やさしい唇

r.Takigawa

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愛は美しく、清潔で完璧?

scene1

明葉高校の体育館の二階の窓の光の透過率といったらない。パスがまったく見えなかった。顔をしかめ視界が光にまみれた一瞬にそれはやってきた――ば、こん。快音ではないバスケットボール、しかも恐ろしく硬い。私は踏み潰された鼠のような声を出し、壊れかけの玩具みたくがくんと膝に手をついた。

「藤本!」ピピィッ!コーチの声がする。
ん、もう、鈍臭いったらありゃしない!

「―――亜希!大丈夫!?」

知紗が睫毛のカールした瞳をぱちくりさせ問いかけてくる。平気という意味で「全然」と返し、部室へ走った。よくある事だった。ものの2、3分でコートへ戻る、両方の鼻の穴にティッシュを詰めて。隣のコートで誰かが忍び笑いを懸命に堪えつつ漏らしていたけど、聴こえないふりをしてあげた。ここでバスケットボールをしてる少女は私じゃあない、だから何ともないの。

「やりましょう、コーチ」

血の滲んでるのが分かった。自分の下ろされた瞳に映る半分赤い塵紙。有頭コーチは何にも言わないまま、短く笛を吹いた。

「ナイッシュウ!」

ゴールを決め知紗とぱちん、と手を叩き合う。バスケを始めたのは中学に入ってからだった。流行ってた、ただそれだけ。あの頃私は大切なジャンクションを迎えていた。心に生傷もあった。新しい自分にも、ならなくちゃあいけなかった――結果、良かった。スポーツはストレスをかなりと言っていいほど緩和してくれる。それも毎日避けられない、避けようのないストレスを。

明葉高校を選んだのはただ家から近いことと公立というだけ。「私」は。知紗は違った。彼女は16才らしく、恋をしていた。あの隣のコートの錆びた色のゴール下で汗を拭う横顔に。その為だけにここにいた。黒々した髪が特徴的、他中との試合で何度か見かけたことを私も何となく覚えていた。中3の夏彼と同じ塾に入ってまで志望校を探りいざ合格、見つめられる距離にいたいっていう彼女の健気さを私は羨ましく思ってた。けど、祈りは打ち破られた。男子バスケ部の男らとは交際禁止というルールが、私たちの頭上にはでかでかと掲げられていたのだ。こんなに可哀想なことはない――だって、二年も片思いしてるのに?ねぇ?どうして、とコーチに言ってあげたい気持ちだった。もし彼女が規則に背いても私はきっと知紗の味方をするだろうし――それに知ってて、傍で見ていて、そうしない女の子がいるだろうか?


ねえ知紗――四季を二回も通り越して貫く恋心って、どんな気持ち?早く帰りたくなった。帰ってノートに、頭に浮かんだ文章を取りだして今すぐ書き出したい。私のインスピレーションのお馬さんはチャンスの神様よりせっかちだった。そして昔想像してた自分より今の私はすべてをうまくこなしていた――完璧なくらい。が、さっきも言ったとおりストレスは感じてるまま、それもかなり。しかも根源は変えられようのないものときてる。でもよかった。だって紫色したUMAのように他人から見られるくらいなら、ずっとこのままでいいもの。


家の付近まで来ると、前の道路にまでカレーの匂いがして来ていた。多分うちだろう、ママの作るカレーの匂い。「ただいま」と大きめに声を出し私は扉を開けた。

「お帰り!」

にこやかな顔。ママは私に忙しそうな素振りひとつだって見せない人だった。明るく茶色に染めた長い髪を綺麗に後ろで捻り留め、いつものよう台所でなにか料理を作り終えて生ゴミの袋を結んだりとか、冷蔵庫の中身をチェックしたりして立っていた。

「お風呂も入ってるからね」

ママの言葉に「うん」と頷き、美味しそうだから先に食べる、とリヴィングの床に部活のバッグを静かに置いたあと、ダイニングテーブルの椅子を引いた。

「知紗ちゃんもまた、バスケ部入ったんだね――ママ、あの子好きだわぁ。感情表現豊かって感じで」

そうだね。ママと、似てるしね。

「ごちそうさま。ママこれ美味しかった」

きゃあ、ほんと――と喜ぶ顔に微笑んでバッグを持ち、二階の自分の部屋に続く階段を電気もつけずに駆け上がる。踊りだす、うきうきしてく心。かりそめの私の姿からばらばらと音を立て鱗のようなものがはがれ落ち、きらめきながら階段中に瑠璃色の破片が散らばる空想をした――ドアに手をかける。ゆっくりと。そうしてやっと心の底から笑える。私のほんとの居場所は、ここなの。

scene2

部屋に入り、後ろで黒ゴムで一つに結んでいた髪を解く。部活の時も同じだった。手早くサイドの髪を纏め簡単なハーフ・アップにし窓際の机のシェードランプをつけた。優しさの滲むような光、いつものことだけど照明相手に母性すら感じる。部屋のシーリング・ライトはつけないきまりだった。

抽斗からノートを一冊取り出す。なんてことない普通のノート、5色セットで買った安い物。それと「JETSTREAM」のロゴがかいてあるボールペン――0.7ミリタイプの。ぱらぱらとページをめくり昨日の続きを読み返す。他の人がどうかは知らないのだけれど、私が物語を書くときは即興が多く、かなりさっきのインスピレーションのお馬さんに頼ることがよくあった。それがいいかどうかまでは分からない、比べる対象がいないから。でもかまわない。少し古いオーディオの電源を入れ音楽をかける。「美女と野獣」のサウンドトラックのCDを手に取り、裏の銀河みたいな鏡の触っちゃいけない部分に自分の顔を映した後、そっと優しく入れ込んだ。肩の力が抜けぼおっとする。至福のひとときだった。息を吹き返すような安堵感、誰にも傷つけられることのない絶対に安全な空間。ママには内緒の。私の子ども時代の話を――11くらいの頃だった。無口で、静かな娘だった。機嫌が悪いとか何か悩みがあるとか、そんなことは一切なく、私はただ熱中していただけだった――ありとあらゆる物語に。嵐の夜にやってきて豆の上に眠らされるお姫様やお喋りな月――家の中で秘密の扉の暗号を解きそこを開けると海に出る話たちに。一日中お家の中でじっとしててもかまわないし、むしろそれを好んでいたふしがあった。手に本さえあれば。流行りのゲームや玩具がなくても物語さえあれば幸せな日々を過ごせる幸せな子どもだった。

転機はある夜だった。それも多分同じ頃だったと思うけど、ぼんやりしててはっきりと覚えていない。家庭訪問があったからたぶん進級してすぐ、ちょうど今みたいな春の夜あたり。ママがパパに相談を持ちかけていた。ママの声のトーンに何かを感じとった私はリヴィングへの扉の前の暗い廊下でじっと息を殺し、聞き耳を立てた。自分の心臓の鼓動がドラムのよう、耳の中から振動しリズムをとっていた。

「どこか悪いんじゃないのか?」

「う…ん。先生も心配してたのよ、あの子は少し、他の子とは違うって」

「本人に聞いてみたらどうだ――亜希に。直接聞くほうが早いだろう」

「そう――なんだけどね」正直あの子、わたしにも時々よくわからないときがあるのよ。

エコーがかったような小さいママの声が、だんだん大きくなり繰り返される。あの子――よく分からないところがあるのよ。よくわからない。よく、わからない。よく、わから、ない。よく、わからないところがあ、る、の、よ。衝撃が、私の一番柔いところにある芯のよな部分を攫っていった。それは生まれて初めて自分を「おかしい」と疑った瞬間だった。そして証拠は次々手に入った。たとえば教室で休み時間に本を――小学生向けであってもほとんど同級生が手に取ることのないもの――開いているとき。降り注ぐ、子どもの躊躇のない物珍しげな幼い瞳。

「亜希ちゃんってなんか、すっごいよね?」
私はそれから本を閉じた。

私が中学に上がり運動部に入るとやっぱりママは飛び上がるよう喜んだし、知紗のようしゃきっとした可愛い女の子と友達になるとなおさら手を叩いて褒められたような気がしていた。あのエコーがかった声が私の耳には何度も何度も聴こえていた――良かった――良かった!普通の子に、なって!

ノートに「中川」と私は書いていた。物語の主人公の幼馴染に名前をつける。知紗の名字。こないだコーチの「有頭」を使ったばかりだった。ジャンルは様々だったけど今進めているのはラブストーリー――花を登場させるシーンで、細かい描写が必要だった。図書館で図鑑を開かなくちゃ。少しの間、ペンを置いて音楽に身を委ねる。いいな、ベルは。図書室をプレゼントして貰えるなんて。ほんとうの自分を愛してくれる、男の人がいて…。

「愛してるんだ」

紙の上でそう台詞をはなつ恋人。
全部、空想よ―――経験したことないもの。

愛してる。きっと、美しい感情。だってどの本にも書いてあった。愛は美しく、清潔で完璧。

「きっとそう」
この時はまだ、そう思っていた。

scene3

土曜日。バドミントン部ともちろん男子バスケ部も一緒に体育館での練習だった。ウォーミングアップ、軽く走り、ぐるぐる館内を回ってる時に知紗が前で――きゃあ…っと小さく、私に話しかけるよう声を出す。彼ら――他にも部員はいるはずなのに彼女には全くもって一人しか瞳に映らないようだった、そして私も段々それに頭と瞳がなれていく――が練習試合をしている最中だった。高くも低くもない背、知紗は身長が150cmしかないから何ともないんだろう。走りながらカーブで彼の横を通った時にさりげなく私と高さを比べてみる――あ――意外と。165、ってとこか。一度も手を加えていないような黒いショート・ヘア。それでも彼のジャンプ力は凄く、パスを貰うとあっという間に一点を決めてしまった――床が鳴る。コートで靴の擦れる音が私は好きだった。きゅっ、きゅ。きゅっ。

「亜希、亜希――見た?今の!やばいよもう、超カッコイイ」

小声で抑え気味に興奮する知紗に笑いかけながら髪をひとつに結び直す。「いいね」、なんて。太田修也は確かに面食いの知紗が好きになるのには納得の顔立ちだったし、高校一年生らしいガキっぽさは彼にはなかった。恋をするのに相応しい相手、なんて基準があるとするのなら彼はぴったしなんだろう。それに、あと十年位したらなんとなく、俳優っぽい。以前からそう思っていた。笑った顔はまだ私たちと同じくわずかな幼さが残っていて、私はなにかの本を思い出しそうになった。

―――ピイッ!

コーチが来て、それは私のあのお馬さんのよう遥か彼方へと走り去っていってしまった――笛の音にぎくっとしたあと練習を再開し、それからパス練に集中する。部室で制服に着替え鼻から少しずつ溜め息をじわじわ出していると、案の定知紗が話しかけてきた。

「亜希!カラオケ行くけどどおする?」

知紗と部員メンバーのサキコ・ヒロセ・ナナ、その他が話しかけてくる。行くいく、とロッカーのドアを少しだけ強めに閉める。分かっていたから準備はできていた。明るく言葉を返す準備、本音を箱の中に隠す準備、曲リストに神経を遣う準備。彼女たちとうまく会話をしながら携帯のメモを開き出す、スケジュール管理用のそれを。むりやり覚えた流行りの歌をずらっと登録していた。いわゆるカンニング・ペーパーのようなものだった。何故こんなことをしているかなんて誰にも聴かれることはない。誰の目にも触れたことはないのだから。多分ぽかんとするからだろう、映画の挿入歌の全く歌詞の意味の掴めない洋楽やせりふの少ないサウンドトラックの類を聴かされると。わざわざ確認しなくてもどんな顔が返ってくるかくらい、解せないわけじゃあなかった。場の雰囲気を壊さないよう子供もちゃんとこんな努力をする。本当われながらよくやってる――やりすぎてる。それでも、こんな生活をやめられない。絶対抜けることのない水針のよう、あのママの言葉と後から悟る態度のわけは、私の心にいつまでも刺さったままなのだから。いいの。言わなければ誰にも分からない、これが本当の私だなんて。

♪――泣きたいよ――♪

少し前に流行った唄の歌詞に、ぐうの音も出なかった。傷つかなくて済むから他の誰かになりきる――心の中でその誰かの私をなだめるような声がする。「明日は本が読めるのだから」、と。

scene4

開館時間に間に合うよう計算して家を出る。いつもの事だった。気分が良い。本を借りることはなかった。読んで帰る。それだけでも、充分幸せだった。いつもは部活中一つにしてるだけの髪をきちんと編み込み、後ろでシニヨンを作る。自動ドアを反応させ中に入り、いつも見かける館員さんに軽くお辞儀をしお気に入りの席へと急いだ。今日も空いてる。やった。

窓際のブラインドの隙間から花壇の薔薇が見られるこの場所が私は好きだった。荷物を先に置き、今日めくるページの本を探しに行く。ちょうど読みかけの本はなく、私は小公女セイラをもう一度、いや若草物語も、なあんて考えながらぐるぐると館内を回った――エッセイ集でも いいな。そんな気分だった。十分位で五、六冊を手に取り思うまま読書にふける。幸せだった。

これが毎日――毎日こうだったら。
「いいのに」

ページをめくる指。文章によって私の口角は、上がったり下がったりを繰り返していた。人は、まばらにいた。けど、皆それぞれ物語の世界の中、文字と文字の間に飛び込んで泳いでいた。あちらの世界で。この距離感の心地良さ。きっと、絵にして見せたほうがよく伝わるような、そんな居心地の良さがここにはあった。テーブルの4つある席のうちひとつが影を帯びる。私の目の前だった。読むのに夢中で気づけなかった―――呼ぶ声に。

「藤本さん」

男の子の、乾いた声だった。顔を上げた瞬間私はあの本の題名を思い出した。太田修也が微笑みながら座っていた。

scene5

白いシャツ、黒のボトムに紺色シャツをまとい彼は利口な置物のようこちらを向いていた。黒のNIKEのマークのついたリスト・バンド。ばっちりと瞳は合っているのに口から言葉は何も出てこなく――急に体温が下がり、海の底の冷たい石にでもなったような気持ちだった。絶望と焦りがばたばたと音を立て、やっとの思いで私に追いついてくる。もう一度めの前の事実を見やったあと、懸命に考えた。なぜここに、見られたくない人のうちの一人がいるの?

