進できないような気持ちだった。
男子生徒はあとで謝りに来た。乃木は快くそれを許した。たくさんの物を嫌い、自分がどれほど失って、人を殺してしまったか。よく一人で怒っていた。だけど、男子生徒のおかげですっきりした。

乃木は裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育係も務めた。裕仁親王は、赤坂の東宮御所から車で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導した。
乃木はそう言ってしまった後、裕仁は天皇家でそれを話すだろうと思い、恐くなった。だけど、仕方のない事だ。もしそれを続ければ、裕仁は命を狙われかねない。歩いた方が危険でない気がする。今まで、自分はたくさんの人殺しの作戦を見たし、それがどんなに卑怯でうまいのかも分かっていた。

素直に歩いて登校するようになった裕仁に、乃木は話しかけた。
「おや、ミドリムシがついているよ。」
「え?」
ミドリムシと言われて、裕仁はカメムシを想像したが、「ほら。」乃木が見せたのは、緑の幼虫だったので、裕仁はぎょっとした。
「うわ。」
「大丈夫、まだ幼いからね、刺さないよ。」
「うん‥。」
『これ、食べてもあんまり美味しくない。』
「大丈夫か!」
「ええ、平気です。」

裕仁は勉強がうまくできないが、絵は上手だった。しかし、この先何十年後かに、この子が日本を指揮すると思うと、乃木はいてもたってもいられなかった。
「お前、こんな勉強もできんか!」
「はい‥。」
「なぜだぁ!皇室にはもっと良い世話係がいるだろう!」
「うん‥。でも、ダメだから、先生に教えてもらえって。」
「ああ。こりゃ、俺でもなんともできんぞ。」
乃木は赤い顔で頭を抱えた。

裕仁は居残りで勉強をする事となり、乃木はそばの机で生徒の日記に返事を書いたりしていた。乃木がもしも現代にいれば、人生の教訓を本に書いたり、インターネットに記事を載せたりする事が好きかもしれない。
裕仁は立ち上がり、静かに乃木の下に来ると、「院長閣下、質問いいですか?」と言った。
「ええ?」
「ん。」
裕仁は口ごもり、自分の机に戻ってしまった。
「なんだ?言ってみよ。」
「えーと。」
裕仁は遠くを見て、現代風の若者の顔をしたので、乃木はつまらんと思い、裕仁の前まで歩いた。
「なんだい?ひろ。」
「んーと、先生は戦争での出来事を全て記憶していますか?」
「はい。もちろん。」
「では、この問題を解いてください。」
「だから、これは俺じゃできないって。この問題は先生が解くもんじゃなくて、お前がやるんだぞ!」
「人は気づいていない間に記憶を消してもらっています。僕はそれを知っているから、戦争に出ないように天皇になるんです。」
裕仁はついに泣きだした。
「ええと‥。お前は何を言っているんだ!こんな幼子を本気で天皇にしようなんて思っとるヤツはおらんて!」
「うん‥。でもね、人は気づかぬ間に、神様から力をいただいているんです。」
裕仁は泣いた。

乃木は考えた。確かに、今までの戦争で自分は何度も撃たれた気がする。それでもまだ生きているのは神様のおかげかもしれない。いや、でも‥。乃木は頭を抱え込んだ。神様がもしいるとするなら、なぜ俺の息子の命を奪ったんだ?『自分なら絶対大丈夫。』と信じて、陸軍大将をやったんだぞ。けれど、息子は戦死してしまった‥。
「俺の部下なら死にゃしない。」と言ったこともある。

乃木は天皇家に畏れを感じていた。過去に戦争で人殺しをして鬼になった時の記憶が現れて、冷血な目をすることがある。現代のように薬も発展していなかったので、乃木は体にたまったホコリと共に、心も弱くなっていた。
確かに、明治天皇は神様の世界から降りてきた男だと信じている。しかし、どうしても、明治天皇から神様の話を聞く事はできなかった。俺ゃ、なんだかこわくて、たずねることもせんかった。なぜ、一人で戦争をやめさせるんだ?
『は、始めたのは、貴様らの方じゃ。』
乃木は明治天皇になりきって、一人の時に言った。明治天皇が言うはずの文句を自分がいう事がある。

