勇者の剣を抜いたので

稲村 装剝

1.はじまりはお使いと共に

 パン職人の朝は早い。
 夜明け前に森へ行き、汲んだ水で湯を沸かすところから作業は始まる。

 まずは継ぎ足しのパン種を人肌程度のぬるま湯で練り上げて、そこへふるいに掛けた粉を加え馴染ませるように捏ねていく。しばらく置いて適当に膨らんだところで切り分け、軽く丸めて生地を休ませる。その間、窯に火を入れるのを忘れてはいけない。
 形を整えさらに生地を膨らませれば、後は燃え盛る炎で熱せられた窯の中に入れるだけ。
 丸い表面が黄金色に色付き、小麦の焼ける良い匂いがしてくれば一連の作業は終わりなのだが──。



「これ、トーヤ! 注文票の確認はもう済んだのかい?」
 狭い作業場に、母の怒号が鋭く響く。
 これで何度目だろうか、僕はくらくらする頭の中でそっとため息をついた。

 パンの世界に入って八年目。
 ここ、ムコギ村のパン屋の長男坊として生まれた僕は、今日も慣れない作業に苦悩していた。
「まだ、やってなかったのかい! 注文票は一番最初に確認すると、何度言えば分かるんだい?」
「分かったから! 今、確認するから!」
 僕は叫ぶように返事をすると半ば反射的に身体を捻り、駆け足で注文票のある奥の部屋へと向かった。
 途中柱に手を掛けようとしたその時、視界に粉まみれの手が入り込む。不思議に思い後ろを振り返ってみると、作業台の上にふっくらと発酵した生地の塊がでんと重く広がっていた。
「ちょいとあんた、生地を置いてどこに行くつもりかい?」
 呆れたようにため息をつかれ、僕はあっと小さく声を上げた。
 思い出した。今は丁度、生地の切り分け作業の真っ最中だった。
「窯の火は待ってはくれないんだ、グズグズやってる暇はないよ!」
 母に急かされ、僕は慌てて持ち場に戻った。そのまま作業を再開したが、一つ生地を量ったところでふと注文票のことが頭を過ぎる。
 手を止め悩む。
 果たして、どちらを先にするべきか。
 当然生地は放っておけないし、かと言って注文票を無視したまま作業を続けるのも気が引けた。判断がつかず、僕は頭を抱える。こんなことになるなら真っ先に確認しとくんだった。今更後悔したとて後の祭り、僕は考えなしに作業を始めた当時の自分を激しく呪った。
 そうこうしている間にも作業場内は一層慌しくなってゆき、あちこちから従業員達(先輩方)の指示を仰ぐ声が飛んでくる。
「おい坊主、今日は全部でいくつ作ればいいんだ?」
「ええっと確か、昨日の夜からダグラスさん家の息子さんが帰ってきてるはずだから、昨日の分に二個足した数でいいかと」
「若旦那、今日の配達ルートはどうします?」
「た、多分いつも通りで大丈夫……」
 目を閉じ記憶を手繰りながら、僕は必死に答えていった。
 本来なら彼らの対応はこの店の主人である父の役目なのだが、何故か先月から僕が代理をさせられている。
 理由は不明だ。母曰く「修行の一環」とのことらしいが、詳しい話は何一つ聞かされていない。
「ほら、手が止まってる。このままだと、昼になっちまうよ」
 従業員とのやり取りのせいで、ただでさえおぼつかない手元が疎かになっていく中、だんだん母の声が嫌な熱を帯びてくるのを感じた。
 向けられる視線にうなじの産毛がちりりと逆立つ。母がイライラし始めている証拠だ。このまま今の状態が続けば、きっと烈火のごとく怒り出すに違いない。
 そろそろ本気にやらないと不味い。しかし、そんな僕の焦りとは裏腹に集中力は途切れるばかりで、作業の手が止まる度に母の声は熱と鋭さを増していった。
「いいかい! みんな、うちのパンを楽しみに待ってるんだ。下手なものをこさえたら承知しないよ!」
