雨とピアノ、恋と愛

桐谷 迅

  1. 雨の幻想曲:第一楽章
  2. 雨の幻想曲:第二楽章
  3. 雨の幻想曲:最終楽章

雨の幻想曲:第一楽章

 傘に降りつける雨粒の音はとても心地の良いものとは言い難いが、なんだか不思議と落ち着く。それは例えるなら、不協和音に沈んだ協奏曲。互いが同じリズムを奏でているのに揃わない矛盾。しかし、それは一層深い味を持つ。まぁ、分かる人しか分からないが。

 大きく息をしながら歩いて行った先、そこにある少し古びた喫茶店が僕のバイト先だ。傘を畳み、マットで軽く泥を落とす。そのままアンティークなドアを開けると、コーヒーの香りがツンと鼻を刺した。

「いらっしゃいませ」

 真っ先に奥から飛んできたのは、もう聴き慣れてしまっている声。

「ども」
「って、西川(にしかわ)君か」
「いつもの席に座っときますね」
「はいはい。後で行くね」

 そのまま入って一番奥の列、右端、窓際。そこが僕の特等席でもある。同時に、いつも空いている席でもあった。何故ここだけ誰も座らないのかと言えば、きっとお客さんがあの二人目当てだからだろう。
 腰を掛け、荷物をもう一つの席に置くと、その一人がやって来た。

「……ご注文は?」

 感情が一切見えない目、緩むことを知らない口元、そして、起伏のない喋り方。一言で言って仕舞えば、無愛想そのもの。それが、杉山(すぎやま)(いもうと)だ。まぁ、一部の層からの受けは物凄く良い、らしい。

 彼女はバイト仲間の一人。聞くところによれば、同じ学校で同学年だと言うが、一度も彼女を見たことはない。と言うか、クラスを教えて貰ったこともない。いや、それどころか、ここで働き始めて今まで、名前すら教えて貰っていないのだ。
 結果、苗字に妹と付けて呼ぶしかなくなっている。

「じゃあ、『いつもの』で」
「……『いつもの』とは?」

 あぁ、そうか。いつもはもう一人の方が注文を取りに来てくれるんだった。ふと、杉山妹の奥にもう一人、ここの制服を着た女性のシルエットが見えた。

「はい、セットAとオリジナルブレンドのブラックですね」

 なるほど、今日は薫さんも対応に回っていたのか。

 杉山(すぎやま) (かおる)。いつも笑顔の絶えない人で、何と言うか女性特有の包容力を持つ人だ。杉山妹とは正反対なわけである。因みに、現在は大学三年生で、十分に一人の女性としての魅力も兼ね備えていた。
 そして、薫さんはここのオーナーでもある。つまり、僕の雇い主というわけだ。

「で? 結局、注文は?」

 視界に入ってきた杉山妹の顔を見て、ふと我に返る。

「あー、えっと、薫さんにそう伝えてくれたら大丈夫だよ」
「はぁ……分かりました」

 杉山妹が厨房へ行き、オーダーを渡して、他の注文を取りに行ったのを見届けると、一度グルっと店を見渡した。
 それにしても、お客さんが割といるなぁ。お昼も過ぎてしばらく経ったこの時間帯はどこの飲食店も客足が減るのだが、ここはさして大きな客足の減りは見られない。しかも、今日は雨なのに。
 となると、お昼時や休日なんかは言わずもがな、というわけである。

 取り敢えず、バックからノートとペン、それからタブレット端末とイヤホンを取り出した。タブレット端末の電源を入れ、イヤホンを着用すると、アプリを立ち上げる。ノートを開き、シャーペンをノックした。

 大体の準備が整うと、ペンを一度回す。それが僕のスイッチを入れる方法でもある。短く大きな息を吐くと、タイマーのスタートボタンを押し、作業を始めた。
 ペンを走らせ、時々タブレット端末に指をかける。そんな作業の繰り返し。

 一分……二分……五分……十分……。

 ようやく十五分が経ったところで、いきなり足元に衝撃が走った。
 あまりの痛さに手を止め、イヤホンを外し、痛みの方を向く。すると、お盆を持った杉山妹が立っていた。

「おい、蹴ってまで何の用だよ」

 軽く睨みつけてみるが、全く微動だにもしない。

「……コーヒー」

 ようやく口が動いたと思えば、コーヒーカップを机に置いた。

「あ、はい。ありがとう」

 一つ溜め息を吐くと、すぐにイヤホンを付け、ペンを手に持つ。途端、足元にはっきりとした痛みが再び走った。
 と、ふと目線を足元に向けてみると、明らかに足が出ていた。また蹴ったな、コイツ。しかも、客に向かってだぞ。