1912年7月30日、明治天皇は61才で崩御した。危篤状態になったときには、乃木にだけひそかに事態が知らされていたという。
乃木は正直言って、辛かった。明治天皇と乃木は、1杯だけ酒を飲んだことがある。しかし、乃木はそんなこと、他の連中と何度もやっている。戦友との酒飲みはそんなに品が良いものではなくて、にぎやかにヤクザのように笑い、盃を交わすというものだ。
たった1杯、酒を飲んだだけで、もう友達だったのか?それが分からなかった。乃木はもっといい連中を知っていた。
だから、悲しくて‥。俺ゃ、優しいので。

乃木は悲しい目をして、家の表札を外してしまった。

乃木は大粒の涙を流して、裕仁の手をにぎった。
「悲しいね。大帝が亡くなっちゃったよ。裕仁親王、これからはあなたが頑張るんだよ。」
「うん‥。」
裕仁も泣いた。

乃木は小説家の森鴎外と親交があるが、森鴎外は訳が分からない男だった。戦争に行ってきたのは皆同じだが、森の変わり方はどこかおかしかった。
「うわ。」「普通じゃない。」
2人で話している時も、横を向いてひとり言を言い出すのだ。
「君はどこか悪いんじゃないか?少し様子が変だぞ。」
「いえ、大丈夫です。あのよければ、僕の新小説を読んでください。」

1912年9月10日、乃木は裕仁に本を渡し、熟読するように言った。森鴎外の小説を読ませようという心も少しはあったが、あれではこの人の勉強にならない。
「はい。これはすごく勉強になる本だよ。」
「うん。あの‥院長閣下はどこかへ行かれるのですか?」
「いやいや。わしはもうここにはおられんのだよ。」
乃木は赤い顔で言った。裕仁はもう一度、乃木の手に触れたかったが、我慢した。

乃木は明治天皇から長い手紙をもらったが燃やす事にした。
「なぜそれを燃やすのですか?」
妻が聞くと、
「こういうものは取っておいちゃいかん。」
乃木は答えた。

「あなた、西郷隆盛さんとも戦ったんでしょ?」
前に妻が言ってきた後、なんだか不気味な感じがした。
日露の後‥。こいつは若い兵士と浮気をした。俺はけしからんと怒鳴った。もう限界だった。別れたいが、世間が赦してくれない。死んで別れるしかない。最後の最後まで、明治天皇が導いてくださったのだ。

乃木はお茶を飲み、言った。
「さっき便したでしょ?」
「してないです。」
「だって前に、玄関にあったんだぞ。汚い黒いのが。」
「そんな事、なんで言うんです。」

「俺は、もう死のうと思う。」
「はいはい。勝手にくたばれば‥。」

「お前、俺と別れてくれ。」
「なんでそんなことを。」
「できなければ、今、ここでお前を殺す。」

9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の午後8時頃、乃木は妻を殺した。本当はまだ、7時台だったと思う。最後に目を開けて死んだ妻を見降ろし、乃木はようやく妻が求める男になれたと思った。妻が浮気した若い兵士は、そのようにふるまっただろうか。うん、そうだろうな。最後に、乃木は優しい顔で涙をこぼし、指でぬぐった。
生徒たちの顔を思い出して、グーで目をこすり、裕仁の気配を強く感じた。
やはり、彼には何かがある。
『来る。』
裕仁は、自分の家まで車を回すだろう。
「ひろちゃんに、神様のお話を聞けたかもしれないな。」
乃木はこう言わない。
乃木は外国語をしゃべれないことに劣等感があった。しかしなぜ、日露のあとに、自分は英語もロシア語もドイツ語も話せたのだろう?
何度も何度も、自室で外国語を試してみたが、ダメだった。
最後に外国語を口にすることができた。自分でもなんと言ったかわからんほどの言葉を。
おそらく神の世界の言葉だろう。神の世界の言葉など、現実では通用しない。
それを悔しく思った。

