リナリアガール

薄海れこ

リナリアガール
  1. リナリア現象
  2. リナリア講釈
  3. リナリア凋落

リナリア現象

   ☞

  その日は5月の連休明けの登校日だった。そのせいだか知らないけれど、休暇中にはずいぶん張り切っていた神様が急に怠惰な気分になり果てたような具合に、東京一帯は朦朧(もうろう)となまぬるい陽気に包み込まれた。それは俺の通う高校も同様に。

そんなわけだから午前中の授業をついどれもうたた寝で過ごして、ようやく訪れた昼休みにほんの少しの活力を思い出し、購買部のやたら安くて空気みたいなパンを買い求めて、廊下を歩いていた。そんな時にリナリアは落ちた。彼女の髪から、こぼれ落ちた。

「そよ」すれ違いざまに俺はふと声をはなち、彼女を呼び止めた。「なにか落としたよ」

視界のはしをかすめたものを拾い上げ、彼女の後ろ姿に差し出したとき、やっとそれがおかしなものだということに気づいた。

「なにこれ?」目を疑った。俺が拾ったものは、薄い黄色を帯びた小さな花だった。

「イチ?」

やわらかい声が俺の名前を発して、廊下にぼんやりと響く。きゅっと上履きのゴムが廊下をすべり彼女が俺に振り向いた。俺は信じられない思いで目を見開いた。彼女の髪にいくつもの彩り豊かな花が咲いていたからだ。透き通るほどの白、濃く青みを帯びた紅色、薄い紫に、蝶々のように涼しげな黄色────ひらりと風に揺れる小さな花々が頭の上から毛先まで、その長い髪に見事なまでに咲きほこっていた。

「そ、そよ……」「なあに?」「おまえの頭、いつからそんなことになった?」

彼女は薄く微笑んで、俺のそばへやってくる。

「どうしたの、イチったら」「髪に花が」「えっ?」「花が咲いている」

 そよはいぶかしげな顔をして瞳を上へ移し、ほっそりした手の指先を自分の髪へやった。

「なにか、ついているの?」「だから花が」「花?」

俺はかぶりを振った。拾った花びらを彼女に差し出す。

「なあ、これだよ」

「ねえどうしちゃったの。イチ?」

「おまえの髪にたくさんこれがついてるんだよ」

「やだ、からかわないでよ。なんの遊びなの?」ゆがめていた顔を一転させて、くすくすとおかしそうに笑う彼女は、なんてことないように俺の手のひらを見つめた。「イチの手は標本みたいにすごく綺麗。本当だよ」

「なあ、そんなはず……」「イチ、本当に大丈夫? どうしたっていうの?」「ああ、そんなに近づくな」

彼女が俺に詰めよるように近づいて、ふわりとなびく髪に、やはり小さな花がくっついてくるものだから俺はもう耐えられそうになかった。俺の目はどうかしちまったんだ。なにか夢でも見ているってのか? うんざりするくらい暖気(のんき)な気候のせいで、頭もいまいち正しく機能してないように思えた。

 のけぞった俺を見て、そよはやっぱり笑い声をたてる。目をつむるとよく分かる長いまつ毛は透き通るような薄茶で、日差しの光に溶けていくみたいだった。「きっと疲れてるんだよね。イチのことだから、休みの間もずっと勉強していたのでしょ?」

俺は全く疲れてなんかないし、勉強だってろくにしていない。せいぜい英文読解の問題集を一冊終わらせてしまったくらいで、本当に。

「そんなことじゃないんだ」「ねえ、イチ……私のことちょっと見つめすぎじゃない?」「ちがうって、その」「恥ずかしいから────」

「おまえ、すごく可愛いんだよ」

頭によぎったその言葉を思わず口にして、その直後、俺はだらだらと背中に汗が流れ出したのを感じた。

「えっ?」花々に包まれた彼女は、そっと手を口元にやる。その仕草さえもあまりに可憐で目がくらむ。口の中がつばでいっぱいになって気持ち悪くなりそうだった。もういっそ死んだほうがましなんじゃないかってくらい。