「では」
「おい待て。なんで蹴った?」
「……何となく」
「いや、何となくで蹴って良いのかよ」
「……良い」
「いや、良くねぇよ」

 悪びれる様子もなしかよ。そんな態度にまた溜め息を溢してしまった。

「ったく、そのまんま置いていけばいいのに」
「……じゃ」

 謝罪もなしかよ。
 厨房へと戻っていく杉山妹の背中を見て、もう一度溜め息を吐くと、残る痛みに耐えながら、作業を再開した。



 ふと気付くと、タイマーが鳴り響き、二時間も経ったことを示す。

「さてと」

 ペンを置き、イヤホンを外して、軽く伸びをした。たった二時間でも流石に同じ体勢では体が凝り固まってしまう。

「……もう仕事の時間?」
「うわっ」

 いつの間にか隣に誰かいることに驚き、ハッと横を見るが、そこには私服の杉山妹が座っていた。

「え? あれ? もう上がり?」
「……いや、お姉ちゃんが休憩入っていいって」
「はぁ? 休憩でフロアに来る奴があるか」
「……別に。お客さん少なくなったし」
「そういう問題じゃねぇよ」

 なんて言うものの、出勤前にこの店に客として来ている僕が言えた義理ではないのだが。

 取り敢えず、荷物を片付け始めていく。
 ダブレット端末の電源を切り、イヤホンをケースに入れ、散らかした物を次々とカバンの中に放り込んでいった。あとはノートだけ。と、手が滑り、落としてしまう。

「……何? これ」
「あ、おい。取ってくれたのはありがたいんだが、早く返してくれんか?」

 そう言ったにも関わらず、杉山妹は勝手にノートを開き、平然と中身を見回していく。恥ずかしくて止めて欲しいが、止めようとするもんなら、物理的に一蹴されて終わってしまう。
 諦めて、少し待つことにしたが、数十秒後には何か話しかけたそうな目でこちらを見ていた。

「なんだよ」
「……ねぇ、これ、ピアノの楽譜?」
「ん、あぁ、そうだけど」
「……手作り?」
「そうだよ。何か問題でも?」
「……写真撮っていい?」
「はぁ? なんで? ピアノ、弾けないんでしょ?」
「……今は弾けないけど、パソコンに打ち込めば聞ける」
「えぇ。それ、商品になるかもしれないのに」
「……ダメ?」

 うわっ、いきなりの上目遣い。こう言う時に次女っぽいおねだりの仕方を使うツンデレ属性は反則だろう。
 まぁ、本当は拒否したいのだが、それを出来ないのが男の性というものだ。「他の人に見せたり、言わないんだったら」と念を押したところで、杉山妹とノートを置いていくと一度外に出る。

 右側へと進み、一本先の角を曲がって、裏路地にある職員用のドアから入り、すぐ右手のロッカールームへ入る。自分の名前が書かれたところを開け、中に入っている制服を取り出すと、バックを無理矢理押し込んだ。
 ものの数秒で制服を纏うと、時計の秒針を確認しながら、ぴったり時間通りにタイムカードを押す。
 これで準備完了。
 厨房にいる先輩に挨拶をすると、そのままフロアにいる薫さんのものへと向かう。

「時間ぴったりだね」
「はい、薫さん」

 やはり、声音もいい。これだけの美人さんがオーナーだなんて、そりゃ客足が止まらないし、常連も逃げていかないわけだ。
 それに対して……。こちらをひっそりと壁の陰から見つめる杉山妹を見る。全く、あっちはまるで猫みたいだ。

「今日って何時までだっけ」
「えっと、閉店までですね」
「そっか。あの子はもうそろそろ休憩終わって裏でコーヒーの入れ方の練習だし、厨房にいる赤塚さんはもうちょいで上がりだから、今日は二人だね」

 二人。なんていい響きなんだろう。
 途端、ゾワッと背筋が凍るような悪寒がした。さりげなく振り返ると、杉山妹はしっかりと嫌な目をしながらこちらを見てくる。
 いや、本当に何考えてるか分からない。

「じゃ、取り敢えず、片付けと皿の方は任せていいかな?」
「はい」

 そして、指示されるがままに働くこと五時間、今日の仕事は最後の客が扉を出たと同時に終わった。ほんの少しフロアの清掃を手伝い、時間ぴったりにタイムカードを押してから、ロッカールームで着替えを済ませ、帰りの支度を始める。

「ふー、疲れた」
「そうかい。お疲れ様」

 あの好きな声音が背後から聞こえた瞬間、あまりの驚きに飛び跳ねそうになってしまう。

「あ、お疲れ様です」

 無理に出した声は、自分でも分かるほど変になってしまう。
 そもそも、この時間帯に薫さんがロッカールームに来るなんて珍しい。普段は売り上げ計算やら仕込みやらをしている筈なのに。
 いや、それにしても、本当にびっくりした。

「んで、お疲れのところ申し訳ないんだけどさ、ちょっとご飯食べに行かない?」
「ご飯、ですか?」
「そう。ちょっと行きたい場所があって」

 ご飯か。親に許可さえ取れば……。って、ちょっと待った。薫さんとご飯? それってもしかして……。いきなり膨らむ妄想に、鼓動は無駄な程の高まりを見せた。

「何か用事とかある?」
「ない、ですけど」
「そう。良かった」

 すると、手招きされ、慌てて荷物を持ち、付いていく。
 厨房の脇にあるドアを潜り抜け、階段を登り入っていったのは、杉山家宅だった。そして、さらに進み、右奥の部屋に入っていく。
 真っ暗闇を白い電球が照らした瞬間、驚きと感動が全身へと広がっていった。

「ここって」
「びっくりした? 衣装部屋だよ」
「衣装部屋?」

 並べられた煌びやかなドレスやシワのないタキシードのような服。色や形こそ様々だが、どれも共通して言えることはただ一つ。

「これって……」
「そう、ピアノの演奏用だよ」
「やっぱり。でも、発表会とかそういうんじゃないんですよね」
「正解。まぁ、正確にはバーとかで弾く用のやつ」

 なるほど。ここまで来てようやく薫さんが僕を誘った意味が分かった。薫さんは、僕にピアノを弾け、と言っているのだ。

「で。どうする?」
「はい、喜んで。……でも、なんでですか? もっと腕のいいピアニストならいくらでも居るんじゃ……」
「勿論、西川君の腕もそこそこあると思う。それに、言う通り、もっと腕のいいピアニストも知ってるには知ってる。でも、腕だけ、だからさ」

 腕だけ? その言葉に不思議と違和感を覚える。ピアノを弾く腕では絶対に足りないものがある? だが、それが僕にある? 思考回路を巡らせるに巡らせたが、イマイチピンとこない。

「結構前だけどさ、西川君が書いた楽譜見せてくれたじゃない?」
「あぁ、そう言えば」

 確か、あの時は休憩中に、ある曲の最後の仕上げをしようとした時だったっけ。その時も偶々薫さんがロッカールームに来て、僕のノートを見られてしまった。そして、その時に初めて薫さんがピアノを弾けることが分かったのだ。
 以降、ちょくちょく僕の家に来て貰い、作りたての曲を弾いて貰ったこともある。

「それでね、今回のお仕事で頼まれたのが二人での演奏なの」
「二人? ってことは連弾ですか?」
「ちょっと違うかな。ピアノは二つあるから」
「じゃあ、二重奏……」
「うん。ただねぇ、基本的に私はあぁ言うところで弾くと調子乗っちゃって、アレンジしちゃうんだ」
「アレンジ、ですか」

 まず普通のピアニストやら厳格な人なら絶対にしないことだろう。それこそ腕の立つ人程それを嫌う場合が多いと聞いたこともある。

「それで、リハやった時に相手にめっちゃ怒られて、辞めるって言われちゃったんだよね」
「それでまさか」
「そう。ただ、アレンジの癖は治らないから、逆にそれに付いて来れる身近なピアニストを探してた。そして、見つけた」
「なるほど。それが僕なんですね」

