虚妄の世界


 多くの生徒が睡魔と格闘しているであろう五時間目。例に漏れず僕も無残に敗北し、その意識をどこか遠くに飛ばしていた。当然のごとく、それに気付いた教師は教科書を持ったままこちらに歩いてきて、その足音で目が覚めたのだが、時すでに遅し。
 僕の頭に分厚い現国の教科書が振り落とされたのだった。
「眠いのはよくわかる。だが、眠らない努力をしろ」
 と彼は言った。いや、わかっていない。本当に眠いときは、眠いと感じる間もなく寝てしまっているもので、努力のしようがない。睡魔の不意打ちに反応できるはずもないだろう。しかし、それを言ったところでたんこぶが増えるのが関の山だ。僕はわかりましたと返事をし、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「ところで先生、頭の上のものは何ですか?」
 途端に教室中に笑いが巻き起こった。教師は教科書を持っていない右手で自分の頭を触り、次いで左手の教科書を再び僕の頭に振り下ろした。僕は訳が分からず、その理由を思案する。数秒後、思い至った。
 この教師、髪が浮き上がっているように見えることからカツラだと噂になっているのだ。その真偽は定かではないが、おそらく僕がそのことについて言ったのだと判断されたのだろう。
 もちろんそんなつもりで言ったのではない。だが今弁明したところで逆効果にしかならないので、僕はもう黙っておくことにした。 ところで、僕が本当に聞きたかったことはというと、だ。
 教師の頭上に浮かんでいたそれは、電流計のようなものだった。古い、昭和あたりのラジオのような形状をしており、その中心にはメーターのような目盛りと一本の針が立っていた。
 周囲を見渡してみると、驚くべきことにクラスメイト全員の頭上にそれと同じものが浮かんでいた。眠りに落ちるまではこんなものなかった。そして、僕以外誰も見えていない様子からまだ寝ぼけているのだという結論に至り、気にせず真面目に授業を受けた。
 現在やっているのは、アルベール・カミュの『異邦人』だ。

『――これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの黒い息吹が私の方へ立ち上がって来る。』

 黒板に書かれたこの一文の中の「虚妄」という二文字が、なぜか僕の脳裏に焼き付いて永遠に離れることはなかった。


 授業が終わり、休み時間が終わり、再び授業があり、掃除があり、HRが終わっても、みんなの頭上に浮かぶそれが消えることは一向になかった。
 この数時間で、いくつかの発見があった。人が何かを話すとき、その人の頭上の針が揺れることがあるのだ。その振れ幅はさまざまだが、決まって疑わしい話をするときに針が振れていることに気付いた。だから僕は、この針が動くときはその人が事実と異なることを言っているのではないかという仮説に行き着いた。これが本当なのか確かめるため、放課後、友人の話をいつも以上に真剣に聞いていた。
「そういや真(まこと)、郷枝(さとえ)すげぇ怒ってたぜ」
 そう言った彼の頭上の針が振れていたことを確認し、
「まじかよ!」
 と驚いておく。ちなみに真は僕の名前だ。儀禅(ぎぜん)真、というのが僕のフルネーム。ついでに郷枝は現国教師の名だ。もう一つついでに、この友達の名を浦木実(うらきみのる)という。
 実は笑いながら僕の背中を叩いた。
「冗談に決まってるだろ。あの人意外と怒らない先生だから大丈夫だって」
 決まりだ。彼が言ったことは冗談――つまり事実ではない。これで僕の仮説は確信に変わった。この計測器のようなものは、僕にしか見えない嘘発見器なのだ。僕はこれを虚言計と呼ぶことにした。
 素晴らしい能力を手に入れた。このときはまだ、そう思っていた。
「真いるー?」
 教室に一人の女子生徒が入ってきた。彼女の名前は雨鳥瑠凪(あまどりるな)。三ヵ月ほど前から付き合っている、僕の彼女だ。一緒に帰るため、彼女の部活動が終わるまでここで待っていたのである。彼女は野球部のマネージャーをやっていて、そのリーダーを務めている。
「じゃ、実、またな」
「おう」
 実は僕に手を振ると、鞄から本を取り出して読み始める。教室に残る彼を背に、僕は瑠凪と共に昇降口へと向かった。


 恋愛において、三ヵ月は節目であると言われている。おおよそ三ヵ月で相手に飽き始めるかららしい。例に漏れず、僕と瑠凪も少々不仲になっていた。最近は一緒に帰っているものの、あまり話が弾まないことが多い。今日もほとんど話さないまま、微妙な距離感を保って歩いていた。
 すると、どこからか水滴の落ちる音が聞こえ始めた。その音は少しづつ増え、僕らの身体を濡らし始めた。
「雨、降ってきたね」
 瑠凪は呟くと、鞄の中から折り畳み傘を取り出した。そして、僕が鞄に触ろうとしないことから傘を持ってないことに気付いた彼女は、
「もう、仕方ないなあ」
 と自分の傘に僕を入れてくれた。小さく礼を言うと、彼女の厚意に甘んじる。ふと、確かめたくて僕は呟いた。
「ねぇ瑠凪、僕のこと今でも好き?」
 相手の発言の真偽が分かるのでその返答によって傷ついてしまう可能性があることを、今の僕はまったく考慮していなかった。
 ほんのわずかな逡巡のあと、彼女は答えた。
「うん、好きだよ」
 針が微かに揺れていた。
 その事実は僕の心を揺らすのに十分だった。自分の目が信じられなかった僕は、再び尋ねる。
「本当に?」
 そんな僕を鬱陶しく思ったのか、彼女の笑顔が少しひきつったように見えた。
「本当だって」
 やはり、針は揺れていた。精神的に衝撃を受けた僕は、冷静さを失ってしまった。
「嘘だ……。針が……」
 そんな僕の呟きを耳にした彼女は怪訝な表情を浮かべる。
「針? 何言ってるの?」
 彼女に虚言計は見えていないのだから、こんなことを言ったって変に思われるだけなのに、感情的になって続きを叫んでしまう。
「針が揺れたから嘘なんだ!」
 僕の言葉を聞いた彼女は、まるでドライアイスのように冷たい目を向けた。
「……何それ。わけわかんない」
 そう吐き捨てると、彼女は走り去った。
 真っ黒な雲から降り注ぐ雨が、遮るものを失った僕の身体を容赦なく濡らしてきた。


 翌日、僕は熱を出して学校を休んだ。原因は、雨に濡れながら帰ったことだけではないような気がする。
 僕は床に臥したまま、昨日のことを考えていた。なぜあのとき虚言計のことを口に出してしまったのだろう。口に出してしまわなければ、まだ彼女とは続いていたかもしれない。そもそも、虚言計がなければ少なくとも今は関係が変わることは無かった。
 ふと、彼女の針の振れ幅が非常に小さかったことを思い出した。そして、これまで見てきた人の針の振れ幅とその台詞の関係性について思いを巡らせる。
 ――針の振れ幅は、その台詞の事実と異なる度合いのようなものを表しているのではないか?
 そんな結論に至った。だとすると、彼女の言葉はほぼ真実だったのに、僕が勝手に嘘だと判断したことになる。なんだ、悪いのは僕じゃないか。
 明日、彼女に謝ることにしよう。それでヨリを戻そうなんて虫のいいことは考えていない。僕は嫌われて当然のことをしてしまったのだから。
 決意して、僕は眠りについた。


 教室のドアを開けると、多くの視線が一斉に集まった。そして僕だとわかると、すぐに顔を背けたり視線を落としたり友達との会話に戻ったりした。
 教室の隅では数人の男子生徒が固まっており、こちらを見て邪悪な笑みを浮かべていた。訝しげに思いながらも自分の席へと向かうと、信じがたいものを目にした。
「なんだよ……これ……」
 僕の机の中には大量のゴミが詰め込まれていて、椅子には水のりがべったりと固まっていた。立ちすくんでいた僕に、声がかかる。
「どうした? 座らないのか?」
 声の主は飯締将斗(いいじめまさと)。教室の隅に固まっている奴らのリーダー格の男だ。すぐに犯人は彼だと分かった。なぜなら、彼は普段僕に話しかけてくるような人間ではないだからだ。こんなときだけ声をかけてくるなんて、明らかに不自然である。
「俺がやったと思ってるのか? 違ぇよ」
 彼を睨む僕に、そう吐き捨てる。だが、針はこれ以上ないほど大きく振れていた。このことが、振れ幅と嘘の度合いとの関係、そして彼が犯人であることを決定的に裏付けた。
 周りのクラスメイト達は、揃って僕と将斗を視界に入れないようにしていた。


飯締将斗は野球部に所属している。素行は良くなかったが、実力はあるので誰も何も言えず、また教師にはバレないようにやる狡猾な男だった。そしておそらく、彼はマネージャーである瑠凪に好意を抱いていた。僕が付き合い始めてから、直接手を挙げることはしなかったがよく睨んできたことから推測した。今回、僕が彼女を傷つけたことを知ってこんなことをしてきたに違いない。
「朝はよくも睨んできやがったな」
 放課後、将斗とその仲間に絡まれた。それを見たクラスメイト達はそそくさと教室を出て行く。僕を助けようなんていう人は残念ながらいなかった。一分と経たずに、室内に残された生徒は僕と敵意むき出しの獣たちだけになった。
「何か言えよ? 謝るなら今のうちだぞ」
 仲間の一人が言う。一体誰に何を謝れって言うんだ。それに針が振れている。仮に謝ったところで許す気なんて毛頭ないってことがバレバレだ。
 何も答えずただ睨みつけるだけの僕に腹が立ったのか、将斗が近づいてきて僕の胸倉を掴んだ。
「むかつくんだよ、何もかも」
 その苛立ちが瑠凪との交際のことを指すのか、彼女を傷つけたことを指すのか、もしくは僕が睨みつけたことを指すのかはわからない。
 次の瞬間、僕の鳩尾に彼の膝がめり込んだ。そして僕にせき込む暇も与えず、足の裏で蹴りつける。僕は後ろにあった机や椅子を巻き込みながら倒れた。
 そんな僕を冷たい目で見下ろし、将斗は行くぞ、と仲間を連れて去った。
「いって……」
 倒してしまった机と椅子を並べながら、僕は夕日に照らされて長く伸びた自らの黒い影を見下ろす。傷だらけの僕の影は、しかし今日もいつもと同じだった。
 すべて並べ終えた頃、教室に実が入ってきた。
「どうしたんだよ、その怪我」
 なぜか針が振れていた。彼は理由を知ったうえで知らないふりをしている、ということだろうか。その真意を図ることはできないが、知っているのならわざわざ言う必要もない。ちょっとね、と曖昧にお茶を濁した。
「ま、何かあったら言えよ」
 そう言って彼が浮かべた笑みは、僕には不気味なものに見えた。
「俺たち、友達じゃん」
 針が、振れていた。体が震え出す。なんでだ。どうしてなんだ。僕は唇を噛みしめると、教室を走り出た。
「あ、おい、待てよ!」
 後ろから何か聞こえたが、そんな化け物の制止を振り切って僕は走った。


 十分ほど走っただろうか。無我夢中で走っていたが、無意識のうちに家へと向かう帰路を辿っていたようだ。
 仕事帰りのサラリーマンが、下校中の中学生が、はたまたデート中のカップルが一斉に歩き出したスクランブル交差点に、僕はいた。
 周りから聞こえる無数の話し声。それを発する者たちの頭上に浮かぶ虚言計に目をやると、そのほとんどの針が、振れ幅に差はあれど振れていた。
 信号が変わったことを伝える『とおりゃんせ』の音楽がいやに頭に響いてくる。まるでどこか異世界にでも迷い込んだかのような錯覚がした。
 虚妄。
 その二文字が僕の脳裏に忽然と現れる。そして僕は気付いてしまった。

 ――そうか。僕が今まで知らなかっただけで、最初からこの世界は欺瞞に満ち溢れていたんだ。

 ふいに、周囲の音が止んだ。清々しいほどの凪。直後、僕の視界に入ったのは、血塗れになった僕を見て騒ぐ群衆と、車から降りて青ざめた顔で叫ぶ運転手だった。


 すぐに病院に搬送された僕の元に飛んできたのは、母だった。ストレッチャーで運ばれる僕を見て、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら何か叫んでいる。
 その頭上の針を確認した僕は、深く安堵して目を瞑った。

虚妄の世界

虚妄の世界

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-30

Copyrighted
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