二十二番目の塩素

「君達が海を広げきった、その後の話さ。
 生物が居るかも分からないところに、ばらけた海を集めなおしても足りないくらい大きな、ガスや氷でできた粒が浮かんでいる。
 氷があるということは、水のある可能性が高い。
 私達の仲間が居るかもしれない、ということだ」
「こおり。氷の星?」
「そう。私達は、そのような遠い場所へも行けるのだ。
 例え泳ぎ方を忘れたとしても、飛べるのだよ」

[No,03]

 四角形な海にライトを点ける。ぱちぱち、またたきみたいな合図をながめた。点いているものと消えたものが互い違いになっている。いさりび。白と緑と青と桃色。
 非常口の灯りがまぶしくて、顔をそむける。
「そいつは置いていきなよ、一緒には泳げない」
 伸びてきた手にくじらを任せた。 空色でふわふわのくじらは、あなたの力加減がおかしくて、びっくり顔になっている。
「見ててやるから。行っておいで」
 ちゃんとくじらになれるか、見ててあげる。
 足の裏が滑る。かかとを踏みしめる。わたしの足のかかと。わたしの足。くじらには届かない二足歩行。
 波打ち際に指先をひたす。ふるり、ゆれる。背中につめたさがのぼる。りつもうきん。呼吸三回ぶんをいちどきに吐き出す。四回目の手前で、詰める。
 ざばり。沈む。まとわりついていた泡が逃げる。機械の循環をうながす低音が薄く聞こえる。赤い線と黒い線がうっすらと続く、まっすぐ続く。
 五メートルの底につく前に苦しくなった。苦しくなったら、息を吸わないと。
 四角形の端で顔を上げる。あなたがいる気がしていた。当たりだ。くじらを抱えてかがんでいる。顔を近づける。
「大丈夫かい」
 なんにも。
 それより、くじらになれていた?
「……あいにく、人間が浮き沈みしていただけかな」
 わたしがほどけて、くじらになれるのはいつだろう。陸にばかり居ると、水は離れていく。
 考えるのはあなたの方が得意だ。必要な理屈を貰って、わたしはかわりに、わたしを返す。海と陸とを行き来する。
 ふたつの場所を選べないからくじらになれないのかもしれない。ここ、が嘘やあいまいで出来ている中で、それだけがしんじつ、という可能性。可能性であるうちは、あいまいを名乗ってもよい、きっと。
 端から端を三往復、三百メートル。上を向いて、下を向いて。息継ぎをしたくないから背泳ぎだ。
 途中、あなたの姿があった。机、椅子、キーボードに走る指は青い。目が合う。
「調子が良さそうだ」
 すべてを把握しているのに、訊くの。
「だって、ぼくの把握と君の感覚は別だから」
 じゃあ、あと七百メートル。そのあいだで、わたしとあなた、同じものと違うもの、どんなものがあるのか、確かめよう。
「普段よりもご機嫌な理由を訊いても?」
 そうかな。いつも通り。
「はは。それこそぼくと君の違いってやつだろう」
 違うものばかり。同じところなんてない。
