
水溜り
この数年、六月になるとすぐに梅雨に入る。ずいぶん早い。今年も五日に気象庁が梅雨入り宣言をした。雨が降ると土の道には水溜りがあちこちにできたものだが、今の舗装されている道にはほとんどない。せいぜい舗装が壊れ、窪みができているところに少しばかり水が貯まっている程度である。それでも、紅絹(もみ)は高校へ行く道の脇で沢ガニがガマ蛙に向かってはさみを振りあげている場面に出くわしたりしたこともあった。
紅絹の住んでいるところは、新宿から京王線で四十分ほどの、かなり自然が残っているところだ。家は多摩動物園の裏手にあたる丘陵に造られた、南平台団地の中腹にある。高校は歩いて十分ほどで、とても近い。家を出て、熊野神社の石段を下り、少し歩くと高校へ向かうなだらかな坂道にでる。その道を少しのぼれば、高校の入口が見えてくる。途中にむかしマムシ谷と呼ばれていた丘陵公園がある。丘陵公園内には丸太づくりの、トイレが併設された事務所があり、昼間は管理の人がいる。紅絹は高校の帰りは、丘陵公園の中の山道を登り、多摩動物園の裏道を歩いて、南平台団地に降りる経路を通ることがある。さすがに夜暗くなってからは怖くて通れないが、夏は遅くまで明るく、お爺さんやお婆さんも散歩しているので、危ないこともない。秋にはいろいろな茸が生えていて面白い道である。
その日、紅絹は一人、生物部の部室で顕微鏡観察をしていた。多くの友達は電車通学なのでもう帰ってしまったが、家の近い紅絹は遅くまで部活をすることがある。
校庭の脇にできていた水溜りの水を採って調べていると、いつもは見たことのないようなミジンコがみつかった。紅絹は興奮してそのミジンコを観察していた。ミジンコにもいろいろあって、丸っこいタマミジンコの仲間や、細いからだのケンミジンコの仲間など、見ていて面白い。透明の殻をもち、心臓が動いている様子や、背中に抱えている卵がもぞもぞ動くのが透けて見える。紅絹はタマミジンコの心臓の動きを見るのが特に好きだった。自分の心臓の鼓動はドキドキといった音とともに感じることができるが、ミジンコの小さな心臓の早い動きは、コチコチと腕時計の秒針の音が聞こえてくるように紅絹には感じら、吸い込まれそうだと見ていた。
今日この顕微鏡下にいるタマミジンコは目が真っ赤で、心臓も赤い色をしてコチコチ動いている。目の色素が赤いミジンコなど図鑑にはのっていない。からだも赤っぽく普通のミジンコより大きいようだ。突然変異だろうか。
この赤いミジンコを飼って増やそうと思った紅絹は、スポイトを顕微鏡下のホールスライドグラスにあて、赤い目のミジンコを吸い取った。飼育用のガラスの容器に移すと、赤いミジンコは底に沈んで、やがて元気に動き出した。
もっといないかと、採ってきた水の中を調べたが、それ一匹だけである。何匹か捕まえたい。紅絹は小さな容器をもつと、薄暗くなった校庭にでた。もう一度水溜りからミジンコを採ってこようと思ったのだ。雨は止んでいる。
校庭のフェンス際にできた大きな水溜まりのところにいくと、紅絹は中をのぞいた。ミジンコは目でも見えないことはない。粉のようなものがちょっちょっと動いている。持ってきたスポイトで吸って容器に入れた。何回か繰り返したときである。ビチャッと水の跳ねる音がした。ガマガエルが水溜まりに飛び込んだかと顔を上げた。水溜りの真ん中から何か顔を出している。
中腰になっていた紅絹は、驚いた拍子にお尻を草地におとしてしまった。制服が濡れた。あわてて立ち上がり、水溜りを見てもっと驚いた。
水の中から、真っ赤な顔の猫が、黒い瞳の金色の目で紅絹を見ている。
「きゃ」
紅絹は小さく叫んだ。
赤い猫は水溜りからからだを持ち上げると、「ふーっ」と溜息をついた。
「なんなの」
紅絹は逃げだそうとした。
そのとき水溜まりから赤い炎があがった。
校庭が一瞬赤くなり、驚いて紅絹は立ち止まると後ろを振り返った。
赤い炎は水溜りから空に舞い、草の上に落ちて赤い猫に変わった。
赤い猫は身を震わせ、水しぶきを回りに飛ばした。おちつくと紅絹にむかって人のことばを発した。
「連れてってくれ」
低い男の声だった。大きな赤い猫は大きな目で紅絹を見た。