『来ちゃうな、ひろちゃん。』
午後8時、天皇の柩が二重橋を出発したときに号砲が鳴ると同時に、乃木は頸動脈を切った。
真っ赤な血とともに床に倒れた乃木は、人生の炎が冷めるのをじかに感じて楽になった。

「神あがりあがりましぬる大君の みあとはるかにをろがみまつる」

「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」

裕仁はやはり車を回したかった。しかし子供のわがままは通らず、家来が馬に乗って、乃木の家まで見回りにきた。良い男の家来は「多分大丈夫だろうな。」と言い、乃木家の門は叩かなかった。灯りは煌々とついていた。

乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手に泣いてしまった。
「なんであんなに嫌ってしまったのだろう。」
多くの人がそう言っていた。一度は嫌ったが、二度目は好きになった。
裕仁は乃木が自刃したことを聞くと、涙を浮かべ、
「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついた。
あの時の家来は遠くから裕仁をながめた。裕仁に咎められるのは怖くて、必死で言い訳を考えたが、誰にもとがめられなかった。

乃木夫妻の葬儀は1912年9月18日に行われた。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列した。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現された。

1892年生まれの芥川龍之介は、乃木の訃報を新聞で読むと、ギョッとした。
親父がそわそわして悲しそうだったが、理由をたずねなかった。たずねる必要もない。俺に学習院を進めてくるんだもん。
『あんな親父大嫌いだからね。』
そう思って新聞を開くと、ちょうど、乃木が死んだという事が書かれていたので恐くなった。両親はすすり泣いている。オラァ、どうしても、あの軍人を好きになれないねぇ。
龍之介は足音を大きくして二階に上がり、原稿用紙を前に文字を書きなぐったが、すぐに疲れて涙が出て来てしまった。

乃木のことを、皆が褒めたたえているが、俺は好きにナレナインデ。スイマセン。サヨ―ナリ。
ふざけて原稿用紙に文字を書くが、こんな物を提出するわけない。
「出せないし。持っていくわけないし。」
龍之介は原稿用紙をながめて、ぶつぶつとつぶやいた。
『君は、サマになっている。
君は文人墨客の風情がある。』
太宰治は、小説家になりたい男の話を書いている。だいたいは、芥川龍之介のことである。

乃木は、昔の文豪に最も愛された軍人であることはまちがいない。
夏目漱石「こころ」森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」
芥川龍之介「将軍」
三島由紀夫「憂国」
司馬遼太郎「殉死」
渡辺淳一「静寂の声」

乃木が亡くなった1912年には、この物語の主要登場人物の半分くらいが生きていた事が不思議である。明治維新はすごいと思う。徳川慶喜もまだ生きていた。板垣退助もまだ生きていた。大隈重信もまだ生きていた。渋沢栄一もまだ生きていた。

大隈重信は乃木に厳しく叱責した事がある。でも日露での勝利、ああ、あの時は自分をなさけないと思ったな。
重信は重い義足で机を蹴り、大きな音を立てると、そのままうつぶせに倒れていた。


渋沢栄一は、その時、乃木どころではなかった。日本の経済、財閥、金融‥それらのために奔走していた。自分の敵か敵でないのか、はっきりと境界線を分けていたので、乃木は敵ではないと決めていたし、眼中になかった。伊藤博文はちょっと敵だった。敵な時もある。でも、日本初の内閣総理大臣だったので、こりゃ歴史的人物であるなと感じ、畏れていた。乃木さんが亡くなった事で、日本の経済がどう変わるのか、それが問題だった。


「乃木って誰ぇ!!」
退助は最初から乃木が国民から愛されていることに嫉妬を感じた。自分よりも10つ以上年が低い奴だ。嫌だ。
退助は乃木が嫌いだった。
「俺も連れて行ってくれよぉ!!」
退助は誰もいない所で自分がしてきた戦を述べ、西郷隆盛とも戦ったことにして話をした。
しかし、すぐに黙って首をふった。
「隆ちゃんとはそんなことできないよねぇ。」
時々、退助は利通になる事があったようだ。

