ある夏の日曜日

私────日向葵(ひなたあおい)は、自分の名前の由来となる花・向日葵(ひまわり)と、漢字を並べかえるとそうなるように名付けてくれた父親のことを嫌っていました。理由は、私が中学生だった頃に遡ります。
私は勉強・運動がよくできるうえ、自分で言うのも何ですが、クラスで一、二を争うほどの容姿を持ち合わせていたため、入学した当初は周りの注目の的でした。しかし、何でもできる私を嫉む者は徐々に増えていき、いつの間にか私はいじめの的へと変わっていました。
最初は無視や机への落書きといった些細なものばかりだったので歯牙にもかけなかったのですが、その態度が更に不興を買ってしまい、いじめは悪化していきました。
そして、私の父が以前戦争に反対していた非国民だという扱いを受けていた、という過去の露見を皮切りに、その悪質さは最高潮に達しました。この国が戦争をしていたのは私たちが生まれる以前のことであり、この当時ではもう父はそのように差別されてはいなかったのですが、誰かの親が酔っ払って口を滑らせたのか、この話は私を目の敵にしていた者たちの耳に入りました。
おそらく彼らにとって、この事実そのものはどうでもよかったのだと思います。ただ私をいじめる大義名分のようなものを欲していただけであり、たまたまそれがこの話だっただけなのです。
ともかく、彼らはそうやって私への物理的な攻撃を始めました。私は誰かの私物が紛失すれば必ず濡れ衣を着せられ、「制裁」という名の暴力を受けたり、目が合うだけで生意気だと蹴られ、すれ違いざまに肩をぶつけられたりしました。
そしてある日、誰かが言いました。
「日向葵って名前、漢字を並べかえると向日葵になるんだって」
 その発言から、私へのいじめの中に向日葵の花を用いたものが追加されました。朝学校に来ると、机の上に干からびた向日葵が置かれていたり、わざと私の目の前で向日葵を引き千切ったり、といったものです。そして、花壇に植えられていた向日葵を引っこ抜き、泥が付着したままのそれを私の口の中に突っ込んで「共食いだ」などと騒がれた日を境に、私は学校に行くことを拒否しました。
 同時に、いじめが悪化する原因とされた父親と向日葵を嫌いになったのです。皮肉にも、十四歳になった誕生日の出来事でした。
 それから約一年半の月日が流れ、私はこの山に囲まれた小さな町を出て大きな街の高校に進学することに決めました。あれから中学校には一度も登校していませんが、自力で勉強することで高校の受験に合格しました。嫌な思い出が染みついたこの町を一刻も早く抜け出そうと、私は必死になって勉強したのです。四方を山に囲まれたこの町は、しかしさほど不便もなかったので、余程のことが無い限りほとんどの人間が生涯をこの場で過ごします。なのでこの町を出れば、今までの私も、私の父のことも、知る人はいません。
 そのことが、私の努力のきっかけでした。
 そして、街に行く日が来ました。私は一人で下宿先に行き、そこに住まわせてもらうことになっています。私がそう母に懇願したからです。理由は、父と一緒にいることが嫌だったからでした。私が父を嫌うことの不当さは、私自身が一番知っていました。しかし、登校拒否したその日に私を心配してくれた父を強く拒絶してしまって以来、合わせる顔を見つけられない私は、一年半の間父と会わないように生活し、謝ることもしなかった。その結果、私の中では、父との溝はもはや修復できないほどの大峡谷となってしまったのです。