赤い猫が紅絹に近づいてくる。
紅絹はあわてて生物部の部室に向かおうとした。後ろから赤い猫が、
「採ったミジンコを忘れるな」と言った。
紅絹は水溜り脇に置いたミジンコの器を取りに戻り、校舎に向かった。
赤い猫も太い尾っぽを揺らして、のしのしとついてくる。
部室に戻った紅絹は、水槽の中に採ってきた水を流し込んだ。
あとから入ってきた赤い猫が水槽に近寄ると、中をのぞき込んだ。水槽の中がなにやらざわざわと蠢くと、ミジンコたちが赤い猫のほうに集まってきた。
「ふゃふゃふゃ」
赤い猫がおかしな笑い方をした。
「ほらルーペを持ってきて見てみろ」
紅絹は言われるままルーペを手にとった。水槽の中には赤っぽいミジンコがたくさんいた。明日先生に赤いミジンコのことを聞いてみよう。
「そうしろよ、俺は腹が減った、家に連れて行ってくれ」
赤い猫はあまえるように紅絹に言った。
紅絹はいつの間にかうなずいて帰り支度をしていた。
赤い猫は紅絹を従えるようにして部室を出た。赤い猫のぴんと立てられた太い尾っぽがふさふさと揺れる。夢のような気持ちで紅絹は赤い猫の後をついていった。
校門を出ると、家の方とは逆に、高校に沿って道を登って行く。先は突きあたりになってしまう。動物園脇に登る狭い道があるが、高校生は通ってはいけないことになっている。紅絹が校門で立ち止まっていると、赤い猫が振り向いた。
「動物園脇の道を通っていこう」
暗くなってきているし、怖いなと思っていると、
「大丈夫だ、俺がいる」と、赤い猫はさっさと歩いていく。
紅絹は赤い猫にひっぱられるように後を付いて行った。赤い猫はのっしのっしと細い山道をあがりはじめた。紅絹の家を知っているようだ。
大きな赤い猫が一緒だと怖さを感じない。まるで虎に守られているようだ。
動物園沿いの遊歩道にでると、高幡不動方面に向かった。少し歩くと南平台団地の13号通りになる。そこまで来ると怖くはない。そこから団地の下を通る北野街道にいく広い道をおり、途中の8号通りの入口を曲がって突き当たりに自分の家がある。
赤い猫は尾っぽをたてて、さっさと歩いていくと、紅絹の家の前で紅絹が来るのを待っている。
「先に入ってくれ」赤い猫が言った。
紅絹は玄関を開けると、「ただいま」と言った。キッチンから「お帰り」という母親の声がする。まだ七時前だ。少し遅くなることは言ってある。
二階の自分の部屋に行くと、赤い猫もついてきた。
赤い猫は「ほー片付いているな」、部屋の中を見回すと、ベッドの上で丸くなった「水溜りの中より寝心地がいい」、咽をごろごろ鳴らし始めた。
そこへ母親の緑が紅絹の部屋に上がってきて戸をたたいた。
赤い猫をどうしよう、そう思ったとき、母親はすでに中に入っていた。
「面白いミジンコいたの」
母の緑は小説家でもあり、面白そうな話がないかといつも紅絹の学校生活のことを聞く。
「うん」と返事をして、布団の上を見ると、猫は消えていた。どこに行ったのかわからないが、ほっとした。
「目もからだも赤いミジンコがいた」
そう言って紅絹が自分の部屋においてある水槽を見ると、飼っているミジンコに混じって、赤い点がちょちょっと動いている。
母親は水槽に目をやると、近づいて老眼鏡をかけ、「赤いのもってきたのね」と言った。母親はいつも紅絹にミジンコを見せられているので、かなり知識がある。
「うん」と曖昧に頷いた。
「どこにいたの」
「校庭の水溜りにいたんだ」
紅絹はそう答えたが、赤いミジンコが自分の水槽にいるのは不思議だ。赤い猫がもってきたのだろうか、赤い猫はどこに行ったのだろう。部屋の中にはいない。
「今日は紅絹が好きな茸オムレツよ、用意して降りてらっしゃい、お父さんは徹夜だって」そう言って母は下に戻った。
父親は雑誌の編集長をしていて、本の発行日が近くなると、とても忙しい。
紅絹はルーペで水槽の中の赤いミジンコを見た。高校の目の赤いミジンコよりもっと赤く、全身真っ赤である。おや眼が金色だ。ミジンコと目があった。と思ったとたん、赤いミジンコが水面に浮かび上がり、水槽から火柱があがった。紅絹は腰をぬかした。叫びそうになったとたん炎はベッドの上におち、赤い猫に変った。
「一休みさせてもらう、ご飯食べといで、俺のことは言うなよ」と丸くなった。
紅絹は天井を見た。焦げたような痕はなかった。
猫に近づき、頭に触れてみた。熱くはなかった。
赤い猫は「にゃ」と、目をすこし開けて紅絹を見ると、すぐに寝息をたてた。真っ赤な毛に触れると、羽毛のように柔らかく暖かかった。
紅絹は制服からジーンズに着替えて、キッチンに降りた。
母親とオムレツを食べ終わると、後片付けの手伝いをした。そのあと母親は自分の書斎に行き、紅絹は部屋に戻った。
赤い猫はどうしているかと戸を開けると、まだまん丸くなって気持ちよさそうに寝ている。近寄っても目を開けることはなく、ちょっぴりいびきもかいている。たまに赤い髭がピクピク動く。どうして水溜りから出てきたのかしら。紅絹はベッドに腰掛けた。そういえば猫はなにも食べてない。ミルクでも持ってこようか。背中をなでるとごろごろ喉をならし始めた。
丸くなっていた猫が、伸びをして、ベッドの上で長くなった。
お腹をなでると気持ちよさそうに、仰向きになって両手を長く伸ばし、万歳をした。
片目を開けた。
「よく寝た、オムレツは旨かったかい」
赤い猫はベッドの上に起きあがると顔を洗った。
「ご飯なにを食べるの」
「いらない」
そう言うと、窓に手をかけて、するすると開けた。「にゃああああお」と鳴くと、赤い猫は燃え上がり、炎となって西の夜空に飛んでいってしまった。
紅絹は夢だと思ったが、現実に窓が開いている。外をのぞくと、しとしとと雨が降っている。晴れていると彼女の部屋の窓から町の明かりが輝いて見える。特に冬の夜は星がきれいだ。梅雨に入ってからは、靄ってしまい、見えるのは家の影だけだ。
遠くで消防車や救急車のサイレンが聞こえる。
赤い猫などこの世にいないのだから妄想なか、自分が信じられなくなる。窓を閉めて水槽を見た。赤いミジンコはもういない。
なぜか寂しくなったが、明日の授業の教科書をそろえ、コンピューターを開いた。今日あったことを書いておく。紅絹は小学校の頃からPCに慣れていた。親が何台も持っていて、古くなったのをくれたことからうまく扱える。
書き終わったところで、布団に潜り込んだ。もう一時を過ぎている。
明くる朝、紅絹が目を覚ますと、足下が重い。顔をふとんから上げてみると、赤い猫が寝ていた。戻ってきたのだ。窓を見た。開いてはいない。
今日も雨模様のようた。朝日が恋しい。赤い猫はまん丸になっている。昼間に見ると、かわいい顔立ちをしている。紅絹は大きな赤い猫の手をなでた。前足の先をひっくり返してみると、肉球だけ黒かった。反対側も同じだった。後足の裏はどうだろうと見るとやはり黒かった。赤猫は上向けになると、手足を伸ばした。片目を開けて紅絹をみた。「腹をさすってくれ」と要求した。
紅絹がお腹にさわると、細い赤い毛が指に触れて気持ちがいい。
「ふわふわね」
紅絹が目を細めると、赤い猫がいきなりくるっと丸まった。あれっと思ったとき、お尻のほうから赤いものがでてきた。何だろうと見ると赤い子猫が一匹、手足をパタパタさせている。
赤ちゃんを産んだ、しかももう赤い毛が生えている。それにしてもこの赤猫は雄じゃなかったのかしら。紅絹は驚いた。赤い子猫は親猫のお乳に吸い付いている。お乳が張っているのが見える。
「あたい、今は女の子」
子供に乳を与えながら赤い猫が目を細めた。
紅絹は下に降りると、歯を磨いてキッチンに行った。お母さんはまだ起きてこない。だけどテーブルにはサンドイッチと、魔法瓶に入ったスープ、それにスクランブドエッグ、サラダが用意されている。徹夜で小説を書いて、そのまま紅絹の食事を作って、寝にいったのだ。よくあることである。
赤い猫が子猫を連れてキッチンに降りてきた。もう歩けるようになっていて、チョコチョコと後をついてくる。可愛い。
「旨そうなスクランブルドエッグだな」
赤い猫がテーブルの上を見た。
雄猫にもどっている。赤い子猫がつぶらな目を紅絹にむけて、にゃーと鳴いた。
「食べたいの」紅絹が聞くと、赤い猫は首を横に振った。
「ミルク飲む?」
親子の赤い猫はうなずいた。
紅絹は冷蔵庫から牛乳をとりだし、二つの皿に入れ、猫たちの前に置いた。
二匹の猫はペチャペチャとなめた。