「乃木さん亡くなりましたよぉ!!」
ちょっとうざかった若手が言い放ったのが、第一報だった。妻が持ってきた新聞を手にとり、広げた。やっぱり、この時も、利通になってしまっていた。
利通は、東郷も乃木も流れ弾で死ぬ男だと思っていた。
隆盛もちょっとそれは思ってしまったかもしれない。
退助は言った。
「最後までやる事が派手だな。」

『板垣死すとも自由は死せず。その方が良いだろう?歴史的名言だよなぁ!!神よ!!』
退助は便所の後で思った。


徳川慶喜は、乃木大将なんて誇り高くて嫌いだった。でも、新聞を読むと、涙がでた。慶喜は戦が上手い方だと思っていたが、海外では実践していない。
『外国となんか、仲良くしなきゃいけねぇし。』
慶喜はカメラに手を伸ばすと、青と白の模様の着物姿で横になった。時々、目のピントが合わなくなり、このカメラを目の代わりに代用しようかと思っていた最中、知人がたずねてきて、眼鏡を作ってくれた。



㉑徳川慶喜
徳川慶喜が40歳の誕生日を迎える8日前、49歳の西郷隆盛は大きな声で1人喋りをして満面の嘘笑いをして言った。
「慶喜さん、誕生日おめでとうございます。」
『ありがとう。』
慶喜も泣き笑いをした。隠居をしている静岡では盛大な宴が用意されていたが、誕生日の


㉒板垣退助
1898年、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は隈板内閣とも呼ばれる。
退助は子供じみたところがあり、大隈重信にむかって「みんな、あんたのそういう所が嫌いだった。」と言った。西郷隆盛の名前を出すと重信がぎょっとするので、退助は最後まで、西郷隆盛の名を時々出していた。
「あの人も缶詰になっていた。」
重信がそう言った時、退助は弁当を食べながら、上目で重信を見た。内心、今度は俺の方が驚いた。どういう事だろう?詳しくは聞けないが、知らない方が得なのかもしれない。

内閣は内紛が激しく、4カ月で総辞職せざるを得なくなる。総辞職を決めたのは、重信だ。重信は神様の声を聞いた。
1900年、退助は立憲政友会の創立とともに政界を引退した。
退助は自宅に相撲同情を築くほどの好角家としても知られており、国技館の名付け親でもある。
政界引退後は、1904年に機関誌『友愛』を創刊したり、1907年には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行った。1913年2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。1914年には二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。台湾で料理を食べた時、退助は感動で涙が出た。
そして、屋台でスープを食べ、帰国前夜には、念願かなってあんまんじゅうも食べた。
美味しかった。あれで美味しくないわけない。でも、『美味しい』という言葉が分からなくて、何も言えなかった。だから、家で言った。何度も何度も心の中で伝えた。

1919年7月16日、82才で退助は亡くなった。
『誰にも介錯をしなかったことがよかったと思います。』
それが人生の感想の第一声だ。

勇の処刑を思い出した。『よくあんなに昔の事。』
大昔の戦を思い出すと泣けてきた。
そして、西郷隆盛の顔が浮かんでくる。
『あんた、そんなに偉いんだねぇ。わしの人生の最後に現れるほどに。』

『一番の‥友達だったのかな?』

大隈重信が自分の墓に花を添えるのを見て、退助は言った。
『あの時のこと教えてよ、お兄さん。』
重信に、もう二度と、自分の声は届く事はなかった。
『大っ嫌い!!』

『神様、わしに自由をありがとうございました。』
大きなお釈迦様の気配を感じ、退助は指を組み言いました。

芥川龍之介は新聞で板垣退助の死を知ったが、そこまで辛くはならなかった。しかし、退助が今までしてきたことを知ると、嘘だと思った。誰もが他人の過去には半信半疑になる。

慶喜にとって退助は敵だった。退助と聞けば敵だった。嫌で卑怯なヤツだった。ようやく亡くなったというのは、うれしくもない。こっちだって味方をやられたんだからさ。

栄一は退助のことがちょっといやだった。以前、退助がこちらを見てぶつぶつと言っていたのだ。退助も戦で人の命を奪ってしまったので、精神が多少狂ってしまっていたのかもしれない。でも、栄一にとって、退助は敵ではなかった。最後は立派に仕上げる方だと思った。退助を想うと、今まで戦から逃げてきた自分が情けなくて、部下の家でまんじゅうを食べている最中に涙がこぼれてしまったことがある。

東郷平八郎は、板垣退助という人物を知っていたが、まさか後世では、自分より、板垣退助の方が、名が通るとは思わなかった。心の中で、『陸の人』と罵ったことがある。だから、退助とも乃木とも酒を飲めんかった。

大隈重信は知っての通り、退助が苦手だった。でも、退助はさんざん味方を亡くしてきた男である。最後に、親以外で、本当に退助を愛せるのは自分だろうと思う。本当にそう感じる日がきた。
以前、国会で、退助は腹をくだしていた。だから、重信がトイレに行かせた。
なんだか子供のおもりをしているようで、照れくさい時があった。
ああやって、自分の屁の匂いを、議員や兵士にかがせたのか?
しかし、とんでもない人物がいたもんだ。歴史に残るだとか、そういう事は思っちゃない。
例のヤツは、「自分がやりたいからやっている。」と言った。「そんなんで何も残せないでしょ。」とも。
「そうだねぇ。」
俺は答えて、とんでもない男だなと思った。草原で、駆け回っているようなそんな男だ。
でも、愛せる日がくる。そう言い聞かせて、ここまできた。
俺は、100万円札の顔になる男だと、酒に酔って言ったことがある。まさか、ヤツに先越されるとは。
大隈重信より板垣退助の方が、歴史で名が通るとは、思っとらんかった。


㉓大隈重信
大隈重信は義足の内閣総理大臣である。大隈重信は生涯でたくさんの事をしたが、一番有名なのは、早稲田大学を創設した事だ。
大隈重信は『人生125歳説』を唱え、早稲田大学にとって125という数字は特別な物となっている。
重信は義足の総理大臣として、第8代と第17代を務めている。
大隈重信は日本で初めてメロンを栽培した人物である。
大隈重信はお金を表す指のサインを考えた人物である。
天気予報の177番は、もともと大隈重信の自宅の電話番号だった。
日本最初の鉄道が新橋~横浜間に建設された際、ゲージを1067ミリメートルに決めたのは重信である。

安政の五カ国条約とは、日米修好通商条約・日蘭修好通商条約・日露修好通商条約・日英修好通商条約・日仏修好通商条約のことである。これらは圧倒的に日本に不利なもので、1872年岩倉具視から1911年小村壽太郎まで9人の外交責任者が条約改正に挑んできた。大隈重信もその中の一人である。

1899年2月11日、黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布されたが、重信は伊藤の憲法改正に伴う枢密院の会議に参加した事は一度もなかった。
黒田内閣では、伊藤は憲法改正を進め、重信が条約改正を進めていたのである。

機密主義によって進行してきた改正交渉のあらましが1889年4月19日付のイギリス誌『タイムズ』に掲載された。この条約案を『タイムズ』にひそかにリークしたのは小村壽太郎だったともいわれている。

そして条約改正に対する反対運動が活発化し、内閣は四面楚歌の状態となる。そして、よもや統治不全の状態に陥りかけたとき、調整工作に乗り出したのが明治天皇であった。
明治天皇は使者の元田を使って、伊藤博文をたずねた。
天皇の提案になかなか応じようとしない博文に業を煮やした天皇は、9月23日黒田首相を呼び出し、閣議を開くよう命じた。
黒田首相は恐懼したものの自宅に籠もったままとなり、あくまでも条約改正断行の意志を変えなかった。