 やれ、進みが遅い。やれ、また手が止まっている。注文票はどうした。生地を置いてどこへ行く。ダグの倅はいつ帰るんだ。もうすぐ窯入れの時間だから、早めに生地を寄越してくれ。
 叱咤と催促が入り乱れ、声の嵐に翻弄される。押し寄せる重圧に息が詰まり、僕は逃げ場を求めるように天井に向かって喘いだ。
 心臓が早鐘を打ち、音が身体にぶつかる度にぐらぐらと目眩がする。汗が伝う。指が迷う。視界が霞む。音が遠退く。
 あわや騒然とした空気に呑まれそうになったその時、突然誰かに軽く脇腹を小突かれた。
「兄さん?」
 隣で作業をしていたルカスだった。
「大丈夫、また固まってたよ?」
「ごめん、ちょっとぼうっとしてた」
「しっかりしてよ、急に動かなくなったからびっくりしたじゃない」
 ため息混じりに文句を言われ、僕は笑って誤魔化した。
 ちなみに、ルカスは一つ下の弟だ。真面目で賢い自慢の弟で、何より僕と比べて仕事が早い。
「それで、注文票だっけ。ボクが見てこようか?」
「えっ、いいの?」
「こっちのことで手一杯なんでしょ。注文票はボクが確認するから、兄さんは先に生地を片付けなよ」
「ありがとう、助かるよ」
「少しは落ち着きなよ、兄さんは余裕がなくなるとすぐ慌てるんだから」
 そう言って片目をつぶってみせると、ルカスは軽やかな足取りで奥の方へと消えて行った。
 同じ兄弟なのに、どうしてこうも違うのか。
 部屋から出て行くルカスを目で追いながら、胸にぽつんと疑問が浮かぶ。恐らく僕に声をかけた時点で、自身の作業は終わっていたのだろう。彼が作業していた方へ視線を向けると、台の上には均等に量り取られた生地が綺麗に並べられていた。
「これ、また手が止まってるよ! このまま生地を焼かずに次の夜を迎える気かい?」
 母に怒鳴られ我に返った僕は、急き立てられるがままに手を動かした。
 だが、どうも腕の動きがぎこちない。訳がわからず首を捻る。これはおかしい。ルカスのお陰で気持ちに余裕が出来たのだから、普通ならもっと滑らかにになるはずだ。
 父の代理を任されたプレッシャーで酷く緊張しているのか、はたまた作業が遅れていることへの焦りなのか。呼吸と動きが噛み合わず、まるで水や空気を捏ねているかのように指に生地の感覚が伝わらない。ままならない腕への苛立ちから声にならない叫び声を上げるが、いくら躍起になったところで調子が戻るわけもなく、気持ちばかりが前へ前へと先走った。
「まったく、この子は店を回すのが本当に下手だね」
 一人じたばたしている僕を見てか、母が呆れたように鼻を鳴らす。
 きっと今、母は不満げなオーガのような渋い顔をしているのだろう。あくまで予想だ。実際の表情なんて恐ろしすぎて確認する勇気もない。
「やれやれ、女将の言う通りだぜ。大将ならもっと上手いことやってるぜ」
 向かい隣で作業していたフュートルさんが、せせら笑うように軽口を叩く。
「そんなんじゃ、大将の跡は継げねぇな」
「まぁ、若旦那は昔からそそっかしいところがありますからねぇ」
「パン作りの腕は、誰よりも良いんだがなぁ」
 後に続けと言わんばかりに、周りの大人達も次々に口を開く。相変わらず、彼らは遠慮というものを知らない。
 やいのやいのと好き勝手言い始める彼らに対し、僕は心の中で舌打ちした。
 あぁ、何も言い返せないのがもどかしい。いつもなら二言三言と言い返すところだが今はそんな時間もなければ余裕もないので、代わりに煩い外野をぐいと押しやり意識の外へと放り投げる。
 周りのことを気にしないよう努めた分、指の動きがいくらかマシになってきた。だが、戻ったと言うにはまだ足りない。それでも懸命に手を動かしていると、遠くの方から軽快な足音が近付いてくるのが聞こえた。
「ただいまー」
 ルカスが戻ってきた。