「旨いな、ミルクは久しぶりだ」
飲み終わった子猫を紅絹は抱き上げた。
紅絹を見て、「ミュー」と鳴いた。かわいい。
下におろすと、「さーいくよ」と赤い猫は女の声になって、階段を上がっていく。子猫がピョコピョコと追いかけた。戸を開ける音がする。全くかわいい。
紅絹は食事をすますと自分の部屋にもどった。
当然ベッドの上で丸くなっているのかと思ったらいない。窓も開いていないので外にでたわけではないだろう。水槽をのぞいてみる。赤っぽい点が二つ、ピョコピョコ動いている。ルーペでのぞくと、大小の赤いミジンコが動いていた。
学校へ行く途中で、駅の反対側にすんでいる友達と一緒になった。
「昨日の夜中に、近くで火事があって怖かった」
「夜中にサイレンの音がしたけど、それだったんだ」
紅絹は赤い猫が外に出たときのことを思い出した。
「うん、隣の家だったんだよ、火事ってすごいね、家の真ん中からしゃーっと炎が空に向かってあがっていくんだよ、火の粉がうちの方に落ちてきて、外に逃げていたんだけど、わたしんちも燃えちゃうかと思った。父ちゃんと母ちゃんは大事なものを持ち出して、私と離れたところから見ていた、どうしょうもないものね」
「燃えちゃったの」
「それがね、燃えなかったの、火の粉がうちにバーって、落ちてきたら、すーっと、上に吸い上げられるように上って消えちゃった。後で、消防の人が,偶然風が吹いて、火の粉が吹き上げられたのだろうって言ってた、それで助かったの」
「よかったね」
「隣の家は全焼、だけど周りのうちは全く大丈夫だったの、こんなことは珍しいんだって」
友達の家は家が密集している住宅地にある。よく燃え広がらなかったものだ。
高校に着いたら、すぐに部室に行った。水たまりから採った赤目のミジンコたちは水槽の中で元気に動いている。
今日は三時間目に生物の授業があった。
生物の授業が終わって、先生に赤い目のミジンコの話をしたら、放課後に部室に来てくれることになった。
部室にはみんなも集まった。PCにつないだ拡大鏡で赤い目のミジンコを見た。先生が「珍しいね、きっと、ミジンコの色素異常じゃないかな」と説明をしてくれた。
黒い色素を作る遺伝子がおかしくなって、赤い色素を作る遺伝子が働いてしまったのではないか、と先生は言った。
「だけど、新しい種類かもしれないし、このミジンコが増えてくれれば面白いね」
ミジンコは何もないと雌だけで卵を生んで増えていく。だからこのミジンコの子どもは赤い目を持つ可能性がある。
紅絹は自分で考えていたことを先生に言ってみた。
「白子ではないのですか、白ウサギや白ネズミの目が赤いじゃないですか」
「うん、いいところに気がついたね、確かに白鼠や白兎の目が赤いね、あれは黒い色素がつくれないと、目の奥にある血管の赤血球が反射して赤く見えるのだよ、赤い血液の哺乳類だとそうなるんだ、習ったと思うけど、カニやエビ、ミジンコの血液は何色だった」
「あ、そうか、カニやエビの仲間の血液色素は緑色のヘモシアニンだ」
「そうだね、それに、血管はどうなっている」
「はい、開放血管系」
「うん、だから、白子でもミジンコは目が赤くなるということはないんだよ、ところがね、ミジンコの血液にヘモグロビンもあってね、酸素の運搬に関係しているんだ」
「でも、赤くみえない」
「血液が少ないからね、緑にも見えないだろう、もし水の中の酸素が減ると、ミジンコのからだの中にヘモグロビンが増えて、赤っぽくなるのだそうだよ」
それで生物部にミジンコ班を作ることにして、紅絹が班長になった。ミジンコの顕微鏡写真の撮り方を覚えて、いろいろな種類のミジンコを集めることと、この赤い目のミジンコを育てることが目的である。それに、水の中の酸素を少なくして、赤いミジンコをつくろうということになった。
紅絹が家に帰ると、ベッドの上で赤い猫と子猫が丸まっていた。紅絹が着替えていると、赤い猫のお腹の下から、もう一匹赤い子猫がはいでてきた。
紅絹を見上げてヨチヨチとそばに寄ってきた。
「また、子供産んだのかな」
紅絹は新しい子猫を抱き上げた。
「かわいい」
赤い子猫は目をきょろんとさせて紅絹を見る。紅絹が小さな頃に家に猫がいた。真っ白と真っ黒の二匹だが、名前は赤と朱だった。よく一緒に遊んでくれた記憶がある。確か母親に説教されて家出をしてしまった。いや、放浪の旅にでたのだと思うがも戻ってこない。母親が雄は旅にでてきたえなければだめ、と言ったら、出てってしまったのだ。今だと逆セクハラで訴えられる。もし生きていれば二十歳近いだろう。もうおじいさんだ。
新しい子猫が紅絹の鼻の頭を舐めた。
そこへお母さんが階段を上がってくる足音が聞こえた。紅絹がとまどっていると、赤い猫が目を開けて、二匹の子猫をいっぺんにくわえ、水槽に吸い込まれるように入ってしまった。赤いミジンコが三匹動いている。変わってしまったのだ。
「紅絹、今日ね、隣の南ヶ丘団地で建築中の家が焼けたのよ、すぐに消防車がきたので、全焼しなかったの、だけど建て替えなければならないわね」
「どうしたの」
「放火らしいの、気をつけなければ、そろそろご飯よ」
そういって下に降りていった。
キッチンに行くと、お父さんが帰っていた。もうウイスキーを飲んでいる。
「お、紅絹、面白いミジンコ見つけたんだってな、赤いミジンコってのは珍しいね」
「うん、でも、もしかすると、酸素不足で赤くなったのかもしれないんだって」
紅絹はお父さんに高校の先生が教えてくれたことを説明した。
「あとで、見せてくれよ」
「うん」
お母さんが料理を運んできた。今日はお父さんの好きな肉料理だ。といっても、生姜焼き、さいころステーキ、肉じゃが、牛肉の野菜炒め、手羽先の酢醤油煮、のどれかだ。今日は生姜焼きだ。まあ、どれもおいしい。
「お父さん、仕事一段落したの」
「ああ、編集が終わった。その校正が終われば、あとは印刷を待つだけだ、もっと暇になるな」
「ねえ、猫飼いたい」
紅絹がいきなり言ったので、お父さんもお母さんもびっくりした。
「急にどうしたの」
「うん、黒の赤と白の朱を思い出したの」
「あら、あの猫たちなら必ず帰ってくるわよ、お利口なのだから、きちんと教えたのよ、きっともうすぐ帰るわよ」
お母さんは全く楽天的だ。もう何年も帰ってこないのに。
「だがな、なぜ、出て行っちゃったんだろうな、いくらお母さんが、旅をしなさいって言っても、猫にゃわからんだろう」
「猫はね、人の言うことはみなわかるのよ」
お母さんは、妙なことがわかる人なのは紅絹もよく知っていた。書く小説も他の人には書けない妄想的なものである。
「猫って、白、黒、茶色しいかないでしょ」
「紫っぽいのや、グレー、もいるさ」
「茶色の虎模様の猫は赤猫って呼ばれるのよ」
「どうして」
「茶色がかっている犬なども赤犬っていうんだ、真っ赤ではないけどね、赤毛の馬は赤駒ともいうけど、赤みのある茶色の馬のことをいうことがあるね、赤栗毛などがそうだね、赤毛猿は褐色だね、茶色は赤色の仲間ということかな」
お父さんは編集をやっていることもあって、よく知っている。
「でも、真っ赤な猫って世界にもいないのでしょ」
「ああ、真っ赤なのはいないね」
うちにいるよと言いたいけど、言っちゃいけないと言われた。
「赤猫って知ってる、火事のことよ、しかも放火」
お母さんの言うことに、紅絹はびっくりした。
「犬もそうなのよ、赤犬って、放火のこと、赤馬も火事や放火のこと」
「火は赤いからそうなったの」
「そうね、赤猫はひどいのよ、放火する人が猫に火をつけて、家に放り込んだのよ、猫はかわいそうね」
「赤猫って、火をつけるのね」
紅絹は心配になってきた。
「猫が悪いんじゃないわよ、人が悪いの」
「昨日も今日も、近くで火事があったけど、心配」
「ここのところ、なかったのにね」
お父さんは、生姜焼きでご飯を食べている。
お母さんが、食べ終わって、流しのところで鼻歌を歌っている。どこかで聞いたような曲だ。お母さんはいつも突拍子もなく歌い出す。紅絹が母親を見ていると、お父さんが「不幸せな猫っていう歌だよ」と教えてくれた。浅川マキって人が歌っていた歌らしい。題名を聞いたらますます自分の部屋にいる赤い猫が気になった。
「宿題があるの、部屋に行くね、お父さんミジンコ見る」
「またでいいよ」
紅絹は二階に上がった。赤い猫と二匹の子供はベッドの上で丸くなって寝ている。
