日曜日の朝のたまごかけごはん

 なまたまごのごはん、ときどきむしょうに、たべたい。
 月曜から金曜の朝って、ひどく憂鬱で、土曜と日曜は、でも、ある種類の憂いみたいなのが、あって、起きぬけにみる、じぶんの本棚の、本が、おおきさにかんけいなく無造作にならんでいる感じが、みょうにおちつく。ふぞろいで、規則正しくなくて、きみは、それでいいんだよって、しらないだれかにささやかれている、みたいな。もしかしたら、神さまのかたちをした、きみ。
 かろやかなねむりの、うつろな夢にあらわれるあのひとが、ぼくのひたいをそっとなでた。つめたい、と思ったときには、かすみがかった、だれかの部屋の、じぶんの部屋ではない、なにかしらの家具が普遍的にならんでいる、ぼんやりしているテレビや、タンスや、カーテンなんかをみながら、ぼくは、おそらく、まどろんでいた。生きていることの、ぎもん、というものを抱いて、世の中に、無意味に、けんかを売るような年齢でも、なくなってきて、社会、ってやつでは、とりあえず、あたりさわりのないよう、じぶん、という存在を適度にころして、ひっそり息をしている、のが、最善であると、なんとなくそういうものに気づきはじめる頃の、あの、なにかをひとつずつ、あきらめてゆくような感覚は、ふとしたときに、重たくのしかかるものだ。ふつうはからだが、かるくなりそうなものなのだけれど。ぼくのなかにいる、それぞれ異なる人格の、ぼくを、ぼく自ら、手にかけてゆくような、それに伴って芽生える、罪悪感が、みっちりと、ぼくのからだのなかを、支配してゆき、増してゆくのだ。質量。密度。
 インターネットでしかしらないひとを、きらいになったことがある。顔も、なまえも、ほんとうのところもしらないのに、きらいになるって、と、ぼくは思って、でも、ほんとうの顔も、なまえも、あらゆることがわからないのに、好きになったこともあるから、ふしぎだ、と思う。好きも、きらいもない、というのが、インターネットのひと、というわけではなかった。ぼくたちは、どうしようもなく、だれかを好きになって、だれかをきらうようにできているのだと思いながら、なまたまごを、ごはんの上で割った。しょうゆをかけて、ごはんと、たまごと、しょうゆをかきまぜて、むしゃむしゃ食べた。

日曜日の朝のたまごかけごはん

日曜日の朝のたまごかけごはん

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-05-10

CC BY-NC-ND
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