 ようやく理解がいく。しかもここに連れてきたということは、断れないってこともお見通し済みか。
 もし、それが僕の持ってる想いを利用したものだとしても、今はただ薫さんに従っておこう。それで距離が縮まるなら良しとしよう。
 そう心に決め、「分かりました」と頷いた。

雨の幻想曲:第二楽章

「よし。そうと決まれば、先にお風呂入んなきゃね」
「お、お風呂、ですか?」
「いや、流石に、ねぇ」
「あ、まぁ、はい。……って、まさか今日?」
「ん? そうだけど?」
「リハもなしでですか?」
「まぁ、リハなくても大丈夫でしょ。それに、演奏会じゃないんだし」
「そ、そうなんですか」
「あと、親にも連絡しときなさいね。明日は休日だから少し遅くなってもいいと思うけど、もしかしたら十一時過ぎるかもしれないから」
「あ、はい」

 お風呂に入ること自体の意味は未だ分からずだが、促されるまま脱衣所に向かい、親に帰りが遅くなることを伝え、お風呂を借りることにした。

 髪を洗い、体を洗い、渡されたタオルで全身を拭いていく。そして、タオルを腰に巻きつけ、風呂場を出た。
 刹那、目に入ってきたものに衝撃が走る。

「なっ……」
「ちょ……」

 杉山妹、何故ここに。しかも、何故誰かが入っていることを知りながら、上着を脱いでいるんだ。
 その衝撃に即行で風呂場に戻り、扉を閉めた。

「な、なんで、なんであんたがここにいんのよ。バイト終わって帰ったんじゃないの?」
「あ、えっと、それは、その、か、薫さんに……」
「マジありえない」
「え、えぇ……」

 扉越しに浴びせ続けられる罵詈雑言に今はひたすら耐えるしかなかった。というか、僕の方は何も悪いことはしていないような。
 ため息をついた時、ふと脱衣所の扉が開く音がする。

「ねぇ、まだ……って、なんであんたは風呂に入ろうとしてんのさ」
「ね、姉ちゃんには関係ない」
「いや、よく見なさいよ。私はさっき会ったし、誰かが入っているのも、分かるでしょ? ここに明らかな男性の服があるじゃん」
「いや……それは、そうだけど」
「ごめんね、西川君。こいつどけるから」
「ちょっと、姉ちゃん」
「いいから早く退いてなさい」

 とまぁ、こんなドタバタ劇が繰り広げられた後、風呂から上がると、そのまま渡された衣装を着て、髪もセットして貰う。
 女性にこうして色々してもらうのは新鮮な気分になる。しかも、想い人となると、なんとなく嬉しい様な、恥ずかしい様な、変な感じだ。

 そうして僕の準備が終わると、楽譜を渡され、今度は薫さんが準備をし始めた。
 待つこと三十分。
 ひたすら机を叩き、楽譜もほとんど頭に入った頃には、薫さんも準備を終えていた。

「それじゃあ、行こうか」

 最初に薫さんの姿が目に入った瞬間、取り敢えず驚きを隠すことは出来なかった。
 美しい。
 何というか、女性の魅力の全てを引き出したような妖艶(ようえん)な雰囲気と、それに合う程よい大人びた微笑み。それこそ、冗談なんかで「綺麗です」とは言えない程だった

 そうして、下に降り、店の入り口前に行くと、まだ雨は降っている。全く、せめて夜くらいは雨が止んでくれていると思ったのだが。
 ふと見た先、そこには黒塗りの高級車とも取れる車が止まっていた。

「え、これに乗るんですか?」
「そうよ。一応、店の方からはビップ扱いになってるしね」

 ただのBGMにしかならないピアニストをその扱いとは、余程気に入られているのか、演奏の腕があるのかどちらかだろう。いや、その両方かもしれない。或いは、その店自体のランクが相当高いとか。
 想像のつかない世界に一気に緊張してしまう。

「さ、乗って」
「あ、はい」

 雨に打たれぬよう、急いで車に乗り込むと、すぐに発進する。ただ、目的地に着いた頃には既に八時を回っており、もう真っ暗だ。なのに、雨はまだもの悲しそうに冷たく降り注ぐ。
 その一瞬の憂鬱を噛み締め、気持ちを一気に切り替えた。