だけど彼女はそんなことを簡単には許してくれなかった。それどころか俺をもっと追いつめるかのごとく、こう告げる。

「なんて言ったのか、もう一度聴かせて?」

そんなうっとりするような瞳で見つめられて、答える言葉はたった一つしかないんだ。

「────可愛い……」


   ☞

 そよというのは隣のクラスの女の子で、確かに可愛いと言うほかない容姿を持ち合わせていた。だけどそのことをあえて口にするほど切羽詰まっていたわけではないし、ましてや本人を前に伝える日がやってくるとは思いもしない。

なんの予兆もなく訪れたこの現象に、俺は身体の震えが止まらなかった。こんなに穏やかな陽気だってのに。

 5限目の授業が始まってもなお、昼休みに見た彼女の姿を思い出しては額にたらりと汗が流れ落ちる。あのゆらめくような花びら、すべての色彩が集まり夢のようになびく髪、そこにぱっと映えて微笑む彼女の表情……。

ペンケースに仕舞ったあの花の一房が、窓からさしこむ風に静かに揺れはじめる。思わずノートの上にシャーペンを落とした俺は、両手を見つめたのち────

「ああっ」

自分でも気づかないうちに顔をおおって叫んでいたらしい。


   ☞

 2週間後に中間考査があった。俺の成績は100番も落ち込んだ。最悪。

リナリア講釈

 日が経とうとも、そよの髪に花が咲いているのは変わらずだった。それどころか一層花びらはふくらみを増して、踊るように咲きみだれているようにさえ見える。本人はおろか誰もそのことについて指摘するやつなんかいない。つまるところ、やっぱり俺にだけ見えているらしい。

 隣のクラスにいる彼女と鉢合わせることがないように、俺は極力無駄な行動をしないように努めた。休み時間はずっと教室で英単語帳を眺めるようにする。やたら喉が渇くようになって、うっかりとでも彼女のことを考えると500ミリのペットボトルの水なんかすぐに消えていった。体重は5キロ落ちた。

 俺はもう、このまま死んじゃうのかな。

「おーい。おい。イチ、部活始めるぞー」

放課後、赤点だらけの答案用紙を握りしめてグランドの端にしゃがんでいると、やたら快活で心地よい低さの声が降ってきた。見上げると、綺麗な男がいる。

(ひいらぎ)……」

俺が彼の名前を呟くと、見事なほどの二重の目が細められた。彼は同じ陸上部仲間で、クラスは隣────ああ、そよと同じクラスか。それから、学年で一番女の子からの評判がいいやつ。脚も速いし、歌も上手い。

「最近おまえ、調子悪そうだけど大丈夫? 少し前も、授業中に叫んだらしいじゃん。なかなか面白くていいと思うけどさ、受験のストレスを抱えるには早すぎない?」「そうかな」「なにかあった?」

 なにかあったか。ある、あるけどさ。

形のいい自分の顎を誇らしげに撫でながら、柊は俺の目を興味深そうにのぞき込んでくる。爽やかな男を目の前に、俺はにわかに力が抜ける気がして口を開くことにした。

「柊、あのさあ……」「ん?」「変なこと言ってもいいか?」「ああ、なんでも言えよ」「あのな、俺」「うん」「体重が5キロ減って、成績は100番も落ちた」「へえ」

「そよの髪に、花が咲いてみえるんだ」「うん?」「花が見える」

柊は俺を見つめたまま首をかしげる。

「……ふうん?」「ごめんな、忘れてくれていいんだ」「そよって俺のクラスの?」「うん、いや、その」

俺が慌てて口を開こうとすると突如、柊は、かくんと身体をしゃがませて俺の口を手で押さえつけてくる。

「……っ?」

俺の唇に柊の生温かい肌を感じて、俺は鳥肌が立つ思いで彼を見返した。そうして柊は女が見たらころっと落ちちゃうような魅惑的な瞳を見せつけて────こう言った。

「なんだ、イチ。おまえにも見えるのか」

俺がぽかんとするのをよそに柊は嬉しそうに目を細め、俺の口を押さえていた手を離すと、そのまま人差し指を立てて自分の唇にあてる。

「俺にも見えるから分かるよ」「ま…………マジで?」「うん」

柊は頷いたのち、ゆっくりと含み笑いをした。

「でも驚いたなあ。おまえはそよの髪に花が見えるんだな。なんか意外だよ」

それってどういうことなんだろうか?