かわいい。こんなかわいい猫たちが、放火などするわけはない。
宿題があるのは本当だった。紅絹は急いで宿題を終わらせると、ずいぶん早くにベッドに入った。赤い猫と二匹の子猫が布団の上にいる。いつか赤い猫にいろいろ聞いてみよう。
朝、起きるとすでに、赤い猫たちは赤いミジンコになって水槽の中にいた。
高校の部活ではみんなで赤いミジンコを作る方法を考えた。水の中の酸素を少なくすればいいわけである。プランクトンが増えすぎると、水中の酸素が少なくなって、魚が死んでしまうと、教科書にも書いてあった。だけど、そのプランクトンをどのように捕まえて、増やしたらいいかわからない。物理の得意な男子が、鉄を水に入れておくと、さびて水の酸素をつかっちゃうよ、と言った。みんながそれやってみようよ、と同意したので、金物を水槽に入れて、タマミジンコを入れてみた。だけどミジンコは金属が入った水の中で生きていけるのだろうか。先生が言うには、上手くいくかどうかわからんな、うまくいってもすぐには変化がないだろうということなので、一週間おいておくことにしたが、ミジンコが死にそうになったらやめると決めた。
その日、家に帰ると、赤い猫はいなかった。水槽の中の赤いミジンコは二匹だけだ。親猫はどこかに行っているのだろう。放火なんかしないだろうと思っていたけれど、まだ心配だった。なにせ、赤い猫なんてこの世にいるのが不思議だ。
夜中、もう十二時を過ぎていた。紅絹がベッドの中で本を読んでいたときに、いきなり窓が開き、カーテンが開いた。真っ赤な顔をした大きな猫が、部屋に飛び込んできた。その後から三匹の赤い子猫が入ってきた。赤い猫は部屋の隅に行くと、横になって、大きなあくびをした。牙も真っ赤だった。三匹の子猫が赤い猫のお乳にすいついて、ドクドクと音を立てて飲んでいる。赤い猫は今、雌になっている。
紅絹が見ていると、赤い猫のお尻から、赤い子猫が次々と生まれた。三匹も生まれた。生まれたばかりの三匹の赤ちゃんは、母さん猫のお腹のところにはいはいしてきた。お乳をすっていた三匹の子猫が吸うのをやめ、生まれたばかりの赤ちゃんに乳首をあけわたした。赤ちゃんは乳を吸うと、見る間に大きくなって、前の三匹と同じ大きさになった。
赤い母猫は「今日はベッドの上で寝かせておくれ」と、疲れた様子で紅絹の足下で丸くなった。子猫もそばで丸くなった。赤い子猫だらけだ。
紅絹は手を伸ばすと、赤い子猫を一匹拾い上げ、自分の布団の中にいれた。赤い子猫はおとなしく紅絹の脇にくっついて眠った。
こんなにかわいい猫が、火付けなどするわけがない、そう思って眠りについた。
明くる朝、お母さんが「隣の団地で放火があってね、二軒も燃えたんだって、だけど、急に竜巻が起きて、火が上に上っていってまわりに散らなかったので、二軒だけですんだんだって」
「隣の団地って、友達がいる」
「誰」
「由美ちゃん、三番地」
「その辺りよ、だけど怪我人はいないんだって」
「何時頃なの」
「夜中の十二時過ぎよ」
紅絹はどきっとした。赤い猫が帰ってきたときだ。
高校に行くと、弓美ちゃんがもう来ていた。左のほっぺたに擦り傷があった。
「どうしたの」
「昨日ね、放火されちゃったの、家焼けちゃった」
「よく高校にこれたね」
「うん、お父さんが、とりあえず行きなさいって、先生には連絡してあるの」
「お父さんとお母さんはどうしているの」
弓美ちゃんは一人っ子だ。
「今日は、隣の駅の親戚に泊まるの」
「ほっぺた怪我をしたのね、大丈夫」
「うん、死ぬかと思った、火がばーっとあがってきて、私二階で寝ていたの、火がわーっと襲ってきたのよ、顔のそばに来て、熱いと思ったそのときね、炎がすーっと何かに吸い取られていって、私から遠ざかっていったの」
「それなんなの」
「わかんない、空に浮かんだ赤い塊が炎を吸いこんでいたの、それでその隙に私、窓から屋根の上に出たの、隣のおじさんが手を貸してくれて、屋根からぶら下がって降りたの、その時ほっぺた擦っちゃった」
「赤い塊ってなんだったのかな」
「わからないわ、だけど大きな猫の顔が見えたような気がしたの」
紅絹はそれを聞いて、また何がなんだか分からなくなった。
「お母さんから高校に電話があったら、私、いとこのうちに行くことになってるの」
「大変だったのね」
「ミジンコも見たいけど、しょうがないわ、紅絹たのむね」
「うん」
弓美ちゃんは生物部のミジンコ班で一緒にやっている。
その日はもう一人の子も風邪ぎみだったので、一人でミジンコの観察を行なって、いつもより早く家に帰った。
家に入ったとたんカレーの香りが漂ってきた。キッチンにいたお母さんに「弓美ちゃんの家が燃えたんだって」、と報告した。
「うん、PTAの人から連絡があったのよ、大変だったわね、でも、酷くならなくてよかったという話よ、風が強い割には、早く火が治まったらしいの」
「ふうん」
紅絹は二階に行った。赤い猫はベッドの上にいなかった。水槽をみると赤いミジンコが九匹、ピョコピョコと動いていた。
「弓美ちゃんが赤い猫ちゃん見たみたい、あなたなの」
赤いミジンコに話しかけた。紅絹は赤い猫が火をつけたのでなければいいなと思っていた。
そのとき、水槽から赤い炎がポッポッとでると、八匹の赤い子猫が現れて、紅絹の足に擦りついた。一匹ずつ抱き上げて顔を見ると、「みゃあ」とかわいい声をだした。今度は水面から大きな炎が吹き出すと、親の赤い猫がベッドの上におちゃんこをして、「お帰り」と言った。弓美ちゃんが見た猫のことを聞こうと思っていると、下でお母さんが「ご飯できたわよ」と叫んだ。
子猫たちは親猫の周りに集まると、身繕いを始めた。
着替えてキッチンに行くとカレーができていた。
「お父さん、今日は遅くなるので食べてくるって」
お母さんのカレーはとても辛いときと、あまり辛くないときがある。お父さんがいるときは辛い。やっぱり今日は辛くなかった。牛肉がたくさんはいっているので、結構ボリュウムがあっておいしい。お母さんも肉が好きだ。
家の前の道をちんちんちんと鐘をならしながら車が通っていくのが聞こえた。
「放火が多いので、消防団の人たちが見回りしているのよ」
「高校でも気を付けるって言ってた、セキュリティーの会社にたのんで、この一月は夜の見回りをしてもらうんだって」
「うちも気をつけましょうね、火の始末も大事だけど、家の外に燃えやすい物など置かないようにしなくちゃ」
「ねえ、猫ちゃん飼いたい」
「白と黒がもどってくるわよ」
お母さんはしれっと言うけれど、あまり信じられない。
「ミジンコの様子はどうなの」
「私のミジンコは元気、高校の目の赤いミジンコも元気、酸素を減らしたけどミジンコはまだ赤くならないの、一週間はかかるって、今度の月曜日あたりよ」
「そうそう、月曜日っていえば、お父さんと神戸に行かなければならないの、一泊する予定よ、お父さんの出している雑誌の集まりがあるの」
お父さんの作っている雑誌は「紅い猫」という、幻想小説の専門誌である。たまにそのファンの集いがあって二人で出かける。お母さんはその雑誌でデビューをした小説家だ。
「うん、わかった」
食べて部屋に戻ると赤い子猫が遊んでいた。紅絹が勉強机の前に座ると、子猫たちが机の上によじ登ったり、紅絹の肩にのっかったり大騒ぎである。
紅絹は携帯で写真を撮ろうと構えた。すると子猫たちが、ベッドの上にいる親猫の脇にずらりとお行儀よく並んだ。記念写真を撮ってほしいようだ。
何枚か写真を撮ると、親猫と一緒に布団の上でみんな丸くなった。紅絹はそんな様子も写真に撮った。
次の日、高校で携帯の写真を友達に見せようと、撮った写真を画面に呼び出した。ところが赤い猫は写っていなかった。赤いミジンコが水槽の中で横一列に並んだ写真がでてきた。
月曜になった。お父さんとお母さんは神戸に出かけた。
放課後になると、紅絹は友達とミジンコの水槽の前で歓声を上げていた。鉄を入れておいた水槽のすべてのミジンコが赤っぽくなっていたからだ。はじめてから一週間経ったのだ。実験は成功した。それに赤い目のタマミジンコも増えて、水槽の中でピョコピョコ動いている。
紅絹は機嫌よく家に帰った。今日はお母さんがいない。自分で料理をしようとはりきっていた。といってもできるのは目玉焼ぐらいだ。
自分の部屋に行くと、赤い猫たちが待っていた。みんなで「お帰り」と言った。
鞄をおいてジーンズに着替えるとキッチンに降りた。赤い猫たちもぞろぞろと降りてきて、キッチンや居間を歩き回った。猫たちにミルクを用意すると、おいしそうにペチャペチャなめた。
ご飯は炊けている。目玉焼きを作ろう。冷蔵庫から卵を二つ取り出し、フライパンに油を引いて、火をつけた。そのとき、居間の入り口にある電話が鳴った。あわてて、火を消してかけていくと受話器を取った。生命会社からの勧誘電話だった。親がいないと電話を切ってキッチンに戻ると、大変なことになっていた。
消したつもりだったが、フライパンから大きな炎があがっていた。おまけに、紅絹が走ったときに、脇に置いてあったティッシュの紙が飛んで、フライパンの端に引っかかり、燃え上がっている。
「きゃああ、火事」
紅絹は訳が分からなくなり、棒立ちになっていると、赤い猫たちがやってきて、にゃああああと大きな声で鳴いた。すると、天井に届きそうになっていた炎が、猫たちの口にすーっと吸い込まれた。炎はどんどん小さくなっていき、子猫たちは膨らんで、大人の猫の大きさになった。
「早くガスを止めなさい」
親の赤い猫が言った。われにかえった紅絹はガスコンロを切って泣き出した。
泣きながら「ありがとう」と言った。
このとき、紅絹は赤い猫が火を付けるのではなくて、火を吸い込んで消していたことを知った。炎を吸い込むとからだが大きくなり、さらに大きくなって子供を産むのだろう。火事が起こるとそこに駆けつけて、消火の手助けをしていたのだ。弓美ちゃんも赤い猫に助けられたのだ。わたしも。
九匹の赤い猫たちが紅絹を取り囲んだ。猫たちの頭をなでた。親の赤い猫がいった。
「俺たちの役目は終わったよ、さあ、目玉焼きを作りなよ、大丈夫だから、俺たちにもちょっとおくれ」
赤い猫たちはキッチンのテーブルの上に一列に並んだ。
紅絹はやっと立ち上がって、目玉焼きを作り始めた。いっぺんに二つ焼いた。猫たちはおいしそうに目玉焼きを食べた。最後に焼いた目玉焼きの片目を親の赤い猫にあげた。半分は自分が食べた。
「目玉焼き上手になったな」
親の赤い猫が笑った。
「俺たちは明日の朝、ミジンコに戻るから水溜りに戻してくれないか」
それから、紅絹は夜遅くまで、猫たちとテレビをみたり、一緒にお風呂に入ったり、大騒ぎをした。
寝たのは二時だった。
朝起きると、赤い猫たちが顔を洗っていた。
「いっちゃうの」
「ああ、他に行かなければならないところがたくさんあるからな」
「もう会えないの」
「写真撮ったじゃないか」
「でも、ミジンコが写っていた」
「自分の部屋で見てごらん」
紅絹は携帯を開けた。赤い猫が一列になっている。
紅絹が笑顔になった。「写ってる」と顔を上げると、赤い猫たちは笑いながら、すーっと水槽に入って赤いミジンコになった。
紅絹は瓶に赤いミジンコを入れると、早めに高校に行って、校庭の隅の水溜りに放した。赤いミジンコは列をなして、泳いで行ってしまった。
紅絹は見えなくなるまで見送った。ちょっと、いや、かなり寂しい。
学校を終えて家に戻ると、お母さんとお父さんがもどっていた。
「神戸牛を買ってきたから、今日はステーキ、昨日はなにを食べたの」
「目玉焼き作った」
「やっぱりね、失敗したのでしょう、卵がたくさんなくなっていたわね」
紅絹は黙って横を向いて舌を出した。
すると、居間の方から、にゃーという猫の声がした。赤い猫が戻ったのかと思った紅絹が走っていくと、ソファーに腰をかけて新聞を読んでいたお父さんの脇に、堂々とした真っ黒い猫と、真っ白い猫がいた。
二匹の猫は一斉に紅絹を見た。久しぶりというように。
「赤と朱、帰ってきたんだ」
紅絹の声がつまった。
「神戸から帰ってきたら、家の前にいたんだよ、お母さんが言っていたようにもどってきたんだ」
お父さんが新聞を畳んだ。
「年取ったけど、立派よね、どこに行っていたのかしらね」
お母さんがキッチンから言った。
赤と朱はソファーから飛び降りると、紅絹に向かってのそのそと歩いてきた。笑っている。きっと赤い猫に帰るように言われたんだ。紅絹はそう思った。白い猫と黒い猫が紅絹の足に擦りついた。
水溜り
私家版赤猫幻想小説集「赤い猫、2019、279p、一粒書房」所収
木版画:著者