藍色模様

日谷 弥子

藍色模様

2013年9月時点
加藤容子(36) OL
乾みどり(35) OL
勝部忠仁(45) 工房の職人
黒澤律子(54) 工房の娘
黒澤三雄(84) 工房オーナー
黒澤春恵(78) 三雄の妻
仙内    工房の手伝い、律子の幼馴染み

藍染工房黒澤=群馬県利根郡みなかみ町新巻
最寄り駅=上越新幹線上毛高原駅 から3~4km

―序―

 群馬県みなかみ町に、藍染工房黒澤がある。元々群馬は、繊維業としては桐生の絹織物で知られており、工房オーナーの黒澤三雄はこの桐生で織物工場を営む家に生まれたのである。が、三男だったこともあり、三雄は関心を織物から京友禅に自由に移し、京都で染色を学び職人となった。しかし40を過ぎると、より素朴な味わいを持つ藍に惹かれはじめ、とうとう、故郷近くのみなかみ町新巻に居を移し、藍染の原料となる藍の栽培を開始、1989年には小さな工房を開いたのである。
 三雄の妻春恵は京都より出たことのない人間だったから、転居当時には騒動となった。そして一旦は家族揃って新巻に住んだものの、春恵は馴染めず実家に戻ってしまったのである。ひとり娘の律子は当時高校受験の年頃で、どちらに付くか大変悩まされた。が、口数の多い母に対し、穏やかで黙々と取り組む父の性質に情を感じていたし、また父が根の浅い新巻で奮闘する様子が見えていたので、新巻に、父とふたり残ることを決意したのであった。
 工房は、概観は大きな変化を見せないながら、しかしゆっくりと内容を整え、律子が奨学金に助けられながら大学を卒業する頃には、安定した藍の栽培と、染料仕込みの環境と、工房には律子が所属する大学の民族文化研究サークルから、時々アルバイトのアシスタントが付くようになっていた。その頃には春恵が、甚だ曖昧に行き来していたのを折れて、新巻に腰を落ち着けていたので、律子は就職を機に家を離れることにした。
 律子が2002年に再び新巻に戻ったのは、母春恵が亡くなり、世間の経済恐慌により経営不振に息喘いだ律子の会社が、とうの立った事務職の独身女性に肩叩きをしたときであった。


 2013年9月。
 藍染工房黒澤、藍染体験教室。
 加藤容子と友人の乾みどりがパンフレットを手に、制作目標を思案している。
みどり「決まった?手拭いはここのレシピに無いみたいね」
容子「うん。残念だけど。でもHPで見て大体分かってたからいいの」
みどり「手拭いが無くちゃ、来た意味無くない?あれ、気に入ってたんでしょ?」
容子「うん、そうなんだけど。ま、何か持ってれば落ち着くかなって」
みどり「何で失くしちゃったんだっけ、手拭い」
容子「うーん?駅のホームでバッグの中漁ってて。ポーチが奥に入っちゃってさ。そんで、一回、駅の椅子の上に色々出したんだよね。・・・あの時だなあ・・・」
 みどりは話半分に聞いていたが、ハンカチを取り出して、軽く首すじを拭いてからパタパタと自分に風を送った。
みどり「山だらけだけど、やっぱ少しは暑いな。ここ、扇風機も廻ってないんだね」
容子「そう、ね。でも私はこのくらいで平気」
 容子が、ふふと笑った。開け放たれた入口から、風が一筋入って来た。
みどり「私、ハンカチでいいかな。でもせっかくだからTシャツ?」
容子「ああ、Tシャツいいね。着るの?ってのがあるけど。私はバンダナにしとこうかなあ。で、お弁当包むの」
みどり「お弁当?持って行ってたっけ?」
容子「これを機に作るのですよ。節約あーんどダイエット」
みどり「へええ。いつまで持つのかなあ」
 みどりが工房を見渡した。容子も釣られて見回す。
 古びた板張りの内装。しかし朽ちているところは無いようだ。フロアはコンクリートを打った土間になっており、容子とみどりが囲んでいる大きな木製のテーブルと、この奥にやはり木製の、ひと回り小さなテーブルがひとつある。壁沿いに大きな陶器のかめが2個据えられていて、部屋に入った時に覗かせてもらったら、ほとんど黒のどろんとした液体が入っていた。そしてぷーんと来るアンモニアの臭い。この臭いは工房全体に染み付いていた。かめの隣りには流し台が2個繋がり、水道口のひとつはホースで繋がれ、先がシャワーになっている。
みどり「ここ、冬寒そうだねえ」
容子「うん?そうだねえ。隙間風来そうだねえ」
 工房の娘、律子が2人の向かいに座った。
律子「何を作るか決まりました?」
容子「ええ、とー」
みどり「Tシャツみたいなのは、やっぱり難しいですか?」
律子「そうですねえ、凝ったデザインにしなければ難しくはないと思いますけど、染めるときに力が要りますかねえ、ハンカチみたいな小物よりは」
みどり「力が要るんですか」
律子「何回か染めを繰り返すんですよ。そこで持ち上げたり絞ったりしますんで」
みどり「じゃっ小物にします!ハンカチで!」
 容子がぷぷぷと笑う。
容子「みどり、柄は?描く?絞る?」
みどり「描いたら難しいんでしょう?無理じゃない?」
 みどりが「ですよね?」と念を押し、律子が同意し「初心者が絵を描くのは、難しいし時間が掛かるだろう」と答える。結局みどりはハンカチにちょっとした絞りの模様を入れるものにし、容子はバンダナにして、大きめの型抜きの模様を入れ、下の方に1本線の絞りも添えることにした。
 律子が立ち上がって工房の男に準備の指示を出した。
 工房の男、勝部忠仁が2人に材料を渡して、当面の作業を説明する。2人は不器用そうに布地と糸を取り上げ、縛りにかかる。
みどり「ねええ、ホームページに出てたお師匠さんは出て来ないんだね。今のおじさん、弟子かな。息子って感じに見えない」
容子「みどりって詮索好き。何で息子に見えないの」
みどり「リラックス感みたいのがないじゃん。修行中って顔してる」
 容子は改めて勝部を盗み見る。全体に線が細く、少し前屈み。表情は豊かでない。右脚を少々引きずって歩いている。
 律子が再び、様子を見に来た。
律子「上手く行ってますか」
みどり「いえ、何だか訳が分からなくなってきてしまいました」
律子「ふふ、縫うとだんだん原形が無くなってきますからね。完成した作品、幾つか見ましたか?え、パンフレットだけですか?それは失礼しました」
 律子は勝部の方を見て、少しだけ口を歪めた。
律子「染めに入ってしまう前に実物を見てみますか?今なら多少軌道修正出来ますからね」
 律子が作品を幾つか持って来て並べる。2人は感心しながら手に取る。みどりは付き合い程度だが、容子はひっくり返したり、模様にそっと触れたりして、吟味する。
容子「すてきですね。ここのお師匠さんの作品ですか」
律子「ええと、暖簾のこれと、あとこれは黒澤の作品です。で、他のはさっき説明に来た、勝部と言うのですが彼の作品です」
容子「このストールも、ハンカチも、とてもきれい」
律子「ありがとうございます。勝部に伝えておきます」

 西日が暑い光を投げる中、容子とみどりが体験教室から外に出てきた。見送られながら送迎バスに乗り込もうとして、容子が振り向いた。
容子「・・・あの!」
 容子が真剣な眼差しで律子を見る。
容子「今日の、あまり上手に作れなかったし、また伺いたいんですがいいでしょうか」
 律子は笑顔で、愛想の良い返事をする。

 2015年11月。同、染色体験室。
 律子が旧式のだるまストーブに灯油を補給する。
 勝部が、容子が作業している手元を指差しながら、アドバイスしている。勝部が去った後、律子がゆっくりと容子のところに歩み寄った。
律子「寒くしちゃってすみませんでしたね。加藤さん、今度は何を作ってらっしゃるの」
容子「・・・今日は大作です。ストールです。」
律子「幾つも作られて、大分上手になりましたねえ」
容子「いえー、全然です。でも勝部さんが教えてくださるようになって、少し要領が分かってきた感じです。良かった」
律子「説明、分かりやすいですか」
容子「え?まあ、何となく、くらいです?・・・すみません。あ、でも十分です」
律子「あ、いいんですよ。やっぱりね。ちょっとぶっきらぼうなんですよねえ。すみませんねえ」
容子「勝部さんは、こちら長いんですか」
律子「そうですねえ、それ程でもないですかねえ。来たのがお隣りのコウちゃんが高校に入った年だから、ええと?コウちゃんは1年浪人して今年大学3年でしょ、するとおや、でももう10年経ちましたね」
容子「元々職人さんを目指してた方なんでしょうか」
律子「いいええ、東京でサラリーマンをしてたはずですよ。でも奥様を亡くされて、本人も怪我をしたりして、まあ詳しいことは私も知りませんが、田舎に引っ込んだみたいですね」
容子「えっ奥さんを亡くされてるんですか」
律子「そうなんですよー。でもまあ、私詳しいことは知らないんですがね。これでも私、師匠の娘なんですけどね」
 と、律子は不服そうに言う。
 容子は、壁に飾られた作品を見上げた。
容子「勝部さんの作品、私大好きなんですよ。何て言うか、繊細な感じ?がします。そうだ、勝部さんの作ったの、何か買って帰ろうかな。お手本兼ねて」
律子「そうですかあ。あっ貴女それなら!」
 律子が手をポンっと叩く。
律子「ちょっと、勝部さん、こっち来て」
 律子は勝部がゆっくりと近付くのをもどかし気に見、両手を腰に置いた。
律子「勝部さん、加藤さんに何か作って差し上げたらどう」
勝部「?何ですって?」
律子「何度も来てくださってるし、今なんて、貴方の作品買って帰ろうかっておっしゃってる。ひとつ何か作ったら、簡単なやつでいいから」
勝部「そう唐突に言われても」
 律子は尚も説得する。容子は面食らいながら、律子応援の気持ちで膝の上で握りこぶしを作った。
 とうとう勝部は承諾させられる。
勝部「じゃ、作成してみますよ」
容子「あっどうもすみません」
勝部「あ、ですが!1~2ヶ月時間をください」
 律子が片眉を上げる。
勝部「こういうの、そうお受けするものじゃないし、よく練らないと。だから時間がかかるんです」

