cassis

cassis

I will walk together,
the future not promised
It keeps walkimg together,
to the future in which you are...

1

ある晴れた日。
私は女の子を見つけた。
まだ産まれて間もないその子は酷く痩せこけていた。
新生児とは思えない程のその酷い姿を抱きかかえ私はこの子を育てたいと思った。
その子は命(メイ)と名付けられた。
そこから複雑な運命は始まったんだ。
時はその子が23歳になった頃。



私おかしいの。
お兄ちゃんにドキドキする。
それはものごごろついたときからだった。
私の初恋はお兄ちゃん。
それは20歳になる今も続いている。

この気持ちの消し方は解らない。
どんなに否定しても、消そうとしても、私が好きなのはお兄ちゃんだけだった。
お兄ちゃんには彼女いたしお兄ちゃんは何とも思ってないんだろう。
必死に気持ちを押し殺しているつもりだったが、それは本当につもりだった。


20歳のある日。
転機が訪れる。
気になる人が出来た。
お兄ちゃんを超えられるかわからないけど彼の存在は大きかった。
彼の名前は松木貴之(マツキタカユキ)。
忘れられない人がいると告げた私を包み込んでくれた。
初めて男の人を知り、付き合って3か月。
貴之から笑顔が減っていった。
それから間もなく。
「もう好きじゃない」
その言葉で私と貴之は他人になった。
消されない想いを隠していた私には当然の別れだったのかもしれない。
お兄ちゃんの存在は薄れることも消えることもなかった。
中途半端なところで揺らいでいた私が悪い。
貴之を止めることも出来ないままあっけなく終わってしまった。
消せたと思い込んでいたお兄ちゃんへの気持ち。
むき出しになった気持ちは確信へと変わっていく。
それからの生活はまるで歯車が噛み合わない機械のごとく動き出した。
揺られる中私の心は脆く崩れていった。
止まった時間、真っ白な空間

私は誰?

2

 



 
起きたら知らない部屋に居た。
服とかをざっくばらんに部屋の端に寄せてある。
茶をベースに揃えられた家具。
茶色の無地の布団に私は寝ていた。
目を開けてすぐ違和感に気づく。
天井がいつも見てる景色ではない。

…え、ここどこ?

「あ、起きた?」
寝室らしきこの部屋のドア越しに男の人が姿を見せた。
どどどうい展開ーーーー!?
ここどこ!
あなた誰よ!!

寝ぼけている脳をフルで動かす。
だが動くのは目だけ。
「なんともなくてほんとよかったよ」
彼はそう言いながら四角いドアの景色から見えなくなる。
大変だったんだよー?と声を張りながら、その声はまた近づいて来る。
この状況を説明しているようだが、耳を通りぬけるだけだった。
四角い境界線を越え私の前に来ているのに彼の声はすり抜ける。

彼が一人で口を開くこの状況下…なんでだろう。
私はこの人を知っている。
よく見る顔な気がしてならない。

でもなんで?
私がこの人を知っていたとして…でもなぜ彼が私の前にいるの?
わからない。
脳内は絡まるばかりだった。

彼が話を続けながら経緯を説明されるがまま、私には音のない背景のように映るだけだった。

「あ、一気に言ってもわかんないよね…?」
そんな私を彼は察したのか微笑んで席をはずす。
「え…あの…」
「いいよ。ゆっくりでいいから、よいしょ!」
彼は立ち上がり部屋を出る。
「腹減ったらいいなよ?」
境界線で彼は振り向かずにそう言って姿を隠す。
その背中は悲しみを帯びている。

夢の中にいるのではと錯覚を起こすような現実に私は氷と化している。

今という時を見つめ目を閉じる。

あの背中は、笑顔はどういう意味なの?
ゆっくりと言葉を確かめるように話す喋り方。
彼は一体誰なんだろう。
私の知り合いなのかな?


モザイクがかる閉じた視界。
その中で途切れとぎれに見えるもの。
私は繋げていく。



…ガタン…ゴトン…ガタンゴトン…
仕事帰りの電車の中。
席が空いていない車内。
体より心が軋んでいる…

それにしても気持ち悪い。
二酸化炭素が多いからなのか。
逆流しようとする物を何度も引っ込める。
額を中心に不快感を覚える汗。
視界が真っ暗と砂嵐を交互に映す。
膝から下が震えている。
やばいなこれ…
口にタオルを当て、次の駅を待った。
いつもは素通りするだけのこの駅。
急いでトイレを探していた。
ぐるぐる回るホーム。
…そこからの記憶が…ない。


どれくらい目を閉じていたのか。
部屋はオレンジ色になっていた。

それでも完璧につながらないパズルを私はぶちまけた。

思い出せない。


「入るね」
覗き込んだあと小さな声で境界線を超える彼。
彼は出来立てのカップ麺とペットボトルのお茶を布団の横に置く。
静かで、春の風のようにその場をぽかぽかさせる存在感。
「安心して、なんもしてないからさ。食べながらでいいから聞いてね」
そして彼はこう続けた。



彼の話によると私は駅内で彼と待ち合わせしていたらしい。
だが私の様子がおかしい。
屈んだままの私は自分の足と足を絡めてしゃがみこんだ。
彼が声をかけても震えているばかりだった。
途切れそうな息のまま、力の入っていない足を震わす。
咳払いとともに私は倒れた。
彼の声にも耳を貸さなかった。
早い息遣いと震える体。
泣き止まない私に彼は私をおぶって自分の家に連れてきてくれたのだ。


彼の話の中私に向かって声をかける人の姿が映り込む。
でも誰かわからない。
映ろうとするその像が鮮明になればなるほど私の脳を揺さぶった。

「うう…」



… 

「わからない…」
「うん、そうだよね…俺…仕事あるからゆっくりしときなよ」
頭痛の向こうに彼を見る。
あ、まただ。
その背中。
悲しいって背中に書かないでよ。
涙を隠す笑顔と背中。
境界線の四角はゆっくり閉まり一枚の壁が出来た。
今までは開けてあったけど、今、ドアは開いていない。

私…どうしちゃったんだ?

ん?
そもそも私の仕事ってなんだ?
電車通勤なのか?
あれ?

どんどんわからなくなっていく。
絡まる思考。
熱くなる脳。

私はだれで、どこにいるの?
あの人は誰なの?

寝なれないこの布団に上半身を預けた。



空っぽの時間に色をつける音がする
『♪♪♪~♪』
壁越しから聞こえるギターの音。
あの人ギター弾くんだ。
私は脳を動かすことをやめ、彼の出す音を聴き始めた。
その音だけに聞き入った。
どんどん視界が荒くなる。

そして一つ思い出したの。
私は私がわからないんだ。
私が誰で、どこの人で、何をしているのか。
私のことを私自身が忘れてしまったんだ。

3

「寝ときなよ。」

私は境界線の壁の彼側に足を踏み出した。
そこにはパソコンデスクに向かうギターと彼の姿。
彼は泣いていた。


ねえなんで泣いてるの?
その歌は私に関係あるの?
「こ、コーヒーでも飲む?」
椅子を回転させ私に背を向ける。
彼はギターを立てかけキッチンに行ってしまった。
泣かないでよ。
「あっの!」
「ん?」
「貴方は私を知ってるの?私はその…覚えてないけど…でも!」
あの歌私は聴いたことがある。

この歌を私は知っている。
なんの根拠もない本能が私にそう言っている気がした。
思い出してって私自身が言ってるの。
彼はギターをギタースタンドに置いた。
「俺は…俺は高嶋宙陽(タカシマヒロアキ)。バンドやっててギタリスト。命の…あなたの彼氏です」
彼のであろう私の身に纏う服。
私にはダボダボでズボンは裾が床についてしまう。
半袖のTシャツは七分になっている。
そんな私をもっと大きな彼が包み込んだ。
「ごめん」
彼の腕の中で脳裏をよぎる。

私の…かれ…し?

謝りふわっと離れていく彼に私は目を閉じて耳を傾ける。
「それで…?」

私をソファーに移動させてくれる彼に従いながら、話を催促をした。


彼と私は恋人同士。
その日の待ち合わせはデートの約束。
私はパニック障害という精神病をもっていて、その病気は発作を伴うものだった。
その日、発作が出てしまったのだ。


「はい」
手のひらに置かれた錠剤。
話が一区切りついたところで彼に薬を手渡される。
処方箋の明細書をテーブルに広げながら
「命…あなたの名前は城山命(シロヤマメイ)です。」
彼はそう言って水を渡しながら笑う。
命…城山命と高嶋宙陽…
手渡された女物のカバンと明細書に書かれた城山命という名前。

「高嶋…さん」
隣に座る彼は目を丸くしてすぐ顔をしわくちゃにした。
「宙陽て呼んでたんだよ」
彼が目尻の皺を作る度に私の中の空白は温かみを帯びた。



宙陽がパソコンで作業をするのをソファーから見る。
そうしていつの間にか夜が来た。
ゆっくりと流れる時間に当たり前さえ感じた。

本当に付き合ってるのかな…?
そんな事さえ思っていた。



「宙陽疲れないの?」
まだ違和感があるけど私は彼を宙陽と呼んだ。
自分さえわからないこの恐怖の心の拠り所が欲しかった。
ただ一つでも記憶が欲しかった。


コーヒーとコンビニのサンドイッチを口に入れるだけでずっとパソコンと向かい合う宙陽。
私の心配の目に「これが俺の仕事なの!」と言う。
二人のあいだに確かに気持ちがあったんだろうなと思わせる空気。
私幸せだったのかもしれない。
「―ーープルルルループルルルルー…」
宙陽の携帯が鳴る。
宙陽は画面を見ると眉間に皺をよせた。
「?」
画面を睨むようにして電話を切った。
「出ないの?」
「ん?切れちゃった!!」
あ…切ったんじゃないんだ?
何も無かったように宙陽はさっきまでの表情でパソコンデスクに腰をおろした。




ピーンポーンー…
「出ようか?」
「いや、いいよーゆっくりしてなって。」
宙陽は優しい。
私は自然と微笑んだ。

今日あった出来事が薄れる程自然だった。
私の記憶は宙陽のことだけ。


インターホンに呼ばれて玄関に行った宙陽を待っていると玄関の方から声がする。
次第に声が大きくなる。
「帰れよ!!」
宙陽の声がはっきり聞こえるほど大きな声をだす。
相手の声は微妙に聞こえない。

4

「―い!!、命!!」
「うえ!?」
いきなり玄関から叫ばれる私の名前。
「貴!やめろよ!」
「…るせえな。お前…何考えてんだよ。おい命!!いんだろ?」
「たかっ!!!!」