「曲は覚えた?」
「まぁ、何とかです」
「そっか。なら良かった。もう本番の時間だから」

 調整さえもなしか。本当に、無茶言ってくれるなぁ。ただ、今更後には引けない。

「……分かりましたよ。でも、あまり暴れすぎないでくださいね」
「はいはい。じゃ、早速」

 車が止まると、そこは割と大きなビルを前にした道路だった。
 「ほら、急ぐよ」なんて促されるがままに店に入ると、大人な雰囲気を(かも)し出す空気に飲まれそうになった。
 程よいアルコールの匂いに、食欲そそる香り、クラっときてしまうような暗く淡い照明、聞こえてくるのはピアノの旋律。ここだけ時間の流れが違うような錯覚まで起こしてしまう。

「さてと、まずはマスターに会いに行こうか」
「マスター?」
「ここのオーナーよ」

 付いて行くと、カウンターに立つ一人の男性がいた。見た目からして、経験豊富で、物を知ってそうな感じ。年は、五十代後半くらいだろうか。時々見える白髪がそれをよく物語っている。

「マスター。今日もよろしくお願いします」
「あ、薫さん。こちらこそ。それで、そちらは?」
「今回の助っ人です」
「ほぅ。まだ、随分と青いようですな」
「でも、腕は多分」
「成る程。一流のピアニストが言うのならば、そうなのでしょうな」
「えぇ」

 一流。確かに、家で弾いてもらった時はとてつもない技量を感じたが、思い返せば、薫さんが賞を取った、とか、プロをしているなんて話は聞いたことがない。
 まぁ、素人や僕ら凡人からすればどれも一流なのだろうが。

「じゃあ、お願いしますね」
「分かりました。最高の演奏をさせて頂きます」

 誰も見ていない中、礼をして、ピアノへと向かう薫さんに続き、頭を下げ、そのまま付いていく。
 そして、薫さんは向かい合う手前のピアノ、僕は奥のピアノの前に座った。そして、目を合わせ、頷き合うと、大きく息を吸い込んだ。

 ピアノの音が鳴り始める。

 僕の役割は基本的に補佐。メインは薫さん。下の旋律を一瞬も外すことなく弾くのが今回の役目。機械的に書かれている音符通りに弾いていく。

 最初はパッヘルベルのカノンから始めていくのだが、初っ端からアドリブ入り。挙句、五小節目で既にリズムはがた崩れ。テンポはバラバラ。そのくせに、オシャレに整っている。
 そんな中、あくまで邪魔しないように、正規のリズムとテンポを奏でていく。

 と、一瞬、薫さんの演奏が止まった次の瞬間、弾き始めたのは別の曲。
 ショパンのピアノ協奏曲第一番。
 こんなにもいきなり切り替えた? 追いつこうとメロディーをだんだん変えていく。
 ただ、薫さんはこちらを向き、ピアノの音で僕の方に訴えかける。

「まだまだ固いよ」

 途端、ジャズ風にアレンジされて行き、いよいよ原型はほんの少し面影を残す程度までになってしまった。
 全く、こんなのは既存の曲の演奏じゃない。

「さぁ、いくよ」

 そうとでも訴えかけんばかりに、旋律に勢いを増し始めた。挙句、全く違うメロディーを弾き始める。もう、既存の伴奏だけでは完全に置いて行かれてしまう。

 なるほど。これは、前任が放り出したわけだ。
 そして、これが薫さんが僕を選んだ理由。

「付いて行きます」

 そんな風に勢いよく言うかのように、テンポを崩し、薫さんの弾く旋律に合うように弾いていく。だが、同時に主張もし始めた。主旋律を乗っ取ってしまうかのように強さを増し始めるが、勿論この場所の空気に反しないように。

 これは発表会でもなんでもない。フリーダムに弾けるが、あくまでBGMのもの。心地いい程度に、それでも自由に弾き続ける。
 互いに音を聞き、譲り合い、競い合い、共鳴していく。

 ただ、その時に感じてしまったのは、切なる恋心だった。それも、僕のものだけではない。自分、相手が持つ感情が一致した時に、音は最高の音を奏で合う。想いが強ければ強いほどに。
 演奏終盤では、久々の長時間演奏と連打に指が(うず)く。

「最後、合わせるよ」
「分かりました」

 最後の一小節はしっかりと余韻を残しながら、薫さんと息を合わせて、最後の一音を叩いた。

 気付けば、もう数十分と経っており、箇所箇所こそ飛ばしていたが、一応メドレーは弾き終えている。
 緊張が一気に解けたせいか、大きく息を漏らした。そして、薫さんに合わせ、誰も見ていないながらも礼をし、下がっていく。

 そのまま進んで行った先は、カウンターテーブルだ。

「お疲れさん、西川君。久々じゃない? これだけ長いこと弾いたのは」
「そうですね。こんなところで弾くのは初めてですよ。しかも、あのアレンジの仕方は流石に焦りました」
「ふふっ、そうだろうね」

 適当に喋りながら席に座ると、奥の方からマスターと呼ばれているさっきの男の人が出てきた。ただ、何か持っている。

「あれ? 今日はちゃんとしたサービスしてくれんの?」
「えぇ。久々に良いものを聞かせてもらったので」

 下からグラスを取り出し、そこに鮮やかなピンク色の液体が注がれていった。

「いや、今日は送迎アリだったから、お酒飲めるのよね」
「まぁ、こちらとしては、送迎やサービス代なんて、今日の大物相手に比べれば安いものですよ」
「なら、食事代も」
「それはちゃんと払ってもらいます」
「はいはーい。分かりましたよ」

 途端、疑問符が飛び交わされる会話に付いていった。
 送迎あり? サービス? 大物?
 そんな疑問が顔に浮かび上がっていたのか、マスターと薫さんは、察したかのように話し始めた。

「そう言えば、詳しいことは一切話してなかったね」
「杉山さん。まさかこの子って飛び入りだったんですか?」
「まぁね。しかも、リハなし。凄いでしょ?」
「はぁ。それはまた随分と無茶なことをしましたねぇ」

 この人にも話していなかったのか。全く、この人はどこまで計算していたのやら。

「実は私、時々ここに一人で来て、一人で弾くんだよ。その時は、車を使ってるから、サービスしてくれてもちょっとした料理だけなんだ」
「ただ、今日は特別なお客様がいらっしゃる予定でしたので、せっかくなら杉山さんの妹さんと一緒に弾いてもらう予定だったんです」

 妹? 妹って、あの杉山妹だよな。でも、確かピアノは弾けないって言っていたはず。嘘をついたのか?

「でも、あの子がね、もう無理って投げ出しちゃったのよ」
「投げ出したってどういう事ですか?」
「そのまんまです。一度、リハーサルでお見えになった時は、昔よりも随分と腕が落ちたご様子で、一度弾き終えると『私には無理だ』と言って帰ってしまったのです」

 そうか。「今は弾けない」って言っていたのは、そういう事だったのか。だが、その割には手を使っていた跡があったと思う。単に喫茶店での仕事柄なのかと思っていたのだが、多分そういうことではないだろう。
 まぁ、思い返してみればの話ではあるが。

「それで、君にお願いしたわけ」
「いや、しかし、よくまぁ飛び入りであそこまで杉山さんに合わせれましたね」
「ね。大分、アレンジしちゃったけど、よくやってくれたよ」

 もうアレは笑えてくるレベルだった。あの暴れ馬っぷり。冗談で済まない程危なかったのだ。しかも、中盤以降は、殆どがアレンジだっただろう。元の曲を踏まえてはいたが、側から聞くと最早完全に別の曲になっていた。
 だが、これは即興云々(うんぬん)ではなく、おそらく曲調を捉えて合わせられるかと言うところだろう。それは、作曲者が持ち合わせる能力。
 本当に計ってくれたものだ。

「おっと、向こうのお客様に呼ばれてしまいましたので」
「はいはい」
「お料理の方は持って来させます。では、ごゆっくり」

 そうして、マスターは一度裏へと消えて行き、何処からか、大きなテーブルへと歩いていっていた。
 二人だけになった時は、勿論、しばらくの静寂に包まれる。どうやら、僕はここの空気に酔ってしまったらしい。少し収まらない高揚感でどうにかなってしまいそうだ。
 一方で、グラスを飲み干した薫さんの頬は赤みを帯びていた。

「……ねぇ」
「あ、はい」
「ピアノ、しばらく弾いてなかったみたいだけど、どうしたの?」
「えっ……」

 突然、突かれた図星に驚く。ただ、冷静に考えれば、不思議な話でもない。
 あれだけの腕を持っていたのだ。例え、オーケストラなんかで世界を股にかけるようなプロには劣ろうとも、一流は一流。分からないはずもない。