1年間のヨーロッパ視察を終えた山縣有朋内務大臣が帰国するが、意見はまとまらなかった。
条約改正反対派の天皇と伊藤博文、断行派の大隈重信と黒田首相である。
11日、伊藤博文は枢密院議長の辞表を提出してしまう。
10月15日、条約改正の閣議が再び開かれたが、これは明治天皇が臨席する異例の閣議となった。ここでも議論は紛糾したが、黒田・大隈ともにまったく引く構えを見せず、夕刻となったため議決せずに散会した。ここでは山縣は意見をはっきりさせなかった。

10月18日、黒田首相は再度条約改正の是非についての閣議を開いた。ここでついに山縣が条約改正の実施は時期尚早であると述べ、閣議は中止論に傾きかけた。しかし、なおも首相と外相は断行論を唱えたため、またも結論が出ないまま散会した。
事態が急変したのはその直後であった。

その閣議の帰り道、大隈が乗る馬車に爆弾が投げつけられた。犯人は来島恒喜という男である。爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆破した。

10月に入り、とても天気の良い日が続いた。晴れていても、風が心地いい。重い服を着ていた時代を思い出せばなんてことないが、それでもむさくるしいと思う事もあった。今は天候のおかげで気分は楽だ。
最近、目がかすんでいるせいか、正装の明治天皇が閣議にご登場された時、とても暗い男に見えた。新聞で読んだ犯罪者の男である。次の瞬間には、もう元に戻っていた。
ご立派な‥天皇のお姿に。

家に帰れば団欒が待っている。そう思いたかった。重信は馬車に乗り込んだ。
『黒田首相はそういう人だな。』
窓の外を見て、重信はそう思った。
妻の手作りちゃんちゃんを着せられるような男だという。

「仲間だけど‥、お前には人生向いていない。」
風に吹かれた重信は言った。
「貴様に首相はできん。」
「じゃ、誰が向いているかというと‥わしである。」

「わしであるんであるんである。」

『それ本当か?』
「うん、本当。」

爆弾は重信の足元に投げ込まれ、爆発し、重信は右足を切断することとなった。

重信は朦朧として目を半目に開けた状態で病院に運ばれた。当時の最先端の医療が備わっていた病院で、『そんな半人前を治さんでもいいのに。患者が盗人でも治すのかい?ああ、おかしいよ。‥わしゃ、介錯を任せられそうになったこともあるのに。』酒を飲みながら、その病院を毛嫌いしたこともある。
でも、その病院に連れてこられた時、ようやく医師を好きになった。

『重信さん、悪いね。○○‥。』
白衣の医師が説明しているが、よく聞こえていない。重信は朦朧として、ただうなずくしかなかった。お釈迦様は地上に降りて来て、重信の様子を見ていた。
重信は手をあげて、切断の意思を伝えた。
医師は涙目になり、嬉しそうに病室を出ていった。

医師は白髪で眼鏡をしていた。そして、日本刀を使った刃物で、その医師、多田井が重信の足を切断した。
骨に当たると、一度刃は止まったが、ためらうことなく、多田井は足を切断した。
多田井はどうなってもかまわなかった。

「重信さん、足のことだけどね‥。」
「どうなってもかまわない。」
「ああ、そうかい。でも、あの桜の木の下に植えたからね。○○寺の和尚にも来てもらって。そいつがまたとんでもない和尚なんだけどさ。」
多田井はにっこり笑った。重信が元気になったので、安心しているようだ。

重信には野菜が柔らかく煮込まれたスープが運ばれた。
「わしはこんなにまずい飯は食えん。胃は健康だからもっと肉をくれ。」
重信は言い、次の日の晩には肉の塊がきたので食べてみると、足がずきずき痛むようになってしまった。
多田井は何度か重信の便をふいた。むしろ、全て多田井がやったと言っても過言ではない。


