水の中の涙

r.Takigawa

僕は典型的なクソガキだった、それもかなりの。

偶然という言葉が好きだ。ミステリーなんかで偶然が偶然を呼び、事件や問題が収束するさまに僕は子供のころ夢中だった。暑さがうなじに喰らいついてくる季節になる頃。大学一年の夏だった。何にも知らされず、僕の目の前に天使は現れた。それもそのはず、デッサンのモデルである彼女のプライバシィなど、キャンバスに描く必要はない。ヌードではなかった――彼女は、しかし裸に――ポリエステル繊維のコートのような布切れ、それもかなり大判の物を、肩から斜めに掛けていた。きゅっと結んだ口角と、布切れの裾から出た白い脛。締まった足首とわずかにくねる甲。指先に手にも足にもお行儀よくついた桜貝の爪。それは、入学してから密やかにだが確実にしぼんでゆく僕のモチベーションを―――あるいは情熱。たぶん描くこと、表現すること、主張し、誇示すること、それら全てを指す不明瞭なものを―――わずか5秒足らずで撃ち殺した。一瞬とはいえ。そう。友人の言葉を借りるなら「ぶっぱなした」、である。



「お疲れ様」

予鈴と同時に僕は声をかけた。教授でもないくせに。彼女は少しの間、長時間の拘束から開放された安堵を味わっていた。が、こちらに気づくと、一瞬だけなにか不思議なものを見るような瞳をしたあと、柔らかい笑顔になった。
 

「ありがとう」


誰にでも出来ることじゃないだろうな、と思いに至る。少なくとも僕には無理だった。


「わたし、うまくやってる?」


彼女は見た目より、ほとんどカジュアルな態度だった。「ああ」と僕は答えた―――嘘か本当か自分でも分からない事を。


「今までで一番、描きやすい」

「よかった」


白い顔色の頬が薄く染まった。彼女の仕事は今日はここまでで、台からすっと降りると、微笑みを残したまま教室から出ていった。



「安藤」
ざらついた粘っこい声が僕を呼ぶ。

「台、片付けろよ――今日、お前の当番だ」

「ああ」
当番は分かっていた。が、僕にも余韻にひたる心の容量は持ち合わせていた――天使が上空に舞い上がり戻っていくさまを見ずに、仕事に取りかかる人間がいるとでも?そういう事だ、と目の前の男に視線を返した。

「なんだよ?早く、やれよ」

「別に」

すこぶる、とは言えないが僕はいい気分だった。もしかしたらこの大学に入ってから、初めてこんな気分になったかもしれない。言い過ぎたかもしれない―――が、やはり、いい気分はいい気分だった。僕の夏で彼女が泳ぐ為に音を立てて飛び込んだ、とでも言いたげな今日だった。金色の飛沫を上げて。


美大に入った理由などなかった。理由を知りたくて入ったといっても、おかしくはない。ただ、物心ついた時から絵を描いていた―――母がイラストを描くことに熱中していた時期、僕は産声をあげた。バリ・キャリだったらしい彼女は妊娠を機にイン・ドア派になり、それまで仕事に向けられていたエネルギーは画用紙の上にばらまかれた。僕が机に、お利口さんに座れる頃には、教材は山程あった。恵まれすぎだと妬まれるほどに。小学生の頃になると、入選こそしないが時々ものすごい賞賛を受けた。「この子の絵は普通の感覚では表面すら理解できない」鼻息荒く先生に肩をわしづかまれた母は、ぼんやり、はぁ、と言っただけだった。が、得意というだけ、特に楽しいとも、思っていなかった。まだこの頃は、仲間と大なり小なりの球―――と、のたうち回る方が良かったのだ。今では考えられないほど、僕は典型的なクソガキだった、それもかなりの。中学という思春期のあやうい精神世界へ入るまで僕は同じような子供とつるみ、同じような瞳で同じようなものを見ていたのだ。


