やさしい唇

r.Takigawa

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  56. Last scene

愛は美しく、清潔で完璧?

scene1

明葉高校の体育館の二階の窓の光の透過率といったらない。パスがまったく見えなかった。顔をしかめ視界が光にまみれた一瞬にそれはやってきた――ば、こん。快音ではないバスケットボール、しかも恐ろしく硬い。私は踏み潰された鼠のような声を出し、壊れかけの玩具みたくがくんと膝に手をついた。

「藤本!」ピピィッ!コーチの声がする。
ん、もう、鈍臭いったらありゃしない!

「―――亜希!大丈夫!?」

知紗が睫毛のカールした瞳をぱちくりさせ問いかけてくる。平気という意味で「全然」と返し、部室へ走った。よくある事だった。ものの2、3分でコートへ戻る、両方の鼻の穴にティッシュを詰めて。隣のコートで誰かが忍び笑いを懸命に堪えつつ漏らしていたけど、聴こえないふりをしてあげた。ここでバスケットボールをしてる少女は私じゃあない、だから何ともないの。

「やりましょう、コーチ」

血の滲んでるのが分かった。自分の下ろされた瞳に映る半分赤い塵紙。有頭コーチは何にも言わないまま、短く笛を吹いた。

「ナイッシュウ!」

ゴールを決め知紗とぱちん、と手を叩き合う。バスケを始めたのは中学に入ってからだった。流行ってた、ただそれだけ。あの頃私は大切なジャンクションを迎えていた。心に生傷もあった。新しい自分にも、ならなくちゃあいけなかった――結果、良かった。スポーツはストレスをかなりと言っていいほど緩和してくれる。それも毎日避けられない、避けようのないストレスを。

明葉高校を選んだのはただ家から近いことと公立というだけ。「私」は。知紗は違った。彼女は16才らしく、恋をしていた。あの隣のコートの錆びた色のゴール下で汗を拭う横顔に。その為だけにここにいた。黒々した髪が特徴的、他中との試合で何度か見かけたことを私も何となく覚えていた。中3の夏彼と同じ塾に入ってまで志望校を探りいざ合格、見つめられる距離にいたいっていう彼女の健気さを私は羨ましく思ってた。けど、祈りは打ち破られた。男子バスケ部の男らとは交際禁止というルールが、私たちの頭上にはでかでかと掲げられていたのだ。こんなに可哀想なことはない――だって、二年も片思いしてるのに?ねぇ?どうして、とコーチに言ってあげたい気持ちだった。もし彼女が規則に背いても私はきっと知紗の味方をするだろうし――それに知ってて、傍で見ていて、そうしない女の子がいるだろうか?


ねえ知紗――四季を二回も通り越して貫く恋心って、どんな気持ち?早く帰りたくなった。帰ってノートに、頭に浮かんだ文章を取りだして今すぐ書き出したい。私のインスピレーションのお馬さんはチャンスの神様よりせっかちだった。そして昔想像してた自分より今の私はすべてをうまくこなしていた――完璧なくらい。が、さっきも言ったとおりストレスは感じてるまま、それもかなり。しかも根源は変えられようのないものときてる。でもよかった。だって紫色したUMAのように他人から見られるくらいなら、ずっとこのままでいいもの。


家の付近まで来ると、前の道路にまでカレーの匂いがして来ていた。多分うちだろう、ママの作るカレーの匂い。「ただいま」と大きめに声を出し私は扉を開けた。

「お帰り!」

にこやかな顔。ママは私に忙しそうな素振りひとつだって見せない人だった。明るく茶色に染めた長い髪を綺麗に後ろで捻り留め、いつものよう台所でなにか料理を作り終えて生ゴミの袋を結んだりとか、冷蔵庫の中身をチェックしたりして立っていた。

「お風呂も入ってるからね」

ママの言葉に「うん」と頷き、美味しそうだから先に食べる、とリヴィングの床に部活のバッグを静かに置いたあと、ダイニングテーブルの椅子を引いた。

「知紗ちゃんもまた、バスケ部入ったんだね――ママ、あの子好きだわぁ。感情表現豊かって感じで」

そうだね。ママと、似てるしね。

「ごちそうさま。ママこれ美味しかった」

きゃあ、ほんと――と喜ぶ顔に微笑んでバッグを持ち、二階の自分の部屋に続く階段を電気もつけずに駆け上がる。踊りだす、うきうきしてく心。かりそめの私の姿からばらばらと音を立て鱗のようなものがはがれ落ち、きらめきながら階段中に瑠璃色の破片が散らばる空想をした――ドアに手をかける。ゆっくりと。そうしてやっと心の底から笑える。私のほんとの居場所は、ここなの。

scene2

部屋に入り、後ろで黒ゴムで一つに結んでいた髪を解く。部活の時も同じだった。手早くサイドの髪を纏め簡単なハーフ・アップにし窓際の机のシェードランプをつけた。優しさの滲むような光、いつものことだけど照明相手に母性すら感じる。部屋のシーリング・ライトはつけないきまりだった。

抽斗からノートを一冊取り出す。なんてことない普通のノート、5色セットで買った安い物。それと「JETSTREAM」のロゴがかいてあるボールペン――0.7ミリタイプの。ぱらぱらとページをめくり昨日の続きを読み返す。他の人がどうかは知らないのだけれど、私が物語を書くときは即興が多く、かなりさっきのインスピレーションのお馬さんに頼ることがよくあった。それがいいかどうかまでは分からない、比べる対象がいないから。でもかまわない。少し古いオーディオの電源を入れ音楽をかける。「美女と野獣」のサウンドトラックのCDを手に取り、裏の銀河みたいな鏡の触っちゃいけない部分に自分の顔を映した後、そっと優しく入れ込んだ。肩の力が抜けぼおっとする。至福のひとときだった。息を吹き返すような安堵感、誰にも傷つけられることのない絶対に安全な空間。ママには内緒の。私の子ども時代の話を――11くらいの頃だった。無口で、静かな娘だった。機嫌が悪いとか何か悩みがあるとか、そんなことは一切なく、私はただ熱中していただけだった――ありとあらゆる物語に。嵐の夜にやってきて豆の上に眠らされるお姫様やお喋りな月――家の中で秘密の扉の暗号を解きそこを開けると海に出る話たちに。一日中お家の中でじっとしててもかまわないし、むしろそれを好んでいたふしがあった。手に本さえあれば。流行りのゲームや玩具がなくても物語さえあれば幸せな日々を過ごせる幸せな子どもだった。

転機はある夜だった。それも多分同じ頃だったと思うけど、ぼんやりしててはっきりと覚えていない。家庭訪問があったからたぶん進級してすぐ、ちょうど今みたいな春の夜あたり。ママがパパに相談を持ちかけていた。ママの声のトーンに何かを感じとった私はリヴィングへの扉の前の暗い廊下でじっと息を殺し、聞き耳を立てた。自分の心臓の鼓動がドラムのよう、耳の中から振動しリズムをとっていた。

「どこか悪いんじゃないのか?」

「う…ん。先生も心配してたのよ、あの子は少し、他の子とは違うって」

「本人に聞いてみたらどうだ――亜希に。直接聞くほうが早いだろう」

「そう――なんだけどね」正直あの子、わたしにも時々よくわからないときがあるのよ。

エコーがかったような小さいママの声が、だんだん大きくなり繰り返される。あの子――よく分からないところがあるのよ。よくわからない。よく、わからない。よく、わから、ない。よく、わからないところがあ、る、の、よ。衝撃が、私の一番柔いところにある芯のよな部分を攫っていった。それは生まれて初めて自分を「おかしい」と疑った瞬間だった。そして証拠は次々手に入った。たとえば教室で休み時間に本を――小学生向けであってもほとんど同級生が手に取ることのないもの――開いているとき。降り注ぐ、子どもの躊躇のない物珍しげな幼い瞳。

「亜希ちゃんってなんか、すっごいよね?」
私はそれから本を閉じた。

私が中学に上がり運動部に入るとやっぱりママは飛び上がるよう喜んだし、知紗のようしゃきっとした可愛い女の子と友達になるとなおさら手を叩いて褒められたような気がしていた。あのエコーがかった声が私の耳には何度も何度も聴こえていた――良かった――良かった!普通の子に、なって!

ノートに「中川」と私は書いていた。物語の主人公の幼馴染に名前をつける。知紗の名字。こないだコーチの「有頭」を使ったばかりだった。ジャンルは様々だったけど今進めているのはラブストーリー――花を登場させるシーンで、細かい描写が必要だった。図書館で図鑑を開かなくちゃ。少しの間、ペンを置いて音楽に身を委ねる。いいな、ベルは。図書室をプレゼントして貰えるなんて。ほんとうの自分を愛してくれる、男の人がいて…。

「愛してるんだ」

紙の上でそう台詞をはなつ恋人。
全部、空想よ――経験したことないもの。

愛してる。きっと、美しい感情。だってどの本にも書いてあった。愛は美しく、清潔で完璧。

「きっとそう」
この時はまだ、そう思っていた。

scene3

土曜日。バドミントン部ともちろん男子バスケ部も一緒に体育館での練習だった。ウォーミングアップ、軽く走り、ぐるぐる館内を回ってる時に知紗が前で――きゃあ…っと小さく、私に話しかけるよう声を出す。彼ら――他にも部員はいるはずなのに彼女には全くもって一人しか瞳に映らないようだった、そして私も段々それに頭と瞳がなれていく――が練習試合をしている最中だった。高くも低くもない背、知紗は身長が150cmしかないから何ともないんだろう。走りながらカーブで彼の横を通った時にさりげなく私と高さを比べてみる――あ――意外と。165、ってとこか。一度も手を加えていないような黒いショート・ヘア。それでも彼のジャンプ力は凄く、パスを貰うとあっという間に一点を決めてしまった――床が鳴る。コートで靴の擦れる音が私は好きだった。きゅっ、きゅ。きゅっ。

「亜希、亜希――見た?今の!やばいよもう、超カッコイイ」

小声で抑え気味に興奮する知紗に笑いかけながら髪をひとつに結び直す。「いいね」、なんて。太田修也は確かに面食いの知紗が好きになるのには納得の顔立ちだったし、高校一年生らしいガキっぽさは彼にはなかった。恋をするのに相応しい相手、なんて基準があるとするのなら彼はぴったしなんだろう。それに、あと十年位したらなんとなく、俳優っぽい。以前からそう思っていた。笑った顔はまだ私たちと同じくわずかな幼さが残っていて、私はなにかの本を思い出しそうになった。

―――ピイッ!

コーチが来て、それは私のあのお馬さんのよう遥か彼方へと走り去っていってしまった――笛の音にぎくっとしたあと練習を再開し、それからパス練に集中する。部室で制服に着替え鼻から少しずつ溜め息をじわじわ出していると、案の定知紗が話しかけてきた。

「亜希!カラオケ行くけどどおする?」

知紗と部員メンバーのサキコ・ヒロセ・ナナ、その他が話しかけてくる。行くいく、とロッカーのドアを少しだけ強めに閉める。分かっていたから準備はできていた。明るく言葉を返す準備、本音を箱の中に隠す準備、曲リストに神経を遣う準備。彼女たちとうまく会話をしながら携帯のメモを開き出す、スケジュール管理用のそれを。むりやり覚えた流行りの歌をずらっと登録していた。いわゆるカンニング・ペーパーのようなものだった。何故こんなことをしているかなんて誰にも聴かれることはない。誰の目にも触れたことはないのだから。多分ぽかんとするからだろう、映画の挿入歌の全く歌詞の意味の掴めない洋楽やせりふの少ないサウンドトラックの類を聴かされると。わざわざ確認しなくてもどんな顔が返ってくるかくらい、解せないわけじゃあなかった。場の雰囲気を壊さないよう子供もちゃんとこんな努力をする。本当われながらよくやってる――やりすぎてる。それでも、こんな生活をやめられない。絶対抜けることのない水針のよう、あのママの言葉と後から悟る態度のわけは、私の心にいつまでも刺さったままなのだから。いいの。言わなければ誰にも分からない、これが本当の私だなんて。

♪――泣きたいよ――♪

少し前に流行った唄の歌詞に、ぐうの音も出なかった。傷つかなくて済むから他の誰かになりきる――心の中でその誰かの私をなだめるような声がする。「明日は本が読めるのだから」、と。

scene4

開館時間に間に合うよう計算して家を出る。いつもの事だった。気分が良い。本を借りることはなかった。読んで帰る。それだけでも、充分幸せだった。いつもは部活中一つにしてるだけの髪をきちんと編み込み、後ろでシニヨンを作る。自動ドアを反応させ中に入り、いつも見かける館員さんに軽くお辞儀をしお気に入りの席へと急いだ。今日も空いてる。やった。

窓際のブラインドの隙間から花壇の薔薇が見られるこの場所が私は好きだった。荷物を先に置き、今日めくるページの本を探しに行く。ちょうど読みかけの本はなく、私は小公女セイラをもう一度、いや若草物語も、なあんて考えながらぐるぐると館内を回った――エッセイ集でも いいな。そんな気分だった。十分位で五、六冊を手に取り思うまま読書にふける。幸せだった。

これが毎日――毎日こうだったら。
「いいのに」

ページをめくる指。文章によって私の口角は、上がったり下がったりを繰り返していた。人は、まばらにいた。けど、皆それぞれ物語の世界の中、文字と文字の間に飛び込んで泳いでいた。あちらの世界で。この距離感の心地良さ。きっと、絵にして見せたほうがよく伝わるような、そんな居心地の良さがここにはあった。テーブルの4つある席のうちひとつが影を帯びる。私の目の前だった。読むのに夢中で気づけなかった―――呼ぶ声に。

「藤本さん」

男の子の、乾いた声だった。顔を上げた瞬間私はあの本の題名を思い出した。太田修也が微笑みながら座っていた。

scene5

白いシャツ、黒のボトムに紺色シャツをまとい彼は利口な置物のようこちらを向いていた。黒のNIKEのマークのついたリスト・バンド。ばっちりと瞳は合っているのに口から言葉は何も出てこなく――急に体温が下がり、海の底の冷たい石にでもなったような気持ちだった。絶望と焦りがばたばたと音を立て、やっとの思いで私に追いついてくる。もう一度めの前の事実を見やったあと、懸命に考えた。なぜここに、見られたくない人のうちの一人がいるの?

「誰か分かる?」

遠い声、近いのに。「もちろん」と心で返事をする。だってあなたは私の友達に二年も片思いされてるもの。

「バスケ部よね」

やっとの思いで唇を動かすと、彼はふっと嬉しそうに歯を見せた――似てる。私のイメージする、妖精パックに…。質問に答えても彼は動こうとせず、私は彼の目の前だがたまらず溜め息をついていた。なぜ日曜のこの場所でさえ、自分を偽らなければならない?拗ねた子どものような気持になる。それ位、動揺していた。何にも言わずに席を立つ。そういえば図鑑を探すんだった。

「……」

机にあった本の山をじっと見つめたあと彼は立ち上がり、ゆっくりと私の後ろを歩きついてきた。頭の後ろに両手を上げて組んで。

「本、読むんだな」

「そうよ―――イメージ無いでしょう」
そっけなく答える。ほとんどやけくそだった。自分の時間を邪魔されたことに少し、腹が立ってもいた。

「いや…言われてみればそんな気はするけど」

「なぜついてくるの?」

「なんとなく」

図鑑のコーナーで背表紙に「花と植物」を探す。
「あなた、何でここにいるの?地元じゃあないでしょう?知らないけど」

「ああ、隣町から来た」
ここに来れば あるかと思って。
「目当ての本が」

「本?」

「ああ」

「…何の?」

「気になる?」

「いいえ」

背後から、吹き出すような笑い声。振り返る。私の右足のつま先が、とんとん、と苛立っていた。

「何?」

「さあ―――何でしょう」
にやにやとする顔。

「何の、本よ?」

小声に少し怒りを乗せ、まくし立てるよう問い詰めた。彼は微笑んだまま何にも答えなかった。元の向きに振り返り歩き出す。

「あなたって、パックみたいね」

聴こえないよう言ったつもりのそれが彼の耳に届いたらしく、お尻に「?」をつけその名前を私に呟き返した―――何でもない、気にしないで。分かるわけない…か。言った瞬間、それは彼の口から飛び出した。

「妖精の?」

ぴたと足が止まる。今―――何て?聴き間違うはずなかった。今、確かに言った。ヨウセイの。確かに。

「知ってるの?」

「何が?」

「だから!」ああ、もう。

「夏の、夜の、夢!」

ひとつひとつざっくりと切るよう問いかける。「ああ」、と思い出したように彼は言った。

あれだろ? 恋の…きちがい…スミレ。

私はネジ巻きの玩具のよう、ゆっくりと唇と瞳をひらいた。自分の顔の張りつめた緊張が解けて頬が緩みだす。口なんて、嫌でもにやけるしかなかった。胸が、やけにどきどきしていた。向かい合う。太田修也と。知紗の…と。

「そうだな」

「どうして?」知ってるの。

そう言いたかった。妖精パックは何にも言わず、ただ「さあね」というような瞳を私に向け、それから後ろで組んだ両腕をぱっと降ろしたあと、少しだけ哀しみの表情を見せた。

scene6

試合終了のブザーが鳴る。ひどく機械的だった。それでいて汽笛のよう、少し悲しげな音。

「……」

正直見えなかった。本を嗜むような男に――見かけは至って普通のどこにでもいるような今時の高校生、言い方は悪いが本の中の細やかな表現や感情の描写を好むようにはとても見えなかった。あっけらかんとした態度、よく動きよく笑う。男の子特有の好奇心そそる謎解きミステリーならまだしも――シェークスピア?

「なぜ?」ピピッ。

「藤本、次入って」コーチの声。

「はい」

髪を結び直しながら駆け出す。あれから図書館で少し館内を散策したあと、太田修也はじゃあなとだけ言って帰っていった。私は思わず呼び止め――らしくない――ほんとにらしくないんだけど誰にも言わないで。そうお願いをした。なんの事かと聴く様子もなくああ、とそれだけ言ってまた歩き出した。彼が読みたかった本は見つからなかったようだった。

今日も二チームに分かれて練習試合をしていた。私と知紗はタッグを組み、何度も何度も瞳で合図をしあいパスを繰り返す。先輩たちもマークはするけど簡単にボールを取られたりする事はない。そのくらい中学から続く知紗との連帯感は強固で、うまく完成していた。がこん、とボールとゴールの輪郭が重なる。隣のコートであのきゅっ、きゅと靴の擦れる音がしていた――向こうも試合中だった。

修也。

小柄で細身の、いたずらな笑顔。ミステリアス、小説みたいな男。知紗の好きな男。うその私の、友達の。

今週は無理だけど、来週なら…。

彼はきっとまた来る。図書館に。
ちがう。

来て、欲しかった。

scene7

また土曜がくる。空気が澄み、月の綺麗な夜だった。知紗の家に部活のメンバー5人で集まっていた。彼女の部屋でスマホ片手に寝っ転がり、ほんとは制限されているお菓子をばりばり全員でたらふく食べ、更にはDVDもつけながら会話をする。時折この曲めっちゃいいよね―――と一人が音楽を流しだす―――ゲームセンターのほうがまだましなんじゃあないか?そう思うことは少なくない。多々あった。それでも私は笑って相槌を打てる、彼女たちと波長を合わせながら。人間の適応力ほど素晴らしいものなどないのだ。知紗が派手な柄のクッションを抱きかかえる。

「あーあ、修也くんに会いたい」
修也。このふた文字に神経がぐっと集中した。私は人と喋るとき、頭の中に文字が浮かぶ。音を聞くとすぐ漢字を当てるのだ。しゅうや。修や。修也。

「また、始まった」はいはいと私は言う。

「もう、本当に好き。今日も格好良かった――ばしばしゴール決めてさ」

ナナが笑って、
「告白しちゃえって、もう。そんなに好きならさ。黙ってりゃわかんないって」有頭に。

「あたし達が言う訳ないじゃん。協力するよ」
ヒロセ。

知紗は、ん――と嬉しそうに苦しんで、
「無理っ!」と言い放った。

「良いの。顔が見れるだけでも嬉しいもん」

これも本音だろうが有頭が怖いんだろう、実際は。ふと考える――あんな、常に不機嫌で、長年の不満を彷彿とさせる眉間のしわとほうれい線を持つ40代の女性でも、胸が切なくなるような燃える恋をしたことがあるのだろうか?人生で、たった一度でも。

「でも もし―――」告白するって決めたら、その前に――みんなに言うからね?知紗の上目遣いでにやける顔がクッションの向こうに見える。場を盛り上げるよう、あたし以外の三人がふぅっと高い声をあげた。

「ああ――亜希。死んじゃいそう、想像しただけで。助けてよ、そのときは」

知紗のじっとりした手をはねのけるのを堪えもちろんと笑った――「任せて」。複雑な自分のこころのノイズを、無理やり単調で軽薄な味のしないポップ・ミュージックでかき消し、私の心はただただ幻の国のような日曜だけをはやくはやくと待ちわびていた。

scene8

足早に私は図書館裏の薔薇の園を抜けていた――「いる」?それだけ考えるようになっていた。考えてしまうように、なっていた。


自動ドア。いつもの館員さん、紙の匂いのたちこめる通路。いつもの席。ブラインドの隙間からさっきの美しい薔薇。

「修也」

見渡すかぎり、いなかった。そうよね…本は。なかったみたいだったし。鼻からふ…と恐ろしく長い息を吐き荷物を置いた。何を読もう。何を…。変な感覚だった。

ぶらぶらと適当に館内を見て回る。アメリカ文学のコーナーでエマ・クラインの「The girls」を手に取る。キングもお気に入りの「ジョイランド」と「IT」を。刺激的な文章が読みたかった―――何を―――勘違い、したんだか?

いちばんぶ厚い「The girls」をぱらりと読み進めていく。繊細な少女の心がかぎりなく現実的に描かれている作品。お気に入りの本のひとつだった。疲れている時には読めたものじゃあなかったが。ぼおっとあちらの世界に入りかけた時、ふと視界にキングの文庫本を取る誰かの細い腕が見えた。

「怖え」

深めに被った黒のキャップの下で笑う唇――修也だった。向かいに座り、しばらく表紙のピエロの顔を見つめたあと目線を上にやる。彼と私の瞳が合った。

「先週いなかったな」

頁をめくる、指が止まって。瞳が合う。あの妖精ともう一度。

「友達と…いたから」

「へえ」

「まだ見つからないの?本…」

ああ、とキャップを取る横顔。

「もしかしたら、見落としてるんじゃねーかと思って」

「司書さんに尋ねたら良いじゃない」

「やだね」

立ち上がりもう一度キャップを被る。

「お前、随分違うよな」
あっちと こっち じゃ。

「いけない?」

「いんや」

「探したら?本」

「分からなくもないよ――お前の気持ち」
独り言のよう呟く。

「ひとの話、聴いてる?」

私は思いがけず笑顔になった。なぜか、可笑しくてたまらなかった。こないだの「藤本さん」から急にお前呼ばわりするところも。会話のキャッチボールをいきなりかわしたうえ、彼は別のものを投げかけてきた。

「スティーヴン・キングか。良いよな」

「あら。読むのね、本」
皮肉のつもりで微笑む。

「そう。イメージ無いだろ」

「全く」

「イメージ通りだよ。映画しか観たことない」

「本のほうが素敵よ」
手から文庫本を取る。

「棚になかったけど「アトランティスのこころ」と「メイプルストリートの家」が一番好き」

彼はじっと私を見つめた。

「そおいや、スティーヴンなんとかだったな。あの本」

「どんな話?」

「……」

「良いじゃない。誰にも言ったりしない」

「急かすな。思い出してるんだ」

ぴっと指を出す。「宇宙の―――」「ついてきて」彼が言い終わらないうちに私は歩き出した。

「まじかよ?」

児童書のコーナーで、はいと手渡した。
「こっちは確認しなかったのね」

「ああ――まさか小学生向けと思ってなかった」
スティーヴン・ホーキング 宇宙への秘密の鍵。

「普通、キングの名前でここまで出かかると思うんだけど」
自分の喉元に指を揃え手をやった。

「文じゃあピンとこないんだよ。絵がないと」

「ふぅ…ん」 「サンキュ」

「どう――いたしまして」

シェークスピアの謎を解く気はなかった。ただこの生まれて初めての心地よい会話を――一言一句記憶に刻もうと思った。なあ、と修也が囁く。

「俺だけ?こないだからお前の事ばっか考えてるの」

scene9

午後22時。自分の部屋でノートを開く。いつものよう、電気は手元のライトだけ。オレンジ色した古い電球の下いつものよう前のページを読み返した。確認をし書き始める。すらすらと動くボールペン。もう、なんとなく気づいていた。ヒロインの恋人が誰かに似ていっているという事に。

彼の話し方、服装。髪を切らせ同じ黒のショート・ヘアに近づけていく。しゅうや…修や…修也。ひらがなが溶けたあと、あのとき浮かんだ文字になる。

「修也?」

あっちの世界で夢を見れてもこっちじゃそんなことはなかった。誰といても私は陸に打ち上がる魚、そして人生とは誰かに合わせなければならないもの。「自分」とはこんなふうにこそこそと、限られた空間の中でしかさらけ出してはいけないもの。多分死ぬまでそうなんだろうと思っていた。誰かと歩幅を合わせる気がないのなら生まれてきてはいけない。たとえどんなに息苦しさを感じてようとも、心がどれだけ叫んでいようとも。私のなかでそれは不変のはずだった。この世の真理、森羅万象の掟、避けられようのない、避けようのない私のストレス。そして変えることの出来ない先天的、そして個人的に与えられた罪。きっと世界はずっと教えてくれていた。非現実的なものを愛してはいけないよと。ただ過去にひとり、それに気づけなかったばかな少女がひとりいたということだけのはなし。それだけのはずだったのに。

知紗の事を忘れたわけじゃなかった。でも彼と話す時のあの素でいられる、金色の花の蜜を舐めるような瞬間。私の頭をしびれさせ他にもう何も考えられなくなる刹那の安息。遅かった――遅すぎた。何もかもが。遅すぎていた。今になって思えば、このときには もう。

日曜になると私は自然とあそこへと足を運んでいた。そして彼も。約束するわけでもなく私たちは毎週のよう図書館でおちあい、話をし、本を読んだ。修也はいつもハリウッドスターの伝記や写真集、意外にも絵画集を開いていた。

「一番好きな映画って?」

「…」
ぱたん、と大きな本を閉じる。

「ありすぎて、決められない」

「そうなの?」

「お前は?」

「ウォールフラワー。エマが素敵」

「へぇ…」

「美女と野獣はアニメの方が好みだけど」

「お前、少し似てるよな」
 エマ・なんたら。

「そんな訳ないでしょう」

「目が似てる。最初に見た時思った」

「ここで?」 「いんや」

「まさか、学校?」

「ああ」
 嬉しさを隠しながら話を振る。

「好きな俳優は?」

「リヴァー・フェニックス、ジム・キャリー、ビル・プルマン、ジェームズ・スチュワート、キーファー・サ…」

「一人よ」

「ならリヴァーだな」

「雰囲気は近いけど身長が負けてる」
 死体を探す 子供の役どまりね。

「うるせー。まだ伸ばすんだよバスケで」

「髪じゃないのよ」

知紗の事は黙っていた。どうしても言いたくなかった。そしてあの「交際禁止」のルールも私たちのことを少なからず支配していた。連絡先も知らない関係、恋人になろうとするなんてもってのほか。それでも、別によかった。

「役者に…なりたいの?」
 目を伏せたまま尋ねる。

「ああ」
 ページをめくる、細い指。

「ふっ」 「?」 

「いや…」

「何よ?」

「生まれて初めて人に話した」

あんまり進まなくなっていた。私の物語、この日を境に。5年間で一度もなかったのに。一度も。

家に帰って、鍵付きの抽斗を開けた。赤と緑のタータンチェックのカバーのノート。好きな詩を書きためてあって、ページは20枚以上残っていた。私はこれを修也との交換日記に使うことにした――図書館の中で、一番古くて暗いところにある、これを読みたがるなんて相当もの好きだろうというような、誰にも読まれず綺麗なままのそのぶ厚い本に挟んだ。私がいないとき修也が、修也がいないとき私がノートに好きな事を書き込み本の間に戻す――そして二人が揃った時はそのノートの内容を読みあった。広い図書館の一番奥で。

「素晴らしき哉、人生!は見た?」
 床に直接座り本棚に背中を預ける。

「いや――まだだ。今度見てみる」

「裏窓と違うあの人が見れるわよ」

ぱらぱら、とノートをめくる修也。
「ジェームズ・スチュワートか」――ええ。

突然ばっと寝そべる体勢から起き上がり、隣の私の目の前にノートを掲げる。

「最後の行、なんも書いてない」端を摘む指。

「そうよ。今日来たから」

「ここは?何で飛ばすんだ」指をさした。
 あき って どういう 字 ?

「水瓶みたいな形の亜に希望の希」

「俺、水瓶座」
 またページをめくる。次、とノートを指す。
 この前の 質問の 返事は ?

