白紙
そこは真っ白な部屋だった。四角く区切られた壁も床も天井も、どこにも色はなかった。そしてその床には、同じく真っ白な原稿用紙がカーペットのように敷き詰められていた。
その部屋の中央に、彼は座っている。私に背を向けている。
私は彼に恐る恐る近づいて、その背中をじっと凝視して――。
真っ白な部屋は、一瞬ぐらっと揺れた。
八月だった。いや、九月の頭だったのだろうか。カレンダーもテレビも滅多に見ないものだから、暑いという単純な肌の感覚でしか季節が上手く測れなかった。それに、ひと月ふた月程度の差というのは、そそくさと過ぎ去ってしまう日々の中では、とても些細なもので、どうでもいいことだった。
今日は昼過ぎに起きて、適当にサバ缶を食って、軽くゲームをして、夕方ごろに塾のバイトに行って、帰って風呂に入って、もうすぐ寝るぞという気分になってきた頃にようやくパソコンの前に座り、起動し、まだ一文字も書いてもいない文書を開いた。一文書いて、消した。また一文書いて、消した。時計が鳴る。明日は朝が早い。結局一文書いて、消しただけで文章を閉じ、パソコンの電源も落とした。暗闇のような画面に、冴えない私の顔が映っていた。彼が笑っていた。気のせいだろう。けれど確かに笑っていた。私の顔は、こんなにも冴えないのに。布団に潜って、眠った。それで終わり。今日も終わり。
白紙が増えていく。
そこは真っ白な部屋だった。四角く区切られた壁も床も天井も、どこにも色はなかった。そしてその床には、同じく真っ白な原稿用紙がカーペットのように敷き詰められていた。
その部屋の中央に、私がいた。私の背後に、誰かがいた。
その誰かはびくとも動く気配がなかった。私はいつでも振り向けた。しかし、それはしなかった。それをするのが怖かった。その真っ白な部屋の中には、私だけがいた。背後の誰かは――彼は、誰でもなかった。
十二月だった。クリスマスの飾り付けが街中にされていたから、間違いない。電飾のぎとぎとした色彩が目に悪かった。バイトの帰りに近場のスーパーで一切れのショートケーキを買った。帰って食べた。甘すぎて今一つだった。
パソコンの電源は点けなかった。点けようともしなかった。消えていく一文もなかった。映り込む私の冴えない顔もなかった。だが、彼は泣いていた。なぜだかは知らない。ただ泣いていた。どうしてそんなに感情豊かに涙を流せるのだろう。私の口内は、こんなにも甘ったるいというのに。
白紙が増えていく。
そこは真っ白な部屋だった。四角く区切られた壁も床も天井も、どこにも色はなかった。そしてその床には、同じく真っ白な原稿用紙がカーペットのように敷き詰められていた。
その部屋には誰もいなかった。私もいなかった。彼はどこへ行ったのだろう。私はどこにいるのだろう。部屋は回転している。水車のように延々と――。
十月だった。陳腐な化け物の仮装行列が、街の中を横切っていった。帰り道の道中にカラスの雛が死んでいた。子どもの嬌声と笑い声が、窓の外から聞こえてきた。ドアノブは錆びていて、湿った砂の匂いがした。
パソコンが壊れた。急に煙を噴き上げて、ぴくりとも反応しなくなった。私はその機械の死骸を、どうすることもなくぼんやりと眺めていた。膝を抱えて、少し遠くから眺めていた。
白紙が増えていく。
そこは真っ白な部屋だった。四角く仕切られた壁も床も天井も、どこにも色はなかった。そしてその床には、同じく真っ白な原稿用紙がカーペットのように敷き詰められていた。
彼女がいた。彼ではなかった。いや、彼女は彼だった。彼は彼女だった。同じだった。私は私ではない誰かだった。それは同じではなかった。彼は彼女で、彼女は彼で、でも彼女は私ではなくて、彼も私ではなくて、私も私ではなくて――。
彼女は長い髪を揺らしながら振り向いた。顔は靄がかかっていて見えなかった。
六月だった。雨が降っていた。シャッター街の軒下に、高校生が何人か雨宿りしていた。濡れたコンクリートが渦を巻いていた。水溜りの上に波紋が浮かんでは消えていた。近所の家の庭先に咲く紫陽花があまりにも色鮮やかで、目が潰れてしまいそうだった。
新品のパソコンを買った。安物のパソコンだった。インターネットの接続の手続きが面倒で、なかなか起動する気になれなかった。机の上に置かれた無用の長物のようなそれは、威圧的に私を脅していた。私はますますそれから視線を逸らした。
白紙が増えていく。
そこは真っ白な部屋だった。四角く区切られた壁も床も天井も、どこにも色はなかった。そしてその床には、同じく真っ白な原稿用紙がカーペットのように敷き詰められていた。
私がいた。私が私を見ていた。私は私に言った。「ここはただのゴミ溜めだ」と。さらに私は続けて言った。「これで満足か」と。酷く意地悪そうに。それに対して、私は言った。「そもそもお前は誰だよ」。
私を見る私は薄く微笑んで、顔を両手で隠し、すぐに外した。それは私ではなかった。虚空だった。顔だった部分に、大きな虚空の穴が開いていた。どこまでも落ちていきそうな穴だった。底の見えない井戸のようだった。
私は呆気に取られながら、間抜けな声を上げた。「彼ではないのか」。虚空は答えた。「彼女でもない」と。「そして私でもないし、お前でもない」と。
真っ白な部屋は縮小している。空気も、視界も、縮小されていく。息苦しくなる、目がちかちかする。虚空は変わらずにそこに立っている。私の顔に穴を開けている。風もないというのに、床の原稿用紙の何枚かが宙に舞って、どこからか甘く腐ったような匂いがする。
虚空は言った。「本当にこれで満足か」。
私は――答えようとした。確かに答えようとした。なんと答えるつもりがわからなかったけれど、何か答えようとした。そのとき、真っ白な部屋はぐらぐらと激しく揺れた。倒壊する高層建造物みたいに揺れて、そして私は転んだ。
がん、と後頭部を強く打った感触がして、暗転した。
何月かわからない。何日か知らない。何曜日かなんて興味ない。暑くも寒くもなかった。晴れなのか雨なのか、昼なのか夜なのかもわからなかった。そこは一面の暗闇だった。腕を振り回してみても何も触れないし、声を出してみても響きすらしなかった。
私は歩いた。意味もなく歩いた。何か希望を持っていたわけではない。惰性だった。ずっと蹲っているのが苦痛だったのだ。だから歩いた。ただ漫然と歩いた。歩くことしかやることがなかった。それだけが私のすべてだった。私は歩き続けた。
時計もカレンダーもないから、どのくらい歩き続けたのかは知らなかった。ふと、足元からくしゃっという音がした。唐突だった。何か薄く柔らかいものを踏みつけたのだと気づいた。立ち止まり、足元を見下ろすと、原稿用紙があった。私の足の下に、原稿用紙があった。何の灯りもなく、自分自身の足も見えないはずなのに、私の足の下にある原稿用紙の存在は、はっきりとわかった。それは白く輝いていた。太陽みたいにひとりで光っていた。
私はそれを拾い上げようと、そっと腰を屈め、手を伸ばした。手は震えていた。それでも伸ばして――その端を掴んだ。
白紙が――白紙は――。
真っ白な部屋だった。もう説明するまでもない。
私はいた。部屋の中央に。床一面に広がる白紙の原稿用紙の上に立っていた。
私は見下ろした。足元の原稿用紙を。私の足が踏んづける原稿用紙を。
その原稿用紙の隅の隅に、一文字――ほんの一文字書かれていた。「あ」という一文字が書かれていた。それだけなのに、私の心は無性の安堵感に包まれて、そして私は漏れ出した。鼻の穴から、耳の穴から、口から、涙腺から、尻の穴から、尿道から、全身の毛穴から、私は白い霧になって漏れ出していった。漏れ出し、真っ白な部屋の中に、広がっていった。広がった私は、ただただ漂っていた。すべての白が、失明しそうなほど煌めいた。私は人生で最も、幸福だった。
四月十七日日曜日。目覚まし時計に叩き起こされずに目を開いたのは、久々だった。
私は掛け布団を蹴飛ばしてベッドから飛び降りると、そのまま一直線にパソコンの前に座った。水も飲まなかった。電源ボタンを押した。パソコンが起動するのを待っている間、私は瞼を下ろし、その裏に残った光の残像を追った。その中には世界があった。原稿用紙があった。完全な暗闇なんてなかった。
――パソコンが起動したのを確認して、ゆっくりキーボードの上に手を置いた。
白紙は、もう増えない。たぶん、今のところは、増えない。
白紙