森は深い

 静かなる森が燃えて居場所を失った私たちに手を差し伸べた神々しいあのひとの例えば睫毛の一本も愛おしいと思うほどの信仰心は芽生えなかった。湖には七百年前の街が沈んでいて胎内にいた頃を想わせる君の両腕の中のゆりかごで私は目を細める。ガーデンテーブルに置いた読み止しの本のページをぱらぱらとめくり風がかつて森のあった方向へと吹き抜けてゆく。私は君の短く切り揃えられた爪に傷つかない程度の甘い強さで皮膚をなぞられる瞬間にすべてを君に捧げたい気分になってくる。私より年若い君がその瑞々しくハリのある肌を惜しげもなく剥き出しに太陽の下で輝いている姿をファインダーにおさめて切り取りたい。私のからだを君はうつくしいと云う。年甲斐もなく私は高揚し君の薄い唇が動き言葉を紡ぐたびにずっと奥底で死んだように冷たく揺蕩っていたものが熱を取り戻してゆく。
「夏雄さん」
 君が私の名まえを呼ぶことでざわめく内なる森の深遠にはきっとあのひとがいて私たちを救ったときとおなじ微笑みを湛えているのだろう。コーヒーが冷めてゆくことよりも君との今この一瞬一秒が狂おしいほどに儚く思えて一生忘れないようにと記憶に刻みつけるみたいに君の胸に縋る。君は父である。母である。恋人であり伴侶である。それから神さまである。私だけの。

森は深い

森は深い

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-05-03

CC BY-NC-ND
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