 だから私がこの町を発つ日、母の見送りの言葉には答えるも、父とは顔を合わせず下を向き、じっとその足元の黒い影を見つめていました。
 結局、私は父と合わせる自分を見つけ出せずに町を出ました。そんなものは必要ないこと、ただ謝ればそれだけでよかったことを当時の私は知りえなかったのです。
 その後、二時間ほどバスに揺られ、私は目的の地へと降り立ちました。受験の時にも一度この街には来ていましたが、やはりその時と同じように、人の多さと建物の多さに驚きました。しばらく放心していた私ははっと我に返り、セーラー服の胸ポケットから穴が開くほど何度も見たよれよれの地図を取り出すと、現在地と向かうべき方角を確認します。そして心躍らせて歩みを進めるのでした。
 無事に目指していた高校に辿り着き、割り当てられた教室に入った私は、ひとまず自分の席に座りました。周りの人たちは皆それぞれ誰かと会話しています。おそらく、同じ中学の者同士で固まっているのでしょう。私には同じ町出身の人がいないので(もちろんそれが目的でこの学校に入学したので)、誰かと話すことはせず一人で本を読んでいました。
 私にとって、本は命の恩人も同然でした。一年半前、もし私の手元に本が無ければ、いじめに耐えかねた私は首を括っていたかもしれません。母の読書好きが影響して幼い頃から本が好きだった私は、よく母の本棚から勝手に持ち出して、至る所で暇を見つけては読んでいました。そして一度文字を追い始めるとその世界に没頭してしまう私は、まわりの情報を一切遮断していました。文字が見えなくなるまで暗くなったことに気付かない、なんてこともよくありました。
 私はそのような人間だったので、自分が話しかけられていたことに気付きませんでした。突然肩を叩かれて現実に戻ってくると、目の前に一人の少女が立っていました。やっと気付いた、という彼女の呆れた声音を聞き、私はやってしまったと思いました。初日から級友の挨拶を無視していたら、中学のようになってしまうと考えたのです。しかし、彼女のかわいらしい声はこう続けました。
「すごい集中力ですね」
 文句でも罵倒でもないその言葉を聞き、私は一瞬で彼女を大人以上に大人だと感じました。外見は私より幼く見える彼女ですが、私にはとても大きな人間に見えたのです。
 その少女は、名を織本牡丹(おりもとぼたん)と言いました。その名字には覚えがあります。というのも、これは母の旧姓です。私が今日からお世話になるのは母の妹の家なので、もしかしたらと思い、彼女の母の名を尋ねてみると、やはりそうでした。彼女の家が、私の下宿先だったのです。それを知った私は、彼女に無視していたことを詫びた後、自己紹介をし、今日から厄介になりますと挨拶しました。
 彼女の方も従姉妹が下宿してくることは聞いていたらしく、あなたがそうなのねといった態度でした。そして気付かなかったことに対しては気にしていない、これからよろしくと言って話を切り上げました。

 放課後になると、私と彼女は一緒に教室を出ました。彼女の家に向かう道中で、二人の距離は驚くほど縮まりました。私は牡丹、彼女は葵、と、互いに名前に敬称を付けずに呼び合う仲になったのです。牡丹の家には二十分ほどで到着しました。
 私たちを出迎えてくれた叔母は、すでに古くからの親友の如き我々の姿を見て驚くと、紹介する手間が省けましたと笑いかけてきました。私がお世話になりますとあんまり深く頭を下げたので、叔母は更に笑いました。
 私の部屋は、もともと牡丹の一人部屋だったものを仕切りを買ってきてそれで半分に分けてつくるつもりだったらしいのですが、私たちの仲が良いのを見た叔母はその必要もなかろうと判断したようで、私と牡丹は同じ部屋で過ごすことになりました。

 そして、この街に来てから三か月が過ぎました。中学の時のことを思い出すと、あまりに拍子抜けするほどの平々凡々な日々が続きました。というのも、この学校の生徒たちが器の小さい人間ではなかったことと、私が努めて人に気に入られる人間を演じていたことが功を奏したのでしょう。
私はこの学校で悪目立ちするのを避けるため、わざと自分を運動音痴に仕立て上げました。しかし、学生の本文が勉学であることを承知していた私は、これに置いては微塵も手を抜きませんでした。その結果、一学期の最終日に受け取る成績が体育は最低点、それ以外は最高点または次点という何とも極端なものとなりました。これを見た人たちが、体育が悪すぎてもったいないというので、私はわざと厳粛な面持ちで「天は二物を与えず」と言い放ちます。途端に教室は笑いに包まれました。
現在の私は、自ら道化を演じることで教室内での立場を一定のものに保っていました。こうして人気を得るすべは、世に有名なとある文豪の著作、堕落者の手記のような形で書かれた本から得た知識です。
私はこれまで読んだ様々な本から得た知識を利用し、人の心を掴むことができるようになっていました。相手の好むような人間を演じ、嫌われにくい立ち振る舞いを編み出すことが可能となっていたのです。しかし、私は本来の自分の心がだんだん遠ざかっていくような気がして仕方がありませんでした。
その日の夜のことです。眠りに着こうとしていた矢先、唐突に牡丹が核心を突くような質問を投げかけてきました。
「今の葵は、本当にあのときの日向葵?」
 日に日に本来の自分を失いつつあった私は、まるで槌で頭を殴打されたかのような衝撃を受けました。震える声を隠すように、早口でどういう意図かを問います。すると彼女はこう答えました。
 今のあなたは無理をしているように見える、と。
 まるで自分を偽っているかのように見える、と。
 なるほど、日夜寝床を共にしていただけあって、彼女は私を的確に見抜いていました。しばらく黙っていた私ですが、とうとう口を切りました。絶対に誰にも話さないと決めていたはずの事件を。現在の私をつくる契機となったあの事件を。彼女に包み隠さず話しました。
 自分の罪を告白する罪人の如き私の自白を、彼女は最後まで黙って聞いてくれました。そして真剣な声音で言うのです。
「無理に演じることは無い。ありのままのあなたでいい」
 しかし、今の私はぽっかりと黒い穴が開いたように本来の自分を見失っています。いや、寧ろ黒い膜が本物を覆い隠しているという表現の方が正しいのかもしれません。
 どうすればいいのかわからない、ありのままの自分がどんなものだったのか思い出せない。
 そんな感情に埋め尽くされ、涙が私の頬を伝いました。
 牡丹は、私が落ち着くまで頭を優しく撫でてくれました。そして私に、お父さんとしっかり向き合って謝るべきだ、そうすることでつっかえ棒を取り去ることがきっとできる、と言ってくれました。
 父親に会うのに相応しい顔なんてない、飾り気のないあなたでいいのだ、とも言いました。そこには、そうすることで無理に演じたりしていない自分のままでも他人に受け入れられることを実感してほしい、という意図が隠されていました。
 私は、そんな優しい彼女に神々しささえ覚えました。女神。今の私にとって、彼女はそう呼ぶに相応しいほどの存在でした。
 翌朝、私は実家と連絡が取りたいので電話を貸していただけないだろうかと叔母に尋ねました。それを聞いた叔母は、突然どうしたのですか、と目を丸くしています。無理もありません。私が電話をしたいと言い出したのはこの四ヵ月間一度もなく、むしろかかってくる電話も取りたがらなかったのですから。けれど叔母は、どうぞ好きなだけ使ってくださいと何も聞かずに許可を与えてくれました。
 私は重たいダイヤルを回し、山を越えた実家との繋がりを構築しました。二度三度呼び鈴が鳴ると、母が出ました。久しぶりに聞くその声に、胸が震えました。心なしか、声まで震えていたような気もします。私は簡潔に、今度の日曜日に二人でこちらを尋ねてきてくれないだろうか、という旨を伝えました。私から電話が来た事と、二人で、と言ったことに驚いた母の様子が見て取れました。しかし母は、すぐにわかりましたと返事してくれました。
 私が日曜日にした理由は、ただ単純に両親の仕事もなく、ゆっくり話すことができるだろうと考えたからなのですが、のちにその日がどんな日なのか気付きました。
 その日は、私の十六の誕生日だったのです。

そして、ついに待ちに待ったその日が来ました。私はあの日から止まったままの時間に決着をつけること、あの日から間違い続けた自分の道を正すことを決意していました。
この日は朝から落ち着かず、玄関と自室を何度も何度も往復していました。しかし、午後になっても一向に二人が玄関を開けて入ってくる気配はありません。
その夕方、私は深い絶望を胸に刻まれることとなりました。
玄関で両親を待ち続ける私の元に、いやに神妙な面持ちの叔母がやってきました。落ち着いて聞いてほしい、と、落ち着かない様子で叔母はその報を私に告げました。
私の両親が、ここに来る途中で大規模なバスの衝突事故に巻き込まれたことを。
母は幸い大事には至らなかったとのことですが、父は重傷で病院に運び込まれ、のちに息を引き取ったそうです。
それを聞いた瞬間、取り返しがつかないことを悟りました。体の芯が土台から一気に崩れ去るように、その場に力なく膝を屈しました。
そうしてしばらく腕をだらんと下ろし、大粒の涙を流していました。今回ばかりは流石の牡丹も容易にかける言葉が見つからないようで、出てくることはありませんでした。
その晩、私は母の病室を訪れ、そのままそこに泊まりました。白いベッドに眠っている母は、枕を濡らしながら父の名をうわ言のように呼んでいました。
翌朝、母は退院しました。これから私たちは、父の葬式場へと向かうところです。病院の前にタクシーを呼ぶと、運転手に震える声で母が行き先を告げます。十分もすると、タクシーは止まりました。そして母から料金を受け取り、私たちを降ろして走り去りました。
二年越しの父との再会が、こんな形になるとは夢にも思っていませんでした。棺桶の中の父の顔は少々縫い跡がついており、体の方は白い布を巻きつけられた上から無数の花で覆われ、見えないようになっておりました。
父を見たらまず謝ろうと思っていた私ですが、いざこの場に来ると声も出ませんでした。息が詰まり、声が掠れ、言葉を紡ぐことができないのです。とうとう私は泣き出してしまいました。涙が棺桶に黒い水玉模様を作り出していきます。葬儀が始まるので座るようにと声をかけられたので、私は袖を濡らすと、自分に用意された座布団に向かいました。
長い長いお経も、焼香も終え、父の遺体は火の中に入れられました。そうして残ったのは、おびただしい量の灰と真っ白な骨だけでした。胸のあたりの骨の形が普通の形ではなかったので、父の死因がよくわかります。我々残された者たちは、目に涙を浮かべながら箸渡しをしました。そうして母の持つ骨壺に納めていくのですが、その骨があんまり軽いことに驚きました。全ての骨を拾い終え、壺の蓋を閉めると、木の箱の中に入れて丁寧に布で包みました。この中に、父の全てが入っています。それを抱えた私は、人というものはこんなにも軽くなってしまうのかと、また一滴涙をこぼしました。
父の墓は実家の近辺につくられます。ですので、父の遺骨は母が持って帰りました。町へと戻るバスに乗る際、母が運転手に安全運転でお願いしますねと頭を下げたので、私も深々とお辞儀をしました。母は無事に家へ帰り着いたそうです。
その週の私は、ずっと放心状態になっていました。胸に空いた空洞を、夏の蒸し暑い風が通り抜けていきます。そんな状態ですから勉強に集中できるわけもなく、物思いにふけるだけで夏休みの半分が過ぎていきました。
父の葬儀を執り行った次の日曜、私は久しぶりに故郷へと帰ることになりました。父の墓が出来上がったので、骨を納めるためです。今度こそは父に懺悔せねばなりません。父の墓の前でなんと切り出すかを、バスに乗っている間ずっと頭の中で反芻していました。
町に着くと、懐かしいにおいが鼻を突きました。嫌な思い出など、全く頭をよぎりませんでした。畦道を歩き、日向と書かれた表札のかかる家に向かうと、母はすでに玄関先で待機していました。行きましょう、と歩き出した母に連れられ、私は父の墓と対面しました。
墓の周りには、たくさんの向日葵が植えられていました。父の大好きだった向日葵。私の名の由来となった向日葵。……そして、私が理不尽に嫌った向日葵。
彼らはその名の通り、太陽に向かって大きな顔を持ち上げています。
ふと母が、渡したいものがある、と鞄をごそごそと漁り始めました。そして目当てのものを探し出すと、私の手に持たせます。
それは、私宛の、父からの手紙でした。母によると、私に呼ばれてから街へ来る前に書いていたものだと言いました。言葉だけでは伝えきれるかわからないので書いておこうと、一晩中うんうん唸って考えていたそうです。
私はすぐに封を切ると、中に入っていた一枚の紙を取り出し、夢中で読み始めました。

『葵へ。
 まずは十六歳の誕生日、おめでとう。口下手な父は二年振りに話す娘に本当に言いたいことをしっかりと伝えることができないかもしれないと思い、先に手を打っておこうと筆を執った次第です。二年前は本当に心配しましたが、今は元気そうで何よりです。私はあなたに口を利かれなくなっていましたが、それでも娘を嫌ったことはただの一度もありません。私は、そしてあなたの母は、これまでもこれからも、あなたを愛しています。
                          父より』

 そうして最後に小さな向日葵の絵と、その花言葉の一つが記されていました。
私は手紙をくしゃりと握ると、震える声で呟きました。
「ごめんなさい。……ありがとう」
 墓の周りに光り輝く向日葵が、風に揺られて微笑んだように見えました。

ある夏の日曜日

ある夏の日曜日

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-30

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