重信は家内や子供に対して一人しゃべりをしたし、空想の中で議会に迷い込んで一人で大演説をした。多田井はそれを聞き、『もしかしたらまた戻れるかな。』そう思い、冷や汗をかいた。一人しゃべりを続ける重信の口から、西郷隆盛の名前が出た時、多田井は目を見開いた。

重信は12月には退院し、12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた。

1898年、重信は内閣総理大臣に任命される。
「足がないくせに。」嫌な事も言われたが、重信は言った。
「内閣総理大臣は足を使わんでいいから、わしがやる。」
『それしか方法はねえし。』

しかし、強くなった重信は明治天皇とうまくいかなかった。板垣退助とペアを組んだ隈板内閣はそれほどの成果をあげられなかった。

しかし、それから16年後の1914年、76歳の重信は再び首相に返り咲く。
『よ、ご立派。』

退任時の年齢は78歳6カ月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。

1922年、85歳の重信が亡くなった時には、日比谷公園で国民葬が行われ、渋沢栄一も参列した。
たくさんの人達が別れを告げる中、渋沢栄一は涙声で、「どうもありがとうございました。」と言った。この時ばかりは、若かりし頃の自分に戻れた気がした。

多くの歴史的偉人たちが黄泉の国から現れ、重信の人生を称えていた。
癌で重信よりも早く死んだ多田井も老人となり現れた。
東郷平八郎は元帥としての礼服をきて、大隈重信の国民葬の最後に立ち、敬礼をした。

「俺よりも葬式がでかい。」
霊として現れた退助は言った。

そして重信が亡くなった翌年の1923年に関東大震災が起こる事となる。

渋沢栄一は夢を見た。
誰もいない月夜の晩に泣きながら歩く西郷隆盛がいる。今までの罪を思い出しているのだ。西郷隆盛は人を殺すよりも、動物を残虐に殺してしまっていた。嫌な悪夢に取り憑かれていたのだ。動物に切腹をさせたらどうなるかとか、動物を打ち首にしたらどうなるかとか、そんな悪夢を見て、うなされていた。実際に動物をたくさん殺してしまった。
そして、その晩、この川に熊が流されていて、自分が助けてもしも友達になれたらと考えた。
その頃、隆盛にはお金がなかった。
「ちょうどいいわい。」
隆盛は橋から川に飛び降りて、一人でもがいていた。そして動物のように川から這い上がり、匂いをかぎまくった。

金銀財宝。
西郷隆盛が持っていた不思議な力である。よくお金を手に入れた。

西郷隆盛の死から46年後、大久保利通の死から45年後、乃木希典の死から11年後、板垣退助の死から4年後、大隈重信の死から1年後。
1923年の9月1日に関東大震災が起きた。


㉔関東大震災
「ああ!」
地震だ。驚いて、「地震だ。」という言葉が出なかった。しばらくして、「地震だあー!!」という男の大きな叫び声が聞こえた。
大正12年9月1日午前11時58分32秒に、関東大震災がきた。

渋沢栄一は布団にもぐりこんで、ぶるぶると震えた。

芥川龍之介は31歳で、その日、大学で教鞭をとっていたかった。
そうでなければ、河童を描いていたかった。
木の机の前に座り、ペンをもてあそばせていた。新小説を催促するかのように地震がきた。

ガタン。津軽も少し揺れた。
「お兄ちゃん。」
14歳の太宰治は、昔14歳の兄を亡くしていた。

「わああああ。」
誰もがそう言って、机の下で揺れがおさまるのを待った。
関東大震災は双子の地震とも言われている。

大きな火災がきて、誰もが暗い顔で東京の街を歩いていた。
パフッ
黒くこげた紙が芥川龍之介の顔に舞ってきた。

「ああ!」
渋沢栄一は黒焦げたお札を拾い、財布にしまった。
こんな時、お空にいらっしゃる神様と手をつなげたら。

戦が足りなかったと、誰もがそう感じた。

「戦など好きじゃない。」
多くの人がそう言って泣いた。それが美徳の時代だったが、関東大震災によりハイカラというファッションは消えてしまった。そして戦争の時代へと向かっていく。
この時すでに、日本はアメリカに狙われていた。関東大震災がなければ、日本はアメリカか中国に完全に占領されていただろう。
もっと軍事力をつける必要があった。


