日光東照宮という常識

低反発炭酸

 昨日の帰り際のことである。

「鷲元くん、ちょっと話したいことがあるんだけど」

 唐突に上司の歯崎に呼び止められ、私はビクッと体を震わせた。
 まさか、昼休憩中に社内のパソコンからアダルトサイトを見ていたことがバレたのか、はたまた、歯崎のことを裏で「コカトリス」と呼んでいたことがバレたのか、それとも、担当プロジェクトの運用資金の50%を横領していたことがバレたのか。
 様々な憶測が脳内を駆け巡る中、私は会議室に通された。

 会議室に私と歯崎の二人きり。
 私は大蛇に睨まれた蛙のような気分になった。
 しん、と静まりかえった会議室。歯崎はおもむろに口を開く。

「鷲元くん、日光東照宮って知ってるよね」

 は、え?ええ、存じておりますが、それが、何か。

「どこにあるか知ってる?」

 え、どこ、ですか?ええと…栃木県、ですよね。

「栃木県…ねぇ」

 歯崎はふぅ、と軽く溜息をつき、まるで蔑むかのように、見下すように私を見た。
 しばしの沈黙が室内を支配する。

「鷲元くん、日光東照宮ってね、ここにあるんだよ」

 と言って、歯崎は足元を指差した。
 は?

「ここ、西山戸市。日光東照宮はね、西山戸市にあるんだよ、鷲元くん」

 は?

「少々混乱しているようだが、受け入れたまえよ、鷲元くん。日光東照宮は西山戸市にあるんだ」

 私は、ストップ、と言うように手を上げ、頭を抱えた。

 まず第一に、日光東照宮が西山戸市にあるという意味が分からない。
 ここは大都市東京都の一角に荘厳と佇むただの住宅街、知る人ぞ知る西山戸市である。
 そして、私の生まれ故郷でもある。
 故に、私は西山戸市の地理歴史を一通り理解しているつもりでいる。

 西山戸市にこれと言って見るべきものはない。
 なんかボロボロの施設が戦災の市史跡として残されている程度で、名産も名物も特筆すべきものは何もない、ただの住宅街だ。
 一昔前のゆるキャラブームに乗っかって「西ヤマト戦艦くん」とかいうキャラクターを打ち出し、観光客増加を狙ったが敢え無く失敗、負債だけが残ったという、ただの住宅街だ。

 そんなただの住宅街に、かの有名な神社「日光東照宮」が建っている?
 もしそれが本当だとしたら、歴史の授業で習った「栃木県の日光東照宮」はなんだと言うんだ?

 そして第二に、なぜそんなことを、歯崎が、私にわざわざ伝える必要があるのか。
 『日光東照宮が西山戸市にあるとかいう戯言を周囲に広めるのはやめてくれ』
 という要請ならまだ理解できるが、なぜ、歯崎が、わざわざ私に伝えてくるのか。

「鷲元くん、君はまだ日光東照宮が西山戸市にあるということを信じきれていないようだね。それも確かに分からないでもない、今まで君は日光東照宮は栃木県にあると思っていたんだからね。だが、いますぐに理解しろと言う気はないよ、鷲元くん。常識を否定することは、頭では理解できていても、人間が最も忌み嫌うことだからね」

 歯崎は立ち上がり、困惑する私の真横に席を移した。

「ときに鷲元くん、日光東照宮に行ったことはあるかい?」

 それは、その、栃木県じゃなくて、西山戸市の日光東照宮に、でしょうか。

「どちらでもいい、君の常識で日光東照宮だという場所に行ったことはあるのかい?」

 え、ええ、行ったことはあります。
 その、栃木県の日光東照宮に、ですが。

「そうか、ではそこは日光東照宮ではなかった、ということだな。日光東照宮は日本に一つしか存在しないからね」

 あの、私は部長のおっしゃることが全く分からないのですが、栃木県の日光東照宮は、あれは日光東照宮ではない、と言うのですか?

「ああ、そうだね、君の行ったという栃木県の日光東照宮は日光東照宮ではないね。なぜなら、日光東照宮は日本に一つしか存在しなくて、そして日光東照宮はここ、西山戸市にあるからね。私はその栃木県にあるという日光東照宮のことを知らないんだが、その栃木県にある日光東照宮という施設が日光東照宮ではないということは分かるね」