「この前って?」

「言っただろう。お前と二回目にここで会ったとき――こないだから、お前のことばっかり考えてるのは俺だけか、って」

「そうね」 「なんだよ、それ」

「私の事は考えてないけど、太田修也の事はときどき考える」

呆れながら溜め息をついたあと瞳がじろりとこちらを見た。期待する表情。そして問いかける――「毎日?」答える。朝起きて―――うん―――夜、眠るまで。

修也の顔が近づいてきて私はとっさにノートを彼の手から引っこ抜き、唇と唇のあいだにすべり込ませた。瞼を閉じる、彼が見えた。ノート一冊隔てて、私たちは物凄く近づく。スロウで離れる唇。何でだよ――とも言わなかった。微笑み合った。言えなかった。私も、ほんとは夜眠るまでじゃなくて夢の中までよ、ということも。

scene10

明葉高校だけじゃない。学生は例外なくテスト期間へ入る。部活動もそこそこになってきた頃、でも日射しは強くなるばかりだった。

「亜ー希っ!」

「おはよ――知紗」

「あっついよね――部活なくて本当幸せって感じ。死ぬよ、あたしたち」

「ほんと」

ふふ、と笑って返事をする。自分を省みる時間は増えていた。あのときから…少しずつ。実際私にとってもうバスケは意味を持たなくなっててもいいように思えていた――だけど、そうは問屋が下ろさないとでもいうところか、問題があるとするのなら目の前にいる知紗との関係とママのふたつだった。

ママと知紗は一見関係のないように見えて実は密接に関わってると思っていた。なんて言う?もし、バスケから遠ざかって。その最大の理由が自分の二年の想い人だって暴露してしまったら?なんて答える?知紗と離れてママに不審がられたとき――わたしが私らしく生きようとするとき――一体どうやって、どんなふうにママの肩を慰めれば?

どう転んだとしてもきっと、修也と二人堂々と――河原や海岸や学校で本を読み合える日なんて来ないことは分かっていた。百歩譲ってもし修也と付き合えたとしても――万が一にもありえないが――知紗と和解できたとしても、私はまだ物語の世界が好きな自分をさらけ出すことが、死ぬより怖かった。世界に向かって、詩や、美しい音楽、誰かが創った空想の世界、それら全てを書き連ねた文章を愛してますと言うこと、愛していますと、心から叫ぶことが。放課後用事があるからと知紗の誘いを断って図書館へと足を運んだ。男子バスケ部も今日から休みのはずだった。


修也がいると思ったのに、いなかった。
「そんな…」


初めて不安になった。口約束のひとつも交わしたこと、ないくせに。彼女気取り。思えば私が修也の特別な存在だっていう証拠なんか、瞳に見えるものでは何ひとつなかった。あのやり取りだけ、私の心が知ってることは。あのタータンチェックの――赤と緑のノートすら、ただの彼の思いつきで…片付けてしまうのなら。黒い背表紙。言語の解せない文章。丁度111ページに、いつもの交換日記は挟まっていた。ページを開く。今すぐ書き込みたかった。文字の最後尾を探す。泣きたかった。


一瞬世界が止まったような気がした。
私の番を抜かして修也の字が、連続で書かれていた。それは、いつもより感情的、それでいてきっちりと行間を揃えた文章だった。それまでのただ顔を合わせた時に聴いておけば済んでしまうような――愛らしい、栗鼠の呼吸のような些細な質問とは違っていた。

世界で一番好きな歌は?
 私の 字。

愛さずには いられない。
 修也の字。
お前は?
と書いてあるのに――その下に、後から書き加えたような文章があった。



もし

もしお前を この先
ほんとうに
愛せなくなる日が いつか
来るとしたら
俺は
どうしたら いいのか
教えてほしい
本気で、だ

亜希
直接 会って
言えそうもないから
ここに書く

「愛してる」



来たくなかったんじゃない。
来られなかったんだ。きっと、縛りつけるほど。抱きしめてしまいたくなる。壊れて、しまうほど。顔を見てしまえば、声を聴いてしまえば。修也もきっと、そんな感情の最果てまできてしまったのだと思った。私と同じように。こころの拠り所を見つけてしまった人間は――二度と後戻りは出来ないばかりか、過去よりももっと苦しむことになる。前に進まない限り。進み続けない限り…永遠に。何処の誰の角度から見ても、それは真実なのだった。

scene11

テスト期間の休み。女子バスケ部は二週間だった。

全ての部活が共通しているのかは知らなかった。あたしはママに部活のミーティング、もしくは「勉強会」と銘打ち、毎日まいにち図書館に足繁く通った。修也はあのメッセージから文字を書きに来る事もなければ、館内で会う事もなかった。

「修也…」

疲弊―――していた。あの交換日記に来る日もくる日も私の文章ばかりが溜まっていった―――どうして?涙で、震える事もあった。彼のあの胸が張り裂けてしまうような詩のメッセージに、歌詞で応えた。ホイットニー・ヒューストンの「Run to you」。「I will always love you」。「thank god i find you」、マライア・キャリー――「気の遠くなるほど長い間 ずっとずっと一人ぼっちだった あなたと逢うまで」――書いてる途中で滲んでゆく景色。初めてこっちの世界で恋をしたと思えないほど、それは苦しく、愛おしく、狂ったよう、感情的だった。文字を読むことすら辛くてたまらない。それでも修也は返事をくれないだけで目は通してくれていると、願わずにはいられなかった。修也がいなくなれば本当の私はまたひとりに戻る。修也は、そうじゃないの?――もう、こんなに満ち足りた気持ちのわたしに出逢うこともなくなる。彼がいなければ。元々ひとりでいた時よりもそれは遥かにつらいことだった。誰とも夏の夜の夢のあの妖精の姿を分かち合えない。恋のきちがいスミレ――気違いと思われるのは、わたし。あのこころの開けた自分がいた幸せを知っていながらまた、永遠に自分を――そして世界を――だまし騙し、生きていかなくてはならないのだ。


泣きはらし、乾いた喉もそのままに私は児童書のコーナーへと入っていった。「スティーヴン・ホーキング 宇宙への秘密の鍵」。

まだ返却されてないままだった。私はカウンターへ行き本の行方を探った。最後に借りたのは太田修也ですか?―――知り合いで。

「私も借りたくて、待ってるんですけど」
彼がもし返してなければ、私の方から言いますので。

「――いえ、今借りてる方の前に返却してますね」

かち、と貸出履歴をひらくマウスの音がする。瞬間、声がよみがえった。あの本を見つめる修也の。こないんだよ――が…ない…と。

文じゃ ピンとこないんだよ、
絵が ないと。

はっと、瞳が数秒ひらく。私はくるりと向きを変え歩き出した。一番古く、暗いあの棚の、相当なもの好きしか読みそうもない、あの本へと向かって。

scene12

山と川のボタン。DVDを取り出す際の、または入れる時に使う隅っこのあのマークを、そう呼んでいた。

「マイ・プライベート・アイダホ」
「ゴースト・バスターズ」
「ウォールフラワー」
「めぐり逢えたら」

ガチャガチャとプラスチックのケースに入ったそれらを独り言とともにリヴィングのテーブルに投げ出す。片膝を立て、茶色の革のヴィンテージソファに背中を預けていた。

「これにすっか」

91年、リヴァー・フェニックスの「マイ・プライベート・アイダホ」。男娼役。表情ひとつひとつに虜になる――もう、何度も観ていた。彼の、愛嬌のあるあの口元と長男というところにも親近感を覚えていた。俺は一人っ子なのだが。

「……」

がちゃんと鍵の扉を開ける音――ふぅ、と鼻から息を出しリモコンの停止ボタンを押した。ぱちりと電気をつける音。母だった。

「…ただいま」
 電気くらい つけなさいよ。

「何も言わないんだな」

「お望みならば言うわよ」
 コート―薄手のベージュ色を掛ける。

「ご飯、ちゃんと食べた?」

「ああ。母さんは」

「食べたわよ…軽くね。倒れるもの、食べなきゃ」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しグラスに注ぐ―――はぁ。一気に飲み干し、嬉しそうに息をついた。部屋へ戻ろうとDVDを取り出しケースにしまう。4枚まとめて持ち上げ肩へ置いたところで、ちらりと母がこちらを振り返った。

「柊也」 「ん?」

「大丈夫?」 「…」

ああ。それだけ言って部屋に戻る。リヴィングより小さいDVDプレイヤーで、さっきの続きを観はじめる。青白い光。手元のゴーストバスターズ、ではない彼女の一番好きな映画と画面を交互に見やる。何度かそれを繰り返した。


―――途中で 止めればいい。

「そうだ」


苦しくなったら。どうしようも、なくなったら。

あの、山のふもとを流れる川に。全てをさらっていってもらえばいいさ。

scene13

大会を控えていた。テスト休みが終わってメインのテストが終わって――入学してから初めてやる他校との試合だった。二、三年に混じって出場選手に選ばれていたのは私と知紗とサキコの一年は三人だけだった。本人のそのつもりはなくとも、やはり私と知紗のチームワークは高校でもわりと高い評価をえているようだった。

「走れ、走れ、走れ―――!
藤本!ぼけっと、するんじゃない!」

いつもなら「はい」と馬の如く颯爽と返事をするところだがそうはいかなかった。私は小説――自作の物語――を書く事を、前にも増して再開するようになっていたからだ。

夢中になればなるほど「あちら」の世界にどっぷりと首まで浸かってしまい、心なしか食事の量も減った。ママには、部活から制限を受けている、本当にやばくなった時は食べる、だから大丈夫よ、と明るくかわしてした。自分の身体からみるみる脂肪が無くなっていく。軽くなるという感覚を初めて味わった。お腹が、へこへこする。体育館内を10周回ったところで平衡感覚が無くなってゆき、瞳がゆっくりと――半分ずつ、閉じていく。

足が。もつれていく。それと同時に薄れる意識。こんな状況の中でさえ私はこの感覚を…文字におこして…つか…え、る。そう、考えていた。

ごつ――と硬い板に激突する音と、側面の半身の痛み。身体が、ぴくぴくする。ああ。いま私は、とてつもなく…みっともない顔をしている…ちかちかする瞼の裏。瞳を開けて、有頭コーチや他のメンバーに「大丈夫です」と言いたかったのだけれどそれは叶わず、やむを得ず白目を剥いてしまった。左手が紐のようなものに触れる。なんとなく、体育館を二つに仕切る為のネットだと分かった。手を、つっこむ。薄れゆく意識の中。視界が完全に塞がっていたし目眩が物凄いし、白目に加え左手は奇妙奇天烈な動き。

(藤本――)

コーチの声がする。さっきまで体育館いっぱいに部活生がたくさんいた空間にいたのに私は一人ぼっちだった。全員の声が、遠くなる。やめて。行かないで。はやく、行って。戻ってこないで。ここに、いて。離れて。そばにいて。やっぱり、消えて。

想いが、文字になっては消えていった。

猛烈な吐き気で自分が戻ってくる。げ、ほ…と空の内臓から胃液だけを追い出したところでぷつん、と、私は外の世界と切り離された。

scene14

「柊也」

 母の呼ぶ声。

「牛乳。飲んだらちゃんとしまって」
 すぐ 悪くなるのよ この時期。

「あ…ぁ」

窓際の木製の椅子から立ち上がり、リヴィングのテーブルの上の青のパッケージの牛乳を片付ける。まだ半分以上残っていた。こめかみに熱が溜まるようだった。急に立ったから。それくらいの間、ぼおっとしていた。

「あなた部活は?」

「休み」 「そう」

――戸締まりだけ、きちんとね。そう言って太田香――母は仕事へと出掛けていった。何処にも行く気分ではなかった。あんなことを書いた後では。

「…」
 もう―――読んだろうな。

ソファに腰を下ろし、両手を頭の後ろで組み脚を前のテーブルに投げ出す。母の居る前では決してしないが、十五分も経てば夜まで戻らない事は確実だった。文章を書くのはあまり得意じゃない。書くよりは読む、読むよりは観る、そして何より観るよりは演る。それが全てだった。かなり早い段階で、自分の人生の目的というものが分かっている方だった。が、どうでもよかった。周囲に何と言われようが。わざわざ告げる必要もない。誰かと自分の世界を分かち合おうなど、微塵も思ったことなど。役者になりたいだなんて。卒業文集に将来の夢は「NBAの選手になって神童と呼ばれる事」、と書いて周囲を楽しませた。そこまでバスケに情熱を注いでいた訳ではないし、身長もあるからだ。仲間は好きだった。だけどずっと――ほんとうに心の底から探し求めていたのはずっと、情熱的になれるような相手だけだった。狂おしいほどの恋。母ともういない父、太田和範。二人のような恋がしたいんだ―――頼むよ。

あんなの詩でもなんでもない。
「ただの…手紙とおんなじだ」

子供の落書き。はい、お母さん。母の日に贈る似顔絵。いくつも本を読む亜希にとっては陳腐なもの。なんとなくそれらしい言葉を並べただけ、それでも書かずにはいられなかった。「愛してる」。

父さん――どんな顔して、あいつに逢えば?

天を仰ぐ。瞳を閉じ口を開き、溜め息をつく。父さん。子供の頃くれたあの本。貸したまま戻ってこない。「スティーヴン・ホーキング」、読んだけどほとんど覚えていなかった。

悩んだ時は…星に想いを馳せるんだ、柊也。きっと、全てがちっぽけに思えてくる。宇宙から見れば俺たちは、砂粒より小さい…の…さ。

「…のわりには、手に負えないな」

あの、瞳と唇ににじむ知的な色。交わす言葉。すれ違う時。近くに…いる時。向かいに、座る時。紙をあいだにキスした時。香る清潔な気配。そう、たとえ血の滲んだティッシュが、両の鼻の穴に詰め込まれていたとしても、だ。

「でかいんだ」

とてつもなく。手に負えない。手に――負えないんだ。見上げたまま、雨のよう呟き続けた。あれからテスト休みが終わった後そう、試験日から2、3日後だ。一度だけ閉館ぎりぎりに図書館へ行った――が、肝心なあのノートが、無くなっていた。思わずあの本が違うのかと考えたが、まちがうはずなんてなかった。挟む本を変えたのかと両脇を確認したけど見つからなかった。亜希に会うことももちろんなかった。その日。


(きっと――持ち帰ったんだろう)


ばつが悪かった。そう謝れば済むのにそうしなかった。「愛してる」、なんて言っておいて。ほんとうはどうしたいのかなんて、考えなくとも分かっていた。わかっていたあいだにもなお、この前に投げ出されたままのふたつの足があの場所へ、あの図書館へ。あの二人だけの、秘密めいた場所へと向かうことはなかったのだった。

scene15

「そうなんですよ」


ええ、ですから――おかしいじゃあないですか。ママの声をBGMに果物を口に運びながらテレビを観る。二日前の私からは想像もつかないほど、もう、すっかり回復していた。

「大会前だっていうのに――食事制限だなんて。あの、うちの子脱水症状まで起こしかけていたんですよ?…ええ。先生も、お分かりでしょう?あの時いたから」

どう、言い訳しようか。もう科白は決めてあった。だからこんな余裕しゃくしゃくでくつろいでいられるのだ。

「ええ。…ええ。はい―――えぇ?」

ママの一挙一動で有頭コーチの言葉がなんとなく伝わる。そろそろだろう――ママが首を思い切り私に向けた、もげそうなほど――ほらね。

納得したようなしてないような、怪訝な表情。かちゃりと受話器を置くと手も離さずこちらに語りかけた。

「どういう事よ、亜希?先生、食事制限なんかしていないって。嘘をついてる態度じゃあなかったよ?確かに炭酸飲料やお菓子は口にしないようにって言ってたけどって」

林檎を噛み砕きごくり、と喉に押し込む。
やたらと水分の多いらしかった。

「亜希?」
ママの言葉に諦めたような態度を見せる。わざと、微笑んでみせた。とても…そんな気分では、なかったのだけど。脳裏には私が倒れ、高校から救急車で最寄りの総合病院まで運ばれ、その次の日のこと―――知紗がお見舞いに来てくれた。まさにその日が、浮かんでいたのだった。


「亜希!――調子どう?もう、びっくりしすぎて。心臓止まっちゃうかと思った――起きてて平気なの?」

「うん、だいぶ良くなったし。ごめんね。練習終わった?」

がんがんしていた。実際のところ頭は。知紗の高いきんきんする声も、心なしか大きく聴こえた。

「うん。まぁ、面会行きたいからって言うとさすがに有頭もなんにも言わずに帰してくれたよ。うわ、点滴。痛くない?やだぁ、あたし、絶対無理」

「何とも」

青い顔でにっこり。口角を横に引っ張る。自分の肌がかさかさで、ものすごく不愉快だった。

「良かった―――ねえ亜希…あのね、あたし」
 修也くんに 告白するから。

 え?

両手で口元を押さえスカートの下の両脚をきゅっと閉じ、知紗はこそこそと言った。自分で自分の気持ちの高まりが止められないように、彼女は瞬きを何度か繰り返す。

「あの後ね」
亜希が、運ばれてった後。皆で心配して見てた時。急に修也くんに。後ろから、

「このへん」

がばって掴まれて。思わず、何ですかって、言っちゃって――あたし。指を肩に滑らかに沿わせる知紗。針を指してある左側の指先が、どくん、どくんとする。普通じゃない。自分の身体だもの。 

触られちゃって。

 私が、怒ってる。
「そうなの?」
 やったじゃん――グシャリ。

「うん。だからやっぱり――あぁ、好きだな、って。そりゃあ、言ってどうなるかは…分かんないけど。ね、亜希、協力してね。もしあたしと修也くんが付き合っても――」

「言わないよ、当たり前じゃん」
 死んでも。

「お願いね」

「言わない。で、いつするの?」
 告白。

「ん…大会が終わってから。オリエンテーションの日」

「そっか」

「ふふ。亜希に言えてよかった。心強いよ」

「そう…かな」

「亜希も、早く元気になって。最近付き合い悪かったし。皆でまた近い内集まろうよ――つまんないよ、勉強ブカツ勉強ブカツじゃ」

「うん、そうだね。ごめん、もう少し寝たほうが良さそう」

「じゃ帰るね。また学校で」
 あぁ――どきどき するぅ。

出ていく。小さい、後ろ姿を見送る。
私の頭の中で、眉間に点滴針を刺された知紗の分身が、うずくまった…。

「――亜希!?」

ふっと自分の家のリヴィングに帰ってくる。目の前でママが顔と上半身を右斜め上に傾け、両肘を立て手を脇腹に置いてこちらを、目をひんむいて見つめていた。驚いたニワトリみたい。そう思った。私は微笑み直して、林檎の匂いのまだする唇をゆっくり文字通りうごかす。

「好きな人ができたんだ」

scene16

演技をすると物凄くエネルギーをつかう。

あまり真剣にやっているとはいえない部活の前でさえ、台詞を読むことはなかった。大抵土曜の夜、母さんが帰ってくるまでの――部活が終わる午後15時から21時頃まで、細かく言うと。飯や風呂、大体シャワーだがそれらを除いての時間をまとめて演じることに費やす。食事は母が用意してあるので、作る時間はかけずに済む。

喉が乾くのはわかっているので予め近くに用意をしておく。たまに勢いあまってこぼすことがあるから大体はキャップのついたペットボトルを使うようにする。

「―――はぁ」
 キッチンの流しで水を含み出す。

ぴかぴかのシンク。母さん。自分の顔が見える。父そっくりの目元と、母の細い身体の線、背丈。爪の形まで。自分が二人の全てを分かち合い、愛されて生まれてきた事は知っていた。黒々とした濃い髪。これも父さんのものだ。唇は母さん。耳の形も…。

だけど。あとひとり――いや、欲を言えばせめて三人は。もし俺に兄弟がいてくれれば、二人の愛を分かち合った結果がここにあれば、もっと堂々と演技が出来るのに。そうだ。分散、できないんだ――心配というひとつの愛が――俺めがけて制止してくる。駄目よ。それだけ、は。

「……」

あのノートはどうしてるんだ?

 同じ柄の。このカバーと、おなじ柄のを持ってるのよ。ブランケット。物語を書くときは、決まって、太腿から膝にかけてるの。赤と緑の、タータンチェック。

窓際の木製の椅子へと向かって、どすん、と音を立て腰掛ける。瞳を閉じた。寒くなくても、かけちゃうの。太腿からひざに。絶対…物語を…かく、とき、は。


自分の手首を顔の前に掲げる。
薄く薄く透ける血の色。
十秒ほど見つめた後、その少し下に自分の唇と、歯をあてがう。

「亜希」

想像と全く違う感触を無視し、彼女の唇を想った。

「ウォールフラワー」。最後まで、観れずにいた。何度も何度も手を伸ばさずにはいられなかった。彼女とそっくりのヒロインを抱き締めたくて。

あのノートを見つけたら、感想を書いてやる。どんなことをしても。見つけ出して、やる。

scene17

視線を。よく感じるようになっていた。


明葉高校の校舎は三つあって運動場を頭に縦に上から三年の校舎、職員室。次が一、二年の工業科。そして最後、中庭を挟んで一年と二年のビジネス科があった。分かりやすく言うと工業はほとんどが男でビジネスは女。私と知紗、ヒロセ、ナナ、サキコらも全員ビジネス科の生徒だった。視線は、修也のものではない。先週に突然ランニング中に倒れ、奇怪な表情を見せた私を移動教室などですれ違う時ここぞとばかりに覗きこむのだ。救急車が来ていた事はサッカー部や陸上部も知っていた。

バスケ部の女の先輩たちは、無理するなと優しく気遣うよう、声を掛けてくれるようになった。大会は今度の土曜――四日後に迫っていた。物語はというと性懲りもなく続けていて、それでも少しセーブ出来るようになった。加えて、あまりお腹が空いていなくても――食事の時間しこたま胃になにかを詰め込んでおくことで、問題はなくなった。

知紗は前にもまして可愛くなっていた。修也くんに告白する、実感が湧いてきたのだろうと思った。バスケのユニフォーム、白地に赤と黒のラインに着替える知紗の髪からは、人工的なつんとした花の香りがした。

いつもの女バスメンバーと会話を交わし着替えを済ませいつも通りに体育館へ入る。ストレッチからウォーミング・アップを始める。そして、館内を回周。これもいつも通りだった。あと十五分ほどすれば茶髪のボブに切り揃えた有頭コーチがやってくるだろう。すっかり全快している私を見てほっとした表情を見せた事は意外だった。眉間にしわを、寄せたまま。


「オリエンテーションって何やるんだっけ」
 コーチはまだ来ていなかった。

「あぁ、亜希、こないだいなかったもんね。シンボクをどうとかって――校内の結束をはかりますとか。あたしもあんまり聴いてない。部活動紹介が今更あるらしいけど一年は用無しでしょ」

「部員が少ないとこだけ?」

「みたいだよ」


オリエンテーション、知紗の運命の日。部員――バスケ部とバレー部も数名、ぐるぐるぐるぐると回る。薄汚れたグレーか深緑かわからないネットをかき避ける。向こうのリングの下を通る、きゅっ、きゅ。靴の擦れる音。そろそろ息も上がる頃だった。スピードを落としかけコートで練習試合をする修也を視界から追い出す。少し前を走る知紗の瞳がいつも通り彼を追う。反対側のリングを通ろうとした時、ふいに声がした。

「大丈夫か、藤本」

三年の男だった。男子バスケのランニングシャツ、修也と同じ。彼より6、7cm背の高い、薄い茶色の髪の男。とっさに首だけをそちらにやり「はい」とだけ答えた。彼は腕組みを崩さず微笑しコートへと顔を戻した。前を向けば良かったのにその男と一緒になって男子コートの方に視線をやった。修也が、こちらを見ていた。あの優しく語りかける唇をぽかん、と軽くあけたまま、彼の手にあった煉瓦色のバスケットボールは無残に奪い取られ、敵チームのゴールのリングの輪に重なったのだった。

scene18

曇り空だった。

薔薇も心なしか元気がない。そう思った。ナイキの創始者フィル・ナイトの本を見つけ一番奥の通路へと持ち込む。スピルバーグの――映像の歴史を収めたやつ――わりと古く、もう何度も読んだことのある本も。E.T.の皺だらけの顔がこちらを見た。

「…」

雨がゆっくりと降り出す、泣き喚く子供のよう。ぽつ、ぽつ、ぽつ…さぁぁ。



ノートはなかった。「今日」も。 あのテスト休みが終わったあと――あれからゆうに、一ヶ月は経っていた。大会が終わり同じ会場の別コートの低いポニーテールを見送り一度自宅に戻る。仲間からの電話の誘いを断り、気がつくと一人図書館に来ていた。


本をめくる。じめっとした空気が頬にかかる。床に座り込んでいて地面に近いせいか。


「いた」


頭上から声が降る。

「……」

低いポニーテールをなおし横の髪を編み後ろに纏めた――亜希だった。微笑んでいるのか悲しんでいるのか微妙な境目をし、ちょこんと立っていた。

「なに、してんたんだよ」
 今まで。

「あなたに言われたくないわ」

「…ノートは」

「本の中」

「は…」
 安堵の溜め息を、思わず漏らした。久しぶりの会話だった――顔を手で二、三度拭う。

「ジョーズね」
 スピルバーグ作品。

「ああ。さっきからE.T.とばかり瞳が合う」

「仕方ないわ」

「もういいのか、体調」

「いつの話してるの?」

「大丈夫だな」

「中学の時行かなかった?」

「USJか」 「そう」
 至って普通の態度だった。

「ジョーズのアトラクション、乗ったけど笑っちゃった」

「なんで?」

「全然怖くないしクルーのお姉さんの手が――爆発のタイミングとずれてて」
 笑う唇。

「へえ」立ち上がる。

「何処行くの?」

「どこって…」

「ノートは駄目」

「なんでだよ?」

「まだ――話したいの」
 胸を突くような表情だった。

「わかったよ」

ノートの内容の事にはお互い触れなかった。亜希は、あたらしく観た映画や本の事をぺらぺらと喋っていた。なんとなく、変だと思った。


「…どうかしたのか」


空中を、見つめる瞳。彼女は瞬きを繰り返し、またぼぉっとした。手を握った。青白くか細いこの手を。中指にざらつく感触。ペンだこのようだった。しまい込んでいた愛おしさが溢れ出る。映像が見える。とてつもなく何かが、胸に流れ込んでゆくその様子。

「亜希」

返事は、なかった。涙のほかには。そういえば初めて名前を呼んだんじゃあないか――そう思った瞬間だった。

どうして?

とすんとすかすかの身体がぶつかり、めいいっぱいしがみつく。Tシャツの肌の下、胸元に亜希の涙が染みて濡れていった。

どうしてなの?

くぐもる声で、また同じ言葉を続ける。細い肩がふるえていた――どうして?どうして、どうして?そう繰り返した。すぐ、こうするべきだったんだ。会ってすぐ、こうするべきだったと。


「どうして、修也なの?」


すすり泣く亜希の唇をどうしようもなくなった想いと塞いだ。全てを一緒に。

信じられないほど 柔らかかった。

scene19

「亜ー希!」

ばたん。部室のロッカーを静かに閉め首をくる、と後ろにやる。急に呼ばれたけどあれなんだろう、分かっていたので口はきちんと閉じていた。入り口のドアからちょこっとだけ見える肩より少し下のウェーブがかった髪、嬉しそうにほころぶ顔。目尻は下がって、長い睫毛が被さっていた。

「ごめんね。今日、修也くんと帰るんだった」

「ん、いいよ。大丈夫」 

「またね――バイ」

去ってゆく150cmの影。知紗。がちゃ、と扉の閉まる音を確認して制服に着替える。あの頃より長く、腰の少し上にまでなった髪を高めのポニーテールにするのが定番になりつつあった。もちろん部活中、学校生活の中だけで。

荷物を持ち再度体育館へ。さっきまで自分も、他の皆もいた空間へと戻っていく。まだバレー部とバトミントン部、それに男子バスケ部も数人残っていた。とことこと後ろに手をやり歩いてゆく。近づいてくる、ボールの打ち付けられる音。少し伸びた茶色の髪。後ろ姿のシルエットに声を掛ける。

「先輩」
 振り向く、くっきりした瞳。

「おぉ」

「一緒に帰ろうと思って。待ってて、良いですか?」

「いいよ。悪いな」
ボールを打ちつけ続ける。あと十分だけ。がこんとゴールにシュートを決めダン、ダンと跳ねるボールを歩きながら追いかける。背の高く、健康的な肌の色を持ったこの彼は三年の畑中という名前だった。

「和樹――いいねぇ彼女とラブラブ登下校なんて。あぁ、俺もシアワセになりてぇ」

別の三年の人が私たちを見てからかう。先輩はしいっと口元に人差し指をあて、ばぁか、うるせぇんだよと吐き捨て笑った。近づく足音。さっきの三年が、「誰か紹介してくれよ俺にも」と笑顔で語りかけてくる。うふ、と微笑み返した。可愛かったらいいからさ。しゃがみこんでゆらゆら体を前後に揺らす。

「駄目?」

まだ笑って誤魔化していると「いい加減にしろよ」と先輩が割って入ってきてくれた。帰れると思ったので腰をあげる。三年の男ははいはいという表情で、

「どいつもこいつも。ルールなんか、あっても意味ねぇよ。よっくばれずにいられるよ本当」

 と息をついた。バスケ部にあったルール、入学当初こそ皆が気にし張り詰めてこそいたものの、夏休み明けに一組カップルが出来たことをきっかけにいくつか「ペア」が出来上がっていた。私と先輩も――知紗と、修也も…そのうちの一組なのだった。修也は一度知紗の告白を断った後、何度も彼女に押されOKしたらしかった。

「行くか」 「はい」

後ろをついて歩く。背後から、亜希ちゃあん、バイバイ――と声がしたのでさっきの三年に軽く頭を下げ体育館をあとにする。ポケットに手を突っ込む先輩。寒くないか?と問われはい、大丈夫ですと返事をした。十月の空気、午後八時はもう制服の中にニットベストを着ても丁度いい頃だった。畑中和樹。12cm程私より高い背。あの、有頭コーチが来る前のランニング中に――前の週倒れ白目を剥き救急車に乗せられてった私に「大丈夫か」と声を掛けてくれた男だった。知紗と修也が付き合う直前に、意外にも向こうから告白され何の接点もないまま私はOKを出したのだ。

修也とはもう、あれ以来顔を合わす事もなければ言葉を交わす事もなくなった。なくした、という方が正しいのかもしれない。あのほんとうのファーストキスから。

「いつになったらやめてくれるんだよ」
 その敬語。

笑い、歩きながら会話をする。まだ無理ですと笑顔で答えた。ちぇ、という顔をし、別にいいけどねと答える先輩。まだ、手にすら触れたことのない関係だった。修也と知紗の事は考えないようにしていた。修也に対する知紗の不満すら、聴きたいのか聴きたくないのか分からなくなってしまっていた私は極力誘いを断るようになっていった。のわりには物語もそんなにペンを進めているわけじゃあなかった。修也と離れてからまるで私は――私でもなく、わたしでもない。別の誰かになろうとしてるらしい。

「じゃ――またLINEする」

「はい」

修也との会話で一度だって出てこなかった。LINE、電話。紙をあいだに心の交流を重ねてきたからだ。先輩とはほぼ毎日メッセージを送りあっていたけど、これといって記憶につん…と響くような言葉は、ほとんど皆無に等しかった。


部屋で何をするでもなくベッドに腰掛ける。

「…」

椅子に掛けてあるブランケット。赤と緑の。タータンチェック。

ノートは、修也が持っているはずだった。私はふ…とノートの中身――内容を思い出しそうになるのを堪えた。それから瞳を閉じふぅ――…と大きく長い長い透明な溜め息を、鼻からゆっくりと吐き出したのだった。

scene20

カーテンから薄明かりが射し込む。
日曜の朝だった。星と月の模様のカーテン、小学校低学年の頃から変わっていない。薄いアイボリー色の隙間からの光。目が眩む。珍しく快晴だった。

遠くからママの声がし、目をこすり、はぁい?と返事をする――電話よ。知紗ちゃんから。

知紗?

