うりゅうさんとあまのくん
「えっと、その、近くない?」
「そう?」
しれっとした表情で長い髪をかき上げる彼女。両の拳を膝小僧の上に張り付けたまま身動きの取れない僕。ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。
彼女の名は瓜生姫子。
僕の恋人志願者、だそうである。
時はさかのぼること二百年ほど前――なんてことはなく、さかのぼること二週間前。その出会いは突然訪れた。
「ねぇ、そこの君」
「はい! ご注文お決まりでしょうか?」
場所は賑わうイタリアンレストランのフロア。僕は黒エプロンのウェイター、彼女は目を惹く赤いワンピースのお客様だった。
「まだ少し迷っているのだけれど、おすすめはあるかしら?」
「そうですね、女性のお客様ですと、こちらの――」
ちらりと彼女の手元を見遣る。広げられたメニュー表の左半分は、ちょうどメイン料理の項目だった。僕は彼女の左手の親指の先にある、二つの料理名を指し示した。
「レモンとクルミのパスタと、ポルチーニ茸のリゾットは特にご好評いただいております」
「ふーん」
自ら尋ねておいて気のない返事をすると、彼女は僕の顔をぐいと覗き込んだ。
「君のおすすめが知りたいのだけれど」
「え」
ついうっかり、困惑がそのまま声になった。慌てて口元を抑え、「失礼しました」と小声で謝罪する。心臓がうるさく跳ねた。ああ、ごくまれにいらっしゃる、ほんのちょっぴり面倒くさいタイプのお客様か。ごほん、とにもかくにも笑顔と冷静さが接客の基本だ。
「そ、そうですね。でしたら――」
今度は彼女の右手の親指のわきにある料理に視線を移す。
「花ズッキーニのリピエノはいかがでしょう?」
「ズッキーニ?」
「はい、ズッキーニの花を使っております。花の中に、チーズと夏野菜の炒め物を詰めた料理です」
「どうして」
彼女が首を傾げると、長い黒髪がさらりと肩の上を滑った。
「それが君のおすすめなの?」
「この季節にしか召し上がっていただけない料理ですし、その、今朝私が摘んで参りましたので」
オーナーの所有する畑が、店から十分ほど歩いたところにある。ズッキーニの花は今朝、出勤途中の僕が摘み取ってきたものだった。いつもは厨房のスタッフが出向くのだが、なぜか昨夜のうちに連絡が入り、僕が調達係に任命されたのだ。
「そう、君が摘んだの? ウリ科の植物の花を?」
「え、あ、はい。そうです」
彼女の含みのある言い方が気になったが、こちらから何か尋ねて会話を長引かせる訳にはいかない。日曜の昼下がり、店内はまだ混み合っている。僕は張り付けた笑顔を彼女に向け、反応をうかがった。
「いかがでしょう?」
「そうね、じゃあそれをいただくわ。あとは、ピンクアスパラガスとファッロのスープと食後にエスプレッソとブラッドオレンジのグラニータもお願いしようかしら」
真っ直ぐに僕の瞳を見つめたまま、彼女はすらすらとそう言った。まるであらかじめ決められていた呪文のようだった。一瞬、僕の思考回路はそれが注文内容と分からずストップしかけたが、すぐに気を取り直して伝票へ書き込んだ。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
顔を上げた時、彼女の視線は僕の左胸についているネームプレートに向けられた。「JUN AMANO」、僕の名前は天野淳である。
その日、僕が再び彼女のテーブルへ近づくことはなかった。忙しなく動き回るウェイターは僕を含め三人いたし、全てのテーブルとカウンター席は埋まっていたし、何より僕はほどなく休憩に入ったのだ。
厨房でまかないの入った紙袋を受け取り、裏口から外へ出ると、空はどんよりと曇っていた。何を期待していたわけでもないけれど、ほんの少し肩透かしを食らったような気分になる。袋の中身はチーズとベーコンを挟んだパニーノと、ふた付き紙カップに入った冷たいエスプレッソだった。
「生まれ変わりって、君は信じる?」
おもむろに彼女は口を開いた。もう少しで額と額が触れあってしまいそうな程の距離で、彼女の整った唇がうごめく。
「えっと、その、近くない?」
僕は抗議の声を上げたつもりだったけれど、彼女はまるで人と人とが語り合うときの距離はこのくらいが適切だと言わんばかりに澄ましている。
「そう? あ、待って、頭も動かしてはダメよ。それで、どう? 生まれ変わりを信じる?」
どんどん熱の増す頬に、泳ぐ目。僕は瞬きをくりかえしながら聞き返した。
「えっと、生まれ変わり……前世とか、来世とか、そういうの?」
「そう」
負けたら罰ゲームの約束でチェスに興じた後、三分間身動き禁止を言い渡された僕は、逃げ場を失ったネズミと言うより、落し蓋をされた煮物のタコだ。
「その、姫子さんは、誰かの生まれ変わり、だったりするの? それとも……誰かに生まれ変わりたいとか」
「さあ、君はどう思う?」
彼女の真意がつかめない。僕が答えられずに唸っていると、彼女はすっと目を伏せた。
「私ね、会いたい人がいたの。ずっとずっと、待っていたの、その人が生まれ変わって、私の目の前に現れる日を」
「そう、なんだ?」
この状況で、この近さで、僕にその話をするということは――
「それって、もしかして、僕、のこと?」
恐る恐る上目遣いで彼女に尋ねる。あごをひいていないと、唇が彼女のそれに触れてしまう。ああ、もう――
「それは…」
彼女のつぶやきを受け止めきれずぎゅっとつぶってしまった目を、僕は弾かれるように開けることになった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
お腹を抱えるようにして、正面の彼女は笑い転げていた。そのあまりに豪快な笑い方に、びっくりして言葉が出ない。ひとしきり笑い終えると、彼女は目じりの涙を拭いつつ、僕に悪戯っぽく微笑んだ。
「ごめんなさい。あまりに君が初心なものだから、つい」
「ちょっ、からかってたの? えー、なにそれ、ひどいよー」
「今の気持ち、どんな感じかしら?」
「もういいでしょ、聞かないでよ」
「聞きたいの、教えて? どんな気持ち?」
「もう、恥ずかしすぎて死にたいよ」
冗談とはいえ、「死ぬ」なんて物騒な単語を使ったせいだろうか。彼女の瞳から一瞬光が失われたような気がした――けれど、たぶん見間違いだ。
真顔で再度近付いてきた彼女は僕の前髪をめくるように持ち上げて、額にキスを落とす。生々しいリップ音に固まる僕を差し置いて、彼女はまた楽しげに笑い始めた。もう、まったく、まったく、もう!
彼女の足元で、スマートフォンが三分の終わりを知らせるアラームを鳴らし始める。音階をたどるその曲の題名は、確か「七つの子」だ。
彼女と二度目に会ったのは、大学の講堂内だった。
「今日のノート、コピーさせてもらえないかしら」
そう背後から声をかけられ、振り向くとそこに前日アルバイト先に現れた彼女がいた。襟に黄色い花の刺繍が施された真っ白なブラウスにうっすらとオレンジ色の下着のシルエットが透けていて、僕はすぐに目をそらした。
「あ、えと。僕、そんなに字、きれいじゃないんで、読みにくいと思いますけど」
「やはり駄目かしら?」
「いえ、別にダメという訳じゃ。あの」
「授業へ真面目に出席している君からしたら、ノートのコピーだけもらおうなんて虫のいい話だものね」
「あ、えっと、そういうつもりじゃないんですけど」
話しながら、ちらちらと彼女の顔を見る。彼女は僕に気付いていないのだろうか。それもそうか。珍しいお客様だったから、たまたま僕の方が覚えていたというだけだ。彼女にとっては、何でもない日常に利用したレストランの従業員の一人、という認識だったのかもしれない。じゃあ、今声をかけてきたのは、たんなる偶然、なんだろうか。
「……その、お会いしましたよね?」と、問いかけてみればいい話だ。けれどその一言が、のどに引っかかった魚の小骨のように、僕の口から出ていかなかった。しどろもどろと応対し、ノートの貸し出しを了承して、僕らは連れ立って講堂を出た。
「それで、どこがいいかしら?」
数歩前を歩く彼女が振り向きながらそう尋ねてきた。
「えっと、一番近いコピー機なら、二階のテラス前ですけど。あ、あそこ混んでるかな」
「違うわ、食事の場所よ」
「食事?」
「この出会いを祝して、今夜のディナーをごちそうしないと」
「え?」
「ああ、もしかして私の手料理をご所望かしら。それなら自宅へ招待するけれど。君はどちらがいい? ちなみに私、一人暮らしよ」
もしやこの人は男をたぶらかすのが趣味なんだろうか。手あたり次第、目についた草食系男子を手ごまにしている類の人種かもしれない。
「いや、ノートくらい別にどうってことないですし、お礼なんていいですよ」
「私、お礼だなんて言っていないわよ」
「え」
「最近の若い男の子は育児がないのね。仕方がないわ、自宅はハードルが高いようだから、ホテルにしましょうか」
「ほ、ホテル?!」
「あら、今、君は一体何を想像したの?」
本当にもう、何なんだ、この人は。
「それもお気に召さないのね。だとしたら仕方がないわ。おすすめのレストランがあるの。そこなら文句ないでしょう?」
「あの」
「イタリアン、好きでしょう? ズッキーニの花の料理があるのよ。知っているかしら?」
彼女は真顔のままとんとんと話を続ける。
この人は誰だ? 本当に気が付いていないだけ? それとも小ばかにして遊んでいるのだろうか。僕はもう訳が分からなくなって、学生の行きかう通路の真ん中にへたり込んでしまった。
「ご、ごめんなさい」
そこで初めて、彼女は慌てたようにほんの少し言葉を詰まらせた。
「あまりに反応が良いから。つい、からかうのが面白くなってしまって」
「やっぱりからかってたんだ……」
「立てる?」
差し出された彼女の左手を掴み、僕はのろのろと立ち上がった。周囲の学生の視線がちくちく刺さる。痛い。でもそれ以上にこの不可解な人物の言動が、苦しい。胸の奥の、さらに奥、記憶の一番深いところに埋まったままの何かがうずくような息苦しさがあった。
「回りくどい言い方はやめにしましょう」
彼女はそう言って僕の手を引きながら、コピー機の前も、一階のエントランスも、講堂前の広場も突っ切って、とうとう大学の敷地外へ僕を連れ出した。
「ええ、そうよ。私、君とどうしても話がしたくて昨日、あのレストランへ行ったの」
一体どうして僕に興味を持ったのだろう。どこで僕を見つけたんだろう。
「どうしても君を連れ出したくて今日、講義が終わる頃を見計らって声をかけたの」
いつの間にか僕らは公園へと続く歩道に立っていた。野外イベントも開くことができる大規模な公園だ。彼女は歩道のわきに生えている生垣の途切れた部分から、木々の奥へと進んでいく。
僕は抗えなかった。抗う気が起きなかった。知らない人に付いていってはいけないと、幼い時分に母から言われた言葉を思い出す。
そうして少し開けた場所へ出た時、僕の右手は解放された。そこでやっと、僕らはずっと手をつないだままここまでやってきたのだと思い至った。よくそんな恥ずかしい格好に気が付かなかったものだ。
彼女は僕に向き直ると改めて、今度は右手を差し出した。
「私の名前は瓜生姫子。よろしく、天野淳君」
どうしてこんなところで? と疑問に思うよりも先に、彼女の背後に目がいった。そこにはかなり大きな、それでいてみすぼらしい木が一本生えていた。幹の感じに覚えがある。名前を知っている種類の木なのだろう。
葉の一枚もついていない枝は日よけにはならず、彼女のブラウスは陽光を反射して白く輝いて見えた。講堂の蛍光灯の下ではうっすらと透けていたオレンジ色は、今はもう見えない。その色を一瞬思い浮かべて、僕は背の高い木の正体を思い出した。
それは柿の木だった。田舎道を吹き抜ける風の青いにおいをかいだ気がした。
「はい、おしまい! 三分経ったし、姫子さんのターン終わり」
僕は火照る頬を片手で仰ぎながら、彼女のスマートフォンのアラームを止めた。
「あら、延長しても良かったのだけれど」
「もう、そうやって僕のことおもちゃにするのやめてよ」
「おもちゃだなんて、人聞きの悪い。恋人にしてもらいたくて、アピールしているつもりよ?」
「こっ、だ、だから、そういうのがさ」
質が悪い。
あの公園で自己紹介をされた日だってそうだった。急にしおらしく、からかったことを謝罪してきたと思ったら、そのまま流れるように僕は彼女から愛の告白を受けた。
「これは至極真面目な話よ。嘘だと言うのなら、何度だって私は君に真剣な告白をするわ。あの日、君の横顔を見た瞬間、胸が張り裂けそうな衝動に襲われたのだもの」
「張り裂けそうって、そんな大げさな。僕はそんな、取り立てていいところなんかないし……」
「世間が君を取り立てなくとも、私には十分よ」
「それって、褒めてるの?」
「もちろん。私は星屑のようにたくさんの人の中からでも、君だけを見つけられる」
「何かの歌詞みたいだね」
もしかして彼女は僕の前世を知っているのかもしれない。それでもって現世の僕を探し当てたのかもしれない。なんて、ドラマチックな映画の主人公になった自分を想像して、僕はひとり頬を染めた。
度重なる不自然な接触のせいで、彼女のことを怪しんだ僕だったけれど、ふたを開けてみればきっかけは単純だった。
以前友人に誘われて行った桜の花見会場で、僕と彼女は既に出会っていたのだ。
かなり大規模な集まりだった。確か延々とつなぎ合わせたブルーシートに、三百人くらいの参加者がひしめき合っていたと記憶している。十数人ごとに輪になって、配られた缶チューハイやコンビニおにぎりを手に暗くなるまで談笑していた。
その日僕の近くには土鍋とガスコンロを担いできた猛者がいて、突然の闇鍋が繰り広げられることになった。周辺の数グループを巻き込み、各々手持ちのおおよそ食べられるものが煮え立つ鍋にぶち込まれた。じゃんけんで最も少数派になった数人が口にするというルールだ。
「やべー! 今の絶対やばいもんだった!」
「キャー、ナニコレ、ナニコレ! 人の指っぽい! ヤバい!」
ああいう場ではたいていのリアクションは、魔法の呪文「やばい」で解決する。僕は運良く全てのじゃんけんで多数派に居続け、あれを口にすることはなかったから、その「やばい」の列には加わらずに済んだのだけれど。
あの混とんとした空間の、どの辺りに彼女は紛れこんでいたのだろう。彼女は果たして、あの鍋をつついただろうか。彼女があの鍋に入れたものは何だっただろう。
「においで分かるのよ」
彼女のその一言は、僕の浮ついた空想を追い払った。
「においの記憶ってね、一番強いのですって。だから絶対に間違えないの」
「え、姫子さん、またからかってるんでしょ。それって、僕が臭うってこと?」
血のにおいがした。不思議に思う。あれ?
確かに彼女の言う通り、嗅覚でとらえた感覚は強烈に僕の記憶を揺さぶった。
ズッキーニの畑から立ち込める青い匂い、柿の木を取り巻く土の香り、煮えたぎる鍋の熱せられた空気の風味、そしてこの、におい。
「あら、その顔。やっと思い出してくれたのかしら?」
「……僕は昔、あなたに会ったことがある」
「そうね」
「あの時の僕は皆に可愛がられて、大切にされて、それで」
うん、そうだ。
「『瓜子姫』って呼ばれていた」
彼女の笑みが広がっていく。
「そう、そうよ。良かった。思い出してくれたのね。本当に、良かった。やっとこれで」
これで――何だろう?
「私のことは思い出せる? ああ、その顔はもう、思い出しているわよね。私はその時、皆に疎まれて、蔑まれて、それでそう、『あまのじゃく』なんて呼ばれていたわ」
ここは彼女の部屋の中だ。脇にはチェス盤と彼女のスマートフォン、そして――
「えっと、その、近くない?」
「そう?」
しれっとした表情で長い髪をかき上げる彼女。両の拳を膝小僧の上に張り付けたまま身動きの取れない僕。ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。
うりゅうさんとあまのくん