「意思疎通が出来ているのだから必ずどこかは共通している、とは思わないかい。あぁ、でも、同一だと互いに誤解している場合も考えられるか……難しいな」
 あなたにも難しいと感じることがあるの。
「あるに決まってる。そんなのばかりだ。……ごめん、止めてしまったね。どうぞ」
 指先の青は、照明を受けてより深くなる。潜ると消える。また顔を出したときにはもう、あなたはこちらを見ていない。
 七百メートルを、始める。一定の速さで、長く泳ぎつづける。終わりに近づくごと、呼吸がままならなくなる。手足が重くなる。
 締め付けられるくらいなら、陸にのみ居るべきだった、とは、後悔していないけれど。
 わたしの身体はわたしのものなのに、思うようにいかない。それは突飛なことではなくて、普通のこと。つくりものの四角形な海を泳ぐにも、わたしは不十分だ。
 寄せては返す、オーバーフローを照らすライトはいさりび。ささくれた壁のコンクリートは、落ちて砂粒になる。窓の向こうにはほんものの月が見えていた。ほんものの海もあるはずだ。それは誰が流したかも判然としない、うわさ話。
 匂いは海を拒んでいる。塩素の匂い。
 磯の香りは知識だ。一度だけ浅瀬へ連れてゆかれたから。
 視覚、聴覚、触覚、嗅覚。さいごのふたつは保てなかった。残っているもうふたつも、ゆらゆら、思い返すたびにかたちを変える。小さな生きものの影が増えたり減ったり。暗く、無音のときもある。ほんものの記憶なら、おぼろげになっても、ほんもののままだろうか。
 壁を蹴る。ゆっくり回る。天井のライトが見える。
 まるで意識をしないから、陸での呼吸は自由だ。水の中でも自由になりたいのなら、意識をしてはいけない。抵抗を最小限に。連なる動きの一部に。 五十メートルなら呼吸は要らない。止める。なぜだかどこかにヒレを置いてきてしまったので、せめて、邪魔にならない呼吸を。
 あっという間。半時で一キロメートルに到達する。
「おかえり」
 あなたがくじらを動かす。裏声で話しながら。
「まだ出来そうなら、少し飛んでみようか」
 丁度いい。これだけじゃあ、足りないから。
 コンクリートのかいぶつを見上げる。手渡されたタオルを受け取った。足を拭いて階段をのぼる。下を向かない。重力は勝手にやって来るから、わたしから迎えにゆく必要はない。
 二分ののちには、七・五メートルの空だ。
 飛行ではない、落下というはばたきの速度に、わたしはうつくしさを見出さなければならない。だけれどうつくしさ、が何なのか、まだ、分からない。
 それでよいとあなたは言う。
「指向された美は好まない。ぼくはね。だって第一、君のコンセプトに合わないし、それじゃあただの人間のままじゃないか」
 受け取ったくじらは、腹がほんのり湿っている。立ちのぼるのは、やっぱり不機嫌な塩素の匂いだ。
「よっぽどくじらになりたいんだね。良い顔してる」
 わたしはくじらになりたい。それはほんもの。
 では。
 あなたは、何かになりたいと、願っている?