「貴、手放したのはお前だろ!!!!!」

見たことがない宙陽の怒る姿。
今までの宙陽からは想像出来ない怒鳴り声だった。



私の目の前に知らない人がいる。
息を切らして怖い顔して。
でもその怖い顔は必死に鋭い目つきを演じているみたいだった。

「宙陽!宙陽!!」

私は必死で宙陽を呼んだ。
私の声でハッとしたように宙陽は笑顔に戻る。
それを見た彼はつりあがるまゆを一瞬にして下げた。
「めい…」
私の名前を呼ぶのが精一杯だと語るような弱い声。
「命今なんて…」
「え…」
肩をおとしうなだれる彼。
とっついてくるかと思うほど叫んでいた彼とは別人だ。
「貴…宙も~」
!!!!!
また知らない男の人が入ってくる。
「めいちゃん。うっさくしてごめん。あ俺こいつらとバンドやってるの鈴本(スズモト)。」
ちらっとこっちを横目で見るだけの鈴本さん。
「貴、帰んぞ。宙…お前は葵(アオイ)に連絡しろよ」
「宙陽…?」

訳がわからない。
さっきまでのゆっくりした時間は今の出来事にぐちゃぐちゃに砕かれた。
「なんもないから…」
つっ立った私を宙陽は弱々しく笑って座らせた。

「命、いなくならないで」

私の袖を掴んだその手は言葉とともに滑り落ちた。

ふたりだけの空っぽの部屋。

宙陽が耳に当てている携帯越しに聞こえる呼び出し音が妙に大きな音に感じた。

鈴本さんが言っていた人だろうか。
「あお兄…家来れる?え?うん…。命…いるから」
宙陽はそれだけを言って携帯を荒く机に置いた。


「宙陽?」
「ん?」

「宙陽」
「なに…?」


名前を呼ぶことさえも痛い。
状況を聞けないよ。

張り詰めたこの箱の中。



私の中に残る「いなくならないで」という宙陽の言葉。


空っぽの記憶の中で私の本能に語り掛ける人。


パソコンデスクとソファーの何気ない距離。



「命…」

5

次の日の朝。


また、インターホンが鳴り響いた。

私ももちろん宙陽も身をこわばらせた。


「行ってくるね」

背を向ける宙陽が無性に嫌だった。
「宙陽?…宙陽!!」

玄関の向こうにいたのはまた知らない人なんだろうか。
トラウマが蘇った。
やめて…

これ以上記憶を揺さぶらないで。


情けない人形のように成り下がった私。

今玄関では何が起きているのか。
宙陽はまた悲しい顔をしてるのでは。


「命ー?入るよ?」

私を気遣う宙陽の優しい声。


「宙陽…」


また宙陽と一緒に知らない人がいるんだろうか。
そしてまたわずかにできた記憶も壊すのだろうか。
怖い。
これ以上宙陽の悲しむ顔を見たくないと言ったばかりなのに。

「命、大丈夫だよ」
切れそうな声。
そして悲しみを隠した笑顔。
いつものように大きな宙陽に包まれているのに、震えが止まらなかった。
抱きしめて欲しいのはこの人だっけ…?


まただ。
誰かが私を呼んでいる。
ねえ誰なの?
苦しいよ。
会いたいよ。
あれ…誰に…?

息は口でしかできなくなっている。


「命。命。」


私が最後に聞いたのは1番聞きたかった声だった。
ずっとあなたに会いたかった。
真っ白な記憶の中で途切れ途切れに霞む人。
あーあ。
このまま思い出せないのかな。



離れていってしまうのは私かもしれない。


それでもまた思い出すから。

6

「ん…?」


そこはまた知らない景色だった。



「宙陽?…宙陽!!!」
-ガラ…-
「宙陽?」

「ちげえよ。」
「え…」


「だ…れ?」


その人は目を見開いて驚く。


「お前倒れたんだよ」


「母さん今から来るって。」


「あの…」

「あー俺は城山葵(シロヤマアオイ)。」
「え…?城山?」
私と同じ苗字…
「お前の兄貴」

私お兄ちゃんいたの…?
宙陽のことを思い出すのに必死でほかを気にしていなかった…。
「ここは?」
「お前の部屋。実家。」

家族も家も忘れてしまっている私は不安に押しつぶされそうだった。
なにもわからない孤独の世界は怖すぎる。

「あの…宙陽は!?宙陽のとこ行かなきゃ」
「命!!お前…しかっりしろよ」
この人が怒鳴る意味がわからない。
この人の隣にいるとおかしくなりそうで居心地が悪い。
なぜか心がぐちゃぐちゃになる。

宙陽の雰囲気が恋しかった。
「きっと泣いてると思うんです…宙陽のとこ行きたい!!」
宙陽のことはこんなにすんなり脳に入って来てるのに。
あなたはダメなんだ。
私の記憶に入ってきたら…。
私は思い出すことをやめた。
本当かもわからないこの記憶に縋った。
「お前…本気で言ってんの?」
「え…?」


私はこの時お兄ちゃんのこの言葉の本当の意味を知らなかった。

「命!!」
「え…」

そこには焦った顔をしている女の人。

「発作は?大丈夫なの?」
「え…発作?あ…あのー…」

私の姿を見て肩をおろす人。
その横でお兄ちゃんは険しい表情をしていた。
「母さん…ちょっと…」
「え、お母さん?」
お兄ちゃんのお母さんってことは私のお母さん…?


お兄ちゃんの小さな声にお母さんとお兄ちゃんが部屋を出ていく。


私はベットに腰をおろした。

宙陽…怖いよ。
なんもわからないよ。
宙陽はきっと泣いてるよね…
私なんもわかんないよ…怖いよ…
知っているという感覚が欲しかった。
私は鞄から携帯を取り出した。
薬以外で初めて手に取る私物。
電話帳を開いてみた。
家族とグループ分けされたところにはお兄ちゃんとお母さんと記されていた。

7

お母さんにお兄ちゃん…
記されているそれが本当なのかもわからない。

私は宙陽に電話をかけようと電話帳から探す。
宙陽という文字を探しても見つからない。
何周も見たところで高嶋さんという文字を見つけた。

なんで苗字なんだろ…
そのグループはバンドと分けられていて、鈴本さんの名前もあった。
そのほかに知らない名前。

いろんな疑問は積み重なるが、とにかく宙陽に会いたかった。
「高嶋って…宙陽だよね?」
発信ボタンを押すと呼び出し音が耳を通った。

『っ命!?』

「ひろ…あき…」

『命大丈夫なの?家いるの?』
「うん、そうらしい…」
『わからない…?』
「お兄ちゃんとお母さんがいるんだけど、本当なのかわからないの。ねえ宙陽?私にお兄ちゃんいるの本当?」
『うん。葵って言うんだよ。お母さんはねーショートの人。』
あ…そうなんだ…
確か葵って言ってたな…
「じゃあ本当のお兄ちゃんとお母さんなんだ」

私は宙陽を思い出したんじゃない。
宙陽への感情は愛を思い出したんじゃない。
私は思い出すべきことを思い出さないようにして、宙陽の記憶にしがみついていた。

「ねえ宙陽、会いたいからお母さんに言ってみる。会いたい。」
『俺も会いたい』
これでいいんだ。
これが私の…記憶なんだ。


私は電話を切って宙陽のところへ行きたいと告げようと部屋を出る。
「お、おかあさ…」
廊下にお母さんとお兄ちゃんの話声が聞こえた。
私は声を止めた。

「え…どういうこと?」
「だから…命は宙陽と付き合ってると思ってるんだよ。」
「じゃあ…葵…いや貴之くんの事は?」
「俺のことも母さんのことも貴之も全く覚えてない。」
「…貴之くんには…言ったの?」

え…何?
どういうこと…?

「宙陽の事しかわからねえんだ。それも宙陽が言った嘘の記憶になってる。」
「葵は…その…葵のことは?」
「は?だから覚えてねぇって」

「それと一人で外に出すのはやめたほうがいい。宙陽にももう…会わせない方がいい」
なんでお兄ちゃんが宙陽の事知ってるの?
貴之って誰?
嘘の記憶…?
「…どういうこと?」
私の声に振り返る二人は青い顔をしていた。
「ねえ…お兄ちゃん…宙陽のこと知ってるの?」
「お前いつからそこにいた…?」
「嘘の記憶って何!?」
「命…」
悲しそうな声を出すお母さん。
「命…お前…聞いてたのか?」
「…宙陽…」
「はあ?」
「宙陽のところ行く!」

「命!!!」

8

「命、落ち着け…」
「離して!ここが実家だってことも…」
「命?」
「あなたがお兄ちゃんってことも…全部嘘だ!!!」

「あなたなんて知らない!」

「命…なんで宙陽のことだけ信じれるんだ?」
「あなたは…あなたは!!あなたは嫌なの!!!!」
「命…?」


宙陽の悲しい笑顔と、今聞いてしまった話が私の頭の中をぐるぐると交差する。
わからない…
どうしたらいいの?

お兄ちゃんが掴む私の手。
どんなにもがいても取れない。
「落ち着け!!!」

耳を傾けない私にお兄ちゃんが怒鳴る。
あなたは思い出しちゃ…駄目なんだってば。

「じゃあ離してよ…」
私の中でみんな敵になってしまった。
宙陽に会えばほんとのことがわかる。
じゃあこの涙は何?



「葵、一緒に行ってあげて…」
「え?」
割って入ったのはお母さんの声。
「お兄ちゃんと一緒ならいいでしょ?」
「ちょ…母ちゃん?」
「葵…」
「嫌だ!!この人は嫌!!」

「命…お兄ちゃんと行って来て」
「なん…で?」
なんでお兄ちゃんと一緒なの?
「命、いこ」
「え?ちょっと…」
「宙陽に会いてえんだろ?」
混乱の頭の中。

ほらあなたといると…
また私を呼ぶ人が…


外に出てびっくりした。
道が全然わからない。
何もわからない恐怖がまた廻ってきた。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。

なぜか喧嘩口調のお兄ちゃんに手を引かれるまま歩いてることすらわからないでいた。
勝手に動く足と働かない脳。
ただ引かれるがまま。
お兄ちゃんの車は宙陽の家へ向かう。

私は私をずっと呼んでいる人を見つめていた。
あれ…?

「お兄ちゃん…?」
「命…」
私の声に一瞬振り向くお兄ちゃん。
お兄ちゃんは唇を噛みしめてポッケから携帯を取り出す。


「宙陽…今向かってるから。いや、命も一緒…うん。じゃ。」

宙陽と繋がるお兄ちゃんの電話の声が聞こえない。


宙陽…でいいんだっけ?

9

お兄ちゃんに手を引かれるまま宙陽の家に着いた。
玄関を開けると知らない靴があった。


「宙トイレ借りるよー」
「うん」



ガチャ…

「め…い」

!!!!!!
「あ…あ…あ…」

怖い


リビングから出てきたのはあの時…宙陽と喧嘩をした人がいた。



「…大丈夫だから……宙ー!めい…ちゃん…きたよ」
「え!?」

ドタバタとこっちに向かってくる足音。

バンっ!と勢いよく開いたドアには宙陽の手が添えられていた。


「めい…」
…宙陽だ…



ドアを静かに閉めゆっくりと私に歩み寄る。


怖さと安心感で私の涙腺が緩んだ。

「命…おかえり」
「ただっい…ま」

涙で詰まりながらの言葉。


宙陽の手が私に伸びてくる。

私は宙陽を見上げた。

「…」

…?

宙陽の視線は私の背中の先を見ていた。
「宙陽?」
私も宙陽の視線の先を見る。

「あ、えとお兄ちゃん…」
なんで…?あなたがいるの?

誰かの呼ぶ姿を必死に消す。

私は玄関のドアを開けたお兄ちゃんと宙陽を交互に見る。


「宙陽…」
お兄ちゃんの低い声。

私に向かって伸びていた宙陽の手は糸が切られたように下がる。



抱きしめて欲しかった。
宙陽の目に私を映して欲しい。
無音と化した廊下にトイレの水が流れる音が響く。

10

「葵、いいから」
「わ!!!」


私の前にさっきの人。
まだ濡れた手は私を宙陽に押し付けた。

「宙ートイレタオルぶら下がってねえぞ!」
決して私を見ることのない彼。

「貴…」
私と宙陽の横を通りぬけ、リビングに入っていく。

「た…か…?」



「宙陽、入るよ」
「う、うん…」
お兄ちゃんの低い声ときつい目が宙陽を刺す。
お兄ちゃんはなぜ宙陽を見る目がそんなに怖いの?

溜息とドアが閉まる音が交わった。

ドアを見つめる宙陽は眉をひそめている。


「宙陽…」
「え…あ、いや…、なんでもないよ。」
身の入っていない返答。

「命…ごめんね」
再度私に伸びる手。
今度こそは私を包み込んだ。
でも不安はとれない。

「宙陽、なんで謝るの?」
「ん、なんでもない…」

耳元を通う宙陽の息。
なぜか冷たく感じる。

「命思い出しちゃった?」
「え?」
何を?
宙陽…何を?

微かに聞こえるリビングからの声。
冷たい廊下。
宙陽の体温を感じられない…。
「宙陽?」
「何でもない…」

こんなにも求めていた場所なのに、不安はどんどん蓄積して私の脳内に靄をかける。


手を伸ばすことが出来ない私。
体が金縛りにあったようだ。


なんで?

宙陽を抱きしめてあげれない。


宙陽がそれをしてはいけないって言っている気がした。

11

「亮(アキラ)!!!いいって!」
「よくねえだろっ!」

ガチャっ!!!


リビングからの大きな声に宙陽は体をこわばらせて、私から離れた。


「宙、ちゃんと言え。そのあとを決めるのは命ちゃんだろ。」
「あっくん…」

「命ちゃん俺鈴本。覚えてる?」
「あ…はい」

さっきの人と宙陽の仲介のようになっていた人。

「…はい…か。」
「え?」
「あーいやいや、なんでもない。ほら!宙陽!いつまで廊下にいんだよ!」

「うん…命?リビングいこ…大丈夫だから…」
「うん…」




「おお!!命ちゃん!久しぶり!!」

「え」
え、誰…?

リビングに入るなり声をかけてきたのは黒髪の男の人。


「豊(ユタカ)…」
呆れるみんなの声。

「あ…の、どうも…」

「俺ドラム!高部(タカベ)!」

「あ、はい。私は城山命です」
宙陽にもらったようなこの名前を伝えた。

「命座んな?」

促されるままお兄ちゃんの隣に座る。
宙陽はなぜか私の隣に来なかった。
こっちを見てくれない。

コーヒーを持ってきてくれた時も私を見なかった。
宙陽は私の対角線上に座った。一方私の隣で下を向いているお兄ちゃん。
空気はとても重い。


私と宙陽の間に壁が出来てしまったようだ。
見えているのに…前にいるのに…宙陽が遠い。
なのになぜ消えてくれないの?
ずっと私を呼ぶ人の声はどんどん近くなる気がした。

12

「ほら、宙」
「あ、うん…てかさ今日じゃなきゃだめかな?」
「あたりめーだばーか」

「だよね…」

しんみりした雰囲気。
宙陽は私を見てうつ向いた。
「命…」
バシッ
「ったぁっ!!!!!ちょっと!あっくん!」
勢いよく宙陽の背中に降りかかった鈴本さんの手。
「しっかりしろよ」

小さな呟きのような声は私の名前を大事に呼んだ。
でもその声はとても悲しくて目を瞑った。


「でもさー宙が命ちゃんを呼び捨てで呼ぶのってなんか新鮮だよなー」
「え」

高部さんの発言は空気を一瞬にして凍らせた。

呼び捨てじゃ変なの?
新鮮ってなんで?

私は目を丸くするしか出来なかった。


「命…あのねっ」

そんな私の姿を悲しげに見て宙陽が話し始めた。



「ごめんね。命…ちゃん…俺たちほんとは…つ付き合ってない」
え?
何言ってるの?
命ちゃん?
「宙陽?」
あ…

また脳裏に知らない人が映った。

「俺のこと高嶋さん…って呼んでたよ」

私は電話帳を見た時の疑問を思い出した。
「うそだよね?ねえ宙陽」

でもお母さんたちの話が頭をよぎる度に、宙陽を抱きしめられなかったのを思い出す度に全てが正当化されていく。

次に口を開いたのは貴之という人だった。
「命がこの前発作出たの俺理由わかるんだよ」

ーガチャ…

貴之さんの言葉を遮ってドアが開いた。
「累…」

そこには小さな男の人。
「貴、お前のせいじゃないだろ。命、俺の事わかんない?」
「あ、はい…ごめんなさい」
また一人この空間に私を知っている人が増えた。
私だけがわからない。

「いやいいよ。俺は葉月累(ハヅキルイ)」


「みんな落ち着こうよ。」

葉月さんの存在は雰囲気を落ち着かせた。

「ごめん、累以外に話してない。でももう見てられない。」
「何を?」
「命がずっと悲しんでる。」
「なんで?」
お兄ちゃんの重い声の問いかけ。
「葵もでしょ?」
「はあ?」

お兄ちゃんはなんでこんなに怒ってるんだろう。
宙陽の話をした時からいつも怒っている。
玄関でのあの怖い目も、キツイ声も私にはなんでかわからない。

「まあまあ、貴の話きいてやってよ」

「…たぶん…びっくりすると思う。」


そして貴之さんは話し始めた。
誰もが耳を疑うような話。

私だけついていけなかった。

13

[俺と命は葵を通じて出会った。
俺は一目惚れだった。

命は忘れられない人がいるって言ってたけど俺は関係なかった。
命を俺のものにしたかった。
俺はお前を愛した。
命も少なからず俺を愛してくれてた。
その忘れられない人には勝ててないけど…。
それでもいいんだ。。
そう思えたのは始めだけだった。

俺は知ってしまった。
命が忘れられない人を。
命は必死に気持ちを押し殺してた。
そいつが羨ましい。
命にここまで想われてる事が。
なんで俺じゃねえんだよ。
そんな俺の気持ちに誰も…味方しなかった。

俺らは愛し合っちゃ駄目だった。

戸籍謄本を見てしまった。
知らなければよかった。
これが運命ってやつなのか?

俺に生き別れの妹がいた。

城山命


目を疑った。

俺と命は純潔な兄妹だった。


『なあ母さん、命って…俺の妹なの?』
違うといってくれ。
俺の願いは無視されて痛い現実を教えられた。
俺の両親が別居している時の話だ。
母からの離婚の話に聞く耳持たない父。

母は不倫相手との間に子供が出来ていた。
父への報告は産んでからだった。
父が起こした裁判。
父は別居の解消を望んだ。
許すから帰ってこい。
それが父の気持ちだった。
だが母は離婚を申し立てた。
結果は離婚不成立、別居解消、命を引き取ることは父が許さなかった。

子供は不倫相手に託した。
でもその子は不倫相手との子じゃなくて父親との子供だった。
それを相手から聞かされた数日後。
その不倫相手は冷たくなっていた。

首つり自殺。

突然の警察からの報告。
子供の姿はその場になかった。

必死に探したが見つかったのは半場諦めかけた頃、その子が拾われて養子になってからだった。
その子にはもう名前が付けられていてお父さん、お母さん、兄と幸せな家庭の中にいた。

駅で発見され養子になった…その子が命だ。


捨てられた過去など知らず命は育った。
そして不運にも本当の兄と恋をした。]



「え、命と貴が兄妹?」

「うん。父親も母親も一緒。だから別れた。」


「ちょ、ちょっと待てや。それじゃあ俺と命は…」
「血繋がってない戸籍上の兄妹。」

「う…そ…」

貴之さんと付き合ってて…私は…

頭が痛い。

激しい頭痛が私を襲う。


「やめて!!!もうやめて!!」


「命!!」
その声で呼ばないで…

私を呼ぶ人は目の前にいる。

14

痛い痛い

突然の頭痛は渦巻くように私の脳を絡めていく。
どの記憶が本当なの?


「命、大丈夫か?」
「お兄ちゃん…?」

「えっ」

あれ…お兄ちゃんじゃない?


私に微笑むお兄ちゃん。
彼女といるところを見ると胸が焦げるように痛くて…
隣で笑う彼女が憎くて…
『葵』
彼女がお兄ちゃんの名前を呼ぶのが羨ましかった。
ずるい。

私は隣にいけないのに。


『貴とうまくやってんのか?』

お兄ちゃんに1番言われたくない。
お兄ちゃんは彼女といればいいんだ。

私は貴之が好きなんだ。
言い聞かせてもこの黒い私は離れてくれない。

消せたんじゃないの?
お兄ちゃんの事もうなんとも思ってない 

だよね?

なのになんで。


こんなんじゃだめ。
貴之が悲しんじゃう。


『もう好きじゃない』

待って貴之。
行かないで。


貴之…ごめんなさい。
私がちゃんと貴之をみなかったから…貴之のことをまっすぐ見れなかった。

私は…私は

お兄ちゃんが


やっぱり好き


「お兄ちゃん。」


「命?」

そうだ。
私は…

15

「あ…あああああ!」


貴之が最後に言った言葉は

『お前が本当に好きな人に気持ち伝えた?』


え?
誰に?
私が好きなのは…


やめてやめて


戻りかけた空白の記憶。
それは頭痛に消されていく。

もうわかんない。

心にあった不安は今はどうしようもない怒りに変わった。
私の記憶は新しく積みあがった記憶と一緒に音を立てて崩壊する。
「やめて…やめて…」
「命っ」
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて!!

じゃあ私はなんなの?
せっかく信じかけていた大切な人。
ふりだしに戻る記憶。
私の名前は本当なの?
私はどうしたらいいの?

四方八方から鈍器で殴られた様な頭痛の傷み。
傷みの隙間から誰かが呼んでいる。

もう…信じないよ。
みんな嘘だ。
思い出したくない。
二度と触れたくない。
「やめろーーーーーー!!!!!!!」
「命!」
「触るな!私に触るな!!みんな…みんな嘘だ!!」
「命!」
「うるさい!」

髪の毛を毟るように頭痛に耐える。
壊れた私は叫び暴れ続けた。

16

それはもう1か月続いた。
暴れて疲れて眠る。
信じるとか真実とかそんなことはどうでもよくて。
もう自分がわからない。

お兄ちゃんは私の看病をしながら私の部屋でバンドの作業をする毎日。
お兄ちゃんが私を見てられない時は代わって誰かが来てくれた。
貴之、高嶋さん、累、鈴本さん、高部さん…
親友の結(ユイ)が心配して何回も来てくれたりもした。
それさえも拒絶もした。
高嶋さんとの気まずさなど何もわからない。
なぜかお兄ちゃんがいる時よりだいぶマシ。
携帯に来るたくさんの結やみんなからの連絡も返すこともできない。

私は暴れることしかできなかった。

あの人影が私を呼ぶ度に頭痛がやってきた。
もう顔が見えてるはずなのに、私は目を背け続けた。


月1だった精神科の病院は週2、週1と間隔を狭めていく。
その度増えていく薬。


そして私にもう一つの病名が告げられた。
解離性障害。

「命、一緒に頑張ろうな。」

お兄ちゃんの声も聞こえない。
あなたの声は聴きたくない。
そんな気持ちとは裏腹に人影と声はもう私の目の前にいる。



真実を知ったあの日から2か月経った頃の私は口を開かなくなっていた。

口を開くのは発作の時だけ。


傷みの隙間に毎回現れる人。
その人が現れる度発作は起きる。
現実逃避。

そんな言葉が私にはお似合いだ。

無口の私は上の空で人形のようで。
仕事などもっての外、食生活さえも失った。

気付けば私は23歳になっていた。

姿も心も変わってしまったある日。
貴之が私に言った。


「命、一つだけ思い出せよ。命が1番大切に思ってる人。」

うるさい。
私は何も信じない


まただ、また…
また誰かが…
誰?
誰なの?

「い、い、い、いや…いやぁ!」

私は何かを振り払う。

もう…やめて

17

目を覆うとする私の手を貴之が阻止するべく抑える。

「命、わかってんだろ?」
「わからないよ!何も何も私はわからない!」
「命…命…」

いや!もう嫌だ。
駄々をこねるように暴れだす。

「命?命……命!!!!ちゃんと見ろよ!」

広げられた手の向こうにお兄ちゃんが見えた。

え…

なんで…?

私を悲しそうに見るお兄ちゃん。
その姿は私がものごころついた頃から今までのお兄ちゃん。

彼女の隣から私を悲しい目で見るお兄ちゃんの姿。

「な…んで…なんで!あ…あーあーー」

激しい耳鳴りは私の耳を麻痺させる。

また再びくる頭痛と靄がかかった音。
私はこの記憶を思い出したくないと頑なに拒む。


『命。』

お兄ちゃん…
お兄ちゃん


『命!』
お兄ちゃん

私はずっと呼び続けていた。
ずっと想っていた。
消そうと頑張れば頑張るほどどうしようもできなくて、消せなかった。
それでもお兄ちゃんはあの日からもずっと私を呼び続けていた。


『命!』


「お兄…ちゃ…ん…」

あの日から1度も流していない涙がこぼれるのがわかった。

「お兄ちゃん…お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

今見た幻覚の中のお兄ちゃんを必死に呼んだ。
ずっと見ないようにしていた像の主…それはお兄ちゃんだった。


「お前は…葵が…お兄ちゃんが」
「お兄ちゃん…」


「お兄ちゃんが好きなんだよ」

貴之ごめんね。

私は

お兄ちゃんが

18

好き


ずっとずっと好きだった。
駄目なのはわかってた。
だけど好きだった。

貴之と別れて落ち込んだことよりむき出しになった恋愛感情が大きかった。
まぎれもなくお兄ちゃんに届けたい感情。


「俺とお前は兄妹だけど…お前らは兄妹じゃない。」

「仮に兄妹だったとしても…好きなのが変わるか?」


私と貴之は本当の兄妹だった。
だからこそ貴之は解るのかもしれない。

ずっと離れていた本当の兄妹と、ずっと一緒だった戸籍上の兄妹。


どちらとも恋はしてはいけないかもしれない。


だけどそれは世間の話。
本人は他人を愛するのと同じように、好きになった人が兄妹だった。

たまたま兄妹だった。
残酷すぎる世間の狭さと酷い現実。
ただ私は

恋をしているだけなんだ。


「お兄ちゃん」

今まで流すことを忘れていた涙はどんどん溢れ出す。



「ちゃんと気持ち伝えなきゃ」

「言えない」


「俺もお前もなんも間違ってない。」



涙一つ一つに映るお兄ちゃん。

「命、行こう。葵のとこに。」
会いたい。
会いたいよ。
お兄ちゃんの隣に並びたい。
でも…思い出すのが怖い。
なのに
ずっとお兄ちゃんが溢れている。

19

貴之と向かった先は都内のあるスタジオだった。

毎日お兄ちゃんと一緒にいたのに、まるでもう長い間会っていないような気持ちだった。


まだ確信はないながらもぽっかりとしたまんまだった空白は小さくなっていた。
高嶋さんの嘘、貴之との関係、みんなのこと…そしてお兄ちゃん。

私はずっと怖かった、隠していた。
認めたくなかった。
お兄ちゃんを好きなんて。
そんな気持ちがあっていいわけがない。
そう思い込んだ。
でも決して消えなかった。
いつでもお兄ちゃんが1番だった。
それは記憶が消えたとしてもかわらなかったんだ。



スタジオのドア。
この向こうにお兄ちゃんがいる。

みんなの笑い声と楽器の音。

高嶋さんが弾いていた曲。
cassis。

お兄ちゃんたちがやっているバンドの曲。
私が1番好きな曲。
お兄ちゃんと一緒にスタジオに来た時も、私はcassisを弾いてと言った。
私が気付いてはいけない感情を必死に殺して逃げていた時。
cassisは私の気持ちを歌ってくれた。
貴之の作詞のこの歌は貴之からのエールだったのかもしれない。

まだバンドが小さかった頃から私はみんなを見てきた。
今ではこんなに大きくなったバンド。
私の気持ちは同じように大きくなっていたんだ。

お兄ちゃんの背中を見ることしか出来ない私。
隣に行きたかった。
隣にいたかった。
私が隣にいれるのは兄妹だから。
いつからか私は隣を歩くことをやめ、一歩下がって歩くようになった。

隣にいたい。


「あれ、命?」
「お、お兄ちゃん…」

「貴ちゃんと見てろって言ったろ?」
「いや、いいんだよ。ほら…命。」

お兄ちゃん私が言ったらどんな顔をする?

「お兄ちゃん、あのね?」

20

「あれ、命ちゃん」
「え」
「おい、俺は?」
「いやお前はいつもいるじゃん」
みんなそれぞれが楽器を手にしている。
隅に散らばっていたみんなが入り口の私のところに集まる。

そんな中お兄ちゃんは難しい顔をして貴之に近づいてくる。

「貴…なんか言ったのか?」
「おい葵!」

「いいよ亮。葵、命に思い出せって言った。」
「何を。」
「それは俺が言うことじゃない。命がいうことだ。」
「葵だっていつまでも知らん顔すんなよ」
「は?」
「あれからお前イラついてばっかだろ」
「はぁ?」
「嫉妬してたんだろ」

「あとは命に聞いて」
「は?」

貴之はそう言ってスタジオの椅子に座った。
「何?どしたの?」
「いや俺が言うことじゃないって。」
「修羅場?」

みんなが状況を把握できていない中、高嶋さんは背を向けていた。


「お兄ちゃん…」
「命、外出て大丈夫だった?薬は?飲んだ?」

気持ち悪がられてもいい。
この気持ちは消えない。

「お兄ちゃん、好きだよ。」
「え」
みんなが目を点にする。


「え、まあ兄貴だからなーそりゃそうだろ」
やっぱりお兄ちゃんは私を妹としか思ってないよね…
「お兄ちゃんだからじゃないよ。」
「え?」
「ずっと好きなの。小さい頃から。」
体が震える。
声はかすれている。

「ごめんねお兄ちゃん。でもね好きな…え?」

「おお兄ちゃん…?」

私は今お兄ちゃんに抱きしめられている。

21

「お兄ちゃん?」


お兄ちゃんは私の声で我に返るように私を放るように離れた。

「あお兄、あお兄も言うことあるでしょ」
黙ったままのお兄ちゃんに高嶋さんが言った。
「宙」
高嶋さんの発言に心配する鈴本さん。

「だって駄目だろ。」
「貴は兄妹だって知って身をひいたんだ。」
「だから!葵たちは兄妹じゃないって。」
「ずっと兄妹だったんだよ!!!」
お兄ちゃんはそう言って私から離れた。

「じゃああお兄なんで今命を抱きしめたの?」

「お兄ちゃん…」
話が見えない。

それと同時に私のほっぺに冷たいものが落ちた。

泣いてる…の?

どうして泣いてるの?

「まず!なんで貴はあのタイミングでこの話したんだよ!」
「命がずっと苦しんでるから」
「今大変なのわかってんだろ!」
「言わないとお前ら動かねぇだろ!想い合ってるくせに!」
「今回もイライラして自覚してんだろ!?」

「命は気持ちを押し殺しすぎて心がパンクしたんだ!」


「俺はずっと言わないようにしてたんだ。抱きしめたくても…我慢して…」
「え…」
「で、他の女と付き合ってどうにかなったのかよ」
「なるわけねえだろ!」

「母ちゃんになんて言うんだよ…そんなん言えねえだろ」
「命は言ったよ」
どういうこと?

「それにお前の母ちゃんも知ってるよ。」
「はあ?」
お兄ちゃんは私から離れ、貴之を睨んだ。
「毎日二人見てりゃわかるってよ。俺らが兄妹なのも全部知ってるんだよ」

「お前…母ちゃんに言ったのか?」

「俺が知る前から知ってるよ。俺の親もね。」

22

「あお兄まだ逃げるの?命が気持ち伝えたのに?」

お兄ちゃんは真っ赤な目で振り返る。
「お兄ちゃん…?」



「血は繋がってなくても俺らは兄妹だ。」
お兄ちゃんは鼻声で言った。

「お兄ちゃん?お兄ちゃんが妹としてしか見てないのは知ってるの。でも私言いたかった。ずっと言いたかった。だから…」
子供だなって笑う?
気持ち悪いって思ってる?