㉕芥川龍之介
芥川龍之介は1927年7月24日に亡くなった。明治を代表する作家夏目漱石を先生と呼び、明治25年から昭和2年までの短い人生を生きた男は、日本を代表する作家である。
明治時代を夏目漱石、大正時代を芥川龍之介、昭和時代を太宰治が文豪として時代の代表を務めている。芥川龍之介は夏目漱石を先生と呼んだが、太宰治は夏目漱石を毛嫌いしている。夏目漱石の写真で最も有名な右肘をつく写真は、明治天皇の大喪の礼、乃木が死んだ日に撮られた物である。
『先生、危篤』
電報を受け取った芥川龍之介はおぼつかない足取りで夏目漱石の家を目指したが、夏目漱石はすでに亡くなった後だった。夏目漱石は3人の文豪の中で最も素晴らしいと思う。彼の作品には下品な部分は一切なく、作品の種明かしの仕方が非常に上手い。文章が細やかで、どこで種が明かされたのかも、よく読まないと分からなくなっており、まるで手品のようである。
太宰治の作品は猥褻とされているが、そんな事はない。芥川龍之介やノーベル文学賞作家の川端康成の作品の方が猥褻である。太宰治は日本のために女の裸を書いたと思う。特に私が心に残る太宰の女の裸作品は「美少女」である。斜陽もすごい。私の文は詩的になってしまい、書きながらとても苦しむ事があるが、太宰治の文も割と短い。時々2,3行の文が出てくる。小説を書けるようになると、物語の内容よりも、文の長さに目がいってしまう。小説や文、物語の構成の上手さでは夏目漱石の方が上だが、小説での日本への孝行度は太宰治の方がえらいかもしれない。
2人の作家の作品が好きだ。でも、世の中では芥川龍之介が一番評価されている。それは一体なぜだろうか?それは「蜘蛛の糸」や「羅生門」が有名だからかもしれない。でも、私が芥川龍之介の作品で心に残るのは「地獄変」「藪の中」である。地獄変は宇治拾遺物語の中の一つを、藪の中は今昔物語集の中の一つの話を芥川が書き直したものである。芥川龍之介の作品で私が一番好きなのは、「竜」と「葱」である。
芥川龍之介は作品の中で、よく自分を書く。3人とも作品の中に自分を残しているが、芥川龍之介が一番自分自身をかっこよく描いている。
地獄変の中で「誰です?」と聴く男、羅生門の中で老婆の服をはぎ取る男、物語に登場するかっこいい男のほとんどが自分自身なので、世の中の人達を惹きつけている。

芥川龍之介は服毒自殺をした。死ぬ間際に聖書を読んだという。
大隈重信、渋沢栄一、東郷平八郎が、「羅生門」と「蜘蛛の糸」を当時読んでいたのはすごいと思う。
大隈重信と東郷平八郎は「地獄変」をおそらく読んだであろう。

晩年の芥川龍之介は文のパズルは出来なくなってきていた。戦を知らない彼には関東大震災の思い出が強すぎたのかもしれない。彼はたくさんの死体を見てしまったのである。
それでも、3人の作家の中で一番コメディー色が強いのは芥川龍之介である。

私が3人の中で一番好きな作家は夏目漱石で、中でも三四郎が好きだ。虞美人草の藤尾にも糸戸にもよく憑りつかれた。小説は霊をもらうために読む物である。徳川慶喜が死ぬ1913年までにそれらの小説は書かれており、慶喜はその中の1冊は読んだのだろうか?
こころは、乃木希典のために書いたと言われているが、本当は夏目漱石が慶喜のために書いたのではないだろうか?慶喜は明治天皇が亡くなった年にこの世を去った。



㉕渋沢栄一

軍神 空 途中

軍神 空 途中

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
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