 焦りと気まずさで、心臓がぎくりと跳ね上がる。ちらりと台の上を確認すると、ルカスが出て行った時と比べて生地の量はあまり減っていなかった。
「兄さん、戻ったよ──って、まだ終わってないの!?」
「ご、ごめ……」
「兄さんなら、これくらいの量なんてあっという間でしょ? あっ、さてはまーた焦ってバタバタしてたんでしょ?」
 呆れ顔のルカスを前に、僕は思わず身を竦ませた。
 恥ずかしさから両頬が熱くなり、耐えきれず視線を逸らす。出来ることなら今すぐこの場から逃げ出したかった。
「もー、だから落ち着いてって言ったのに。ほら、ボクも手伝うから半分貸して。あと、一応兄さんは代理なんだからおじさん達も少しは手加減してあげてよ」
 軽く古株達を睨めつけたルカスは、手の平に粉をはたくなり物凄い勢いで動き出す。呆気にとられていると、目の前でパタパタと生地を奪われた。
 ルカスの手によりみるみる量を減らしていく生地を前に、僕の中で張り詰めていた何かがプツリと途切れる。そして、なけなしのプライドと共にどこか遠くへと吹き飛ばされた。
 虚しいような、悲しいような。なんとも言えない脱力感に包まれた僕は、不甲斐なさからがっくりと肩を落とした。こういう場面に出くわすたびに、自身の出来の悪さを思い知らされる。とは言え、今は感傷に浸っている場合ではない。僕は溜まった空気を吐き出すと、軽く息を整え改めて目前の生地に向かい直す。
 とにかく今は、こいつをどうにかしよう。諦め気味に気持ちを切り替えた僕は、よしと一声気合いを入れるとすっかり体積を減らした生地に取り掛かる。
 気付けば強張っていた肩の力はすっかり抜け、指はようやく本来の滑らかさを取り戻していた。


 あれから色々あったものの、僕はどうにか全ての生地を窯の中へと入れることが出来た。
 窯の蓋が閉まる音に、ほっと胸を撫で下ろす。ここまでくればあとは焼き上がるのを待つだけだ、そう思うとようやく代理の仕事から解放された気分になった。
 作業がひと段落したことでピリついた作業場にも和やかな空気が戻り、従業員達もどこかくつろいだ様子になる。
 外へ出たりその場で談笑したりと束の間の休息時間を思い思いに過ごす彼らを横目に、僕は部屋の隅でぐったりとへたり込んた。抱えた脚の間に顔を埋め、気の抜けた呻き声を上げる。先程の慌ただしさで消耗しすぎたのだ。まだ精神が昂っているのか、目を閉じると暗闇の中でチカチカと光が飛んだ。
 俯いたまま、はぁ、と暗い息を吐く。ここだけの話、現在僕はある悩みを抱えていた。
 このところ、母がやたら厳しくなった。
 母が仕事に煩いのはいつものことだが、ここ最近輪をかけて厳しくなってきている。小言の量が異様に増え始めたのは今から一ヶ月前のこと、父の代理を言い渡されたのもそれと同じ頃だった。
 一ヶ月前といえば、ちょうど僕が十六になった日だ。一般的に、子供は十六歳になると大人の仲間入りをすると言われている。見習いを卒業して一人前の職人として働くことを許されるからだ。
 ひとたび一人前へとランクアップすれば求められる技量や責任も変わってくれば、それだけ周囲の扱いも厳しくなってくるというもの。そういった話は都心へ奉公に出た友人達からよく聞かされていたし、僕自身も幼い頃からずっと店のことを見てきた。だから、現場の厳しさについては誰よりも理解しているはずだったが、僕の場合は何かが違っていた。
 もっとも変わったのは母一人だけだったが、僕が見習いを卒業した次の日から母はことあるごとに激しく叱咤するようになり、修行と言っては詰め込むように新しい仕事を教えるようになった。誕生日の夜に父から昇格の話をされた時はそれなりに覚悟を決めていたのだが、流石の僕もこれには首を傾げざるを得なかった。
 しかし、本当に異常かどうかは微妙なところだ。店ごとの教育方針の違いと言われればそれまでだし、僕と友人とでは最初の条件から違う。
 こういう時は誰かに相談するのが一番だが、周りにいるのは祖父世代からの古株か父と同期のベテランばかり。一番身近なマルセンさんやルカスも古株(あちら)側の人間だったり見習いだったりで、結局誰にも相談出来ずただ悶々と思い悩むことしか出来なかった。
「兄さーん」
 頭上からルカスの声が降ってきた。
 むくりと顔を上げるとわざわざ鍋から汲んできてくれたのだろう、手には湯冷ましの入ったコップが握られていた。
「お疲れ様、今日も大変だったね」
「まったくだよ、今すぐ帰って蜂蜜酒(ミード)を飲みたいくらいだ」
 受け取り一気に飲み干すと、少し生き返った心地になる。
「その様子だと、だいぶ疲れてるみたいだね」
「精神的にな。体の方はそんなに疲れてる感じはしないんだけど」
「まぁ、おじさん達の相手をしたり全体の流れを見ながら動くから、かなり頭は使ってるよね」
「確かに」
 腕より頭が痛いのはこのためか。思い返せば、作業の間はずっと頭を回転させっぱなしだった。
「ごめん、いつも迷惑かけて」
 ぼそっと謝ると、ルカスはひょいと肩をすくめる。
「いいよ、別に。兄さんが一番大変なことくらい分かってるし」
「作業だけならまだいいんだけど、仕切りながらだとどどうも上手くいかなくて」
「そりゃあ、推奨レベル20の仕事だもの。下っ端のボク達が出来なくて当然だよ」
「あ、やっぱり?」
 ルカスの言葉で腑に落ちる。実を言うと、内心そんな気はしてたのだ。
「そういや、今日の窯当番って誰だっけ?」
「ヤッセルさんじゃない? 今日は敗勢の水の日だから」
 ちなみに窯当番とは、文字通り窯の管理をする係のことだ。
 パン作りの中でも焼きの作業、特に生地を窯から出すタイミングはなかなか見極めが難しい。そのため、うちの店では火入れの間はベテランの職人が窯の番をすることになっている。曜日によってそれぞへ担当の日が振り分けられているのだが、僕らも勉強のため週に二、三回の頻度で手伝いに入っている。
「今日って水の日だったんだ」
「うん、確かここから勇者の巻き返しが始まったんだよね」
「そうだっけ? というか今、完全に曜日の感覚抜けてたな」
「曜日って、時々暦見ないと分からなくなるよね」
「あー、分かる分かる」
 ルカスと他愛ない話をしながら、僕は今日が何もない日だと言うことに気付く。あるとしても午後からのパン焼き作業や薪割りなどの雑務くらいで、これといった予定は思いつかなかった。
 全く予定のない日というのは、本当に久しぶりだ。今は冬から春へと季節が移り変わる時期で、収穫の秋に続いて二番目に忙しい。監視官(ガルド)による定期検査や毎月の領主様への納税はもちろんのこと、古い道具の入れ替えやギルド内での定例会など何かとやることが多い。加えて件の修行が捻じ込むように入れられるため、ここ最近ろくに休めてなかった。
「ちなみに、明日は何か予定あったっけ?」
「今のところは特にないけど、そろそろ窯の補修をしたいって父さんが言ってたよ」
「ってことは、何もないのは今日だけか……」
 頭の中に書き加えながら、ふーんとひとりごちる。どうやら、この忙しさが落ち着くのはまだ先のことらしい。
「もう飲み終わってるんだったら、コップ頂戴。洗ってくるから」
 無意識に手の中でコップを転がしていると、気付いたルカスがずいと右手を突き出してくる。
「いいよ、そのくらい自分でやるってば」
「いいから、いいから。兄さんは午後の仕事もあるんだし、今のうちにしっかり休んでて」
 一度は抵抗するものの、押し切られついついコップを手渡す。
 自身の意思の弱さに嫌気が差す。こういう時くらい兄らしくきっぱり断ればいいのに、こう優しく手を差し出されるとどうしてもその手を掴んでしまう。
「何かあったら遠慮なく言ってね、出来ることがあれば協力するから」
 遠ざかるルカスの気配を足音で感じながら、組んだ腕に頬を乗せる。本当によく出来た弟だ。つくづく思う、僕だったら絶対ああは言えないだろう。
 現実から目を背けるようにふいと視線を上げると、換気用の窓に目が止まる。
 吸い込まれそうな、青空だった。
 窓枠の形に切り取られたそれはどこまでも遠く澄み渡り、まるでこっちへおいでと手招きしているようだった。
(息抜きがてら、ちょこっと出掛けてみようかな……)
 流れる雲に誘われて、疲れた心が呟きを漏らす。
 息つく間もない過酷な日々に、僕は心も体もくたくただった。まだ純粋な忙しさだけならいざ知らず、作業中幾度となく浴びせられる小言と怒声にすっかり疲弊させられていた。おまけにストレスも溜まりっぱなしで、気持ちがくさくさしてきて仕方がない。
 どうせ、この忙しさが落ち着くまでしばらくかかる。それに、何より心の乱れは作業の出来を大きく左右させる。ここで無理を重ねたところで途中で力尽きるのは目に見えていたし、仕事に忙殺されて大事なパンの味に支障をきたしたらそれそこ元も子もない。
 どのみち予定はないのだから、少しくらい遊びに行ってもバチは当たらない。不真面目な悪魔が、耳元でこっそり唆す。
 どうせなら、久しぶりに東の森でも散策してみようか。天気もいいし、西の丘でのんびり昼寝するのも悪くない。
 浮かぶ緑の光景に、僕はうっとりと眼を閉じる。まだ行くとも決まっていないのに妄想ばかりが膨らんで、気付けば今日の予定にすり替わっていた。
「そういえば、おじさんところから貰ったヤツってまだあったっけ?」
 先日、幼馴染の家から貰った兎肉に想いを馳せた。確かあれは昨日のうちに全て晩のスープになったはずだが、それの残りはまだ鍋の底にあった気がする。
 いい考えを思いつく。
 スープをいくらか頂戴して、煮詰めてソースを作るのだ。
 肉の旨味が詰まったそれを直火で炙ったパンに挟んで、薄めた蜂蜜酒と一緒に持って行こう。パンは今日の昼の分を一足先に貰えばいいし、スープも少しくらいならバレやしない。
 すっかりその気になった僕は、ぴょんと跳ねるように立ち上がった。そろそろ窯出しの時間が近付いてはいたが、軽く準備をするくらい問題ないはずだ。
 踊る心に地図を広げ、鼻歌交じりに小屋を出る。だが、扉まであと一歩のところで背後から母に呼び止められた。
「お待ち、まだ仕事は終わってないよ」
 不意を突かれ、僕はきゃっと飛び上がる。地を這うようなひんやりと冷たい声は、明らかに怒気を含んでいた。
「ま、まだ何かあるの?」
「配達準備、これも店主の仕事だよ」
 恐る恐る訊ねると、母は声の調子はそのままに不機嫌そうに一言答えた。
「そんな話、聞いてないんだけど」
「昨晩言ったはずだよ。忘れてるんじゃないのかい?」
 言われて渋々記憶を探る。
 確かに昨日、そんなことを言われたような気がした。
「だろうと思ったよ、あんたは昔からどこか抜けてるからね」
 腰に手を当て、やれやれと呆れた溜息を吐く母。一方で漂う気配に何かを感じ取ったのか、その場に居合わせた何人かがちらちらとこちらを隠れ見た。
(配達準備か……)
聞いたことのない仕事だ、恐らく父さん達の管轄なのだろう。
 うちはあくまで村のパン屋のため、町のとは違い小麦は各家で用意してもらっている。僕らは事前に挽いてもらったものを回収してパンを作るのだが、焼き上がった分を配達して回るのは父さんとマルセンさんの仕事だった。
「それで、どこへ行けばいいんだっけ?」
