月病
今日もまた、眠れない。布団の中でゆったりと視線を持ち上げる。いやに大きな月と目が合ったような気がした。
朝方の東京のカフェでは、人の噂がよく耳に入る。
大してやることなどないのだ。目の前の冷たいコーヒーを啜り、あとはそう食事を噛み砕くだけ。
「近頃街では、月病が流行っているそうで、」
「ああ、あれは、いけないね。罹ってしまうと、どうもよくない、」
そんな会話を背中で聞きながら、何とはなしにパンを齧る。専ら街ではその噂で持ちきりなのだ。今更特段珍しい話でもない。
だからこそ、わたしの指先が噂通りに、何かに触れるたびにごろりと黄色い欠片を落とすようになった時も大して驚きはしなかったのだ。
「…月病、だなんて、よく言ったものだね。」
ごろりと転がった足元の塊は、たしかに月の欠片にも見えなくはない。けれどそこまで美しいものではないのだ。蹴飛ばせば、重たそうな音を立てて砕けてゆく。そうして後には、無機質な砂の山が残るばかりなのだ。
「落ちる時にだけ煌めいて、あとは砂になるだけ、だなんて、本当に趣味が悪い、」
嫌悪を滲ませてその残骸を踏みにじる。事実目にするまでは、平常心を保てていたというのに。もうわたしの心は穏やかでなどいられない。だってそう、期待、してしまったのだ。
「信じてしまったよ。だって生まれた瞬間、あまりにも美しかったから。わたしの指先から落ちていく様はまるで本当に、月みたいだったから。」
もしかして、自分にも綺麗なものが生み出せるのではないか。そう期待させておいて結局、死体はこんなにも醜い。それはまるでわたしの思う、人生のようだった。みてくればかりを飾って、本当は大した価値などひとつものっかっていない。
「…君が感染源でしょう。本当に趣味が悪いよ。本物の月を宿せるのは一握りの人間だっていうのに、」
「……」
「………わたしだってまた、期待をしてしまったでしょ、」
逆光でその表情は見えなかったけれど、そこにいるのが君であることだけはたしかだった。だってほら、その指先に纏う光はこんなにも眩い。
「………何を思って流行らせたの?楽しい?君の光に充てられて、血迷う人間の姿が。」
「…」
「永遠に終わらないよ。君がいる限り。わかってるのにどうして誰も君を殺せないんだろうね。」
きっと永遠に、心の中で殺し続けてゆくだけなのだろう。顔の見えない誰かのことを。だって誰かのせいにしなければ、何かを憎まなければ、何かを信仰しなくては、わたしたちは救われない。わかっているから、誰も君を、殺せない。名前をつけて、憎んでゆくだけ。
「…ある意味、幸福な病気なのかもしれないね。」
瞬間、吹き上がる風にあっという間に砂は攫われてゆく。もう跡形も残らずに。そうしてまたわたしは名前のない誰かを憎んで、ごとりと月の欠片を落として泣くのでしょう。今夜も。
月病