「もしもし」
 寝起きの枯れた声で受話器に向かって呟く。

「おはよ、亜希。ごめん寝てた?あのさ…急なんだけど今から行っていい?近くにいるの。携帯に電話しても出ないからお家にかけちゃった」

正直まだ半起き状態で寝ていたいとも言えず無理矢理めを覚ます事にした。仕方が、ない。

「ん、いいよ。何分くらい?」

「本当?じゃあ、十分後に」
 すぐ 近くなの。

「…」

洗面所に行き歯磨きと洗顔を済ませたところですぐチャイムが鳴った。知紗だった。いつもより濃いめのメイクをし、玄関でにこっと立っていた。どう…したんだろうか。おはようととりあえず言っておいた。

「ごめんね急に」

「いいよ、どうかしたの?」

知紗が家に来る事はあまり多くなく、中学の頃を入れても二回ほどしかなかった。外や彼女の家に集まるのがきまりだったからだ。幸い部屋には特にうわべの友に見られてまずい物はなく、そのまま階段を上がらせ部屋に招いた。小説のノートはまとめて鍵付きの抽斗の中にしまっておいてあるままだった。手すりを掴む知紗。なんとなく服装から、修也といたんじゃあないか、と思いを巡らせる。

修也くんに。

知紗の前で一度、深く瞳を閉じた。

「ドタキャンされちゃってさぁ」

「そうなの」

「そう、朝。やっぱり会えないって」

「…」

「昨日の夜も部活終わってるはずなのにいっこうに連絡も来なくて。寝る前もなし――で今朝だよ」

がちゃ、と扉が開く。カーテンをあけに窓際に寄る。

「なんか…あたしが好きで付き合ったんだから仕方ないのかなって思うけど」よく分からなくって。

「…」

「亜希?聴いてる?」 「あ…うん」

「大丈夫?まだ眠い?」

「ん――少しね」と微笑んだ。


その時だった。悪魔の声がけしかける、ほら言え――言うんだ。ほら。


もう わかれちゃえよ。


ぶるっと身体が震える。何を、いまさら?私の声。分かっているでしょう、亜希。あなたが太田修也と一緒に過ごせる日々なんか、永遠に来ないのよ。永遠に。あなたが、決めたくせに。あなたが。あなたが、キメタクセニ。オマエガ、キメタク、セ、ニ。虹に寝そべる。髪の長い天使が笑う。亜希?あなたに。千の炎を乗り越えた――騎士の勇気を。神の…戦士の、加護……を。きっと、大丈夫。きっと―――だって、彼、言ったわ?そうでしょう、亜希?


「アイシテル」って。


がしゃん―――「ごめん、知紗」

私は驚いた彼女の顔も見ずに言った。
「まだ寝ぼけてて、話…聴いてあげられないみたい」

目覚まし時計を床に落としていた。いや。叩きつけていた。

「あ…そう…だよね」ごめんね!
 いいえ、こちらこそ。

もお、ちゃんと寝なよ――笑顔でドアから去ってゆく。階段の下でママの声がする。ぱたん…と扉の閉まる音がした。確かに。私は知紗を下まで見送ろうとも、しなかった。

修也。

天使たちの声が聴こえてやばいと思った時には大きな音を立ててしまえばいい。なるだけ。だけどもし――間に合わなかった時には、そのときには一人きりでこうして、丸一日こうやってするしかないのだ。こうやって。あのブランケットに顔をうずめて声を押し殺し、彼のなまえを心で叫ぶほかは。

忘れるしかない。忘れるしか他に、どうしようもなかった。方法は。たった二つしか、残っていなかった。

scene21

土曜がまた来る。

珍しく母は休みだった。紺と白の太めのストライプ、ウエストの紐を縛ると砂時計のような形になるシャツにジーンズ。仕事用より薄い化粧をし珈琲を片手にくつろぐ。マグカップのイニシャルK。香。それに和範。それなんだろう。母は脚を組み、ダイニングテーブルで雑誌をめくっていた。

「…」

もう母の前でも堂々とDVDを広げても平気になってきていた。さすがに演技まではしない。が、顔色を伺う、なんて事はない。映画もテレビがあいていればリヴィングの大きい方で観た。

「これだ」

「ボディガード」、やたら92年の物ばかり手にする事が多い。あら――ホイットニーじゃない?母の好きな歌だった。「クスリで死んじゃったのよ」こんなに綺麗で…美しい声なのに。後ろから、呟いた。

「あなた部活は?」

「サボった」 「そう」

嫌でも瞳に入る高くなったポニーテール。あの馬の尾を避けたところで家に帰れば、あのノートが瞳に入る。で、ノートを閉じる。映画をつけてみたところで、

「どっかで…」

なんて事が度々あるのだ。離れてみてようやく、彼女の物語に対する愛を感じていた。

「なあ、母さん」

「何?」

「このCD持ってなかったか」

テレビを見上げる母。「Run to you」が流れているのをケビンが食い入るように、穴があくほど見つめているそれを見て自室へと入る。すぐに戻ってきた。

「あるわよ」――はい。

「サンキュ」
 CDをひらき歌詞カードをすっと抜き取る。

少し、黄ばんだその頁を見つめる。映画は流したまんまにしておいた。


わかってるの
あなたが 私を見るとき
そこには あなたが
見ていないものが
たくさんあるっていう事を


「…」

亜希の書いた――あのノートに――歌詞の和訳を確かめる。英語で書かれたメッセージはそれだけだった。

「見て…いないもの」

――わかってる。わかってるよ。

お前も、怖いんだろう?もし自分をさらけ出して…もし。それがもし、受け入れられてしまった時の事が?


「…柊也?」


額に手を当てカードに突っ伏した。なんも、ねえよ。なんにも。リヴィングを出、あのノートを開く。「俺も…」怖いんだ。ペンを無造作に動かし走らせる。怖いんだ、とてつもなく。愛してる、このノートにあれを書いた日から、いやもっと、ずっと前からだ。怖気づいたんだ、俺は。あの日から。

頁をめくる。頭から順に、読み返す。

途中であの最後の日―――図書館で見たものが瞳に留まる。絵だった。


柊也。


頭の中で声がする。


あなたって―――パックみたい…ね。


「ふっ」

口から漏れる気だるい微笑。ぱしんとノートを閉じかしこまって見せる。いいんだ、母がいても。ここは俺の部屋。

「おいらが妖精――パックでござい」

部屋を出る。母はまだ、雑誌を見ていた。


「母さん」

「なあに?」
 俯いたまま答える。

「連れてってもいいか、冬休み」
 あっちに。

「誰を?」
 睫毛が、揺らめく。

「恋人だ」

「……」


――えぇ。
母はそれだけ言い、再び雑誌をめくった。

scene22

「知紗!」
 おはよう。

ウェーブかがった髪。玄関先で見かけて声を掛ける――おはよ、亜希。笑う瞳。どうかしていた。この半年間。そう思うように、なっていた。普段の私に戻るべき。そう思った。もうあのときの私はいない、消えたよ亜希。

修也と知紗が別れた事は他の女バスのメンバーから聴いていた。ほんの一週間前くらいの出来事だった。先輩が、畑中和樹が言うには「はじめっから上手くいってなかった」らしい。知紗は何にも言わなかった。こないだの部屋でむせび泣いた日からどことなく、距離を取られているような気がしていた。

ピッ。

「集合して」
 コーチの笛の音。

「練習の前に連絡事項がある」
 何だろう、と顔を見合わせる女の先輩達。

「…」

考え事をしていた――別れようが別れまいが。今の自分にはもう関係のないことなのだ。先輩もいるのよ――なんの為?付き合って、いいですよ、と答えたのだろう?そう、勇気が私にはなかった。だから死ぬ。私は。総じてこちらの世界からいなくなるのはいつも、勇気のない人間なのだ。

もうこれからは隠れてこそこそと文を書いたり映画を観たり、本を…読むことすらなくなる。でも、それでも良い。今までに観て、聴いて、読んだものはずぅっとこの胸のなかにあるのだから。

「…という事で、以上。はい、開始」
 ピッ!

笛の音にはっとして何にも聴いてなかった事に気づく。あ、という瞬間には遅く、パスが渡され練習に集中せざるをえなかった。コーチの話が何だったのか、帰る頃にはもう、それを聴くことすら忘れていた。

先輩と歩く。ひんやりとした空気と、車とタイヤの地面が擦れる音のなかを。

「今度さ」 「はい」

「どっか出掛けないか。二人で」

「え…ぇ」 「いつが空いてる?」

「来週なら」

「また連絡するから。じゃな」

うちのドアを開ける。揚げ物のうっとする匂いがした。

「お帰り!」

ママ。幾何学模様の派手な柄のエプロンを身に着け、いつも通りキッチンから微笑む。「ただいま」――どさりと、一階で荷物を降ろし、先に入るねとお風呂場へ急いだ。

透明の温いお湯を片手でかき混ぜ、ゆっくりと左のつま先の足を入れてゆく。

「…」

きっといつかは先輩と手を触れ、唇を重ねることになるんだろう。ぼこん。口元から泡を吹き出して音を鳴らした、わざと。

そう、セックスも。

どうしてこうも――自分のことなのに「諦め」のような気持ちでその日を待たなければいけないのだろうか?不思議だった。

きっとめったにないことなんだろう。こっちの世界では。どうしようもないほど愛して、愛されて、愛おしくて…顔を思い浮かべるだけで苦しくなって。きっと死んじゃうんだ、私は。そう思えるほどの相手と肌を重ねるって事なんか。初めてとなると、なおさらだった。


愛しすぎて 死んじゃうんだ。


でも大丈夫。
私はいなくなっても修也はあのまま残る。ずっと。修也が私を知っている。それで良かった。

それでいい。それだけで…。

翌日は軽い胃もたれを抑えて授業を受けた。いつも通りに部活へと向かう、そしていつも通り走り回る。男子コートへ出てカーブを曲がる際、先輩と瞳が合った。微笑んでみせる。先輩は白い歯を見せ、えくぼを浮かばせたその顔で笑みを返して来た。

ピピッ!

ボールが高く上がり、ばつんと手で打ち落とす。「和樹!」と三年の誰かが声を出した。パスを出す、先輩へと。

きゅっ。だ、だん――と擦れては打ちつけられを繰り返しまた手にボールが戻る。彼は一瞬こちらを「見てろよ」、と言わんばかりに見、そして走った。がこん、と大きな音と共に身体ごとリングに突っ込む。ダンクシュートだった。覚える限り、私は初めてそれを目にしたのだった。

(すごい)

気づけば脚を止め、コートを見て立ち尽くしていた。仲間と笑い合う先輩がこちらを向いてぴっと親指を立てた時、私は満面の笑みで恋する乙女を演じたのだった。いつかの、知紗のよう。そういえばいつだったか、ママに――「好きな人ができたんだ」そう言ったあの日。あのニワトリのような風貌からいっぺん、まだ怪しげな表情のしわを残したまま、「そうなの?」――と少なからず嬉しそうに答えた。突然の娘の告白。実際知紗やヒロセやナナ、サキコ達でも、16才の娘がそんなふうに母親に告げることなどあまりないだろう。ましてや部活の途中でぶっ倒れてしまうほど。それほどの想いをわざわざ打ち明けるようなオープンな子供など、めったに存在しない。彼氏ならまだしも、まだ好きなだけなのだから。

ママの瞳はあのとき、確かにこう言っていた。

「あの子が」。

私は、見逃さなかった。

scene23

試合中に知紗からパスが回ってこなくなったのは先輩と初めて出掛けた日、先週の日曜から二、三日経った頃だった。


デート――とはいってもお互いまだ手も繋いだ事がないし、緊張感はびしびしと服の上から感じるほどあった。先輩もそれにしびれを切らしてしまったかのように数時間で三年の人らが集まっている市内のバスケコートへと私と共にふらふらと近づき、学校と同じようはしゃいだ。この日もまたダンクを決めて目配せをした。私に。お前の為と言わんばかりに。

「はぁ―――」
コート内を息を切らし走り回る。

最初は自分の立ち位置が悪いのかと何度も細かく周りと自分、そして知紗との距離を確かめた――が、何らいつもと変わった様子はなかった。何より決定的だったのが「ヘイ、パス!」と声を掛けるにも関わらず、ボールは私よりゴールに遠い二年の女の先輩か、その時々参加しているサキコやヒロセ、ナナに向かうのだった。

先輩とは今週も会う約束をしていた。ただコートを走りまわる。他になかった、もう。視界の隅で先輩を含む二、三年の男がちらりと見える。男子のコーチはまだ来ていなかったが、有頭が彼らをじろりと睨むと「練習!」とだけ言い部活動へと促した。はい、はい。いつものあの三年の男の人の声がして、私達は五、六人の視界からフェードアウトした。

先輩たちが集まって――あのひと際お調子者感のある三年の男がにやにやと小声で談笑しているところだった。何となく嫌な感じが皮膚にひんやりとする。いつ、やるんだよ?――そう言った種類の微笑み方。ばぁかと言う先輩の声。これ以上聴きたくなくて私は二年の人から受け取ったボールをいつも以上に音を鳴らし、打ちつけた。

知紗に、どうしてボールをくれないのかなんて事は聴けなかった。会話は話しかければしてくれるし表情だって特に前と変わったところはない。ただ時折、瞳の奥が冷たく、笑っているのに笑っていないと感じることがあった。

微妙な声のトーンの変化にすら気づいてしまう時。私は自分がとてつもなく女性的な感性――センス――そして、繊細な心のアンテナを持って生まれてきている事をひどく、恨むのだった。そしてひどく、不安に呑み込まれそうになるのだった。

一人ぼっち。
変な 子。
宇宙人 みたい。

よく わからない。

この世で一番、恐ろしい言葉。

サキコ達にも、とてもじゃあないが聴けずにいた。彼女たちはうわべの中でもうわべ、まだ知紗のほうがましな関係だったからだ。ただ、修也と別れて――あまりコートにも姿を見せなくなった彼の事を想う気持ちが大部分だろう。気が進まない。シンプルにそう考え、自分を納得させるしかなかった。私は知紗に心を許しさらけ出した事はないけれど――彼女までそうとは思えない。自惚れや上から目線ともとれる本音がそこにはあった。甘えてる…だけなのだ。きっと。

ボールはもう自分で追いかけ取る。それしかない。有頭コーチの視線を受け流し、私はまた走り回るのだった。

scene24

寒い。

十一月に入り、顔の産毛がふつふつとけば立つようだった。裏ボアの――昼には少し暑いが夜にはしっくりくる――グレーのパーカー、裏地は黒のそれをUネックのロングTシャツの上に羽織り、地元の自宅からすぐ近くのレンタルビデオ店へと歩いていた。ベージュのパンツ、春より薄汚れ手入れもしてないままのスニーカーで。


自動ドアが開く。入ってすぐの併設されているゲームコーナーに見覚えのある茶髪。

「和樹くん」

「――おお」
 柊也。

がちゃがちゃとスロットを回す音。三年は和樹ともう一人と、二年が一人だった。三台あるゲームを全て陣取り、前に凭れかかるよう座る。

「お前、来いよちゃんと。部活しに。コーチに大概どやされんぞ」

「掛かってくるよ、電話」
 ふっと笑う和樹。

「別にいいけどね」

ちっ、と他の三年ががたんと台を叩く。「こなかった」ようだった。がらがらがらというゲーム機独特の音に紛れて、和樹、お前日曜どうする、という声が聴こえる。

「あぁ――わり、女と会う」
 またかよ。三年の声。

がらがら…がら。ちゃり、りん。

「今度は来いよ。月曜」

分かったと返事をして店内のビデオコーナーへと入っていく。と言ってもほとんどDVDだ。それに本とCD。店主が老いた男で、何となく雰囲気のある場所だった。物凄く古い映画か、80年代や90年代の作品を主に置いていた。最新作のもあるにはあるが、手には取っても借りることはあまりなかった。CGを駆使した、電磁波的に目眩のする映画は好みじゃあなかったからだ。

ふと瞳がとまる。君に読む物語。父と母を彷彿とさせるパッケージだった。亜希の口から出てきた事もあるタイトル。


――父さんとはね…大恋愛だったのよ。高校の演劇部で出会って。


こっそり学校で。ひと目を盗んでは、会っていたわ。二人で誰もいない校舎の裏とか、体育館の中とか――授業をさぼった事もあった。ふたりで…。


父さんの父さん…あなたの、お祖父さん。とんでもなく評判の悪い人でね。いつも両親に反対されてたのよ。許さないって。でも、とっても素敵だった。

映画のような、恋だったのよ…まるでね。


二人でこっそり、学校でセックスしてたんだろう。親からしてたと子に告げられるのはかなり鳥肌が立つような思いをするが、子が親を勝手に想像するのは、そんなに悪いものでもなかった。むしろ羨ましくてたまらない。胸がすっとする想いさ、母さん。

そうして俺が生まれたんだと思うと。


気の遠くなるほど 
長い間
ずっと ずっと
一人ぼっちだった


「あなたと逢うまで」


足を出入口まで進ませる。もう、帰るのかい?店主の声。

「はい」

和樹がじゃあな、と声を掛けてきた。瞳で合図し、頭を下げる。何にも持たないまま外へ出た。ポケットに冷たい手を突っ込む。星はひとつも、出ていなかった。

scene25

午後22時――帰ってきてそのまま、着替えもせずに音楽をかける。明るめのナンバー――女バスの中で流行ってる韓国グループのやつ。貸し借りする中にいるうち私に回ってきたものだった。

悪くない…別に。ふん、と軽く鼻唄を歌うまで何度か聴いていた。家に帰ってきた瞬間の、肩の荷が降りる感じ。携帯が鳴る。先輩だった。

「――はい」

 帰ったか?

「うん」

「は」と出かかる口を堪え、返事をする。何度か他愛のない会話を繰り返す。笑い声。もうすっかり何十何百とあった鉄のような壁は一枚一枚外れていっていた。修也を――もうなまえを文字に呼び起こす事もなくなっていた――忘れる為とはいえ選んだ相手。畑中和樹はそんなに悪い男ではなかった、と感じていた。

あ――。電話の向こう、雄叫びにも似た声を上げる和樹。

「もうバスケしたいとか?」
 ――何だよ。そうだよと、笑う。

「明日出来るよ」
 穏やかな声をあげ、ベッドのふちで脚をぶらぶらさせる。ああ、そうだけど。がちゃ。多分冷蔵庫か何かだろう、扉を開ける音と同じく閉まる音がしてふぅという息、何かを飲む音がした。


「年明けんなったら免許取るんだ」
 何処でも連れてってやるよ。

「わぁ、やった」
 何処がいいか、考えとけよ。

「うん」
 ふふ、と軽く笑った後、突然静かになった。


途端に、彼にこじあけられたばかりの――脚のあいだの痛みが鋭くなった。声を出さずに顔をしかめる。和樹にばれないよう…に。ほんの二、三時間前の、出来事だった。「――あのさ」和樹の声。沈黙の後いつになく神妙な――といっても、見えるわけないのだが――面持ちをし彼はこう言った。俺、お前のこと。本気だからな。絶対…だいじに…す…る……。

スロウになる、音。

私の冷たく残酷、それでいてやさしい唇は言った。

「うん」

和樹が話題を変え十分ほど喋ったあと、電話を切る。

メロディなんか、要らない。絶対。
いらない。
この会話に、メロディなんか。

いらない。

scene26

思ったより、男子バスケ部の部室の改修工事は進まずにいた。前に有頭コーチが練習の前に連絡事項と題をつけたあの話はこれにまつわる事柄と、一組の男子部員と女子部員の交際が発覚したというものだった。二人は別れさせられたうえ、大会の有無にかかわらず練習が出来なくなったらしい。いわゆる謹慎、というやつだった。


「普通、そこまでやるかよねぇ」


女の先輩、二年の交際が露見してしまった彼女のクラスメイトは言った。ばたんとロッカーが閉まる。彼女のブラウスの下の食い込んだブラジャーが気になったが続けた。

「交際禁止ってやっぱりマジなんですね」

「みたいね」

ぱちん、と肩のゴムを直す。
「亜希らも気をつけないと」

「そう…ですよね」
髪をまとめいつもより低く結んだ。
「どの位で戻ってこれるんですか?あの二人」

「さあ。分かんない。別れさせられるとかはもう、本人たちがよりを戻してしまえば良いことだけど、大会出るのに練習くるなはキツイよね」
 すげぇよねぇ、有頭も。

「もう、ぎらぎら目ぇ光らせてるよ。部室も近くなったもんだから」

改修工事の間ずっと使われていなかった一室を、男子バスケ部の臨時の部屋として使うようになっていた。それは私達が今いるこの部室の二つ隣、廃部になった水泳部が以前使っていたものらしかった。部屋も違うのに、使う時間は三十分ごとずらされてもいた。

知紗は先に体育館で三年の女の先輩達とパスの練習を和気あいあいと繰り返していた。

「あ、やあっと来た――亜希のやつぅ!」

微笑む。彼女は今日は髪をお団子にしてまとめ上げていた。ごめんと軽く手を合わせ、チームに混じった。知紗は以前より、元の普通の態度に戻っていた。もう、すっかりと言っていいほど。私と先輩の――和樹とのことを話してから。やはり彼女は私に、疑心暗鬼になっていたようだった。

パス練を終え走る。前に知紗、それから私。いつもの風景だった。

「でもさ、どうやってばれたんだろうね」
 部活内はこの話題で持ち切りだった。私の何気ない一言に知紗が反応する。

「誰かがチクったとか?」
 やだぁ。怖い。

「やってたんじゃない、部室とかで」
 二年の先輩がスピードをあげ、私達の隣に並びそう口を挟んだ。

「えぇ?」 「まじですか、それ?」
 心なしか小声になる、私達。

「嘘、わかんない。でも他になくない?キスしてたとか――チクるような事しても部員には何のメリットもないでしょう」
 もっともな意見だった。


ふと、コートの方へと目をやる。和樹がこちらを見ていた。なんともいえない気分になった私はふい…と瞳をそらした。あの日の事を少なからず思い出すはめに、なったからだ。

―――かわいい奴。

和樹の声が聴こえ、かぁっと顔があつくなる。口の端をあげ呟いたその言葉が、私の良すぎる耳に届いた。もう一度、和樹をちらりと見る。そこにはその和樹の後ろ姿を修也がつんとした顔で見つめ、立っていた。久しぶりに見た修也から思わずばっと顔をそらすと、今度はその修也を見つめる―――知紗が、いたのだった。

scene27

親戚の親戚の、そのまた親戚の…とにかく。

「遠いのよ。物凄く」
 距離の話では勿論なかった。

「多分いくつか、父親か母親が違う人がいて――」

関係性。毎年行く海外旅行先のあの家の住人の事を母は教えてくれたことがあった。父親か母親が違うはいわゆる種違いと腹違いのことだ。母はあまり、そういう言葉を好んで使わない。


が・しゃあ―――。ボーリングのピン――心なしか明葉高校バスケ部のユニフォームに似ている――白地に赤のラインが勢いよく倒れた。

「あぁ、くそ」
 次、俺な。

そう言って残りのピンめがけ、がたんと球をぴかぴかのレーンへ滑らせる。部活の後ビリヤードやゲーセン、勿論バスケも出来る複合施設へと誘われてバスケ部の何人かと出てきているところだった。母のいつだったか分からない言葉を思い浮かべながらピンめがけて球を投げてもあまり結果は期待出来ない。そんなに良い精神状態じゃあないからだ。結局、二つに分かれてした対決も無残な負けとして終わった。

「柊也とトモ、お前ら奢りな」

くっくと感じの悪い笑みを向けられ、はいはいと財布を出す。

「ビリヤードしてぇな」

「やった事あるのか、柊也?」

「いや。雰囲気でやる」

「阿呆かよ」ふっ。

少し喉が渇いていた。
「おれバッティングしよ」

五、六人集まったところでばらけるのが落ち。いつもの事だった。とりとめのない会話を交わし、自販機でコーヒーを買ったあとテーブルにどかっと座った。

「あとでバスケしようぜ」

部活の後でもこう言ってしまう事があった。場所を変えると気分が変わる。そんな経験はきっと、誰にでもあるだろう。土曜だったがまたも母が休みだったので演技はやむを得ず中止となってしまったのだ。

「そおいやさ」

仲間のうち一人がずっ、と缶の音を立て話し始める。瞳がにやにやとこちらを見ていたが、なんの事か――心当たりは全く、なかった。

「中川からLINEがきた。こないだ」

日焼けし、くすんでしわのある指がこちらを向く。他の四本はしっかりと缶を掴んだままだった。

「お前の事まだ好きだって。相談されちゃったよ、俺」
わははと周りから声が上がる。あぁ、さみすぃ。ふざけて下がる目尻。

「で?」

「冷てー。返事くらいしてやれよ。結構可愛いのに。小せぇし。少しうざそうだけど」

「どうでもいい」

本音だった。亜希の事はどうであれ演技に集中したい時、絵文字だらけの目がちかちかするメッセージを送られると、どうにもならない倦怠感が押し寄せてくるのだ。馬が合わない。そういう言葉がしっくりくるけど、中川にそれを言ったところで意味さえ理解してもらえそうになかった。

「辛いねぇ、モテる男は」

ごん、とごみ箱に缶を放り投げ歩き出す。早く、しようぜバスケ。話題を無理やり変えた。まだ好き。友達を介して言われなくとも、一度断っていた。同じことを二度も三度も答える事はあまり好きじゃあない。コートで三対三になり、ボールを構えるトモがひとりごちるよう、言った。

「それより和樹くんだよ」
 耳が反応する。あくまで、さり気なく。普通に言葉を…返す。

「何が?」
 沈み込んでく腕とボール。

「すげえよ、あの―――」
 藤本を 見る目。


瞼が少し、重くなった気がした。
「やってやろーって、気がもう」
 満々じゃん。「あれはさあ」

トモが歯を見せ笑いながら続ける。宙を仰ぐ。浅黒い、顔。


 中川より しつけえよ。


一旦上がり落ちてくるオレンジ色のそれを力任せに殴った。がつんと、思い切り。まるで何かを突き飛ばすように。

scene28

部室のすきま風といったら凄かった。

「たまらん」と、三年の女の人が持ってきてくれたヒーターを皆で囲みながらごそごそと着替えるのが定番だった。オレンジ色の熱光線。肌にひりひりと突き刺すような暖かさ。とても古い型だった。もう家で使っていないから、と自宅から高校までわざわざ箱ごと抱えて来たらしい。何となく小説を書いていたあのときのあの――古い電球を、思い出させる色……だった。

ヒュ――と言う口笛のような音。冷たい空気。

「そろそろ行くよ」
 と先輩達が、ぞろりと出てゆく。

私達一年も重い腰を上げ、ついて行った。あと十分ほどすれば、男子バスケ部が部室を使う時間だからだ。

「……」

作戦は成功だった。
だと、思っていた。

あれから先輩――和樹と会う、二回に一回はほぼ、肌を重ね合わすようになっていた。引き寄せられる肩。そして急に――びっくりするほど急に――舌をねじこまれる、キス。それすらも私は段々と慣れるようになった。和樹の事は嫌いじゃあない。むしろ、好きだった。むしろ。にもかかわらず私はしたあと必ずといっていいほど、誰も知らない深い洞穴のなかに、ひとり放り込まれたような気持ちになっていた。が、前にも言ったとおり人間の適応力ほど素晴らしいものはない。脚のあいだのじんじんする痛み。心、やるせない。修也を瞳に映しても。段々何にも感じなくて済むように、なっていた。

きっと神経が――川より太く鈍く――濁っていったんだろう。

だから「作戦」は成功。
これで いい。


(ヴ―――)


練習試合が始まる。知紗とのタッグももうすっかり再開していた。やたらと人を褒める事のない有頭ですら「良いよ、あんた達」――と言われた時はどうしようもなく不本意だったけど、嬉しかった。荒療治だった、間違いなく。本当に。だけどもう、これで良かったんだと思えるほど私は正しい事をしたのだという確信があった。ダイヤモンドほどに固く、惚れ惚れするほどの美しさを兼ね備えた真実。ね――わたし、だって、実際どう?知紗との関係は良好で、バスケも調子が良い。あの入学したてのときのような感じ。家族とも、なんのわだかまりもないのよ。私は知紗にとって良き友達、ママにとって分かりやすく明快、はつらつとしてて、「恋」もしてて。絵に描いたような理想の娘――理想の、「普通」の娘!