「花が咲くのはそよだけじゃないの……?」

「もちろんそうだよ。俺はそよには特に見えなかった。ああ、そんな怖がるなって。まあ無理もないけどさ────」

俺が柊にしがみつくと、彼はこほんと咳払いをする。

「イチ。今日は部活が終わったら、俺の家に来いよ。それでじっくり心置きなく話そうぜ」

柊にこんなことを言われたい女子生徒たちはそこらじゅうに沢山いるんだろうなと思いながら、俺は神妙に頷いてみせた。

 部活が終わると、俺たちはそろって鞄を持って学校を出た。駅へ向かう途中のコンビニへ寄って、柊はヤングマガジンとロイヤルミルクティーの300mlパックと揚げたてのコロッケを買い、俺はなにも食べる気がおきなかったので水を一本買った。コンビニを出ると、柊は歩きながら器用にコロッケを食べて、ミルクティーをこくこくと飲む。

それで「この組み合わせ、いけるよ」とか「イチもなんか食えばいいのに」とか「今週のグラビアたまんねーな」とか言うばかりで、花のはの字も出てこないので俺はしびれを切らして口を開いた。

「家に着くまでは話してくれないわけ?」「まあ、落ち着けって」

 柊はあっという間にミルクティーを飲みほして、パックを片手でつぶした。コロッケの紙屑とともにビニール袋に仕舞うと、それを道端の自動販売機の横にあるゴミ箱にねじ込む。

「そこに捨てていいのは空き缶だけだよ」と教えてあげると、柊は笑った。「真面目だな」「真面目だよ」「イチって……」「なに?」

「したことある?」「自動販売機と?」「おまえ最高なこと言うね」


 柊は俺の肩にがつんと腕を通してくる。ぐったりと彼の重みを受け止めながら、俺は彼の放つ整髪剤のつんとした香りをかいだ。

「もちろん、女の子とならある」

柊は興味深そうに眉を上げて笑った。

「もちろん、なんて前置きするやつはちょっとイかれてるな」

今度は俺も笑った。

「付き合ってる子がいるんだ。彼女はそういうのが結構好きなほうだし、要するに、かなり色んなところを舐めさせてくれる」

「なんだよイチ、おまえ、そうかよ! 羨ましいな。俺が付き合ってる子たちなんか、そのうちの一人はちょっと指を絡めただけでもういきそう、とか言うんだよ。だいぶやばいよね。頭のねじがくるってんだと思う。可愛いからいいけどさ」

 そんなわけで俺たちは、花の話なんかすっかり忘れて、電車に乗っている間ずっと女の子の身体について話し込んだ。それは決壊したダムみたいな勢いで。柊とはこれまで3年間同じ部活仲間だったってのに、俺たちはようやく間違いのない友情を分かち合えたらしい。

 しかし電車を降りてもなお、柊のお喋りはとめどなく続けられた。実に嬉しそうな顔で学校中の女の子たちを食い物にしてきた話など披露されると、やがて俺はとんでもないやつと部活動をともにしてきたんだなと思い始める。その数と顔ぶれときたら、一般的な男子高校生の想像をはるかに超えていくものだった。

15人目の女の子についての話が終わったところで、彼はふと思い出したように口を開いた。

「だけど安心しろよ。そよにはこれっぽっちも手を出してないからさ」「ああ、うん?」「あの子はちょっと、お上品がすぎるだろ。でもいいね、ああいう子から花が見えるってのはなかなかもったいないな」

そこで彼は足を止めた。柊の住む家の前に着いていたんだ。

 柊の家は世田谷のずいぶん良い土地にあった。犬走りのある庭を抜けて玄関へ上がると、やたら大きな階段が伸びている。家族はまだ誰も帰っていないようで、柊はすぐに2階の部屋へ俺を連れていった。彼の部屋はとても清潔で整っていた。まさに彼の見た目がそっくり家具の形状やその配置パターンへ変換されたように。

「そこに座ってくれよ」と彼が言うので、俺は本棚の前に置かれた腰掛け椅子に座る。本を読むためだけにあるような椅子だと思った。

柊は勉強机の椅子に腰掛ける。広い机にiMacが置いてあり、彼はそれを起動させた。しばらく彼は俺の存在なんか忘れちまったように真剣な顔でディスプレイを見つめてなにか操作していた。俺はまた喉が渇いてきて、水を飲んだ。

「喉がよく渇くんだな」柊はそう言葉を投げてきた。俺はにわかにぞっとしながら「ああ」と返事した。

「分かるよ。俺もその手のことでいくらか悩みもした。だけど怖がることはないんだ。ちょっとこつさえ掴めばそんなことをいちいち気にかける必要もない」

俺は眉間に力が入った。それを見て、柊は俺に向き直って両手を広げる。綺麗な形をした手だった。

「なあ、イチ。俺が思っていることを話そう。この世には知らなくていいことであふれているってこと。例えば、ハンバーガーチェーン店が取り扱っている植物製合成肉がどうやって生み出されているのかだとか、千代田線の国会議事堂前駅は地上から37.9mも深いところにあって、どうしてそこまで降りていかなきゃならないんだとかそういう話」

 コツコツと時計の針が動く音が聴こえた。だけどこの部屋のどこにも時計なんか置かれていなかった。あるいは俺が見つけられなかっただけかもしれない。辺りはもうすっかり日没で、窓の向こうに深い藍色の夕焼けが広がっていた。俺はその色に目を奪われそうになって、慌てて目の前にいる柊へ顔の向きを戻した。彼は自分の唇に親指を引っ掛けて、俺が返事をするのを待っているみたいだった。

「俺は、そよの髪に花が見えるわけを教えてほしいだけだよ」そう言った。心なしか喉が震えているような気がした。

「イチ、そう怯えるなって。おまえはこれまで知らなかっただけかもしれんが、つまりね、こんなことは分かっていなくたって充分なんだよ。生きていく上で知っておかなきゃならないことなんか実際にはほとんどない。そう思わない?」

俺はわけが分からなくなった。だとしたら俺は、一体なんのためにここへやってきたんだ?

柊は立ち上がって、俺の肩に両手を置いた。ゆらりと彼の瞳の奥が動いて、俺は身体が思うように動かなくなった気がした。

「ちょっとこれを見てみろ」そう言って、柊は机の上のディスプレイを指差す。俺はかちこちになった身体をどうにか動かして机の前へ行った。画面には見慣れない動画配信サイトがあった。柊はマウスをクリックして、動画を再生させた。

 それは【自分の腕に注射を打つ方法について】の3分間の動画だった。こんなものをじっくりと3分間も見るのは初めてだ。

それはとても几帳面な人間が作成した動画のようだった。実に分かりやすくテロップが流れ、必要な道具とポイントを簡潔に説明する。前髪にワックスをなじませる方法と同じくらい簡単に出来て、今すぐ試してみたくなるものに思えた。

「どう、覚えた?」動画が終わると、柊の声がさっきより大きく聴こえて俺はびくりとした。「まあ、うん」

「それならよかったよ」彼は目を細めて、動画で見たのとそっくり同じ注射器を差し出した。「なにこれ?」

「簡単に言うとだな、これを一発やれば、彼女の髪に見える花は消えちまう。そういうことだ。今すぐ試したっていいが、ちょっとばかり気分が悪くなるから学校が休みの日に────」

「おい待てよ」俺は慌てた。「こんなものどこで手に入れた?」

「今度教えてやるよ。もしそれを気に入ればという話だけどね」柊はそう言うと、俺の返事を待たずにポケットへ注射針を突っ込んだ。

「イチ、何度も言うけど大丈夫だ。こんなのみんなやってる。まあ、使うかはおまえの自由だよ。だけど俺は使ったほうがいいと思うね。余計なことを考えずに済むし、勉強の成績だってまた元に戻る」

「なあ……」俺は混乱する頭を押さえて、彼に尋ねた。「俺が知りたかったのは、どうして俺の目に花が見えるのかってことだよ」

「だから言っただろ?」柊はやはり微笑みを絶やすことがなかった。「そんなことは知らなくていいんだって」

リナリア凋落

   ☞


 翌日も学校があった。俺は昼休みに図書室へ行って、植物の本や図録を読んだ。つまり、そよの髪に咲く花が何であるのか調べようと思い立ったってこと。ぱっと名前が浮かぶわけじゃないが、どこかしらで見かけたことのある花だ。少し洒落た喫茶店の前に置かれた鉢植えにありそうな。

何冊か手に取る。『図説 花と緑』とか『湿原の植物紀行』とか『暮しを豊かにする庭づくり』とか。辛抱強く探し続けて、それでようやく見つけた。

 リナリアだ。めくったページに、確かにそよの髪に咲いている花と同じものが載っていた。いくつもの色があり、品種が多様にあること、それから────。
俺はそのページをぴりぴりとやぶってポケットに仕舞った。こつんと手の甲に注射器のケースが当たる。

 素知らぬ顔をして、図書室を出て行った。廊下を歩いていると、向かい側から付き合ってる女の子が歩いてくるのが見える。目が大きくて首のほっそりした女の子。彼女は俺を見つけるなり駆けよってきて、腕に抱きついた。俺はたまらない気持ちになって彼女の耳を触った。

「イチのこと、ずっと探していたんだよ。どこに行ってたの?」

「ちょっとね」

俺と彼女は毎日顔を合わせていたはずなのに、久しぶりに会ったような気がしたな。俺を見上げる顔は猫みたいで、舌がしめって見えた。

それで俺は彼女を男子トイレの個室へ連れて行くと、気が遠くなりそうなほどキスをした。彼女は突然こんなことをされて驚いているようだった。俺の髪やらシャツを掴んで、ずるずると態勢をくずしていった。

 辺りはすごく静かで、冷え切っていた。離したばかりのぬれた唇が冷たくなっていくのが分かる。ぼんやりした彼女を抱えたまま、俺はポケットから注射針を出した。

「え……なに?」「大丈夫だから」

俺はそう言って、自分のシャツの袖をめくるとそのまま針を刺し込む。彼女は悲鳴を上げた。俺は「静かにしてろ」と言って歯を食いしばった。

 全身にぴりぴりとした痛みが走る。激しい頭痛と腕の痙攣が起こり、口から唾液がもれ、涙が出た。熱い。熱いなと思った。目がやられちまいそう。俺は目元を押さえ、額に汗を吹き出しながら、痛みが突き抜けていくのを堪えた。やがて目のふちに鈍痛がじわりと残る。

「イチ、やだ、死なないで」「死んでない」

彼女はわっと泣き出しちゃって、俺は申し訳ないことをしたなと彼女を抱きしめた。「怖がらせてごめん」「本当に冗談はやめてよ」

冗談だと思ってるのか、よかった。俺は心底ほっとしながら彼女を連れてトイレを出た。

 彼女はめそめそしながら俺の腕をぎゅっと抱きしめて、俺は彼女の頭を撫でながら廊下を歩いた。まだ少しだけ目に違和感があった。だけどもうじきにそれも薄まっていくだろうなと思う。それは確かな感覚として。

俺は、図書館から取ってきた本の一ページをポケットから出した。

「ねえ、今度はなに?」と、まだ怖がっている彼女に、俺はその紙を渡す。彼女はとにかく、なにか文字を読むということが大好きなわけ。活字を見つけると絶対に読まずにはいられないし、読んでいるうちに元気になっていくんだなこれが。

 彼女は一枚の紙に印字された文字へすべて目を通したのち、だいぶ落ち着いた口調で「このリナリアって花がどうかしたの?」と言った。

「可愛い花だなと思ったんだよ」

「うん、そうねえ。他にも色々と魅力的な花ってあると思うけど、この花もなかなかよ。繊細に見えて結構丈夫なんだって書いてある。いいことね。なによりここに書いてある花言葉が素敵だと思うな。『幻想』と『この恋に気がついて』なんて、ちょっと切なくさせるじゃない?」

「俺もそう思う」

 俺たちは果てしなく続くような廊下を歩き続けた。どこもかしこもクリアに見えて、感覚が研ぎすまされていくようだった。


   ☞

 不意に、誰か知っている子とすれ違った気がした。髪の長い女の子だった。だけどその子の髪には花なんか咲いていなかったし、そんなことは見なくても分かりきっていた。

 俺は自分の腕から離れようとしない彼女のことだけをただ見つめていた。彼女が甘えたように微笑んだ瞬間、全てのことは俺の願った通りに上手く運んでいくのだろうなと思った。この先もずっと。



【終わり】

リナリアガール

リナリアガール

ある日、隣のクラスの女の子・そよの髪にいくつもの花が咲いて見えるようになったイチは、そのことで気が落ち着かなくなり、勉強の成績も落としてしまう。そんな彼がふと悩みを打ち明けた相手、部活仲間の柊は思いもよらぬことを口にして────。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted