部屋

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「やっぱりおかしい」

 追っ手から逃れてこの街にきた君がこの部屋に住むようになって、そろそろ半月ほど経つ。築五〇年ほどにもなる古い木造アパートで、天井や壁にもところどころシミやヒビがある。だが、どうやら東側の壁についている大き目のシミの形が微妙に変化しているようなのだ。シミが広がっているとかそういうことではなく、形が変わっている。確信はないが、たぶん間違いないと思う。
 三〇センチほどの茶色っぽいシミで、入居した最初の頃は横長の歪んだ楕円のような形だったが、今は縦長のきれいな卵型に見える。どうにも不可解に思えるので、念のため君はそのシミをスマホで写しておいた。このスマホはキャリアとの契約が切れて通信機能は失われているが、カメラ機能は問題なく使える。

 だが、その写した画像はほとんど意味がなかった。なぜなら、その数日後にはまたシミの形が変わっていたからだ。丸い縦長の輪郭はそのままだったが、その中に目玉のような二つの黒い点が現れたのだ。
 その翌日には口のような横長の黒いシミが現れた。シミュラクラ現象というのだろうか、明らかに人の顔に見える。

「これは一体どういうことだろうか?」

 気持ちが悪い現象だが、かといってどうすることもできず、ただ日々シミの変化を見守るだけだったが…
…ある夜、そのシミから声が聞こえた気がした。声はこう言った。
「あと十日」
 いやいや、こんなものは単なる空耳に違いないと君は考えた。どう考えてもこんなところから声が聞こえるわけがない。そもそもこの部屋は角部屋で、この壁の向こうは外だ。そちら側は狭い隙間の向こうに厚いブロック塀があって、そこに人がいるはずもない。

 だが次の夜、シミはこう言った。
「あと九日」
 これも聞き間違いだろうと君は自分に言い聞かせ、あえて無視していたが、その四日後の「あと五日」の声を聞いたとき、急激に危機感を持った。君はこの部屋から逃げることもできないため、壁をゴシゴシと拭いてみた。だが、どんな洗剤を使っても、どれだけ磨いてもシミが消えることはなかった。仕方なく、壁のその部分に紙を貼って隠した。
 しかし、翌日もその紙を越して声は聞こえてきた。
「あと四日」
 声の告げる日数は日々進んでゆく。
「あと三日」
「あと二日」
「明日」

 そして翌朝、突然訪問者がやって来た。一瞬、ついに追っ手がここまで来たかと思ったのだが、全然違った。チェーン越しに隙間から覗くと、それは君の知らない初老のセールスマン風の男だった。何かの罠かもしれないと思ったが、あえて話を聞いてみたが何かを売ろうとしているわけではないようだ。契約書のような紙を一枚隙間から差し入れ、
「これにサインしてください」と言った。
「これは何ですか?」
「読んでいただければわかります」
 さっそく読んでみようとしたが、奇妙で難解な文章だった。個々のフレーズの意味は難しくないが、全体では意味がつかめない。何かの暗号だろうか。
「難しいことが書いてありますが…」
「今ここですぐというわけではありません。今日中に読んでサインしていただければ問題ありません。しかし、必ず今日中にお願いします。必ずですよ」
「サインしたらどうやってお渡しすればよいのですか」
「いえ、そのままご自身で大切に保管しておいていただければそれで結構です」
 そう言って訪問者は帰っていった。

 変な話だと思いつつ、君は難解な文章をどうにか読み解こうとした。だが、何度読み返してもさっぱりわからない。そのまま午後になり、夕方になり、君は疲れてそのまま寝てしまった。
 夜、壁のシミが言った。
「時間だ」
 その声で君は眼を覚まし、そして唐突に理解した。これは世界の存続を更新する手続きの書面ではないか。
 しまった、まだサインしてない。早くしなければ…

 だが、遅かった。

 世界は滅亡した。

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  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-30

CC BY-NC-SA
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