「実は、ちょっと、……まぁ、色々あったんです」
「ふーん。それって、自分には才能がないって思ったってこと?」
「……分かるんですか」
「まぁね」

 すると、薫さんは立ち上がり、カウンターの奥においてある物を取った。そこにはご丁寧に、『杉山様用。ご自由にお使いください』と張り紙がされている。
 そこから、グラスに注ぐと、今度は緑色をした液体が出てきた。
 それを一口。

「私もね、ピアノ、辞めようとしてた時期もあったんだよ」
「薫さんが、ですか?」
「うん。……妹に追い抜かされてさ、褒められるのはいつもあの子。私は怒られてばかり。まぁ、辞めたくもなっちゃうよね」
「そう、だったんですか」
「しかも、丁度その時にさ、両親がいなくなっちゃったんだよ。……だから、私がお金を稼がなきゃいけない。タイミングが良かったのか悪かったのか」

 少しずつ飲み干され、グラスから消えていく液体は、どこか哀愁(あいしゅう)さを物語っている。

「それで、父親がやってた店を引き継いで、やってるんだ。まぁ、最初の方は厳しかったけど」

 だが、薫さんの顔は、話に似合わぬ表情をしていた。

「ある程度上手く行き始めると、ネットで記事が作られて一気に人気になって、人手が足らなくなった時に、前からここが好きでいた君を見つけた」

 あの時、求人募集の紙を見つけて入ることも、お見通しだったのか。

「そんな時に君が書いた曲を見つけてね。弾いて、喜んでもらえた。私は、それだけで良かったんだよ」

 頬杖をつき、想い気に語る。意外な一面、とでも言うべきだろうか。

「賞をとったり、褒められたりするよりも、単に喜んでもらえる。まぁ、君からしたら作ったものを弾いてくれる人なら誰でも良かったのかも知れないけど、私はそれで、それが良かったんだ」

 そして、グラスの液体も飲み終えた頃、どうやら完全にお酒が回ってしまったらしく、彼女の顔は随分と赤くなっている。

「……ねぇ、私とさ、付き合ってくれない?」

 え。
 困惑した。
 勿論、お酒の勢いだろう、酔いのせいだろう、なんてことは分かっている。分かっているのだが、それがお酒のせいで言ったのか、それともお酒の勢いを使って言ったのかは分からない。

「付き合うって……」
「そのまんま。私を彼女にしないって言ってるの」
「え、ちょっ……」
「ふふっ。私はお酒には強いから、酔ったから言ってるわけじゃないよ?」

 混乱した。
 何が答えなのかが分からない。僕はどうしたいのか。ただそれを口にするだけなのに、上手く声に出来ず、それがとてつもなくもどかしくて仕方がなかった。

「あまり焦らして欲しくないんだけどなぁ」
「あ、そ、その」
「うん」
「は、はい。こ、こちらこそ」
「……ありがとう」

 その瞬間の薫さんの頬は一層赤るんだ。

 丁度タイミングでも見計らっていたかのように料理とお水が運ばれてきた。
 その後は、食事を楽しみながら二人の時間を過ごし、マスターが戻ってくると、帰りの手配をしてもらい、杉山家に送ってもらった。ただ、なにかと二十三時を回ってしまい、結果泊めてもらうことになった。

 雨の夜。月も隠れ、街灯の光も乱反射し、夜の街を不思議な世界へと変えている。
 そんな中、寝静まる頃に何があったかなんて言うまでもないだろう。
 そうして、一夜を過ごした。

雨の幻想曲:最終楽章

 翌朝。

 まだ昨日の雨は止んでいなかった。
 今日もバイトが入っているのだが、一度帰ってまた来る手間を考えると、面倒になってしまい、このままいさせてもらうことにした。

「裕太くん。私はやることあるから、ここで色々やっていていいよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ」

 正直、昨日のことが気になっていた。薫さんはお酒のせいじゃないとは言うが、やはりどこか疑問を覚えていた。ただ、明らかに距離は今までとは違っていた。呼ぶ時も名前になっていて、妙に親しい。
 昨日のことは本当だったということだろう。嬉しくもすぐったい気持ちに浸っていた。