 スーパーマーケットで、会社帰りの容子がだししょうゆを見比べていると、携帯電話からメール着信のメロディが流れて来た。工房黒澤発信。「ご注文の作品が出来ました。送付致しますので住所をお知らせいただきたく」

 2016年3月。
 容子が染色体験室の入口に備え付けてあるベンチに腰掛けている。工房の庭に散りかけの梅が咲き、その後ろに山が連なって見える。山頂には白いものが見えるが、今日は晴れていて西日が暖かい。
 勝部が小さな包みを持って出て来る。
勝部「お待たせしてすみません」
容子「あっどうも」
勝部「わざわざ来ていただいて」
容子「いえ、こちらこそ、伺うと言ったのになかなか来れなくてすみませんでした。もうひとつ作りたかったもので。同じ顔が何度もお邪魔しましてすみません」
勝部「いえ、何をおっしゃいますか。・・・加藤さん、ほんとにお好きなんですね」
容子「ていうか、絵を描いたり、色を付けたり、そういうの全般、好きなんですよ。藍染は、作っていても、家に飾っても、気持ちが落ち着きます。ふふ、部屋の中に藍染がいっぱいになってきました。家に帰ると何かしっとりした気持ちになっていいです」
勝部「私の妻も藍染のものが好きで、家に大分置いていましたね」
 勝部はふいっと視線を庭に移し、そこからすべらせて山に移す。
容子「ここ、東京からそんなに遠くない割にひなびた感じで、いいですよね。勝部さん、ここに来る前、東京でサラリーマンをしてたんですって?」
勝部「えっ、まあそうです」
容子「どうやってここを知ったんですか。やっぱり旅行かなんかですか」
勝部「いいえ、ネットで探したんです。・・・妻をですね、藍染の浴衣か何かでくるんでやりたかったものですから」
 勝部の目線は山のままで、でももっと遠くを見ていた。
 送迎のバスが到着する。
勝部「あっバスが来ましたね」
 勝部と容子はバスに向かって歩き出した。
勝部「・・・これ、お約束の。小さいものですがご容赦ください」
 勝部がセロハンテープひとつで留めてある包みを渡した。容子が中身をそっと取り出すと、藍染の、細かい細工が施されたハンカチが出てくる。
 全体に絞りの大小の花模様が散っている。左下の数個の小花だけ、花びらの根元の方に暖色の色が付いている。和の、ピンクと橙の中間くらいの色。
容子「あっ」
 容子が見つめて動かないので、勝部が声をかけた。
勝部「こんなもので良かったでしょうか」
容子「えっ勝部さん、とんでもないです。すごいです。大感激です。すごい、すごい素敵です。うわあ、宝物になります」
 送迎バスと呼んでいる、ワゴン車に毛が生えたくらいの車から運転の男が降りて来る。と、律子が工房から出て来て彼を大声で呼び、手招きする。男は律子と話してから、小走りで勝部と容子のところに戻って来た。
男A「悪いけどな、勝っちゃん、運転してくんねえか」
勝部「?」
男A「律っちゃんが体験室の雨どいが曲がっちまってるみたいだから見て欲しいって言うんだよ」
勝部「それ、私が見ますよ」
男A「だって梯子さ昇るし、勝っちゃん、脚悪いだろ。律っちゃん、勝っちゃんのこと登らせたくないんだろうよ。勝っちゃん、運転大丈夫か?」
勝部「え、いや、運転自体は何とかなりますが。バスはあんまりやったこと無いです」
男A「ありゃタウンエースみたいなもんだもん、普通の車と大差ないよ。ありゃ、律っちゃんがまた呼んでる。恐いから行かねえと。ダメそうか?」
 勝部と男Aは、並んで律子を見やった。
 容子も律子を見た。工房が律子中心にまわっていることは、容子でも分かる。
勝部「まあ何とかなるでしょう。分かりましたよ。キー下さい。・・・あっ加藤さん、不安がらせちゃいましたか。大丈夫ですよ。ただ、安全運転で行かせていただきますね。だから、駅に着くのがいつもより遅めになるかもしれません。宜しいですか」
 容子は、他に言いようも無いので、はい、と言う。

 送迎バスの中、容子は運転席の真後ろに座った。
 車は、問題無さそうに進んでいる。
容子「勝部さん、あまり運転なさらないんですか」
勝部「いえ、しますよ。こんな田舎じゃ、車がなけりゃ生活出来ません」
容子「すみません」
勝部「いや、謝ることないです。先刻仙内さんがあんな風に言ったから。あの運転の男、仙内さんって言うんですけどね、あの人がああ言ったから、危なっかしく見えるんでしょう?・・・仙内さんはね、私がここに来たばかりの頃、運転出来なかったのを見ているから、それが頭にこびりついちゃってるんです」
 勝部の声は、それ程低くない。抑揚があまり無いが、落ち着いた音で言葉を選ぶようにしてしっかりと話す。容子は初めて、勝部がこんなに長く話すのを聞いた気がする。
容子「?脚の怪我が治っていなかったんですか?」
勝部「ああ、脚。私の脚ですか。いいえ、脚は今と同じくらいには動いていましたがね。つまり人よりちょっと鈍いくらいの動きでね。・・・精神的に参ってまして、しばらく運転出来なかったんです」
 対向車も後続車も無く、車は滑るように走って行く。まだ少し寒そうな田舎の風景が左右に拡がる。沈黙のまま、先刻はるか向こうに見えていた信号を超える。
 到着地点の駅まで、仙内の運転であればあと2〜3分という位置だろう。
勝部「妻をですね、交通事故で亡くしたんです」
 ふっと勝部が口を開き、バックミラー越しにちらと容子を見た。容子は首を少し右に傾け、しかし真っ直ぐに勝部の後頭部を見ていた。勝部に気付いて、バックミラーの中でちらりと目が合う。
 容子は、はっと目を見開いてからごく僅かに動かし、それが、先をどうぞ、という意味に取れた。
勝部「・・・野尻湖って、知ってますか。長野にあるんですけどね」
 容子は反対側に首を傾げ、知らない、と伝えた。
勝部「そうですか。・・・まあ、野尻湖に行きましてね、妻とウィンドサーフィンを習ったんです。妻は山育ちのわりに泳ぎも水際のスポーツも結構いけましてね。楽しそうにやってました」
 容子の目が、話の流れを読み取って小さく揺れた。
勝部「でも私の方はあまり得意じゃなかったので、講習が終わる頃にはすっかり疲れてしまった。ひと通り終わって、遅い昼飯を食べて、その後は長野市にある妻の実家に行くことになってたんです。・・・野尻湖から長野市は、30km少々だったと思います。まあドライブしながら行くとすぐに着いてしまうくらいの距離でした」
 勝部が再び様子を伺うと、容子は動かずに聞いている。
勝部「私はお腹も重くなって、猛烈に眠くなってしまった。で、妻に、少し車の中で昼寝をしてから出発したいと言ったんです。すると妻は、実家で一緒に夕飯を作る約束をしたから、出来るだけ早く着きたいと言う。で、そんなに長い距離ではないから自分が運転する、と言うんです。妻は運転が好きな訳じゃなかったんですがね。山道だったし、どうかと思ったんだが、妻はあれで我が強い方でしてね。で、まもなく出発したんですが、私は案の定隣りですぐに眠ってしまった。・・・出発してまもなく、通り雨が降ったようです。結構激しい雨だったようで、不安になった妻は眠っている私を揺り起こそうとした。私はおぼろに聞こえているんだが身体が言うことを聞かない状態でして、そのうちに右につーっと滑った感覚があって、・・・その後私たちの車は崖からすべり落ちてしまいました。カーブでハンドルを切り損ねたようです」
 勝部がバックミラー越しに容子を見た。容子は目を見開いて、勝部の後頭部をじっと見ていた。
 駅が見えてきた。
勝部「左カーブだったので、右の運転席側から5m程下に落ちてしまった。それで、妻の方が重症を負ってしまいました。助手席に居た私は複雑骨折で済んだんですが、この右脚です、妻は植物状態になってしまいました。・・・それでも1ヶ月程は生きていたんですよ。でも、それ以上は持ちませんでしたね」
 駅のロータリーに、車がそっと停車する。
勝部「私は妻の身体を、好きだった藍染の布でくるんで棺に入れてやりたくて、ネットで探しました。都内のデパートでも勿論売ってますが、工房に行って自分で直接買いたかったんです。・・・無事葬儀も済んで、でも仕事に身が入りませんでした。それでまた、何となくこちらに何度も来てしまい、とうとうご厄介になることになったんです。いえ会社はね、私、これでも実業団で長距離をやってたんです。走れなくなってしまいましたからね。潮時と思いました」
 通り掛りのおばさんが車の中を覗いたのに気付き、勝部が運転席のドアを開ける。容子も慌てて、続いて車を降りる。
勝部「今日はわざわざお越しいただきまして、ありがとうございました。つまらない話までついしまして」
容子「あの」
 容子は言葉を探す。勝部はほんの少し、目だけを細める。
勝部「本当につまらない話を。すみません」
容子「いえ。いいえ」
 勝部は助手席側に回り込みながら、容子よりずっと後ろの、遠くを見ていた。しかし容子が気の利いた言葉を見つけようと迷っている様子は伝わって来た。
 すると容子が、足を踏み替えようとしたのだろうか、バランスを崩して1歩2歩と後ろに下がり、うわあと言いながら工房の車の窓ガラスにドン、と右手をついて、転ばないように踏んばった。
勝部「えっ、大丈夫ですか」
 容子は動揺して、はい、全然、と上の空で答え、・・・うわあともう一度声を上げた。
勝部「えっ、何ですか」
 容子の目の先を見ると、窓ガラスに5本の指の跡が点々と、くっきり指紋まで付いている。
勝部「・・・えっ、いや、いいですよ」
 容子はバッグの中を掻き回して、拭くものを探していた。
勝部「戻ってから拭いときますから。いやほんとに」
容子「だって、乗る前、運転の方、誰でしたっけ、運転の人が磨いてるの見ましたもん」
 容子はバッグの中を掻き回す。
 勝部の左手がすーっと伸びて、バッグに突っ込んだ容子の手首に触れた。容子はびっくりして固まった。
 一瞬、間があってから、勝部が、ぷぷと笑った。
勝部「加藤さん、結構慌てん坊ですよね」
容子「えっいや、そんなことは」
勝部「いやあだって、今日だって、教室で絞ってるのの糸、途中で切っちゃったって言って叫んでたじゃないですか」
容子「えっいや、そんなことは・・・いやそうですね・・・」
 勝部はほんの少し考えるようにしてから、唇をへの字に結ぶようにした。
勝部「・・・何だか私の中で整理がついた感じがしますよ。お陰様で」
 容子が、はっとして見上げる。
容子「え。えと、私、お役に立ったんですか」
勝部「ええ。すみませんでしたね。ありがとうございました」
容子「いえ。いいえ」
 足下を見ながらほんのりほほ笑む勝部が見えて、容子はやっと安心した。
勝部「しかし、それならもっとコミカルなもの作れば良かったですね、あのハンカチ」
容子「ええ?」
勝部「もっとね、面白い絵とか入れて」
 そして、でもイラストは描けないんだよなあ、と独り言になりながら、容子が居るのを忘れたかのように、製作に心を飛ばしていった。
容子「・・・あの!あのハンカチは、あれがいいです!」
 容子は無音で、何てこと言うんだと非難する。
勝部「・・・そうですか?」
容子「そうです。あれがいいです!あれがとっても気に入ったし、家宝にするの・・・あっでも、でもですね、イラストが入ったのを作られるんだったら、イラストなら、私多少・・・可愛くないんですけど、サン○オとかの丸っこいのが苦手で・・・でも鼠とかだったら」
勝部「鼠?」
容子「げっ歯類とか、好きなもので」
勝部「鼠」
 勝部は顎に手をやりながら、また製作に心を飛ばした。
容子「もしご迷惑でなければ、後で幾つかイラスト送りますよ、メールで」
 容子が暫く待って、送ります?ともう一度聞いたところで、勝部の飛んでいた心がやっとこちらに戻ってきた。
勝部「あっ、はい。・・・そうですね、送ってください。ご迷惑でなければ、こちらこそ」
 勝部がまた自分に入ってしまいそうなので、容子は手持ち無沙汰になって、左腕をこすった。勝部が、そのこすった道筋にある、腕時計に気付く。
勝部「あっこれはどうも。すみません、話し込んでしまいましたね」
 容子は、いいえ、と言いながら、腕なんかこすらなければ良かった、と思った。でももう、去り時だろう。
容子「・・・あの私、勝部さんがそんなにたくさん話すの、はじめて聞きました」
勝部「え?そうですか。・・・そうですね。工房の人たちも聞いたこと無いかもしれませんね」
 勝部は、目を伏せて笑った。
容子「そうなんですか」
勝部「そうですね。何でしょうねえ。いや失礼しました」
 そして勝部が、今日はお越しいただきましてありがとうございました、と言い、容子が、こちらこそ素晴らしいものをいただきありがとうございました、と言い、お互いに深々と頭を下げて分かれた。

 帰りの電車に乗るとすぐに、容子は鼠の絵を描き始めた。
 勝部に関する記憶を総ざらいして、ぐるぐる考えた。
 帰りの車の出来事を一連、反芻して、何で、きゃあ、でなくて、うわあ、としか言えなかったんだろうと思った。
 絵は幾つも幾つも描いて、家に着いてからも描いて、今までに描いたものも引っ張り出して、何日も吟味した。その後、やり過ぎないのには何カット送るのが良いだろうと悩み始め、1週間後にやっと3カット、メールに添付して送付した。

 2016年9月。
 藍染工房黒澤からダイレクトメールが入った。体験教室をリニューアルし、大きくしたらしい。
 鼠のイラストを送付した後、勝部からは簡単な御礼の返信が来たが、その後音沙汰が無かった。容子はメールボックスともらったハンカチを毎日見比べていたが、1ヶ月も経過すると諦めに入った。
 こちらからまた行くか、行くべきでないのか。
 あのときの、あれは、些細な触れ合いで、きっと些細な触れ合いで、勝部は忘れてしまっているのだろう。
 藍染は好きだ。それを理由に行くか?
 でも、行き過ぎだと思った。仕事も残業が多かった。黒澤は、都心から近いとは言っても、思い付きで行くには遠かった。
 容子はダイレクトメールを3回読み直した。
 ホームページもリニューアルしていた。体験教室の講師が3名に増え、一番左に勝部の写真があった。笑っていなかったが、愛想のいい自己紹介文が添えられていた。
 容子は、思わず見ていたスマートフォンの電源を切ってしまい、うーん、と唸った。
 写真は、精悍な職人、という感じ。他の2名より格上に仕立てられているし、何より若々しい感じだ。生徒のお姉さんやマダムに囲まれているのが浮かぶ。
 以前の工房では、大抵は前日でも教室の予約が取れたし、行っても容子とあと1組居るか居ないかで、インターネット通販で細々とやっている、と律子が言っていた。しかし、世間はにわかに藍染に注目し出した。4月から始まったN○Kの朝の連続ドラマで、藍染の工房が舞台に取り上げられたからだ。
 行くか。
 うーんと唸り、でも仕事がなあ、と呟く。

 2週間後の休日。
 容子は、乾みどりの新居に、会いに行った。
 みどりは初めて工房黒澤に一緒に行った時から2ヶ月後の11月の吉日に、結婚した。
 彼女は、会社の同期で一番仲が良い友人だった。しかし彼女が結婚した後は、当然のように会う機会が減って行き、出産後は御祝いを送ったきりで会っていなかった。
 彼女の人生は順風だ。先月、育児にむけて新居を購入、そこは都心から少し引っ込んでいて、近くの公園が森林浴になると言う。そこで、残業でささくれだった心を癒やすことが出来ようかと考え、容子は重い腰を上げたのだ。
みどり「それで、もらったって言うハンカチは?・・・ふうん」
 みどりは紅茶とお茶請けの菓子をテーブルに並べると、腰を落ち着ける前から右手を差し出し、見たいものを要求する。目の先のリビングで遊んでいる娘にポンポンと声を飛ばし、拡げるよーと言いながら、受け取ったハンカチを拡げて両手で目の前に掲げ、裏表を吟味しながらやっと座った。
みどり「ふうん・・・幾らくらいするんだろうね」
 容子は、みどりが藍染の価値が分からないことを承知していたので、予想通りおいでなすったと思った。
容子「ええ、どうだろう」
 でも実際、容子だって自分が藍染の価値が分かる人間か分からない。
みどり「その職人、どんな人だっけ。覚えてない・・・」
容子「ホームページに写真出てるよ。見る?」
みどり「見る見る」
 みどりは、ホームページと写真を、さあっと流して見た。それから席を立って、娘が見ているIPADの動画を切り替えに行った。
みどり「まっ覚えてるわけないよね。でもデブってる人じゃないんでしょう?加トパン、デブってる人嫌いだよね」
容子「うわ、加トパンって久し振りに呼ばれた」
みどり「んー?あー同期、もう残ってないか」
容子「男は居るけどねえ。みんな会うことないし、話すこともないよねえ」
みどり「うわあ年取るってさあ。大体、加トパンは仕事ばっかして、人と遊び行かないんだよね」
容子「好きでやってる訳じゃない」
みどり「えーそうなの。好きでやってるんだと思ってた」
容子「えーそう見えるの。・・・要領悪いから終わんないだけで」
みどり「好きな人居なかったじゃん」
容子「居たよー少しは。ただなあ。モテないんだよなあ」
みどり「そんなことなかったよ。モテてる奴等に目向けてなかったんじゃない」
容子「いやだって、好きでもない奴にモテたって」
みどり「それだ」
 そしてみどりは、加トパンは間口が狭いのだ、と言って、ホームページの写真を見直す。
みどり「でもその職人は、良いんでしょう?・・・うーん、おっさん。甲斐性無さそう。あ、ごめん」
 容子はみどりがアイドル好きなのを思い出した。
みどり「ま、さっさと時間作って、も一回工房?行くんだね」
容子「うう」
みどり「いいじゃない。上手く行くといいねえ。そして甲斐性無いおっさんを加トパンが一生養う、と」
容子「ええ。私は会社辞めたいです」
みどり「それは難しいんじゃない」
容子「うう」
 みどりと、みどりの娘と行った近くの公園は、いい感じだった。メープルの木があった。まだ紅葉には早かったけれど、半分だけ赤くなった葉が落ちているのを見つけて、拾ってスケジュール帳に挟んだ。

 仕事が押した。休日出勤も入った。行けなかった。
 行けないと思うと、余計に行きたかった。でもやらなければいけないことが次々出て来て、どんどん日にちが過ぎて行く。焦れた。
 工房がある場所は山の麓だ。真冬には、染色をやるようなところではない。しかし、やっと一息つけそうになった頃には、12月になっていた。
 気候が温暖化しているとは言っても、あそこは寒いだろう。
 でも行きたい。やっているだろうか。行きたい。
 やっていなくてもいい。
 限界と思った。12月の3週目に入った日、有給休暇をもぎ取って、新幹線に飛び乗った。
 工房には新幹線の中から電話をかけた。律子が出た。予防線を張って、ちょっと近くに行く用事が出来たので、と言った。定期の染色教室は、やはり閉まっていた。でも律子が懐かしがって、いらっしゃいと言ってくれた。送迎のバスはない。容子は最寄りの上毛高原駅から、タクシーを使った。
 教室の棟は開いていないはずなので、同じ敷地に建っている黒澤の自宅の呼び鈴を鳴らした。初めてやることづくしで気後れする。
 でももう限界なんだから、と思う。
 律子が出て来た。
律子「ええ?あらまあ、加藤さん!どうやって来たんですか?」
 そして、迎えに行ったのに、とか、懐かしいわ本当にお久し振りですね、とか、こちらは寒いでしょう、とか、玄関先で立ったままひとしきり喋った。
 容子は、変わらないなあ、と思う。
 律子は、出身はこの辺りのはずなのだが、都会人をまとっていたい感じを匂わせる人で、工房を経営し、あわ良くば拡げてやるぞという野心を覗かせる人だ。威圧感。でも容子には、それも懐かしく嬉しい。
律子「工房、新しくなってから見てないでしょ?見て行きますか?」
容子「ええ、いいんですか?」
 容子は、絶対見て帰るぞと思っていたのだが、無難な答えをする。
律子「ええ、いいですよ。どうぞ」
 でも案内してくれるのかと思ったら、違った。鍵は開けっ放しなんです、私はやりかけの仕事があるからお好きにどうぞ、だそうだ。
 容子はもう一度、変わらないなあと思い、心の中でふふふと笑ってから、では、と言って玄関を出た。
 山の風が冷たい。12月の日暮れは早く、既に空が薄墨色になっていた。
 これは勝部には会えそうもないなと、淡い期待が打ち砕かれる。
 帰りもタクシーか、呼ばないと来てもらえないな、と考える。
 でも、工房にはきっと新しい作品が飾ってある。それを見れるぞ、と心を奮い起こす。
 工房は以前とほぼ同じ場所にあった。外観が白木調に変わっていた。見慣れない感じ。実家の法事に行ったときに見た、寺の新築の本堂を思い出す。重みが消えてしまうんだよなあと思う。
 白木の格子戸を引くと、ほどんど真っ暗の、知らない空間が出て来る。でもその中に、奥の方に、覚えのある染料のかめが2個据えられているのが目に入った。容子はしばらく立ち尽くしてからほっと溜め息を吐き、そろそろと中に入った。どうせ一人なのだから、ゆっくり見て回ればいい。
 目を凝らして探してから、電気を点ける。見覚えのある机と、新しい机。見覚えのある道具箱と、新しい流し台。作品は、あまり飾っていなかった。以前は壁に幾つも貼り付けてあったので、残念だ。でも、入れ替えの途中なのかな、と思う。作業机の周りをまわりながら壁を見たときに、鋲の後が点々と見えたからだ。
 机の上にはたくさんの作品が無造作に積み上げられていた。容子は心の中で、失礼しまーす、と言って、作品たちをひとつずつ手にとった。
どれが師匠の作品だろう。どれが勝部の作品だろう。あとは、生徒のも混じっているだろうか。
 寒くて指がかじかんで来た。
 不器用にひとつつまみ上げ、ふふっと笑う。これは、勝部のだ。
 全体に凝った細かい模様が入っていて、白のコントラストが強い。
 この人が作るのって、きっとみんな時間かかるよなあ、と思う。そして、もらったハンカチの柄を思い描いて、今更ながら申し訳無いような、でもそれを超えてとても嬉しい。
 一通り見て、入口に一番近い椅子に無造作に座った。ぼーっと頭を真っ白にする。自分がとても疲れていたことを思い出す。
 凍えそう、と気が付いた。このまま粘っていても仕方が無いだろう。
 容子は来た時と同じように、そーっと工房を出て、黒澤の家に寄って挨拶をし、駅まで送りましょうかと律子が言うのを辞退し、律子は本当に忙しいようで押し問答にはならなかった、なので多少孤独を感じながら再び外に出た。
 電話でタクシーを検索しようとしたが、風が冷たかった。
 一旦工房に戻らせてもらうことにした。引き戸を引くと、中は先程より更に真っ暗だ。容子は、うう、と小声で唸ってから、そろそろと進み、電気のスイッチを探す。いやこれでは泥棒みたいだ、暗いままがいいか、と迷う。
 すると、いきなり明るくなって、目が眩んだ。
 慌てて、すいません、あの、と言いながら引き戸を振り返ると・・・勝部だ。勝部が立っていた。
容子「び。・・・びっくり」
 容子はよろめいて、机に手を付いて屈み込んだ。
勝部「いやびっくりはこっちの方です・・・来てたんですか」
 勝部は引き戸のところで固まっている。
容子「え、すいません、・・・はい・・・あの、誰も居ないって伺ってて・・・」
勝部「え、あ、専務がそう言ったんですか?」
容子「専務?」
勝部「え、ああ、律子さんです」
容子「え、ああ」
 ほんの少し間が空いた後、勝部がふ、と大きく息を吐いた。
勝部「ちょっと失礼しますよ」
 勝部は容子の脇をすり抜け、だるまストーブに火を入れた。
勝部「寒いでしょう。すみませんね」
 容子は声が出なくて、近くの椅子に座り込んだ。
勝部「さて。新しい工房はいかがですか」
容子「・・・」
勝部「何だかねえ、私は前の方が良かった感じがしますがね」
容子「・・・」
 容子はびっくりした気持ちのままだった。
 涙が出ると思った。こんなところで泣いてはいけないと思う。なので、ハンカチを出そうと、バッグの中を探った。
 勝部は、小さく眉をひそめて、口をへの字にする。
勝部「また、袋の中覗き込んでるんですねえ」
 容子はびっくりした目のまま、勝部を見上げた。そうしたら、涙が一粒だけ、こぼれてしまった。
容子「あっ、す、すみません」
 こんなアラ4(Around40代)の女が、何してるんだと思う。
 勝部は、一瞬間容子を見たようだったが、すぐに工房の奥に移動し、自分の作業に取り掛かった。
 何も言わないんだ、と思う。何も聞かない、何も言わない。不機嫌なようにも見えない。ただ、どんどんと作業を進めて行く。
容子「・・・お忙しいんですね」
 勝部が薄暗いところから容子の方に顔を向ける。
勝部「出さなきゃいけない作品がね、仕上がってないものですから」
容子「では、お邪魔しちゃいけないですね・・・ちょっとタクシーの検索だけ、ここでさせていただければ・・・」
 勝部が2・3歩、こちらに戻って来た。
勝部「いや、いいんですよ。ゆっくりしていってください。・・・あったまって来ましたか」
 勝部がこちらを見ている。恥ずかしい感じ。でも薄暗いから安心して、容子は、はい、と答え、スマホを持ったまま、不明瞭な勝部の輪郭を見つめ返した。
 勝部は容子の様子を確認すると、またすぐに仕事に戻った。
 見ていたい背中だと思った。
容子「・・・こんな時間から作業されるんですね」
 勝部は手を止めないままで、顔を1/4くらい容子の方に戻した。
勝部「いや、ずっとやってましたよ。・・・この棟の奥にね、実はもう1個建てたんですよ。そっちが“すくも”の起こし部屋になってまして。今日はずっとそっちで」
容子「あ、そうだったんですか」
勝部「今年は遅れてまして」
 “すくも”は、藍染の染料だ。この工房では、敷地内の畑で藍の栽培から染料の製造も行っている。
容子「ひとりでやられてるんですか?」
 ホームページには他の人も載っていたし、律子はやらなさそうだが、師匠だって居るはずだ。
勝部「いや、そんなことないんですがね。冬は人を減らすんです」
 そして、今年は作業が遅れたためにひとりでやる羽目になった旨を、手を進めながらポツポツ話した。遅延の根本原因は、藍染が注目されたことらしい。体験教室の生徒が増え、デパート等の展示販売の発注も増えた。
勝部「教室の方は、まあ他の者にもまわせるんですがね」
 展示販売の作品は、ほとんど全てを勝部が作っているのだそうだ。容子は、え、と言いながら首を傾げる。
容子「えと、お師匠様は。黒澤師匠?・・・そう言えば、私会ったことないわ」
 教室は弟子に任せているんだろうと思っていたので、疑問に思ったことがなかった。勝部は振り向いて、あれ、という顔をする。
勝部「・・・加藤さんが初めていらしたのって、いつでしたっけ」
容子「え、えーと?・・・3年?前ですかね?」
 ここに来た日を反芻しながら、さかのぼる。
勝部「あーそれじゃ、師匠が脳梗塞やった後ですね」
容子「脳梗塞」
勝部「うん。いやそんなに酷いのじゃなかったんだが、利き手が自由に行かなくなりまして。・・・作品はもう作ってないです。畑は手伝ってくれるんですが」
 そして、いや畑にも今年はあまり出なかったなあ、と呟く。
容子「それで、作品は全部、勝部さんがやってるんですね」
勝部「まあそうです」
容子「たいへん」
勝部「・・・いやね、展示販売とか、受けなきゃいいんですよ」
 でも受けちゃうわけね、と容子は声に出さずに考える。・・・律子さんか。
容子「・・・でっ、間に合いそうですか」
 と聞きたくなるくらい、勝部は疲れて見えた。勝部は、そうですねえ、と言って、手を止めて考え込んだ。
勝部「まあ何とかしますよ。・・・泊まり込むなり、あと色んなもの削れば」
 律子が、容子の上司みたいに見えて来た。会社の大小問わず、どこでも人間関係は同じらしい。
 管理職はいつも、やれやれと言う。何故納期までに出来ないのかと、言う。容子は、えーんと心で泣きながら、残業をして、時にサービス残業をして、くたくたになって、仕事をやっつけるのだ。
容子「あの!・・・私、手伝いますけど!」
 言ったそばから、顔が熱くなった。何を言ってるんだろう。私はアラ4(Around40代)なのに。
 勝部は驚いていた。でも色々言う元気が無いのだろう、こちらを見て立ち尽くした。
容子「いえあの。明日の午前中まで、私、休みを取ってるんです。今日は駅前のホテルに泊まることになってて、だから、今日だけなんですけど」
勝部「いやいや」
 勝部は背中を向けて、作業に戻った。
容子「だって、今日は来たけど私は何にも作れなかった訳だし。残念だし。・・・あっでも、素人がお手伝い出来るようなことはないんですかね」
 もう引き下がれない。
 勝部は、いやいや、と何度も言ったが、容子は食い下がった。
勝部「あ、それなら」
 面倒になったのか、勝部が不意に折れた。
勝部「加藤さん、グラデーション上手かったね。あれ、僕はあんまり上手くないから・・・じゃ、グラデーションやってもらえますか」
 容子は雑用でないのが振られてぎょっとした、が、はいっ、と大きく返事をした。
 指差されて、壁にかかっている、藍色に点々と汚れた割烹着と、長靴と手袋を装着する。
勝部「これ、暖簾ね。ここから、ここに、グラデーションかけて」
 勝部がぶっきらぼうな先生に戻ったので、また、ぎょっとした。
 でも、布地を持って染料の上にスタンバイしたところで、すーっと勝部の手が伸びて来て、染料に潜らせるところを何回か、手を添えたままやってくれた。容子はこの後、これと同じ動きを繰り返せば良い。ほっとした。
 終わったと思ったら、次のが来た。グラデーションをかけるものは、3点あった。容子も、勝部も、必要な作業の会話だけで、黙々と進める。
 勝部がふいに顔を上げて、やや、と声を上げた。時計の針がもう少しで明日になろうとしていた。
勝部「いけません。もう上がりましょう。すみません。夢中になってしまった。それ、終わりますか」
 勝部は容子の3個目のグラデーションの具合をチェックして、ふむと言い、あと3回浸けて終わりましょう、と言った。
 終わったと思ったら、もう腕が上がらなかった。職人の仕事って、と、回らない頭でぼーと考える。
 真っ暗な外にそーっと出て、勝部の後について敷地を渡り、勝部の車にそーっと乗り込む。
 勝部は容子を駅近くの居酒屋に連れて行った。
勝部「飲みますか」
 容子は、うーん、と回らない頭で考えて、結局ソフトドリンクにした。ここで飲んだら、明日午後から働ける気がしない。勝部も運転するからと言って、ソフトドリンクにした。カウンターの向こうの店主が、何食べるだけなのーと声をかけて来た。勝部はほとんど毎日、ここで夕食を摂るようだ。勝部と店主とのしどけない会話が不思議で、容子はぼーっと聞いていた。
勝部「加藤さん?・・・すいませんね、疲れちゃったでしょ」
 店主が、はいよ、と言いながらカウンター越しに皿を勝部に渡し、勝部は受け取って容子の前に置いた。湯気が上がる焼きうどん。小皿に取り分けようとすると、そのまま食べろと言う。勝部自身は、刺身を一切れすくい取り、醤油皿経由で口に放り込んだ。
容子「・・・美味しい」
 実際のところは、疲れ切っていて温かければ何でも美味しいのか、本当に美味しいのか判断がつかなかった。勝部はカウンターを見たまま薄く頰笑んで、また、刺身を一切れすくい取り、醤油皿経由で口に放り込んだ。
店主「勝っちゃん、ここんとこモテモテだね」
勝部「そんなことないよ」
 店主が、だって別嬪さん連れてー、のようなお世辞を言い、勝部が容子のことを教室の古い生徒、のように粗々説明をする。
容子「勝部さん、モテモテなんですか?」
 容子は答えてくれそうな店主の方に、振る。店主は勝部を見て、許可を取る。勝部は、大仰に箸を持った右手を振った。どうでもいい、と言うことなのだろう。都会のマダム調の人を連れて来たらしい。他の日には、教室の団体客に囲まれて、ここで親睦会をやったらしい。
 都会のマダム調の人、は、今度出すデパートの担当の人、と、勝部が簡単に説明した。
容子「どこのデパートですか」
勝部「池西(池○×武)」
容子「えー、東京の?」
 N○Kのドラマの勢力は絶大だなと思う。絶対見に行こうと思う。
容子「じゃ、東京にいらっしゃるんですか」
勝部「いやいや」
 営業的なことは全て律子に任せているのだそうだ。たまには見にいくこともある、と言う。
 容子は、何だこっちに来てることもあるんじゃないか、と思う。
容子「あっそうしたら、今回は私が手伝ったのも並ぶ訳ですね。うわあ」
勝部「うん。そうね。実際助かりましたよ。加藤さん、グラデーションはほんと上手いよね」
容子「グラデーションは」
勝部「だって、型抜きさせたら色入っちゃうでしょ。絞りもさあ、まあ売り物にはちょっとねー」
容子「プロじゃないんだから、いいじゃないですか」
 勝部は飲んでもいないのに、くつろいだ顔で、ふふーと笑う。容子も、飲んでもいないのに、酔いが回って来た。
 居酒屋を出て、すみませんと言いながら予約していたホテルに入って、そのままベッドに突っ伏した。
 5秒で眠れそう・・・でも頭が冴えて来て、眠れなくなった。

 出社すると、プレゼンの資料作成が未着手でどーんと残っていた。残業して、週末はがっつり出勤、と回らない頭で考える。死にそう・・・といつもと同じ台詞を頭の中で回してから、いやそうでもないな、と気付く。だって、勝部もやっている。容子だって、やるのだ。
 類似のプレゼン資料をテンプレートにして開きながら中身を斜め読みし、そうだ、と思い付く。
 そうだ。今まではやらないだろうと思っていたから、でも提案してみたら、有りかもしれない。

 仕事は続く。給料をもらっている身分としては、やるしかない。
 容子は、ワンルームのアパートの玄関先の、小さなスペースに藍染のものを置いて、出入りする度に、軽く撫でたり、時間が無いときはかすめるように触れて、気持ちをリセットした。
 容子が制作を手伝った作品の展示については、工房のメールアドレスから勝部が日程を知らせて来た。手伝った日の8日後だった。本当にギリギリで作業していたんだ、と思う。
 行ける気がしない。
 資料作成は遅々として進まず、他の作業が割り込み、今日こそと思った日にはノー残業デーです、と言って会社を追い出される。自分の家で作業することは出来ない。資料は社外持ち出し厳禁なのだ。
 でも、やるんだ。
 やるし、行く。デパートの展示期間は土日から翌週の土日まで、9日間。容子は最終日の日曜、ねばって会社で資料を作って、閉店10分前にデパートの催事場に駆け込んだ。
 売り場は所々、片付けに入っていた。道すがらスマホで会場の見取図を予習していたのに、現地に行くと迷って、店員に場所を聞く。
 あった。壁に貼られた、細かい細工の藍色の風呂敷が、目に飛び込んで来た。少し離れたところから、全景をみる。工房黒澤、と札が立っていた。容子が手伝った暖簾もあった。でも全部で4点しかなかった。売れたということだ。
 良かったね、と思った。同時にものすごく悲しくなった。

 冬は寒い。今年は特に寒い。でもTVでは暖冬と言っていた。

 冬は、染物教室はやっていない。黒澤に行く理由が、全く無い。

 容子は、勝部個人の連絡先を知らない。何て薄い。何て細い関係なんだろうと思う。
 道を歩いていても、どんどん背が小さくなって行く気がする。頭から押し付けられて、終いに地面のコンクリートに吸われてしまいそうだ。
 それでも仕事は続く。終わらない量で、後から後から湧いて来る。

 2月の最終週になって、黒澤からダイレクトメールが届いた。
 3/25(土)から体験教室を再開すると言う。鼠のイラストの作品は、数点試作したが芳しくありません、と書き添えてあった。・・・つまりこれは、勝部から発信されたメール。
 限界だ。
 昼休みに、工房の電話を鳴らした。誰も出なかった。夕方も、誰も出なかった。
 鼠のイラストの件は、容子の方では諦めていた。気に入らなかったのか、忙しいのか、とにかく忘れられたか捨てられてしまったのだろう、と思っていた。
 少なくとも、捨てられてはいなかった。でも、社交辞令として1個2個作ってみたのか、更に試作したい気持ちがあるのか、分からない。
 作ったことにしただけなのかもしれない。
 マイナス思考で心臓が潰れそうだ。限界だ。
 土曜の昼時、容子はスマホをテーブルに置いて、じいっと見つめた。見つめ続け過ぎて、別のダイレクトメールが届いた音で、驚いて飛び上がった。観念して黒澤に電話する。
 知らない女の声が出た。勝部は居なかった。
 夕方、憂さ晴らしに風呂を磨き込んでいたときに、電話が鳴った。手に付いた泡を拭うのがもどかしい。
勝部「お久し振りですね。御用がありましたか」
 久し振り、と思ってくれているのだ、と思った。
 工房との繋がりは、信じられないくらいスローだ。コンタクトを取る間はいつも、数ヶ月、半年と空いてしまう。2ヶ月半前はついこの間、と感じられても良いのだ。
容子は、慌てて咳き込み、大丈夫ですかと言われてしまう。
容子「ね、鼠・・・」
 少し間が空いた。
勝部「鼠のイラストですね」
 容子が何も続けないので、勝部から話し出した。
容子「あっはい」
勝部「いやなかなか難しいですね、あれ・・・そう、コミカルなものはほとんど作らないから」
容子「あっそうですよね」
 でも出来た作品が見たいです、と言ったが聞き取れなかったようで、聞き返されてしまった。
容子「でも今また仕事が忙しくって」
 また聞き返された。ずっと気持ちが参っていたので声が小さいのだ。黒澤に見に行きたいがなかなか行けない、と言い直した。
勝部「わざわざ見に来るようなもんじゃありませんよ」
容子「じゃ、写真とか送っていただけたら・・・ああ、そんな暇ありませんかね」
勝部「いや写真くらい撮れますが・・・完成していないものをメールするのは、ちょっと」
容子「工房のメールだからですか・・・それなら、L○NEとかF○ebookとか、・・・勝部さんSNSやってないですか」
 少し間が空いた。鬱陶しく思われている感じがする。
勝部「・・・ガラ携(帯)なんですよ」
容子「えっ。あら」
勝部「パソコンもねえ。家にありませんしねえ」
容子「えっ。あら」
勝部「まあ、家は寝に帰るだけですからねえ。まあ、本当は画像いじったりとか、パソコンでやりたいところなんですけど。そろそろねえ」
容子「画像って、Photoshopとかですか」
勝部「?それ何ですか?」
容子「ああ。Adobeのソフトです。・・・私、実は最初の会社がWeb系で、て言ってもちょっとで転職しちゃったんですけど、でもPhotoshopなら、多少分かりますよ」
勝部「へえ。若い人はいいですねえ」
容子「いや若くないです」
勝部「いや僕から見たらね」
 容子は話が和んできたのでほっとした。
容子「パソコン買うなら、お付き合いしますよ。でも、電気屋さんなんてなさそうですね、工房の近くに」
 勝部が、ははっと笑った。
勝部「いや何にもないでしょ、ここ」

 勝部は、数日後、ガラ携から試作品の鼠の画像を送って来た。「芳しくないです」とだけ、文が添えられていた。容子は業務中に盗み見て、ぶぶぶと吹き出すのをこらえた。
 作品の出来は置いておいて、この写真。下手過ぎる。この文だって。
 これは真面目におじさんなの、それともウケ狙ってるの、と思う。
 すぐに返信しなかった。失敗しないように良く吟味して、帰りの電車で書いたけれど送らず、家に帰ってから見直して書き直して、やっと寝る前に送った。
「写真どうもありがとうございます。作品、私は好きです。鼠の目、絞ったんですね。インパクトすごいですね。これを更に改良したら、工房のイメージ商品になるんじゃないかと思いました。夢を見過ぎですみません。ところで、電話で話したPhotoshopですが、これが入っていると、イラストとか写真とか、インターネットから落としたものをネタにして加工して使えるので、作品のデザインが拡がってお役に立つのではないかと思いました。ちょっと高いんですけど、物を作る人たちが大勢、頼りにしているソフトなんです。私で良ければ、いつでもご相談ください」
 幸福感でベッドに入る。
 やった。勝部のメアド、Getだ。

 2017年3月の終り。上越新幹線上毛高原駅。
 今日は、勝部がパソコンを買うのに付き合う。
 緊張して、夜眠れなかった。子供か、と自分に突っ込む。
 緊張しているので、作戦を立てた。待ち合わせは1時だ。それより早く着いて、以前勝部に連れて行ってもらった居酒屋に行くのだ。あそこは駅から歩いて行けるし、確か、ランチをやっていると言っていた。勝部の情報が仕入れられれば、仕入れたい。
 居酒屋は、前回は夜中に行ったので道をうろ覚えだったらしく、迷った。それでも小走りで頑張って、12時より前に入った。カウンターに座って、店主に、こんにちは、私を覚えていますか、と言ったら、うーん、と首を捻られてしまったが、勝部の名前を出して、思い出してもらえた。
店主「そういや、あの人、パソコン買うって言ってたっけね」
容子「そうなんですー。で、私今日、一緒に行くんですよ。で、その後、工房で作品も作らせてもらう予定で」
店主「ああ、生徒さんって言ってたっけね。にしてもすごいね。女の人なのに、パソコン詳しいんだね」
容子「いえー、パソコンはあんまり、なんです。実は。でも勝部さんよりは知ってると思うんで。あと、制作で使うアプリをですね、まあこっちは私、ちょっと知ってるんでお手伝いを」
店主「へええ」
 唐揚げとコロッケが乗ったランチが来た。容子は、熱々ーと言いながら、大きな口で頬張る。店主は、こないだは随分かしこまってたんだねえと言って、ちょっとの間、カウンターに頬杖をついて容子を観察した。
店主「で、勝っちゃんのこと、何か聞きたいの」
 容子は、びくりと箸を止める。見破られたり。
店主「いやーだって、飯食うなら他にも店あるでしょ。ここ、駅から歩くでしょ」
 そして、勝っちゃんモテモテだなあ、と言う。
容子「・・・じゃあ、正直に伺いますが、・・・どうなんですか」
店主「どうって」
容子「いやそうですね。・・・えーと、じゃあ、本当にモテモテなんですか」
 店主は、口を真一文字にして考えていたが、別の客の注文を聞きに行ってしまった。カウンターに客が増えていた。
 焦れるなあと思う。容子には今日、時間制限があるのだ。
 大体食べ終えて水を飲んだところで、店主がまた戻って来た。
店主「いやごめんね」
 容子は、そろそろ待ち合わせの時間が来るので、財布を出していた。
店主「あのさ、勝っちゃんは、止めといたらいいと思うよ」
容子「・・・何でですか」
 時間が止まる。店主は腕組みをした。
店主「だってあんた、真面目そうだからさ」
容子「・・・真面目だといけないんですか」
 声が尻すぼみになる。
店主「だってあんた。勝っちゃん、大体、結婚する気ないでしょ」
容子「ああ」
 そうか。奥さんが、吹っ切れないと言うことか。
 店主は、容子が真面目方向に考え込んだのを見て取る。
店主「いやそれにさ、・・・うーん、まいいか、勝っちゃん、この頃上手いことやってると思うよ。いや聞いてないよ。俺の勘だけどさ」
容子「上手いこと?」
店主「大体さ、元は、勝っちゃんはモテんだよ。陸上やってたってさ」
容子「・・・ああ・・・」
店主「あれ、知ってたの。ふうん。速かったんでしょ。実業団で走ってたって言ってっから・・・まあすっとさ、ファンとか出来んでしょ。まあそんな話よ」
容子「・・・」
店主「あの人、ずっと隠遁生活っての?うんそれ、してたみたいだけど、思い出しちゃったんじゃないの。モテてたときの。ほらさ、あそこちょっと、ブームなんでしょ今。ほらドラマでさ、N○Kの」
容子「・・・ああ・・・」
店主「で、ここんところ上手いことやってる訳よ、うん。俺あ、あのマダム調の女だと思うけどね。2回くらい連れて来た。あとは知らねえけど、教室の生徒かなんかもいるのかもしれないな。・・・あんた、しばらく会ってないの、勝っちゃんに」
容子「・・・はい」
店主「ふーん。ま、いいや。俺は知らない。本当のとこはさ。俺は知らないよ」
 遅刻しそうで、駅まで走った。
 心臓がばくばくする。でもそれは、走ったからよりも、不安がはち切れそうだからだと、分かっていた。
 勝部は時間よりも早く来ていて、車のドアにもたれかかりながら缶ジュースをすすっていた。
 勝部の車は、かわいい。丸っこいクリーム色の軽自動車だ。ついでに飲んでいるジュースも、かわいかった。ロイヤルミルクティーだ。
容子「勝部さん、甘党なんですね」
 容子は助手席に乗り込みながら、缶ジュースホルダーに収まったロイヤルミルクティーを見る。
勝部「そんなことないよ。ほら。微糖」
 勝部は、微糖、と書いてあるところを、左手の人差し指でピンっと弾き飛ばす。
容子「電気屋さん、どこにあるんですか」
勝部「んー、沼田ですねえ。行ったことありますか」
 容子が、ない、と言うと、新幹線は通っていないけれど、元々あっちの方が栄えているのだ、と説明してくれた。そして、ケー○デンキの場所をスマホで調べてくれと言われ、容子が検索した住所を、信号待ちしている間にカーナビにセットした。
勝部「さて、ちゃんと働いてくれるかな。あんまり使わないからなあ」
 居酒屋の店主に言われたから余計なのかもしれないけれど、勝部は陽気そうだ。肩の力が抜けてテロンとした感じ。実際、右肘を運転席の窓枠に引っ掛けて、右手は指先だけでハンドルを操作していた。
 マダム調の女。池西の女。本当?
 聞きたい。でも聞いてはいけない。絶対だ。今日はいい雰囲気で過ごすのだ。演技してでも。絶対。
 だから、車の中では無難な会話をした。でも全て、知りたくて今まで頭の質問リストに書いていたこと。
 勝部さんの出身はどこですか? −−東京だそうだ。
  東京って言ったって、色々あるんだよ。大島、新島・・・
 と言ったくせに、離島出身ではないそうだ。昭島市だそうだ。軽く田舎だよ、と言った。
 じゃあ、実家に帰ることはあるんですか? −−ここのところ帰っていないそうだ。
  家には兄がいるからね。長男じゃないと、気楽なもんだよ、だそうだ。
 お休みの日は何してるんですか? −−何もしていないな、とのこと。
  少しばかり掃除して、洗濯するくらい。大体、休みらしい休みってあんのかな、だそうだ。
 じゃあ料理とかはしないんですか? −−しないね、とのこと。
  うちの冷蔵庫、野菜室はテープ貼ったままだよ。冷蔵庫買ったときに貼ってあった、テープ。
 やっぱり、楽しそうだ。と言うより、雰囲気がなまめかしくなった。私以外の原因で、と思う。
 でも落ち込んではいけない。今日出来る限りのご奉仕をするのだ。
 パソコンは、WindowsのLapTopにしてもらった。画像を扱うならMacも良いのだが、世間的にメジャーなものの方が使い易いだろうから。Wi-Fiはモバイルタイプにした。そうすれば、工房にも持って行き易い。そして、Photoshopを買った。
 おまけに、工房で教室をやるときに、IPADminiを使うと便利ですよ、と勧めた。これについては、律子と相談するそうだ。
 パソコンは、買っただけでは動かない。パソコンの設定は、容子も得意ではなかった。なので、電気屋のお任せサービスに初期設定を委託した。Photoshopの操作は、容子が時間を見つけて教える約束をした。
 工房に行ったところで、鼠の試作品を見せてもらった。写真で見たよりシュールだった。容子は小さな声で笑った。
 そして、何も聞いていなければすごく笑えたのに、と思った。
 この日は教室の生徒に、加古さん、という人が居た。加古さんと言っても、加藤さんと言っても、二人共返事をするので、勝部は、容子を、容子さんとか、容子ちゃんと、呼んだ。
 工房を出て、勝部にさよならを言って、電車に乗って、自分の家にやっと帰り着いたら、たくさん、涙が出た。

 祝日や、ときには土日を使って、工房に通った。容子の仕事が去年より落ち着いたから出来たのだが、それでも月1回行くのがやっとだった。
 工房の側からすれば、ただの馴染みの生徒がこんなに来るのは、異常事態だった。が、律子は工房が上手く行けば何でも良いらしく、6月の日曜日に行ったときに初めて、お車代の足しにでもしてと行って、御礼と走り書きした封筒を渡して来た。5,000円入っていた。
 実際、容子は工房に行っても作品を作らない日があって、勝部のパソコンに向き合い、代わりに画像を編集したり、勝部の後ろや横から操作を教えたりしていた。時間が取れて作品を作ったときには、受講料は無料になった。勝部から連絡を取って来て、東京で、Wi-Fiが使えるカフェを使って作業することもあった。

 勝部のファイルを開く度に、容子は、おや、と思った。勝部がPhotoshopで練るデザインが、少しずつシンプルになっている気がする。良いことなのか、そうでないのか。
 7月に工房に行ったときは、勝部が不在で、要望のメモ書きがパソコンの上に乗っていた。
 がっかりしてしまったので、工房の作品を見てから作業に入ることにする。そして改めて、おや、と思った。
容子「これ、勝部さんの作品ですか?」
 律子は、当たり前のように、そう、と言う。
 シンプルになっている。シンプルになっているというか、・・・とにかく、容子はあまり好きになれなかった。
 何だろうと思う。他の作品も、ここ1年で作ったものを、あるだけ全部見せてもらった。
容子「何て言うか・・・ちょっと変わりましたね」
律子「そうですか」
 律子は気が付かないのだろうか。
律子「まあちょっと、凝らないものを作るようになって、その分たくさん作れるようになりましたね、やっと」
 では、律子は、これで良いのだ。これが良いのだ。
 容子は、気付かれないように溜息を吐いた。
 パソコンを使うようになったからなのだろうか、と思う。無造作に2・3個、目の前に並べる。
 シンプル。違う、と思う。
 容子が好きな、大好きと思った勝部の作品は、それぞれ、渾身の、刹那と感じるくらい心の入ったものだった。それが作品の細かさに出て、ぎゅうと惹きつけるのだ。
 デザインをシンプル化しても、繊細さは出るものだ。でも違う。どこか、緩んで感じる。
容子「・・・勝部さんは、今日は用事があるんですね」
律子「ああ、何だかね、すみませんね。昨日急にね」
 そして、この頃たまにあるんですよ、と、まあやることはやってくし、教室は他にもやる人がいるんで良いんですけどね、と言った。
 Photoshopなんて、勧めなければ良かったのだろうか、と思う。
 でも、思いつくことは全てやらなければ、でなければ、勝部との繋がりは切れてしまったのだ。

 7月以外は、勝部は居た。
 容子は、Photoshopの使い方だけでなくて、画像の配置とか効果を足したり、Web経験者の観点からと言って、デザインにも口を出してみた。
 勝部は、じゃあ容子ちゃん、それやってみるよ、と言った。容子の言うことを聞き入れたのは、意外だった。
 勝部も、何かを感じているということだ。

 その次に会ったときは、デザインに葉脈を入れる話が出た。容子は、以前にみどりの家に行ったときに拾って来たメープルの葉がスケジュール帳に挟んであるのを思い出して、すっかり茶色になった押し葉を見せた。色々な葉を拾いに行きましょう、と誘って、都内の洋木和木が多種ある公園に来てもらい、公園中を歩き回った。

 8月。容子は、社内のコンペで、温めていたアイデアを出した。
 容子の会社は、JR○×の関連会社で、駅構内や改札周辺に出すテナントの運営管理をしている。
 コンペの題材は、浦○駅構内の小さな一画の、テナント入替だった。
 浦○駅は、そこそこ大きい。都内通勤者のベッドタウンとなっているが、上越方面への乗換としての利用も多い。容子は、上越の染色を中心にした工芸品のテナントを提案した。新潟には注目の染物店があった。新幹線沿線からは少し外れるが、桐生には有名な桐生織があった。そして、藍染として、工房黒澤を上げた。
 藍染は昨年のドラマ以来注目されている、だが本拠地は四国で遠い、しかし関東近辺にも優れた作品を作り、また体験できる場所がある、と言って推した。
 コンペの勝率は、低いと思った。でも名前を出す以上、黒澤には承諾を得ておかなければならなかった。電話を入れると、予想通り、律子は大喜びだった。実現の可能性について、期待をしないように言い聞かせるのに、苦労した。

 コンペは、負けた。
 9月に工房に再び顔を出して、お騒がせしてすみません、と謝った。
 ところが同じ月の月末、上期が終わる頃になって、通った方の企画が取り止めになった。目玉のテナントが出店不可になったのだ。急いで負けた企画から実現可能なものが再検討され、・・・容子のが通ってしまった。

 開始時期が遅れて企画が通ると、嬉しさは無い。
 仕事が、猛烈な量になった。やらなきゃ良かったとか、考える暇も無かった。
 浦○に行って、帰って新潟に行って、帰って桐生に連絡を取って、それから提案に出さなかった染色以外の工芸品も足さなければならず、それを選定して上司に通して、候補の店に行って、勿論黒澤にも行った。
 勝部は芸術家気質だ。同じものを量産提供するのに抵抗があることを、容子は知っていた。通販の受注も、気乗りがしない中でやっていることを知っていた。でもこの際、気遣っていられなかった。分かっていて、コンペに出してしまったのだ。
 一定量の商品を、絶やさず陳列する。商品の種類やデザインは、容子の側を通して了承を取り、OKが出ないと制作に入れない。
 全体の体制の説明に行ったとき、勝部は思ったより友好的だった。2年前だったら、打合せの席で、律子と勝部の対立が見えただろう。
 店の定番デザインには、容子が前に送った鼠のイラスト、大分改良されたが、それも入った。容子と勝部は頭付き合わせて話し合い、量産出来るデザイン、勝部以外の者も作成可能で、ある程度短時間で仕上がるデザイン、を詰めて行った。ビジネスマンとビジネスマンの仕事だった。

 年末近く、東京のオフィスで勝部と打合せをした。わざわざご足労いただいてありがとうございました、と言って別れた後で、会議室に戻って拡げたままの資料をまとめ、この室から勝部が外に出るところが見えることを思い出して、窓に寄った。夕暮れ時だった。
 勝部は既に外に出ていて、容子が見下ろすところの真下に立って、携帯電話を見ていた。何かあるのかなと思ってそのまま見ていると、・・・道の向こうから女が手を振りながらやって来た。
 初めて見た。居なくなるまで凝視した。それから腰が抜けて、窓を背にしてうずくまった。
 あれがマダム調の女か、と思った。確かに夜会巻に見える髪型だったが、容子が思っていたより全然若い。容子より5つかそれ以上年下だろう。
 疑いようもなく慣れた感じで、寄り添って去って行った。

 何があっても、仕事は無くならない。
 浦○駅の仕事をした。他のテナントの管理継続の処理をした。他の駅の新しい企画も始まった。
 正月の挨拶回りでは、黒澤にも行かなければいけなかった。勝部は居た。容子は顔を見れなかった。

 2018年3月。
 浦○駅のテナントが始動した。容子は、前日の夜現場に詰めて、ディスプレイを総チェックした。
 あれ、と思う。黒澤の場所、壁に吊るした出来たてのバンダナ。以前の勝部の作品に、少し戻っている。容子は、口の端を引き結んだまま、小さく微笑んだ。
 家に帰った後、クタクタな中で、涙が出た。

 浦○駅のテナントは、走り出した後は、容子の範疇では無かった。
 別の仕事がどんどん被さって来た。アラ4(Around40代)のお一人様のワーキングウーマン、だ。好きを仕事にしている人って、この世にどれだけ居るんだろう、と毎日思う。
 それでも夏休みは、短くても取らなければ行けなかったので、8月の終わりにやっつけで入れて、久し振りに黒澤に行くことにする。
 黒澤の体験教室は、Webサイトで予約制になっていた。昼休みにサイトをチェックして、残席少の△マークが付いているのを、危ない危ないと思いながら予約を入れて、そうだと思って、業後に浦○駅のテナントを覗いてみることにした。
 またしても、浦○駅に着いたのは閉店ギリギリだ。顔見知りが居ないことを確認して、そーっとディスプレイを舐めて見た。黒澤のところはわざと焦点をぼかして隣りにスライドし、最後にする。つい、あちこち直したくなる。
 さて黒澤のところは、・・・量産の小物、ディスプレイは少し直したいけれど、品質はOKだ。そして壁にかけている大物、・・・OKだった。
 明らかに勝部の作品。最初に見たときのような尖った感じは無いけれど、繊細な紋様が戻っている。両手が上がって、お祈りするみたいに口のまわりに組み合わさった。良かった、と何度も呟いた。

 ところが。
 黒澤に行ってみると、殺伐とした空気になっている。
 体験教室はやっている。送迎バスは、記憶と同じように仙内が運転して来た。講師も2名居た。
 でも、全体に雑然としている。
 講師のひとりに、勝部さんは今日はいらしてるんですか、と聞くと、畑に出ていると言う。
 律子さんは、と聞くと、・・・師匠が2度目の脳梗塞で倒れたのだそうだ。
 勝部のところに行くべきか悩みながら久し振りの染色をし、つい型抜きに手を出してまた色が入った、それから、仙内を捕まえようと、思い付く。
 早目に作品を仕上げて外に出ると、仙内は相変わらず車を磨いていた。
 師匠は、先月畑で倒れて、病院に運ばれたのだそうだ。最初は熱中症かと思ったのだそうだ。今度のでは、上手く喋れなくなって、目もあまり見えなくなってしまった、まだ入院していて、律子は毎日通っている、とのこと。
 今の状況で作品を仕上げて行けるだろうか。
 テナントの商品を減らす?減らすとしたらどの商品?
 容子は、ちょっと行って来ていいですか、と仙内に断り、小走りで畑に向かった。
 勝部は畑の中から容子を見留めて、鋤に寄り掛かって待っていた。
 仙内と同じ情報しか得られなかった。うちのテナントや、通販は大丈夫ですか、と聞くと、大丈夫ですよ、ちゃんとやれます、と固い返事が帰って来た。
 どんどん、勝部が遠くなって行く。でも容子の気持ちは、同じままなのだ。
 ずっと。何年も。
 それでも仙内が見えると、待たせては行けないので、また小走りになった。今日の生徒は、容子の他は皆、バスに乗り込んでいた。
 仙内が、運転席の後ろに座れと言う。
 道すがら、仙内が運転席の方に首を出せと、容子を手招きし、後ろに聞こえないくらいの音量で喋った。
仙内「勝っちゃんと、律っちゃんの結婚話が出てんだよ」
容子「えっ?」
仙内「・・・師匠がさあ、脳梗塞2度目でしょ。目も見えないし喋れないしで、俺はもう死ぬって言い出してさ。工房どうしたらいいかって、毎日律っちゃんに言うわけよ」
容子「それは・・・」
 容子の頭の中は真っ白で、言葉が見つからない。
仙内「・・・そんで、閉めるんなら閉める、やるんならやるでいいって先だっては言ってたくせに、今度は、律っちゃんと勝っちゃんで継いでくれって言うんだってさ。そんなこと思い付いちゃったもんだから、あとはもう、継いでくれ、継いでくれ、だよ」
容子「それはまた・・・」
 容子は、言葉に詰まった。が、続きを聞きたくて腰を浮かせて更に身体を乗り出した。それで、仙内は、うん、と頷いた。
仙内「今はもう、律っちゃんは乗り気になっちゃっててさ。後は勝っちゃん待ちだね」
 目に写る風景が、ぐにゃりと歪む。
容子「・・・律子さんと勝部さんですか?・・・大丈夫なんですかね?」
仙内「え?ああ、気が合わねえんじゃねえかって?・・・まあさ、合う方じゃねえかもな」
容子「・・・ですよね」
仙内「・・・んでも、何とかすんでしょ」
 容子は、考え込んだ。そういう組み合わせがあるのか、と。
容子「・・・勝部さん、受けますかね」
仙内「さあなあ、5分5分かね」
容子「・・・なかなか、年の差カップルですね。・・・勝部さん、断ったら・・・どうなるんだろう」
仙内「ええ?どうかなあ。・・・辞めちゃうかもしんねえな」
容子「・・・ですよね。居ずらくなりますよね」
仙内「まあ、男ひとりだから、何とでもやってけるんじゃないの」
容子「そんな」
 勝部の作品が、この世から無くなるかもしれないのか、と思う。二度と会えなくなる、これは恐ろしくて、頭に浮かぶなり打ち消した。
仙内「まあ、そんな感じですよ」
容子「・・・どうなるのかしら」
仙内「まあ、まとまった時はさ、ホームページに何か載せるんじゃないの。新着ニュースとかでさ」
 年寄りの結婚話なんて、ホームページに載せるだろうか、と容子は思う。しかも、勝部と律子だ。
容子「・・・仙内さんも、残念だったんじゃないですか」
 仙内は、そうさねえ、と曖昧に言いながら、ふーん、と鼻で息を吐いた。

 黒澤の後継問題は、気になって、気になっていたけれど、容子には立ち入りようがなかった。
 勝部の作品に会えなくなるのは耐えられなかった。浦○駅に何度も行って、その度に、勝部のだと分かる作品を購入した。
 ホームページを毎日チェックした。講師から勝部が居なくなったら、写真が消えるかもしれない。

 11月が終わる頃、会社の帰りに、黒澤のホームページを見ていた。電車の中だった。講師のページを見て、まだ載っている、と確認した後で、何気無しに会社概要のページを開いた。あっ、と声を上げた。
 社長が律子になって、専務が勝部になっている。
 勝部も律子も、掲載の苗字は変わっていない。でも。
 電車を降りるのももどかしく、電話をかけようとした。
 でも、誰に?
 工房にかけてどうする、と思う。勝部にかけてどうする、と思う。
 黒澤のホームページに戻って、教室の予約を、一番すぐに取れる週末に入れてしまった。
 仕事は相変わらず忙しい。でも以前、どうやって無理やり行っていたか、思い出した。

 2018年12月。
 迎えのバスは、勝部が運転して来た。待っていた生徒は、容子ひとりだ。
勝部「また、貴方は寒いときに来るのが好きですねえ」
 勝部はあまり、出会い頭に社交辞令な挨拶をしない。今も、昔も、だ。
容子「仙内さんは、今日はいらっしゃらないんですか」
勝部「寒くなりましたもの、人減らしですよ」
 今更だが、仙内が工房の2軒先のキャベツ農家の息子で、ドラ息子で、朝、農作業を手伝った後は、気楽に個人タクシーをやって、気楽に、ほぼボランティアで送迎バスを運転していることを、知る。
 容子は何を言っていいか分からず、黙りこくってしまった。
勝部「・・・貴方って人は・・・僕はね、喋る方じゃ無いんですよ。それなのに、つい喋ってしまうくらい、黙っちゃいますよね。時々」
 容子は思わず目を上げた。バックミラー越しに、勝部と一瞬、目が合った。
勝部「・・・でも何て言うか、それも懐かしいですね」
 勝部は前方の遠くを見て、ふ、と笑った。

 教室に入ると、勝部が見慣れただるまストーブに火を入れる。
 2日前から断続的に冷たい雨が降っていて、室内が夕方のように薄暗い。
 予約していた他の人たちは、今朝方キャンセルして来たのだそうだ。
 勝部が染色の道具を、ちゃっちゃっと準備する。容子はぼんやりと座り込む。
勝部「・・・さて、今日は何を作ります?」
 容子が見上げた。今度は勝部が目を逸らした。
容子「・・・えと。じゃあ、ハンカチを」
勝部「・・・絵柄はどうします?」
容子「・・・勝部さんが前にくれたような、花の模様がやりたいです。・・・憶えてますか?」
勝部「・・・ええ」
 勝部は白地のハンカチ出して来て、容子の前にそっと置いた。それから容子の向かいに座って、図柄の花を、紙に鉛筆で描いた。
 さくさくと言う、鉛筆の音だけが響く。
勝部「・・・今日のうちに仕上げるんだったら、花は4〜5個だな。このくらいにする?それとも出来るとこまでにして、また来る?」
 容子はじっくり考えて、勝部が描いた花をハンカチの左下に散らし、左上と右に向けて曲線で縁取りを付けたい、と言った。勝部は、いいアレンジだね、と言った。
容子「それと、花の中心のとこには、橙の色を入れたいの。勝部さんがくれたやつみたいに」
勝部「・・・それだと、今日は終わんないな」
容子「いいです」
 容子が絞りを縫いこんでいる間、勝部は奥の作業場に戻って自分の仕事を進めていた。しーんとした時間。容子は目を上げる。
 何度も見た風景。
 いつでも見ていたい風景。
 染めに入るところで、勝部が手を添えて、手順をおさらいした。
 容子が一番望んでる風景。
 手を動かす音と、雨の音だけの時間。
 じゃあ今日はここまでだね、と勝部が言い、片付け始めたところで、やっと容子が口を開いた。
容子「勝部さん、専務なんですね」
 勝部は手を止めて、こちらを見る。
勝部「うん。そう」
容子「・・・でも。・・・付き合ってた方が、居たんじゃないですか?」
 声が震えて来た。
容子「・・・いや、居たでしょう?」
 勝部が遠くを見てから息を吐いて、片付けを終えて、それから音も無く歩いて来て、容子の向かいに座るのが見えた。スローモーションみたいに、見えた。
容子「・・・私、その人見たことあります。・・・うちのオフィスで、前に打合せしたときに・・・打合せの後、待ち合わせしてたのが上から見えて」
勝部「・・・ああ」
 そして勝部は、あの時か、と言いながら顎に右手を置いた。
容子「その人は、・・・別れてしまったんですか。・・・あっすいません、ああ・・・」
勝部「別にいいよ」
 そう言いながら、勝部は頬杖になって、考え込んだ。
容子「すいません・・・」
勝部「いいよ。あの子は・・・」
 と言ってから、しばらく間が空いた。それから、考えがまとまったように話し始めた。
勝部「あの子はね、結婚とかする子じゃ無かった。だから、あの子は、いいんだ」
容子「でも」
勝部「『潮時と思いました』・・・向こうは向こうで、次を見つけるよ」
容子「そんな」
勝部「そうなんだよ。だから付き合ってたんだ」
容子「でもそれじゃ」
勝部「いや、いいんだよ、これで・・・実際ちょっと・・・ダメになりそうだったしな、俺は」
容子「ダメに?」
勝部「そう。何か、面倒になった時期があったからな」
容子「ドラマで取り上げられて、工房拡げたときですか?」
勝部「そう。良く分かるね」
 そして、さすが容子ちゃんだ、といった。
容子「私も、思ってました。勝部さんの作品変わったなって」
勝部「俺はさ、多分元々、作品作る毎に、妻にあげてるつもりだったんだろうな。それが一気に色々入って来て、ペース崩されて、考える時間が無くなってしまった。1個1個、時間かけて考えて、作って、納得が行かなかったらやり直して・・・そうでなければいけなかったんだ」
容子「・・・あの。じゃああれ、作品が変わったのって、私がパソコン使うの勧めたせいじゃ無かったんですか」
 勝部は、え、と言って、頬杖から容子を見た。
勝部「いや?・・・そんなこと思ってたのか」
 勝部は、視線を教室の遠くに泳がせて、容子ちゃん何も言わないから、と呟いた。
 沈黙の時間が、容子の鼓動を小さくする。苦しい。でも、容子には言う言葉が見つからない。
勝部「・・・でもさ、何だかんだ言って、色んな仕事持って来て、容子ちゃん食い下がって来ただろ」
 勝部は頬杖を両手に増やす。
勝部「・・・それで、だんだん戻したんだよね」
容子「・・・え、じゃあ」
 容子は、目を見張る。一層、声が小さくなる。
容子「・・・私、お役に立ちましたか」
 勝部は、ゆっくりと容子を見た。でも容子の目は解しかねて、勝部のまわりをぼんやりと揺れ動いているのだ。
 勝部は、小さく微笑んでしまう。
勝部「・・・そうね。・・・俺は堕落しちゃいけなかったんだろうなあ・・・妻に怒られてるみたいだったよ、何だか・・・おかしいなあ。容子ちゃんとうちの奥さんは、全然似てないんだけどな」
容子「・・・似てないですか」
勝部「・・・うん。似てないよ。藍染が好きなの以外はね・・・うちの奥さんは、しゃきしゃきしてて、鈍くさく無いもん・・・いや、無かったもん、だ」
 勝部の目線が少しずつ下がって、頬杖の下に埋まるように考え込んだ。
 容子は、勇気を出して、座っている椅子を引き摺って、勝部の隣りに移った。
容子「勝部さん。私。・・・私は、一生、勝部さんのファンなんです」
 勝部が目だけでこちらを見た。
容子「勝部さんが奥さんのことだけ思っているときも、遊んで誰かと付き合ってるときも・・・」
 しばらく間が空いた。
勝部「・・・容子ちゃん、馬鹿だよねえ」
 ちょっとカッとなる発言だった。
容子「だって。私だって止めたかったんです。でも、どうしても、何で?・・・何で?」
 泣けて来た。
勝部「・・・そんで、結構泣くよねえ」
 勝部は溜息を吐いた。
勝部「・・・いいか、俺は、・・・だから触んないようにして来たのに。何で泣くんだ?勝手に傷付いて」
 余計涙が出た。
勝部「あんたまだ若いんだから、・・・いや俺よりずっと、若いだろ?だから、婚活でも何でもすりゃいいんだよ。・・・そんで幸せになってくれればいいんだよ。それを何でこんな田舎にさ。何度も何度も」
容子「・・・私は、勝部さんが居ないと・・・幸せになれないんです」
勝部「だからさ、俺じゃなくてさ」
容子「ダメなんです。勝部さんじゃないと・・・私はどうしても幸せになれないんです」
勝部「・・・馬鹿だねえ」
 第一、と勝部が顎を上げた。
勝部「俺はもう、人のもんなんだぜ」
容子「分かってますって!」
勝部「・・・じゃ、どうすんの」
 容子は、口を真一文字にして、考えた。
容子「・・・いいです。いいんです。人のものでいいんです。・・・私は勝部さんが居てくれたら、幸せって思いますし、勝部さんがまたダメになりたくなったら、きっと支えます。鬱陶しいかもしれないけど・・・私からは勝部さんに、幸せを、かけらかもしれないけど、でも、幸せのかけらを、あげられないですか?・・・勝部さんでないと私」
 限界だ、と思った。涙で顔がぐしゃぐしゃになったので、バッグを掴んで引き寄せて、ハンカチを探した。
勝部「・・・また、袋の中搔き回してる」
 それで、勝部が椅子を容子のすぐ傍に近付けて、そっと陽子の頭を両手で包み込んだ。
 そして、あんたがいいならいいとするか、と呟いた。
 不意に、さああと縦に降る雨の音が耳の中で大きくなって、その音が、容子と勝部の輪郭を囲み、世界から切り離されていった。

ー完ー

藍色模様

藍色模様

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-06

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著作権法内での利用のみを許可します。

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