[No,09]

 泳いだあとの眠気とけだるさは厄介で、けれど戻って来るために大切なのだ、と思うようにしている。
 どんなに努力しても、水の中に居つづけることはできない。陸に適した身体だからだ。硫黄で呼吸が出来ればよかったのに、と言った。
「酸素による代謝が常識なのは特定の生物に限った話だからね、決して一般的なものではない。ぼくだってそこからは外れているし……とは言え、君はバクテリアか何かにでもなるつもりなのかい。いやいや、真剣に考えないでよ。ちょっとした冗談を言ってみたかったんだ。……あぁ、この音? ファックスの送信音だよ。聞き覚えがある?」
 あなたが乗せてくれた潜水艇で耳にした気がする。ほんの少しにぎやかで、聞いていると、落ち着く。
 狭くて白い部屋は、わたしとあなただけでいっぱいだ。机、椅子、ベッド、本棚。電話機。キーボードと液晶。たまに花が飾られている。ファックスや有線通信が、先走る時間を引きずるおかげで、壁掛け時計は合致できている。
 身体を起こす。眠っていた。ひとりぶんの大きさのベッドに、シーツの波紋が広がっている。椅子の軋みはオールを漕ぐ音。海は案外、近くにあふれている。机の向こうの湯気は、ケトルの汽笛。
 お湯が沸いた。
 あなたが椅子から立ち上がる。
「お茶にしよう。久し振りに遠い国のものを仕入れたんだ。変わってるお茶」
 あなたが好むものは、いつも風変わりだ。
「ぼく? そうかなぁ。で、いつものカップ?」
 真っ白な部屋には、青と黄緑のカップが咲いている。あなたは色のあることを「咲く」と表現する。この状態を他にどう表現するのか知らない。だからわたしは無条件に納得して、わたしのことばにする。あなたのことばを吸収する。
 あなたのそういう、ずれ損なったところが好きだ。
「熱いから、やけどしないようにね」
 青いカップを両手で包む。あなたの右手の中指に触れた。すぐに離れる。あなたの身体はいつも冷たい。ボイラーがうまく作動していないのかもしれない。それに血液の匂いもする。鉄分の匂い。
 あなたはたしかに金属だ。ただ、わたしと共有しているものもある。身体の構造や、つかうことば。
 それから、情感? 思考?
 あなたは人間の手によって作られている。
 生命であって生命ではないあなたから、どうしようもなく生命であるわたしが、さまざまを教わる。
 何も問題はない。物質である証明が満たされていれば、他は些末なことだ。
 あなたはわたしに触れられる。わたしはあなたに触れられる。接触は、確実な相互伝達。生身の。
 カップに息を吹きかけると、水蒸気が口元で水滴になった。ひとくち含む。辛さと甘さが一緒くたになって、むせる。
「口に合う? ぼくは、結構好みだな」
 好き嫌いは難しい。知らないことが多すぎるから。
「じゃあ、これから好きなものが増えていくね。一つ一つを覚える必要はないよ。ぼくはそうした覚え方のほうが得意だけど、君はぼくではないし。似たもの、近しいものを少しずつ集めて、君の海を広げる。そういうやり方もある」
 海を広げる。
 海は、広げられるの。
「ううん、誤解させてしまったかな。海……っていうのは、君の知っている、この地表の約八割を覆っている海洋、ではなくて」
 あなたは指で、机にいくつもの円を描く。
「ひとは皆、それぞれの海を持っている、とぼく達は仮定しているんだ。思考。意識。自我。領域。世界。どの言葉でも表現できる不可侵の場所。それが、海。海の大きさはさまざまで、しかも、海の数だけ伸縮の原因があると想定される」
 では、あなたの海は。
 わたしに海があるように、あなたにもあるはずだ。
 そこは、どんな景色。
「ぼくの? ぼくの海は、真っ直ぐに伸びているよ」
 よく、分からない。
「はは、それは良いね」
 どうして。
「分からないことがある状況が、ぼくは好きだ。想起可能という点で、対象を安っぽいものに貶めることは容易に想定されうるからね。たとえば豊かな想像力の素晴らしさを説く者がいれば、想像力の限界を嘆く者もいる。想像を絶する事態だと、何もかもを大袈裟に憂える者もいる」
 想起可能、なのは、悪いこと?
「悪だとは言い切れない。おそろしさに勘付いているかどうか、かな。あくまでもぼくの考えだけど。
 もしも、を唱えられるうちは良い。厄介なのはそこからだ。実際のものごとが自分の想定を上回らなかったときや、自分の頭で楽に考え付いてしまう程度のものだったとき、そんな局面を迎えることが、ぼくはたまらなく恐ろしいよ。たしかに、想像力があればどこへでもゆける。……けれど同時に、想像力は現実を委縮させかねない」
 海はわたし次第で大きくも小さくもなる。から。ということ。
「その通り。適度な状態が一番……とは言え、そう簡単にいくものでもないしね。何にせよ、ぼくが考えるイフは、現実を越えてはならないんだ。そう思う」
 げんじつ。
 げんじつは大事?
 きっとわたしは、げんじつばかりは駄目だ。泳ぐときはくじらにならないと、とたんに息が難しくなる。想像のヒレがないと、泳げなくなる。
あなたとは違っている。
 考えていることが、海のようすが。
「……それで良いんだ。いいや、そうでないと」
 黄緑のカップの中身は、ほとんど減っていなかった。代わりに、匂いと温度を飲んだのだろうか。
「海は一体、どこまで伸びているのだろうね」
 疑問詞。
 迷子になりそうだったので、わたしが拾った。




[No,14]

 面白いことに笑う、悲しいことに泣く、口惜しいときに怒る、嬉しくなったら微笑む、鼻や口を使って空気を吸う、「眠くなったら」横になる。
 おなかがすいたらご飯を食べる。
 単なるエネルギーの摂取ではなく、良質な食物を口にすること、他者との交流を行うこと、それらの総合的な行為。肉体的かつ精神的な充足をもたらすのが、食事。
 わたしはこれを未だ、円滑に処理できない。
「処理? 処理か! ふっ、そうだね。違和感を抱いてくれただけでも花丸満点をあげたいくらいだよ」
 あなたは、食事をしていて、楽しい?
「数十分で終わる充電に楽しさも何もないよ。でも、君が食べているのを見るのはすごく楽しい。うっかり間違って幸せになりそうだ」
 間違い。わたしは楽しいと思いながら食べていないのに、あなたが楽しいのは、たしかに齟齬だ。
「食事は、君のコンセプトとそれに反するものとの狭間に位置する、いわば境界なのかもしれない。気付いていないだろうけど、食べているときの顔はたまらなく幸せそうだよ。君の中のどこかに、楽しいという感情があるのだろうと推測できる。―君の感情を抑制したのはぼく達なのに、片鱗を見て嬉しくなるなんて、厚かましいにも程があるよな」
 どういうこと。
「……最近、君と一緒に居るのが苦痛に感じることがあるんだ。しんだほうがましだね」
 しぬ、ではなくて、こわれる、だろう。
 あなたは答えず、自分のぶん、と取り分けたケーキを押しつけてくる。
 つやのあるチョコレートが、皿の上に溶け出している。
「食べていいよ」
 電気を食べるあなたは、わたしと同じ食物を口にする必要はない。だというのに、わたしが食事をするとき、あなたはいつも二人ぶんを用意する。譲ることなどなかった。要らない、は、初めてだ。
 あなたは今、どこを見ている? 何を見ている?
 その花は、今朝あなたが持って来たものだ。
 おかしい。
 露骨で明確な、差異。
「君に指摘されるなんて、よっぽどだね」
 ケーキを押し返した。これはあなたのものだ。わたしのぶんは少しだけれど、あとで一緒に食べることも出来る。熱いお茶もわたしが淹れる。あなたがいつもすることをわたしがしよう。
「ありがとう」
 それが正答だと思ったから。感謝はいらない。
 あなたは顔を俯かせ、それからまた私を見た。
「……そもそも、理屈だけでものを見られたらどんなに良いか、なんて考えたのが間違いだったんだ。ひとの気持ち次第で動くよのなかの不条理を正そう、なんて烏滸がましいことだった……こんなに簡単な事実に気付けなかった。本当に、本当に、分からなかった。全く、君に偉そうな口をたたいておいて、格好つかないよな」
 あなたはそれでも、わたしの中の、正しさだ。
「耳ざわりと口ざわりの良いことを言っていただけさ。どんな罵りも足りないよ」
 じゃあ、もっと、もっと話して。情報が足りない。
 ことばが、ほしい。
「嫌だ。きっと気分を悪くする」
 構わない。言うと、あなたの顔はゆがんだ。
 ゆがみさえも、正常を示すサインだ。
「……遥か昔、人間と機械は対立するとされていた頃、文化的な営みは人間の特権だと思われていたんだ。だけど技術革新によって、ぼくのような機械がわんさか出現し始めた。現実が一気に覆った。人間は、人間が何なのか、見失った」
 またたく。
 水中に居るかのように、息が、重い。
「ヒトと他の生物との身体構造的な差異を明らかにする、調査する、具体的な線引きをする。こうした試みだけでは飽き足らなかったんだ。堂々巡りだ……機械が心を持ち得ることの証明をいかに行うか。そこから派生した問いが増殖して、しまいには人間の情緒の唯一性を目指すようになっていった。自分達の優位性を保ちたいから、こころを解き明かそうとした。動物的、本能的なんて言葉でごまかされてしまう衝動に惑わされないこと。つまりけものでないという確固たる証明が、人間は何としても欲しかったんだ」
 呼吸を意識しては、駄目だ。
 くじらが、遠のく。
「問題を解明するには実験をしなくてはならない。対照実験……対象と対比されるものも必要になる。人間のこころを理解するために、こころのない人間を創り出してしまおうと考え付いて、実行してしまった。実行できるだけの力があった。君から海を奪った」
 どこかで掃除をしている?
 それとも誰かが泳いでいる?
 塩素の匂いがする。
「ごめん」
 今のわたしには、この部屋と四角形な海だけだ。
 あなたの話、文字のかたる物語、液晶の向こうに広がる温度や湿度を、それ以上のものを。ここではない場所で得ることで、海はもっと広くなったのか。
 可能性を、あなたが―あなたたちが、奪った?
「それからもうひとつ」
 嫌だ。
 言うな。
 怖い、という、感情。
「ぼくのせいで君がこころを持ちかねないと言われた。だから、君とはもうじきお別れだ」
 あなたの不在さえ、ただの知識となる?
 事実を蓄積するだけのにんげんは、データベースと同じだ。そう言ったのは、あなただ。
「泣かないでくれよ」
 なかない。
「泣いているよ」
 分からない。
 あなたの頬にナトリウムの伝っていること以外は。




[No,21]

 五十メートルを容易に無呼吸で泳ぎ切れるようになるのはいつだろう、と考えるのは杞憂だった。むしろ、今はいちいちの呼吸動作が煩わしい。
 くじらは少ない呼吸でずっと潜っていられる。肺活量はさほど関係がない。潜水の可否は、効率的に空気を入れ替えるすべを身に付けているかどうかだ。呼吸回数を減らすことができたら、少しはくじらに近付けるだろうか。
 目を閉じて、想いだす。
「……くじらも哺乳類なんだ。魚のように自在に泳ぎ回っているけれど、ちゃんと君の仲間なんだ」
 ふわふわのくじらを貰った。
 初めて訪れる場所とあなたの金属の身体に驚いてしまって、泣きじゃくっていた。どこからか仕入れたその大きなぬいぐるみを、あなたは僕に抱かせた。ずいぶんと冷たいあなたの指が触れて、妙に落ち着いた。
「気に入ってくれた?」
 頷く代わりに、くじらに顔をうずめた。金属の匂いと塩素の匂いと、まだらだった。
「××、誰かから聞いたかな。ぼく達……ぼくは、君に酷いこと、むごいことを散々やってきた。そんな相手とこれから一緒にここで過ごすわけだけれど、その。ええと、大丈夫、かな?」
 こころない人間に尋ねても意味がないだろう、とは思わなかったのだろうか。
 あなたの困惑を、わたしはやさしさの一環だと、誤解した。
「いや、既に決まっているから覆せないんだけどさ。……でも、うん。ぬいぐるみ、良かった」
 くじらになりたいと思ったのは。あなたが最初に教えてくれた、大切なものだったからだ。もしもこれが鮫だったとしても、焦がれることはなかったのだろうけど。それ以外の理由を思い付かなかった。
 全部が過去形だ。
 過去形でかたるものが、増えてゆく。
 僕は、酸素が多過ぎると嘆くことも、からだの側面に無いヒレを探して絶望することもなかったし、ヒトの指が触れただけでやけどをする身体にもならなかった。
 二足歩行する哺乳類のありように、身体が馴染んでいく。

 あなたの言うもうじき、とお別れ、は僕の知るものとは違っていたのかもしれない。
 あなたが白い部屋を去ったのは、季節がひとつめぐった頃だった。
 お別れはいくら準備をしても足らないのだと言った。大抵のことはそうだ、とも。
「水に浸けても壊れないから。時間をまとうんだ。いいかい、紫乃。君はたしかに人間だよ。でも君の持っている時間は皆と同じじゃない。緩慢に過ぎてゆくそれらをひとつずつ刻むのに、これが役立つ」
 あなたの冷たい九つの指が、僕の左手首にまとわりつく。離れても冷たさは残った。見るとそこには金属が巻きついていた。舐めても、血の味はしない。
「緩慢で冗長でも、それでもいつか君も水に溶ける。君がその間際に何を思うかはさした問題じゃない、クォーツを見るそのときそのときに、君が君でいられるように。君が、君を確かめてやるんだ」
 クォーツ。名詞は上手く覚えられない。母音と子音との音声に分かれて、ばらばらになってしまう。
 あぁ。あなたの名詞も忘れてしまった。
「名詞じゃなくて名前だよ。自分のことが分かっていれば、ぼくのことなんて覚えていなくて良い。誰かから呼ばれる君の名前は、君を措定する灯台になる。君は紫乃だ。他の何ものとも替えられない」
 シノ。
 僕は、紫乃。
 声に出す。音列がほどけることはなかった。
「な、にんげんでいるには、それで十分なんだ」
 十分、足りる? 嘘ではない?
「……そりゃ、欲を出せば全然。何でも欲しくなる」
 あなたは噴き出す。僕も笑った、気がする。


 あなたが運転する小型車に乗って、海へ向かう。
 最も近い海は綺麗な場所ではないらしい。海と陸地とが複雑に入り組んでいて、海が凪ぐことは少ないのだそうだ。常に逆波がたつ、荒々しい水。
 おうとつのある道を抜ける。身体がはねる。飛び飛びになるステレオの音楽はとうに切っていた。
「今からひとりごとを言うよ」
 何も返さない。独り言なのだから。
「恩着せがましいかもしれないけど、ぼくはこれまで、できる限り君を尊重してきたつもりだ。ぼくの身勝手な罪滅ぼしで自己満足なのは分かってる。……でも、ひとつ、許さなくていいから、認めて貰えたら嬉しいことがあるんだ」
 それは。とても大切なこと?
「ぼくは機械で、だけど、君とこうやって……生身の人間のように過ごせて、けっこう嬉しかった。そう思うのを、認めてくれるかい」
 ふぅん。
 あなたはまた、間違えている。
「なに。え、ちょっと何だって紫乃、教えてよ」
 車は道の端に停まる。すぐそばの階段を駆けて、砂浜へ下りた。風が強い。吹き飛ばされそうだ。
 海の匂いがする。なまぐさい。酸っぱい。苦しい。生き物の匂い。
 くじらはこの向こうだ。僕には、越えられない。塩素の匂いを懐かしく、好ましく思ってしまうから。
「……ぼく達の言う海は、実物を踏まえた上での比喩だ。水はあちこちの海洋や河川に流れて、蒸発すれば雨粒になって降ってくる。だから海もひとつなんだ」
 僕が持つ海も同じ、不可侵を共有している?
「自分の海は自分だけで作ったものだと思うのは誤解だよ。君は人間である以上、無数の海から水を受け入れているのだから。君の海は唯一だけれど、それほど独創性に満ちてはいない。そこだけは勘違いしてはいけないね。不可侵というのも、中身が他者からは覗けないようになっているというだけであって、その実似通っているのかもしれない。確認しようがないものを信用できるか、どうかだ」
 海を共有しあっているのは、人間同士だけ?
 魚やくじらや、あなたとも、繋がれるだろうか。
「……紫乃は、どう思う?」
 僕は、そうであって欲しい。と、思う。
「だったら、そうだよ。
 そうでなくっちゃ、ね」
 車が発進の準備を始める。あなたの方へ回って、後部座席に置いていた袋を手渡した。
「これは君のだろ?」
 だから、あなたに持っていってほしい。
「うぅん、そんな風にも言えるようになったのか」
 あなたの真似ばかりだ。僕のほとんどはあなたでできている。そうだろう。
 だから不安だ。このくじらを見ると、弱気になってしまう。居もしないあなたに助けを求めても虚しいだけだ。そう、理解しているのに。
 それにもう、ぬいぐるみを持っているのは、少し恥ずかしい。
「恥ずかしい? っふふ、はははっ! そう、そうか」
 笑いごとじゃない。
「ごめんごめん。何も心配することはないよ、それだけのことを想えるんだから。驚いたなぁ。
 紫乃。ぼくも海を広げるよ。だから君も」
 あなたの海へ、出会えますように。
 握手をした。あなたは両手で僕の手を包んだ。大きい手だった。いつもより、温度が高かった。
 あなたの車はすぐに見えなくなった。
 結局教えなかった。何が間違いなのか。
 共に過ごした時間を嬉しく思うのは同じで、後悔しているわけがないと、言うには早いと思ったのだ。


 いつもの部屋へは徒歩で戻る。僕が頼んだ。帰り道は歩いてみたかった。地面を踏みたかった。
 途中で靴を脱いだ。痛い。石が食い込む。両手に靴を持った影法師のかたちは、おかしい。笑ってしまう。笑うと、涙が出る。
 プールサイドへ戻っても、小さなくじらや、キーボードを叩いて僕を観察していた、人間のような機械は居ない。 それでも窓には月があり、ライトは果てのないいさりびのようだ。 腕へ巻いた水晶は、規則的に動いている。
 五メートルの水底へ向かうまで、針の音を聞こう。
 僕が僕を刻んでゆくのが、あなたとの約束だから。

 かみさまがいつか分けた海を、ぼくたちは泳いでいた。
 海は絶対。行ってはならない場所。そう言い聞かせられて、ぼくらもすっかりそうなのだと思い込んでいるけれど、ぼくが拾った記憶のかけらはこう囁くのだ。
 誰かがもっともらしく言うことに耳を傾ける前に、考えろと。考えるのを、やめてはならないと。


「呼吸をやめるのは生きていないことと等号じゃない。より速く泳ぐには呼吸しないことも必要だ。
 急がないと、氷の星には辿り着けないよ」


 どこかできみの声がした。
 だからぼくは、再び泳ぎ始める。
 溶けてしまったむらさきいろに、会いに行く。

二十二番目の塩素

二十二番目の塩素

くじらになりたかった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-05-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3