 さて、一息ついたところで、バックを開け、筆記用具、タブレット端末、イヤホンを取り出した。ただ、何か足りないような気がする。

「あ、ノート」

 今まで作ったものを全て書き留めてあったノートがない。
 血の気は引き、一気に焦ると、色々なところを探してみるが、思い当たるところに行ってもなかった。なんとか昨日のあったことを思い浮かべながら探していくが、やはりどこにもない。

 若干、窓に降り付ける雨の音が煩く思えてきた時、どこからかピアノの音が聞こえた。それは、痛いくらいに切ない旋律、しみじみしているはずの伴奏が哀愁のあるメロディーを余計に引き立たせた。
 でも、これって。

「雨の幻想曲(ファンタジア)……」

 聞き覚えどころか、これは僕が書いた曲なはず。それがなぜ他人の手によって演奏されているのか不思議でならなかった。
 ただ、分かるのははち切れそうな悲しさが旋律に乗っていること。

 激情。

 感じるのはそればかり。

 釣られるがままに音がなる方へと歩いていく。そして、音源と思われる部屋を見つけた。
 惹かれてしまうほどの音が聞こえてくる中、一瞬躊躇(ためら)ったが、ドアを開ける。
 誰がこれを弾いているのか。
 あまりにも魅力的で、気になってしまった。
 そして、中で弾いている人を見た瞬間、何故か不思議にチクリと胸の奥に刺さるものを感じた。

「杉山、妹……」

 そうか。確か昨日、杉山妹に貸して以来、返してもらっていなかった。それでなのか。ただ、弾いていたのも彼女だ。
 ピアノの音はそこで止まり、杉山妹はこちらを見つける。だが、見てしまった。泣きながら弾いているところを。
 息を呑んだ。何か途轍もないものに魅せられてしまった気がして。
 だが、彼女は表情をぐちゃぐちゃにしながら、こっちに歩いてきて、僕のノートを投げつける。そして、更に近寄ってくると、僕の頬を一つ叩いた。

「……バカ」

 加えられた力に、後ろに仰け反っているうちに、勢いよく扉を閉めた彼女は部屋へと引き籠もっていった。
 今の行動に何の意味があるのか。それは、分からない。分かりたくもなかった。

 ノートに書かれた『ありがとう』の文字と、その下に書かれている『杉山(すぎやま) 椿(つばき)』の名前。
 雨は冷たく降った。世界から色を奪ってしまっていくように。

 灰色に褪せた彼女の部屋に残る虹色の旋律。
 その気持ちはきっと––––。

雨とピアノ、恋と愛

 お読み下さり、有難う御座いました。
 さて、こちらの作品なのですが、以前短編集としても兼ねていた「色溢れる四季、淡い青春」に掲載されていた作品を短編化したものとなっております。
 ちなみに、タイトルにルピを振りたいのですが、出来ない為、ここに書きますが「雨とピアノの協奏曲(シンフォニー)」です。サブタイトルは「雨の幻想曲(ファンタジア)」です。まぁ、少し知ってる方なら自動変換されちゃうでしょうが。
 これを書いている僕自身、音楽関係は疎く、楽器音痴です。ただ、こう言った文字の羅列でも形を成した時、聞こえる筈のない音楽が聞こえるように感じるのはとても好きです。

 では、少し内容に触れていきましょう。
 この作品のテーマは雨なのですが、不思議と雨はよく曲でも小説でもテーマとして挙げられることが多いです。確かに、雨粒を涙に比喩しやすかったり、悲しい気持ちの比喩にも繋がるでしょう。
 ただ、そんなのは形だけです。
 一番は人が雨音や冷たさ、なんとも言えない暗さに恋をしているのだと僕は思います。

 さて、あとがきはここで終わろうと思います。
 今後とも宜しくお願い致します。

雨とピアノ、恋と愛

雨の日、僕はいつも通りにバイト先へと来ていた。 そこで、相変わらずの無愛想な杉山妹に邪魔されながらも、楽譜を書いていた。 バイトを済まし、帰りの支度をしていた時、店長である杉山 薫さんに夕食を誘われた。ただ、実際はピアノを共に弾く相手に選ばれたのだ。 雨とピアノが織りなす協奏曲は、途轍も無く綺麗。でも、どこか悲しげな伴奏も聞こえてくる。

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  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-10

CC BY-NC-ND
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