実家は高校卒業を機に出ていた。バスで二コマ進めば大学前。が、入学してからの僕はまるで、自分の尾を追いかけくるくる廻る犬のような日々を送っていた――あるいは回送バス。が、自分が正しいコースにいるのかどうかも判断しかねる。気づけば何も描かれてないキャンバスの前にいた事が、先月からもう何度もあった。



「疲れてんじゃねぇの」
僕の目の前の大股開きの男は言った。

「いや、そういうものでもない」

「じゃ、スランプか」

「どうだろう――描けない、訳じゃないんだ。まるっきし」

「俺たちと線路に石置いてほくそ笑んでた俊次が大学のおぼっちゃんとはね」

「僕は今でも、お前がこんな「ちんぴら」にならなけりゃ、国際弁護士にでもなれたと思うよ」心からね。

「お前―――人を見る目、あるね」



彼が僕の肩を拳骨で軽く殴る。がやがややかましい店内で僕達は笑った。小学生時代、彼はクソガキ中のクソガキだと、自分で豪語していた。もちろん異論はない。今だに酒を飲んだりして会い続けていたのは、この柄の悪い友人ひとり。彼は稀にみる人間好きで、頭の切れる不良だった。同じ県立高校をドロップアウトした彼が何の仕事をしているのかは不明だったが、聴くのはもう怖かった。僕はもう、不良じゃあないからだ。が、知的なこの男といるのは楽しかった。適度に冷めていてなおかつ、ユーモアがある。当たり前だが、美大にこんな奴は職員含め居ない。



「そういえば今日、すごく可愛い子に会った」

「大学の女?」

「いや。絵の、モデルだ」



へぇ、と彼は笑った。お前がそう言うんなら間違いないね。「ぶっぱなされたんだ」、と僕は言ってやった―――その夜アパートに帰り着いたのは、深夜2時頃だった。うっすらと眠りの世界へ誘われる頃見えたのは、あの、熱帯魚の尾びれのような、なまめかしい、白く発光する脛だった。

次の日また彼女はやってきた。白いテーブル・クロスのようなシルク布の上、僕の大学生活いちばんの興味関心は彫刻のよう、指定されたポーズを取っていた。今のところ、という意味で。紙の上の彼女は実際より唇にエロティシズムをたずさえ、もの憂げな瞳で僕を見ていた。昨夜遅くまで酒を飲んでいた事もあり、僕はまだアルコールの海で浮遊しているような気持ちだった。浮き輪には気休めのヘパリーゼやらソルマックやら、ウコン含有飲料の類があちこち、チャームのよう付けられていて。わずかに高鳴る胸をよそに、僕はごく冷静だった。昨日、彼女に声をかけたのは生徒は僕だけだった。それをじっくり、怪訝な目つきで眺められていたとは思わないが、誰かに、モデルに対し邪な想いを抱いているなんて言われる事は、僕のプライドが許さない。ぴくりとも動かぬ彼女に、感心してもいた。時折、小さい蝶の羽ばたきのような、あるいは貝が吐き出す息のようなささいな瞬きをするだけ。彼女は僕から数メートル離れた教室の中央にいた。カーテンの引かれた空間。肩を半分、素肌をさらけ出したモデルに合わされる空調。が、構わなかった。ヌードの方はもっと大変だろう。一瞬、黒目が僕を見た気がした。すぐに戻った。



「伝わるものがない」



僕の美術学科の教授にそう言われたのは、5月頃だった。基礎はいい。たぶん、何をやらせても君はそうなんだろう。が、しつこくも、さらっと、淡白なわけでもない―――無色透明なんだ。僕はそういう解釈をし、それを受け入れた。そして今のような、尾を追い回す日々が始まる。そしてそれは僕の自律神経を、じわじわといかれさせた。