「彼女が羨ましかった。ずっとお兄ちゃんの彼女になりたかった」

「俺は…俺は」
「お兄ちゃん?」


「命ちょっと外来い」
「え?」
お兄ちゃんはそう言って私の手をひいて外へ出た。

手をぎゅってされるのが恥ずかしい。

スタジオを出ると同時に私を引き寄せた。

「俺はお前が妹じゃなければって思ってた。」
「え…」
「きっとお前より早くから命が好きだった、ずっと言いたかった」

「貴と付き合ったときこれでいいんだって思った。」


「でもよくなかった。悔しかった。」


「お兄ちゃん…」
「命、好き。女として」

耳元で初めて聞くお兄ちゃんの声。

兄妹だけど兄妹じゃないふたり。
でも私たちはお互いに兄妹として見れなかった。
ただ男と女、好きな人としか見れなかった。
小さい頃からずっとずっと。

他の人じゃダメだった。


「命…大好きだよ」
「私も、大好き」
私は初めてお兄ちゃんの体に腕を回した。

ずっと私を呼んでいたお兄ちゃんは笑った。

23

「命…」


た…高嶋さん…

「宙陽…」

忘れていた、高嶋さんのこと。



「宙」
「あっくん」

スタジオから出てきたのは鈴本さんだった。

「宙お前も言わなきゃいけねえよな?」
「今更言ってなんになるのさ。」
「じゃあなんで追いかけたんだ?」

「だって…」

「そのだってを伝えればいいじゃねえか。俺も言うよ。」

「え言うの?」



宙陽は「そっか」と言って口を開いた。

「命嘘ついててごめんなさい。」


「命が大好きだった。ずっと。あお兄にも貴にも負けない。命が選んだのは俺じゃなかったけど…」



記憶が真っ白なとき、高嶋さんの愛だけが救いだった。
高嶋さんだけ信じてた。


「命って呼び捨てで呼ぶのは俺の…俺の抵抗。1番になりたかった。」

「高嶋さん」

ありがとう。
私を支えてくれて、愛してくれて。


ぐいっ

「おおお兄ちゃん!?」
後ろからお兄ちゃんの手が伸びてくる。
お兄ちゃんの心臓の動きが振動で伝わってくる。


「宙陽…渡さねえよ?」

そう言ってお兄ちゃんは微笑んだ。
高嶋さんの後ろにいる鈴本さんも笑った。

「いつか奪っちゃうから」

24

高嶋さんからの宣戦布告。

「命、わかってんだろうな?」
「え、何を?」


「俺とお前は男と女だ。」
「う…うん」

お兄ちゃんは今まで見たことのない笑顔を見せた。
それは大人の男の人で、どこか挑発的で…色気のある微笑み。

それに応えるように私の心臓は今までになく跳ね上がった。


男と…女…


「あれもこれもするぞ?」


「え!!!!!」
あれと…これ…?


「嫌か?」


「嫌じゃ…ない…けど…恥ずかしいって言うかその…」


「おいおまえらいい加減にしろー」

スタジオのドアから顔を覗かせる貴之。


「おー」
「練習再開しようぜー。ほら色々ごたついたけどツアーあんぞ。」

「そうか…来年は10周年か…」

大きな夢をずっと追ってきたお兄ちゃん達。
2012年3月10日

ボーカル、貴之
ギター、高嶋さん
ギター、お兄ちゃん
ベース、鈴本さん
ドラム、高部さん

お兄ちゃんたちは10周年を迎える。


妹として近くで見てきた。
うまくいかない時も立ち止った時もぶつかり合った時も壊れそうな時も、いつも見てきた

それが今はこんなに大きくなった。

これからは彼女として近くで…誰よりも近くで一緒にいていい?

ねえ、お兄ちゃん



~♪♪~
「あれ母ちゃんだ」

「電話?」

お兄ちゃんの携帯はお母さんと繋がる。

「どうしたんだろ、あーもしもし?」

25

「お母さんなんだって?」

「え…あ、うん後で話あるってさ」
「話?」


「命、何があっても離さねえから。」



「え、どうしたの?」
「お前は俺の女だ。」
「私はお兄ちゃんが離したって離れないからねーっだ」

恥ずかしい。
これが私が願った形。

「ならいいけど。」
お兄ちゃんは口をとがらせる。


「終わったら一緒ん帰ろう」
「うん!!!」


私はまだ騒動あることを全く知らないで浮かれてた。

お兄ちゃんはいつも一人で真実を知って、いつも一人で考えてるんだ。
この時は無理だったけどこれからは私も一緒に…現実と向き合うよ。


二人で積み重ねた積み木が崩れたなら、また二人で積み重ねようね。
そう、崩れたものより高く、高く。


それから私はお兄ちゃんたちが奏でる音の中にいた。
まだ記憶が噛み合っていなかったりするけど…真っ白よりは全然いい。
何よりお兄ちゃんが私を見る目が変わった。
彼女に対しての今までの目じゃない。
たぶん私だけが見ることのできる表情。
だったらいいな…。


その日、私とお兄ちゃんはみんなより一足先にスタジオを後にした。

手を繋いで…離れないように。
今まで思い続けた長い年月を埋めるように歩幅をそろえた。


影が重なる度私たちは寄り添った。




「ただいまー」
玄関の前で手は離してしまったけど、私を見る表情は変わらなかった。

26


「おかえり~命もスタジオ行ってたのね。」

「うん。」



「葵は悪いわね…帰らせちゃって。」
「いいよ別に、で?話って?」


「あ…そうね。」


私たちはリビングのテーブルで向かい合った。
まだ浅い記憶の中初めてお母さんを見た。
やっぱりお母さんだな…。

「あなたたち、知っちゃったのね」
「え」
お母さんの言葉に私たちは声をそろえて驚いた。
「え、母ちゃんなんで…」

「貴之くんから連絡もらったの」
「え」
また声をそろえる。

「貴之が…なんで?」

「命は本当に記憶戻ったのね…よかった」
お母さんは安堵の表情を見せる。

「うん…まだ…しっくりはこないけど、でも思い出した。」
私は無意識にお兄ちゃんを見た。
「やっぱり…そうだったのね」

「え…何が?」
「母ちゃん?」

「あなたたち…想いあっているのね」

しばらく沈黙が続いた。
「それも…貴之が?」
「うん。でもね私はもっと前から気付いてた。」

「母ちゃん…」
「命が葵を見る目も、葵が命を見る目も…愛があったもの。」

「逆に今になってお互いが認めるのが不思議なくらい。」

「あなたたちは兄妹よ?」

やっぱり…反対するよね…


「母ちゃんごめん。それでも俺は命を離さない。」
お兄ちゃん…

「あなたたちは兄妹よ、だけどそれは血がつながってないわ。命は養子よ。」
「え」

「だからあなたたちは別に離れる必要はないのよ。」

27

「命…本当のお母さんとお父さんの所に帰る?」


「え!それって貴之の家ってこと?」
「ちょ!!それは俺がやだ。」

「でもそうすれば…」

そうすれば…兄妹じゃなくなる?

「貴が何するかわかんねえよ。俺は無理、やだ。」


「じゃあ命…お兄ちゃんのマンションに住みなさい。」
「え」

「今度お母さんと、貴之くんのお家行きましょ。」
「お母さんとお父さんに会って。」

「それで葵と住むことの許可貰いなさい。」

「それから養子関係を切りましょう。だからって私は命のお母さんじゃなくなるわけじゃない。私は命のお母さんだもの」



「手続きだけして…あなたたちは幸せになりなさい。」
「母ちゃん、俺も貴の家にはついていくよ」

「そうしなさい。」



「貴之くんには申し訳ないけど、こればっかりはね…本人の気持ちは変えられないから。」
「ねえお母さん、仮に私と貴之が今も付き合ってたら?お母さんはなんて言う?」

「そうね…なんにも言わないんじゃないかな。」


「それに私は知ってたから。」

「え」
「血のつながった兄妹同士が思いあってるってね。でも命はずっと葵が好きだったのね」
「うん。でも貴之のことも好きだった。でも…お兄ちゃんが1番なのは変わらなかった。」

「私がこういうのもなんだけど…葵をよろしくね。それと葵、命を泣かせちゃだめよ。」
「わかってるよ。言われなくても泣かせねえよ。」
「お父さんもこれでいいって言ってると思うよ」


私が小さいときに他界したお父さん。
思い出は少ないけど…お父さん、私は自分の気持ちにもう嘘はつかないよ。
もう隠さない。
だからいつか私がお父さんの所に行ったとき、いっぱい話聞いてね。

私を自分の子供のように愛を注いでくれたお父さん。
そして私を受け入れてくれたお母さん。

ふたりとも私の大事な両親だ。
お兄ちゃん。
お兄ちゃんは昔から優しかったよね。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど…私が愛してやまない男の人。


私の長い長い片思いはやっと実ったんだ。

28

お母さんはとても優しい声だった。
でも目はとても悲しそうで。


「母ちゃん無理してる?」
「お!お兄ちゃん!!」
お兄ちゃんの唐突な質問に焦りを感じる。
でもお兄ちゃんも同じことを考えていたのなら、私の感じた違和感も本物なんだろう。

「無理…か…」

お母さんは握りしめている手を見た。

「無理してるわよ…そりゃ…」

「でもこんな状況でも葵も命も私の子なのよ。」
お母さんは重い口を開いた。

「私がこのことを知ったのは貴之君のお母さんからの相談だったわ。
貴之くんが知ってしまった時。
私が初めに悩んだのはあなたたちを見てておかしいと思った時。
あなたたちは兄妹としてお互いを見ていないって思ったの。
その時まだ貴之くんのお母さんと関係がない頃よ。
それから私は目を背けていたわ。
きっと私の気のせいだって。
それで私は命のお父さんお母さんを必死に探した。
それで早いうちに二人を兄妹じゃなくすればいいって思って。
攻めあぐねていたとき命のお母さんが命を探していて家に来たの。

葵が彼女連れてきたとき安心した。
でも葵が彼女を見る目は無理をしてた。
たぶん今の私みたいな目よ。
命が葵を見る目も葵が命を見る目も兄妹じゃなかった。
命が貴之くんを連れてきて私はどうしようかと思った。
だって…命の本当のお母さんの子供にそっくりで…
名前を聞いたら…まさか貴之くんだなんて…。
ふたりとも必死にほかの人に目を向けて…
なのに私は…あなたたちを気持ち悪いって思ったの。
兄妹を好きになるなんて…どうしてって。」

「なあ母ちゃん、今は?」



「ごめんなさい…正直まだ思う。」


「貴之くんにせよ、葵にせよ、私にはわからない」
「うそ…」
「命、こんなの想定内だよ。簡単にはいかない。」

29

せっかく記憶を取り戻したのに…
せっかく自分の気持ち認めれたのに。

「お母さんは敵?それとももう…」
「命!!!」

お母さんじゃない…?


「命…」
「ならもう私の事気安く呼ばないで。」
「命」
「私はもう…何があっても自分の気持ちを貫く。」

今日久しぶりにしゃべった。
それはとても大切な気持ちを伝えることと愛しい人の名前を呼ぶこと。
あとは新たなる敵への宣戦布告の暴言だった。

さっきなにがあっても私のお母さんなのは変わらないって言ったじゃない。



「母ちゃん、今日から命おれんとこ連れてく。」
「葵、それで何をするの?」
「何って…そりゃやっと気持ち言えたんだよ?男と女が一緒に暮らしたらねえ?
それに今まで我慢してたんだよ」
お兄ちゃんの挑発。

「気持ち悪い」


小さな声だった。
だけど聞こえてしまった。

気持ち悪い


「命俺だけ見てろ。俺への気持ちと俺の事だけは忘れるな。」
「お兄ちゃん…」

嫌な予感しかしない。
頭が痛い。
やだ。
忘れたくない。
「おお兄…お兄ちゃん…」
「命俺はここいるよ」
お兄ちゃん…
私は気付いた。
宙陽の家で倒れた時聞いた声はお兄ちゃんだった。
私は声をあげて泣いた。
こんなに泣くのは子供の時以来な気がする。
でも止められなかった。
先が見えない恐怖と空白への恐怖。
全てが恐怖となって私に牙をむく。
足元さえ見えなかった。

30

ただあるのはお兄ちゃんの体温とお兄ちゃんへの気持ち。


「命、帰ろう。一緒に。誰も敵がいないところに」
私はもう足に力が入らなくて、息が出来なくて…
朦朧とする中でお兄ちゃんのマンションに向かった。

手を繋いで。


「命着いたよ。」
「お兄ちゃん…」

「とりあえず薬のもう。」


これから幸せが待ってると思った。
でも真っ暗になった。


それから毎日二人で過ごした。
お兄ちゃんの仕事の時はついていった。
でも私は抜け殻のようなままだった。
ただお母さんの言った気持ち悪いという言葉がループしていた。

「お兄ちゃん」

私が喋るのはこの言葉だけ。


「命…」
ある日の夜。

スタジオで私たちは初めてのキスをした。
みんな目を丸くしていたけど私は何も思わなかった。
何も感じなかった。
嬉しいとも恥ずかしいとも。
涙が出るだけだった。


「明日あなたの気持ちが離れてもきっと変わらず愛している
明日あなたに僕が見えなくてもきっと変わらず愛している」

お兄ちゃんはキスのあとcassisの歌詞の言葉を私に言った。

「命…」
「お兄ちゃんが好きなのに…辛い苦しい。真っ暗だよお」
「真っ暗でも俺は見える?」
「見てもいいの?」
「見てよ」

ギターをぶら下げたままのお兄ちゃんの腕の中。
頬に触れるお兄ちゃんの手。
お兄ちゃんはもう1度キスをしてくれた。
お兄ちゃんの手も濡らす私の涙。
「変わらない…お兄ちゃん見えてるよ」

「お兄ちゃんしか見てないよ」

かすれた私の声。
無意識に出た声。

「葵、命。俺らもいる。」
貴之のこの言葉は私たちの盾だ。

31

「累…ちょっといいか?」
この頃私たちの周りも動いていた。



俺は鈴本亮。
俺には好きなやつがいる。

そいつは性同一性障害だ。
女に生まれたが、心は男だった。
もとは俺のヘアメイクとしてそいつと知り合った。
そいつの名前は葉月累。
心も、見た目も仕草も…男の累。
だけど俺には愛おしくてしょうがなかった。
累は貴と仲が良かった。
よく飯行ったりしてたし。
だけどそれは俺が焦る必要はなくて。

だって累は純粋に男の心だったから。
安心な反面それは俺も脈なしだってことだ。

でも俺はどうでもよかった。
俺はカッコ悪くても、ダサくてもいいんだ。
ただかわいそうな奴にはなりたくない。
俺は自分に嘘をつきたくない。



目の前にいる好きな奴。
俺が考えてることなんて全く想像できてないんだろうな。

「なんだ亮、髪型変えんの?」

「えーあー…変えん。」


ほら見ろ、髪型だと?
変えねえわ!!!

「なんだよ。呑み?」

「いや、俺さー…」
「ん?」

がー!!
緊張する!!

「俺さーお前の事好きなんだけど、どうなの?」

言った!言っちまった!
つかどうなの?ってなんだ!

「はっ、どういうことなの」
「え」
「え?」
「あ、いやなんもねえわ」
「ほぁ?」

だめだ。
終わった。



「亮…大丈夫かお前」

…撃沈。

32

あれから俺はどうかしちまった。
俺は男なのに。
それは揺るぎない事実。

それなのにあのバカ(亮)…俺が好き?
なんで?

あいつがへんなこと言ってきやがるから見てしまう…亮を。


絶対俺おかしいよな…。



ことごとく不器用なあいつ。
笑っちゃうほど不器用なあいつ。
不器用なくせに仲間のためなら頑張っちゃう奴。

俺は亮のヘアメイクで…友達になって…
それだけだったのに。
俺の誕生日。
告白された。

そん時は気持ち悪いとさえ思って鼻で笑った。

あれからも亮は普通に接してくる。



今も亮は俺の目の前にいる。
「命ちゃん今葵のとこ住んでるらしいよ。」
「…へー…」
亮のしたいように俺が髪を切り、セットしてメイクをする。
そんなんが続くと思ってたのに…。


「お前さ…仲間の事となると本当に楽しそうだよな」


「えーまあ楽しい内容じゃねえけどな。」

鏡越しに見る亮の笑顔。
このあったかい笑顔を俺のもんにできねえかな?
亮を世界一かっこよくするのはこのままずっと俺でいいんじゃね?


…って
俺は…
こいつよりだいぶバカだな…。

33

諦めきれない。


全てを覆す葵の決断、大好きな女のために身をひいた貴、嘘をついてでも奪おうとした宙。
俺の周りを見てるとそう思う。
どんどんでかくなる気持ち。
そしてどうしても俺の女にしたい。

俺を世界一かっこよくしてもらうのは累だけがいい。

何回振られても何回だって言ってやる。
もう振られてるし…かっこいいも悪いもねえべ。


よし。

「なー。」
「ん?」

「お前の誕生日に言ったこと覚えてる?」

俺は鏡越しの累の顔を見た。

「え?あぁ…うん…」

こ…こいつ!!!!!
かかかかかかわいい…

累は顔を赤らめて下を向いた。
俺は勢いを増して気持ちに輪がかかる。



「俺まだ好きなんだわー」
俺はどこまでもかっこわるい。
またしても最悪な告り方だ。

鏡の中で累と目が合う。
「少しは見る目変わった?」
俺がそう言うと髪のセットをしている手を止めて目をそらす。
俺は目をそらさない。
少しも。

俺はずっと累を見ている。

34


「累…」
頼むなんか言ってくれ。
この間に何を考えてる?


「…好きなんだわー…」
しばらくの沈黙の末、累が言ったこと。


これは夢か?


「え…あ…ま、まじ?」

「まじ」
「まじ?」
「まじ」
「ほんと?」
「ほんと」

ま…ま…ま…
「まじ!?」
「だーーー!!!だからまじだって!!」
累…顔、真っ赤だぞ?
「くそ…もう言わねえ。」

俺累の事やっぱ好きだ。
心が男だろうと関係ない。
俺が好きだって思うんだ。
この気持ちだけで十分だ。

まだセット途中の俺の髪。
累が触れた俺の髪。

「累!!!!抱きしめていいか?」
「!!!そんな中途半端な髪で言われてもな!」
初めて見る累の表情。
いつもより棘のあるしゃべり方。
累は照れるとこうなるのか。
累をこうさせてるのが俺…なんだ…。

もう聞く暇もない。
俺はかっこ悪いし不器用だし…今だって髪半分だけセットしてある中途半端な感じだし…。
でも…

累は俺の腕の中に閉じ込めた。


「累、付き合ってくれ。」
「俺は男でも女でもねえぞ」

「わりい…女にしか見えねえや。」

「俺が彼女か…」

35

『命、今日スタジオで徹夜なんだけどどうする?来る?』


あれからもう半年が経った。
もう今年は別れを匂わせてくる季節。
冷たい風は少し心に痛みを与える。


最近の私はと言うと、お兄ちゃんのマンションで二人で暮らしている。
お母さんは帰っておいでと言ってくれたが、帰る気になれない。
まだ気持ち悪いというお母さんの言葉が残っていた。

今まで押し殺していた分を二人で埋めた。


空白はだいぶ埋まって以前より素直に生きている。
なにより本当に欲しかった人が隣にいる。



そして昨日、私は初めてお兄ちゃんと肌を重ねた。
大好きな人とだと、こんなに幸せなものなんだね。
何回もキスをして手を握ってくれた。
私をまっすぐ見てくれた。
お兄ちゃんのにおいがするベットで二人はさらに愛を深めた。


「命俺ら付き合ってんだよな?」

お兄ちゃんはそう言って私に深くキスをした。
お兄ちゃんが初めて見せる不安の声。
一瞬兄妹って言葉を思い浮かべた。
兄妹としての時間が長すぎたんだ。
でもそれも事実だからしょうがない。
だけど恋人同士なのも嘘じゃない。


お兄ちゃんの腕枕、いびきまでも私に向けられている。
埋められていく空白は色をつけていく。

まだ真っ暗でしかない未来。
だけどお兄ちゃんの目に私が映っているならそれでいい。
願わくばこれから先私以外の女の人が映らないといいな。

36


「じゃあスタジオ行っていい?」
『うん、ちょっと待って。貴!命迎えに行ってきていい?」
電話の向こうでのやり取りをするお兄ちゃんの姿を想像する。
『命?今から迎え行くから待ってて。』


電話を切るとやっと慣れてきたお兄ちゃんのアパートで支度を始めた。
少しだけ笑えるようになった私はとても嬉しそうな顔をしている。

ー♪♬♪ー

再度携帯が着信を知らせる。
お兄ちゃんたちが奏でる音が私に教える。
画面に記されたお兄ちゃんという文字。
「もしもし?」

『あー命?ちょっとよるとこあるから待ってて。』
「うん!」
付き合ってからわかったこと。
お兄ちゃんはマメだ。
私が不安にならないようにと少しのことで電話をくれる。


支度を終えたわたしはベランダに出てお兄ちゃんの車を待った。  
早く早くとお兄ちゃんの車を探す。

「あ!!きたっ」
私はお兄ちゃんの車を見つけると慌ただしく玄関へ急ぐ。

「あれ、何してんの」

玄関で鉢合わせたお兄ちゃんは驚いている。

早く会いたかったなど気持ちを素直に表す術を待たない私は本当にバカだ。
「よ用事って何だったの?」

37

「あ?あー…用事?用事ねー…」
目を泳がすお兄ちゃん。



何?濁した?
…もしかして…う浮気!?

「…命…お前何考えてんの?」
「え…いや…」
なにも…考えてない…よ?
「女じゃねえよ?」
「え!?」

図星!

「やっぱそんなん考えてると思った。まあでも間違ってないか…」

「えーーーーーー」
「ははっ」
お兄ちゃんは動揺する私を見てけらけらと笑う。
「嘘だよ。はい!」
一通り私をからかい終えると私に小さな箱を差し出した。
「何?」
すね気味の私はふてくされた返事を返す。
「それ買った時の店員女だったよ」
「ちょっと…いい加減にしてよ~ええ!?」
箱からお兄ちゃんに視線を移すとそこには真っ赤な顔のお兄ちゃんがいた。
「え…お兄ちゃん?」
「いいから早く開けろよ!!!」


私はシンプルな飾りを施した箱をゆっくりと開けていく。
中に入っていたのはお兄ちゃんには似つかわしくない華奢な指輪だった。
「お兄ちゃん…なに?」
「指輪。」
…知ってます。見ればわかります。
「そうじゃなくて…」
「こういうやつ」
そう言うとお兄ちゃんは自分の左薬指を指した。
お兄ちゃんの薬指には箱に入っていた指輪と同じデザインの指輪がはまっていた。

38

まだ顔が真っ赤なお兄ちゃん。
私は指輪を交互に見て状況を整理する。

なんで…?
お揃い?



昔から兄妹の私たちは色違いの服、おもちゃなどお揃いのものはたくさんあった。
でもこの指輪は…
そうじゃない。
おそらく兄妹としてじゃない、恋人としてのお揃いだ。

「忙しくてなかなか恋人っぽいことできてねえから…昔お前が漫画見て羨ましがってたろ。」
「そんなの…覚えてたの?」

お兄ちゃんは「本当は半年記念日に渡したかった」といいながら家にあがる。
「早くつけろよ」
先ほど私との電話の後に指輪が完成したと連絡があったらしい。


嬉しいのに…なんて伝えればいいかわからない。
一時よりはよくなった病気もまだ普通の生活を送るのには厳しいほど。
迷惑ばかりかけてるのに…こんな…
私の細かいところまで見てくれて…覚えててくれた
ほんとに…なんて伝えたらいいかわからないよ。

指輪に刻まれた二人の名前。

とても愛しい名前が涙でぬれないように…

背後で聞こえるお兄ちゃんがコーヒーを入れる音。
はちきれそうになるほどこみあげてくる気持ちを…
「葵…」
大好きな名前に…
ーガシャーン
「え」
コーヒーカップが割れる音に私は振り返った。
そこにはカップを持った姿のまま硬直するお兄ちゃんがいる。

39

この沈黙はいい意味なのか悪い意味なのか。
お兄ちゃんの表情はなんとも微妙なところだ。

間違えた?嫌だった?

不安が私を強張らせる。
「お兄ちゃ…なんか言って…」

「…もう一回…」
照れながら微笑むお兄ちゃんはお兄ちゃんではなくただ私が大好きな男の人だ。


今までお兄ちゃんとしか呼ばなかった。
みんながお兄ちゃんを名前で呼ぶのが羨ましかった。
彼女さんが呼ぶたびに悔しくて仕方がなかった。
私も…呼びたかった。
その反面呼んでしまったら気持ちが漏れてしまいそうで…怖かった。
気持ちを伝える時でさえ怖気づいてしまった。
付き合ってからも呼べなかった。
一番呼びたい人なのに。


「葵」
きれいな名前。
大好きな名前。
今目の前で目を潤ますお兄ちゃん。
1度だって好きな人以外として見れただろうか。
ずっと好きだった。
お兄ちゃんという縛られる中でもがいていた。


もう…お兄ちゃんじゃなくていい?

「葵でいいの?」
空白を…もう少しだけでいいから埋めてください。

「名前で呼んでよ」


割れたカップをゴミ箱に指輪の箱は枕元に。
まるでカップのように壊れたお兄ちゃんの殻。
この大切な気持ちは箱に丁寧にしまって閉じ込めた。
なくならないように。
これから何があっても葵として見ていたい。

葵。
私のこともこのまま葵の腕の中に閉じ込めて。

「命…好きだよ」

40

「…もしもし」

私は不安を隠せないまま電話に応答する。



葵がいない間の一人でのマンションは嫌い。
まだ慣れない。
こういう時に限って嫌な事は運ばれて来る。
ねえ、この電話はどういう内容かな?


『命』
違和感があるのかないのか…複雑なこの呼び方。
携帯はこの人を高嶋さんと映す。

気まずくないと言ったら嘘になる。
だけどあの時の「宙陽」は私の記憶だったのは事実。

あの一件からこうやって電話が来るなんて初めての事。

出てもいいのかと迷うのは後ろめたさ?

高嶋さんの「抵抗」は未だ続いている。
それによって高嶋さんの気持ちが遊びではないと教えてくれる。
周りを壊してでも手に入れたいって気持ちと覚悟は私と一緒だ。
迷った末取った携帯からは気まずさが感じられる声音が聞こえてくる。



『あの…さ、あお兄と兄妹やめようよ』



意を決した声は現実の話だった。


『「宙陽ーあ…電話か」』
「葵?」
電話の向こうでの光景に葵がいる。

41

『「電話?」』
『…うん』
隠った高嶋さんの声は不自然に映ろう。

『「……命か…?」』
葵は明らかに怒っている。
『命、あお兄のこと葵って呼ぶようになったんだね』

高嶋さんはなんで、そんな挑発するように言うの?
私はこの受話器越しの張りつめた空気に、どういう顔をしていればいいのかわからなかった。

『言ったでっしょ?いつか奪うって。』
『「宙陽…」』「高嶋さん!!」

『命、またね』

『ッツーツー…』



なんで?

切られた電話に疑問しか残らなかった。
私は高嶋さんがわからなくなった。
だって今の電話はそんな内容じゃないでしょ?
葵を誤解させるのはなぜ?

そう考える傍らでは養子縁を解くということが突っかかっている。

私を空想の中から引き戻すようになった電話は葵からだった。


『命、兄妹じゃなくなっても離れないよな?』
その声音は不安を必死に隠した声だった。
「私の中でもうお兄ちゃんじゃないよ」
『でも…兄妹なら…』
「葵?」
『他人は壊れたら終わりだ』
ねえ葵どういうこと?
『「あお兄はさ、保険が欲しいの?」』
後ろからの高嶋さんの声。


『「命がいないと駄目なだけでしょ?」』

42

  

葵は夜何回もベッドから出る。

どうしたの?と訪ねても教えてくれない。
トイレに行くわけでもなくその場からいなくなる。
何をしているのか。
部屋に行く葵を見に行くこともできないでいる。
私は不安になっていた。


ほら、また今日も。
私が寝たのを確認した葵は腕枕を解いて行ってしまう。
私は声を出そうとしたがすぐに飲み込んでしまった。
それは葵の行動によるものだった。


「くそ…」

絞るように出た声を私は聞き逃さなかった。
ソファーに荒く座り頭を抱え込む。
酒を煽るかの様に水を飲み干していく。
しばらくすると葵は険しい表情のまま作業部屋に行ってしまった。
いつも閉めるドアはガラ空きだ。


追いかけていったら何があるのかな。
嫌なものでも見てしまうのかな。
不安は積もるばかりだ。


 
葵はそこで、どんな顔をしているの?


私は物音をたてない様にベッドを出た。
スタンドライトの光だけの作業部屋。
椅子に座って俯いている葵。
「葵…?」
「!!!!!命!?」

葵…泣…いてる?

心臓が強く握られた気がした。
葵の頬に残る涙の跡が…痛い。

43

「お前…寝たんじゃないの?」
見開いた目は赤かった。

なんで泣いてるの?
どれだけ泣いたの?

葵は泣き顔を隠すように下を向く。
僅かに聞こえる鼻をすする音。



私はなんて言ったらいいのかわからなかった。

葵の手の甲に落ちる涙。
私には葵が今も流すその涙の意味がわからなかった。


どうして泣いてるの?
また、一人で何かを決めようとしているの?
一人で何かを背負い込んでるの?


「あ、葵?」
話してよ。
私は…私は、彼女でしょ?

葵はクルッと椅子を回転させて背を向けてしまう。
泣き顔を隠すくせに止まらない涙。
下を向いて泣いている葵。
葵、こっち向いて。

それとも私には言えない?

44

葵は私に背を向けたまま泣き続けている。
声を出さずに泣いている。
ほんの少しの時間なのにとっても長くて、大好きな人が目の前で泣いている背中を見るのはとても辛かった。


「葵」


「葵、こっち向いて」

私は葵に近寄って椅子を回して顔を覗き込んだ。
なのに葵は頑なに下を向いて顔を隠す。

一瞬私を見た葵の顔を私は忘れられないだろう。


「命、俺な…」
目を合わせないままの震えた鼻声。
嬉し涙じゃない事くらい見ればわかる。
赤い目を泳がせながら不安気に発した言葉は、葵が抱えて持ちきれなくなった夢だった。


「お前との子供が欲しい」



「結婚したい」




葵はそれを告げるとずっと溜めていた涙が溢れる様に声をあげて泣いた。

45

葵の口から出た言葉。

それはとても重いこと。
そして現実、どうなるのかわからない内容。
嬉しくなかったわけではない。
だけど…私たちはこの夢を叶えることは出来るの?
叶えようとすることは出来るのかな。


「俺は命ともっとしたいよ。でも怖い…」

葵の言う怖いって兄妹だから?


「兄妹じゃなくて夫婦になりたいよ」




葵が近頃何回もベッドを出るのは理性を保つため。
そして自身の中で大きくなる夢に潰されそうだったから。
隣にいる私の体温を感じる度に夢は大きくなる。
気持ちを押し殺していたあの頃と比べれば、今はとても幸せだ。
その反面先が見えない。
あの頃は始まりがなかったから先を見る必要はなかった。


「でも兄妹じゃなくなって離れるのはもっと怖い」
葵はそう言って私の手を握った。

あの頃、兄妹と言う関係を憎んでいた。
恋人より深い絆がある家族という枠の中。
それを抜け出して私たちは恋人になった。
今私たちが見た結婚という形。
家族という繋がりが無くなってもし私たちが別れた時、ただの他人になってしまう。
葵はそれを恐れている。

兄妹のままならたとえ別れても傍にはいられる。

高嶋さんが言った保険。
私は今その意味を理解した。

46

「もう…お前がいなくなるのは…嫌…なんだよ…」

泣きつかれて声が枯れた葵の声。



葵が泣いている。
今までに見たことがない姿。
ボロボロと涙が零れていく。
強く握られた手に落ちていく。
震えている葵の体はとても弱々しかった。



葵ですら何も見えないでいる。
見えるのは過去だけで。
先が見えないんだ。



いつも隙がなくらい大人な葵。
冷静で広い視野で物事を見ている。
私を不安にさせないように、悲しい思いをしないように…いつも私を支えてくれた。
でも葵も一人の人間で、一人の男の人で…
不安で不安でたまらないんだ。

大人な分、いろんな事を知ってしまっていっぱい考えて。
不安を見せないようにしていたんだ。
私が弱いばっかりに葵を追い詰めてしまったんだ。
私が…病気なんてならないくらい強い人だったら…大人だったら…
葵を支えてあげられたのに。
1番護りたい人をこんなに泣かせてしまった。

葵は今にも進むことをやめてしまいそうなんだ。

私が…その不安を和らげてあげたい。
人に頼ることを躊躇ってしまうこの人を、



私が…

47

私は決めた。
たとえ記憶がなくなっても、先が見えなくても…葵の事は忘れない。
葵は私が護りたい。

どんな時でも帰る場所になって、葵が抱える不安も何もかもを拾ってあげたい。


葵が泣ける場所になろう。
葵が弱くなれる場所になろう。
そして誰よりも先に誰よりも長く誰よりも近くで葵の笑顔を見たい。
私は別に大人な葵がいいんじゃない。
強いから好きになったわけじゃない。
ただ…葵の全てを見たかった。
変わる表情を、葵の気持ちを、全部見たかった。
泣いていても弱っていても怒っていても。
全ての葵を見たい。
私を箱の中から出してくれたように葵の背中を押してあげたい。
どんな時も葵の顔があって…その度に先が見たくなっていった。
今度は葵の為に強くなりたい。
譲れない。
どんな現実が立ちはだかっても生きていられるのは大切な人だから。
記憶が真っ白になった時も葵だけが私を呼んでくれたいた。
私にもできるかな。
誰かの為に生きるって事を初めて知ったよ。
それが…
「兄妹やめよう?それで夫婦になろう」
葵でよかった。
私の腕の中の葵の手が逆に私を抱きしめた。

きっとこれからまたごちゃごちゃするだろう。
道が崩れるばかりだろう。
一歩先も見えなくなるかもしれない。
過去にさえすがりつけなくなるかもしれない。
世界が葵の顔も見えないくらい真っ暗になるかもしれない。
それでも今日二人の夢が一緒になった。
葵の手さえ見えればいい。
隣にいてくれさえば、それでいいんだ。

一緒に歩いていこう、未来は約束されてはいないけれど
一緒に歩き続けていく、



あなたのいる未来へ

48

葵のオフの日。

二人は手を繋いで家を出た。
近所を手を繋いで歩く、それは私たちの覚悟だった。


今まで無意識に近所では手を離した。
心のどこかで感じてしまう世間の目、罪悪感。
自分たちが悪い事をしているのではないかと思ってしまう。
罪悪感を感じることを仕方ないと納得していた。



昨日までは。


私たちは何もおかしくない。
私たちは人を愛しているだけ。
愛し合っているだけ。



あの後私たちは泣きながら肌を重ねた。
これまで肌を重ねることも避けることが多かった。
本当はもっとくっつきたい。
キスしたい。
葵と繋がりたい。
私たちは無意識にまだ気持ちを押し殺していた。
でももう大丈夫だよね?
葵を押し殺していた夢を二人で繋げるように。
手を繋いで、これ以上ないくらいくっついて。

私たちが見たい未来を一緒に見た。
その夢を壊さないように歩幅を合わせる。




「あれ~?累?」
「げ!!!!」
あからさまに嫌な声をあげたのは累だった。
「え。」


「ちょ、亮…離せよ…!!」

49

私たちは二人の繋がれた手を見た。
累は手を解こうと、鈴本さんはそれを阻止している。
照れ合う二人が可愛らしい。

あれ…お二人さん…どういうこと?


「え、お前ら何?」
「葵!!」
直球過ぎる葵の質問。
「お、お前らだって、名前で呼んじゃってさ~」
鈴本さんは逆に私たちを茶化す。
「…気持ち悪いって笑っていいんだぞ」

累は顔を真っ赤にして言ったけどそれは申し訳なさそうだった。

「なんで気持ち悪いの?」

「いや…だって…俺、女じゃねえし…」
悲しそうな顔で累を見る鈴本さんの目は昨日の葵の目に似ていた。


「しょうがねぇじゃん…好きなんだもん」


そう言った鈴本さんの声は低く小さい声。
この二人の状況は私たちに遠からずだ。

「付き合ってんだろ?」
「うん」
うんと言った二人は恥ずかしがりながらも幸せそうで安心した。




人を好きになったのにどうして、罪悪感を感じなければいけないんだろう。
ただ…好きなだけなのに。
心が男の人と男の人、兄妹。
どうしてこの人なの?

わからない。

世間に背いてでもこの人がいい。
この人じゃなきゃ駄目なんだ。

50

そして今日、私たちが向かう先は私の病院。
外に出ることへの恐怖はなかなか消えてくれなかった。
特に病院は嫌でしかない。
辛い事を思い出す。
そして…先生は私たちの敵だ。



待合室。

心臓が痛い。
怖い。

『城山命さん』

私を呼ぶマイク越しの先生の声が、二度と聞こえなければいいのにな。
「命?」
繋がれた手のぬくもりを感じる余裕もない。
体が硬直して動けない。

「嫌だ。」
「命…」
「いかない」
子供のようなわがまま。
敵の所になんて行きたくないよ。
「怖いよ。」
涙を流したくなんてない。
なんで私は泣いてるんだろう。
怖くて仕方がない。
「命、俺がいる」

葵の声、聞こえてる?



葵の手があるのに怖い。
敵はこの扉の向こうにいるんだ。

こんな弱い自分が本当に嫌いになれそうだ。

葵を笑顔にさせたいって思ったはずなのに、その人は今、眉を下げた表情をしている。

51

「お願いします」



先生はまず、私たちの繋がれた手を凝視した。
その表情は呆れている目。


「手を…繋いでいるのですね」
「駄目ですか?」
葵の堂々とした声に先生は汚いものを見る目をした。


いつもはお母さんと病院に来ていた。
葵を好きという事は隠していた。
葵と来ることはあってもお兄ちゃんとして。
付き合ってからも外で手は繋げなかった。

なぜなら、先生も私たちを反対しているから。
騒動の事を含め全部を話した時も、先生は私たちを解ってはくれなかった。



「あなたたちのしていること、わかっていますか?」

この先辛いことがたくさんある。
それが私の病気に良くないと言う。
世間に背くことは悪影響だと言う。

「命さんと付き合うことが1番いいと思ってるんですか?」

「あなたたちは世の中を甘く見ている。」

そんなにうまくいかない。
精神的な負担がかかってしまう。
先生の言う事は全てが否定の言葉だった。



「今の命さんの病気の原因をとってあげないと駄目なんです」


ねえ先生、あなたはそれでも…
言葉を選んでいるつもりですか…?

52



…なにそれ…


病気の原因が葵だって言いたいの?
あなたに私の何がわかるの?


「病気の原因はお前だよ!!!!!!」



お前に何がわかるんだよ。
お前に…何が…


「命、大丈夫だから」
そう言って私を落ち着けようとする葵。
でも私は見てしまった。
葵が拳を強く握って、その手が震えているのを。
必死に怒り、悔しさを表に出さないようにしている。
「私は…私は…葵が好きなだけなの…!」
どうしたら世間はわかってくれるの?
そんなにダメなの?
悔しいよ。
世間に勝てないのが悔しい。
出てくるのは暴言ばかり。
敵が消えない。

「お兄さん、今だって現に発作が出てるでしょう?何故だかわかるでしょ?」

「お兄さんって呼ぶな!!!」
この人は本当に悪魔なのか?

私は葵がいないと嫌なんだよ。
お願いだからわかってよ。


暴言しか吐けない私に大丈夫だからって言い続ける。

本当に私は葵を苦しめてばっかだな。
こんなに震えて、こんなに強く握られている拳。


葵、こんなんでごめんね。
私は葵が好きなだけなのに。
どうしてこんなに真っ暗なの?
今の葵に私は見えてる?

53

葵の表情が歪んでいく。
強く噛まれる唇は小刻みに震えている。


あれ?



葵をこんな顔にさせているのは…私?
私が葵を苦しめてる?
葵の隣に居たいという自分の感情を優先して、葵の苦しみを考えてなかった。
大好きで離れたくなくて、ただ隣に居たいだけだけど、それは葵に幸せを与えているのかな?
あの日から笑っているより、悲しい顔ばかり見ている。




「命?」




この手を離してあげたら、葵は幸せになれる?
夢に向かって真っ直ぐに進む、笑顔の葵に戻してあげられる?



あれ?
私はどうしたらいいんだ?


私は葵が好きなだけ。
なのになんで大好きな人を苦しめてるんだ?
私は葵の視界に映ってていいの?
私の大好きな人をどうしたら笑顔に出来ますか?
どんなに問いかけても誰も答えてはくれない。
自問自答を繰り返す私の隣で、葵は不安気な目をして私を見ている。



「命、今何考えてるの?」

cassis

どんなに離れていても
信じ合える二人でいよう

cassis

世間体と大切な人、あなたはどちらをとりますか?

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
更新日
登録日
2012-11-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7
  8. 8
  9. 9
  10. 10
  11. 11
  12. 12
  13. 13
  14. 14
  15. 15
  16. 16
  17. 17
  18. 18
  19. 19
  20. 20
  21. 21
  22. 22
  23. 23
  24. 24
  25. 25
  26. 26
  27. 27
  28. 28
  29. 29
  30. 30
  31. 31
  32. 32
  33. 33
  34. 34
  35. 35
  36. 36
  37. 37
  38. 38
  39. 39
  40. 40
  41. 41
  42. 42
  43. 43
  44. 44
  45. 45
  46. 46
  47. 47
  48. 48
  49. 49
  50. 50
  51. 51
  52. 52
  53. 53