そうよ。これだってひとつの素晴らしい人生。
「物語」じゃあ、ない、か?


瞬間、とてつもない既視感がわたしを襲った。
瞳の前がまあるく影になる。
コーチの笛の音?
わからな、かった。

「亜希っ!―――」

知紗の声が聴こえた瞬間だった。明らかに以前より鈍い音がし――骨と骨が勢いよくぶつかるような――自分の身体が、顎が天を向き、後ろ向きに倒れてゆく。それはまるで射的で狙いを定められた、大きなぬいぐるみのようだった。

「――あ…」

スロウ・モーション――ゆら、ゆら、ゆら。
回転しながら歪んでいく世界。ぐぅっ……と自分の口から声がして、喉から鼻にかけて、嫌になるほど温い「なにか」が、通り抜けてゆく。血だった。

――がつん。ぼたっ。ぼた、ぼた、ぼた。

私は横向きに倒れ、うずくまった。物凄い血がユニフォームと自分の手と、床いちめんに、垂れ始める。

しぃ…んとする空気の中、胸の奥からなにかとんでもないくらい大きなものが恐怖を感じるほど込み上がってくるのが、分かった。張りつめた空気を素肌に切りつけられるほど感じる。自分の血の匂いにはっとした瞬間、わたしの中で何かが音を立て、弾けた。文字が。文字が、浮かんでくる。あたまの裏の中で。そしてそれは、あのときあの場所で涙の溜まった瞳越しにぼやけて見えた、決して綺麗とはいえない、あの文字だった。



もし

もしお前を この先
ほんとうに
愛せなくなる日が いつか
来るとしたら
俺は
どうしたら いいのか
教えてほしい


「本気で、だ」


 亜希。


 どうして 修也なの?


「愛してる」



気がついた時には私は床に顔を伏せ、子供よりもひどいそれの泣き方をし、呻いていた。私ですら見たことのない私にコーチや皆は呆然と立ち尽くし、時計のデジタル音のほかには静寂と彼女たちの驚愕のみしか、この体育館内には存在していなかった。私の嗚咽。構わず泣き続ける。どうしようもなかった。止められない、血に混じる透明な涙。雨のような。

体育館の入口の方から遠い、音がする。だ、だ、だ、だ、だん―――という激しく駆けてくる足音。むっと人の体温を感じた。ただただ驚いて、まだなおも立ち尽くしていた有頭コーチや知紗やナナ達、二、三年の先輩のなか、私の手を引っ張ったのは、和樹ではなく修也だった。

scene29

部室の外で有頭コーチと和樹の言い争う声が聴こえていた。


この鼻から耳にかけての閉塞感と大きな袋に入れられた氷水を顔いっぱいに当てていなければ二人が何を言っているか、分かったかもしれない。真冬になろうとしているにもかかわらず氷水、だけどそれ以上に鼻周辺を筆頭に顔、そして身体全体の熱は凄まじかった。

がちゃ、と扉が開きまだ二人は納得していないような雰囲気を見せたが、有頭が「二、三分で戻れ」と和樹に声を投げ掛け体育館へと戻っていった。ばたんと閉まる扉の音。和樹が舌打ちをし――寝そべる私の前にパイプ椅子をひとつ引きずり運び、座った。じっとこちらを見つめる。前髪に軽く触れる手。

「――大丈夫かよ」

「ゔん」
強烈な鼻声、鼻血と涙…のせいだった。

「折れてそうか?」

「分かんない」

「連れて行ってやろうか、病院」
 ううんと首を横に振ってみせた。

和樹は開いた両脚の膝に両肘を置き、手を組んだ。そして少し前屈みになり私の足元の方へと顔をやりしばらく黙っていた。あの流血が少しショックだったのだろうか、考え事を。しているみたいだった。

「…」

私は和樹がいるのにもかかわらず、瞳をふっと閉じた――もう。一人に、して。言いたかったけど、とても言えなかった。

「マジで苛つく」
 小声でふと、囁く。

和樹が誰の事を言っているのか、ぼおっとする頭では見当もつかなかった。コーチなのか?有頭。ボールを投げた知紗?和樹自身?――それとも?

ちら、と瞼を閉じた私を確認してヒーター――三年の人が家から担いで持ってきたという旧式の――をかちりとつけ、充分に離して置いてくれる。ん…とタイマーをとりあえず四十五分。彼の性格の緻密さがわかるようだった。

「寝とけよ」
 ゆっくり。

瞼を閉じたまま答える。指先を取られ少し空中に浮かび、その後彼の唇に触れた。じゃあな――ばたん。扉が閉まる音の後に、和樹の部室前の通路を歩く足音。それがゆっくりと遠ざかっていった。部室の中はヒーターのヴ――という無機質な音、それにすきま風が時々響いているだけになり、恐ろしく静かな空間になった。私は物凄く、疲れていた。


あの後、修也が私の手を引っ張ったあと――それからどうやって、どうなって修也から和樹へと変わっていったのかはわからなかった。覚えているのは、部室まで抱えて運ばれていた時にはもう和樹になっていて、だけどあの、ボールが当たって私が弾け飛び倒れて――みっともなくむせび泣いた瞬間、嗚咽しながら一瞬見えた細い腕、血がつくのも気にせずに私を引っ張ってくれたのは間違いなく修也だったという事だけだった。


「嬉しい」
 ―――修也。


嬉しかった。とてつもなく。嬉しかったの、修也。あなたの匂いがした――修也。私、本当に…信じられない…ほ…ど。


繰り返し、泣きながら眠りについた。冷やされた肌の上を伝う温かい涙はそのまま袋の水滴と交わり見えなくなった。短い夢を見たような気がしたけれど、それすらももう、私にはわからなかった。

scene30

日付の感覚がなくなっていた。


XmasのケーキのCM。サンタさんやはしゃぎ笑う子供。ウィンクする綺麗な女性。イルミネィション・スポット――などなど。実に様々なキャラクターとそれに文字、映像からまだクリスマスは来ていない、半ばあたりか――と考えめくっていなかったカレンダーを確認すると少しずれはあるのだが、大体そのあたりの日にちだった。十二月十日を過ぎたあたりだった。


ユニフォームの鼻血がなかなか取れなくて、和樹が私を抱えて運んでくれた時についた染みも落ちなかったんじゃあないかと心配になる。そしてもちろん修也も――何を隠そうユニフォームの色はオフ・ホワイトだった。いやでも目立つだろう。赤と黒の細いラインと黒地のナンバー以外。よりによって染みの色は赤なのだ。鮮血の。あのとき修也は、私の顔の下の血の水溜りをひとつも迷う事なく踏んだ。少なくともハーフパンツの下部と、あのか細い腕についた事だけは確実だった。


あのあと、部室から出てどうしようもなくがんがんするあたまと鼻を押さえ、コーチに帰宅させて下さいと言いに行こうとしたのだけどふらつきが凄く、部室前の廊下であえなく撃沈をした。やむをえず私は部室に戻り、携帯を取り出しママに電話をかけ、聴き取りづらい鼻声で事情を説明し車で学校まで迎えに来てもらったのだ。何にも言わずに帰ってしまったけど、誰からも、何も咎められるような事はなかった。部室から出て一旦携帯の為に戻った時、和樹がつけて出てくれたヒーターはもう消えてしまっていた。


ふとリヴィングのダイニングテーブル――椅子から、席を立つ。無性に甘ったるいココアが飲みたくなって。

キッチンへ向かい用意する。私の鼻には大きなガーゼがまだ、ついていた。半透明のテープと共に。飲みづらさより、飲みたさが勝つようになっていた。もうこの状態になって一週間は過ぎていたから。和樹とはLINEでのみ、連絡を取り合っていた。「鼻声が治ったら電話する」――そう言っておいて段々地声に戻っていっても、私はなんだかかける気にこれっぽっちもなれなかった。


リヴィングのテレビを消し、ココアを片手に二階の自分の部屋へと上がっていく。学校も部活もこのままの顔で行くのは嫌で、しばらく休んでいた。もちろん、誰にも会ってはいなかった。和樹もさすがに今の私を誘う勇気はないようだった。

有頭コーチは前に救急車で運ばれた時のこともあって――さすがに申し訳ないと思ったのだろう。ママは、謝られたらしい。別にコーチのせいじゃあないのに、と思いながらママが不機嫌そうに電話をするのを見ていた。三年の女の先輩が代表してお見舞をくれた――アイマスクに、チョコレート菓子。可愛いマスコットの手にはメッセージの書いてあるメモ。そこに、知紗の字はなかった。あれから知紗と連絡は取っていない。一度も。


「……」


懐かしい、字―――
私は自分の部屋の鍵付きの抽斗を開け、古いノートをいくつか出し、開いていた。

小学生の頃。中学に上がってから。高校に入るまで。三十話はくだらない、私が今までに書き溜めた物語。あのオレンジのライト――やさしい、古い電球の、灯りの下で…。

頁をめくる。
「こんなの、書いたっけ」
 思わずひとりごちる。

魔法の化粧品。自分の家の庭から妖精の国に迷い込む。兄に憧れスポーツを始める少女の話。昔好きだった幼なじみとの恋。ドラゴンになってしまった自分の父を助ける途中で王子様に出会う娘。戦争を取り扱ったものは難しくなったのか、途中の頁で終わっていた。スターになる事を夢見て町を飛び出す男の子。クリスマスに運命の人と出会う。IQ270の天才心理学者、これは凶悪犯罪専門。そして誰の理解も得られず…苦しみながら生きている、十六才の女の子…。

自分がいま、どういう顔をしているのかも分からなかった。


「亜希が泣くと思わなかった」
 玄関先での、三年の先輩の声。


机に広げてあったノートの頁を私はゆっくり、ぱたん、と閉じた。全ての、ノートを。何十冊もあるノートを纏め、両腕に抱きかかえた。胸の次に時間差で鼻がつん――とする。ノートを抱き締めたまま。一人しかいない、名前を呼んだ。


「修也」


ノートを。抱き締めた…まま。
ふるえて頬を紙の表紙に当て、止まらない涙を拭った。感覚を取り戻すよう呟き、私は瞳を閉じたまま喘いだ。

「好きよ、修也」


もし、あの文字が。あのノートが、帰ってきたとしてもなお、わたしはまだ和樹からのメッセージを無視する事が出来なかった。ただだだ、修也に会いたくて。彼と出会ってしまったことを心の底から後悔するほかに、なかった。そしてまだ―――消えかけてもいない右手の中指のペンだこを愛おしく、慰めるよう撫でるほかにはできる事は到底、なかったのだった。

scene31

スーツケースに五日間分の旅行の荷物を詰め込む。毎日少しずつ準備をし前日に確認をする――そういったやり方が、どうやら俺には合ってるらしい。映画を観る時間や土曜には演技の時間があればあるだけ、良いからだ。ちょこちょこ分ければ、何となく損した気分にはならなくて済む。

「大掃除は早めに――部分ぶぶん、やっておくといいでしょう!」

ごもっとも、だ――気が合いそうだと思った。テレビからの声。

平日の夜だった。母は十二月になると何故か帰宅が少し早まる。まだ20時なのに鍵の音がし、チェック柄のストールを肩全体に掛け、冷たい空気と共に母――香は「ただいま」と大きくも小さくもない声で言った。

「落ちねーな」
 洗面所の鏡越しに母の顔が映る。
「?」
 手元を、覗き込む。

「嫌だ――どうしたの?」

「別に」

「お湯じゃ、駄目よ」
 血液は。

「洗剤どれつければ良いんだ」
 白いハーフパンツを広げ尋ねる。水滴が垂れた。

「ちょっと待って」

リヴィングでコートを脱ぎ、ストールをしゅっと取るとソファの上に放り投げ、冷蔵庫から水を取り出し飲む――はぁ…。ばたん。音がしたあと、足音もなく戻ってきた。

「これを、このキャップ一杯――水の中に入れて浸けておいて」
染みがあるところにも、かけるのよ。棚にあったうち一つを取り出しこう言った。

「どの位」

「そうね――一、二時間?」
 映画が一本観れる。

「その後は、そのまま洗濯機」

「ああ」

「あなたの血?」

いやに、赤かった。母が眉をひそめる。

「いんや」

目を伏せたまま答えた。洗面台に栓をし水を溜める。白のパンツをまるごと押し込み、軽く手を洗い出ていった。

「少し日にち経ってるけど落ちるか」

多分ね――ばたん。部屋のドアを閉め、ベッドにふぅ…と飛び込む。ばふ、と枕が揺れる。両手を頭の後ろで組み、寝転んだ。

「――はぁ…」
 顔に手をやり、目を擦る。あのうずくまった白い肌と血。泣き声が離れず思わず声を出して溜め息をついていた。あの悲痛な――子供がこけた時に泣くような叫びとは、違った…。

和樹が近づいて来て、かせ、と亜希を引き寄せようとした時に口をついて出ていた。

「触るな」。

二人の関係のことなど、頭に残ってはいなかった。和樹の顔。焦りが消えたあとの、「殺すぞ」――お前。そう、いわんばかりの表情。

和樹と亜希と、有頭と――女のバスケ部の三年が一人か二人、間をあけ立っていた時にそれは投げつけられた。「忘れてやるから」。

今のは、忘れてやる。

亜希は和樹の腕の中でぐったりとしていたままだった。鼻から唇に、真っ赤な血を滴らせたまま。和樹は瞳でそう問いかけたあと、彼女と暗い通路へと消えていった。

「忘れて…やる?」

ベッドの黒い縁を片足で蹴飛ばした。なんとか落ち着きを取り戻そうとDVDを手に取る。鼻からまた、息をついた。

「ザ・トゥルーマンショー」

「スタンド・バイ・ミー」

「ゴッド・ファーザー」

「ソウルガールズ」

ケースを放り投げ、置いてゆく。

「……」
 瞳が留まる…。

「―――ウォールフラワー」

ウィ、と端のボタン――山と川の――を押しDVDを入れ読み込ます。機械的な音、青白い光。三分の一だ…前、観たときは。

別に、落ちなくても良かった。血は。ただあんまり目立つと、消したくなる。心の染みもそうだ―――あんまり目立つと―――もう、その色全てに塗りつぶしてしまうほかはない。「彼女」を見つけ、穴があくほど、言葉通り見つめ続ける。ケビンのよう冷静ではいられなかった。俺はがたん、と後ろにわざと音を立てて仰向けに倒れ、リモコンを手にしたままそれでも彼女を見つめ続けていた。

scene32

「え?」


有頭さよ、46歳。深い眉間の皺と口元のほうれい線をいつもより一層、谷底よりも深く深く歪ませ、私を見ていた。

ちら…と他の教師達が私達二人を見やった。思ったより、大きな声を出してしまっていたようだ――有頭はさっきより声のボリュームを気持ち多めに落とし、続けた。職員室の中には濃い珈琲の香りが漂っていた。


「――怪我のせい?」
 黄色くくすんだ白眼。

「いいえ、違います」

「じゃあ、他に理由があるの?何か」


かなり…驚いているようだった。それもそのはず、ようやく私の鼻のガーゼが取れ、昨日一日、普通に部活に出ていた私は練習をいつも通りに――何の問題もなく――こなして、いたからだ。

「心配かけました」
 すみま、せん。

有頭を含む全員の前で私ははっきりと声を通らせ謝罪をし、皆がほっとした表情を漏らし、パス――!とやる中笑っていたから、だ。「一年以外」の女バスのメンバーは。

私は何にも答えないまま立っていた。

「はっきり言って、チームの帆のような存在なんだよ藤本――あんたは。中川と揃えられる以上、チームにいてくれないと!」
困るのよ。そう、眉間の皺までもが唇と一緒に語りかけ、私を諭していた。


「…」
 中川。


少なからず、心がびくつくのが分かった――もうおわかりだろう――知紗の私を見る瞳は、変わっていた。直接名前を呼んだとか、隠していた想いをびりびりに暴かれ、知られた訳ではない。

ただ私が倒れ、修也が――「修也くん」が藤本亜希に駆け寄り、腕を掴んだ――その事実が彼女を別のなにかに変えてしまったようだった。知紗の事だからもう勘づいているかもしれない。ああ…こいつら。

絶対、何かが ある。

そういう事だった。
勿論怒りの矛先は、嫉妬のナイフの刃が向かってくるのは自分を肯定するふりをしていた友、私に間違いはなかった。愛しい太田修也ではなく。昨日、学校の何処でも、一言も言葉を交わすことはなかった。笑顔すらも彼女から去り、視線も合わない。当然だった。あの、修也の細い腕を確認した後、部室で和樹と会話をし、彼がヒーターをつけ部屋から出ていったあの瞬間のあとから――こうなるんじゃあないか、と予感していたとはいえ。彼女から瞳をそらされたとき、私は涙目になってしまった。


自分をひた隠し、嫌われたくない、と努力をした結果がこれ?もう一度、何度だって、思わざるをえなかった。どうして修也だったんだろう――どうして?事実は小説より奇なり。自分らしくいたけりゃあ、他に大切なものをいくつか捨てなくてはならない――捨てなくては、手に入らないのだ。


瞳に涙が溜まっていく。真顔が崩れないように必死で堪えた。いっぱいになったコップから水が溢れるよう、左瞳から先に、ぽろりと雫が降りていった。


はっとする、有頭。「藤本」――と呼ぶために尖らせた唇が音を出してしまう前に、私はいつだったか、このひとに一度聴いてみたかった事をとうとうぶつけた。


「コーチは」
誰かをどうしようもないくらい、
好きになった事が ありますか。


彼女の眉間の皺が緩まって、薄くなっていくのが見えた。

scene33

旅行の準備はもうほとんど終わっていた。母は早めに帰宅していた一週間位前とは一変、また夜遅くに帰ってくるようになった。馬鹿みたいに映画で肥えたこの目――お陰で自分の中で、自分の目標に掲げる演技というものが納得できるものになりつつあった――おおかた「自己満足」に、違いないのだが。

土曜の朝。十時に、もうすぐなる頃だった。十一時に部活に集合を予定されていたが、行かないと決めていた。サボる。今日は。一昨日瞳に入った少し痛々しい跡のある亜希と和樹のわざと見せつけるような――ただ薄くなっただけのあの肩あたりの血。彼女のだ――あれを見ていると、何故か自分でもどうしようもなく憔悴しきってしまうような――どうにもならない感情が、胸をつんざくからだ。和樹の態度にも耐えられる自信がなかった。いかにも言葉通り、そう――何にも、なかっただろ?なあ?柊也。

生まれて初めて他人に暴力をふるう事になるかも知れない、と。生来そこまで他人に興味のない性格だと思っていたが――それすらももう、信じられない。今だけは。もう、どうしようも…なかった。


ぽつ、
ぽつ―
ぽつ。


涙の、かわりだ。急に降り出した雨。


「行くなよ」

「…」

 行か…ないで。やさしい唇。

導かれるよう、紅色の薔薇の園をスニーカーで抜けた。外からブラインドの隙間。彼女の好きな席が見えた。魔法を、かけてやれば良かった。あのとき。

 あなたって――パックみたいね?

一番はじめに瞼を開けて、一番初めに見たやつを愛してしまうんだぜ。花のしずくを…瞼に落とすと。眠っているやつの。

 愛してしまうんだ、死ぬまで。

ずぶ濡れのまま館内へ入った。足が勝手に進んでいく。あの場所へ。一番古くて暗い、じめっとした、広い広い図書館の一番奥にある通路。頭のなかで、母の声がした。

誰を?

恋人…だ。

――えぇ。

捨て犬でもいれば、連れて行くのに。父さんの物凄く遠いとおい親戚の国へと。一際、紙の匂いの強い黴臭いところに辿り着く。ああ言った手前手ぶらで旅立って――気まずい思いをするのはむしろ、母さんの方だろう。やるせなく頬が緩み、鼻で微笑した。

木製の本棚のふちに手を掛け、額をこつんと軽く音を立てて当てた。瞳を、閉じて。

「柊也」

愛おしい声。細く、青白い手首。瞬間、あのノートの彼女の絵が頭に浮かんだ。

「…もう――やめてくれよ」
 ハートの輪郭の中。水彩のよう塗りつぶした色。

こっちが修也で
こっちが 私。

交わる二つの線と色。丁寧な美しい絵。それでいて、信じられないほど苦しくさせる。同じだった。ふたつの心。おんなじ、気持ちなんだ。

「亜希」

額の下の両目に、親指と残りをあてがった。亜希の声がする。言葉にならなかった。

 わたし ね。
「生まれてきた意味が わかったの」
 絵の下に、添えられていた文。

「…」

立ち尽くし、これ以上無理だといえるほどうなだれていた。誰にも見られたくない。こんなところ。べつに心配する必要など、なかった。なのに願った。

どうか、誰にも…。

ふと人の気配を感じて瞳をあけた。重たい瞼。あけたと同時に軽い感触がしたあと、いつかの――

いつかの引っ張った、あのか細い腕が映った。下ろされた瞳、羽のよう柔い感触。はぁ、とまた瞳を閉じる。そして、苛立ちではない白い溜め息を吐き出しながら、背後からの細く囁くような声に、俺は耳を傾けた。


「教えて」
背中に頬をすり寄せる。抱きついたまま。


「愛は美しく、清潔で完璧?」


振り返り、全ての感情を忘れ答えた。
 いんや。


「嫌になるほど、みっともない」


すかすかの身体を引き寄せきつく抱き締める。長く滑らかな髪を撫でたあと、彼女のまだ和樹のものである唇を奪った。


「――亜希」

「…なあに」

「行かないか、一緒に」
 ロンドンへ。

scene34

和樹からのメッセージが一件と電話が二件あっていたけど返しはしなかった。部屋のクローゼットの中身をごちゃごちゃと引っ掻き回し、だいぶん奥に入っていたツイード柄のボストンバッグを取り出しているところだった。


 五日間 出てこられるか。


彼は私の肩をぐっと掴み、あの湖のような透明な――それでいて体をあつくさせるようなあの瞳で、そう問いかけた。和樹とはまだ、何ともなっていなかった。言うタイミングがなかった。そう言ってしまえば言い訳になるけど、私はもうわたしの心の叫びに耐えられなかった。逆らえない悲鳴。知紗の態度はあれからどんどんどんどん悪くなっていき、彼女はサキコやナナ、ヒロセ達を抱き込み、わかりやすく私を攻撃するようになっていたのだ。

瞳から吐き出す言葉。時には口から出ることもあった。校内ですれ違うさまや部室の中。ランニング中、部活の――

やっぱり、ね。

知紗は和樹とそんなに親しい訳じゃあなかったけど、そのうち知られるだろう。そう覚悟をしていた。ねぇ――先輩?どう、思いますか?あの、ふた、り。


「ありえない」
 すげぇーよね。


小さく聞こえる彼女たちの会話。それでも私は修也の事が好きで、そばにいたかった。知紗を裏切ってでも彼に触れられ、文字を読み合いたかった。それに先輩達が、わたしたち一年の様子を知らないふりをして見守っていてくれてたからまだ、ましだった。べつに修也と私が――それこそ部室でやってたとか――場面を見た訳じゃあないのだ。だから知紗の話も軽く受け流せる。証拠がないし、私達に関係ない。

けどいずれ和樹の事も決着をつけなければいけない。和樹は知らないけど部活ももう、辞めた。知紗との間の溝は日々深くなる。自分の心に気づいた今、世界になんて言われようと私は和樹と一緒にいる理由はない――ただ、修也といたいの。お願い。それだけだった。

私は、空を飛ぶ。ロンドンへ行って。修也と愛を確かめるの。「嫌になるほど、みっともない」愛を。ただ今はバッグに荷物とそんな想いを詰め込み続け、その日を待つのだ。

携帯が震える。
「――和樹」
何度かコールを聴かせ、出る。

「もしもし」

 お前――何してんだよ?

連絡が取れず、少なからず怒っているようだった。

「ちょっと気分…悪くて」

 …どこにいる?

「家だよ」

普通にするしか、なかった。

 今日休んだんだな、部活。
 土曜だった。

 大丈夫か?

「うん、何とか」

 なにかあったのかよ。

「ないよ別に」

 嘘 つくな。

「本当にないよ」

 ――お前、次いつ会える?


心臓が、少しずつ速くなる。
「それが――ごめん、まだわからない」
 わからないってなんだよ?

「パパがね」

私は和樹に、苦し紛れに聴こえないようなせりふをぺらぺらと並べ立て、誘いを断った。会社が、出してくれてるみたいで。毎年行ってるんだ――家族旅行。

「じゃクリスマスも――」

「ごめんね。みたい」
 和樹も連れて行こうと思ったけど。会社持ちだから。家族だけなんだ。

彼ははぁ、とひとつ大きく溜め息をついてマジかよと呟いたあと、「分かった」と言ってくれた。軽く話をし、ようやく電話が切れる。五日間、こっちにいない。連絡は出来たらする。こうして私は秘密の計画を守り通せた。そして頭を悩ませていたママへの言い訳に、知紗やサキコやナナ、ヒロセ達の名前を堂々と使ったのだった。

scene35

クリスマス・イブの前日から年明け前まで。

あれからまた、もう、夢をあのとき見ていたんじゃあないかというような図書館での日々が戻ってきていた。

ただもうノートを開き、書き込み、本の間に挟み戻す。なんて事はせず、ただ本を読み合う。愛おしい会話をして。人目を盗み、キスをする。ただ瞳を――何にも言わずに、ただ見つめ合うだけのときもあった。誰かに教えたいくらい、俺たちは間違いなく、そしてどうしようもなく幸せだった。


「ノートを持って行きたいの。あのブランケットと一緒に」

「どうして?」
 わかっておきながら聴く。いつしかそんなふうに、亜希の癖がうつっていった。

「あなたと読みたいから」

「俺が読んでやる」
 髪を捕まえたあと口づける。

「私達、死んだら天国に行けないね」
 おそらく和樹の事。

「…いいさ」

 亜希と 一緒なら。

「ふふ」

「何だよ」

「こんな日がくると思わなかった」
 ほんとうに――

 こんな日が、来るなんて。

大粒の涙を降らし、俺の肩と彼女の太腿が濡れた。震える身体を抱きしめ、またキスをする。

「お前をもう」

「――修也」

「何にもせずに見送ったりしない」


 二度と、だ。


来る日も来る日もあの一番奥の通路で唇を噛み合うようなキスを、ふたりで何度も繰り返した。こんなの向こうで――ロンドンで、それこそ死ぬほど、嫌になるほどできるというのに――だって、仕方がない。今目の前に亜希がいて、愛おしいと感じるより早く、指が触れようとするのだから。


「迎えに行く。母さんには言ってある」

「ありがとう」
 嬉しそうに綻ぶ顔。

「ノートはお前が持ってろ、大事なもんだから」

「分かったわ」

出発は明日の昼間だった。
母の車で―――家の前で止める訳はなく、近くのコンビニエンスストアの駐車場で待ち合わせる事にした。

「ねぇ、修也」

「ん?」

「幸せすぎて目眩がしそう」
 彼女がノートの奥でふふ、と笑う。


亜希の手から、俺はもう一度――今度は俺が、ノートを引っこ抜きそれを隣にばさと置いた。そしてふたりの間に紙のない、「ほんとう」のキスをしたのだった。

scene36

ずっと苦しんでいた。物心ついた時から、今の今まで。自分は特別――そう思ったことは一度だってなかったけれど。真実なのだと段々気づいてゆく。それは良い意味なんかではなく、周りに映る私の姿はおよそ大勢の人間に受け入れてもらえるはずがなかった。私を生んだママですら、皆と同じ、派手な色した未確認生物を見るような――もしくは不本意に自分の脳みそを見てしまった時のような顔を見せるのだ。この事に対する11才の私の心の切り刻まれたあとは、修也に愛されている今ですら不安が顔を出す事で全て物語られる。信じられないほど深く、深く。


頭は心に対し冷えてゆく。
目前の――修也と二人きり、正しくは彼の母と向こうの遠縁の親戚も一緒の――旅で愛を確かめあえるのなら。自分らしく生きられる空間へと、連れていってもらえるなら。もう何でも出来そうな気がしていた。あれだけ気になっていた他人の瞳が、そこにあっても不自然じゃないものだと感じ始めていた。夜空に浮かぶ、星のよう。

帰ってきた後の事。
それはもう――帰ってきた後に。考えれば良い、だけなのだ。

「――うん」
 分かった。

和樹からの電話に私は平然と答えていた。ツイード柄のボストン・バッグ。紛れもなく私の好みの。あのブランケットとノートも――それに五日分の衣類と必要最低限のものを詰め込み家を出る時に持っていくだけ。なんとなくだけど――変われるような…気がしていた。この旅で。

バッグを横に置き、ベッドに腰掛けながら和樹との電話を終える。

「…」

桃色の雲の上に、いる気分だった。ママには、女友達と旅行に行く。先輩もいるし。邪魔――しないでね。「楽しみたいから」と微笑んでいた。まだ16才とはいえ、大人数いれば女の子同士でも危なくないなどと考えたのだろう。思ったより、快諾をしてくれた。

じゃあ、気をつけなさいね。
エプロンをつけた後ろ姿に声を返す。

「まだ出ないよ」

「思い出、いっぱい作って―――何時に迎えに来るんだっけ?知紗ちゃんのお母さん」

「十二時前。迎えに来るんじゃなくて拾ってくれるんだって、なにせ皆乗せて行かなきゃいけないんだから」
 市内を回周するはめになるから、と。

ママが玄関を出て知紗のお母さんに挨拶しようとする事は目に見えている。家まで来る設定となると。私は修也と待ち合わせをしたコンビニの駐車場の反対側の、本屋さんの前まで行くことになっていた。

「そ。じゃあまだ、時間あるね」
 少しね。

リヴィングでそんな会話をする。時計はちょうど十一時二十分をまわったところだった。ママが脱衣所の方、洗濯機へと向かう。私は少し早いけど修也を先に待ちたくて、三十分には出ようと考えていた。本当は今すぐ飛び出していってもいいくらい――そう考えてるその時だった。

ピン・ポー…ン。

彼ではない。それは分かっていた。

だけど何故か私は不気味な音のように思えた―――背筋が冷える。シックス・センス、第六感というやつ…か。

無視をした。もし、セールスか何かとしたら時間を取られるわけにはいかない。チャイムはもう一度、不気味に響いた。ピン…ポォ…ン。誰なの?

ママは洗濯機の脱水の音で全く気づいてなく、次に洗う衣類の色分けをせっせとしているところだった――少し――勘繰り過ぎ。そうだ。気が張っているせいで。

私はふぅ…と鼻で溜め息をつき、玄関へ行って扉を開けてやった。たぶん宅配便か何かだろう。棚の上の印鑑を片手にすっと取り瞳を上に上げると、知紗が立っていた。


「!」


動揺し、私の瞳が激しく泳ぐ。「どうしたの」なんて声をかけることもなく、私は咄嗟にリヴィングにいる時脚に掛けていたブランケットだけを持ち、出していた靴を履いて外へ飛び出した。ママが。ママが、戻ってくる。そしたら、玄関にいる知紗を見て――あら?迎えに来てくれたの?知紗ちゃん。ありがとう…ね。お茶でも、飲んでいく…?いいわね。部活の皆と…旅行な…んて…ママも。ソンナコトシテミタイワァ。キョウハ、ア…リ…ガ…ト。オ・カ・ア・サ・ン・ニ・ヨ・ロ・シ・ク・ネ。


…エ?


私は一度も振り返らず、修也との待ち合わせ場所へと思い切り駆け出した。

scene37

嫌だ、嫌だ、嫌だ――嫌よ。

「助けて、修也」

込み上がる涙と恐怖。はあ、はあと白くなる息を切らして路地を曲がる。道路標識が見えてあそこの大通りを左に曲がってずっと道沿いを進んでいくとコンビニがある。そこのだだっ広い駐車場へと向かって走る、全速力で。

知紗と瞳が合いやばいと思ったあの瞬間、階段を駆け上がりあのノートが入ってあるボストン・バッグを取りに行こうとしたけどもう遅かった。ママがリヴィングに戻ってくる――そう直感した私は、幸い財布とパスポートをコートのポケットに入れていることを思い出し、知紗に肩をかすらせ走るしかなかった。

怖い。
怖い――

死ぬほど動悸がし、脚がもたつき始める。まるで連続殺人犯から逃げ惑う何番目かの被害者のように。

コンビニの看板が見えてくる。修也に車の色を聞いていたけど思い当たる車両は見る限りどこにもなかった。どくん、どくん、どくんと心臓とそれに身体が震える。そのまま願った。早く――はやく、はやく、はやく――早く来て、修也!

と言っても、仕方のないことだった。時計はまだ十一時半を指していた。私はブランケットで顔周りをぐるっと覆い、コンビニの入口ではなく側面でまだがちがちと震えたまましゃがみこみ、うずくまった。

なぜ、知紗が家に?
何をしに?

ふらつく指先を唇にあて、考えた。思い当たる理由は今の時点では無い――それどころでは、ないからだ。ママに…ばれた。車が駐車場に出入りする音が何度か聴こえる。しばらく怖がったまま、苦しい表情を浮かべる私の耳に、誰かが呼ぶような声が届いた。遠くから。あき、という声。修也がベージュ色の軽自動車から降りてくるところが見えた。

「修也!」

「―――どう、したんだよ?」

明らかに様子のおかしい私を見、何かを察したようだった。とすんとぶつかり彼の胸に飛び込む。

「和樹くんか。まさか」

「違う…」

細く、かたい腕に引き寄せられる。修也の肩に私は顔をそわせ、しがみつきうずまった。

「違う――ちがうの」
 修也。

死ぬほど、怖かった。

「分かった――落ち着けよ」
 大丈夫だから。

一度抱き締めたあとぽんぽん…と背中を叩いてくれる。

「深呼吸しろ」

少しましになったところで、ちらりと時計を見る。十一時三十六分。

「修也、早かったね」

「お前に言われたくねぇよ」
 吹き出すよう、微笑んだ。

「早く…会いたかったから」

彼はへぇ、といたずらに笑ったあと付け足した―――俺も。

「行こう。母さんが待ってる」

手を引かれ、先程のクラシックな車へと近づく。運転席に手袋をし品のある後ろ姿――モーヴブラウンの髪色の、物凄く綺麗な人が見えた。修也がドアを開け、「乗れよ」と先に促す。女性がこちらを向いた――美しいひと。

「どうぞ。お姫様」
何となく、口元と、体の曲線が修也に似ていた。

「はじめまして――藤本亜希です」
 お辞儀をし挨拶する。

可愛い名前ね、と真紅の口紅が笑った。
「修也の母、香よ」
気品の漂う振る舞い。パーツは違うがどことなくグレース・ケリーを思い出させるいでたちだった。どきどきする、心。

「あら?」
 手ぶらの私に気づく。

「亜希、お前――荷物は?」
 修也が車のドアをばんと閉め尋ねる。

「家に…あるわ」 「え?」

「飛び出して、来たから」
 震える声で、修也の母と修也―――二人に分かるように私は説明をした。

「中川が?」
 ええ。

ハンドルとバックシートに手を置く香。時折瞬きをし、私を見つめていた。

「きっともうママにばれてる」

「そうか」

と、突然エンジンを――香がかけ始める。
「分かったわ」

「あの、でも私――」
帰らされるのだと思い、咄嗟に声をかけた――嫌よ。ここまできて。帰りたくないと言葉を返そうとした瞬間、香は微笑んだ。
「出発しましょう」
 半月の瞳がまた笑う。

彼が、私の手を握った。
「大丈夫だよ」
 言っただろう。

 二度と 離さない。

手を取りキスを落とす。車はもう駐車場から国道へと出、空港へと向かい始めていた。揺れる車内――着替えは何とかなるから、と香が前を向いたまま言った。さっきまでの恐怖心がいつの間にか嘘のように――夢だったかのように、晴れていった。

私は修也の手をぎゅっと強く握りしめ、彼の肩に寄りかかり瞳を閉じた。微笑みながら。運転しながら母――香はバックミラーを覗き込むと、小さくも大きくもない声で呟いた。

「面白そう」

scene38

空港につく頃には幾分穏やかな気分になっていた。がやがやするエントランス内で人混みに酔わないか心配していたけど、修也の手を握っている限りなんともなかった。あっという間に機内に乗り込み、彼と隣合わせに座った。嬉しくて、嬉しくて、気づけばお腹も空いて、機内サービスでランチを取った。食べ終わった後、三人で珈琲を頼み、くつろいでいた。

「亜希ちゃん」
 前の席から香が顔を出し話しかける。

「はい」

「もう、聴いた?――凄いのよこの子」

「?」

「とんでもない、映画おたく。毎日観てるのよ、ほぼ――やんなっちゃうわ」
 笑いながらそう続けた。

「知ってます」
 ふふ、と私も微笑む。

「やめろよ母さん」
 修也が首を片手で支え呆れた。

香ははいはいといった顔をし、「ゆっくりね」と珈琲を飲むと前を向き、雑誌を開いた。

「…」

「なんだよ」
 修也を見つめる。穴の開くほど。

「来たのよね」

「ああ。もちろん。外見てみろよ――中も」

「誰もいない」

「ああ。そうだな」

窓の外は雲だらけ――機内はスーツを着込んだビジネスマンらしき人々や――外国人の家族連れ、誰も二人を阻むことを企てようとする人なんて、一人もいなかった。修也の手を、堂々と握れる事。それだけで、あんな思い…今朝の体験も、許せてしまうほどだった。自分の勇気もさることながら、ただただ修也に感謝をし、愛おしい気持ちを心の底から、私は味わっていた。

「修也」
 なんだよ。

「ごめんね」
 ――なに が?

「ノート…バッグに入ってたの。持ってこれなかった」
 ひとつ後悔があるとするなら、あのノートを置いて出てきてしまった事だった。

「いいさ。仕方ないだろ。それに、ノートなんて向こうですぐ手に入れられる」

「書くの?あっちで」

「あぁ。もちろん」

「嬉しい」

「読んでやるよ、それも」

「愛を読むひとみたい。私は文字が読めない訳じゃないけど」

「あぁ。出逢ってすぐセックスするやつな」

「いいじゃない、映画の中よ。それに――ああいう感覚があっても良いと思う」

「本能で、って事?」 「そう」

「ラストが好きだったな――終盤哀しくなったけど」

「そうね――ね、一番最近見た中で面白かった映画は?」

彼は眉間に皺を寄せ、ん――と長めに唸った。
「あれだ。プリティ・イン・ピンク」
 ぴっと指を出す。

「私も好きよ。主人公のアンディがとても好み」

「俺はダッキーがとてつもなく気に入った」

「彼、いいわよね」

「ああ、俺がアンディならダッキーを選ぶ」

「あの、CDショップの中で踊るシーン最高だった。歌に合わせて」

「きたねー靴でな」

「ソウルガールズを昔――といっても一年前に観たけど、あれも良かった」

「ああ、あの歌がよかった。なんとか…」
 修也がハミングする。

「whos loving you――ジャクソン5でしょう」
 それだ。

「サウンドトラックならRun to youが良いわ」

「ホイットニーの?」
 香が口を挟む。

「母―さん」

「はい。素敵です」 「同じく」
 前を向く。

「そういや、あれを観た」

「なに?」

「ウォールフラワー」

「本当?どう、だった?」

「良かったよ。なんかお前らしいと思った」

「何が?」

「あの繊細さが――確かに、言ってることが分かった。エマが素敵だって」

「とても…不安定よね彼女って。観ていてつらくなるけど、見ちゃう」

「お前に似てるよ」

「嘘言わないで」

「本当だよ――手が、画面突き破るかと思った」

「首でも締めようとした?」
 わざと微笑む。

「いんや。たまらなかった」

「あれでしょう。キスシーン。欲情したのね」
 小声でからかう。

「…」

「冗談よ。怒った?」

「もう、観なくていい」

「?」

ここに いる。

そっと唇を重ね、ついばみ合った。鼻息をなるだけ静かに出して、彼の唇を柔く噛んだあと、ゆっくりと顔を離した。

「……」

「――五日なんて…あっ…という間だろうな」
 ぼそりと、呟く。

「そうね」

「一生、お前と二人だけの世界にいれたら良いのに」

「…」

肩に凭れかかる。多分おんなじ事を考えているんだろう――そう思った。今のこの瞬間はいいかもしれない。だけど、あの元の世界――ママや和樹や、知紗たちの事を考えると、やはりどうしようもない気分になる。

―――いいの。

「亜希」

「手、握ってて。ずっと。そしたら、やっていける」

思考をストップさせて。今のこの、夢のような瞬間だけに身を委ねる。どうしようもない。どうしようも、ないの…。


「私ね、コーチに言っちゃった」

「なんて?」

「部活辞めますって。それと―――コーチはね、どうしようもない位、誰かを好きになったことがありますか、って」

「すげぇ奴」
 彼がふっと笑った。

「彼女、何ともいえない顔をしたわ」

「…」

「案外、ああいうひとの方が芯の部分がピュアなのかも」

「かもな」

「結局――何も答えてくれなかったから、そのまま出たわ」

「辞めるんだな、部活」

「うん。もう、満足するほどやれたし。未練なんかひとつもないもの」
 ふとママの顔が浮かびかけ、消す。

「…」

「クマが出来てる。寝たの?夕べ」

「ああ――少しだけ」

彼の指に触れると手を取られ、強く握り返される。修也は瞼を閉じ、少しずつ―――うつら、うつらとし出していた。きっとまた遅くまで映画でも観てたんだろう――伏している睫毛を見つめ軽く微笑み、また指を愛おしく撫でた。夢か、現実か分からない。そう言って彼は眠ってしまったようだった。私はブランケットを4つの脚にかけ直し、まだ見ぬロンドンの地を果てしなく幸福な気分で想い、待ち詫びるのだった。

scene39

飛行機を降りるとびゅうと風が吹き、修也のダウン・ジャケットのフードが――私のチェスターコート、紺色のそれの裾が舞う。

ロンドンの空港へ着き、地下鉄に三人で乗り込む。一度乗り換えたあとでタクシーをつかまえ、修也のお父さんの親戚の待つ邸宅へと私達は向かった。ロンドン。初めての。海外は夏、それこそ家族旅行でニューヨークに行った事はあった。パパの会社の支社があったのだ。和樹に私がしっかりと嘘をつけたのも、そんな真実味を出せたのも、こういう裏打ちされた経験があったからかもしれない。

ただニューヨークの雰囲気はあまり好みではなかった――イギリスロンドン、どうしてもこちらの方がわくわくする事は確かで、ビッグ・ベンを車内から見た時はやはり嬉しくて笑顔になった。なんとも名前のつけようのないトリップだけれど、どうでも良かった。やっぱり修也と、彼といれるだけで何でも良い。何度もそう思った―――ブリティッシュ・スタイル、素敵な地。

ブリジット・ジョーンズの日記をふと記憶から呼び起こす。彼女のあのDVDのパッケージの胸元を見て、私も三十才位になればあんなグラマラスになれるのだと思っていた。ときに私はその頃中学生で、人とぶつかっても痛くも痒くもない――走っても、というような体つきをしていた――今と、大差はないけれど。徐々になれるのだ。あんなふうに。今現在でもまだ少し…そう思っている。

「寒い」 「そうね」

数十分走り、住宅街らしいところで降車する。運転手が荷物をおろそうと――修也と香の物だけだが――トランクを開けたところで香が「私が」と微笑みスーツケースに手を置いた。香の後ろを修也と二人、手を繋いで歩く。ふと瞳が合い肩を抱き寄せられ、また「寒い」と言いながら歩き続けた。茶色のシックな外観、屋根、煉瓦造りの壁。木のポーチが見える。温かみのある、大きな家だった。広めの庭に花や植物がたくさんあって、名前の知らないものばかりだった。

木製の大きいドアをノックする。古さがとてもいい雰囲気を醸し出していた。内側のベルがちりんと鳴り、中から老人が一人顔を出した。香がにこやかにダディと声をかけ抱きつく。オゥ、と嬉しそうに彼は「よく来たね」というような表情をし、修也と私を見た後にっこりと皺をつくった。瞳が合ったのでぺこりと頭を下げる。香が――名前はアキよ――と説明してあげていた。大袈裟に動かされる唇。老人が笑顔で言葉を返す。何を言われたのかが分からなかったけど何となく褒められたような気がし、私は顔を赤らめて少しはにかんだ。

「素敵な所ですね」
 香に笑いかける。嬉しかった。

「そうでしょう」

「映画の世界にいるみたい」
 気に入ったみたいね、と彼女は言うとすっと前を歩いていった。

中に入り、香と修也はごく自然に二階へと上がってゆく。いくつかあるうちの一部屋にスーツケースやらの荷物を置きコートを掛けていた。木の長い階段。白く塗られ、細長く赤い絨毯の敷いてある。また長めの廊下に出、手を引かれ同じ部屋の前に立った。修也と。香は二階の端の白い窓枠の右隣の部屋―――私達と二つほど部屋をとばした一室だった。

「着替えましょう。少しゆっくりしてから、下に降りてお茶でも」
 荷物を置いた自分の使う部屋のドアを開け、縁に手をかけこちらを見やりながら言った。

「ああ」
 修也が返事をし、私はまたぺこりとお辞儀をしたあと、彼と…二人で部屋に入った。

「――大丈夫か。疲れただろ」

「ううん。平気よ」

家の外観もさることながら、部屋はほんとうに素敵だった。物が多い印象を受けたがオレンジの温かい、ほっとするような木の壁や柱――窓の枠。8畳位、広さにして。小さな暖炉。その真向かいの大きな木製の椅子には赤いクッションが置いてあった。窓にはブラウンのカーテン、そして壁に沿うように電球のついたスタンドが佇む、柱たちと同じ色の木製の机。それに組み合わされる椅子。一人掛けの。私は振り返り、修也に声をかけた。

「すごい」

「いいだろ、なんか――何となくお前が喜ぶと思って誘った」

「ありがとう。羨ましい。こんな場所に毎年来れるなんて」

はしゃぐほど好きな空間だった。あぁここで―――ここで小説を書けたなら、どんなに幸せを感じられるんだろう?

「本当に幸せ」
 ぐるりと部屋を回り、さっきの暖炉の前の大きな椅子に座った。修也は微笑んだまま、ただ嬉しそうな私をじいっと見つめていた――二人きり。

ふたりしか いない。

軽く息を吸い込みはぁ――と笑い、吐く。胸の方からたまらない想いが込み上げ、部屋の隅の、端のベッドへ腰掛けていた彼へと飛び込んだ。背中に手をまわし肩に顔を預ける。涙が出そうなほど、愛おしかった。

「修也」

「連れてきた甲斐があった」

「後で庭にも行きたい。妖精に会えそう」

「ああ」

本当に会えたらいいのに、と思っていたとき瞳が合った。見つめあう。彼の顎を人差し指で軽くなぞり、片頬を手で包み込んだ。吸い込まれそうな瞳が睫毛を伏しながら近づいてくる。どちらからともなくキスをした。触れ合った唇は外気のせいで、ひんやりとしていた。

肩と首へ腕を絡ませる。顔を傾ける彼の唇をただただ、受け入れた。冷え切った二つはすぐに温まり、とたんに熱いというほど熱を帯びていた。

「ノート…買いに行かなきゃ」

「ああ――おじさんちに、ねーかな」

柔い舌が少しだけ侵入する。会話の為に、すぐ戻った。人の体温と独特な匂いが好きじゃあない。なのに彼からは、ずうっとくっついていたいほど惹きつけられる薫りがする。吐息さえ。頬や耳、唇にかかる。

「貰う――の?でも、ただの、紙でも良い。何でも。文が、か…きたい」

二人の位置を取り替えっこし、修也がとすん、とベッドへ私を横にならせる。覆いかぶさる身体。しつこい夕立のようなキス、それも嫌じゃない。機内はもちろん時折香の目を盗んでは口づけを交わしていたのに、どういうわけか、全くと言っていいほど足りなかった。嫌と言うほど…といっても嫌だと感じる瞬間までに辿り着かないんじゃあないか―――すればするほど。また、したくなる。それの繰り返しなのだ。強引に舌を差し込み口の中を犯されるこちらの心を無視するような自己中なものではなく、ただ唇を――重ね、羽根のよう柔く挟み、離し――また、そっと重ねる。彼に愛されているのだという事が、言葉もなしに伝わった。

「亜希」
 返事はしなかった。

苦しくなる胸。思わず脚を――膝と膝、両の腿をぴったりと閉じた。触られてしまうんじゃあないかという考えの――全く逆だった――触れて欲しい。心から、そう思った。彼の髪を撫で、私より広い肩に強くしがみつく。付き合うというはっきりとした境目すら持っていない、友が想いを寄せる相手、海を隔てた向こうの国にまだ恋人がいる。すべてが、どうでも良かった。わたしたちが熱を発しこの異国の地にあるこの部屋の空気を暖め続けている事に、私も修也ももう、気づいているのだった。

scene40

あの後――いくらなんでも降りなきゃまずいという話になり、私達は顔を見合わせ苦笑いしたあと階段を下っていった。彼は服を着替え、私はとりあえずコートを脱いでそのまま。壁には家族写真が沢山、同じ色のフレームに入り飾られていた。

香が来ていなかったので修也がもう一度階段を上がり「母さん」と部屋まで呼びに行っていた。スタンフェルド――さっきのお爺さん、名前をそう聴いていた――が紅茶のカップを用意しているところだったので手伝う。70代くらいだろう。少し出たお腹に、白と茶のアーガイル・ニット。少しして修也、そして香が降りてきて四人揃ったところで温かい紅茶を頂いた。最中、香が「亜希ちゃんも映画おたくなのね」。機内での会話を、耳にしていたようだった。

「文学に強いよ」
 修也がずっ、とカップを啜り言い放つ。

「母さんも、見つからない本があると聞くといい」
 そう するわ。

シナモンのクッキーを頬張り、とてつもなく良い薫りの紅茶を口に運ぶ。

「父さんがくれた本――亜希が見つけてくれたんだ」

「あの、宇宙のやつでしょう。和範は星がとても好きだったから」
 ああ。

「…」

二人の会話を何するでもなくじっと聴く。修也のお父さんは多分――と、話をされた訳でもなく気づいていた。唇と細身なところを除けば、彼は父親に似ているのだろう。明らかに香とは異なる目元と鼻筋を見、考えた。女優のような香、修也をいつの日か俳優のような顔立ちになりそうだと思いを巡らせた事があったがあながち間違いではなさそうだった。何となく想像がつく。彼の父は、そういう雰囲気なのだ、と。修也はきっとこの二人の影響を受けているんだろう。役者志望、もしくは経験者かなにか。

夕刻になると香と二人で食事の用意を手伝った。スタンフェルドさんがドライフルーツとナッツの沢山入ったケーキを用意してくれた。蝋燭をつけ、なんとも外国らしい絵本の中の世界のような光景に酔いしれたのだった。食事を終えると香がワインを出してくれ、それをちょこっとだけ飲んだ。修也は顔を横へとやり、うっという表情と声を漏らしていた。お酒は一口飲んだだけだったけど首元まで紅潮し、私はさんざん笑われた。

着替えはシャワーのあと香が用意してくれていた物を身に着けた。白いロングのワンピース。スタンフェルドさんの娘さんのらしかった―――ね。どうにか、なった。香が笑う。

「ありがとうございます」
 次、入るわね。

私は香を残して脱衣所をあとにした。髪を少し整えそれから階段をゆっくり上がって、修也のいる部屋へと向かう。

扉を開けると、暖炉は明々と燃えていた。彼はその前に胡座をかいて絨毯の上に座り、本を開いていた。声をかける。後ろから。

「珍しい」
 ――いんや。

「雰囲気で読んでるだけ」
 ふっと笑う、彼。

「食事――とっても楽しかった。ありがとう」

「ああ」

「…」

「…」

「どうして、こっちを見ないの?」

「いや…」

「…」

読み終わったら 教えて。

分かっておきながら、知らないふりをする。背を向けた。ばつんと古びた英語の本を閉じ、彼の手が私を捕まえた。

笑ってこう、罵る。
「意気地なし」

「悪いか?」

「――いいえ」
 途端、ここに着いた時の続きを始めた。唇と唇。睫毛と睫毛が触れ合う、修也が私を抱きかかえ片手が部屋の灯りを手探りで消す間。暖炉の揺らめく炎だけが、わたしたちを照らした。

「ここで…良い」
 暖炉の前。彼が座っていた色褪せた絨毯の上に倒れ込んだ。鼓動が早まって、苦しさが胸をつんと貫く。彼の細い指が胸元のリボンを絡め取りゆっくりと解いてく。抱き締められて名前を呼ばれた瞬間、呼吸を止めてしまいたかった。何も言わなくて良かった。それに何も言われなくても、良かった。ただ好きだとか愛してるだとかずっとこうしたかっただとかの言葉の代わりに、慰めるような柔い舌を堪らず吸い、首から肩にかける腕に頼りない力を込めて私の身体を押し当てる。哀しくないのに涙が溢れた。拭こうとも、思わなかった。吐息が漏れ出す。あっという間だった。まくし上げられるワンピース、脛を通り抜けるレースの下着。罪悪感が生まれる。和樹に対してではない。今まさに想いをぶつけ合おうとしているこの人に、だった。

死んじゃうんだ。
「ごめんなさい」

頬を、彼の優しい指が撫でる。顔を見られなかった。きっと笑顔だと思ったから。哀しみの。

「ごめんね、修也」
 よく人前で泣くようになった。きっと生まれた時からこうだったのだ――きっと。私はもう一度謝った。ごめんなさいと。彼が、口を開いた。

「いいんだ」
 言えよ。

彼の瞳を見た。首を横に振る。それでも修也は笑みを崩さず言った、いいから。舌先が降りてゆく涙を拭う。私はひとつ息を大きく吸い、彼の固くかさついた手と指を絡ませあったあと、告げた。したの。和樹と。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんな…さい。返事はなかったし、いらなかった。ただ雨の中、水溜りの上を優しく歩く時のような音、湿った弱く高い声、私の。

愛しすぎて 死んじゃうんだ。

やがて私達はばたんと糸の切れた操り人形のように倒れ、それでもまた懲りずに唇を求めあった。優しい天使に私は囁き続けた。夜じゅう。離れないで、傍にいて、と。

scene41

目が覚めると、いつの間にかちゃんとベッドに寝ていた。修也の肩に頭を横向きに乗せまだ眠っているであろう彼の薄い瞼と長い睫毛――滑らかで骨っぽい、美しい鼻筋をじっと見、私は考えごとをしていた。静かに寝息を立てる。パック。夏の夜の夢の妖精。思考が生まれては消えてゆくを繰り返す。別に、直接聴こうとは思わない。ただ早くノートで、紙を隔て彼と会話がしたかった。愛おしくささやく。あの、映画のタイトルばかり出てゆく唇に、文字を読んでもらいたいと。

外が白みはじめている――まだ起きるのには早い時間だろう――した。修也と。その事実がぼろぼろな私の心をとても温かく、癒やしてくれたような気がした。自分が彼のものになった、或いは彼が自分のものになったと感じられる喜び。人間にとって何にも変えがたい幸。ただ触れたいところに触れただけ――雑誌によくあるくだらない声やテクニックの指南もいらなかった。守られてる、愛されてる。そう思えるような。私は欠伸をし、早朝の澄んだ柔らかい空気と日差しの中また眠りについた。今度は修也に起こされ、下着のままの姿から昨日のワンピースをまた着た―――長袖のフレア。胸元の解けたリボンを結び直し、軽く髪を梳かしてまたキスをする。全ての現実に胸が踊った。醒めない夢、悪い意味ではない。ベッドの上まだ上半身裸のままの彼は立てていた膝の上に置かれた左手をぱっと降ろし、後ろに両手をついてこう言った。


「花嫁みたいだ」


スタンフェルドさんが、と修也がノートとペンをくれた。深緑の英文が表紙に書いてあるノート。手に取りぱらぱらとページをめくる。五枚破りとってこっそり隠す…リングノートで、良かった。

・12/24
(信じられない。いまだに。修也と二人きりで、こんな場所にいる事が。修也のお母さん、凄く綺麗で――グレース・ケリーみたいですねって言ったら「どうして私が彼女を好きだと分かるの?」とあの彼と同じ口元でにこっと笑った。昨日飛行機に乗る前、ものすごく怖かったけど。二人がいてくれて、修也がいてくれて本当に良かった。ね、亜希、私ね。今までの哀しかったこと全てが、結構――どうでもよくなってきてる――そんな気がするの。こんな気持ちになれるなんて、11才の頃は全く思わなかった。ね、こんな事って、あるのね?これが、クリスマスの奇跡?本当の自分でまさか愛している人に抱き締めて貰えるなんて、ね…?修也。あっちのノートに書くかはまだ分からない。愛してるからね。ずっとずっと一緒にいて。他に誰も要らない、あなた以外。確かに簡単じゃない、これからの事。それでも良いよ。あなたに出逢わせてくれた神様にもの凄くお礼を言いたいの――あの図書館で引き合わせてくれた事を、すごく。)

・12/25
(修也と彼のお母さんと、スタンフェルドのお爺ちゃんと、お爺ちゃんの娘さん夫婦達とクリスマスツリーを見に行った。もの凄く大きくて高くて――しかも本物の樹!海外ってやっぱり凄い。今日驚いたことのひとつを。修也の「しゅう」の字が柊だった事。交換日記にも書いていたのに、どうして言わなかったのと尋ねると「お前の中の字がそれならそれでいい」だって。駄目よ!柊の柊也なんて素敵。彼のお母さんのセンス、とっても好き!いうまでもなくツリーも素敵だった――一生忘れない、あのツリーと昨日の夜と…この五日の事だけは。お家に戻って夕方になる頃には沢山のお客さんが来た。家族団欒、二日続きでご馳走を食べたから少し太ったかも。皆、歌ったり踊ったりして楽しい夜が更けてった。途中で柊也に「行こう」と言われ、二階へと上がった。下で大人はほとんど彼のお母さんも昨日よりワインを多めに開けて、何だか羨ましいほど盛り上がっていた。部屋に入って柊也は窓際の席にあるノートとペンを手に取り、久しぶりに文字を書きあった。一階で面白そうなクリスマス・アニメがあってたけど、私達にそれは必要無さそうだったのでスタンフェルドのお孫さん達に譲っておく――二人で暖炉の前の大きな椅子に座って。最初は私からペンを走らせることにした…。)

映画 観なくて平気?
「まあ、観たいな。でも良い」

今観るなら何?
「ホームアローン2かグリンチか天使にラブソングをか――」

わかったわ、もう。
「マスクも良いな」
 ペンを取られる。

お前の絵

すごい伝わった―――「ハートのやつ」
 微笑み、彼の手からペンを取る。

力作でしょう

家に持ち帰って
絵の具を引っ張り出してまで
描いたわ

一生けんめい

またペンを取られる。ペンは、私と柊也のあいだを行ったり来たりを繰り返した。

紙がしわしわだった

ええ
薄いわ ノートじゃ。紙が
柊也は水色のイメージだった

あのときはごめん

もう
過ぎたことよ
でも

ものすごくショックだった
どうして 返事をくれなかったの?


「…」
 瞳がこちらを見つめた。
 少し経って――


怖かったんだ

お前に
拒否されること

受け入れ られることも

…どうして?

分からない

でも 

お前も何となく
わかるだろう

本当の自分を愛して
もらうことって
ものすごく怖いよ

拒否されるより、もしかすると
上かもしれない

「…」

あの 手紙よりくだらない詩
本当の気持ち
そのまま書いた

くだらなくないわ
嬉しかった

愛してるなんて
台詞の中でしか
使わないって
思ってたけど

どうしようもなく
気持ちが強くなると
勝手に出てくる

お前のあの英語の歌詞
意味を確かめたくて
和訳のカードまで開いた

思ったとおりだった

「…柊也」

今のままで いろよ


別に
世界中の人間 全てに
理解される必要なんてないんだ

俺は
わりといまの俺が
好きだから
お前も
そのままで いろ

亜希
もう一度言うよ

「書く、か」


愛してる


顔を上げた瞳がこちらを見、ゆっくりと微笑む。涙を少しだけ指で拭って、ペンを取った。

あのとき
助けてくれて ありがとう

助けたのは和樹くんだ

また溢れ出てくる涙を、今度は頬に伝うのも気にせず、首をううん、と横に振り続けた。

「―――柊也よ」。

手が。指先が震えて、悲しみと嬉しさをいっぺんに感じる。瞳をぎゅっと閉じ、瞬かせ、また続ける。胸が、張り裂けそうだった。


あの日 柊也に
話しかけられたから
一人じゃなくなったよ

ありがとう
本当に わたしね
ずっとずっと 一人ぼっちだった
今まで

あなたが
私を助けてくれたのよ
どうか
分かって


頬に手を触れられそのまま瞳を閉じた。涙をやさしい指が、胸の痛みまでも、消し去ってくれたよう思えた。


どうしたら柊也に
こんなに愛してるって伝わる?


「…」

 なにも しなくていい

 ただ

「傍にいて」
 動く。やさしい唇。

 傍にいて―――くれるだけで…いい…んだ。

身体が、熱くなる。ペンを挟み、ノートを静かにしまった。あの瞳が近づいて来て瞼を閉じる。足りない――足りないの。どれだけ口づけしようと、どれだけ――身体を…。

彼に舌を差し出す。甘く噛まれたあと、服や下着の隙間から彼の指先が私の中を泳いだ。

 いる わ。

ぎりぎり耐えられる愛しい苦しみを、はぁ――と口から音として吐き出したあと、薄く遠く聴こえる笑い声と音楽の中、また私達はお互いを知ろうと求めあった。また――今度は声に出さずに、離れないで、傍にいて…と囁きあいながら。

scene42

・12/26
(旅行に来て三日目。あの素敵な庭を思う存分散策していたら、物語が浮かんできた。孤独で、一人で遊んでばかりいた少女がある日突然花の――庭の花の中から小さな男の子を見つける。眠っていたんだけど、死んでいるんじゃないかって思ってなんとなく水やりをしたら大きくなって――少女と同じ大きさになった。男の子は目を覚まし、こう言った。「僕を見つけてくれてありがとう」。何処から来たかも分からない花の子を皆は忌み嫌うけど、女の子だけは違った。やがて大人になった二人は愛し合うようになり、結婚をし、彼らのあいだには子供が産まれた。その子はやがて、世界で一番有名な役者になる、というものだった。スターになった。母になったあの女の子はやがてスターを育てた大いなる母として、賞賛されるようになるのだ。柊也は、母の前では演技をしないと言っていた。恥ずかしいというわけじゃなさそうだったけど、とりあえず聴かないでおいた。スタンフェルドさんの娘さんの服はとても可愛らしかった――普段自分じゃあ着ないような――ドット柄の赤のシルクシャツ、ブリーチ・デニムのオーバーオール。ときめいたわ。毎日の食事の時間も。紅茶とお菓子の、必ずといっていいほどくつろぐ時間をとる。優雅で安らぐひととき。明日また出掛けるから今日はお家でゆっくり過ごしている――わたし、本当は屋内で丸一日平気で過ごせる人間なのだけれど――こんな家ならますます出たくなくなっちゃう。この階段を上がる音は多分柊也ね。日記は秘密にしているから、この辺で。窓から見える景色、とっても素敵。)

・12/27
(朝からいつもより寒いと思ったら雪が降っていた。窓に向かい空を眺めた。もの凄く幸福な気分だったのに少し、切なくなった。早い時間に起きて彼にキスをして。そのうち柊也が起きて、私の身体に腕を巻きつけてきた――する寸前だったのだけど――わかりやすくいうと、喧嘩になった。きっかけは些細なことだったのに、途中でお互いとまらなくなった。そして和樹のことを持ち出された瞬間わたしは机の上のノートを彼のいたベッドに投げつけて、雪の降りしきるなか外へと飛び出した。泣きながら。お家から少し離れた、道路を挟んだ大きな樹の下で泣いた。もう、めちゃくちゃに泣いたわ。心がえぐられてしまったかと思った。柊也が追いかけてきて、第一声が「ごめん」じゃなかったら仲直りするのにもっと時間がかかっていたかも。ロンドンだったから外にいるにもかかわらず思いきりキスをした――たまらなかった。苦しくて。彼も傷ついている。自分の事ばかり考えるのはやめにするわ。ごめんね柊也…愛してる、そう言ったのよ、しっかりして亜希。)

家に戻ったあと出掛ける準備をした。今日はスタンフェルドのお爺ちゃん達と香は別のところへ――街へ買い物へ行くと言い、私は柊也と二人で家を出た。何処へ行くのかは知らされていなかったのだけれど。

手を繋いで歩く。雪は少しだけ積もっていたけどもう溶けかけ、灰色の水溜りが出来ていた。金切り声をあげはしゃぎ、ふざけ合う子どもたちが横を、鼻を真っ赤にして通り過ぎていった。

「どこ行くの?」

「さあ。どこでしょう」

「教えて――全然分からないわ」
 白い息がふわふわ出ては、後ろへ流れてゆく。

「まあ、待てよ」

しばらく歩いた。十分ほど。全然知らない町並みを。朝あんなことがあった後で、私はあまり気分が良くなかった――ママは――どう…してるんだろう?

知紗はあれから――どう、したの?きっとママに、あなた達と旅行に行くものだとばかり思っていた、と知らされている筈。わたしが親に隠し事をしてまで、五日間も一緒に居たい相手はだれ?和樹――畑中先輩?それと、も?

ぶる、と身体が震えだす。知紗は勘がいい。私たち女の、持って生まれた恵まれた才能。全ての人がそうでなくても彼女に怪しまれ、まさか、と考えられる事はたやすく想像出来た――柊也くん と?

そうなれば間違いなく和樹の耳に入る。携帯の電源は飛行機の前、いや、香の車に乗りこむ前。あの情けなく恐怖に怯え、コンビニの駐車場に入った瞬間ポケットから取り出し切っていた。


「――どうした」


脚が止まる。思い詰めた表情の私に柊也が戸惑いを軽く見せ、問いかけた。

「こっちに…来て」
 お願い。

俯く私の背中に手をくれる。ぽす、と柊也の胸に額を押しつけ、瞳を閉じた。心臓が握り潰されるようなとてつもない気持ち悪さに襲われる。必死で――亜希、しっかりして。今は。柊也と。彼といるのよ。自分をなだめる。帰った後の事は、帰った後に考える。そうだったで、しょう?それが出来れば、どんなに良い事だっただろう。不安が冷たい足の裏から忍びより、上がってきて思わずうっと小さく声を漏らした。彼が優しく問いかける。

「どうしたんだよ」

「怖いの」 「何が?」

「和樹の事」

――どう 怖い?

「きっとあなたに怒る」

彼は沈黙したあと、まあ、そうだろうなと、答えた。

「どうしよう、柊也」
 私ね。

「亜希…」

「もっとよく考えれば、良かったかもって」

「俺が誘ったんだぞ」
 諭すような彼の口調を無視し、私は続けた。止まらなかった。

「私は汚いの」
 彼が腕を掴み、もう一度名前を呼ぶ。

「柊也の事が好きでたまらないくせして、和樹の事を傷つけたくないとも考えてる」
 ずるいのよ。

 結局、自分のことばかり。

「嫌われたくないって、本当はまだ思ってる。心のどこかで。和樹にも、知紗にも」

「…」

「ママにも…」
 瞳が潤む。ママの事を、口にしたから。

「きっともっと、良い方法があったって考えてしまうの。そしたら柊也だって…」

「おい」

「いやなの、自分が!知紗が柊也の事、昔から好きだったって、知ってたのよ。知ってたのに、こんなふうにしてしまった。和樹のこと利用してまで――やっぱり私が好きにならなければ、って」
 彼が口を閉じた。

「思ってしまうのよ。一旦は忘れられても、どうせ無理。またすぐに、思ってしまう。わたしたち間違ってる――いいえ、私が、間違ってるって!」


瞬間、耳をつんざくような怒鳴り声が空中に舞った。雪がしん…と動いた気がし、身体が固まった―――黙れ。柊也の、声だった。顔が、歯がぶつかりそうなほど勢いをつけ、唇をふさいだ。彼の身体は、手まで震えていた。ばっと顔を離したあと、吐き捨てるよう彼は言った―――そんな事は。最初からわかってるんだ―――いいか。勝手に。勘違い、してんじゃねえ。

「俺が」
 首筋にあてがわれる歯と、唇。ものすごい力だった。

「ただお前を好きになったから」
 攫った だけなんだ。

「やめて―――痛い、柊也」

「お前が――俺たちが――正しいとか正しくないとか、どうでもいい」

「…」
 二度と 言うな。

背中にしがみつく。やっとの思いで、首元から彼が離れていった。肩で息をする、二人して。前を向き歩き出した彼の後ろ姿から、怒りの気配をびしびし感じた。私はまだ痛む首筋の肌を拍動する指先で抑えながら走り、彼の腕を取った。震えはもう、おさまっていた。

「…ごめんなさい」
 指を、軽く服の上で滑らせる。

「…」ああ。
 前を向いたまま呟いた。

と、いきなり、着いたと言われ私はふっと顔を上げた。黒に近いグレーの建物。英語で表記のある読みづらい石碑。そびえ立つそれの入り口を彼と二人で通り抜けた。ここが何かも分からないまま。

「柊也?」
 教えて。瞳でそう訴え、まだ涙の取れきっていない端をどうにかしようと瞬きをした。顔がこちらを向く。同じとこだ。お前と初めて、話した場所と。鬱陶しくじめっとしたものが徐々に取れ、私は思わず笑顔になった。本当?ああ。少し長い通路を進む。美しい、誰が描いたかも分からないロンドンの風景画や色の激しいそれがずらりと並ぶ。長い廊下が終わり、軋む扉を開ける。外観のわりに中はとても歴史的な古さを感じさせる雰囲気があった。

「公共図書館だ」
 イギリスの。白い息がまだ少し、彼の口から出ていた。

「俺も初めて来た」 「そうなの?」

正面には大きなガラス窓があり、しんしんと降る雪がそこから見えていた。もの凄く高い天井。階段が両端からついた日本の歩道橋のような二階部分が見える。一階にも、どちらも本当に沢山、夥しい数の本が棚いっぱいに詰め込まれていた。振り返り、彼の顔を見て笑った――すごい。すごいわ、柊也。

「ベルになったみたい」

「広いな。やっぱり」

彼ももう、怒っていなかった。嬉しい――そう飛びついてまたキスをする。さっきの出来事はもうこれで、どうでも良くなってしまっていた。見つめ合う、二つの瞳と。もう笑っていた。口づけを交わしたまま言う。

「こんな事しかできない」

瞳を伏せる柊也に思わず口に出す。「愛してる」。ノートに彼が書いてあった事は真実だ――そう考えながら重ね合わす濡れた唇。心にまた、甘い色した炎が小さく揺らめいた。彼の手を引く。ずいぶんと大胆になったらしい、暗がりの本棚と本棚の隙間、一番端の奥に引き寄せる。人影を確認していなかったのをいい事に、ブラウスに差し込まれた彼の右手を私は拒まなかった。下着の代わりに身に着けたニットのキャミソール。それが下ろされまあるい胸の下部の曲線に引っ掛けられる。硬い先端を弱くしごく指。それに舌。頭の中が溶けてゆくような、おぞましい快感。そして静かな空間、吐息さえも禁じられてるような。窓の外降り注ぐ雪のよう。が、理性はかろうじて勝利した。互いの衝動に。

「…」
 柊也の瞳がこちらを見る。首筋の紫色の――さっきの跡――痣を撫でながら彼はこう口を開いた。

「どうして、俺の前で呼ぶ?」
 和樹 と。

キャミソールを元の位置に直す。彼の頬を、両手で掴んだ。

「じゃあ、なぜ知紗と付き合ったの?」あなたは。聴いてどうなる事でもないのに言わずにはいられなかった。彼と額を合わせる。耳元で、乾いた弱く低い声。

「また喧嘩したいのかよ」

「…」 「どうすれば良い?」

背中に腕を回した。
「どうすればお前が安心する?」

「柊…也」

「ぶっ殺せばいいのか、中川を」
 やってやるよ。それでお前が、満足するのなら。

泣き出しそうな彼の顔を見つめ、また頬を掴んだ―――もう したわ。

「彼女のここに針を刺したの」
 あたまの中でね。

彼の額にキスをする。こらえきれず柊也は顔を伏せ、肩をゆらし笑った。そして気だるい表情と笑い声で呟く――「ああ言ったけど」――ほんとうにみっともないな、俺たち。


「そうね」


そう思うわ、と微笑み返した。

scene43

図書館の中にはいくつか日本語のものもあった。コーナーを見つけてしゃがみ込む。柊也が本棚のうち、一冊を指差した。

「カズオ・イシグロ」

「わたしを離さないで、ね」
 薄いカセットテープの表紙に見覚えがあった。

「読んだことない」 「わかってる」
 ふふ、と笑う私の肩に彼が腕を回す。舌を自分の歯で軽く噛み、片方の手をポケットに突っ込んだ。

「…何となく、ハッピーエンドって訳じゃあなさそうだな」
 絵からなにかを感じ取るようひとりごちる。

「映画もあるから観てみたら?確かに哀しいけど――美しかった、彼女」

「トミー…ルース…キャス」 「キャスが」

私は本を開き、柊也は美術書を見ていた。それから広い館内を全て見てまわった。時間の許す限り。時折はぐれて、探し見つける。それを何度か繰り返した。

「ほっとしてんなよ」

笑われる。そんなに悲哀の表情で彼を探していたのかと自分が恥ずかしかった。微笑みながらくるりと向きを変え子供みたいに鬼ごっこ――追いかけられ、はしゃいだ。捕まえられる。あの細いくせに力強い腕で抱き上げられて身体が浮いた。誰もいないのをいい事に、私達はきゃっきゃと二人で遊び回った。全てのこれからの待ち受ける運命を、この瞬間だけ、この、図書館の中でだけ忘れ、なかったことにしようと思った。やがて溶けてなくなる雪のよう。春さえ来れば。すべてが解決する…のさ。

全部溶けて消えてなくなる。そう言いたげに。


「捕まった」
 逃げられないわよ。

近づき、わざと手首を両方拘束するよう掴んでおどけてみせる。笑うと思ったのに、ふと瞳が一瞬伏せて、口はぼぉ…っとしてる時のよう軽く開いたあと、きゅっと閉じた。こちらを見、わらう。なんにも言わなかった。私は掴んだ柊也の手首を左手だけ外し、かわりにもう一方の自分の手首を掴んで見せた。

「こうする」

瞼に唇がつき音もなく離れる。やっと心から笑った彼は「帰るか」と手を引いた。気がつけば三時間以上も経っていて、ようやく私達は出口へと向かい館内をあとにした。

scene44

・12/28
(柊也が風邪を引いた。朝起きてとんでもなく鼻声で、私は下に降りて彼のお母さんに伝えると、ああ――毎年ひくのよと言われた。いつも帰る直前に。とりあえず大丈夫だからと言われ、柊也に下から食事を運んだり…看病したわ。すぐ治ればいいけれど。彼が寝ている間に部屋で小説を書いた。あの机でね。自分がまるで、物語のワンシーンの中にいるようでとても素敵だった。タイトルは『やさしい唇』。彼とわたしの思い出を反芻しながら、つくる、じゃあなく、思い出すように書いた。永遠の愛を。本だらけの場所で誓う男女を。)

午後だった。スタンフェルドのお爺ちゃんと香と三人でアフタヌーンティーをと、一階のリヴィングでテーブルを囲んでいた。他愛もない会話をぽつぽつ降らし、私はこの数日自分がとてもくつろげ楽しんだ事を、スタンフェルドさんに伝えて欲しいと香に頼んだ。お爺ちゃんは私を「素晴らしい娘だ」って言ってくれたらしい。

「柊也とはお似合いだとも」
 言ってるわ、と香が付け足した。

照れくさくなって少しはにかみながらまた紅茶を口に運ぶ。胸が少し、ずきんと痛んだ。理由なんて自問しなくても分かってる。急に悲しくなった私は彼女たちの前だが少し、ふさぎ込んでしまった。

「私は、素晴らしい娘でも何でもないんです」

聴いてほしいのに口に出したくない。そんな気分だった。だけど香のママとは全く違う雰囲気、自由な感性、詩的な美への理解。枠にとらわれていない、何者でもないありのままの自分を誇っているというような態度。そのすべてが私の固い心の箱を開けた。彼女は眉ひとつ動かさず、カップを口元に持ってきたポーズのまま優しく言葉を返してきた。

「どうして?」

薄く、穏やかに笑う顔。それはまるで自分の過去を懐かしみ、どこか愛おしく想うようなものだった。

「いけないんです。柊也とこんな、二人きりで一緒に過ごしたりしたら。柊也は私を香さんに恋人だって言ってくれた――だけど、ほんとは私、まだ別れていない人が、向こうにいるんです」

日がな罪悪感は増えてゆく、自己嫌悪のアクセサリーをつけ。チャンスが欲しかった。我慢してるもやもやした黒い物を吐き出し不安を拭い、それでも前に進もうと私はしていた。優しくしてくれる香に隠し続けるには、どうしても苦しすぎたんだと感じていた。彼女は微笑み続け、話の続きを待ってくれているように思えた。

 わたしは 変わった子供でした。

「物語の、空想の世界が好きで。あの世界にいられるのなら家から一歩も出られなくても全く平気な子でした。家でも学校でも、本を開いて。でもある時自分が、奇異な目で見られているって気づいたんです。他人からも、ママ…からも」

「…」

「11才の私はそれから本を読まなくなりました。堂々とは。変な子だって思われるのが辛くて、自分を貫く勇気がなくて。必死で自分を殺して、周りに合わせ生きてきました。そうしてそんな中出会った友達が、その、柊也の事を…ずっと好きだったんです。その子が想いを伝えられてないのをいい事に偶然彼と言葉を交わし、惹かれてった私は自分の気持ちを優先しました」

香は黙ったままだった。スタンフェルドのお爺ちゃんもいつの間にか私の顔を真剣な眼差しで見つめていた。

「だけど途中で。やっぱりいけない。そう踏みとどまって、近づいて来た先輩に寄りかかって柊也を忘れようと思ったんです。思ったのに――私は先輩にも友達にも、ママにも謝れないまま――気がついたら、ここに来ていました」

「もしかして、それで昨日喧嘩してたの?」
 私はカップを静かに置き、小さくはいと答えた。

「柊也には――俺が勝手にやったことだから、と怒られました。けど彼と楽しく過ごせば過ごすほど、愛しく思えば思うほど、同じくらい私は自分を責めてしまうんです。思っちゃいけないのに」

「えてして、普通の感覚だと思うわよ」

「…」

「意志が弱いとかじゃあなく――感受性が強く、繊細な子はどれだけ決意をしても迷ってしまうものよ。ああすれば、こうすればよかったんじゃあないのか、とね。仕方ないわ――自分が傷つきやすく、卵のようだから、他人の事もそんなふうに考えてあげられるのね」

「もし柊也が今までの人とおんなじだったらきっとこんな気持ち――一生分からないまま…でした」

「ありがとう。そんなふうにあの子の事を想ってくれて」

「向こうに戻ったらきっと、皆は柊也と私の関係を知る。彼が周りから白い目で見られたり、和樹に怒りをぶつけられると思うと、殴られるんじゃないかって考えると、耐えられないんです」

不安と恐怖が一気に身体から出てゆく。両手で顔を覆い少し下を向いた。

「柊也が苦しい、つらい思いをするのは嫌」

我慢できずテーブルに伏せた。スタンフェルドのお爺ちゃんは立ち上がり私の背中をさすってくれ、また涙はせきを切ったように溢れた。香は私の複雑な感情をたやすく解いて。経緯を、いとも簡単に理解してくれた。

「なるほどね」
 少し経ってまた口を開く。

「でも――柊也だって覚悟をして来たんじゃないかしら」
 二階へと続く階段をちらりと見て香は言う。それに。

「あの子って意外とドラマチックなのよ――和範とそっくりだわ」
 嬉しそうにそう言うとカップを重ね、キッチンへ行くのだろう、立ち上がる。毛先がふわりと揺れ、彼女の香水の匂いがした。振り返る。

「愛してると、言われたんでしょう?」

ノートのあの字を思い出しながら、小さく香に向かって頷いた。

「それなら信じて。どうかあの子を頼り、守ってもらって。あなたにできる事はそれと―――お母さんに本当の自分をさらけ出す事だけ。つらいだろうけど。それでも、自分の物語を愛さなくちゃ。本が好きだった、小さい頃からのあなたがそれを一番よぉく知っていると思うわ」

 愛さなくちゃ。自分の物語を。

香の言葉を頭の中で繰り返し、「はい」と私は返事をした。胸のつかえが取れ、ごちそうさまでしたと彼女に声をかけたあと、スタンフェルドのお爺ちゃんを抱きしめてから涙をふいて二階に上がった。彼の寝ているベッドに近づく。手を頬に引き寄せた。とても、熱かった。

「…泣いたのか」

「いいえ」 「鼻声」

手をおろす――あなたのが うつったのよ。

帰って何をするかをこの時決めていた。ゆっくり寝て、ともう一度手を握り、私は窓際の席に腰掛けまた続きを、彼との未来を書き始めた。

scene45

旅行に来て三日目の夜だった。

「出来た?」
 いつの間にか下から上がってきていた柊也が後ろから話しかけてくる。

「いいえ――まだ。帰ってから引き続き残りを書くわ。それ、なあに?」

「ギターだ」
 手を出し触れてみる。

「弾けるの?」
 彼を見上げ、微笑み尋ねた。

「少しならな」

そう言って暖炉の前の大きな椅子に座り込むと彼はギターを構えた。少し拙いがメロディが聴こえてくる。

「…」

脚を反対側の太腿の上に乗せ、音程を低くして歌った。

「Run to youね」 「ああ」
 滑らかに、あの声で耳に入ってくる。

「驚いた――上手だわ」

「普通だろ。男の声じゃあイマイチか」

「そんな事ない。素敵よ」
 小説を書く手を止めて、柊也の方を向いた。

「もっと歌って」

彼はん…と少し考え、あのノートに書かれていた彼の一番好きな歌をうたっていた。嬉しそうに歌いながら緩む口元。愛さずにはいられない。愛することを、やめられない。歌が終わり、独り言のよう呟く。

「ずっと」
 こういう恋がしたいと思ってたんだ。

「…」

「知りたかった――愛してしまうっていう気持ちを」
 父さん達のように。

「素敵ね…」 「…」

「歌って柊也。聴きたい」
 鳴り響く音色。

「お前と出逢って」
 彼を後ろから抱き締め、なあに、と囁いた。

「映画も現実もそんなに変わらないのかもって思ったよ」

昨日までのことは全て歌になり
また新しい人生をはじめられるの


愛してしまうって気持ちを。ずっとずっと、知りたかったんだ。夜は更けてゆく。旅行中で一番星の綺麗な夜だった。起きれば彼がいる。そんな夢を、ずぅっと見ていた。そんな現実がもう、終わる。二人だけの世界が。

わたしたちは冷たい金属を両手に繋がれ――罰を受けるのだ――愛し合った罪、嫌になるほど交わしたキス。それでも幸せだった。彼といられること。そしてそれはこれから先もずぅっと変わらない。もう、自分に嘘はつけないのだから。あのベッドの中で求め合い会話をした、秘密の。この世で一番怖いものと初恋の相手の名前。色んな事を話し合った。

「タイタニックのジャックね。しばらく金髪の男の子が好きだった。ジャックを見てから」
 バックストリートボーイズのあの子も。

「あの髪型なら誰でもよく見えたんだな」
 柊也が笑う。

「そうよ。だから小学校で、好きな人にバレンタインにチョコをあげた覚えもないの」

演技はいつから?――中学に入ってから。映画は?もっと前?そうだな。父さんが死んでからだ。ブランケットに二人で包まる。近所の大学生がよく貸してくれた。結構いい趣味してたんだ、今思うと。私の知らない彼を知っている人がとてつもなく羨ましかった。もし先に私が彼を見つけていたら…なんて。亜希。柊也の呼ぶ声。


「お前、脚本家になればいいのにな」
 台詞の部分がすごく良い。好きだよ。

「考えた事ないわ」
 夢を持ったことすらなかった。文章を書く事で。

「あれは皆に秘密の、幸せの時間だから」


「だからこそだよ」
 俺も――と身体を起こす。


「誰かに言おうと思ったことはないよ。ただ、そうすればずっと好きな事をして生きていける。24時間365日…どんなに、良い人生なんだと思うよ」

夢。自分の胸の真ん中で言葉が渦巻いて、ふわり、と消えてゆくのがわかった。私――書いてみたい。彼に笑いかける。

「ああ。やれるさ、今の亜希なら」

「あなたが演じてくれるんでしょう?」
 まあ ね。



帰ろう。
夢から、醒めないうちに。夢なんかじゃあない。あの飛行機の中で寝ぼけながら言っていた自分に返事をするよう、柊也は言う。頬を軽くつねり合い、私達はロンドンにお別れを言った。柊也がまた呟く、あのときみたいに―――俺がそれを演じて、幕が下りる直前。

「ステージから一番遠い席に、笑ってるお前を見つけるんだ」

近づいていく。運命が。

scene46

自然に肌に馴染むような空気。雰囲気と匂い。意味をきちんと理解できる、言葉たち。

私は恐ろしいほど冷静だった。飛行機の中から空港、段々と見覚えのある風景へと変わっていっても、心は微動だにしなかった。自分でも目を丸くして驚いてもいいくらい――もちろんそんな顔はしない――こんなにも強くなれた事が、信じられなかった。

「…」

沈黙だけど、つらくはない。汗ばむ事も出来ない両の手の平を、柊也とかれこれ三十分は繋いでいるところだった。

「…帰って一番に」
 ママに 話すわ。

「柊也の…ことも」
 軽く指が動き、また元の位置に戻った。


ママの次をどうするかは正直、あやふやだった。学校に行ってしまえば知紗はもう何かしら行動を起こすだろうし、今の私には弁解する気も謝罪する気も、なかった。堂々としようと決めたのだ、もう。愛してしまった――そしてその相手が彼だと言うことを、態度で示そうと。知紗の怒りを避けようとは思わないくせ受け止める気もなかった。こればかりは彼女と会った時にしか、わかるはずもない。なんて自己中で自分勝手――この・裏・切り・者。

どうでも、よくなった。柊也が欲しい。

ママの事が終わったら携帯の電源を入れて――和樹――今頃どうして――ふっとこちらの世界に戻り、瞬きを何度か繰り返し、「後で」と自分に言い聞かせた。小説には細やかな感情表現はあっても、その瞬間の声のトーンや、顔筋の本当に微妙な動きはない。見えないし、聴こえないからだ。当たり前の事実。だけどそれが、例えばホラーにある殺害シーンなんかや三角関係のばつの悪すぎる口論や弁解、それがが肉体的に影響を与える事はない。娯楽としての事実。触覚と視覚と聴覚に直接訴えかけられる事はなく、リアルな不安や恐怖を除いてその場所にいれるのだ。自分は主人公になれるのに、自分のことではない。それが嬉しい時と哀しい時もある、だって物語だとしても、ナイフで切り裂かれたり自分の親友に恋人を奪われる人間は、ちゃんとそこに存在しているのに。

「いいわ。一人で」

「いいよ。一緒に謝る、俺が」
 一緒じゃあないといったふうに彼は繰り返す―――「俺が謝る」。

「いい」

自宅の少し先で何度かそれを繰り返し、結局家の前といっても少し離れた場所で彼は母、香と待ってくれた。私の問題なの。柊也―――あなたと出逢う、前からの。ずっと前から。

きい…と、軋んだ音のする門を開け、二、三段のグレーの短い階段を上がる。もうずっとずっと長い間ここに来てなかったような気がしていた。シルバーの縦長の扉の把手を掴む。金属の心無い冷たさが伝わった。開ける、扉を。久しぶりの家の匂い。リヴィングの電気がついていた。

「ママ」

開いてもいないドアへ呼びかける、には小さすぎた声。手が震え出した。きっと怒りを通り越し至って冷静に問い詰められるのだろう。「どういう事?」と。玄関の扉をなるだけ静かに閉める。気づかれないように。まるで今からママをこっそり、殺してやるみたいに…恐ろしく冷静だったなんてあれは嘘。本質じゃあない。私の顔は青ざめ、恐怖に心臓をこれでもかと支配され、呼吸を乱していた。ママに言う。すべてを。この五年間ずっとそれができなかったのに――今更どうしろ、って?

「セックスしたくせに」
 私は私にぼそりと吐いた。

決めたんでしょう。表情を作らず勢いに任せ、だけどゆっくりとリヴィングのドアを開けた。そしてソファに座っている、紛れもないママの後ろ頭に話しかけた―――ただいま。ママ。ママはくるりと振り返り、はずんだ声でこう言った。

「――お帰り!旅行、楽しかった?後で写真見せてよ!」
 知紗・ちゃん・達・との!

家をではなく、ママを間違えたのかと思い私は面食らった。ママは何くわぬ顔でいつも通り、「お風呂も入ってるから」と言い、またテレビに目を向けた。すぐ声を返した。「お風呂、入ってくる」と脱衣所に駆け込み、瞬間、はあ、と膝から崩れ落ちた。脚は暫くがたがたし、止めようもなかった。そしてリヴィングからママの「まだお湯、熱いかもよ」という声に何処から出たかも分からない素っ頓狂な「うん」という音を出し、壁に凭れかかっていた。瞳を閉じる。考えた。綺麗な水に身体を沈ませようと。それで罪が流れる訳じゃあないけれどそう、思っていた。

scene47

「毎年思うのだけど」

母の声で振り返る。台詞が耳に入らず、仕方なく巻き戻そうとリモコンを持ちながら応えた。

「何が?」

「映画と結婚でもしてるみたいね、あなたは」

「五日間一度も観なかった」

「だから、よ。少し離れれば、もういいってなると期待しちゃうわ親としては」

「良いだろ、別に…」

「帰った途端これ。もう慣れたわ」

イングリッド・バーグマンがなんて言ったか、そっちに集中しようと努めた。珈琲片手にリモコンでそそくさと巻き戻しを高速でする。

「亜希ちゃん――大丈夫だったかしら」

「ああ」

五分。出てこなければ、大丈夫だからと苦笑いでそう告げられ、黒い玄関の向こうへと消えていった亜希。

「正念場ね、きっと。でもあの子なら大丈夫よ」

「…ああ、上手く伝えられるといいけど」

「私も付いてる。連れてった張本人がね」

「母さんは悪くないよ」

「世間一般的には重罪よ――じゃなきゃあ、誰がどうやって車を運転して空港まで?」

「…」

「事情を知らなかったとはいえ」

「感謝してるよ」

少し間を置き、微笑む母。
「本当に」
 亜希ちゃんは――素敵な子よ。

「…」

ありがとう。そう 思うなら。
「演技は諦めて―――柊也」
 おやすみ。ゆっくりね。

「母さん…も」

扉が閉まる音の後、もう一度巻き戻す。会話の途中で涙ぐむ「イルザ」を見つめ旅行中の彼女を思い出した――もっと。いい方法があったかも、って――心で抱き締める。その後我に返った。課題を乗り越えなきゃいけないのは、俺も同じだよ。お前だけじゃあ、ないんだ。決して…。

「信じるしかできる事はない」
 お前だけじゃあ ないさ。

ふと、父さんに亜希の事を教えたくなり窓際に寄り空を見上げた。濃ゆいネイビーの暗闇、ひときわ輝く二つの星を見つけこう話しかけてみる。

「父さんも信じ続けたのか――母さんを、見つけるまで」

ちら、と瞬いたそれが「ああ」という返事に見えたが、まんざら気のせいじゃあなさそうだった。

「母さんを説得してくれないか、父さん」

瞳を閉じ、遠いところにある隅の記憶から彼の声を呼び起こす。悪いな、柊也。私にも責任はあるけれど―――君と香。そこにいるのは、お前たちだけなんだ。

私に何かできる事があるとするのなら――ただただ君たちの。愛するお前たちの、美しい星である事それのみだ。

「芝居中に死ぬなんてな」
 とんだとばっちりだ。

「ごめんな」とまた星が瞬いた気がし、俺はふっと微笑み返してカーテンを閉めた。いいよ。

「信じ続けてやるさ」

scene48

気が気じゃあなかった――熱すぎる湯船に浸かった初めの瞬間のみ、このかなりといっていいほど謎に包まれた状況から逃れられたけど、皮膚が慣れると同時にそれは終わった。知紗はなんにも言わなかった。ママに。それだけは、明らかだった。二人で口裏を合わせているのか、とも考えたがあの二人がそこまでの仲とは思えないし、ママが隠し事をするようなタイプではないと私は分かってもいた。はいそうですか、と、裏切り者の――例えそれが自分の娘でも、娘だからこそそんな状態をほおっておくような女性ではない。対人関係を大切にし筋の通らないことや常識からひどく逸脱する事を世間の評価を、激しく気にする。至って「普通」の母親なのだ。リヴィングへ行きやたらと旅行の感想を写真をと求めるママを見、やっぱり知紗は何にも言ってない――あろう事かママの話から何かを察し、話を合わせ家を出ていったらしかった。

(亜希ならもう、出ましたよぉ。すっごいああ見えて楽しみにしてたみたい。やだあ、もう。)

「失礼しまぁす、って。知紗ちゃんも嬉しそうだったから――ああとっても楽しい五日間だったのねって、思ったの」
 頬杖をつきそう笑いかけるママ。

「う…ん」

「?どうしたの、お腹でも痛い?」

ママの瞳がこちらに留まり、焦って疲れちゃっただけ、楽しかったけどと咄嗟に笑顔を作った。年越しは家で過ごせて嬉しい、とさり気なく言い、私は「もう休むね」と部屋へと上がった。夕飯食べるでしょうと言うママの言葉に階段の途中で「うん」と返事をする。食欲はなかったけど怪しまれぬ為の口実。小走りをし自室のドアを開ける。空気感で、誰もこの部屋に入っていないような気はした――確かに家を出る時のままの状態で、私はほっとしていた。あのボストン・バッグもベッドの上に置いてあるままで、冬の空気にさらされ家の中とはいえ革の把手部分は外気と同じくひんやりしていた。

「…」

手をバッグのハンドル部分から離し、横に腰掛ける。和樹と電話で会話をしていたあの五日前のよう。知紗に連絡をするべきだろうか?彼女はあの日、私に何を?柊也の事であるのは間違いないけど、どうしてじゃあ、ママに?

ママに 何にも…?

思考を巡らせ、私は無意識にバッグのファスナーを開けていた。瞬間、背後から鋭い刃物で突き刺されたような冷たい嫌悪が全身に走る。心臓が縮み、得体の知れない汗がじわりと吹き出し始めた―――ノートが、ない。

「柊也」

どうしよう、どうしよう――ねえ、柊也?おもむろに携帯を取り出し電源を入れる。連絡先も知らない事すら思い出せないほど私は心を揺さぶられ、あのまあるい瞳をしたウェーブがかった髪のシルエット――知紗そのものに支配されていた。画面に「和樹」の文字が一瞬見え、小さく悲鳴を上げ、携帯を床に落とす。乱れた息を整え、これから迫りくるであろう現実にどう立ち向かうのかとばかり考え、大丈夫、大丈夫よと自分に声を掛ける一方で、私は紙の中の世界がどれだけ甘い夢を見させてくれていたのかと言うことを、嫌と言うほど思い知らされ続けのだった。

scene49

祝福のような快晴だった。年が明けおめでたいとはいえ気温は厳しいほどの寒さ、四季がある国に生まれた自分は幸せだと思うけれどどれだけ手入れをしようと手の甲が時折、痛んで気づけば軽く血が出るほど荒れる事がとてつもなく嫌いだった。

ハンドクリームを塗った後、はぁ――と湿らせる為に吐息を吹きかけ手袋をする。学校指定の黒のコートを羽織り、軽くも重くもない足取りで学校へと向かっていた。髪は下ろした。何せもう、走り回って毛先を気にしたり、うなじに張り付く髪――汗のせい――を気にしなくていいのだ…編んだり、巻いたり、留めたり、結んだりせず、ただ心と同調さすような素髪のまま。櫛を入れた位の、自然体の。


―――明けまして おめでとう。


「回線混むんだ。早めに送ってやろうと思って」
 カウントダウンの数秒前だった。

和樹の笑みを含んだ声にふふ、と答える。おめでとう…ハッピー・ニュー・イヤー。今年も、よろし…く…ね。もう記憶になかった。どう頑張っても、私はこの電話の向こうにいる相手だけは傷つけたくないらしい。口が自動操作のようにぺらぺらと動き、翌々日に会う約束をし電話を切った。伸びていた和樹の髪は出会った当初のあたり長さに戻っており、色が少しくすんだベージュになっていた。動揺し―落ち込んだあと―仮面を被る。一連の作業は私自身の為。柊也と逢えないあいだ、心の忙しい日々が過ぎた。

仮面を被ったままのキスなど、どうって事はない。救命のためのマウス・トゥ・マウスのようなもの。和樹に抱き寄せられ瞳を閉じる。ニット――その下に着たハイネックのシャツへと潜りこもうとした手をそっと制した。ごめん――アレ、なの。露骨な表情を出すわけでもなく和樹はそうっと退いた。素肌を晒すわけにはいかない、まだあの時の柊也の、怒りの痕跡が残ったままなのだから。

「昨日さ」
 話題を変えるよう和樹が話し出す。

「少し貸して貰ったんだ、車。―市まで運転した」

「危ない」

「ばあか、死ぬほど簡単だぞ。まあ免許取れなくなるのは困るからな。もうしねぇけど」

「せっかくもうすぐなのに」
 お前も、乗せられなくなるしね。

架空のボールを持ち架空のゴールへと投げ込む。空中を見つめた後、こちらに視線をくれた。小さく流れてくる音楽だけが二人の耳に聴こえていた。しばらく見つめ合っても、もう一度キスされても、浮かんでくるのはあの黒い髪の細い身体の天使ひとりだけだった。本当に、帰り間際まで私は和樹にとって「いつも通り」でいられた―――大した事じゃない、とでも言いたげに、私は爽やかに彼に告げた。「部活、辞めたんだ」。そしてなおも爽やかに――ごめんね――もう…「会えないの」。彼の返事も待たずに。声は震えなかった。が、本当に意に反して、今度は右目から涙がこぼれた。ぎりぎり彼から見えない角度まで顔をそむけられたと思うけど自信はなかった。そしてようやく、出来なかった彼からのメッセージを無視する行為が始まる。冬休みが残り三日ほどになり、和樹からの連絡は途絶えた。起爆スイッチを押させたのはきっと、キスのせい。そう思った。

校門をくぐる、少し遅めの到着。和樹。誠実と、周りの友人から譲り受けた少しの軽薄を併せ持つ男。和樹はきっと、ママの好みの青年だったろう。常識的で良い意味で人目を気にしない、女子だらけの教室まで来ることなどきっと容易い人。話があると言われたら素直についてゆくつもりだった。けどそれはなかった。不思議と、知紗の姿もなかった。不安と安堵を感じる自分に少し苛立ちを覚える。今日の空は快晴、きっと全ては上手くいく――今がどうであれ。物語の結末を決めるのは自分なのだ――そうよ。

それが不安をかき消す為の言葉であったことは間違いなかった。忘れかけようとしていた。あんまり、空が綺麗だったから。罰はまだ受けてないという事を。和樹にだけは真実を話すまいとしていた計画を狂わし後悔するのは、もう まもなくの事だった。

scene50

「和樹くん」

始業式の前声をかけた―――あいも変わらず「おぉ」という返事の後、ひと呼吸おいて本題に入ろうとする。髪色を変え夏より少し前の姿に戻った男、畑中和樹とその周囲にいつもの二、三年がいた。なんとなく「今じゃない」と思った。

が、早く二人になる必要があった――亜希より先に。それだけが先決、目的であって、彼女の行動の有無にかかわらずそうする必要があった。だが少し、時間がかかりそうだった。教室から歌いおどけながら和樹を羽交い締めにする三年の男に彼はいつもらしからぬ舌打ちをし、なんとなく察した。詳しく、までとは言わないが。でもそれは関係ない、俺はどのみち、この男を苛つかせる事になっている。そのうち二年が話しかけて来て何かしら適当に会話をする。笑顔だって見せる。役にはもう、入っていた。いつでも良い。


(演技は諦めて―――柊也)


「……」

「おぅい、聴いてんのか?」

「あ…ぁ」

二年の男のたれ下がった目尻と、それに反するようぽかんと開き口角の上がっている唇。とぼけた顔が目に入った。

「つまりなぁ」
 お前のロング・シュートのひけつ――それはスニーカーだ。

ああ、そうだ魔法の靴。俺のだけ皆と違うんだぜ。

「図星だろう、この野郎」

にやにやとする、本気かそうでないか分からないふざけた言葉に合わせわざと「ばれたか」といった顔をし微笑んでみせる。ちらりと和樹を見やった。彼も、こちらを見ていた。予鈴がなり周囲がぞろぞろと始業式へ移動を始める中、俺たちはいつのまにか睨み合っていた。

「来い」。

先に口を開いたのは和樹の方だった。わざわざ教室の前まで来たのはこれが初めてで、勘づかれるのも無理はなかった――聴いてやる――言いたい事が、あるんなら。「来い」という言葉に返事はせず、肩を揺らす和樹の後ろについて歩いた。教室がだんだん空になっていく。ひとつの箱に集まる為に。人の流れに逆らうよう歩く。あっれぇ――和樹ぃ、どこ、行くんだよ?――無視したまま、俺の方を一度振り返る和樹。廊下の窓の外を静かに見、また前を向いた。中庭の中央の大きな樹が風で揺れていた。降り注ぐ太陽からの金色の愛は俺の首から下を、和樹の背中の真ん中あたりを照らしていた。


端まで着く。階段を降り、渡り廊下を出て上履きのまま誰もいない中庭の隅の方へと辿り着く。和樹が校舎に背中を預けた。

「何だよ」
 低く、厳かな声だった。

「もう分かるだろ」
 あいつの 事だ。

瞳で訴えかけると和樹は何かを認めた。観念したような、それでいてあからさまに機嫌の良くない態度。それは今この瞬間からのものじゃなさそうだった。

「はっきり言えよ。苛つかせんな」
 入り込め。そう、もっと。もっとだ。

「知ってるだろ、和樹くんも?」

台詞を読み始める。目元の力を抜いてそう微笑み語りかける。ここはなるだけ、囁くように、だ。まるで子供をあやす父親のよう。中庭にあちこち舞っていた和樹の瞳はこちらに定まった。無言のまま。なおも突き刺すような機嫌の悪さ。

 子供の頃。
「トランプの絵柄を一度観察してみた事があったんだ」

「…」

「そして、気づいた。スペードとハートのジャックだけ、なにかが違うと」
 和樹は黙ったままだった。

「俺はそれを二枚横に並べてみた―――確かに―――変じゃあ、なかった。なぜなら権力同士が争うのに理由は要らないからだ――けど、何かが足りないと思ったんだ。なにかが…そう考えながら俺は、左方向を向くハートのジャックを、後ろに後退らせた」

「お前…」

「俺は間にクイーンを挟んだ――一番芯の強そうな顔した――ダイヤのクイーンを、だ」
 見事だったよ。二人の男の瞳が。彼女を見つめて、その後ろにいる忌まわしい男を視界の淵で見てるんだ。

「俺たちがそれと同じだ、って?」
 和樹が微笑する。狂ったほど冷静に。この男を馬鹿にしていたからこんな台詞を選んだのではない。むしろその逆だ――まったく、逆。自分の考えは間違いじゃあなかったのだと考えている間に和樹の手は俺の制服のシャツの胸部分を拳で掴み上げていた。糸がぷつ、と切れる音が肩あたりから聴こえた。

「お前――殺されたいらしいね」
 もうすぐだ。タイミングは合わせる。一発殴られたくらいで血まみれになるんじゃあ、絵面がおかしい。

「手、引けよ」
 俺が もらってやる。

拳が右の頬めがけて飛んでくる。頭の中が揺れた。俺は中庭の地面の昨日少し降った雨で湿ったそこに倒れ、すぐに身体を起こした。唇が切れていたが、出血は少しで、完璧だった。今度は足が飛んできて、また掴まれ無理やり身体を起こされた。

「言えよ。俺が最初っから狙ってたんだ、って。お前のあの時の態度がそう言ってたもんな?」
 柊也。

「和樹くんに本当のあいつは分からない」
 これは台詞じゃあなかった。

「うるせぇ、分かるだの分からないだの。アタマ、おかしいのか、てめえ!」

狂ったように殴られ、まだいくつかあった台詞が段々と飛んでゆく。いつかの亜希のよう、鼻から流れる血が凍てつく草の上に飛び散った。寒さで切れた口の端が痛む。が、身体はちっとも冷えていなかった。怒鳴る和樹を力を振り絞り殴り返した。あの宙に舞うバスケット・ボールのよう。思っていたより気持ち悪い感触じゃあない。馬乗りになられる身体。年下に殴られる気分の方が、よほど気持ち悪いんだろう。怒りに任せた拳はやまなかった。が、何も言わない俺にこの体の上の男は瞳を閉じ、呆れ半分でこう言った――「なんだってんだよ、お前は?」。眉をひそめる和樹。まだだ。

血の混じった唾を勢いよく自分の顔の右側に吐き出す―――見れるなら、見てみろよ―――あいつの首元についた「跡」を。歯が傷に触れ、じんと痛んだ。

「見れるなら、な!」

 声の限り叫べたのはこれが最後だった。拳の雨がまた吹きさらし、何故か、眠たくなりかけたその瞬間だった。強いスプレーの香り。外国のキャンディか何かの。毒々しい、あの色のだ。ヒステリックな声が聴こえた―――やめて!

「やめて、先輩!」

カット、だ。幕が降りるよう、カメラの電源が切られるよう視界は暗闇になった。瞼の裏で想像のなか蠢いていたカメラを片付ける。誰かの泣き出しそうな声と美しい鳥のさえずり、そして和樹の白く荒い息づかいだけが、鼓膜に響いていた。もう一度瞳を開ける。向こうの渡り廊下の奥からダイヤのクイーンが走って来ていたのを確認し、その顔が恐怖に歪む前に俺は瞳を閉じた。あの、芯の強そうな顔の。

scene51

「―――ママ」

振り返る。小さく、弱々しく呟いたその声に。久しぶりにまともに見た娘のわたしの顔はまだ16才だと思えないほど老け込み、疲れ切っていた。数日泣きはらしそれでも眠れずに夜をまたごし、文章も書いていないのに食欲は私の中から出ていった。何度も叫びを聴いた。私自身の。苦しいの――好きに、なりすぎて。

和樹のあの優しかった手は、柊也の顔を悲惨なものに変え、青い痣と鼻と口の中大きな切り傷を創った。彼を見た瞬間の、あの脚の力が抜ける恐怖。おぞましい血――知らない、和樹の顔。中庭の出来事に気づけたのは、教室に行く途中で彼女を見つけたからに他ならなかった。


「知紗」


びくついたのは彼女の方だった。私の落ち着いた声と表情。それにあれ―――ノートの事。まだ名前は呼ばれた。亜希、と。声は普段の彼女のニュートラルなトーンから、驚くほど下げられていた。ノートの「ノ」の字を発音する時、一度だけ動悸がした。が、構わず続けた。

 返して。ノートを。
「知ってるんでしょう」

もう二度と、元には戻れない。直感が私を彼女の前で裸にした。彼女とつきあうようになって、初めての出来事だった。期待をまったくしていない訳じゃあなかった――どんな人間のどんな状況でも、やはり希望は必要だからだ――私は物語を愛している。そして、これが物語であるのならば、彼女は少しでも涙を見せ、こう言ってくれるかもしれない、と。

どうして――言ってくれなかったの?

憎んでいた訳じゃないのだ。元々は。うわべでもそれなりに関係を続ける事ができたのはやはりそれなりの理由があるはずなのだから…が、「あたらしい」藤本亜希を目の前にし、知紗はあからさまに嫌悪の表情を見せた―――すごい。

「開き直るんだ」
 彼女は笑った。

恐怖がまた足元からぞわ、と押し寄せてくる。

「―――返して」
 ノート を。

瞬間、ぴくりと知紗が何かを捉えた。窓の方へ小さな身体を寄せる。はっと手で口元を抑えたあと、今度は怒りをはっきりと滲ませ私に吐き捨てた。

 言っとくけど。
「あんたに泣く資格なんてないから」

みぞおちを殴られたような気分だった――嘘つき!――語気強めに吐いた後、彼女は何処かへ去った。ふらつく身体と足取りで、知紗が目を向けていた方に顔をやる。彼女が中庭へ降りていく所だった。そこにいた、倒れたままの柊也に駆け寄り、その後見えた和樹へとしがみつく。三階の締め切った窓なのに知紗の声ははっきり聴こえた――やめて。先輩、と。

あとの事はもうところどころしか覚えていなかった。知紗にふたつに引き裂かれた精神のまま私は気づけば中庭へとテレポートし、彼女と激しく口論を繰り返した。そしてあのノートがついに黒い合皮のバッグから出てきた、キーホルダーと落書きだらけの。知紗が私にぶたれた頬を押さえる。「柊也が、死んでもいいのね?」。四つの瞳から涙が溢れた。和樹が座り込み、顔に手をやる。そして、私達は包囲された。中庭に、死角などなかった。

「ただで済むと思わないで」
 有頭までもが私達を怒鳴りつけた。

柊也がゆっくりと身体を起こす――何かを喋ろうとした途端、座っていた和樹が静かにこう言った。


「うるせえ」
 説教する気かよ。

 お前らもう、他人にこんなに興味持てねぇくせに。


虚ろな瞳で飛び出した和樹のその言葉は有頭の心臓めがけ突き刺さった。その日、彼女は職員トイレの少し開いた扉の向こうで鏡に向かい、涙を流していた。私は扉も閉めずに、そっとそこから立ち去った。


私たちは勘がいい。直感どおり、二度と知紗と元の関係に戻ることはなかった。なにが、悪いの?本当の居場所を欲しがる事が。私はこんなぼろぼろの顔でママにすがりつこうとしていた。まさに、今。

「やっと、こっちを見てくれた」
 ママのほっとした顔。

「何か飲む?ココアでも、入れようか」

笑顔のママに私は頷きリヴィングのテーブルに座った。彼女と向かい合う。ママは自分にも珈琲を入れ、とん、と私の前にココアを置いた。紫のキラキラのラメ糸のニットがとても可愛かった。

「ありがと」

「…どうしたの?変よ、亜希」
 明るく問いかけるママに私は感情を隠さなかった。不自然だと思い始めてもいた。だって――家族なのに?ねぇ――ママ?

「何かあったの?悩みなら聴くよ」

唐突に喋りだすしかなかった。ぼさぼさの絡まり放題の髪を全部後ろに流す。私の。運命の日。

「知紗と喧嘩したの」
 ママの珈琲を啜る音が止む。

こちらを凝視する。いま、なんて?瞳が訴えかける。「え?」全てに対しての疑問符、態度。内容。喋り方。表情。全てに対しての。ママの顔からは紀元前ぶりに、明かりが消えた。

「もう二度と関わることないと思う―――叩いてしまったし」

「あ…?」

終始口を開けたままカップをおろそうともせず、ママは私を見つめ続けた。この子は――誰なんだろう?少し、怯えているようにも見えた。構わずに続ける。ココアが恐ろしく冷めていった。

 ―――私ね。

「ずっと隠れて、ママの好きじゃない事ばかりしてたの」
 息を吸うのに、精一杯だった。

「ごめんねママ」
 嘘を ついたわ。

「知紗が好きだった男の子と」

「旅行に行ったのよ、ママ」
 部活の皆となんかじゃなく。

ぺらぺらと喋る。錯乱している時に限って、口から出まかせは上手くなる。けど、全部本当の事だった。

「死ぬほど幸せだった」

「楽しかったわ」 「物語が、次から次へと浮かんでくるし」 「図書館も…素敵だった」

「別の誰かと付き合ってても」
 ちっとも頭から離れない人っているのね、ママ。


瞳を合わせ、微笑む。彼女はニワトリになっていく。首から上…珈琲を持つ、驚いた・ニ・ワ・ト・リ。


 「こうする」。

あの、ロンドンの図書館で追いかけっこをして柊也を捕まえた時のキス。帰るか…うん。夢なんかじゃあ、ないんだ。永遠にあそこにいれば良かった。ずっとずっと。二人で、いればよかった。

 亜――希。

可愛い、知紗の顔。和樹――寒くないか――今より赤みの強い茶髪。はい。あのときの、私。まだ「きれい」な私。伏せた顔にあてた指の隙間から雨が降る。パック――助けて。血まみれの柊也の、シャツの襟。

「ごめんね…ママぁ」
 園児のようだと思った。

けれどもう、人前で声を上げて泣いたのはこれが初めてじゃあないのだ――ママの顔は、見れなかった。涙で滲んでいたし、見る気もなかった。「ママ」。教えてよ、私をうんだのなら、わかるでしょう。

「どうしたら息が出来るのか教えて」

がちゃん、と椅子から立ち上がる。逃げるよう自分の部屋へ駆け上がり、ドアを静かに閉め鍵をかけた。なんて情けないの、旅行から帰ってきた時も今この瞬間も。みっともないと分かっていながら、謝ることも人に合わせる事ももうできない、誰かを、なにかを愛することももうやめられない。

「やめられやしないのよ」
 服を着替え、ひとりごちながら家を出た。

scene52

「教えて、このキスの意味を」

「彼の父親は窓から飛び降り、永遠の中休み――コーヒーブレイク――をとった」

「私を愛しているなら追いかけてきて」

「お父さんのすることに間違いはないよ」

「恋とは神の…意志…なのだから」

お気に入りの文章をぶつぶつ独り言のよう呟く。ごみを払った床に座り、足を交差させて脇に積み上げた本を私は読み漁っていた。

「…それにはどういう意味があるんだ?知ってるのかい――知ってるんだね?」
 キャロル。

馬鹿みたい。早く、こうすればよかったのだ。知紗の時もママの時もした期待。何の意味も持たなかった。言葉は選びたくとも頭に入っていなきゃ使えない――想っていないならなおさら。だから仕方のないこと。ともあれ、本を読む時間は増える。感謝すべきだろうか?皆、本当は、好きなことを普通にすべきなのに。

「いいわ。したければするから」
 その前にもう少し、今まで読めなかった分だけの物語を。

今日はいつものあの席に先客がいて、交換日記を挟んでいた本の棚の後ろで一人くつろいでいた。薔薇が、凄く綺麗だった。ものすごく綺麗だった。季節は移り変わる。私だって自然の一部よ――忘れる事ができるの。いつも同じ自分じゃあ、いられないの。涙はすっかり止まっていた。立ち上がり、本を入れ替えに行く。

「楽しい。やっぱり」
 ふふ、と一人で笑みがこぼれた。

ふとこちらに向けられた大きな本の表紙に気づいた――少し先、瞳の前にクリムトの画集。目線の少しだけ上に、それは現れた。はっとする。

「柊也!」

「見る前にこれを」
 すげえ、顔なんだ。

せめて美しい絵を――と、片手で本をひらひらさせる。

「馬鹿言わないで。平気なの?外に出て?」

「ああ――やっと全身いてえのが治ったからな。和樹くんは一生分のストレス解消した」
 本の奥でふっと笑う。

「こっちに来て…ごめんなさい」

会えると思っていた。あの中庭の日からもう、一週間以上は過ぎていたけれど、ここにいれば、私達は約束なんてしなくても会えると分かっていた。絶対に、ここで。彼に両手で触れる。噛むなよ。痛いから、という笑い声。

「いい。こうしてるだけで」

「俺が嫌なんだ」

唇が、柔く軽く触れ合う。したいという意味だったらしい、長い長い静かなキス。唇の中のざらついた傷をそっと優しくなぞり、動物のように彼を舐めた。

「――愛してる」
 亜希。

「私もよ」

いろいろな人を傷つけた。

けど、それでも触れ合う。足りないから。ノートなんかもう要らない。彼がいるのなら。行方の分からない、あのノートなんか。

 肩にかけた手を降ろさずに言う。
「できたの、小説。あのいつもの本に挟んであるから」

「読んでいいか?」 「もちろん」

微笑み、二人でノートを――タータンチェックのあれではない黒いノート――取り出し並んで座った。うっすら残る青紫の痣のついた瞼をおろし、彼は頁を開いた。

「…」

反応が気になり柊也の顔をまじまじと見つめる。傷跡に触れないよう綺麗な肌の部分をそっと撫でた。溜め息を鼻から吐き、また手を降ろす。待つ間黙っていた。彼は行ってしまったようだった。紙の中の世界へと。

「終わった――考え事?」

戻ってきたのは三十分を過ぎた頃だった。案外、早い方だと思った。考えていたよりも。

「ううん。大丈夫」
 彼の手からノートを取る。

「PCが欲しい。もう、楽しいけど手が痛くて。ね、どうだった?」

「よかった…すげえ、良かったよ」

もう一度ノートを取り、開く。そして身体を伸ばした後本棚のへりに手を掛ける。傷だらけの顔が、幸福そうに笑っていた。瞳の中の湖は美しいままだった。

「わざと…怒らせて殴らせたんでしょう」

「さあ。そんなつもりはなかったな」
 
「分かるわよ」
 そう言うと、一瞬だけ困ったように笑った。

「あなたは、ずるいわ」

「演技が出来たんだ。それで良い」

彼は思い出したような顔をし、咳払いをわざとらしくひとつした。「これ、しばらく貰ってていいか」。ノートを掲げる。ええ、と返事をすると柊也はもう一度さらにわざとらしい咳払いをし、喉を鳴らした。私は堪えきれず身体を折った。

「何だよ」 「いいえ――変な人ね」

平気。平気よ。もう、堂々とすると決めたから。「大丈夫」。ロンドンじゃあないのに私達は腕を組み歩き出した。柊也の声。

「で、どこから行く?」

「公園がいい」
 頭を肩に凭れさす。メロディは、流れる。彼といる時だけに。

「本を借りてかなくちゃ。ナルニア国物語」
 冒険したい気分。

「いいな」

冬を、愛おしく感じる。春を待つ必要もない。今が一番良い。いつ、どんな瞬間でも。

scene53

母から食事に誘われて19時頃に予約制のレストランへと二人で出掛けた。前から行こうと思っていたらしく、俺を連れてくのも変な話だと勘繰っていた――が、特に展開はなく変に安心というか――とにかく、妙な気分になった。誰も他に、いなかった。例えば新しい父親…とか。

「!痛って」 「…」

馬鹿ね。言葉に出されなくても、呆れ顔でステーキを切り口に運ばれれば嫌でも伝わる。がちゃんとナイフと皿のぶつかる音で周りに注目された。母のふぅ…という溜め息が聴こえ、小声で「悪かったよ」と呟く。どうやってその顔になったかと、何処へ行っていたかは聴いた方がいいかしら。紙ナプキンで口を軽く拭う。ベージュの母の口紅がそれに一緒についた。

「いんや。大丈夫だ」 「そう」

「母さん、こないだの事だけど」

「駄目よ」

ぐっと出しかけた声を止める。仕方なく、右手前にあったミネラルウォーターを飲み干した。母を見つめたまま。全部飲み終えた後で、俺は話し始めた。


 俺だって、わかってるよ。
「もしかしたらここに父さんが一緒にいたかもしれない、ってことくらい」
 演技を してなけりゃ。


母が、こちらを向く。なにかしら主張をするとき瞳はそらしてはいけない。いつのまにか知りえた事だった。紙ナプキンを取り、傷に気を遣いながら口元を拭き、その後くしゃくしゃに丸めテーブルに放り投げた。ウェイターが空になったグラスに水を注いでくれる。失礼・します…ごぼ・ごぼ・ごぼ…という音のなか、続けた。

「俺だって、好きなんだよ。あの時間が。別の自分になれるし、だけど、間違いなく俺なんだっていう、あの感覚が好きなんだ」

「…」

「彼女が、愛をうたったものが好きなように」

「亜希ちゃんね」

「なあ、頼むよ、母さん。一度は父さんにすがったさ」

「何て?」 「説得してくれって」

「ばかな子」

「そうだ。けど今ここには、俺と母さんの二人しかいない。だから、無視できないんだ。母さんの言う事を。けど、俺にとってあれは全てだよ。バスケなんか比べ物にならないくらい」

「…」

「それって、俺が紛れもなく――父さんと母さんの子だっていう証拠じゃあ、ないのかよ?」

再び周りの注目を浴びる、が、気にしなかった。今度は母も。静かにカトラリィを、かちゃ、と置き母はベージュ色の爪の両手で顔を覆った。口紅と爪の色を揃えるのが、母さんのきまりだった。ほんとうに頑固なひとね。あなたは。母のか細い声。隣のテーブルの紳士がこちらを向き、UFOのよう椎茸をぶら下げたまま口を開けているのが視界に入った。咳払いをし、もう一度母を呼ぶ。

「母さん」
 5秒ほどし、ずっ、と鼻を鳴らしたあとやっとこちらを見た。

「そんな、傷まみれのスカー・フェイスに言われたって納得出来ないわ…」

瞳が潤み、照明に反射していた――これは、けじめなんだ――亜希のためでもある――もう、二度とない。あなたも、わたしを、一人にする?そう言った瞬間だった。母の髪がエアコンの風のあたる席でもないのに、ふわりとした。はっとして後ろを振り向く母。視えないのに俺は言った。そこにいると、思った。本当に。

「父さん」。

 頼むよ。そのままで。

「俺はいなくなったりしない」
 母は瞳を見開かせたまま、黙っていた。

「誓うよ」

呆然としていた母がゆっくりと唇を閉じる。一束盛り上がった深い茶色の髪を、左手で触った。そのあとゆっくりと、ひとりごちるよう呟く。そうよね…あの子も、いるものね。あなたに…は。
 
「母さん…?」 「大丈夫よね、あなた」

「あぁ」柊也じゃないわよ。


食事を再開する。嬉しそうに、涙ぐみながら。


「いま、和範の声がしたわ」


俺は微笑んだあと、それから黙った。見なくても分かった。今日は星がとてつもなく美しいんだろう、と。そして、俺に新しい父親があてがわれる事も―――永遠にない、という事も。

scene54

「気狂いのガキ共だって言われそうだ」

「見られたとしたらね」

「来るかな――一台くらい?」

「分からない」

二人してアスファルトに寝転びこんな会話をした。わくわくして仕方なかった。映画のワンシーンを真似る事、それは私達のささやかな楽しみのひとつだった。

柊也がハミングしだす、ちかちかする街灯。これがまた絶妙な色をしていて薄汚れたせいだがアンティーク調な雰囲気を醸し出していた。そのすぐ下には電話ボックスがあり、これまた不思議な空間がそこにはあった。そのうち公衆電話が鳴り出すかも――なあんて、考えていた。あの映画は確か交差点の真下だったけれど、細かい事は気にしない。信号の点滅。あれと照明の具合はそう遠くないもの。

「そのうち電話が鳴り出すかもな」

「つい今、同じ事を考えたわ」

「あれってどうやってんだろうな。アメリでも観たけど――公衆電話の番号なんて――どうやってわかるんだ」

「多分、外国だけなんじゃない?」

車のヘッドライトと走行音が遠いが聴こえ出す。私達は立ち上がった。

「――ノルマンディ上陸作戦」

「死にたいのか、テディ!」
ふふ、と笑って続ける。

「汽車じゃあないわ」

「線路の上でももう走ってない」

笑って彼の腕を引っ張る。同級生達がスマホの小さな世界――ネットワークはある意味大きい――で遊んでいる間、二人だけが理解しあえる秘密の国で私達は駆け回る。大人でさえ気にもとめないような場所を切り取り、自らの瞳をカメラにし、ランプの点かない精神的なスタートとストップをかける。自由という言葉のほか、表現しようがなかった―――

わたしたちは、自由なのだ。

柊也の部屋で映画を観る事も増えた。不思議と現実のラブ・シーンと画面の中のそれが重なる事は稀だった。事が終わると決まって巻き返し、二人抱き合いながら続きを観た。高校の図書室も、初めて入った。びっくりするほど本があり、またびっくりするほど人の出入りがなく、先生すらも皆無だった。全校生徒数は決して少なくないにもかかわらず。「プリンセスダイアリー」が置いてあってとても嬉しくなった。鍵が四六時中開け放たれてあるけど誰も心配してないし、する必要もない。

「もうすぐ返す。あの――お前の書いた小説」

「いいわ、いつでも。気に入ってくれたなら嬉しい」

図書室を出てすぐの階段を一番上で座りながら話す。ふいうちでされるキス、愛おしい。髪に触れる指。天使がフィルムを回したくなるほど素敵な瞬間を散りばめてくれる。三年生はもうほとんど登校する日はなくなっていた。進学や就職。皆、それぞれ道で別れていく。バスケ部の先輩たちもサキコやヒロセやナナももちろん知紗も、私の世界からいつのまにか消えた。すれ違う時の不穏な空気。あんなもの、自分が変わってしまえばなんの影響もない。自分らしく生きだして変わったこと、それは美しいものをより美しいと感じられるようになった位よ。なあん、て。柊也の顔の痣も消えかけた頃、見覚えのある姿が昇降口にいた彼と会話をしていた。和樹だった。

瞳が合ったから、微笑んだ。数秒経って彼も…。心配も、しなかった。きっと柊也もわかっていた、あの時和樹はわざと挑発に乗ったと言う事を。どんなに短い時間でも心のアンテナを使ってしまえばこの人がどんな男なのかという事くらい、知れてしまう。やはり人は引き合う、自分と同じ中身のものと。柊也と彼を見てそう思った。

「元気か」と聴かれ、頷く。
和樹は柊也に軽く手を挙げてみせ、背中を向け歩き出していた。彼が呼び止める、あの乾いた声で。和樹くん、と。

「22日――学年集会の日、来てくれないか?見せたいものがあるんだ」
 和樹くんに。

「俺に?」

はぁ?というような顔を一瞬見せ考え込んだあと、何時からだと問う――十時だ――行けたら、行く。「じゃあな」、と目の周りを指差し殴るふりをしてみせる。よく分からないジェスチュアの後スーツ姿のその彼は去っていった。

「どれだけ殴られても嫌いにはなれないよ、和樹くんは」

「…そうね」

「亜希――22日、母さんも来る事になってるんだ」

「あなた、何するつもりなの?」
 彼は瞳をまっすぐ見、いたずらに笑った。

「お前の親も呼ぶといい」

ぽん、と肩を叩いたきり柊也は何も教えてくれなかった。中庭の花壇のへりに腰を下ろして本を読んだあといつも通り日々は過ぎていった…温かい心が全てを癒し、まだ冬にもかかわらず花の色彩のような情動を感じられる。また小説を書き始め、今度もよく柊也に見せるようになった。彼は感想をくれ、自分の好きな登場人物を演じた。

「いざ、行かん」
 あの幻の国へ。

「あの―――」 「幻」

「幻の国へ」。

伝説と勘違いしていたとわらう彼。ファンタジー設定の主役でも柊也に違和感はなかった。あのイエス・キリストが被るような綺麗な草花の輪も似合ってしまいそうなほど。

「あれは、柊?」 「ん?」
 ううん、なんでもない。

続けて、と促し彼を見つめる。広い公園のベンチも体温であたたまる前に、いや、と彼は躊躇いこちらに笑顔を向けた。

「辞めとくよ。本当はお前にこんな近くで見られるのも気が引ける」

遠ざかればいいの?そんな屁理屈を思い浮かべ、柊じゃあなく月桂樹だ、とも思い出した。上手よ。いや、いいんだ。
「私が嘘をついてるって言いたいの?」
彼が口をつぐむ。公園の隅の方でよちよち歩きの子供を見つめながら少し考え、唇を静かに閉じた。青い縁取りのよだれかけをつけた子供は彼と対照的にあんぐりと口をあけ、柊也のことを見つめていた――なお君?どおかした?どしたの――子の母親が笑いながら甘えた声であやすよう話す。

私は無言でそっと立ちあがり、彼の頭の上に美しい輪を、冠をのせた。柊也には見えてないけれど、私には見えている。いつだってそう――誰だって自分の素晴らしさが自分でわかるのなら、こんなに苦しまなくていいのだ。

「大丈夫よ」

全て、大丈夫。彼の頬に両手で触れ、透明な気持ちで囁く。愛おしさが身体を、手を、指を突き動かす。瞳を閉じて、右の頬に優しく唇を押しつける。細い腕が腰にまわり、私も彼の肩へと腕をまわした。頭をおとす柊也の髪を何度か触っていると、さっきのよちよち歩きの子供が嬉しそうに、鼻と頬を真っ赤に――薔薇色にして――ぱちぱちと手を叩き笑っていた。可笑しいのと可愛いのと、切ないのとで、涙をため微笑み返した。寒空の下また繰り返す。大丈夫。大丈夫よ、と。何度も何度も、そう繰り返した。

scene55

「繰り返します――一年生は全員、体育館へと移動し…くだ…さ…い」

途切れる放送の機械的な声で生徒達は廊下に並ぶ。夢見がちな子も、妖精も、安全を好む現実主義な子も、裏切られた子も、無関心な子も、その他も。すべてが同じ箱の中へと。

学校とは、奇妙な場所だ。教える方も教わる方も、人格の色分けではなく学力で枠の中に収められる。きっと独りになる苦しみをしらないか仲間の要らない人間がここを創ったのだろう。それとも、偶然を心から愛するロマンティスト、か。かの魔法学校のよう、性格を判別してくれる何かがクラス分けをし、前もって用意していてくれたのなら、お互いこんな思いはしなくてもよかったのでは――と思った事があった。彼女と瞳が合い、何故かそらす気になれなくて微笑んでおいた。

「…」

心の読めない表情、愛嬌のあるあの顔でふ…と知紗は顔を前にそむけた。

「亜希ちゃん」

ママはあの日、あのリヴィングで二度目のニワトリになった日から、少し経って私をそう呼ぶようになった。不思議だった――嬉しいとか悲しいとかはなく、ただただ。だって、ママ、もし――私に急に「お母様」なんて、呼ばれたら?が、黙っておいた。胸の痛みは悪いものばかりじゃあない、愛情を少しだけくれる。協調性。空気を読む力。親は常に、威厳を保ち、優しく、それでいて丁寧に、諭すよう説明をし物事を教えてくれる訳じゃないのだ…私が気づかなければいけない、そんな時もある。そう。自分が変われれば、哀しみは少しの幸運にもなるのだから。

図書館から帰った後、階段の途中でママにそう呼び止められ振り返った。なにも不良になったわけじゃあないけど、今までと同じよう接する事が出来ないらしく、今度はママが自分らしくいられなくなったように思えた。私は少し傷ついてしまった。自分らしくいられない事のつらさを知っているからこそ、今まさにママがいつもどおりでいられない事にひどく心を痛めたのだった―――ママは、こんな気持ちを知っている?わたしがこんな事を思っている、って?

ママはまだ階段の下で立ち尽くしていた。リヴィングからの光と音、私の部屋の壁掛け時計の音がドア越しに大きく聴こえるほど、少しの間沈黙が続いた。急に変わってしまった娘。本当は――ずっと、こうだったのよ。言いたかったけど、もうそれはママも気づいているし、わざわざ突きつけてやらなくてもいい。呼び止めてきた理由は、口数が少なくなりあまり話し掛けてこなくなったこの子との間を、なにかで埋めようというものだろう。なにかが何かは、どうやら本人ですら分かっていないらしい。「あ」という形に口を開き、戸惑いながら瞬きをし、どうしたらいいか分からない利き手を顔周りの毛先に持っていく。何を、言えばいいのだろう?わかりやすい表情。うろたえる彼女に耐えられなくなり、私から先に口を開いた。

「ママ――22日何か予定ある?」

一瞬「え?」という顔をし高速で仮面を取り付けたよう素早く口角を上げ、ママは笑って――めいっぱい笑って答えた。

「ないよ。どうかしたの?久しぶりに、買い物でも行く?二人で!あ…学校よ…ね」
 あ…はは、という空笑いを添え、ママは精一杯の優しさを見せてくれた。

 嬉しい。ママ。
 もう、充分よ――ママ。

目頭がかあっとし、喉が詰まっていく感じがした。あのね。学校に、来てほしいなって。

「私も詳しくは知らないんだけど、何か親御さん向けに楽しめるような事があるみたいなの」
 卒業生も。集会の、あとなんだけど。

柊也の考えは分からない。けど、言ったからにはもうあとには退けなかった。

「そう――なのね」

ママは顔を上げ、まっすぐに私を見上げて続けた。「分かった」というように二、三度頷いたあと、時間を尋ねられ、和樹に答えた柊也の如し、十時よと言った。

「分かった。絶対、行くからね」
 行くから!

声高らかに、ママはそう言った――私は微笑み返し、部屋へと帰っていった。扉を閉めたあと、涙が一筋頬を伝う。自分を抱きしめた。カーテンの間から薄く、紫とピンク、ベージュの入り混じった優しい光が見えた。小さい小さい、誰にも聴こえないくらいの声で呟く―――ママ、と。


「愛してるからね、ママ」


体育館の、懐かしいあのリングが瞳に入る。物語を書けばいい。何でも、糧になるのよ。柊也を避け、和樹と出逢い、嗚咽し、二度も血を流したこの尊い空間も。和樹みたいに透けたボールを投げるような真似はしなかったけれど、しばらくあの赤茶色の鉄のゴールに想いを馳せていた。教頭が前に立つ。挨拶もそこそこに、一年の振り返りを始める。誰も真剣に聴いてるようで聴いていなかった。観ている、だけだ。

 ――三年生ももう卒業し――君たちの時間は今、長いように感じるかもしれないが――

耳にところどころ入る文章に共感する。確かにとても長い一年だった――ふと、後ろを振り返ると細いシルエットの美しい女性が見えた。香だった。ジャケットを羽織り、ピンクベージュのリップとネイル。薄いグレーのサングラスをぱっと外したところで偶然瞳が合う。小さく頭を下げ微笑むと、彼女は大きく笑った。

(柊也…もしかして)

前に向きなおると突然、体育館内の照明が落ちた。二階の窓にカーテンの引かれた空間は一気にグレーの影が落ち暗くなった。入り口の方で、ぱたぱたと駆けてくる小さな音も聴こえた。ママの茶髪が見える。走ったあとのような息づかいをし、後ろの方にちょこんと立っていた。和樹の姿はまだ、見えなかった。

瞬間、ステージの閉じられていた赤紫色の幕が左右へと開き出した。裾の金色の房が床に擦られ、するすると音がなる。館内がざわめきだった――が、それは生徒達だけの話で、教師は全員お揃いに後ろに手をやるか腕組みをし――知っている――こうなる事は――といった至極冷静な態度でステージを見つめていた。「なに、あれ?」というヒロセの声。隣にいた知紗は無反応で動く幕をただ見ていた。

開ききった幕の奥、ステージの上には柊也が立っていた。白い一枚布のような物を身に着けて。ギリシャ神話を彷彿とさせるようなウエストで少しドレープがかった白い服。オフ・ホワイトの。背後には巨大なスクリーンがあり、そこには草原が映し出されていた。時折鮮やかな色の蝶と、もやのような白い、球状の光が下から上へと立ちのぼっていた。

「―――何処に 行けばいい?」

聴き覚えのある台詞。それが彼の唇から次々と流れ出ていく。「ちがう」と私はひとりごちた。見覚えがある、といった方が正しい。私の小説のワンシーンだった。これ。しばらく、貰ってていいか。彼はあのときノートを借りて台詞を覚え、演技の練習をしていたのだ。『やさしい唇』。未来の彼が舞台に立っているその場面を、今まさに彼が実際に演じているのだ。堂々とした、目を見はるような彼がそこには居た。きっとあの公園での事の前あたりに、香に打ち明けたのだろう。本気なのだ、と。柊也は今まさに、自分に打ち勝とうとしていた。母の目の前で。

「いや…そんな事は出来ない。私が此処から出ていくと、みな怯えるのだ」

物語は何コマか切り取られていて、私も気に入っていたシーンだった。おそらく、彼も。柊也は自分で編集をしたのだろう、相手がいなくとも充分状況がつかめるような受け答えをするよう台詞を選んでいた。一人芝居なのに、他にも登場人物がいるという事はきちんと感じられた。自分の物語を初めて外側から観てみて、とてもじゃないが一瞬本当に私がこれをつくったのだという事実を忘れるほどだった――紙から飛び出した想像の世界が、彼によって現実になったのだ。こんなに自分を褒めたくなったのは生まれて初めてだった。

「すごい――柊也」
 あぁ、私。ようやく今はっきりと自信が持てたのかもしれない。ペンを握る、私に。おそらく彼も、この人数の前で初めての経験をしているのだろう――あたたかなライトに照らされた柊也の顔はいつもと違っていた。

「迷う時もある。星のない、暗闇では。心すらも閉ざしかねない」
 あぁ。だが君がいてくれればわたしは――私は。

「「生きてゆける」」

彼と一緒に台詞を呟く。スクリーンの映像がブラックホールのような闇から解き放たれ、光でいっぱいになった。その後また元の草原に戻る。床に倒れ込んでいた柊也は身体を起こし、辺りを見廻していた。

 ―――不思議だ。
「世界が こんなにも」
「違って見えるとは」

彼は紙の中の「彼」の通り、自分の両手を見つめた後それを高く掲げ、そして段々と笑い声を上げた。美しかった。立ち上がったその先には本当に、澄んだ空と金色の地平線が見えた。「――いざ」

「真実を、探しにゆくのだ」

「仮初の姿ではなく真の裸の魂となって」

「真実を探しにゆく」

「羅針盤はわたしの心」

「誰に何を言われようと構うものか」

「己の道を突き進むのだ」

「いざ」

「私はゆく」

「まことの自分として生きていく」

「すべての人間が」

「ほんとうの自分として生きる事を願って」

「輝ける事を祈ろう」

「なんと美しい――あぁ」
 なんと、素晴らしいのだろう。

「人生という 物語とは」

すべてを言い終えた後に彼はつけ足した。台詞がひとつ多いという事は、他の誰にもわからなかった。

「君を、心から愛している」。


ばっというスクリーンの画面のスイッチと照明の切れる音が同時にし、館内は再び暗くなった。冷たく、ひんやりした静かな空気の中、数秒の沈黙を破ったのは乾ききった拍手の音だった。それは体育館入り口の方、私達の後方から聴こえてきた。

「畑中」
 有頭の誰に囁くでもない声。

長いそれはもうすぐ一つ上の学年にあがる全員の関心を引いた。瞳が集まる。が、彼は構わず、ステージ上の柊也へと賞賛を送り続けていた。すると、続いて香が。前列の、柊也と同じ工業科の男子達。教師。それは段々、だんだんと激しくなっていく夏の雨のよう次第に強さを増した。私からも盛大な拍手を送った――もう一人の自分に――いや、今はもう。一つになれた、自分へと…。たった一人の私に心を込め、送った。

知紗はぽかんと唇を開き、瞳を揺らめかせ呆然と暗くなったステージを見つめていた。隣からの問いかけには一切あいも変わらず耳に入らないようで、ヒロセ達にとっては、およそイメージと激しくかけ離れた太田柊也だっただろうが――彼女には前もって準備されていただろうに。あのタータンチェックの中の、秘密から。それでもショックだというのなら、彼女にとっての彼はただのそう、仮初の姿だったという事だ。

頭頂部の寂しさとは対照的に、ふっくらとした男が壇上にあがった。卵にひとの頭をのせたような体型。校長だと思い出すまでにしばらくかかった。拍手が、ゆっくりと止んでいく。

「今回」
 スロウ・ペース、おっとりとした口調で話し出す。

「太田君にこの話を持ちかけられ――」
 彼の言葉に、身を任せるがまま。

「このストーリーを、拝見したところ」
これは。君達のような。年頃の。若者への。

「重要なメッセージになりうると」
 考えたん、ですね。
 どうです?――どう――でしたか?
 そう。

「心に、響いたようだ――実はね」
 彼からは。この話をつくったのは、僕じゃあないと。言われたんですよ。僕はただ、台詞を読んだだけだ、と。その――これをつくった張本人の――「彼女は」まさに。この明葉高校の学び舎の中で、もがき、苦しみ。真実を、探し続け。

「あの主人公と同じように」
 凛々しくまことの心をさらけ出し。

 生きてゆけるように、なったわけ――ですね。


私と瞳が合った校長は、目尻に沢山の皺を寄せ笑い、こう言った。

「自分を、愛していますね?
 今のほんとうの自分の事を?」

私は微笑み、後ろを振り返った。ママを見る。それから香を見て、和樹を見た。もとの方に向き直るころ、学年中の視線が私へと注がれていたけどためらわずにそのまま返事をした。

「はい」
 幸福感に満たされる。穏やかな声で、続けた。


「今のわたしが一番好きです」


校長はまた笑って、口髭をふさ、と揺らしてにこやかに頷いた――話を締めくくるとき特有の仕草。ネクタイを触る。

「どうか、大切なわたしの生徒達が。もれなく彼女と彼のよう、勇気を持って、人生を歩んでくれるよう、切に――願っています。少し、変わった。集会となりました――が。これにて、終わろう」
 素晴らしかった、太田君も。

マイクをスタンドに返し両手が空いたところで拍手を響かせる。また全員からの、今度は初めから祝福のような音の雨がめいっぱい降り注いだ。私ははにかみ、胸に込み上げる今まで感じたことのないくすぐったいような嬉しさを抱えながら、辺りを見回し賞賛を受け、ありがとうと笑い続けた。

Last scene

ママがね。抱きしめてくれたの。ごめんね…って。家に、帰ったあと。ママもね。そういえば小さい頃、絵を描くのが好きだったんだって。「思い出しちゃった」って言ってたわ。友達にからかわれて、やめちゃったこと。まだ、前のよう気まずさは消えてないけど。うまくやっていけそう。だから、大丈夫よ。ねぇ?あなたは、どうだったの?柊也。伝わったんでしょう?


「あなたと和範はやっぱり似ていないわ」

「かもな」

「あら…反論しないのね」

拍子抜けした顔。今は気分が良いんだ俺は――と、声に出さずに呟いてみる。

「校長先生にプレゼンしてまで私にあれを見せようとするなんて――参ったわ」
 はぁ、と薄い溜め息をつく。微かに母の香水の匂いがした。

「父さんなら辞めてただろ。諦めたよ。あいにく血は半分ずつなんだ――って事は、頑固は母さんのものだぜ」

「辞めなかったわよ」

「え?」

「和範は、やめたりしなかったわ。きっと」

「母さんの言う事でも?」

「えぇ、きっとね。それに――」

「?」

「私も魔法にかかっていたから。あの人と一緒に演じている時――そうでない時も。いつだって彼は、あなたの父親は恋のきちがいスミレを持った妖精」

「…」

「いたずらっ子。妖精パックよ」
 母が片手で涙を拭い、口角を上げた。

「…母さん」

「素晴らしかった――柊也。母さんね…悲しいけど、きっと、ものすごく嬉しいの」

「亜希の事、大切にする」

「えぇ」

「だから大丈夫だ」

 父のよう、優しく髪に触れるような事はしなかった――が、そのかわり心に誓いを立てた。もう、怖気づいたりしない。課題は終わったんだ。いつ、どんなときでももう春は目と鼻の先。光も。理解も、調和も。自由も、だ。

「愛してるよ母さん――心から」


どうして。あんなに好きだったのにね。どうして―――忘れちゃってたんだろうね…って。どうして、あなたの事を。わたしの…事を。認めてあげられなかったんだろうね、って。

 そう 言ってたわ。


学年集会の日、あのノートが帰ってきた。
机の他の教科書たちの上に重ねられるよう、丁寧にそれは置かれていた。中身はもとのものと、変わっていなかった。知紗と言葉を交わす事はやっぱりなかったけれど、彼女は気まずそうに私に視線をくれたあと、日常へと帰っていった。彼女と私は還った。ほんとうの世界に。確かに、かえっていった。

「PC、買っちゃった」

「お前の字好きだったけどな。見やすくて。長編、書くんだろ?」

「えぇ。現在進行形」

「いいな」

道路――生け垣と並木を挟んだ向こう側から車のクラクションが二回、短めに聞こえてきた。和樹と男子バスケ部の何人かが同乗しているところだった。おおぃ――柊也ぁ。後ろのおとぼけ顔の、今度は三年になる男、それに柊也と同じ工業科の男の子達が怒鳴るよう、しかし笑顔で話し掛けてきた。

「バスケしに行くんだよ。行かねぇ?」

「悪い。用事があるんだ」

柊也は車の助手席側の窓まで近づき、細い腕を車体に置いてかがみこんだ。

「なんだよ、にやにやして。この――まことの、神が!」

新三年の男がそう言うと、後ろの同級生たちも笑い転げた。あの衣装なら神と思われても仕方がない。ぶっと和樹が吹き出し、またすぐに真顔に戻った。柊也は運転席に瞳をやり、笑い声のなか小さく「ごめん」と言っていた。

「別にいいけどね」
 と和樹は言い、またいつものようにじゃあなといって車は走り去った。こちらに戻ってきた彼は口元を緩ませ、微笑んでいた。

「色々あったけど」
 俺は、幸せな奴だな。

柊也はもの言いたげな顔をし、こちらを見てまた笑った。あなたが素敵だからよ、と心の中で思った。

「いいの。私はあの主人公と一緒よ――これから、真実を探しにゆくの」

PCを閉じ、彼に向き直った。それにあなたも――あなたのお母さんも。ママもいる。それでいいの。私がいる。私がつくった、物語たちが。


指を絡ませ、永遠であるよう口づけた。彼は地面の隅に生えていた小さな菫を手に取り、私の瞼に軽く押しあてたその後、また、今度は歯を見せて笑い、こう囁いた。


「手伝うよ」


グレーの雲の隙間から、光の線が差し込みだす。愛は。清潔でも完璧でもどちらでもなかった。だけど美しい――美しいわ。それだけは、事実よ。睫毛に光を浴び、どうかと願った。金色の地平線を見すえ、私はまだ見ぬ未知の真実を探しにゆくのだ―――どうか。どうか、全ての人間が、自分らしく生きてゆけますように、と。


―――いざ!

私はゆく!

まことの自分として、生きてゆく!

全ての人間が

ほんとうの自分として生きる事を願って!

輝けることを祈ろう―――!

なんと、美しい――あぁ。

なんと、素晴らしいのだろう

人生という 物語とは。

私はもちろん最後にこうつけ足す。
「あなたを心から愛しています」、と。

やさしい唇

fin.

やさしい唇

誰といても私は陸に打ち上がる魚、そして人生とは誰かに合わせなければならないもの。

  • 小説
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  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-05-10

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