 歯崎はにっ、と歯を見せて笑った。

「鷲元くん、私は安心したよ。君が無知で、あるいは根も葉もない話を信じ込んで、『日光東照宮は栃木県にある』という世迷い言を口にしているのだと思っていた。しかし、そうではないようだね、鷲元くん。君は、その栃木県にある日光東照宮と名乗る施設に誑かされていただけだったんだね。ということは、諸悪の根源はその栃木県にある日光東照宮と名乗る施設だね。迷惑極まりないな、日光東照宮を差し置いて日光東照宮を名乗るなんて、すぐにバレる嘘だというのに、集客目的なのだろうか。ありがとう、鷲元くん、君のおかげで元凶が分かった。あとやることは、その栃木県の日光東照宮を名乗る施設への抗議と、君が『日光東照宮は西山戸市にある』ということを理解するだけだね」

 …話が全く理解できない。
 私は、いよいよ歯崎の気が狂っているのだと思った。
 統合失調症のような精神疾患に侵されているとすれば、妄想や幻覚が肥大してこんな戯言を堂々と主張しているのにも説明がつく。
 だとすると、こういう場合の最善策は、相手を否定せずにその場から立ち去るということだ。

 部長、失礼ですがもう帰らなければなりませんので、よろしいでしょうか。

「ああ、鷲元くん、残念だ、君は理解しようとしないつもりだね?私のこの発言が妄言だと、あるいは何かの冗談だと思っているんだね?鷲元くん、君にはがっかりだよ、君は他の社員よりも見込みがあると思ってたんだけどね。帰ってもいいが、君が日光東照宮は西山戸市にあるということを理解しない場合、減給、懲戒解雇もやむなしだよ、それくらい重要なんだよ、鷲元くん。分かるかい、常識を否定するのは怖いだろうが、やがて否定することそのものが常識になっていくんだ、そうなった方がより良い人生を過ごせるようになる。今は分からないだろうが、分かったほうがいいと言うことは本能的に分かっているはずだよ、鷲元くん、これはその第一歩に過ぎないんだ、鷲元くん。いいかい?常識を否定するんだ、過去を捨て去るんだ、そして、日光東照宮が西山戸市にあるという事実を理解し、受け入れるんだ、これができなければ、君は一生クズとして生きていくことになるんだ、分かるね、鷲元くん」

 何を言っているこのイカれキチガイが、と思わず叫びそうになったその時、歯崎は一枚のメモを私に差し出した。

「これは日光東照宮の住所だ。今週末ここに行って、西山戸市に日光東照宮があるという事実を理解し、受け入れるんだ」

 歯崎はにっ、とわざとらしく歯を見せて言う。

「分かったね、鷲元くん、これは業務命令だよ」



 そして今日、私は不審がりながらもメモに書かれた住所の元へ向かった。
 住所は、西山戸市の北に広がる裏森丘陵、そのほぼ中心を指し示していた。
 ロクに整備されていない道を、ぜいぜいと息を切らしながら進んで行く。
 すると、少し開けた場所に一軒の古びた掘っ立て小屋が建っているのが目に入った。

 その小屋には、金色のペンキで
 『日光東照宮』
 と書かれていた。

「おや、あなたも日光東照宮を見に来たのですか」

 突然の声に驚き振り向くと、一人のスーツ姿の男が立っていた。
 首からネームプレートを下げており、どうやら市役所の人間のようだと推測できる。

「いいものでしょう、日光東照宮は。心が洗われるようだ。なにせ、日光東照宮ですからね」

 私は鼻で笑った。
 これが日光東照宮だと?馬鹿馬鹿しい。
 日光東照宮とは、きらびやかな門があり、三猿や眠り猫といった動物達の木彫像があり、そして何より、徳川家康の墓がなければならない。
 この掘っ立て小屋が日光東照宮だなんて、日光東照宮を愚弄しているとしか考えられない。

「なるほど」

 男はメガネを中指で押し上げ、精悍な眼差しでこちらを見つめた。

「日光東照宮を愚弄している、ですか。日光東照宮自身が日光東照宮を愚弄する、という意味は分かりかねますが、どうやらあなたは日光東照宮に対して要らぬ期待を抱いているようですね。大丈夫、素晴らしいと言われているものほど、真実は呆気ないものなのですよ」

 いや、真実が呆気ないのではない、これは真実ではない。
 試しにこの掘っ立て小屋を100人の人間に見せてみろ。
 100人中100人が『ただの小屋だ』『日光東照宮ではない』と言うに決まっている。

「100人中何人が『これは日光東照宮ではない』と答えようと、この日光東照宮が日光東照宮であるという真実は揺らぎません。真実とは他者の意見に左右されることなく、そこに毅然として存在するものですから」

 ああそうか。
 あんたがそう思うんなら、これは日光東照宮なんだろうな。
 じゃあそれでいいよ。
 帰る。

「お待ち下さい。せっかく日光東照宮までやってきたんです、中に入ってみませんか」

 そんな汚い小屋に入って何になるというんだ。

「何になるかは中に入らないと分かりません。中に入らないというのであればそれでも構いませんが、中に入らないという選択肢は即ち、何にもならないという選択に他なりませんよ」

 男は屈託のない笑みを浮かべて、その小屋の扉を開いた。
 ギギィ、という年期を感じさせる音が森に響く。

「さあ、どうぞ。何にもならない選択より、何かになるかもしれない選択の方が良いでしょう?」

 私はわざとらしく舌打ちをし、小屋の入口へ向かった。
 どうせ何にもならない。
 この小屋は所詮ただのボロ小屋だし、何を見せられても何を言われようとも、この小屋が日光東照宮だと認める気はない。
 そして本物の、栃木県の日光東照宮を見せ、気の狂った上司にも、この男にも、この掘っ立て小屋が日光東照宮ではないと認めさせてやる。


 小屋の中は想像以上に汚れていて、埃や錆の臭いが充満している。
 一体何年放置されていたのか、植物が小屋の中にまで根を伸ばしているようだ。
 で、これのどこが日光東照宮だと言うんだ?

「申し遅れました。私、西山戸市役所、日光東照宮課の者でして」

 日光東照宮課?
 なんだそのふざけた部署は。

「ご存知ないのも仕方ありません。つい先週発足したばかりの部署なんです。日光東照宮課の業務内容は至ってシンプルです。日光東照宮の管理、そしてその周知と、観光施策の推進です」

 管理?こんな掘っ立て小屋を管理して何になる?
 しかも周知に、観光?
 恥さらしめ、ボロ小屋を日光東照宮などと偽って周知したところで、鼻で笑われるか怒られて終わりだ。

「怒られる、というのは…どなたに、でしょうか」

 栃木県だよ!栃木県の日光東照宮!
 義務教育を受けている以上、知らないとは言わせないぞ。
 さっきも言った、きらびやかな門、動物の木彫像、徳川家康の墓がある日光東照宮。
 中学校の修学旅行に行って、その豪華絢爛さに衝撃を受けた、思い出の日光東照宮だ。
 あの素晴らしい日光東照宮を差し置いて、よくこんな掘っ立て小屋が日光東照宮だと言い張れるな。冗談だとしても度が過ぎている。
 しかも『日光東照宮課』だと?
 人をおちょくるのもいい加減にしたらどうだ!

「そうですか、ですがその『栃木県の日光東照宮』なる施設は日光東照宮ではありません」

 それは歯崎…私の上司にも言われたよ。
 じゃあ何だったんだあれは!
 学校で散々習ったあの神社は!
 徳川家康を祀ってるあの神社は何て名前なんだ?!
 あれこそが日光東照宮だろう?!

 私はポケットからスマートフォンを取り出し、『日光東照宮』と入力して画像検索を行った。
 間もなく検索結果がズラリと画面に並ぶ。もちろん、その中には私の思い描いた通りの、栃木県の日光東照宮が

 ない?

「どうかなさいましたか?」

 ない、おかしい、ない、何回スクロールしても何度リロードしても、私の記憶にこびりついている日光東照宮の写真は一枚たりとも出てこない。
 代わりに、この掘っ立て小屋の写真ばかり出てくる。
 何だこれは?
 どうなっている?
 おい、説明しろ、これはどういうことだ。

「あなたが仰った『栃木県の日光東照宮』などというものは存在しない、ということでは?」

 じゃあ俺の記憶にあるこの日光東照宮とは、一体なんだと言うんだ。

「それは分かりません。所詮、その『栃木県の日光東照宮』という呼称も、きらびやかな門も、動物の木彫像も、徳川家康の墓も、あなたの中の脆弱な『常識』に過ぎないのですから」

 私の中の常識?

「ええ」

 男はニコリと笑いかける。
 その笑顔には一滴の曇りもなかった。

「常識とは、真実と異なり脆いものです。なぜなら常識は人間の脳内によってのみ形成される概念だからです。『思い込み』と言い換えてもよいかもしれません。『日光東照宮は栃木県にある』という常識、『日光東照宮は徳川家康の墓である』という常識。これらは真実であろうとなかろうと、思い込むだけでその人の『常識』となってしまいます」

 それらはあくまで私の常識、思い込みであり、真実ではなかったと?

「その通り、残念ながら真実ではありませんでした。ですが、悲観することはありません。常識が真実と乖離することなどよくあることです」

 しかし、私はまだ納得できない。

「何故です」

 記憶があるからだ。常識みたいに概念的なものじゃない、映像としてこの頭に、鮮明な『栃木県の日光東照宮』の姿が残っている。
 日光東照宮がこの小屋だというのなら、私の記憶に残っているこの建物をどう説明する?


 しばしの沈黙の後、男は失望したように溜息をついた。

「やはり、何も分かっていないようですね、鷲元卓さん」

 え?
 なぜ私の名前を?
 名乗った覚えはないが。

「私の方こそ名乗っていませんでしたね」

 男はメガネを外して胸ポケットにしまうと、名刺を差し出してきた。

『西山戸市役所 日光東照宮課 鷲元卓』

 鷲元卓?

「ええ、鷲元卓と申します」

 髪をぐしゃぐしゃと乱し、ネクタイを緩めて顔を上げたその男の顔は、
 私の顔に似ても似つかない。
 私の顔そのものだ。

「待て、鷲元卓は私だ。さっきから散々適当なことばかり言いやがって、なんだこれは、テレビかなんかの企画か?」

 あなたが鷲元卓だという証拠はどこにあるというのでしょうか?

「証拠?証拠も何も、私そのものが鷲元卓であるという証拠だ!私は35年間、ここ西山戸市で鷲元卓として人生を送ってきた。お前みたいな、ポッと出の男が鷲元卓だと?それこそ馬鹿げている。鷲元卓は西山戸市に一人しかいないんだよ!」

 常識は真実とは限らないと申しましたよね?
 現に、あなたが『栃木県の日光東照宮』と言っていた施設は存在しませんでした。
 しかも、私はこうして名刺を出すことで自分が『鷲元卓』であることを証明しましたが、あなたは自分自身が『鷲元卓』だと言い張ることしかできない。
 あなたの抱えている『常識』のうち、真実はいくつあると言えるのでしょうか?

「だが、この私の頭に残っている記憶は真実だ!決して常識などどいうあやふやなものではない記憶が、経験として、映像としてしかと頭に残っている!」

 『映像』?
 『経験』?
 『記憶』?
 それらが『そうであるという常識』なのでは?
 これは実際に見たものだという常識、これは実際に経験したものだという常識、これは記憶として残っているものだという常識。
 全て単なる思い込みです。

「黙れ!詐欺師が!日光東照宮の次は私を否定するつもりか!」

 ええ、残念ながらあなたは真実ではなく、単なるあなたの、脆弱な常識でしかありません。
 この私『鷲元卓』という確固たる真実がその証拠です。

「ああ、そうかよ!付き合ってられないな!時間を無駄にした。私は帰る!」

 そうですか。
 ここまで話して理解されないとは、残念ではありますが、仕方がありません。
 常識に囚われて真実を見ることを忘れたその代償を、身を持って味わうと良いでしょう。

 そう言い終わる前に、男は日光東照宮を後にした。
 残された私は下唇を噛み、拳を強く握った。

 あの男は、かつての私自身だ。

 自分が正しいと信じ込み、まるで神になったかのように振る舞い、やがて真実に打ちのめされる。
 賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶという言葉があるが、残念ながら大多数の人間は愚者である。
 常識を真実と見誤る愚かさは、自らが経験しないことには学習できないのだ。
 あの男も遅かれ早かれ真実を理解し、学習するのだろう。
 しかし愚者の苦悩は、学習をした時点で既に取り返しのつかないことになっていることがある、ということだ。
 あの男がやがて味わうであろう苦しみは、果たして報われるだろうか。
 それは、神か、日光東照宮のみぞ知る事だ。



 週明け、私がいつものように出勤すると、上司の歯崎が声をかけてきた。

「やあ、おはよう鷲元くん、行ってきたかい?」

 ええ、行って参りました。
 そして、日光東照宮は西山戸市にあるものだということを理解しました。

「そうか、それはよかった。いやなに、ちゃんと君が理解してくれるか少々不安だったんだがね、もう心配はいらないね」

 はい、ご心配をお掛けしました。
 これで日光東照宮課の一員として邁進することができます。
 ありがとうございました。

「うん、それじゃあこれから会議だから、会議室に…」

 歯崎が笑顔でそう言った瞬間、市役所の職員通用口から男の叫び声が聞こえてきた。
 あの男だ。

「私は鷲元だ!おい!ふざけるな!入れろ!おい!」

 男は駆けつけた警官達に取り押さえられ、何やら喚き散らしながらパトカーに押し込まれた。
 遠ざかっていくパトカーを見つめながら、歯崎は私に語りかける。

「日光東照宮プロジェクト、絶対成功させような」

 はい。

「ゆるキャラプロジェクトの失敗、絶対取り返そうな」

 はい。

日光東照宮という常識

日光東照宮という常識

常識を否定し、日光東照宮は栃木県に無いことを肯定せよ。

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-05-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted