金髪の悪魔


 大通りを、まるでボロ布のような服を纏った少年が裸足で歩いていた。
 少年が通ると、それまで賑わっていたのが嘘だったかのように人々は静まり返る。そして少年の方を見て、ヒソヒソと小声で話しだすのだ。明らかに敵意を持った目で睨んでくる者もいる。
 しかし、気にも留めずに少年は歩き続ける。
 無表情に、無感情に。
 しばらくして、辺りを走り回っていた子供たちが、どこからか集めてきた石を一斉に彼に投げ始めた。
「金髪の悪魔がッ!」
 皆、口々にそう叫びながら。


 現在、この国は戦争の真っ最中だった。
 この小国が、領地拡大のためにと、大国に奇襲を仕掛けて二年前に始まったものだ。
 そこに、少年が忌み嫌われていた理由がある。
 この国の人間はほぼ全員が黒髪だ。それに対し、この国にとって敵である大国の人間は金髪であり、少年もまた、金髪だったから――。


 罵声や石が飛び交う中を、少年は進んでいく。
 そして、大通りを抜けて人がいなくなったところで、少年は呻きながらうずくまった。
「うう……っ」
 苦しんでいることを悟られれば、奴らは調子に乗り、ますますエスカレートしていく。そう本能が示していたため、無表情で歩いていたが、もちろん痛かったのだ。彼の体は傷や痣だらけで、小汚い服には血が滲んでいる。
「顔色一つ変えずに歩いてたけど、やっぱり痛いんでしょう?」
 ふいに、後ろから人の声が聞こえた。少年が声のした方に目を向けると、髪の短い女性が立っていた。年は、見たところ二十代前後といったところだろうか。
 少年の記憶では、毎日石を投げてくる人の中に彼女はいなかったはずだ。
「手当……しよっか?」
 おそるおそる口を開く女性の右手には救急箱が握られており、左手にはほとんど中身の入ってない買い物かごが握られている。
 女性は買い物かごを地面に置くと、少年のほうへと歩み寄った。そして、救急箱から何かを取り出そうと手を入れる。
 その瞬間、少年は逃げ出した。
「あ、待って――」
 女性の声にも振り返らず、必死で走る。
救急箱というものを知らない彼は、あの箱の中に入っている何かで傷つけられる、と思ったのだ。


「はぁ……はぁ……」
脇目もふらずに走り、町から離れる。十分も経つと、彼は地面に倒れこんだ。もう何日も何も口にしていないため、体力が全くないのだ。最後に食べたのは、おそらく三日前、メニューは虫と草だったはずだ。
立ち上がる気力さえなく、少年は倒れこんだまま動けなかった。
視界が霞んでいく。
少年が黙って目を瞑ろうとした、そのとき――。
「はぁ……はぁ……何で…逃げるのよ……」
そこには、手を膝について、肩で息をしている女性が――さきほど少年に声をかけた女性がいた。
「ナんで……ついテくる……?」
 少年は問う。他人に言語を習ったことがなく、見様見真似で覚えたので、まるで異国の人間がこの国の言語を話すように、彼の発する言葉は片言になっている。
「どうしてって……怪我してる人は、ほっとけないでしょ」
 彼女はそう答え、少年の腕に包帯を巻き始めた。
 少年は目を見開いた。
 こんなことは、初めてだった。少年にとって他人は脅威でしかなかったのに。少年を傷つけ、忌み嫌う、恐い存在だと認識していたはずなのに。
赤の他人である彼女が、少年を治療している。
 ―――人の手は、こんなに温かいものなのか?
 生まれて初めての優しさが、人の手の温もりだということが、少年には信じられなかった。


 その後、少年は町はずれのボロ屋に連れて行かれた。どうやら、この女性の家らしい。錆びれて軋むドアを開け、彼女は中へと入る。手を引かれ、少年も後ろについて行った。
 部屋は一つ、畳が四畳しかない小さな部屋だ。置いてある家具は一つも無く、あるのは小さな台所と折り重なった布団だけである。
 しかし、彼は小さい部屋だとは感じなかった。
 そもそも、人の家に入ること自体が彼にとって初めての経験だからだ。山や森の中などで、まるで野生の動物のような生活しかしてこなかった少年にとって、たった四畳でも雨風を防げるだけで幸せなものだった。
「ねぇ、君の名前は?」
 唐突に、女性が訊いてくる。
「……ない」
 少年が簡潔に答えた。
まだ彼女のことを完全に信じたわけではなく、目を合わせないように下を向いている。
「そう。じゃあ、そのうち私が付けてあげる」
その時、ぐぅぅぅ、と彼女と少年の腹が同時に鳴った。
「……その前に、ご飯にしましょうか。ちょっと待ってて、裏で野菜とってくるから」
 そう残して、少し顔を赤らめた彼女は外に出て行った。
 一人になって、改めて少年は家を見回す。
 汚い部屋だった。隅っこにはカビが生え、天井には蜘蛛の巣、床は虫が這っている。彼女の質素な暮らしが目に見えるような、小さな小さな家だ。
 彼女一人が生きるのも精一杯のようだが、そこに自分が転がり込んで大丈夫なのか?
 彼は思った。自分が入れば、生活はもっと苦しくなるはずなのに、と。


 しばらくして、彼女が戻ってきた。水に濡れたかぼちゃとトマトをたくさん抱えている。濡れているのは、泥を流したからだろう。
 彼女は野菜たちをごろごろと床に置き、自分の泥だらけの服をはたいた。
 その間に、少年はかぼちゃに手を伸ばす。
「あ、かぼちゃはまだ切ってないから、食べちゃダメだよ」
 注意を受け、少年は伸ばした手をしぶしぶ自分の元に戻した。
 グゥゥゥゥゥ、と、少年の腹が大きく鳴る。
「……もう、トマトなら食べていい――」
 彼女が言い終わる前にはもう、少年はトマトにかぶりついていた。
「すごい食べっぷりね……」
 彼女は呆れたように言った。
 そして少年が三日ぶりの食事を味わっている間に、彼女はかぼちゃを切って皿に持ってきた。皿はところどころ欠けていて、味付けは塩がかかっているだけのようだ。しかし、少年にとっては高級料理も同然である。
 少年がそちらにも手を付け始めると、皿一杯にあったかぼちゃはみるみるうちになくなった。


「そういえば、まだ私の名前を言ってなかったわね。私の名前は日向葵」
 ごく少量の水で欠けた皿を洗いながら、彼女は――葵は言った。
「ヒナタ、アオイ……」
 少年は何度もその名前を繰り返すと、ニッと笑った。
「いいナマエだな」
 彼女も微笑み返す。
「でしょ? 私も気に入ってるんだ。並べ替えると、私の大好きな花・向日葵になるところとか」
 それを聞いて、少年は首をかしげる。
「ヒマワリ……?」
 なんだ、それ? と問う少年に、葵は皿を置いて近づき、答えた。
「黄色い太陽のような形の花で、見てると元気が出てくるの」
「……?」
 またも首をかしげる少年の手を取り、彼女は言う。
「裏に咲いてるから、今から見に行こう」
 家を出て、ぐるりと裏に回ると、そこは一面黄色だった。
「おぉ……」
 少年の声が漏れる。
「ね、すごいでしょ。毎年この季節になると咲くんだよ」
 少年は、言葉も出ないくらい感動した。
 ひまわりという花は、これまでに何度か見たことはあった。しかし、ここまで感動したのは初めての経験だ。
「私は、このひまわり畑が大好き。つらいときも、ここにくれば『またがんばろう』って気になれるんだ」
 そういって、これ以上ないくらいに微笑んだ。
 彼女のその笑顔は、何日経っても少年の頭から消えることはなかった。


 少年と彼女が一緒に暮らし始めて、約半年の月日が流れた。
 彼は、葵に言葉や文字などのいろいろなことを教えてもらった。
 夏日。
 それが、少年に葵が付けた名前だ。
 葵は、十六歳のころ――つまり、四年前に小説を書いて雑誌に投稿し、入選した。当時、事故で父親を失った彼女が、自分の体験談にところどころフィクションを継ぎ足して書いた短編小説だ。その小説の題名が『ある夏の日曜日』。この題名から2つの漢字を取って、夏日。
 これが、彼の名前の由来である。
「葵、今日はどうだっ――どうしたんだよ! その怪我!」
 夏日が、外から帰ってきた葵に声をかけ、それが言い終わる前に驚きの声を上げた。
今彼女は、自作の小説を配って回っていた。平和をテーマにした短編小説だ。
 二年半も続く戦争は次第に激しくなり、犠牲者を増やしていく。
 そんな戦争に反対するような内容のものだった。
「……戦争に反対する思想を持っているからって……警察に……」
 帰ってきた彼女の顔は、殴られて腫れていた。もともと薄汚れていた服はさらに汚れを増していて、腕や足も傷だらけ。夏日は、フラフラとおぼつかない足取りで今にも倒れそうな葵を支える。
「くそ……ッ! 警察のやつらめ……。憶えてろよ……」
 夏日の拳は怒りに震えている。
しかし、そんな彼に葵は言った。
「だめよ、夏日……。暴力に暴力で返してはいけない……」
「でもッ!」
 声を荒らげる夏日の手を掴み、葵は諭すように続ける。
「彼らと同じことをしてはダメ。彼らのやり方を認めてはいけないの……」
「……わかったよ」
 彼女に言われ、冷静さを取り戻す夏日。
 理不尽な暴力を受けることの辛さは、彼が一番よく知っていた。
 この国で生まれたというのになぜか金髪で、それに恐怖した親に捨てられ、出会った人間全てから忌み嫌われる。毎日のように石を投げられ、敵意を持った視線を向けられる。言葉で傷つけられる。
 夏日はこの苦しみを誰よりも知っているからこそ、ほかの誰にもこの苦しみを味あわせたくないと思った。
 自分がされて嫌なことは、人にしてはいけない。
 葵が最初に彼に教えたことだ。
 彼はその言葉を今でも胸に刻んでいる。
「くそ……っ」
 夏日は悔しさのあまり、唇を噛み締める。
 開けたままのドアから、冷たい風が家の中を通り抜けた。


 翌日、彼女は熱を出した。
 葵が病院から帰ってくると、医者には『もともと栄養失調で弱っていた体に、昨日の傷口からウイルスが入り込んで発熱し、それが悪化した』と言われたそうだ。
 金が無いため満足な治療も受けることができず、葵は現在自宅で布団に寝ている。何度も咳が出て、熱は上がり続け、彼女は日に日に衰弱していった。
 夏日は毎日寝ないで看病を続けた。しかし、金が無いために薬も、栄養のある食べ物も手に入らない。
 寒い冬の時期なので裏の畑にもほとんど野菜はなく、毎日配給される握り飯――それも嫌われ者の夏日の分はもらえず、葵一人分のものだけで二人は生活していた。


そして、葵が発熱してから一週間の時が過ぎた。
「なつ……ひ……」
 葵が、瑞々しさを失い、乾いた唇で夏日を呼んだ。
「私の、最期のお願いを聞いて……」
 弱り切った彼女の手を握り締め、夏日が目に涙を溜めて叫ぶ。
「葵、最期とか言わないでくれよ……! 病気なんかに負けるなよ……!」
 ポタ……ポタ……と、涙が滴り、畳が黒く変色する。
「夏日……。これを……」
 葵は、夏日に握られてない方の手で何かを差し出す。
「これは……?」
 零れ落ちる涙を拭いながら、夏日が問う。

 震える葵の手に握られていたのは、一枚の手紙だった。

「この手紙を……私の故郷にいるお母さんに、届けてほしいの……」
 彼女の息が、少しずつ途切れていく。
「わかった……。届けるから……絶対俺が届けるって約束するから……だから、生きてくれよ、葵!」
 夏日が涙を拭いながら答える。
「あり……がとう……。夏日、あなたと一緒にいれて……私は幸せだった……」
 最期の声を絞り出して、彼女はゆっくりと目を瞑る。
 そして、再びその目が開くことは永遠になかった。
「葵……」
 徐々に冷たくなっていく葵の手を握り締めたまま、夏日は一人、呟いた。
「俺は、お前のことが好きだった……」
 決して動かない葵を見つめて。
 夏日は、いつまでも泣き続けた。


 葵は、嫌われ者だった俺を助けてくれた。
 自分一人でも貧しい暮らしだというのに、半年もの間、家に置いてくれた。
 そして、名前をくれた。優しく呼んでくれた。
 まるで家族のように接してくれて、いろんなことを教えてくれた。
 俺が欲しかったものを、彼女はくれた。

 ―――今度は俺が、彼女の望みを叶えてやる番だ。


 葵の故郷は山を越えた向こう側にある。
 夏日は家を出ると、雪が降るほど気温が低いのに裸足のまま走り出した。
「この悪魔めっ!」
 大通りでは、いつものように石を投げられる。
 だが、傷だらけになりながら、転びそうになりながら、それでも彼は走り続けた。
 ―――もう何と呼ばれても構わない。
―――俺には、最愛の人が付けてくれた、最高の名前があるから。

 右手には彼女との約束の手紙を握り締め、霜焼けで赤らんだ足を必死に動かす。
 この手紙は、何が何でも届けてやる。
 必ず、葵との最後の約束を守るんだ。


彼女と初めて出会った大通りを駆け抜け、整備すらされていない山道へと足を踏み入れる。
落ちた枝や石が、剥き出しの足の裏に刺さる。だが、気にせず彼は走り続けた。
 雪の降る山道を六時間も駆け続け、ようやく彼は葵の故郷に辿り着いた。
 あとは彼女の家を探し出すだけだ。
 千切れそうな足を引きずり、傷だらけの体を奮い立たせ、一軒一軒の表札を見て回る。彼の通った後には、赤い足跡がついていた。
 すでに辺りは真っ暗で、月明かりだけを頼りに進む。
そして、彼はついに日向と書かれた表札を見つけた!
「うぅ……ッ!」
 だが、家の玄関に手を伸ばそうとした瞬間、呻き声を上げて夏日は倒れた。
 もう体力が限界なのだ。
「…………!」
中の人を呼ぶために、必死に声を出そうとするが、彼の口からは白い息が漏れ出るだけだ。
―――動け……! 動いてくれ……!
 しかし、彼の体は言うことを聞かない。
 徐々に薄れていく彼の意識の中で、あの時の彼女の笑顔だけは鮮明に残り続けた――。


 翌朝。新聞をとるために玄関を開けた老婆が、そこに倒れていた少年を発見した。
 金髪であることにまず驚いたが、彼の掴んでいる手紙に自分の名前が書かれていることに気付き、冷たく硬くなった手からそれを抜き取る。
 手紙を読み終えると、老婆は動かなくなった少年に言った。
「ありがとう、夏日くん」

金髪の悪魔

金髪の悪魔

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-30

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