「お疲れ様」


声をかけられ、はっとした―――彼女だった。

「あ…ぁ」

「あなた、顔真っ青よ。台にいる間気になっちゃった」

「二日酔いなんだ」と僕は正直に言った。

「酒が好きな友人がいてね」

「その友人って、ものすごく、悪そうね」

「どうして分かる?」

「何となく。雰囲気よ。あなた浮いてるもの、かなり」



僕はちら、と彼女から視線をそらし、また戻した。ばれたくないのとこのまま会話がしたいのとで、頭の中で白と黒が口喧嘩を始める。そして合点した。

「絵を描くような人間に見えない?」

とっさに口をついて出ていた。彼女は指で、丸をつくった。


食堂でいつもの定食を頼んでいる時、横から壊れたラジオから出るような声がした。同じ美術学科の男。昨日僕に、台を片付けろと言った。

「何話してたんだ?さっき。あのモデルと」

「別に」

僕は昨日と同じ言葉を繰り返した。馴れ馴れしい口調と態度がなぜか僕は気に入っていなかった。絵の才能はあったが。

「なんか、今までのと違うよな。少し集中が鈍るよ」

へぇ、と一応返事をし、僕は席へと頭痛と共についた。ミネラルウォーターで定食を流し込み、十分足らずで、食堂の外のひんやりとした広い廊下をひとり歩いていた。歩きながら僕は、僕が彼女にした質問の意味を、ぼんやりとしたまま、しばらく考え続けていた。

それからしばらく彼女との無言の空白は続いた。が、やはり時々――黒目だけが、僕から見て左方向を向いている彼女の瞳のなか、こちらをフォーカスするような気がしていた。まるで古い屋敷で、年季の入った絵画に「入った」年季の入った幽霊が、侵入者を品定めする時のような――そこに、不気味さはないが。絵が着実に進んでゆくなか、僕の中から気怠さは徐々に消えていった。そして会話がしたい、欲求にかられた―――が、不自然な事は、嫌いだ。なんて言う?もう一度顔色を悪くして学校に来るべきか。笑みがこぼれた。筆が止まると同じく、予鈴。彼女の顔を見る。微笑んでいた。僕の方を見て。


「左利きだから、変わってるの?」


僕の願いは叶えられた。悪友に頼らずとも――いやアルコールだ。


「かもね」


昼時、今日の仕事を終えた彼女を裏門まで送っていた。当番じゃなくて良かったと胸を撫で下ろす。ポリエステルの毛布から、ジーンズとシフォンブラウスに着替えた彼女を、駐輪場で見かけたのだ。で、僕は素早く声を掛けた、やぁ、とだけ。話したいから話す。これこそ自然だ。が、めちゃくちゃ、クールぶった。



「何年生?なんにも、知らないの」
彼女は笑った。


「一年だよ。君は?」


「ここに通ってたら?三年よ」


「ごめん――同い年かと、思った」


何故か僕は謝った。


「いいよ。そのままで」



僕もそうする気だった――聴きたい事があったはずなのに、僕は口をつぐんでしまった。彼女が大学前の道路を見つめ、ぼおっとする。きれいだった。そして台の上の、あの足。僕の眠りの入口の門で引かれる幕の奥にあらわれるような、脛。


「もう――行っていい?」


怒るでもなく彼女はそう言った。何か急いでいるふうな感じもしたので、僕は言った。惜しみなく。


「ああ――ごめん」


「またね」


僕は軽く微笑んだ。彼女が自転車を押し、ゆっくりと歩を進める。サドルにまたがる瞬間こちらを振り返る――「大学は、良いところね」彼女に聴こえるか分からない位の声で僕は言った、頷いたあと。



「そうだね、ほんとうに」



柔そうな髪がそよぐ風に揺れ、白い首筋をちらりと見せ、また隠した。僕はしばらくの間、そこに立ち続けていた。まるで人が蟻のようにも見える野球のグラウンドを、病室から切なげに見下ろしている子供のように。

デッサン以外でも絵を描く。当然だった。ここは美術大学だ。が、家のアパートで絵を描いた事は一度きりしかない。皮肉にも5月を過ぎてからは。母が電話をくれた時、画材を一式よこそうかと言った、こっちに――見えないくせに僕は首を横に振り、いいよと答えた。



ふと少年時代が頭によぎった。前にも言ったとおり、僕はふざけた子供のいちばん正しい見本のような生活をしていた――友人たちと公園の滑り台でひと晩寝泊まりしたり、虫をなぶり殺したり。線路の上に、岩ともよべる巨大な石を置いた話も事実。しかもこの話を持ち出したのは、僕だった。こいつは絶対、手のつけられない10代を過ごすぞ、と、誰もが警戒し、そして期待をしていた。可笑しかった。怖がっておきながら嬉しそうに人の顔を覗き込むのだ、年端もいかない僕の。



デッサンの時間ぎりぎりに僕は大学へ着いた。が、教室に入ると昨日のようにセットは組まれていないままだった。彼女が座る、玉座にも見える台。あのいけすかないクラスメイト、耳障りな声をもつあいつに話し掛けた、おそらく初めて。


「彼女は」

と出しかけた舌を引っ込め、

「授業は?」デッサンの。

「さあな」


彼にしてはとてもクールな声色だった。動く右の手元を見る。目のちかちかする、それでいてどこかセンセーショナルな油彩画。驚くことに、切なげ――でもあった。



「君は…」



自分がひとりごちるよう問いかけをしていたことに気づくまで、数秒かかった。僕のクラスメイトは振り返る。


「何だよ?」


痰の絡むような音が、僕の神経を逆撫でした。おい、と呼ぶ声を背中の真ん中に浴びながら、僕は教室をあとにしていた。開けたドアも閉めず、かつ早足で。窓からの日の光。そっちを見た――太陽がなけりゃあ、この廊下は真っ暗だ。太陽がなけりゃ。



大学は…良い…ところ、ね。



ああ、本当に、と僕は答えた。もう一度。景色が歪んでく。冷たい廊下に唾を吐いて、パイプ椅子ごと隣の窓に投げ、叩き割りたい気分に駆られていた。僕の中の暴力的な苦しみごと。



「ぶっ放したいくらいだ」



脳裏に浮かぶ銃口から突き出た旗には、狂ったような黄色い文字で、コングラッチュ・レイション―――!と、書かれていた。

昨日よりだいぶ僕は元気になっていた―――優しい誰かからの恵みを待つ乞食のよう、駐輪場に突っ立っていても、心は頭上の、晴天というには控えめすぎなほどの灼熱の太陽の足元ですら、クリアだった。


「海で泳がなきゃ――肌が白いわ」


待ち侘びていた、金貨でもパンでもない後ろからの声。なるだけ気取って振り返った。ペイズリー柄のピンクのワンピース、小粋な麻っぽい、紐。それが胸元で蝶々結びになっていた。

 
「あなた、食事する時も左?」


利き手のことだとすぐに分かった僕は「ああ」と答え、続けた。


「なぜ?」


「昨日、パチンコ店の隣の喫茶店に入らなかった?」


まさかと僕は思った。何気なしに入った小さい店で、珈琲を一杯頼んだのだ――で、何故かついてきたチーズケーキ。不審に思ったが、僕は食べた。否定するのにもエネルギーを使う。そういう精神状態だった。有り難く、とは言えないが、確かに利き手で食べた。


「わたし、あそこで働いてるのよ」


「ウエイトレス?」


「そう」


へぇ、と僕は、しかし関心ありげに言った。


「じゃダブルワークだ――大変そうだね」


「でも、楽しいから苦じゃないの。全然。なるべくウエイトレスの仕事の日とデッサンモデルは被らせないようしてるんだけど」


シフトの事だろう、と思った。こないだ、足早に帰ろうとペダルを漕いだ彼女の首筋が浮かんでき、僕は少し、かあっとなった。


「大学でのモデルの経験が他にも?」


彼女が髪を耳にかける。
「いいえ――ここが、初めてよ。着衣ありだったから選んだの。ヌードよりかなり時給は下がるけど」


「そうだね」


僕には半分裸に見えるとはさすがに言えない。


「君、名前は?」


「恵那よ」


イー・エヌ・エー…エ・ナ。あなたは、という細い穏やかな声に、気が薄れるような感じがしたあと――僕は誠実とも、軽薄ともいえない、どっちつかずな態度で言っていた。



「俊次だ―――僕と」
付き合って、くれないか。

友人がおそらくやくざな仕事で生計を立てているあいだ、僕の夏はそれこそ南国の果実のような甘美な恋をしようとし、僕はそして、絵を描けるかもしれないという気分を味わっていた。希望を。もしかすると、という程度だが。彼女の返事はイエスでもノーでも、なかった。ただ、僕のことをよく知りたい、そう言った唇は横に伸び、瞳がとてつもなく潤んでいた。僕の直感はこれがイエスである事を告げていた。


「わたし、大学まで行かなかったの」


意外だと思ったが僕はすぐ、蜘蛛の巣を払うようこの考えを取り下げた。育ちの良さが、学歴によって形成されると?人間的魅力なんて、もってのほかだった。そんな事、この僕が誰よりもおそらくそれを分かっている。


「今度案内しようか」 

「え?」

「美大でよければの話だけどね」

「もちろん。嬉しい」


スキップでも始めそうな彼女の笑顔に僕はどきりとした――美しいんだろう。絵にすると、もっと――が、今のところ――彼女をあのスクエアのなかに収める気は、僕には無かった。デッサンのあとの教室でも、もう、彼女に堂々と話しかけるようになっていた。彼女も僕のそれに堂々と応える。ぼろ布ともいえる肩からのものを右手で抑えて。僕のあの嫌いなクラスメイト――髪を何故かオレンジに染めてきていた――は時折それに便乗し、会話に混じる事もあった。が、前ほど彼が僕の世界を踏み荒らすような感じは、しなかった。自分の絵を彼女に見せ始めた時はびっくりしたが。


「いろいろな人がいるのね――いろいろな絵を、かく人が」

「まあね」

もしかすると、不機嫌だったかもしれない。が、僕の外側のカメラから見た表向きの僕は、つとめて冷静だという確信もあった。

「あなたの絵は?」見てみたい。

期待に応えたかったが、やめた。

「今度ね」

なるべく感じよく返事をしたつもりだ。僕はいつものよう、裏門から彼女を見送った。



その日の夜、僕は自分のアパートでカーテンを開けっ放しにし、パイプベッドのうえ携帯を片手に寝転んでいた。テレビは32型のブラック・ホールのような黒い闇。


「何で―――かけ直してこないんだ」


3日前、電話があったのだ。僕の愛すべきあの友人から。僕は出られなかったから着信だけ――いつもの自分ならこんなことはしない。が、妙な胸騒ぎがしていた僕は、彼の携帯へ何度も何度も、僕の名前を残していた。恵那ではなく、恐ろしくインテリジェンスなあの男に。



俊次は絵が 好きなんだよな。



いつかの彼の言葉が、頭の中にこだました。変わってゆく僕から離れてく他の仲間たちを諭すよう、僕の友人はそう言った。くそったれ、と呟き、額に両手を重ねる。頭のなかで、目と鼻の先にあるキャンバスの前に座る想像をした。その上に、僕は絵を描いていた―――現実ではあり得ないスピードで。恵那にはとてもじゃないが見せられないな、と思った。キャンバスの中笑う彼女の手には、腐った果実が握らされていた。

恵那は僕と同じく家を出て、一人暮らしをしているらしかった。二年前から。電車で30分ほどしか離れていない街だが、とても居心地が良い、と彼女は言っていた。サッカー名門高校とぼくの美大、そしてでかいスパ・ランドのあるこの街。



「わたし、元々地元の百貨店で働いてたの」

「本当かい?」


アイスティーを飲んだあと一呼吸置いて返した―――僕に目配せをし、同じものを頼んだ彼女もそれをストローから口に含んだ。BGM。またしても何気なく入った、比較的新しい店、恵那の職場とは違う。カミラ・カベロの「Havana」がかかっていた。