「裏口だよ、場所は言わなくても分かるだろう?」
 聞けば父は、搬入口前の小部屋で待っているとのこと。あの場所は作業小屋一帯でも唯一馬を繋いでおけるので、集めた小麦などを運び入れる時は大抵そこを使っていた。
 弾んだ気持ちが、一気に沈んでいくのがよく分かる。正直やりたくない気持ちでいっぱいだったが、仕事である以上下っ端の僕に拒否権はない。たとえ親子の間柄であっても、親方と女将(上司)の命令は絶対だ。
 うっかりシワの依りそうな眉間を、無理矢理伸ばして平素を装う。こういう場合は、下手に逆らうよりも大人しく従った方が傷口は浅い。
「早くお行き、いつまでも親方を待たせるんじゃないよ」
「はーい」
 なおもしつこく言われる小言を間延びした返事で受け流し、おもむろに裏口の方へと足を向ける。
 未だ気分は沈んだままたまが、努めて前向きに考える。
 配達準備と言うくらいだから、どんなに遅くとも朝食前までには終わるはず。隙間時間に手伝いを頼まれたと思えば安いものだ。流石に代理の仕事よりも大変ということはないだろうし、それに今日の僕には森と丘があるじゃないか。
 嫌がる自分に言い聞かせながら、そそくさとその場を後にする。すると、すれ違いざまに母がついでのように付け加えた。
「あと、朝ご飯が終わったら帳簿の付け方を教えるからね」
 思いもよらない言葉に、僕は反応が遅れた。
「それこそ聞いてないんだけど!?」
「そりゃあ、言ってないからね」
 訳がわからず詰め寄ると、母はさらりと言葉を返す。一瞬何の冗談かと思ったが、基本母は冗談を言わない。
「そんな、勝手に決めないでよ! こっちにだって予定があるんだから!」
「おや、今日は何もない日のはずだろう? 特に今は忙しいからね。人も時間も、遊ばせずに有効利用するのが商売の基本ってやつさ」
 さも当然と言わんばかりの母に、僕はぎゅっと唇を噛む。
 この人はいつもこうだ。こちらがどれだけ抗議しても、どこ吹く風でちっとも相手にしてくれない。毎回僕だけが疲れるだけ、垂幕に腕押しというのはこういうことを言うのだろう。
「だからって、一度にたくさん詰め込まなくてもいいじゃない!」
「こんなのはほんの一部さね、店主の仕事はまだまだあるよ」
「そうは言っても、この前17に上がったばっかだよ? そりゃあ他の皆と比べれば少し高めなのかもしれないけど、【親方】どころか【暖簾分け】もまだなんだしそんな焦ってやらなくてもさぁ!」
「そういう問題じゃあないんだよ。大体、レベルの上げ下げなんてお上の匙加減じゃないか」
 煩そうに顔をしかめる母に、僕は必死で食い下がる。刺さる視線が少々痛いが、なり振り構ってはいられない。なにしろ、こっちは久しぶりの休日がかかっているのだ。
 理屈のネタが底をつき、屁理屈ばかりが口をつく。それでも僕は、抗議するのを止めなかった。
 あの手この手と足掻く姿は、側から見れば子供が駄々をこねているように見えただろう。そして、首を縦に振らせることばかりに執着していた僕は、母の顔がどんどん険しくなっていることに気付きすらしなかった。
「だからさ、こういうのは少しずつじっくりやった方が絶対いいって。ほら、『近くの川越えよりも遠くの橋』ってよく──」
「橋のない川なんていくらでもあるよ!!」
 壁際の(かめ)が割れんばかりの勢いで母が吼えた。一瞬、天井が落ちてきたかと思った。あまりの声の大きさに、部屋にいた全員が仰天した顔でこちらを見る。
 とうとう、本気で母を怒らせてしまったらしい。もうもうと立ち上る殺気に僕はしまったと震えたが、今となっては既に手遅れだった。
「いい加減におし! 一体、いつまで見習い気分でいるつもりかい!?」
 鼻息荒くこちらを睨みつけると、母はこれでもかと言わんばかりにがなり立てた。
「まったく、いい歳して何をごちゃごちゃ言ってるんだい! お前はこの店の後継なんだよ! あ・と・つ・ぎ!! 黙って聞いてりゃ、辛いだの出来ないだのと甘ったれたことばかり言って! そんな調子で、この店の長が務まるとでも思ってんのかい!?」
「で、でも!」
「でも、じゃないよ!! 店主ってのは店にとっちゃ要のようなもんなんだ。それがこんなにもナヨナヨしてちゃあ、落ち着くもんも落ち着かないってものさね! ただでさえお前は昔から物覚えが悪いんだ、そうでなくても店主の仕事は一日一夜で覚えられるほど簡単じゃあない。店のためにも村のためにも、お前には頑張ってもらわないと困るんだよ!」
「だけど……」
「まだ言うかい!? そんな考えでいるから、何一つ上手くいきゃしないんだよ! 大体何だい、今日もルカスに手伝わせてばかりで。長男のくせに弟に頼りっきりで恥ずかしくないのかい!?」
「そ、それは……」
 胸の一番弱いところに、鋭い言葉が突き刺さる。図星をつかれ僕は思わず閉口した。
 正直なところ、ルカスについては少々思うところがあった。
 同じ職場で働く側として、ルカスが頼れる仲間であることは間違いない。仕事も早く困った時にすかさず補助に入ってくれる彼はこの店にとってなくてはならない存在だ。
 もちろん家族としても信頼出来る可愛いい弟ではあるのだが、兄としての立場から見ればその心中は複雑だ。もっとも実力が違いすぎて嫉妬する気にもなれないのだが、やはり兄を名乗っている以上頼ってばかりの現状はどうにかしたいと思っていた。
「とにかく、忘れるんじゃないよ。もしもサボったら、今日のお昼は抜きにするからね!」
 それだけを言い捨て、のしのしと作業小屋から出ていく母。
 嵐が過ぎ去ったように、しんと静まり返る作業場内。その中で戸惑いがちに気遣うような視線が交わされていたが、呆然と立ち尽くす僕がそれに気付くことはなかった。
「おーい、トーヤ君?」
「だ、大丈夫かー?」
 周囲からの呼びかけに、遠退く意識が引き戻される。
 貴重な休みが、消失した。
 唯一理解出来たその状況は、現実と認めるにはあまりにも残酷だった。
「あれぇ、若旦那。そんな所にいたんでさか?」
 葬儀のような空気の中、どんよりと思い沈黙を突き破るように明るい声が飛び込んでくる。
 マルセンさんの声だ。そう思ってぼんやりと顔を向けると、母と入れ替わるようにひょっこりとマルセンさんが現れる。
「どうしたんです? 何だか死にそうな顔をして」
「まぁ、色々ありまシテ……」
 余程酷い顔をしていたのだろう。訊ねる彼に、僕は力なく笑ってみせる。一方マルセンさんはただならぬ空気に不思議そうな表情を浮かべたが、軽く首を傾げただけで特に追及してこなかった。
「そういや、親父さんが若旦那のことを探してましたよ」
「父さんが?」
 言葉の意味が飲み込めず、虚な眼を瞬かせる。
「ほら、配達準備のことですよ。今日は若旦那も一緒にされるんでしょ?」
「そうだった!」
 バチンと目の前で星が飛ぶ。正気に戻る。忘れていた。僕は今、父を待たせているんだった。
 だらだらと全身に冷たい汗が流れ、焦りで頭の中がごちゃごちゃと絡まりだす。母との攻防戦で、記憶から父のことが抜け落ちてしまっていた。
 あぁ、どうしよう。きっと父は僕が来るのを今か今かと待っているはずだ。もしかすると、僕が来ないせいで作業が始められず困っているかもしれない。
 いや、それだけじゃない。万が一父が他の仕事と並行して動いていたら、僕のせいで全てが台無しになってしまったなんてことも……。
「ねぇ、マルセンさん! 今から行っても間に合うかな? あっ、でも窯出し! そろそろ窯出しが始まる時間だよね!?」
「はいはい、落ち着いた落ち着いた。そんなに慌てなくても、焼き上がるまでまだ時間はありますから」
 取り乱す僕の肩を、どうどうと叩いて宥めるマルセンさん。
「配達準備って意外とすぐ終わるんですよ。そもそも、全部が冷め切るまでに終わらせればいい話ですから。確かに片手間に他のこともやってるちゃあやってますけど、親父さんのことだからそこらへんは上手いこと対応してると思いますよ」
「よ、よかったぁ」
 安堵から、大きく息を吐く。
 へなへなとその場に座り込む僕を見て、マルセンさんは堪えきれないといった感じに吹き出した。
「もー、若旦那ったら。いくら女将さんにドヤされたからって、流石に慌て過ぎですってば」
「な、何でそのことを!?」
「声、聞こえてましたよ。ここって案外、音が響きやすいんですよ」
 あの空気には驚きましたけどね。と笑って言い足すマルセンさん。
 記憶の中で母と言い合う場面が蘇り、顔から火が出そうになる。あぁ、穴があったら入りたい。あの時は考える余裕すらなかったが、今思えば随分とみっともないことを言っていた気がする。
 この感じだと、きっと全部バレてるな。
 観念した僕は真っ赤になりながら、頬をかきかき、ことの顛末を白状した。
「あぁ、なるほど。そう言うことがあったんですか」
 全てを聞き終えたマルセンさんは、朗らかに笑って言った。
「まぁ、確かに女将さんは仕事には厳しい人ですからねぇ。俺も昔は、よく叱られたもんですよ」
 あんなこともあったなぁと思い出にふけるマルセンさんに、僕はあれっと眉を寄せる。
 何度探しても思い出すのはドジった僕を庇ってくれるマルセンさんの姿ばかり。どう頑張っても、彼が叱られている姿が想像できない。
「無茶しないでくださいね。最窯出しの方は、俺らでなんとかしとくんで」
 徐々に集まる人影にそわそわし始めているのを察したのか、マルセンさんは苦笑混じりにそう言ってくれた。
「すいません、ありがとうございます」
 ぺこんと頭を下げると、彼はもう一度僕の肩を叩きひらりとどこかへいなくなった。
 出ていく影を見送ると、振り返す憂鬱に堪らず深いため息を落とす。
 理不尽な厳しさに振り回されて、ようやく巡った休日は目の前で掻っ攫われて。父の手伝いが終わったところで今度は母のしごきが待ち構え、サボろうものなら昼食抜きの罰則が待っている。
 まったくもって救いようのない状況だが、仕事である以上やらないわけにはいかない。悲しいかな、これが雇われ者の宿命なのだ。
 再び窓を見上げると、空は変わらず澄んだ色をしていた。
 今となってはこの青さが憎たらしい。本当なら、この青空の下でのんびりとした時間を過ごせるはずだったのに。そう思うと、気持ちよさそうに浮かぶ雲が心底羨ましくなった。
 行きたくないけど、行かないと。
 泣き叫ぶ自分を宥めすかし、奥の方へと歩を進める。そして、裏口へと続く廊下に差し掛かったところで、背後の彼らを思い出す。
「すいません。もし僕が遅くなった時は、窯出しの方をよろしくお願いします」
 振り返って頭を下げると、誰かがおう、と気前の良い返事をしてくれた。
 さらに、頑張れよと、続く声援に背中を押された僕は、重い気持ちを振り切るように駆け足でその場を後にした。

勇者の剣を抜いたので

勇者の剣を抜いたので

買い出しに行ったら、何故か勇者に選ばれて──? 村のパン屋の長男坊と頼れる仲間達が織りなす、“戦えない”勇者の非王道ファンタジー。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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