「誰か分かる?」

遠い声、近いのに。「もちろん」と心で返事をする。だってあなたは私の友達に二年も片思いされてるもの。

「バスケ部よね」

やっとの思いで唇を動かすと、彼はふっと嬉しそうに歯を見せた――似てる。私のイメージする、妖精パックに…。質問に答えても彼は動こうとせず、私は彼の目の前だがたまらず溜め息をついていた。なぜ日曜のこの場所でさえ、自分を偽らなければならない?拗ねた子どものような気持になる。それ位、動揺していた。何にも言わずに席を立つ。そういえば図鑑を探すんだった。

「……」

机にあった本の山をじっと見つめたあと彼は立ち上がり、ゆっくりと私の後ろを歩きついてきた。頭の後ろに両手を上げて組んで。

「本、読むんだな」

「そうよ―――イメージ無いでしょう」
そっけなく答える。ほとんどやけくそだった。自分の時間を邪魔されたことに少し、腹が立ってもいた。

「いや…言われてみればそんな気はするけど」

「なぜついてくるの?」

「なんとなく」

図鑑のコーナーで背表紙に「花と植物」を探す。
「あなた、何でここにいるの?地元じゃあないでしょう?知らないけど」

「ああ、隣町から来た」
ここに来れば あるかと思って。
「目当ての本が」

「本?」

「ああ」

「…何の?」

「気になる?」

「いいえ」

背後から、吹き出すような笑い声。振り返る。私の右足のつま先が、とんとん、と苛立っていた。

「何?」

「さあ―――何でしょう」
にやにやとする顔。

「何の、本よ?」

小声に少し怒りを乗せ、まくし立てるよう問い詰めた。彼は微笑んだまま何にも答えなかった。元の向きに振り返り歩き出す。

「あなたって、パックみたいね」

聴こえないよう言ったつもりのそれが彼の耳に届いたらしく、お尻に「?」をつけその名前を私に呟き返した―――何でもない、気にしないで。分かるわけない…か。言った瞬間、それは彼の口から飛び出した。

「妖精の?」

ぴたと足が止まる。今―――何て?聴き間違うはずなかった。今、確かに言った。ヨウセイの。確かに。

「知ってるの?」

「何が?」

「だから!」ああ、もう。

「夏の、夜の、夢!」

ひとつひとつざっくりと切るよう問いかける。「ああ」、と思い出したように彼は言った。

あれだろ? 恋の…きちがい…スミレ。

私はネジ巻きの玩具のよう、ゆっくりと唇と瞳をひらいた。自分の顔の張りつめた緊張が解けて頬が緩みだす。口なんて、嫌でもにやけるしかなかった。胸が、やけにどきどきしていた。向かい合う。太田修也と。知紗の…と。

「そうだな」

「どうして?」知ってるの。

そう言いたかった。妖精パックは何にも言わず、ただ「さあね」というような瞳を私に向け、それから後ろで組んだ両腕をぱっと降ろしたあと、少しだけ哀しみの表情を見せた。

scene6

試合終了のブザーが鳴る。ひどく機械的だった。それでいて汽笛のよう、少し悲しげな音。

「……」

正直見えなかった。本を嗜むような男に――見かけは至って普通のどこにでもいるような今時の高校生、言い方は悪いが本の中の細やかな表現や感情の描写を好むようにはとても見えなかった。あっけらかんとした態度、よく動きよく笑う。男の子特有の好奇心そそる謎解きミステリーならまだしも――シェークスピア?

「なぜ?」ピピッ。

「藤本、次入って」コーチの声。

「はい」

髪を結び直しながら駆け出す。あれから図書館で少し館内を散策したあと、太田修也はじゃあなとだけ言って帰っていった。私は思わず呼び止め――らしくない――ほんとにらしくないんだけど誰にも言わないで。そうお願いをした。なんの事かと聴く様子もなくああ、とそれだけ言ってまた歩き出した。彼が読みたかった本は見つからなかったようだった。

今日も二チームに分かれて練習試合をしていた。私と知紗はタッグを組み、何度も何度も瞳で合図をしあいパスを繰り返す。先輩たちもマークはするけど簡単にボールを取られたりする事はない。そのくらい中学から続く知紗との連帯感は強固で、うまく完成していた。がこん、とボールとゴールの輪郭が重なる。隣のコートであのきゅっ、きゅと靴の擦れる音がしていた――向こうも試合中だった。

修也。

小柄で細身の、いたずらな笑顔。ミステリアス、小説みたいな男。知紗の好きな男。うその私の、友達の。

今週は無理だけど、来週なら…。

彼はきっとまた来る。図書館に。
ちがう。

来て、欲しかった。

scene7

また土曜がくる。空気が澄み、月の綺麗な夜だった。知紗の家に部活のメンバー5人で集まっていた。彼女の部屋でスマホ片手に寝っ転がり、ほんとは制限されているお菓子をばりばり全員でたらふく食べ、更にはDVDもつけながら会話をする。時折この曲めっちゃいいよね―――と一人が音楽を流しだす―――ゲームセンターのほうがまだましなんじゃあないか?そう思うことは少なくない。多々あった。それでも私は笑って相槌を打てる、彼女たちと波長を合わせながら。人間の適応力ほど素晴らしいものなどないのだ。知紗が派手な柄のクッションを抱きかかえる。

「あーあ、修也くんに会いたい」
修也。このふた文字に神経がぐっと集中した。私は人と喋るとき、頭の中に文字が浮かぶ。音を聞くとすぐ漢字を当てるのだ。しゅうや。修や。修也。

「また、始まった」はいはいと私は言う。

「もう、本当に好き。今日も格好良かった――ばしばしゴール決めてさ」

ナナが笑って、
「告白しちゃえって、もう。そんなに好きならさ。黙ってりゃわかんないって」有頭に。

「あたし達が言う訳ないじゃん。協力するよ」
ヒロセ。

知紗は、ん――と嬉しそうに苦しんで、
「無理っ!」と言い放った。

「良いの。顔が見れるだけでも嬉しいもん」

これも本音だろうが有頭が怖いんだろう、実際は。ふと考える――あんな、常に不機嫌で、長年の不満を彷彿とさせる眉間のしわとほうれい線を持つ40代の女性でも、胸が切なくなるような燃える恋をしたことがあるのだろうか?人生で、たった一度でも。

「でも もし―――」告白するって決めたら、その前に――みんなに言うからね?知紗の上目遣いでにやける顔がクッションの向こうに見える。場を盛り上げるよう、あたし以外の三人がふぅっと高い声をあげた。

「ああ――亜希。死んじゃいそう、想像しただけで。助けてよ、そのときは」

知紗のじっとりした手をはねのけるのを堪えもちろんと笑った――「任せて」。複雑な自分のこころのノイズを、無理やり単調で軽薄な味のしないポップ・ミュージックでかき消し、私の心はただただ幻の国のような日曜だけをはやくはやくと待ちわびていた。

scene8

足早に私は図書館裏の薔薇の園を抜けていた――「いる」?それだけ考えるようになっていた。考えてしまうように、なっていた。


自動ドア。いつもの館員さん、紙の匂いのたちこめる通路。いつもの席。ブラインドの隙間からさっきの美しい薔薇。

「修也」

見渡すかぎり、いなかった。そうよね…本は。なかったみたいだったし。鼻からふ…と恐ろしく長い息を吐き荷物を置いた。何を読もう。何を…。変な感覚だった。

ぶらぶらと適当に館内を見て回る。アメリカ文学のコーナーでエマ・クラインの「The girls」を手に取る。キングもお気に入りの「ジョイランド」と「IT」を。刺激的な文章が読みたかった―――何を―――勘違い、したんだか?

いちばんぶ厚い「The girls」をぱらりと読み進めていく。繊細な少女の心がかぎりなく現実的に描かれている作品。お気に入りの本のひとつだった。疲れている時には読めたものじゃあなかったが。ぼおっとあちらの世界に入りかけた時、ふと視界にキングの文庫本を取る誰かの細い腕が見えた。

「怖え」

深めに被った黒のキャップの下で笑う唇――修也だった。向かいに座り、しばらく表紙のピエロの顔を見つめたあと目線を上にやる。彼と私の瞳が合った。

「先週いなかったな」

頁をめくる、指が止まって。瞳が合う。あの妖精ともう一度。

「友達と…いたから」

「へえ」

「まだ見つからないの?本…」

ああ、とキャップを取る横顔。

「もしかしたら、見落としてるんじゃねーかと思って」

「司書さんに尋ねたら良いじゃない」

「やだね」

立ち上がりもう一度キャップを被る。

「お前、随分違うよな」
あっちと こっち じゃ。

「いけない?」

「いんや」

「探したら?本」

「分からなくもないよ――お前の気持ち」
独り言のよう呟く。

「ひとの話、聴いてる?」

私は思いがけず笑顔になった。なぜか、可笑しくてたまらなかった。こないだの「藤本さん」から急にお前呼ばわりするところも。会話のキャッチボールをいきなりかわしたうえ、彼は別のものを投げかけてきた。

「スティーヴン・キングか。良いよな」

「あら。読むのね、本」
皮肉のつもりで微笑む。

「そう。イメージ無いだろ」

「全く」

「イメージ通りだよ。映画しか観たことない」

「本のほうが素敵よ」
手から文庫本を取る。

「棚になかったけど「アトランティスのこころ」と「メイプルストリートの家」が一番好き」

彼はじっと私を見つめた。

「そおいや、スティーヴンなんとかだったな。あの本」

「どんな話?」

「……」

「良いじゃない。誰にも言ったりしない」

「急かすな。思い出してるんだ」

ぴっと指を出す。「宇宙の―――」「ついてきて」彼が言い終わらないうちに私は歩き出した。

「まじかよ?」

児童書のコーナーで、はいと手渡した。
「こっちは確認しなかったのね」

「ああ――まさか小学生向けと思ってなかった」
スティーヴン・ホーキング 宇宙への秘密の鍵。

「普通、キングの名前でここまで出かかると思うんだけど」
自分の喉元に指を揃え手をやった。

「文じゃあピンとこないんだよ。絵がないと」

「ふぅ…ん」 「サンキュ」

「どう――いたしまして」

シェークスピアの謎を解く気はなかった。ただこの生まれて初めての心地よい会話を――一言一句記憶に刻もうと思った。なあ、と修也が囁く。

「俺だけ?こないだからお前の事ばっか考えてるの」

scene9

午後22時。自分の部屋でノートを開く。いつものよう、電気は手元のライトだけ。オレンジ色した古い電球の下いつものよう前のページを読み返した。確認をし書き始める。すらすらと動くボールペン。もう、なんとなく気づいていた。ヒロインの恋人が誰かに似ていっているという事に。

彼の話し方、服装。髪を切らせ同じ黒のショート・ヘアに近づけていく。しゅうや…修や…修也。ひらがなが溶けたあと、あのとき浮かんだ文字になる。

「修也?」

あっちの世界で夢を見れてもこっちじゃそんなことはなかった。誰といても私は陸に打ち上がる魚、そして人生とは誰かに合わせなければならないもの。「自分」とはこんなふうにこそこそと、限られた空間の中でしかさらけ出してはいけないもの。多分死ぬまでそうなんだろうと思っていた。誰かと歩幅を合わせる気がないのなら生まれてきてはいけない。たとえどんなに息苦しさを感じてようとも、心がどれだけ叫んでいようとも。私のなかでそれは不変のはずだった。この世の真理、森羅万象の掟、避けられようのない、避けようのない私のストレス。そして変えることの出来ない先天的、そして個人的に与えられた罪。きっと世界はずっと教えてくれていた。非現実的なものを愛してはいけないよと。ただ過去にひとり、それに気づけなかったばかな少女がひとりいたということだけのはなし。それだけのはずだったのに。

知紗の事を忘れたわけじゃなかった。でも彼と話す時のあの素でいられる、金色の花の蜜を舐めるような瞬間。私の頭をしびれさせ他にもう何も考えられなくなる刹那の安息。遅かった――遅すぎた。何もかもが。遅すぎていた。今になって思えば、このときには もう。

日曜になると私は自然とあそこへと足を運んでいた。そして彼も。約束するわけでもなく私たちは毎週のよう図書館でおちあい、話をし、本を読んだ。修也はいつもハリウッドスターの伝記や写真集、意外にも絵画集を開いていた。

「一番好きな映画って?」

「…」
ぱたん、と大きな本を閉じる。

「ありすぎて、決められない」

「そうなの?」

「お前は?」

「ウォールフラワー。エマが素敵」

「へぇ…」

「美女と野獣はアニメの方が好みだけど」

「お前、少し似てるよな」
 エマ・なんたら。

「そんな訳ないでしょう」

「目が似てる。最初に見た時思った」

「ここで?」 「いんや」

「まさか、学校?」

「ああ」
 嬉しさを隠しながら話を振る。

「好きな俳優は?」

「リヴァー・フェニックス、ジム・キャリー、ビル・プルマン、ジェームズ・スチュワート、キーファー・サ…」

「一人よ」

「ならリヴァーだな」

「雰囲気は近いけど身長が負けてる」
 死体を探す 子供の役どまりね。

「うるせー。まだ伸ばすんだよバスケで」

「髪じゃないのよ」

知紗の事は黙っていた。どうしても言いたくなかった。そしてあの「交際禁止」のルールも私たちのことを少なからず支配していた。連絡先も知らない関係、恋人になろうとするなんてもってのほか。それでも、別によかった。

「役者に…なりたいの?」
 目を伏せたまま尋ねる。

「ああ」
 ページをめくる、細い指。

「ふっ」 「?」 

「いや…」

「何よ?」

「生まれて初めて人に話した」

あんまり進まなくなっていた。私の物語、この日を境に。5年間で一度もなかったのに。一度も。

家に帰って、鍵付きの抽斗を開けた。赤と緑のタータンチェックのカバーのノート。好きな詩を書きためてあって、ページは20枚以上残っていた。私はこれを修也との交換日記に使うことにした――図書館の中で、一番古くて暗いところにある、これを読みたがるなんて相当もの好きだろうというような、誰にも読まれず綺麗なままのそのぶ厚い本に挟んだ。私がいないとき修也が、修也がいないとき私がノートに好きな事を書き込み本の間に戻す――そして二人が揃った時はそのノートの内容を読みあった。広い図書館の一番奥で。

「素晴らしき哉、人生!は見た?」
 床に直接座り本棚に背中を預ける。

「いや――まだだ。今度見てみる」

「裏窓と違うあの人が見れるわよ」

ぱらぱら、とノートをめくる修也。
「ジェームズ・スチュワートか」――ええ。

突然ばっと寝そべる体勢から起き上がり、隣の私の目の前にノートを掲げる。

「最後の行、なんも書いてない」端を摘む指。

「そうよ。今日来たから」

「ここは?何で飛ばすんだ」指をさした。
 あき って どういう 字 ?

「水瓶みたいな形の亜に希望の希」

「俺、水瓶座」
 またページをめくる。次、とノートを指す。
 この前の 質問の 返事は ?

「この前って?」

「言っただろう。お前と二回目にここで会ったとき――こないだから、お前のことばっかり考えてるのは俺だけか、って」

「そうね」 「なんだよ、それ」

「私の事は考えてないけど、太田修也の事はときどき考える」

呆れながら溜め息をついたあと瞳がじろりとこちらを見た。期待する表情。そして問いかける――「毎日?」答える。朝起きて―――うん―――夜、眠るまで。

修也の顔が近づいてきて私はとっさにノートを彼の手から引っこ抜き、唇と唇のあいだにすべり込ませた。瞼を閉じる、彼が見えた。ノート一冊隔てて、私たちは物凄く近づく。スロウで離れる唇。何でだよ――とも言わなかった。微笑み合った。言えなかった。私も、ほんとは夜眠るまでじゃなくて夢の中までよ、ということも。

scene10

明葉高校だけじゃない。学生は例外なくテスト期間へ入る。部活動もそこそこになってきた頃、でも日射しは強くなるばかりだった。

「亜ー希っ!」

「おはよ――知紗」

「あっついよね――部活なくて本当幸せって感じ。死ぬよ、あたしたち」

「ほんと」

ふふ、と笑って返事をする。自分を省みる時間は増えていた。あのときから…少しずつ。実際私にとってもうバスケは意味を持たなくなっててもいいように思えていた――だけど、そうは問屋が下ろさない、とでもいうところか、問題があるとするのなら目の前にいる知紗との関係とママのふたつだった。


ママと知紗は一見関係のないように見えて実は密接に関わってると思っていた。なんて言う?もし、バスケから遠ざかって。その最大の理由が自分の二年の想い人だって暴露してしまったら?なんて答える?知紗と離れてママに不審がられたとき――わたしが私らしく生きようとするとき――一体どうやって、どんなふうにママの肩を慰めれば?


どう転んだとしてもきっと、修也と二人堂々と――河原や海岸や学校で本を読み合える日なんて来ないことは分かっていた。百歩譲ってもし修也と付き合えたとしても――万が一にもありえないが――知紗と和解できたとしても、私はまだ物語の世界が好きな自分をさらけ出すことが、死ぬより怖かった。世界に向かって、詩や、美しい音楽、誰かが創った空想の世界、それら全てを書き連ねた文章を愛してますと言うこと、愛していますと、心から叫ぶことが。放課後用事があるからと知紗の誘いを断って図書館へと足を運んだ。男子バスケ部も今日から休みのはずだった。


修也がいると思ったのに、いなかった。
「そんな…」


初めて不安になった。口約束のひとつも交わしたこと、ないくせに。彼女気取り。思えば私が修也の特別な存在だっていう証拠なんか、瞳に見えるものでは何ひとつなかった。あのやり取りだけ、私の心が知ってることは。あのタータンチェックの――赤と緑のノートすら、ただの彼の思いつきで…片付けてしまうのなら。黒い背表紙。言語の解せない文章。丁度111ページに、いつもの交換日記は挟まっていた。ページを開く。今すぐ書き込みたかった。文字の最後尾を探す。泣きたかった。


一瞬世界が止まったような気がした。
私の番を抜かして修也の字が、連続で書かれていた。それは、いつもより感情的、それでいてきっちりと行間を揃えた文章だった。それまでのただ顔を合わせた時に聴いておけば済んでしまうような――愛らしい、栗鼠の呼吸のような些細な質問とは違っていた。

世界で一番好きな歌は?
 私の 字。

愛さずには いられない。
 修也の字。
お前は?
と書いてあるのに――その下に、後から書き加えたような文章があった。



もし

もしお前を この先
ほんとうに
愛せなくなる日が いつか
来るとしたら
俺は
どうしたら いいのか
教えてほしい
本気で、だ

亜希
直接 会って
言えそうもないから
ここに書く

「愛してる」



来たくなかったんじゃない。
来られなかったんだ。きっと、縛りつけるほど。抱きしめてしまいたくなる。壊れて、しまうほど。顔を見てしまえば、声を聴いてしまえば。修也もきっと、そんな感情の最果てまできてしまったのだと思った。私と同じように。こころの拠り所を見つけてしまった人間は――二度と後戻りは出来ないばかりか、過去よりももっと苦しむことになる。前に進まない限り。進み続けない限り…永遠に。何処の誰の角度から見ても、それは真実なのだった。

scene11

テスト期間の休み。女子バスケ部は二週間だった。

全ての部活が共通しているのかは知らなかった。あたしはママに部活のミーティング、もしくは「勉強会」と銘打ち、毎日まいにち図書館に足繁く通った。修也はあのメッセージから文字を書きに来る事もなければ、館内で会う事もなかった。

「修也…」

疲弊―――していた。あの交換日記に来る日もくる日も私の文章ばかりが溜まっていった―――どうして?涙で、震える事もあった。彼のあの胸が張り裂けてしまうような詩のメッセージに、歌詞で応えた。ホイットニー・ヒューストンの「Run to you」。「I will always love you」。「thank god i find you」、マライア・キャリー――「気の遠くなるほど長い間 ずっとずっと一人ぼっちだった あなたと逢うまで」――書いてる途中で滲んでゆく景色。初めてこっちの世界で恋をしたと思えないほど、それは苦しく、愛おしく、狂ったよう、感情的だった。文字を読むことすら辛くてたまらない。それでも修也は返事をくれないだけで目は通してくれていると、願わずにはいられなかった。修也がいなくなれば本当の私はまたひとりに戻る。修也は、そうじゃないの?――もう、こんなに満ち足りた気持ちのわたしに出逢うこともなくなる。彼がいなければ。元々ひとりでいた時よりもそれは遥かにつらいことだった。誰とも夏の夜の夢のあの妖精の姿を分かち合えない。恋のきちがいスミレ――気違いと思われるのは、わたし。あのこころの開けた自分がいた幸せを知っていながらまた、永遠に自分を――そして世界を――だまし騙し、生きていかなくてはならないのだ。


泣きはらし、乾いた喉もそのままに私は児童書のコーナーへと入っていった。「スティーヴン・ホーキング 宇宙への秘密の鍵」。

まだ返却されてないままだった。私はカウンターへ行き本の行方を探った。最後に借りたのは太田修也ですか?―――知り合いで。

「私も借りたくて、待ってるんですけど」
彼がもし返してなければ、私の方から言いますので。

「――いえ、今借りてる方の前に返却してますね」

かち、と貸出履歴をひらくマウスの音がする。瞬間、声がよみがえった。あの本を見つめる修也の。こないんだよ――が…ない…と。

文じゃ ピンとこないんだよ、
絵が ないと。

はっと、瞳が数秒ひらく。私はくるりと向きを変え歩き出した。一番古く、暗いあの棚の、相当なもの好きしか読みそうもない、あの本へと向かって。

scene12

山と川のボタン。DVDを取り出す際の、または入れる時に使う隅っこのあのマークを、そう呼んでいた。

「マイ・プライベート・アイダホ」
「ゴースト・バスターズ」
「ウォールフラワー」
「めぐり逢えたら」

ガチャガチャとプラスチックのケースに入ったそれらを独り言とともにリヴィングのテーブルに投げ出す。片膝を立て、茶色の革のヴィンテージソファに背中を預けていた。

「これにすっか」

91年、リヴァー・フェニックスの「マイ・プライベート・アイダホ」。男娼役。表情ひとつひとつに虜になる――もう、何度も観ていた。彼の、愛嬌のあるあの口元と長男というところにも親近感を覚えていた。俺は一人っ子なのだが。

「……」

がちゃんと鍵の扉を開ける音――ふぅ、と鼻から息を出しリモコンの停止ボタンを押した。ぱちりと電気をつける音。母だった。

「…ただいま」
 電気くらい つけなさいよ。

「何も言わないんだな」

「お望みならば言うわよ」
 コート―薄手のベージュ色を掛ける。

「ご飯、ちゃんと食べた?」

「ああ。母さんは」

「食べたわよ…軽くね。倒れるもの、食べなきゃ」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグラスに注ぐ―――はぁ。一気に飲み干し、嬉しそうに息をついた。部屋へ戻ろうとDVDを取り出しケースにしまう。4枚まとめて持ち上げ肩へ置いたところで、ちらりと母がこちらを振り返った。

「柊也」 「ん?」

「大丈夫?」 「…」

ああ。それだけ言って部屋に戻る。リヴィングより小さいDVDプレイヤーで、さっきの続きを観はじめる。青白い光。手元のゴーストバスターズ、ではない彼女の一番好きな映画と画面を交互に見やる。何度かそれを繰り返した。


―――途中で 止めればいい。

「そうだ」


苦しくなったら。どうしようも、なくなったら。

あの、山のふもとを流れる川に。全てをさらっていってもらえばいいさ。

scene13

大会を控えていた。
テスト休みが終わってメインのテストが終わって――入学してから初めてやる他校との試合だった。ニ、三年に混じって出場選手に選ばれていたのは私と知紗とサキコの一年は三人だけだった。本人のそのつもりはなくとも、やはりあたしと知紗のチームワークは高校でもわりと高い評価をえているようだった。

「走れ、走れ、走れ―――!
藤本!ぼけっと、するんじゃない!」

いつもなら「はい」と馬の如く颯爽と返事をするところだがそうはいかなかった。私は小説――自作の物語――を書く事を、前にも増して再開するようになっていたからだ。

夢中になればなるほど「あちら」の世界にどっぷりと首まで浸かってしまい、心なしか食事の量も減った。ママには、部活から制限を受けている、本当にやばくなった時は食べる、だから大丈夫よ、と明るくかわしてした。自分の身体からみるみる脂肪が無くなっていく。軽くなるという感覚を初めて味わった。お腹が、へこへこする。体育館内を10周回ったところで平衡感覚が無くなってゆき、瞳がゆっくりと――半分ずつ、閉じていく。

足が。もつれていく。それと同時に薄れる意識。こんな状況の中でさえあたしは、この感覚を…文字におこして…つか…え、る。そう、考えていた。

ごつ―――と硬い板に激突する音と、側面の半身の痛み。身体が、ぴくぴくする。ああ。いま私は、とてつもなく…みっともない顔をしている…ちかちかする瞼の裏。瞳を開けて、有頭コーチや他のメンバーに、「大丈夫です」と言いたかったのだけれど、それは叶わず、やむを得ず白目を剥いてしまった。左手が紐のようなものに触れる。なんとなく、体育館を二つに仕切る為のネットだと分かった。手を、つっこむ。薄れゆく意識の中。視界が完全に塞がっていたし目眩が物凄いし、白目に加え左手は奇妙奇天烈な動き。

(藤本――)

コーチの声がする。さっきまで体育館いっぱいに部活生がたくさんいた空間にいたのに私は一人ぼっちだった。全員の声が、遠くなる。やめて。行かないで。はやく、行って。戻ってこないで。ここに、いて。離れて。そばにいて。やっぱり、消えて。

想いが、文字になっては消えていった。

猛烈な吐き気で自分が戻ってくる。げ、ほ……と空の内臓から胃液だけを追い出したところでぷつん、と、私は外の世界と切り離された。

scene14

「柊也」

 母の呼ぶ声。

「牛乳。飲んだらちゃんとしまって」
 すぐ 悪くなるのよ この時期。

「あ…ぁ」

窓際の木製の椅子から立ち上がり、リヴィングのテーブルの上の青のパッケージの牛乳を片付ける。まだ半分以上残っていた。こめかみに熱が溜まるようだった。急に立ったから。それくらいの間、ぼおっとしていた。

「あなた部活は?」

「休み」 「そう」

――戸締まりだけ、きちんとね。そう言って太田香――母は仕事へと出掛けていった。何処にも行く気分ではなかった。あんなことを書いた後では。

「…」
 もう―――読んだろうな。

ソファに腰を下ろし、両手を頭の後ろで組み脚を前のテーブルに投げ出す。母の居る前では決してしないが、十五分も経てば夜まで戻らない事は確実だった。文章を書くのはあまり得意じゃない。書くよりは読む、読むよりは観る、そして何より観るよりは演る。それが全てだった。かなり早い段階で、自分の人生の目的というものが分かっている方だった。が、どうでもよかった。周囲に何と言われようが。わざわざ告げる必要もない。誰かと自分の世界を分かち合おうなど、微塵も思ったことなど。役者になりたいだなんて。卒業文集に将来の夢は「NBAの選手になって神童と呼ばれる事」、と書いて周囲を楽しませた。そこまでバスケに情熱を注いでいた訳ではないし、身長もあるからだ。仲間は好きだった。だけどずっと――ほんとうに心の底から探し求めていたのはずっと、情熱的になれるような相手だけだった。狂おしいほどの恋。母ともういない父、太田和範。二人のような恋がしたいんだ―――頼むよ。

あんなの詩でもなんでもない。
「ただの…手紙とおんなじだ」

子供の落書き。はい、お母さん。母の日に贈る似顔絵。いくつも本を読む亜希にとっては陳腐なもの。なんとなくそれらしい言葉を並べただけ、それでも書かずにはいられなかった。「愛してる」。

父さん――どんな顔して、あいつに逢えば?

天を仰ぐ。瞳を閉じ口を開き、溜め息をつく。父さん。子供の頃くれたあの本。貸したまま戻ってこない。「スティーヴン・ホーキング」、読んだけどほとんど覚えていなかった。

悩んだ時は…星に想いを馳せるんだ、柊也。きっと、全てがちっぽけに思えてくる。宇宙から見れば俺たちは、砂粒より小さい…の…さ。

「…のわりには、手に負えないな」

あの、瞳と唇ににじむ知的な色。交わす言葉。すれ違う時。近くに…いる時。向かいに、座る時。紙をあいだにキスした時。香る清潔な気配。そう、たとえ血の滲んだティッシュが、両の鼻の穴に詰め込まれていたとしても、だ。

「でかいんだ」

とてつもなく。手に負えない。手に――負えないんだ。見上げたまま、雨のよう呟き続けた。あれからテスト休みが終わった後そう、試験日から2、3日後だ。一度だけ閉館ぎりぎりに図書館へ行った――が、肝心なあのノートが、無くなっていた。思わずあの本が違うのかと考えたが、まちがうはずなんてなかった。挟む本を変えたのかと両脇を確認したけど見つからなかった。亜希に会うことももちろんなかった。その日。


(きっと――持ち帰ったんだろう)


ばつが悪かった。そう謝れば済むのにそうしなかった。「愛してる」、なんて言っておいて。ほんとうはどうしたいのかなんて、考えなくとも分かっていた。わかっていたあいだにもなお、この前に投げ出されたままのふたつの足があの場所へ、あの図書館へ。あの二人だけの、秘密めいた場所へと向かうことはなかったのだった。

scene15

「そうなんですよ」


ええ、ですから――おかしいじゃあ、ないですか。ママの声をBGMに果物を口に運びながらテレビを観る。二日前の私からは想像もつかないほど、もう、すっかり回復していた。


「大会前だっていうのに――食事制限だなんて。あの、うちの子脱水症状まで起こしかけていたんですよ?…ええ。先生も、お分かりでしょう?あの時いたから」


どう、言い訳しようか。もう科白は決めてあった。だからこんな余裕しゃくしゃくでくつろいでいられるのだ。


「ええ。…ええ。はい―――えぇ?」


ママの一挙一動で有頭コーチの言葉がなんとなく伝わる。そろそろだろう――ママが首を思い切り私に向けた、もげそうなほど――ほらね。

納得したようなしてないような、怪訝な表情。かちゃりと受話器を置くと手も離さずこちらに語りかけた。

「どういう事よ、亜希?先生、食事制限なんかしていないって。嘘をついてる態度じゃあ、なかったよ?確かに炭酸飲料やお菓子は口にしないようにって言ってたけどって」


林檎を噛み砕きごくり、と喉に押し込む。
やたらと水分の多いらしかった。

「亜希?」
ママの言葉に諦めたような態度を見せる。わざと、微笑んでみせた。とても…そんな気分では、なかったのだけど。脳裏には私が倒れ、高校から救急車で最寄りの総合病院まで運ばれ、その次の日のこと―――知紗がお見舞いに来てくれた。まさにその日が、浮かんでいたのだった。


「亜希!――調子どう?もう、びっくりしすぎて。心臓止まっちゃうかと思った――起きてて平気なの?」

「うん、だいぶ良くなったし――ごめんね。練習終わった?」

がんがんしていた。実際のところ頭は。知紗の高いきんきんする声も、心なしか大きく聴こえた。

「うん。まぁ、面会行きたいからって言うとさすがに有頭もなんにも言わずに帰してくれたよ。うわ、点滴。痛くない?やだぁ、あたし、絶対無理」

「何とも」

青い顔でにっこり。口角を横に引っ張る。自分の肌がかさかさで、ものすごく不愉快だった。

「良かった―――ねえ亜希…あのね、あたし」
 修也くんに 告白するから。

 え?

両手で口元を押さえスカートの下の両脚をきゅっと閉じ、知紗はこそこそと言った。自分で自分の気持ちの高まりが止められないように、彼女は瞬きを何度か繰り返す。

「あの後ね」
亜希が、運ばれてった後。皆で心配して見てた時。急に修也くんに。後ろから、

「このへん」

がばって掴まれて。思わず、何ですかって、言っちゃって――あたし。指を肩に滑らかに沿わせる知紗。針を指してある左側の指先が、どくん、どくんとする。普通じゃない。自分の身体だもの。 

触られちゃって。

私が、怒ってる。
「そうなの?」
 やったじゃん――グシャリ。

「うん。だからやっぱり――あぁ、好きだな、って。そりゃあ、言ってどうなるかは…分かんないけど。ね、亜希、協力してね。もしあたしと修也くんが付き合っても――」

「言わないよ、当たり前じゃん」
 死んでも。

「お願いね」

「言わない。で、いつするの?」
 告白。

「ん…大会が終わってから。オリエンテーションの日」

「そっか」

「ふふ。亜希に言えてよかった。心強いよ」

「そう…かな」

「亜希も、早く元気になって。最近付き合い悪かったし。皆でまた近い内集まろうよ――つまんないよ、勉強ブカツ勉強ブカツじゃ」

「うん、そうだね。ごめん、もう少し寝たほうが良さそう」

「じゃ帰るね。また学校で」
 あぁ――どきどき、するぅ。

出ていく。小さい、後ろ姿を見送る。
私の頭の中で、眉間に点滴針を刺された知紗の分身が、うずくまった…。

「――亜希!?」

ふっと自分の家のリヴィングに帰ってくる。目の前でママが顔と上半身を右斜め上に傾け、両肘を立て手を脇腹に置いてこちらを、目をひんむいて見つめていた。驚いたニワトリみたい。そう思った。私は微笑み直して、林檎の匂いのまだする唇をゆっくり文字通りうごかす。

「好きな人ができたんだ」

scene16

演技をすると物凄くエネルギーをつかう。

あまり真剣にやっているとはいえない部活の前でさえ、台詞を読むことはなかった。大抵土曜の夜、母さんが帰ってくるまでの――部活が終わる午後15時から21時頃まで、細かく言うと。飯や風呂、大体シャワーだがそれらを除いての時間をまとめて演じることに費やす。食事は母が用意してあるので、作る時間はかけずに済む。

喉が乾くのはわかっているので予め近くに用意をしておく。たまに勢いあまってこぼすことがあるから大体はキャップのついたペットボトルを使うようにする。

「―――はぁ」
 キッチンの流しで水を含み出す。

ぴかぴかのシンク。母さん。自分の顔が見える。父そっくりの目元と、母の細い身体の線、背丈。爪の形まで。自分が二人の全てを分かち合い、愛されて生まれてきた事は知っていた。黒々とした濃い髪。これも父さんのものだ。唇は母さん。耳の形も…。

だけど。あとひとり――いや、欲を言えばせめて三人は。もし俺に兄弟がいてくれれば、二人の愛を分かち合った結果がここにあれば、もっと堂々と演技が出来るのに。そうだ。分散、できないんだ――心配というひとつの愛が――俺めがけて制止してくる。駄目よ。それだけ、は。

「……」

あのノートはどうしてるんだ?

 同じ柄の。このカバーと、おなじ柄のを持ってるのよ。ブランケット。物語を書くときは、決まって、太腿から膝にかけてるの。赤と緑の、タータンチェック。

窓際の木製の椅子へと向かって、どすん、と音を立て腰掛ける。瞳を閉じた。寒くなくても、かけちゃうの。太腿からひざに。絶対…物語を…かく、とき、は。


自分の手首を顔の前に掲げる。
薄く薄く透ける血の色。
十秒ほど見つめた後、その少し下に自分の唇と、歯をあてがう。

「亜希」

想像と全く違う感触を無視し、彼女の唇を想った。

「ウォールフラワー」。最後まで、観れずにいた。何度も何度も手を伸ばさずにはいられなかった。彼女とそっくりのヒロインを抱き締めたくて。

あのノートを見つけたら、感想を書いてやる。どんなことをしても。見つけ出して、やる。

scene17

視線を。よく感じるようになっていた。


明葉高校の校舎は三つあって運動場を頭に縦に上から三年の校舎、職員室。次が一、二年の工業科。そして最後、中庭を挟んで一年と二年のビジネス科があった。分かりやすく言うと工業はほとんどが男でビジネスは女。私と知紗、ヒロセ、ナナ、サキコらも全員ビジネス科の生徒だった。視線は、修也のものではない。先週に突然ランニング中に倒れ、奇怪な表情を見せた私を移動教室などですれ違う時ここぞとばかりに覗きこむのだ。救急車が来ていた事はサッカー部や陸上部も知っていた。

バスケ部の女の先輩たちは、無理するなと優しく気遣うよう、声を掛けてくれるようになった。大会は今度の土曜――四日後に迫っていた。物語はというと性懲りもなく続けていて、それでも少しセーブ出来るようになった。加えて、あまりお腹が空いていなくても――食事の時間しこたま胃になにかを詰め込んでおくことで、問題はなくなった。

知紗は前にもまして可愛くなっていた。修也くんに告白する、実感が湧いてきたのだろうと思った。バスケのユニフォーム、白地に赤と黒のラインに着替える知紗の髪からは、人工的なつんとした花の香りがした。

いつもの女バスメンバーと会話を交わし着替えを済ませいつも通りに体育館へ入る。ストレッチからウォーミング・アップを始める。そして、館内を回周。これもいつも通りだった。あと十五分ほどすれば茶髪のボブに切り揃えた有頭コーチがやってくるだろう。すっかり全快している私を見てほっとした表情を見せた事は意外だった。眉間にしわを、寄せたまま。


「オリエンテーションって何やるんだっけ」
 コーチはまだ来ていなかった。

「あぁ、亜希、こないだいなかったもんね。シンボクをどうとかって――校内の結束をはかりますとか。あたしもあんまり聴いてない。部活動紹介が今更あるらしいけど一年は用無しでしょ」

「部員が少ないとこだけ?」

「みたいだよ」


オリエンテーション、知紗の運命の日。部員――バスケ部とバレー部も数名、ぐるぐるぐるぐると回る。薄汚れたグレーか深緑かわからないネットをかき避ける。向こうのリングの下を通る、きゅっ、きゅ。靴の擦れる音。そろそろ息も上がる頃だった。スピードを落としかけコートで練習試合をする修也を視界から追い出す。少し前を走る知紗の瞳がいつも通り彼を追う。反対側のリングを通ろうとした時、ふいに声がした。

「大丈夫か、藤本」

三年の男だった。男子バスケのランニングシャツ、修也と同じ。彼より6、7cm背の高い、薄い茶色の髪の男。とっさに首だけをそちらにやり「はい」とだけ答えた。彼は腕組みを崩さず微笑しコートへと顔を戻した。前を向けば良かったのにその男と一緒になって男子コートの方に視線をやった。修也が、こちらを見ていた。あの優しく語りかける唇をぽかん、と軽くあけたまま、彼の手にあった煉瓦色のバスケットボールは無残に奪い取られ、敵チームのゴールのリングの輪に重なったのだった。

scene18

曇り空だった。

薔薇も心なしか元気がない。そう思った。ナイキの創始者フィル・ナイトの本を見つけ一番奥の通路へと持ち込む。スピルバーグの――映像の歴史を収めたやつ――わりと古く、もう何度も読んだことのある本も。E.T.の皺だらけの顔がこちらを見た。

「…」

雨がゆっくりと降り出す、泣き喚く子供のよう。ぽつ、ぽつ、ぽつ…さぁぁ。



ノートはなかった。「今日」も。 あのテスト休みが終わったあと――あれからゆうに、一ヶ月は経っていた。大会が終わり同じ会場の別コートの低いポニーテールを見送り一度自宅に戻る。仲間からの電話の誘いを断り、気がつくと一人図書館に来ていた。


本をめくる。じめっとした空気が頬にかかる。床に座り込んでいて地面に近いせいか。


「いた」


頭上から声が降る。

「……」

低いポニーテールをなおし横の髪を編み後ろに纏めた――亜希だった。微笑んでいるのか悲しんでいるのか微妙な境目をし、ちょこんと立っていた。

「なに、してんたんだよ」
 今まで。

「あなたに言われたくないわ」

「…ノートは」

「本の中」

「は…」
 安堵の溜め息を、思わず漏らした。久しぶりの会話だった――顔を手で二、三度拭う。

「ジョーズね」
 スピルバーグ作品。

「ああ。さっきからE.T.とばかり瞳が合う」

「仕方ないわ」

「もういいのか、体調」

「いつの話してるの?」

「大丈夫だな」

「中学の時行かなかった?」

「USJか」 「そう」
 至って普通の態度だった。

「ジョーズのアトラクション、乗ったけど笑っちゃった」

「なんで?」

「全然怖くないしクルーのお姉さんの手が――爆発のタイミングとずれてて」
 笑う唇。

「へえ」立ち上がる。

「何処行くの?」

「どこって…」

「ノートは駄目」

「なんでだよ?」

「まだ――話したいの」
 胸を突くような表情だった。

「わかったよ」

ノートの内容の事にはお互い触れなかった。亜希は、あたらしく観た映画や本の事をぺらぺらと喋っていた。なんとなく、変だと思った。


「…どうかしたのか」


空中を、見つめる瞳。彼女は瞬きを繰り返し、またぼぉっとした。手を握った。青白くか細いこの手を。中指にざらつく感触。ペンだこのようだった。しまい込んでいた愛おしさが溢れ出る。映像が見える。とてつもなく何かが、胸に流れ込んでゆくその様子。

「亜希」

返事は、なかった。涙のほかには。そういえば初めて名前を呼んだんじゃあないか――そう思った瞬間だった。

どうして?

とすんとすかすかの身体がぶつかり、めいいっぱいしがみつく。Tシャツの肌の下、胸元に亜希の涙が染みて濡れていった。

どうしてなの?

くぐもる声で、また同じ言葉を続ける。細い肩がふるえていた――どうして?どうして、どうして?そう繰り返した。すぐ、こうするべきだったんだ。会ってすぐ、こうするべきだったと。


「どうして、修也なの?」


すすり泣く亜希の唇をどうしようもなくなった想いと塞いだ。全てを一緒に。

信じられないほど 柔らかかった。

scene19

「亜ー希!」

ばたん。部室のロッカーを静かに閉め首をくる、と後ろにやる。急に呼ばれたけどあれなんだろう、分かっていたので口はきちんと閉じていた。入り口のドアからちょこっとだけ見える肩より少し下のウェーブがかった髪、嬉しそうにほころぶ顔。目尻は下がって、長い睫毛が被さっていた。

「ごめんね。今日、修也くんと帰るんだった」

「ん、いいよ。大丈夫」 

「またね――バイ」

去ってゆく150cmの影。知紗。がちゃ、と扉の閉まる音を確認して制服に着替える。あの頃より長く、腰の少し上にまでなった髪を高めのポニーテールにするのが定番になりつつあった。もちろん部活中、学校生活の中だけで。

荷物を持ち再度体育館へ。さっきまで自分も、他の皆もいた空間へと戻っていく。まだバレー部とバトミントン部、それに男子バスケ部も数人残っていた。とことこと後ろに手をやり歩いてゆく。近づいてくる、ボールの打ち付けられる音。少し伸びた茶色の髪。後ろ姿のシルエットに声を掛ける。

「先輩」
 振り向く、くっきりした瞳。

「おぉ」

「一緒に帰ろうと思って。待ってて、良いですか?」

「いいよ。悪いな」
ボールを打ちつけ続ける。あと十分だけ。がこんとゴールにシュートを決めダン、ダンと跳ねるボールを歩きながら追いかける。背の高く、健康的な肌の色を持ったこの彼は三年の畑中という名前だった。

「和樹――いいねぇ彼女とラブラブ登下校なんて。あぁ、俺もシアワセになりてぇ」

別の三年の人が私たちを見てからかう。先輩はしいっと口元に人差し指をあて、ばぁか、うるせぇんだよと吐き捨て笑った。近づく足音。さっきの三年が、「誰か紹介してくれよ俺にも」と笑顔で語りかけてくる。うふ、と微笑み返した。可愛かったらいいからさ。しゃがみこんでゆらゆら体を前後に揺らす。

「駄目?」

まだ笑って誤魔化していると「いい加減にしろよ」と先輩が割って入ってきてくれた。帰れると思ったので腰をあげる。三年の男ははいはいという表情で、

「どいつもこいつも。ルールなんか、あっても意味ねぇよ。よっくばれずにいられるよ本当」

 と息をついた。バスケ部にあったルール、入学当初こそ皆が気にし張り詰めてこそいたものの、夏休み明けに一組カップルが出来たことをきっかけにいくつか「ペア」が出来上がっていた。私と先輩も――知紗と、修也も…そのうちの一組なのだった。修也は一度知紗の告白を断った後、何度も彼女に押されOKしたらしかった。

「行くか」 「はい」

後ろをついて歩く。背後から、亜希ちゃあん、バイバイ――と声がしたのでさっきの三年に軽く頭を下げ体育館をあとにする。ポケットに手を突っ込む先輩。寒くないか?と問われはい、大丈夫ですと返事をした。十月の空気、午後八時はもう制服の中にニットベストを着ても丁度いい頃だった。畑中和樹。12cm程私より高い背。あの、有頭コーチが来る前のランニング中に――前の週倒れ白目を剥き救急車に乗せられてった私に「大丈夫か」と声を掛けてくれた男だった。知紗と修也が付き合う直前に、意外にも向こうから告白され何の接点もないまま私はOKを出したのだ。

修也とはもう、あれ以来顔を合わす事もなければ言葉を交わす事もなくなった。なくした、という方が正しいのかもしれない。あのほんとうのファーストキスから。

「いつになったらやめてくれるんだよ」
 その敬語。

笑い、歩きながら会話をする。まだ無理ですと笑顔で答えた。ちぇ、という顔をし、別にいいけどねと答える先輩。まだ、手にすら触れたことのない関係だった。修也と知紗の事は考えないようにしていた。修也に対する知紗の不満すら、聴きたいのか聴きたくないのか分からなくなってしまっていた私は極力誘いを断るようになっていった。のわりには物語もそんなにペンを進めているわけじゃあなかった。修也と離れてからまるで私は――私でもなく、わたしでもない。別の誰かになろうとしてるらしい。

「じゃ――またLINEする」

「はい」

修也との会話で一度だって出てこなかった。LINE、電話。紙をあいだに心の交流を重ねてきたからだ。先輩とはほぼ毎日メッセージを送りあっていたけど、これといって記憶につん…と響くような言葉は、ほとんど皆無に等しかった。


部屋で何をするでもなくベッドに腰掛ける。

「…」

椅子に掛けてあるブランケット。赤と緑の。タータンチェック。

ノートは、修也が持っているはずだった。あたしはふ…とノートの中身――内容を思い出しそうになるのを堪えた。それから瞳を閉じふぅ――……と大きく長い長い、透明な溜め息を、鼻からゆっくりと吐き出したのだった。

scene20

カーテンから薄明かりが射し込む。
日曜の朝だった。星と月の模様のカーテン、小学校低学年の頃から変わっていない。薄いアイボリー色の隙間からの光。目が眩む。珍しく快晴だった。

遠くからママの声がし、目をこすり、はぁい?と返事をする――電話よ。知紗ちゃんから。

知紗?

「もしもし」
 寝起きの枯れた声で受話器に向かって呟く。

「おはよ、亜希。ごめん寝てた?あのさ…急なんだけど今から行っていい?近くにいるの。携帯に電話しても出ないからお家にかけちゃった」

正直まだ半起き状態で寝ていたいとも言えず無理矢理めを覚ます事にした。仕方が、ない。

「ん、いいよ。何分くらい?」

「本当?じゃあ、十分後に」
 すぐ 近くなの。

「…」

洗面所に行き歯磨きと洗顔を済ませたところですぐチャイムが鳴った。知紗だった。いつもより濃いめのメイクをし、玄関でにこっと立っていた。どう…したんだろうか。おはようととりあえず言っておいた。

「ごめんね急に」

「いいよ、どうかしたの?」

知紗が家に来る事はあまり多くなく、中学の頃を入れても二回ほどしかなかった。外や彼女の家に集まるのがきまりだったからだ。幸い部屋には特にうわべの友に見られてまずい物はなく、そのまま階段を上がらせ部屋に招いた。小説のノートはまとめて鍵付きの抽斗の中にしまっておいてあるままだった。手すりを掴む知紗。なんとなく服装から、修也といたんじゃあないか、と思いを巡らせる。

修也くんに。

知紗の前で一度、深く瞳を閉じた。

「ドタキャンされちゃってさぁ」

「そうなの」

「そう、朝。やっぱり会えないって」

「…」

「昨日の夜も部活終わってるはずなのにいっこうに連絡も来なくて。寝る前もなし――で今朝だよ」

がちゃ、と扉が開く。カーテンをあけに窓際に寄る。

「なんか…あたしが好きで付き合ったんだから仕方ないのかなって思うけど」よく分からなくって。

「…」

「亜希?聴いてる?」 「あ…うん」

「大丈夫?まだ眠い?」

「ん――少しね」と微笑んだ。


その時だった。悪魔の声がけしかける、ほら言え――言うんだ。ほら。


もう わかれちゃえよ。


ぶるっと身体が震える。何を、いまさら?私の声。分かっているでしょう、亜希。あなたが太田修也と一緒に過ごせる日々なんか、永遠に来ないのよ。永遠に。あなたが、決めたくせに。あなたが。あなたが、キメタクセニ。オマエガ、キメタク、セ、ニ。虹に寝そべる。髪の長い天使が笑う。亜希?あなたに。千の炎を乗り越えた――騎士の勇気を。神の…戦士の、加護……を。きっと、大丈夫。きっと―――だって、彼、言ったわ?そうでしょう、亜希?


「アイシテル」って。


がしゃん―――「ごめん、知紗」

私は驚いた彼女の顔も見ずに言った。
「まだ寝ぼけてて、話…聴いてあげられないみたい」

目覚まし時計を床に落としていた。いや。叩きつけていた。

「あ…そう…だよね」ごめんね!
 いいえ、こちらこそ。

もお、ちゃんと寝なよ――笑顔でドアから去ってゆく。階段の下でママの声がする。ぱたん…と扉の閉まる音がした。確かに。私は知紗を下まで見送ろうとも、しなかった。

修也。

天使たちの声が聴こえてやばいと思った時には大きな音を立ててしまえばいい。なるだけ。だけどもし――間に合わなかった時には、そのときには一人きりでこうして、丸一日こうやってするしかないのだ。こうやって。あのブランケットに顔をうずめて声を押し殺し、彼のなまえを心で叫ぶほかは。

忘れるしかない。忘れるしか他に、どうしようもなかった。方法は。たった二つしか、残っていなかった。

scene21

土曜がまた来る。

珍しく母は休みだった。紺と白の太めのストライプ、ウエストの紐を縛ると砂時計のような形になるシャツにジーンズ。仕事用より薄い化粧をし珈琲を片手にくつろぐ。マグカップのイニシャルK。香。それに和範。それなんだろう。母は脚を組み、ダイニングテーブルで雑誌をめくっていた。

「…」

もう母の前でも堂々とDVDを広げても平気になってきていた。さすがに演技まではしない。が、顔色を伺う、なんて事はない。映画もテレビがあいていればリヴィングの大きい方で観た。

「これだ」

「ボディガード」、やたら92年の物ばかり手にする事が多い。あら――ホイットニーじゃない?母の好きな歌だった。「クスリで死んじゃったのよ」こんなに綺麗で…美しい声なのに。後ろから、呟いた。

「あなた部活は?」

「サボった」 「そう」

嫌でも瞳に入る高くなったポニーテール。あの馬の尾を避けたところで家に帰れば、あのノートが瞳に入る。で、ノートを閉じる。映画をつけてみたところで、

「どっかで…」

なんて事が度々あるのだ。離れてみてようやく、彼女の物語に対する愛を感じていた。

「なあ、母さん」

「何?」

「このCD持ってなかったか」

テレビを見上げる母。「Run to you」が流れているのをケビンが食い入るように、穴があくほど見つめているそれを見て自室へと入る。すぐに戻ってきた。

「あるわよ」――はい。

「サンキュ」
 CDをひらき歌詞カードをすっと抜き取る。

少し、黄ばんだその頁を見つめる。映画は流したまんまにしておいた。


わかってるの
あなたが 私を見るとき
そこには あなたが
見ていないものが
たくさんあるっていう事を


「…」

亜希の書いた――あのノートに――歌詞の和訳を確かめる。英語で書かれたメッセージはそれだけだった。

「見て…いないもの」

――わかってる。わかってるよ。

お前も、怖いんだろう?もし自分をさらけ出して…もし。それがもし、受け入れられてしまった時の事が?


「…柊也?」


額に手を当てカードに突っ伏した。なんも、ねえよ。なんにも。リヴィングを出、あのノートを開く。「俺も…」怖いんだ。ペンを無造作に動かし走らせる。怖いんだ、とてつもなく。愛してる、このノートにあれを書いた日から、いやもっと、ずっと前からだ。怖気づいたんだ、俺は。あの日から。

頁をめくる。頭から順に、読み返す。

途中であの最後の日―――図書館で見たものが瞳に留まる。絵だった。


柊也。


頭の中で声がする。


あなたって―――パックみたい…ね。


「ふっ」

口から漏れる気だるい微笑。ぱしんとノートを閉じかしこまって見せる。いいんだ、母がいても。ここは俺の部屋。

「おいらが妖精――パックでござい」

部屋を出る。母はまだ、雑誌を見ていた。


「母さん」

「なあに?」
 俯いたまま答える。

「連れてってもいいか、冬休み」
 あっちに。

「誰を?」
 睫毛が、揺らめく。

「恋人だ」

「……」


――えぇ。
母はそれだけ言い、再び雑誌をめくった。

scene22

「知紗!」
 おはよう。

ウェーブかがった、髪。玄関先で見かけて声を掛ける―――おはよ、亜希。笑う瞳。どうかしていた。この半年間。そう思うように、なっていた。普段の私に戻るべき。そう思った。もうあのときの私はいない、消えたよ亜希。


修也と知紗が別れた事は他の女バスのメンバーから聴いていた。ほんの一週間前くらいの出来事だった。先輩が、畑中和樹が言うには「はじめっから上手くいってなかった」らしい。知紗は何にも言わなかった。こないだの部屋でむせび泣いた日からどことなく、距離を取られているような気がしていた。

ピッ。

「集合して」
 コーチの笛の音。

「練習の前に連絡事項がある」
 何だろう、と顔を見合わせる女の先輩達。

「…」

考え事をしていた――別れようが別れまいが。今の自分にはもう関係のないことなのだ。先輩もいるのよ――なんの為?付き合って、いいですよ、と答えたのだろう?そう、勇気が私にはなかった。だから死ぬ。私は。総じてこちらの世界からいなくなるのはいつも、勇気のない人間なのだ。

もうこれからは隠れてこそこそと文を書いたり映画を観たり、本を…読むことすらなくなる。でも、それでも良い。今までに観て、聴いて、読んだものはずぅっとこの胸のなかにあるのだから。


「…という事で、以上。はい、開始」
 ピッ!

笛の音にはっとして何にも聴いてなかった事に気づく。あ、という瞬間には遅く、パスが渡され練習に集中せざるをえなかった。コーチの話が何だったのか、帰る頃にはもう、それを聴くことすら忘れていた。

先輩と歩く。ひんやりとした空気と、車とタイヤの地面が擦れる音のなかを。

「今度さ」 「はい」

「どっか出掛けないか。二人で」

「え…ぇ」 「いつが空いてる?」

「来週なら」

「また連絡するから。じゃな」

うちのドアを開ける。揚げ物のうっとする匂いがした。

「お帰り!」

ママ。幾何学模様の派手な柄のエプロンを身に着け、いつも通りキッチンから微笑む。「ただいま」――どさりと、一階で荷物を降ろし、先に入るねとお風呂場へ急いだ。


透明の温いお湯を片手でかき混ぜ、ゆっくりと左のつま先の足を入れてゆく。


「…」


きっといつかは先輩と手を触れ、唇を重ねることになるんだろう。ぼこん。口元から泡を吹き出して音を鳴らした、わざと。

そう、セックスも。

どうしてこうも――自分のことなのに「諦め」のような気持ちでその日を待たなければいけないのだろうか?不思議だった。

きっとめったにないことなんだろう。こっちの世界では。どうしようもないほど愛して、愛されて、愛おしくて…顔を思い浮かべるだけで苦しくなって。きっと死んじゃうんだ、私は。そう思えるほどの相手と肌を重ねるって事なんか。初めてとなると、なおさらだった。


愛しすぎて 死んじゃうんだ。


でも大丈夫。
私はいなくなっても修也はあのまま残る。ずっと。修也が私を知っている。それで良かった。

それでいい。それだけで…。

翌日は軽い胃もたれを抑えて授業を受けた。いつも通りに部活へと向かう、そしていつも通り走り回る。男子コートへ出てカーブを曲がる際、先輩と瞳が合った。微笑んでみせる。先輩は白い歯を見せ、えくぼを浮かばせたその顔で笑みを返して来た。

ピピッ!