「なぜウエイトレスに?」
別に深い意味はなかった。

「やりたかった事と、好きな事が違った。それだけよ」

「それはイコールじゃあないのか」

「経験してみて――初めて分かることもあるわ。自分がそれを、好きだって思い込んでたってこともね」



僕はこの日、大学を休んでいた。高校の時アルバイトを、デートする為だけに代わってもらったことがある――今日はこれと同じケースに分類され、ていねいにしまわれる。ラベルシールに「罪悪感」と書かれた。BGMが、「セニョリータ」に変わった。


「僕ももしかしたら、そうなのかな」

「え?」

首を横に振る、何でもない、と。恵那はさり気なく、だけど紛らわすよう、はっきりと僕に問いかけた。


「あなたが言ってた、お酒が好きだっていうお友だちは元気?」


僕は瞳だけ動かし、上目がちに彼女の顔を見た。天使が僕の返事を今かいまかと――な訳ではないが待ちわびている。僕は答えなかった。得体のしれない恐怖が、ヴィンテージカラーのフローリングの床―――テーブルの下から、這い上がってきそうな気がしていたから。彼女は慌てることも戸惑うこともなく、明るく次の話題をすぐ持ち出してきた。徐々に口をひらき始めた僕は聴いてみた。受付嬢だったのか、と。百貨店で。

「ううん」

と、彼女は言った。ごく自然に――美容部員よ。あなたとおんなじで――わたしは、人の顔に、絵を 描いてたの。


「だから惹かれたのよ。たぶん、初めて会ったときから」


あなたに…と言いかけたところで恵那ははっとし、見たこともないほど顔を赤くした―――僕は自分が、こんなに感受性のある人間だったことに、生まれて初めて気がついたような気がした。だから対象が何であれ、なにかをかく人間というのは良いやつなのだと、上気し、もやのかかった頭でわけのわからぬことを、僕は考えていた。僕のアパートで、彼女は僕のこないだのQに「イエス」と答えた。月明かりの下、甘い唇に触れているあいだですら―――僕の恐怖の、煙で形づくられた蛇のようなものは、もうすぐ僕の喉元までずりずりと忍びより、巻き付いてきていた。幼く残酷だった僕が傷めつけた、あの生き物たちの怨念のように。

「安藤」と僕を呼んだのはあの、底に砂糖の溜まった水のような声の持ち主ではなかった―――准教授。少し気難しそうな面をした、へんにスタイリッシュな中年。僕は返事をせず、うつろな瞳と姿勢だけで答えた。そして鼻からの透明な溜め息。



美大のくせにここにはプールがあった。更衣室はもちろん、シャワー室まで完備されていた。しかも個室。1958年だか59年に創立されたこの学び舎は、100年先でも通ずるような――言いすぎる癖が僕にはある――モード感がすこし、漂う。悪質な黴のよう。白い曲線の枠が、連なってはりつけられたガラス。その奥で僕は水着に着替え、水槽のようなプールへと飛び込んだ。泳ぐ。25メートルの、プールの中を。巨大なスクエアの中を僕は規則正しく泳ぎ、顔を出す。ちょうど、真ん中だった。僕は数時間前の准教授の言葉と、昨日の夕方の、死ぬほど退屈なニュース番組を何故か見ていた僕の姿を思い出していた。どちらから、話した方がいいだろう。考える間に、それは僕の脳から飛び出した。


「前のほうが、良かった」

どういう 事なんだ?



じっさい、言われた内容はほとんど覚えてはいなかった―――僕がまた、自分の体内で別のものに変換しただけ。けど、意味が間違っているという気は、これっぽっちだってしなかった。水面を殴った僕は、返り血のようプールの水を浴びた。どういう―――事、なんだ?どういうことなんだよ?




一人なのをいいことに、僕は叫び声をあげた。自分の声が鋭い針のよう天井に突き刺さり、屋根の上にとまっていた鳩たちが怯えて去っていった―――



恵那のデッサンは、とっくに終わっていた。が、彼女との関係は続いていたために、寂しくはなかった。にも関わらず僕の心には穴があいていた。とてつもなく大きな。ニュースを見たと言った、確かにさっき僕は。こちらの内容は覚えている。忘れたくとも、頭の蓋の裏側にそれはしつこく、頑丈にこびりついていた。遺体には…発砲されたような、跡があり。身体中が、僕の血が、音を立ててふるえ出すのが分かった。顔から熱がひいてゆくにもかかわらず、僕はあの文章を、繰り返し続けた。無表情なそれを。



――昨夜、…時…分頃、――県――市の住宅街の路上で、男性の遺体が、発見され…し…た。



「遺体には――発砲されたような、跡があり…」
即死、状態で。空気の萎むビーチボールのよう、身体中の力が抜けていった。何故、ぼくの―――あいつの。僕のあいつの名前が?



僕が水中に沈み込み瞳を閉じるすこし前、あの何もかも忘れてしまうような―――美しい、あれが見えた。


「―――ああ」
尾びれか。


「俊次!」
恵那が、僕の顔を、力いっぱい胸に引き寄せた。

「きっと天邪鬼なんだ」
僕は、小さい頃から ずぅっと。


落ち着きを取り戻していた僕は微笑んで、プール・サイドの、更衣室の前の白いベンチに恵那と二人で座っていた。静かな瞳で、恵那は僕を見ていた―――泉だとか湖だとか―――海。月の昇る、あれのよう。首から下げていたタオルで顔を拭う。少しのあいだ、沈黙の音楽がかかった。


「用務員のおばさんがね」
―――あなたは、ここだって。

「見られてたのか」 「みたいね」



また、沈黙。が、僕はもう気まずいとも思わなかった。思えなかった。想像だが、たぶん彼女も。何故来た、とも聴かなかった。理由はひとつ。僕の様子がおかしいからにきまっていた。


「恵那」

「いいわ」――うん。話して、何でも。
彼女が僕の手を握る。


「描けてないんだ――絵が。夏まえから、ずっと」


びしょ濡れになってしまった彼女の服は、僕のくだらない「オオヴァ・ザ・トップ」とロゴの入った黒のTシャツになっていた。濡れた服は、ロッカーの中にあった古い針金ハンガーに掛けられ、この更衣室で気休め程度に干されていた。僕は、ぺらぺらと目の前の天使に話し続けた。まるでなにかを懺悔する、迷える子羊のように。他人の瞳を気にせずにはいられない、僕の手に負えない繊細さについてだとか。あれをやれ、これをやれだとか、期待を込め肩を叩かれた途端に顔を出す、怠惰。僕はたしかに今まで自分の正直な感性や感情に従順に生きてきていた―――が、その結果―――ぼくは、自分が何者にもなれないような気持ちを、生きている全ての時間の毎秒ごと、膨らませ続けていたのだった。それがいつか破裂してしまうという事を、もちろん知っていながら。


「僕はしだいに」


誰かを見下してなきゃあ、生きられないようになっていったんだ。昔の仲間。あのクラスメイト、清潔感のない。たいして名前が売れてるわけでもない教授。そして―――ほんとうの僕だ。唯一その箱の外にいた男は死んでしまった。文字通り、「ぶっぱなされ」て。



「電話したんだ」
確かに、僕のしつこいラブ・コールは彼の元に届いていた。

「僕はあいつと、喋ったんだ」
確かに。あの、しつこく電話を掛けた次の日。他愛もない話のいちばん最後に、僕の友人は言った―――俊次。



別に お前が描きたくないんなら 描かなくてもいいんじゃあ ないのか。



恵那が僕を抱きしめる。僕は指で彼女の毛先を梳かしてやった。自分の為に。顔が見えないのをいいことに、僕は泣いた。他人を認められない、浅はかで、おろかな自分を哀れむよう。恵那が僕の名前を呼んだ―――赤い瞳のまま彼女と鼻先を合わせる。そして少したってから、顔を離した。



