月が一番綺麗な時

 日曜日の午後だった。快晴。湿度45パーセント、気温22度、風速2メートル。新宿から電車で10分ほど離れた住宅街、2階建ての古いアパート、2階の角部屋、2DK。読んでいた小説の章が区切りになって、僕はふと目を上げる。奥の和室、南に大きく開いた窓からの日差しの中で彼女が洗濯物を畳んでいる。無造作に積み上げられた、取り込んだばかりの洗濯物の山から彼女がタオルを取り上げると、細かいチリが舞うのが光を受けてよく見えた。
 僕と彼女は、今まで色々あった。僕らが出会ってからではない。僕と彼女はそれぞれで、とても長い間、苦しく辛い思いをしてきた。具体的な状況がどうだったのかなんていうことは述べない。そんなことを説明したところで僕と彼女それぞれが、どんなに身を裂かれる思いで生きてきたのかなんて伝わりやしないのだから。とにかく、そうして色々あって、それらが全てが済んだ、過ぎ去った後に僕らは出会った。
 僕はダイニングに行き、生クリームののったプリンを二つ、冷蔵庫から取り出す。どちらも蓋を開けて、華奢なスプーンと一緒にテーブルに置く。お湯を沸かしてマグカップと湯飲みにそれぞれティーバッグを入れる。どちらも緑茶のティーバッグだが彼女は取っ手がない食器を、手を滑らせてよく割るので熱い飲み物は何でもマグカップで飲む。お湯が沸いてお茶が出来上がると、洗濯物を畳み終えた彼女が立ち上がって伸びをしているのが見えた。
 「おやつにしようか」
僕が声をかけると彼女は嬉しそうに笑ってダイニングにやってくる。椅子に座るとプリンにのった生クリームをスプーンでちょんとつついて
「贅沢だ」
とご機嫌な様子で言った。
「そうだよ、これで挽回もはかどるだろ」
彼女はプリンの一口目を運んだスプーンを咥えたまま僕を見上げて目だけで笑った。
“挽回”は僕らの合言葉だった。僕らは今まで散々、苦しいこと辛いことを経験してきたから、それらが終わった今でも僕と彼女の人生は大きくマイナスだ。何とか終わったんだからもう運命を許してやろうとは、僕も彼女も思えなかった。だから死ぬまでに沢山、幸福な時を積み重ねてそのマイナスを挽回しようという意味だった。

 その日の夜、「明日は祝日だからサンドイッチでも作ってどっか公園に行こう」と彼女が提案したので食パンが必要になり、ふたりでコンビニまで歩いて買いに行った。帰り道、右手の人差し指と中指に引っかけた食パンの入った小さな袋がブラブラと揺れる袋の重み、左手は手持無沙汰でポケットの中の家の鍵をもてあそぶ。近頃、昼間でも静かな町はいっそう静かで、徒歩10分ほど離れたところにある駅前の辺りからひっそりとした賑わいが聴こえてくるだけだった。急に春めいた道端の草花を眺めながら僕の数歩先をゆっくり歩いていた彼女がふいに立ち止まった。どうしたのかと彼女を見ると、南東の空を見上げるその視線の先に月があった。昨日か明日が満月なんだろう。“ほぼ”完璧な丸の小さな月が明るく見えた。1分にも満たないくらいだろうか。彼女は立ち止まって月を見上げ、僕は月を見る彼女を見ていた。
 「誰もいない夜道で、ひとりで見る月が一番、」
少し低めの彼女の声が発される。光を受けた頬の筋肉の震えまで分かるような声だった。彼女がそのまま黙ったので僕は、
「綺麗?」
彼女が続けようとした言葉を確かめた。
 「誰にも邪魔されずに、誰にも話しかけられずに、静かに好きなように好きなだけ眺められる月がやっぱり一番綺麗だよ」と、一緒に暮らし始める少し前、彼女は言っていた。そう言った後に「残念だけどね」と続けるものだから僕は「どうして?」と尋ねると「さぁ」と言って、音楽にのるときのようにほんの少し頭を揺らした。それは彼女が小さな失敗をしたときにする癖だった。もしかしたら彼女は夏目漱石に、いや、夏目漱石を愛読する僕に気を使ったのかもしれない。
 彼女は僕の語尾上がりの短い言葉を受け取ると、僕の顔を見て少し首を傾げた。これは何かが分からないというより、齟齬や誤解を解くために自分の考えをどう表現しようと悩んでいる合図だった。もう一度、月を見上げてから再び、僕を見つめ直した彼女の黒い瞳は、清らかな林の中に佇む湖の湖面のようだった。
「ひとりで見る月が一番綺麗、だと思っていた…んだけど、」
 気付くと僕は彼女を抱きしめていた。遅れて、あぁ、さっきの音は持っていたパンが落ちた音かと頭の隅で思った。止まっていた呼吸を再開するために鼻から深く息を吸うと、喉の辺りが震えるのを感じた。彼女の黒くてサラサラな髪からシャンプーの匂いが香る。彼女がバラバラにならないようにと強く願った。でもあまり強く抱きしめすぎると壊れてしまうような気もした。得体の知れない衝動が沸き上がっていた。僕の、今、伝えなくては、と思って必死でかき集めた言葉たちが口から出る直前で次々に消えてしまう。
 どれくらいの時間が経った後だろう。僕はやっと言葉を紡ぐことができた。というよりも大きな衝撃が過ぎ去った後のため息のように、僕から言葉が零れ落ちた。

「あぁ、もう、挽回したよ。」

月が一番綺麗な時

月が一番綺麗な時

何万番煎じだよっていうお決まりのアレを遂に私もやってしまったよ。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-05-07

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