ボールが高く上がり、ばつんと手で打ち落とす。「和樹!」と三年の誰かが声を出した。パスを出す、先輩へと。

きゅっ。だ、だん――と擦れては打ちつけられを繰り返しまた手にボールが戻る。彼は一瞬こちらを「見てろよ」、と言わんばかりに見、そして走った。がこん、と大きな音と共に身体ごとリングに突っ込む。ダンクシュートだった。覚える限り、私は初めてそれを目にしたのだった。

(すごい)

気づけば脚を止め、コートを見て立ち尽くしていた。仲間と笑い合う先輩がこちらを向いてぴっと親指を立てた時、私は満面の笑みで恋する乙女を演じたのだった。いつかの、知紗のよう。そういえばいつだったか、ママに――「好きな人ができたんだ」そう言ったあの日。あのニワトリのような風貌からいっぺん、まだ怪しげな表情のしわを残したまま、「そうなの?」――と少なからず嬉しそうに答えた。突然の娘の告白。実際知紗やヒロセやナナ、サキコ達でも、16才の娘がそんなふうに母親に告げることなどあまりないだろう。ましてや部活の途中でぶっ倒れてしまうほど。それほどの想いをわざわざ打ち明けるようなオープンな子供など、めったに存在しない。彼氏ならまだしも、まだ好きなだけなのだから。

ママの瞳はあのとき、確かにこう言っていた。

「あの子が」。

私は、見逃さなかった。

scene23

試合中に知紗からパスが回ってこなくなったのは先輩と初めて出掛けた日、先週の日曜から二、三日経った頃だった。


デート――とはいってもお互いまだ手も繋いだ事がないし、緊張感はびしびしと服の上から感じるほどあった。先輩もそれにしびれを切らしてしまったかのように数時間で三年の人らが集まっている市内のバスケコートへと私と共にふらふらと近づき、学校と同じようはしゃいだ。この日もまたダンクを決めて目配せをした。私に。お前の為と言わんばかりに。

「はぁ―――」
コート内を息を切らし走り回る。

最初は自分の立ち位置が悪いのかと何度も細かく周りと自分、そして知紗との距離を確かめた――が、何らいつもと変わった様子はなかった。何より決定的だったのが「ヘイ、パス!」と声を掛けるにも関わらず、ボールは私よりゴールに遠い二年の女の先輩か、その時々参加しているサキコやヒロセ、ナナに向かうのだった。

先輩とは今週も会う約束をしていた。ただコートを走りまわる。他になかった、もう。視界の隅で先輩を含む二、三年の男がちらりと見える。男子のコーチはまだ来ていなかったが、有頭が彼らをじろりと睨むと「練習!」とだけ言い部活動へと促した。はい、はい。いつものあの三年の男の人の声がして、私達は五、六人の視界からフェードアウトした。

先輩たちが集まって――あのひと際お調子者感のある三年の男がにやにやと小声で談笑しているところだった。何となく嫌な感じが皮膚にひんやりとする。いつ、やるんだよ?――そう言った種類の微笑み方。ばぁかと言う先輩の声。これ以上聴きたくなくて私は二年の人から受け取ったボールをいつも以上に音を鳴らし、打ちつけた。

知紗に、どうしてボールをくれないのかなんて事は聴けなかった。会話は話しかければしてくれるし表情だって特に前と変わったところはない。ただ時折、瞳の奥が冷たく、笑っているのに笑っていないと感じることがあった。

微妙な声のトーンの変化にすら気づいてしまう時。私は自分がとてつもなく女性的な感性――センス――そして、繊細な心のアンテナを持って生まれてきている事をひどく、恨むのだった。そしてひどく、不安に呑み込まれそうになるのだった。

一人ぼっち。
変な 子。
宇宙人 みたい。

よく わからない。

この世で一番、恐ろしい言葉。

サキコ達にも、とてもじゃあないが聴けずにいた。彼女たちはうわべの中でもうわべ、まだ知紗のほうがましな関係だったからだ。ただ、修也と別れて――あまりコートにも姿を見せなくなった彼の事を想う気持ちが大部分だろう。気が進まない。シンプルにそう考え、自分を納得させるしかなかった。私は知紗に心を許しさらけ出した事はないけれど――彼女までそうとは思えない。自惚れや上から目線ともとれる本音がそこにはあった。甘えてる…だけなのだ。きっと。

ボールはもう自分で追いかけ取る。それしかない。有頭コーチの視線を受け流し、私はまた走り回るのだった。

scene24

寒い。

十一月に入り、顔の産毛がふつふつとけば立つようだった。裏ボアの――昼には少し暑いが夜にはしっくりくる――グレーのパーカー、裏地は黒のそれをUネックのロングTシャツの上に羽織り、地元の自宅からすぐ近くのレンタルビデオ店へと歩いていた。ベージュのパンツ、春より薄汚れ手入れもしてないままのスニーカーで。


自動ドアが開く。入ってすぐの併設されているゲームコーナーに見覚えのある茶髪。

「和樹くん」

「――おお」
 柊也。

がちゃがちゃとスロットを回す音。三年は和樹ともう一人と、二年が一人だった。三台あるゲームを全て陣取り、前に凭れかかるよう座る。

「お前、来いよちゃんと。部活しに。コーチに大概どやされんぞ」

「掛かってくるよ、電話」
 ふっと笑う和樹。

「別にいいけどね」

ちっ、と他の三年ががたんと台を叩く。「こなかった」ようだった。がらがらがらというゲーム機独特の音に紛れて、和樹、お前日曜どうする、という声が聴こえる。

「あぁ――わり、女と会う」
 またかよ。三年の声。

がらがら…がら。ちゃり、りん。

「今度は来いよ。月曜」

分かったと返事をして店内のビデオコーナーへと入っていく。と言ってもほとんどDVDだ。それに本とCD。店主が老いた男で、何となく雰囲気のある場所だった。物凄く古い映画か、80年代や90年代の作品を主に置いていた。最新作のもあるにはあるが、手には取っても借りることはあまりなかった。CGを駆使した、電磁波的に目眩のする映画は好みじゃあなかったからだ。

ふと瞳がとまる。君に読む物語。父と母を彷彿とさせるパッケージだった。亜希の口から出てきた事もあるタイトル。


――父さんとはね…大恋愛だったのよ。高校の演劇部で出会って。


こっそり学校で。ひと目を盗んでは、会っていたわ。二人で誰もいない校舎の裏とか、体育館の中とか――授業をさぼった事もあった。ふたりで…。


父さんの父さん…あなたの、お祖父さん。とんでもなく評判の悪い人でね。いつも両親に反対されてたのよ。許さないって。でも、とっても素敵だった。

映画のような、恋だったのよ…まるでね。


二人でこっそり、学校でセックスしてたんだろう。親からしてたと子に告げられるのはかなり鳥肌が立つような思いをするが、子が親を勝手に想像するのは、そんなに悪いものでもなかった。むしろ羨ましくてたまらない。胸がすっとする想いさ、母さん。

そうして俺が生まれたんだと思うと。


気の遠くなるほど 
長い間
ずっと ずっと
一人ぼっちだった


「あなたと逢うまで」


足を出入口まで進ませる。もう、帰るのかい?店主の声。

「はい」

和樹がじゃあな、と声を掛けてきた。瞳で合図し、頭を下げる。何にも持たないまま外へ出た。ポケットに冷たい手を突っ込む。星はひとつも、出ていなかった。

scene25

午後22時――帰ってきてそのまま、着替えもせずに音楽をかける。明るめのナンバー――女バスの中で流行ってる韓国グループのやつ。貸し借りする中にいるうち私に回ってきたものだった。

悪くない…別に。ふん、と軽く鼻唄を歌うまで何度か聴いていた。家に帰ってきた瞬間の、肩の荷が降りる感じ。携帯が鳴る。先輩だった。

「―――はい」

帰ったか?

「うん」
 「は」と出かかる口を堪え、返事をする。何度か他愛のない会話を繰り返す。笑い声。もうすっかり何十何百とあった鉄のような壁は一枚一枚外れていっていた。修也を――もう、なまえを文字に呼び起こす事もなくなっていた――忘れる為とはいえ選んだ相手。

畑中和樹はそんなに悪い男ではなかった、と感じていた。


あ―――。電話の向こう、雄叫びにも似た声を上げる和樹。

「もうバスケしたいとか?」
 ――何だよ。そうだよと、笑う。

「明日出来るよ」
 穏やかな声をあげ、ベッドのふちで脚をぶらぶらさせる。ああ、そうだけど。がちゃ。多分冷蔵庫か何かだろう、扉を開ける音と同じく閉まる音がしてふぅという息、何かを飲む音がした。


「年明けんなったら免許取るんだ」
 何処でも連れてってやるよ。

「わぁ、やった」
 何処がいいか、考えとけよ。

「うん」
 ふふ、と軽く笑った後、突然静かになった。



途端に、彼にこじあけられたばかりの―――脚のあいだの痛みが鋭くなった。声を出さずに顔をしかめる。和樹にばれないよう…に。ほんのニ、三時間前の、出来事だった。「――あのさ」和樹の、声。沈黙の後いつになく神妙な――といっても、見えるわけないのだが――面持ちをし彼はこう言った。俺、お前のこと。本気だからな。絶対…だいじに…す……る……。


スロウになる、音。


私の冷たく残酷、それでいてやさしい唇は言った。

「うん」

和樹が話題を変え十分ほど喋ったあと、電話を切る。


メロディなんか、要らない。絶対。
いらない。
この会話に、メロディなんか。


いらない。

scene26

思ったより、男子バスケ部の部室の改修工事は進まずにいた。前に有頭コーチが練習の前に連絡事項と題をつけたあの話はこれにまつわる事柄と、一組の男子部員と女子部員の交際が発覚したというものだった。二人は別れさせられたうえ、大会の有無にかかわらず練習が出来なくなったらしい。いわゆる謹慎、というやつだった。


「普通、そこまでやるかよねぇ」


女の先輩、二年の交際が露見してしまった彼女のクラスメイトは言った。ばたんとロッカーが閉まる。彼女のブラウスの下の食い込んだブラジャーが気になったが続けた。

「交際禁止ってやっぱりマジなんですね」

「みたいね」

ぱちん、と肩のゴムを直す。
「亜希らも気をつけないと」

「そう…ですよね」
髪をまとめいつもより低く結んだ。
「どの位で戻ってこれるんですか?あの二人」

「さあ。分かんない。別れさせられるとかはもう、本人たちがよりを戻してしまえば良いことだけど、大会出るのに練習くるなはキツイよね」
 すげぇよねぇ、有頭も。

「もう、ぎらぎら目ぇ光らせてるよ。部室も近くなったもんだから」

改修工事の間ずっと使われていなかった一室を、男子バスケ部の臨時の部屋として使うようになっていた。それは私達が今いるこの部室の二つ隣、廃部になった水泳部が以前使っていたものらしかった。部屋も違うのに、使う時間は三十分ごとずらされてもいた。

知紗は先に体育館で三年の女の先輩達とパスの練習を和気あいあいと繰り返していた。

「あ、やあっと来た――亜希のやつぅ!」

微笑む。彼女は今日は髪をお団子にしてまとめ上げていた。ごめんと軽く手を合わせ、チームに混じった。知紗は以前より、元の普通の態度に戻っていた。もう、すっかりと言っていいほど。私と先輩の――和樹とのことを話してから。やはり彼女は私に、疑心暗鬼になっていたようだった。

パス練を終え走る。前に知紗、それから私。いつもの風景だった。

「でもさ、どうやってばれたんだろうね」
 部活内はこの話題で持ち切りだった。私の何気ない一言に知紗が反応する。

「誰かがチクったとか?」
 やだぁ。怖い。

「やってたんじゃない、部室とかで」
 二年の先輩がスピードをあげ、私達の隣に並びそう口を挟んだ。

「えぇ?」 「まじですか、それ?」
 心なしか小声になる、私達。

「嘘、わかんない。でも他になくない?キスしてたとか――チクるような事しても部員には何のメリットもないでしょう」
 もっともな意見だった。


ふと、コートの方へと目をやる。和樹がこちらを見ていた。なんともいえない気分になった私はふい…と瞳をそらした。あの日の事を少なからず思い出すはめに、なったからだ。

―――かわいい奴。

和樹の声が聴こえ、かぁっと顔があつくなる。口の端をあげ呟いたその言葉が、私の良すぎる耳に届いた。もう一度、和樹をちらりと見る。そこにはその和樹の後ろ姿を修也がつんとした顔で見つめ、立っていた。久しぶりに見た修也から思わずばっと顔をそらすと、今度はその修也を見つめる―――知紗が、いたのだった。

scene27

親戚の親戚の、そのまた親戚の…とにかく。

「遠いのよ。物凄く」
 距離の話では勿論なかった。

「多分いくつか、父親か母親が違う人がいて――」

関係性。毎年行く海外旅行先のあの家の住人の事を母は教えてくれたことがあった。父親か母親が違うはいわゆる種違いと腹違いのことだ。母はあまり、そういう言葉を好んで使わない。


が・しゃあ―――。ボーリングのピン――心なしか明葉高校バスケ部のユニフォームに似ている――白地に赤のラインが勢いよく倒れた。

「あぁ、くそ」
 次、俺な。

そう言って残りのピンめがけ、がたんと球をぴかぴかのレーンへ滑らせる。部活の後ビリヤードやゲーセン、勿論バスケも出来る複合施設へと誘われてバスケ部の何人かと出てきているところだった。母のいつだったか分からない言葉を思い浮かべながらピンめがけて球を投げてもあまり結果は期待出来ない。そんなに良い精神状態じゃあないからだ。結局、二つに分かれてした対決も無残な負けとして終わった。

「柊也とトモ、お前ら奢りな」

くっくと感じの悪い笑みを向けられ、はいはいと財布を出す。

「ビリヤードしてぇな」

「やった事あるのか、柊也?」

「いや。雰囲気でやる」

「阿呆かよ」ふっ。

少し喉が渇いていた。
「おれバッティングしよ」

五、六人集まったところでばらけるのが落ち。いつもの事だった。とりとめのない会話を交わし、自販機でコーヒーを買ったあとテーブルにどかっと座った。

「あとでバスケしようぜ」

部活の後でもこう言ってしまう事があった。場所を変えると気分が変わる。そんな経験はきっと、誰にでもあるだろう。土曜だったがまたも母が休みだったので演技はやむを得ず中止となってしまったのだ。

「そおいやさ」

仲間のうち一人がずっ、と缶の音を立て話し始める。瞳がにやにやとこちらを見ていたが、なんの事か――心当たりは全く、なかった。

「中川からLINEがきた。こないだ」

日焼けし、くすんでしわのある指がこちらを向く。他の四本はしっかりと缶を掴んだままだった。

「お前の事まだ好きだって。相談されちゃったよ、俺」
わははと周りから声が上がる。あぁ、さみすぃ。ふざけて下がる目尻。

「で?」

「冷てー。返事くらいしてやれよ。結構可愛いのに。小せぇし。少しうざそうだけど」

「どうでもいい」

本音だった。亜希の事はどうであれ演技に集中したい時、絵文字だらけの目がちかちかするメッセージを送られると、どうにもならない倦怠感が押し寄せてくるのだ。馬が合わない。そういう言葉がしっくりくるけど、中川にそれを言ったところで意味さえ理解してもらえそうになかった。

「辛いねぇ、モテる男は」

ごん、とごみ箱に缶を放り投げ歩き出す。早く、しようぜバスケ。話題を無理やり変えた。まだ好き。友達を介して言われなくとも、一度断っていた。同じことを二度も三度も答える事はあまり好きじゃあない。コートで三対三になり、ボールを構えるトモがひとりごちるよう、言った。

「それより和樹くんだよ」
 耳が反応する。あくまで、さり気なく。普通に言葉を…返す。

「何が?」
 沈み込んでく腕とボール。

「すげえよ、あの―――」
 藤本を 見る目。


瞼が少し、重くなった気がした。
「やってやろーって、気がもう」
 満々じゃん。「あれはさあ」

トモが歯を見せ笑いながら続ける。宙を仰ぐ。浅黒い、顔。


中川より しつけえよ。


一旦上がり落ちてくるオレンジ色のそれを力任せに殴った。がつんと、思い切り。まるで何かを突き飛ばすように。

scene28

部室のすきま風といったら凄かった。

「たまらん」と、三年の女の人が持ってきてくれたヒーターを皆で囲みながらごそごそと着替えるのが定番だった。オレンジ色の、熱光線。肌にひりひりと突き刺すような暖かさ。とても古い型だった。もう家で使っていないから、と自宅から高校までわざわざ箱ごと抱えて来たらしい。何となく、小説を書いていたあのときのあの――古い電球を、思い出させる色……だった。


ヒュ―――と言う口笛のような、音。冷たい空気。

「そろそろ行くよ」
 と先輩達が、ぞろりと出てゆく。

私達一年も重い腰を上げ、ついて行った。あと十分ほどすれば、男子バスケ部が部室を使う時間だからだ。

「……」

作戦は成功だった。
だと、思っていた。

あれから先輩――和樹と会う、二回に一回はほぼ、肌を重ね合わすようになっていた。引き寄せられる肩。そして急に――びっくりするほど急に――舌をねじこまれる、キス。それすらも私は段々と慣れるようになった。和樹の事は嫌いじゃあない。むしろ、好きだった。むしろ。にもかかわらず私はしたあと必ずといっていいほど、誰も知らない深い洞穴のなかに、ひとり放り込まれたような気持ちになっていた。が、前にも言ったとおり、人間の適応力ほど素晴らしいものはない。脚のあいだのじんじんする痛み。心、やるせない。修也を瞳に映しても。段々何にも感じなくて済むように、なっていた。


きっと神経が――川より太く鈍く――濁って、いったんだろう。


だから「作戦」は成功。
これで いい。



(ヴ―――)



練習試合が始まる。知紗とのタッグももう、すっかり再開していた。やたらと人を褒める事のない有頭ですら「良いよ、あんた達」――と言われた時はどうしようもなく不本意だったけど、嬉しかった。荒療治だった、間違いなく。本当に。だけどもう、これで良かったんだと思えるほど私は正しい事をしたのだという確信があった。ダイヤモンドほどに固く、惚れ惚れするほどの美しさを持ち合わせた真実。ね――わたし、だって、実際どう?知紗との関係は良好で――バスケも調子が良い。あの入学したてのときのような感じ。家族とも、なんのわだかまりもないのよ。私は知紗にとって良き友達、ママにとって分かりやすく明快、はつらつとしてて、「恋」もしてて。絵に描いたような理想の娘―――理想の、「普通」の、娘!



そうよ。これだってひとつの素晴らしい人生。

「物語」じゃあ、ない、か?


瞬間、とてつもない既視感がわたしを襲った。

瞳の前がまあるく 影になる。

コーチの笛の音?

わからな、かった。


「亜希っ!―――」


知紗の声が、聴こえた瞬間だった。明らかに以前より鈍い音がし――骨と骨が勢いよくぶつかるような――自分の身体が、顎が天を向き、後ろ向きに倒れてゆく。それはまるで射的で狙いを定められた、大きなぬいぐるみのようだった。


「―――あ…」


スロウ・モーション――ゆら、ゆら、ゆら。
回転しながら歪んでいく世界。ぐぅっ……と自分の口から声がして、喉から鼻にかけて、嫌になるほど温い「なにか」が、通り抜けてゆく。血だった。

―――がつん。ぼたっ。ぼた、ぼた、ぼた。

私は横向きに倒れ、うずくまった。物凄い血がユニフォームと自分の手と、床いちめんに、垂れ始める。


しぃ…んとする空気の中、胸の奥からなにかとんでもないくらい大きなものが恐怖を感じるほど込み上がってくるのが、分かった。張りつめた空気を素肌に切りつけられるほど感じる。自分の血の匂いにはっとした瞬間、わたしの中で何かが音を立て、弾けた。文字が。文字が、浮かんでくる。あたまの裏の中で。そしてそれは、あのときあの場所で涙の溜まった瞳越しにぼやけて見えた、決して綺麗とはいえない、あの文字だった。



もし

もしお前を この先
ほんとうに
愛せなくなる日が いつか
来るとしたら
俺は
どうしたら いいのか
教えてほしい


「本気で、だ」


亜希。


どうして  修也なの?



「愛してる」



気がついた時には私は床に顔を伏せ、子供よりもひどいそれの泣き方をし、呻いていた。私ですら見たことのない私にコーチや皆は呆然と立ち尽くし、時計のデジタル音のほかには静寂と彼女たちの驚愕のみしか、この体育館内には存在していなかった。私の嗚咽。構わず泣き続ける。どうしようもなかった。止められない、血に混じる透明な涙。雨のような。


体育館の入口の方から遠い、音がする。だ、だ、だ、だ、だん―――という激しく駆けてくる足音。むっと人の体温を感じた。ただただ驚いて、まだなおも立ち尽くしていた有頭コーチや知紗やナナ達、二、三年の先輩のなか、私の手を引っ張ったのは、和樹ではなく修也だった。

scene29

部室の外で有頭コーチと和樹の言い争う声が聴こえていた。


この鼻から耳にかけての閉塞感と大きな袋に入れられた氷水を顔いっぱいに当てていなければ二人が何を言っているか、分かったかもしれない。真冬になろうとしているにもかかわらず氷水、だけどそれ以上に鼻周辺を筆頭に顔、そして身体全体の熱は凄まじかった。

がちゃ、と扉が開きまだ二人は納得していないような雰囲気を見せたが、有頭が「二、三分で戻れ」と和樹に声を投げ掛け体育館へと戻っていった。ばたんと閉まる扉の音。和樹が舌打ちをし――寝そべる私の前にパイプ椅子をひとつ引きずり運び、座った。じっとこちらを見つめる。前髪に軽く触れる手。

「――大丈夫かよ」

「ゔん」
強烈な鼻声、鼻血と涙…のせいだった。

「折れてそうか?」

「分かんない」

「連れて行ってやろうか、病院」
 ううんと首を横に振ってみせた。

和樹は開いた両脚の膝に両肘を置き、手を組んだ。そして少し前屈みになり私の足元の方へと顔をやりしばらく黙っていた。あの流血が少しショックだったのだろうか、考え事を。しているみたいだった。

「…」

私は和樹がいるのにもかかわらず、瞳をふっと閉じた――もう。一人に、して。言いたかったけど、とても言えなかった。

「マジで苛つく」
 小声でふと、囁く。

和樹が誰の事を言っているのか、ぼおっとする頭では見当もつかなかった。コーチなのか?有頭。ボールを投げた知紗?和樹自身?――それとも?

ちら、と瞼を閉じた私を確認してヒーター――三年の人が家から担いで持ってきたという旧式の――をかちりとつけ、充分に離して置いてくれる。ん…とタイマーをとりあえず四十五分。彼の性格の緻密さがわかるようだった。

「寝とけよ」
 ゆっくり。

瞼を閉じたまま答える。指先を取られ少し空中に浮かび、その後彼の唇に触れた。じゃあな――ばたん。扉が閉まる音の後に、和樹の部室前の通路を歩く足音。それがゆっくりと遠ざかっていった。部室の中はヒーターのヴ――という無機質な音、それにすきま風が時々響いているだけになり、恐ろしく静かな空間になった。私は物凄く、疲れていた。


あの後、修也が私の手を引っ張ったあと――それからどうやって、どうなって修也から和樹へと変わっていったのかはわからなかった。覚えているのは、部室まで抱えて運ばれていた時にはもう和樹になっていて、だけどあの、ボールが当たって私が弾け飛び倒れて――みっともなくむせび泣いた瞬間、嗚咽しながら一瞬見えた細い腕、血がつくのも気にせずに私を引っ張ってくれたのは間違いなく修也だったという事だけだった。


「嬉しい」
 ―――修也。


嬉しかった。とてつもなく。嬉しかったの、修也。あなたの匂いがした――修也。私、本当に…信じられない…ほ…ど。


繰り返し、泣きながら眠りについた。冷やされた肌の上を伝う温かい涙はそのまま袋の水滴と交わり見えなくなった。短い夢を見たような気がしたけれど、それすらももう、私にはわからなかった。

scene30

日付の感覚がなくなっていた。


XmasのケーキのCM。サンタさんやはしゃぎ笑う子供。ウィンクする綺麗な女性。イルミネィション・スポット――などなど。実に様々なキャラクターとそれに文字、映像からまだクリスマスは来ていない、半ばあたりか――と考えめくっていなかったカレンダーを確認すると少しずれはあるのだが、大体そのあたりの日にちだった。十二月十日を過ぎたあたりだった。


ユニフォームの鼻血がなかなか取れなくて、和樹が私を抱えて運んでくれた時についた染みも落ちなかったんじゃあないかと心配になる。そしてもちろん修也も――何を隠そうユニフォームの色はオフ・ホワイトだった。いやでも目立つだろう。赤と黒の細いラインと黒地のナンバー以外。よりによって染みの色は赤なのだ。鮮血の。あのとき修也は、私の顔の下の血の水溜りをひとつも迷う事なく踏んだ。少なくともハーフパンツの下部と、あのか細い腕についた事だけは確実だった。


あのあと、部室から出てどうしようもなくがんがんするあたまと鼻を押さえ、コーチに帰宅させて下さいと言いに行こうとしたのだけどふらつきが凄く、部室前の廊下であえなく撃沈をした。やむをえず私は部室に戻り、携帯を取り出しママに電話をかけ、聴き取りづらい鼻声で事情を説明し車で学校まで迎えに来てもらったのだ。何にも言わずに帰ってしまったけど、誰からも、何も咎められるような事はなかった。部室から出て一旦携帯の為に戻った時、和樹がつけて出てくれたヒーターはもう消えてしまっていた。


ふとリヴィングのダイニングテーブル――椅子から、席を立つ。無性に甘ったるいココアが飲みたくなって。

キッチンへ向かい用意する。私の鼻には大きなガーゼがまだ、ついていた。半透明のテープと共に。飲みづらさより、飲みたさが勝つようになっていた。もうこの状態になって一週間は過ぎていたから。和樹とはLINEでのみ、連絡を取り合っていた。「鼻声が治ったら電話する」――そう言っておいて段々地声に戻っていっても、私はなんだかかける気にこれっぽっちもなれなかった。


リヴィングのテレビを消し、ココアを片手に二階の自分の部屋へと上がっていく。学校も部活もこのままの顔で行くのは嫌で、しばらく休んでいた。もちろん、誰にも会ってはいなかった。和樹もさすがに今の私を誘う勇気はないようだった。

有頭コーチは前に救急車で運ばれた時のこともあって――さすがに申し訳ないと思ったのだろう。ママは、謝られたらしい。別にコーチのせいじゃあないのに、と思いながらママが不機嫌そうに電話をするのを見ていた。三年の女の先輩が代表してお見舞をくれた――アイマスクに、チョコレート菓子。可愛いマスコットの手にはメッセージの書いてあるメモ。そこに、知紗の字はなかった。あれから知紗と連絡は取っていない。一度も。


「……」


懐かしい、字―――
私は自分の部屋の鍵付きの抽斗を開け、古いノートをいくつか出し、開いていた。

小学生の頃。中学に上がってから。高校に入るまで。三十話はくだらない、私が今までに書き溜めた物語。あのオレンジのライト――やさしい、古い電球の、灯りの下で…。

頁をめくる。
「こんなの、書いたっけ」
 思わずひとりごちる。

魔法の化粧品。自分の家の庭から妖精の国に迷い込む。兄に憧れスポーツを始める少女の話。昔好きだった幼なじみとの恋。ドラゴンになってしまった自分の父を助ける途中で王子様に出会う娘。戦争を取り扱ったものは難しくなったのか、途中の頁で終わっていた。スターになる事を夢見て町を飛び出す男の子。クリスマスに運命の人と出会う。IQ270の天才心理学者、これは凶悪犯罪専門。そして誰の理解も得られず…苦しみながら生きている、十六才の女の子…。

自分がいま、どういう顔をしているのかも分からなかった。


「亜希が泣くと思わなかった」
 玄関先での、三年の先輩の声。


机に広げてあったノートの頁を私はゆっくり、ぱたん、と閉じた。全ての、ノートを。何十冊もあるノートを纏め、両腕に抱きかかえた。胸の次に時間差で鼻がつん――とする。ノートを抱き締めたまま。一人しかいない、名前を呼んだ。


「修也」


ノートを。抱き締めた…まま。
ふるえて頬を紙の表紙に当て、止まらない涙を拭った。感覚を取り戻すよう呟き、私は瞳を閉じたまま喘いだ。

「好きよ、修也」


もし、あの文字が。あのノートが、帰ってきたとしてもなお、わたしはまだ和樹からのメッセージを無視する事が出来なかった。ただだだ、修也に会いたくて。彼と出会ってしまったことを心の底から後悔するほかに、なかった。そして、まだ―――消えかけてもいない、右手の中指のペンだこを愛おしく、慰めるよう撫でるほかには、できる事は到底、なかったのだった。

scene31

スーツケースに五日間分の旅行の荷物を詰め込む。毎日少しずつ準備をし、前日に確認をする――そういったやり方が、どうやら俺には合ってるらしい。映画を観る時間や土曜には演技の時間があればあるだけ、良いからだ。ちょこちょこ分ければ、何となく損した気分にはならなくて済む。

「大掃除は早めに――部分ぶぶん、やっておくといいでしょう!」

ごもっとも、だ――気が合いそうだと思った。テレビからの声。


平日の夜だった。母は十二月になると何故か帰宅が少し早まる。まだ20時なのに鍵の音がし、チェック柄のストールを肩全体に掛け、冷たい空気と共に母――香は「ただいま」と大きくも小さくもない声で言った。

「落ちねーな」
 洗面所の鏡越しに母の顔が映る。
「?」
 手元を、覗き込む。

「嫌だ――どうしたの?」

「別に」

「お湯じゃ、駄目よ」
 血液は。

「洗剤どれつければ良いんだ」
 白いハーフパンツを広げ尋ねる。水滴が垂れた。

「ちょっと待って」

リヴィングでコートを脱ぎ、ストールをしゅっと取るとソファの上に放り投げ、冷蔵庫から水を取り出し飲む。――はぁ…。ばたん。音がしたあと、足音もなく戻ってきた。

「これを、このキャップ一杯――水の中に入れて浸けておいて」
染みがあるところにも、かけるのよ。棚にあったうち一つを取り出しこう言った。

「どの位」

「そうね――一、二時間?」
 映画が一本観れる。

「その後は、そのまま洗濯機」

「ああ」

「あなたの血?」

いやに、赤かった。母が眉をひそめる。

「いんや」

目を伏せたまま答えた。洗面台に栓をし水を溜める。白のパンツをまるごと押し込み、軽く手を洗い出ていった。

「少し日にち経ってるけど落ちるか」

多分ね――ばたん。部屋のドアを閉め、ベッドにふぅ…と飛び込む。ばふ、と枕が揺れる。両手を頭の後ろで組み、寝転んだ。

「――はぁ…」
 顔に手をやり、目を擦る。あのうずくまった白い肌と血。泣き声が離れず、思わず声を出して溜め息をついていた。あの悲痛な――子供がこけた時に泣くような叫びとは、違った…。


和樹が近づいて来て、かせ、と亜希を引き寄せようとした時に口をついて出ていた。

「触るな」。

二人の関係のことなど、頭に残ってはいなかった。和樹の顔。焦りが消えたあとの、「殺すぞ」――お前。そう、いわんばかりの表情。

和樹と亜希と、有頭と――女のバスケ部の三年が一人か二人、間をあけ立っていた時にそれは投げつけられた。「忘れてやるから」。

今のは、忘れてやる。

亜希は和樹の腕の中でぐったりとしていたままだった。鼻から唇に、真っ赤な血を滴らせたまま。和樹は瞳でそう問いかけたあと、彼女と暗い通路へと消えていった。


「忘れて…やる?」


ベッドの黒い縁を片足で蹴飛ばした。なんとか落ち着きを取り戻そうとDVDを手に取る。鼻からまた、息をついた。

「ザ・トゥルーマンショー」

「スタンド・バイ・ミー」

「ゴッド・ファーザー」

「ソウルガールズ」

ケースを放り投げ、置いてゆく。

「……」
 瞳が留まる…。

「―――ウォールフラワー」

ウィ、と端のボタン――山と川の――を押しDVDを入れ読み込ます。機械的な音、青白い光。三分の一だ…前、観たときは。


別に、落ちなくても良かった。血は。ただあんまり目立つと、消したくなる。心の染みもそうだ―――あんまり目立つと―――もう、その色全てに塗りつぶしてしまうほかはない。「彼女」を見つけ、穴があくほど、言葉通り見つめ続ける。ケビンのよう冷静ではいられなかった。俺はがたん、と後ろにわざと音を立てて仰向けに倒れ、リモコンを手にしたままそれでも彼女を見つめ続けていた。

scene32

「え?」


有頭さよ、46歳。深い眉間の皺と口元のほうれい線をいつもより一層、谷底よりも深く深く歪ませ、私を見ていた。

ちら…と他の教師達が私達二人を見やった。思ったより、大きな声を出してしまっていたようだ――有頭はさっきより声のボリュームを気持ち多めに落とし、続けた。職員室の中には濃い珈琲の香りが漂っていた。


「――怪我のせい?」
 黄色くくすんだ白眼。

「いいえ、違います」

「じゃあ、他に理由があるの?何か」


かなり…驚いているようだった。それもそのはず、ようやく私の鼻のガーゼが取れ、昨日一日、普通に部活に出ていた私は練習をいつも通りに――何の問題もなく――こなして、いたからだ。

「心配かけました」
 すみま、せん。

有頭を含む全員の前で私ははっきりと声を通らせ謝罪をし、皆がほっとした表情を漏らし、パス――!とやる中笑っていたから、だ。「一年以外」の女バスのメンバーは。

私は何にも答えないまま立っていた。

「はっきり言って、チームの帆のような存在なんだよ藤本――あんたは。中川と揃えられる以上、チームにいてくれないと!」
困るのよ。そう、眉間の皺までもが唇と一緒に語りかけ、私を諭していた。


「…」
 中川。


少なからず、心がびくつくのが分かった――もうおわかりだろう――知紗の私を見る瞳は、変わっていた。直接名前を呼んだとか、隠していた想いをびりびりに暴かれ、知られた訳ではない。

ただ私が倒れ、修也が――「修也くん」が藤本亜希に駆け寄り、腕を掴んだ――その事実が彼女を別のなにかに変えてしまったようだった。知紗の事だからもう勘づいているかもしれない。ああ…こいつら。

絶対、何かが ある。

そういう事だった。
勿論怒りの矛先は、嫉妬のナイフの刃が向かってくるのは自分を肯定するふりをしていた友、私に間違いはなかった。愛しい太田修也ではなく。昨日、学校の何処でも、一言も言葉を交わすことはなかった。笑顔すらも彼女から去り、視線も合わない。当然だった。あの、修也の細い腕を確認した後、部室で和樹と会話をし、彼がヒーターをつけ部屋から出ていったあの瞬間のあとから――こうなるんじゃあないか、と予感していたとはいえ。彼女から瞳をそらされたとき、私は涙目になってしまった。


自分をひた隠し、嫌われたくない、と努力をした結果がこれ?もう一度、何度だって、思わざるをえなかった。どうして修也だったんだろう――どうして?事実は小説より奇なり。自分らしくいたけりゃあ、他に大切なものをいくつか捨てなくてはならない――捨てなくては、手に入らないのだ。


瞳に涙が溜まっていく。真顔が崩れないように必死で堪えた。いっぱいになったコップから水が溢れるよう、左瞳から先に、ぽろりと雫が降りていった。


はっとする、有頭。「藤本」――と呼ぶために尖らせた唇が音を出してしまう前に、私はいつだったか、このひとに一度聴いてみたかった事をとうとうぶつけた。


「コーチは」
誰かをどうしようもないくらい、
好きになった事が ありますか。


彼女の眉間の皺が緩まって、薄くなっていくのが見えた。

scene33

旅行の準備はもうほとんど終わっていた。母は早めに帰宅していた一週間位前とは一変、また夜遅くに帰ってくるようになった。馬鹿みたいに映画で肥えたこの目――お陰で自分の中で、自分の目標に掲げる演技というものが納得できるものになりつつあった――おおかた「自己満足」に、違いないのだが。


土曜の朝。十時に、もうすぐなる頃だった。十一時に部活に集合を予定されていたが、行かないと決めていた。サボる。今日は。一昨日瞳に入った少し痛々しい跡のある亜希と和樹のわざと見せつけるような――ただ薄くなっただけのあの肩あたりの血。彼女のだ――あれを見ていると、何故か自分でもどうしようもなく憔悴しきってしまうような――どうにもならない感情が、胸をつんざくからだ。和樹の態度にも耐えられる自信がなかった。いかにも言葉通り、そう――何にも、なかっただろ?なあ?柊也。

生まれて初めて他人に暴力をふるう事になるかも知れない、と。生来そこまで他人に興味のない性格だと思っていたが――それすらももう、信じられない。今だけは。もう、どうしようも…なかった。


ぽつ、
ぽつ――
ぽつ。


涙の、かわりだ。急に降り出した雨。



「行くなよ」

「…」

行か…ないで。やさしい唇。



導かれるよう、紅色の薔薇の園をスニーカーで抜けた。外からブラインドの隙間。彼女の好きな席が見えた。魔法を、かけてやれば良かった。あのとき。


あなたって――パックみたいね?


一番はじめに瞼を開けて、一番初めに見たやつを愛してしまうんだぜ。花のしずくを…瞼に落とすと。眠っているやつの。


愛してしまうんだ、死ぬまで。



ずぶ濡れのまま館内へ入った。足が勝手に進んでいく。あの場所へ。一番古くて暗い、じめっとした、広い広い図書館の一番奥にある通路。頭のなかで、母の声がした。


誰を?

恋人…だ。

―――ええ。


捨て犬でもいれば、連れて行くのに。父さんの物凄く遠いとおい親戚の国へと。一際、紙の匂いの強い黴臭いところに辿り着く。ああ言った手前手ぶらで旅立って――気まずい思いをするのはむしろ、母さんの方だろう。やるせなく頬が緩み、鼻で微笑した。

木製の本棚のふちに手を掛け、額をこつんと軽く音を立てて当てた。瞳を、閉じて。


「柊也」


愛おしい声。細く、青白い手首。瞬間、あのノートの彼女の絵が頭に浮かんだ。

「…もう――やめてくれよ」
 ハートの輪郭の中。水彩のよう塗りつぶした色。


こっちが修也で
こっちが 私。


交わる二つの線と色。丁寧な美しい絵。それでいて、信じられないほど苦しくさせる。同じだった。ふたつの心。おんなじ、気持ちなんだ。

「亜希」

額の下の両目に、親指と残りをあてがった。亜希の声がする。言葉にならなかった。

 わたし ね。
「生まれてきた意味が わかったの」
 絵の下に、添えられていた文。


「…」


立ち尽くし、これ以上無理だといえるほどうなだれていた。誰にも見られたくない。こんなところ。べつに心配する必要など、なかった。なのに願った。

どうか、誰にも…。


ふと人の気配を感じて瞳をあけた。重たい瞼。あけたと同時に軽い感触がしたあと、いつかの――

いつかの引っ張った、あのか細い腕が映った。下ろされた瞳、羽のよう柔い感触。はぁ、とまた瞳を閉じる。そして、苛立ちではない白い溜め息を吐き出しながら、背後からの細く囁くような声に、俺は耳を傾けた。


「教えて」
背中に頬をすり寄せる。抱きついたまま。


「愛は美しく、清潔で完璧?」


振り返り、全ての感情を忘れ答えた。
 いんや。


「嫌になるほど、みっともない」


すかすかの身体を引き寄せきつく抱き締める。長く滑らかな髪を撫でたあと、彼女のまだ和樹のものである唇を奪った。


「――亜希」

「…なあに」

「行かないか、一緒に」
 ロンドンへ。

scene34

和樹からのメッセージが一件と電話が二件あっていたけど返しはしなかった。部屋のクローゼットの中身をごちゃごちゃと引っ掻き回し、だいぶん奥に入っていたツイード柄のボストンバッグを取り出しているところだった。


五日間 出て こられるか。


彼は私の肩をぐっと掴み、あの湖のような透明な――それでいて体をあつくさせるようなあの瞳で、そう問いかけた。和樹とはまだ、何ともなっていなかった。言うタイミングがなかった。そう言ってしまえば言い訳になるけど、私はもうわたしの心の叫びに耐えられなかった。逆らえない悲鳴。知紗の態度はあれからどんどんどんどん悪くなっていき、彼女はサキコやナナ、ヒロセ達を抱き込み、わかりやすく私を攻撃するようになっていたのだ。

瞳から、吐き出す言葉。時には口から出ることもあった。校内ですれ違うさまや部室の中。ランニング中、部活の――

やっぱり、ね。

知紗は和樹とそんなに親しい訳じゃあなかったけど、そのうち知られるだろう。そう覚悟をしていた。ねぇ――先輩?どう、思いますか?あの、ふた、り。


「ありえない」
 すげぇーよね。


小さく聞こえる彼女たちの会話。それでも私は修也の事が好きで、そばにいたかった。知紗を裏切ってでも彼に触れられ、文字を読み合いたかった。それに先輩達が、わたしたち一年の様子を知らないふりをして見守っていてくれてたからまだ、ましだった。べつに修也と私が――それこそ部室でやってたとか――場面を見た訳じゃあないのだ。だから知紗の話も軽く受け流せる。証拠がないし、私達に関係ない。

けどいずれ和樹の事も決着をつけなければいけない。和樹は知らないけど部活ももう、辞めた。知紗との間の溝は日々深くなる。自分の心に気づいた今、世界になんて言われようと私は和樹と一緒にいる理由はない――ただ、修也といたいの。お願い。それだけだった。

私は、空を飛ぶ。ロンドンへ行って。修也と愛を確かめるの。「嫌になるほど、みっともない」愛を。ただ今はバッグに荷物とそんな想いを詰め込み続け、その日を待つのだ。

携帯が震える。
「――和樹」
何度かコールを聴かせ、出る。

「もしもし」

お前――何してんだよ?

連絡が取れず、少なからず怒っているようだった。

「ちょっと気分…悪くて」

…どこにいる?

「家だよ」

普通にするしか、なかった。

今日休んだんだな、部活。
 土曜だった。

大丈夫か?

「うん、何とか」

なにか――あったのかよ。

「ないよ別に」

嘘 つくな。

「本当にないよ」

――お前、次いつ会える?


心臓が、少しずつ速くなる。
「それが――ごめん、まだわからない」
 わからないってなんだよ?

「パパがね」

私は和樹に、苦し紛れに聴こえないようなせりふをぺらぺらと並べ立て、誘いを断った。会社が、出してくれてるみたいで。毎年行ってるんだ――家族旅行。

「じゃクリスマスも――」

「ごめんね。みたい」
和樹も連れて行こうと思ったけど。会社持ちだから。家族だけなんだ。

彼ははぁ、とひとつ大きく溜め息をついてマジかよと呟いたあと、「分かった」と言ってくれた。軽く話をし、ようやく電話が切れる。五日間、こっちにいない。連絡は出来たらする。こうして私は秘密の計画を守り通せた。そして頭を悩ませていたママへの言い訳に、知紗やサキコやナナ、ヒロセ達の名前を堂々と使ったのだった。

scene35

クリスマス・イブの前日から年明け前まで。

あれからまた、もう、夢をあのとき見ていたんじゃあないかというような図書館での日々が戻ってきていた。

ただもうノートを開き、書き込み、本の間に挟み戻す。なんて事はせず、ただ本を読み合う。愛おしい会話をして。人目を盗み、キスをする。ただ瞳を――何にも言わずに、ただ見つめ合うだけのときもあった。誰かに教えたいくらい、俺たちは間違いなく、そしてどうしようもなく幸せだった。


「ノートを持って行きたいの。あのブランケットと一緒に」

「どうして?」
 わかっておきながら聴く。いつしかそんなふうに、亜希の癖がうつっていった。

「あなたと読みたいから」

「俺が読んでやる」
 髪を捕まえたあと口づける。

「私達、死んだら天国に行けないね」
 おそらく和樹の事。

「…いいさ」

 亜希と 一緒なら。

「ふふ」

「何だよ」

「こんな日がくると思わなかった」
 ほんとうに――

 こんな日が、来るなんて。

大粒の涙を降らし、俺の肩と彼女の太腿が濡れた。震える身体を抱きしめ、またキスをする。

「お前をもう」

「――修也」

「何にもせずに見送ったりしない」


 二度と、だ。


来る日も来る日もあの一番奥の通路で唇を噛み合うようなキスを、ふたりで何度も繰り返した。こんなの向こうで――ロンドンで、それこそ死ぬほど、嫌になるほどできるというのに――だって、仕方がない。今目の前に亜希がいて、愛おしいと感じるより早く、指が触れようとするのだから。


「迎えに行く。母さんには言ってある」

「ありがとう」
 嬉しそうに綻ぶ顔。

「ノートはお前が持ってろ、大事なもんだから」

「分かったわ」

出発は明日の昼間だった。
母の車で―――家の前で止める訳はなく、近くのコンビニエンスストアの駐車場で待ち合わせる事にした。

「ねぇ、修也」

「ん?」

「幸せすぎて目眩がしそう」
 彼女がノートの奥でふふ、と笑う。


亜希の手から、俺はもう一度――今度は俺が、ノートを引っこ抜きそれを隣にばさと置いた。そしてふたりの間に紙のない、「ほんとう」のキスをしたのだった。

scene36

ずっと苦しんでいた。物心ついた時から、今の今まで。自分は特別――そう思ったことは一度だってなかったけれど。真実なのだと、段々気づいてゆく。

scene37

 

やさしい唇

やさしい唇

誰といても私は陸に打ち上がる魚、そして人生とは誰かに合わせなければならないもの。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-05-10

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