「水の中で涙は見えないけど」

恵那は言った。

ちゃんと 流れてるのよ。



恵那が、泣いていた。僕のために。僕と、おそらく僕の大切な友人のために。ちゃんと、流れているの。もう一度、さっきより震えた声で彼女は強く言った。



「不良が絵を描いちゃあ、いけないの?」
自分らしく いて。



僕は観念したよう笑って恵那を抱き上げ、歩きながら、白い脛の上を探るよう強引に撫でた。奥の暗く、人気のない通路を進む―――シャワー室で強めに扉を閉め、そして鍵をかけたあと、電気もつけずに僕たちは愛し合った。カムフラージュでシャワーを強めにかけっぱなしにして、黄緑色したタイルの、白い格子状の模様の壁に彼女を押し付け、凭れかかり、水に濡れ、あとにもさきにももう二度とできない、声をあげて泣きたくなるようなセックスをした。あの、布切れから出る脚よりももっと白い彼女の身体を僕は弄り続け、頬を掴む恵那の吐息と唇をすべて、僕だけのものにしようとした。僕たちが泣いていたのかどうかということはもう、バケツをひっくり返したような雨のシャワーのせいで、誰にもわからなかった。僕たち以外にはもう、誰も。


「すみません」

いらっしゃいませと言われた僕は軽くはにかんで断りを入れた。いつもはそうだが――今日は違った。珈琲なら今朝、自宅で飲んできていた。NOELと書かれた木の看板。天使が働いているともっぱら――うわさだ。僕だけの。「あ」と、ウエイトレスの女性、僕と彼女より年上らしいその人は言った。もしかして、知らないんですか、と。ぴんと来た僕はすかさず、「やられた」とひとりごちた。恵那が昨日口にしていた事を思い出したのだ。


「くそ―――恵那の奴」


僕はウエイトレスの女性にどうも、と一言笑顔を添えて掛け、店をあとにした。あの嗚咽した夏は駆け足で過ぎ、やさしい秋を連れてきたあと、僕の周りは冬でまどろんでいた。グレーのチェックのジャケットに黒のハイネック・セーター姿で僕は、イルミネィションのそろそろ灯りだす並木道を、携帯を取り出しながら早歩きしているとこだった。



もう、空港の中よ。ごめん…ね。約束する。あなたのインスピレーションを突っつくなにかを、ちゃあんと持って帰ってくるから。



電話の向こうで僕の天使は笑った。そのあとで僕は、こうつけ足した。


「別に、なくてもいいよ」


僕はあのプール・サイドの日から、他人のイメージに無意識に応える事や―――反発するよう、別のなにかをしようとする事をやめた。あの僕の大学で、新しい友人も出来た。まあ、言わなくても分かるだろうがその中にはあのがちゃがちゃ声のやつもいる。僕は教室で僕なりの賞賛の言葉をかけた。彼に。


「君の頭ん中を覗いてみたいよ」


得意気なその顔を見た僕は、すこぶるいい気分だった。あの夏の初めと同じく。絵もいつしか描けるようになった。アパートでも、外のどこでも。いつ、どんな時でも。



自分らしく いて。



恵那の、あのときの言葉―――それはずぅっと、僕のあの大切な友人が、知らず知らずに僕にかけていてくれた言葉に違いなかった。水の中の涙のよう。気づかなかった、というだけで。


恵那がデッサンモデルで貯めた金で行った気まぐれな旅から帰ってきたら、僕は二人で彼に花を手向けに行こうと思った。もう、何度も何度も行ったけど。いつになるかは分からない――水槽にはまり込めない、ふざけたやつが、ふたりもいるからね――なにせ。家に帰って熱帯魚の絵でも描こう。僕らしく柔らかで強い線の。海で自由に泳ぐ彼女とそれに――僕のあたらしい姿を、だ。

水の中の涙

fin.

水の中の涙

僕たちが泣いていたのかどうかということはもう、バケツをひっくり返したような雨のシャワーのせいで、誰にもわからなかった。僕たち以外にはもう、誰も。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-05-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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