セミナー


 セミナーは既に始まっている。
 アシスタントとして行うべき事を全てを終え、教室前方の右隅の(教室後方のドアに対角線に位置する)パイプ椅子まで急ぎ歩いて行き、慎重に座る。体重のかけ方が拙かったのか、ギシッという音が結構な音で鳴ってしまった。動揺は見せず、しかし目線だけは器用に動かして聴講生の様子を窺う。よし、誰もこちらを気にしていない。ある意味でタイミングが良かった。アシスタントとして各座席に用紙を配り歩く中、センセイが軽い自己紹介を終え、本セミナーの本日のテーマについて述べてすぐ、他愛のない冗談で皆んなを軽く笑わせ、少し硬かった聴講生の雰囲気を揉み解し、そして先程、大事な例え話を始めたところだ。
「ジャンケンを知っていますよね?って、ほとんどの方が苦笑いを浮かべているところを見ると、やはり訊くのも失礼だったようで。まあ、知らない方がいないとは限りませんから,一応説明させていただきますね。
 まずはジャンケンのことから。ここでいうジャンケンとは、日本で通用しているルールの下で遊ばれるジャンケンです。文化の違いはジャンケンにもありまして、その違いが微妙なものもあるものですから、混同が生じないよう、説明の対象を事前にはっきりとさせておきましょう。さて、日本で通用しているジャンケンとはこのように、拳を握ったグー、一般的にはこうだと思われる人差し指と中指だけを立てたチョキ、そしてすべてもの指を開いたパー、という三つの形を勝負する相手に出す『手』で勝敗を決します。ああ、やはり笑っておられる方がいらっしゃいますが、決してダジャレを言った訳ではありませんよ。毎年、この件を話すときに付け加えている私の言い訳です。
 おっと、もう本筋から脱線しそうです。話を戻しましょう。ここでいう『手』は将棋の一手と同じ意味のものとご理解下さい。その『手』であるグー、チョキ、パーには勝敗を決するための優劣が決められていまして、グーはチョキに、チョキはパーに、パーはグーに勝ちます。この一手の数に関して、先に述べた文化の違いがあり、四つある場合もあったりしますが、共通するのはどの一手も特定の一手に勝てる一方で、他の特定の一手には敗れるというルールを採用するという点です。トランプでいうところのジョーカーはありません。このルールにより、ジャンケンの公平は保てます。勿論、心理戦などを仕掛け、勝率を上げることは可能です。ただ、その仕掛けもジャンケンの公平さを前提にしたものです。あのズルい後出しジャンケンはこの公平さの裏に回るものですね。相手の手に応じて、勝てる手を出す。必ず勝てますが、信用は失くします。」
 センセイはここで必ず間を置く。ジャンケン話に飽きる聴講生がいた場合に、こうして沈黙をひとまず置くことで、聴講生に何事かと思わせ、教室内の緊張感を保たせるテクニックである。この合間に、さっきとは違う視点で聴講生の様子を窺うのが、同じ教室内に居るアシスタントとしての役目である。そしてざっと見たところ、その様子は悪くない。首をぐるぐる回し、軽い柔軟をする人はいるし、ジャンケンの説明に欠伸を隠さない人もいるが、さっそく居眠りし出す人は見えない。一昨年は酷く、この時点で半数が夢見心地の状態にあった。なので、アシスタントとして安心する。しかし気は抜けない。そのために背筋を正そうと動いたせいで、座っているパイプ椅子が再度、ギシッと鳴ってしまったが、センセイがそれを合図に続きを話し出したおかげで再び邪魔な騒音にならずに済んだ。アシスタントとして胸を撫で下ろす。次いで、短い鼻呼吸で背筋を伸ばすとともに、聴講生と並んでセンセイの話に耳を傾ける。
「さて、後出しジャンケンで信用を失くす、というのは少し可笑しな話とも思えます。なぜなら、勝敗を決するジャンケンの目的を考えれば、要は勝てればいいのです。なので、後出しジャンケンでも何でも用いることが可能な手段を行使し、勝ってしまえばいいのです。こう見ると、後出しジャンケンも有効な手段と言えます。なのに、なぜ後出しジャンケンは悪い手だと評価されるのでしょうか。後出しジャンケンを否定的に評価する参加者は、勝敗以上に何を大切にしているのでしょうか。」
 センセイはそう疑問を提起されながら、少し気不味そうな笑みを口元を浮かべている。というのも、答えは既にセンセイが口にされているからだ。にも関わらず、勿体ぶった言い回しをして聴講生を考えさせようとしている意地悪さに、センセイ自身が引け目を感じているのだ。その様子に眉をひそめる聴講生もいる。もしかすると、聴講生には意地悪い笑みに見ているかもしれない。センセイが誤解されるのはアシスタントとして望ましくない。しかし、ここで出しゃばるのはアシスタント失格である。それに、そんな誤解はセンセイご自身があっさりと払われるだろう。という杞憂を過去の講義を含めて毎回、抱いてしまうのがアシスタントの悲しいところだ。こんなところを、
「アシスタントの鏡よ。」
 と妻は褒めてくれるのだが、いい加減、どんと構えた心持ちを身につけたいと思っている。が、そんなことは聴講生には関係がない。このセミナーの主役は何と言っても、センセイ及び各聴講生なのだから。アシスタントの私の話などさっさと仕舞い、センセイの答えに意識を集中させることにする。
「大仰な言い回しになってしまったかもしれません。申し訳ない。実は、先の疑問に対する答えを述べているんです。お忘れになった方もいることを考慮して、もう一度答えを口にしましょう。後出しジャンケンを不正だと評価する参加者が勝敗より大事にしているもの、それは信用です(あ、がっかりされましたね、とセンセイは教壇前の一番近い聴講生に、申し訳なさそうに話しかける)。ジャンケンの始まりとも言えるグー、チョキ、パーの三竦みが生み出す公平性。その公平性を崩すことなく、ジャンケンポンで勝敗を決する。そういう世界の成り立ちに対する信用。いや、感情面でのニュアンスも加えれば、信頼。それを大事にしているのでしょう。」
 私が個人的に好む件である。しかし、センセイのアシスタントとしては厳しい目を教室内に向けざるを得ない瞬間でもある。案の定、センセイに話しかけられた一番前の男性と同じく、聴講生の全体に苦い笑みが次々と浮かんでいく。信用、信頼と耳にしてこれほど心許ないものはない、そんなもの煮ても焼いても食えはしない、誰も守っていないし、守るだけ損だ。口にすれば偉そうに説教出来るってか。馬鹿馬鹿しい、そんな答え、理想に自惚れた連中の前で披露しろよ。あーあ、時間の無駄、金返せ。アホらしい。エンジョイ(と、最近は言うらしい)でもさせてやろうか、そうしてやろうか。
 実際、こういう言葉を口にして講義の途中で帰られた方もいた(本当に、エンジョイした方がいたのかは知らないが)。しかしながら、センセイは理想主義者ではない。どちらかと言うと、そのお考えや振る舞いはリアリストと言える。例えば毎回の講義の終わり、慰労も兼ねて、アシスタントの私はセンセイとともに食事を取りに行く。その時、センセイは私に必ず勝負を仕掛ける。過去の戦績からして、アシスタントである私が払った金額はセンセイのそれを超える。財布の紐は緩まない。公平は、ここで確かにモノを言わせている。
「信用、信頼。確かに、心許ないですね。団扇で仰ぐだけであっという間に吹き飛びそうです。信用、信頼。そんな言葉こそ信用できない、信頼できない。仰る気持ちはよく分かります。信用、信頼。こう口にする私も実は、これらの言葉をそんなに信用していませんし、信頼していません。」
 センセイのこの発言であちらこちらに起きる笑い。これもセンセイのテクニック、と言いたいところだが、頼まれた買い出しの釣り銭とレシートを見比べるセンセイの真剣な眼差しを知っているアシスタントの立場から、それはセンセイの本音とも思える(私が信用されていない、と私は信じていないのだが)。いずれにせよ、その内心を完璧に読むことは難しい。センセイの読めない行動。もっとも、センセイの内心をトレースすることはアシストの範疇を超えることだ。それを知ろうとするのは私個人の興味に過ぎない。
「考えると、信用、信頼は変わらないものに対しては抱きやすい。世界の物理法則、例えば太陽が西に沈んで東から昇ることなど、古来から変わらない世界の有り様には信用していると表現することは可能です。人に対する信用としては、例えば職人気質の人物が行う仕事っぷり、なんてものが挙げられるでしょうか。十三の数字が付いた有名な殺し屋などは、報酬が支払われるか否かで仕事を決める。そこに感情が入り込む余地はない。だから信用できる。気まぐれによって仕事の良し悪しが左右されないことは、仕事の結果の安定に繋がる。変わらない、は信用、信頼を支える要素と考えられます。」
 センセイは続ける。
「ですが、物理法則も絶対ではないですね。地球の自転などはまあ別にして、気候なんて容易く変わる。法則を支える条件が変われば、法則も当然に変わる。人の行動なんて、もっと容易く変わりますね。人の判断、行動には感情も関わります。それだって大切な要素です。喜び、悲しみ、怒り、怖れなどなど。馬鹿げた行動だって起こるのも仕方がない。
 私が知っている私鉄会社の職員は、現在、無関係な特定個人を自殺に追い込んで実質的に殺害するために、整備士を始め職員一体が共犯となって、生活環境を破壊するための仕掛けを施し、それを実行中だと自慢しています。彼ら自身、それを隠すことなく公にしていますので、興味のある方は調べてみられるといいと思います(あるいは、その目で殺陣未遂の実行に及んでいる姿を見たい方は次の時間に現場に行くといいと思います、と言って以下の時間を示された。すなわち、①午前七時の前後、②九時から十時、③十一時から一三時、④十六時から十七時、そして⑤午前一時から三時。彼らのうち、殺人の実行を担当している整備士が細工をしている様をありありと拝見できる、と。特に、①及び⑤の時間帯における細工の実行は、②ないし④の結果を検証してより殺害の実効性が高まるように主にその日の担当者が単独で工夫をするらしく、「技術者としてやりごたえがある。今朝もくいくいっと弄ってきたところだよ」と述べていたことも教えてくれたそうで、センセイの知り合いはそこまで「自白」を行ったことが明らかになった)。不特定または多数人の代表者と嘯いて殺人未遂の実行に及んでいる彼らは、彼らが主張する内容、頻度、程度等から、既に特定可能な殺人未遂の共犯者となっています。実行中であるはずの数々の行為は、しかし書面等で容易に証拠化が可能です。なので、彼らは不特定又は多数人の代表者に紛れることが叶わず、被疑者、被告人として捜査、訴追の対象となります。これ、本当に実現できていたら民事、刑事のみならず、鉄道事業に関わる許可又は認可に係る何らかの行政処分も行われて然るべき事案といっても言い過ぎではないと思います。なんせ、その沿線に関わる全職員が殺人未遂犯の共犯なんですから。
 まあ彼らの思惑と関わりなく、それらの犯罪が彼らの妄想として、悉く失敗に終わっているからまだ救いがあると言えますが、一応、知り合いとして心配は尽きないですよね。だから、その共犯関係にある職員の一人たる知り合いの彼には今後を心配し、それを止めろと言った事はあります。しかし、というかやはりというか、その知り合いは私の言葉に耳を貸しませんでした。死人に口無し、で犯罪の隠蔽を行えると判断しているのでしょう。奇妙に興奮して、不安定な様子で行なっている殺人未遂の計画をべらべらと喋るその様子から、理由のない殺人への憧れめいた感情に彼が囚われているのは明白です。こんな事が当たり前な顔して起きてしまう。物理法則以上に、人の行為は不安定だと思わざるを得ないと諦観するのも、致し方なしです。」
 センセイの知り合いの話は、どの時間の、どの講義の聴講生であってもその興味を強く引き起こす。中にはとうの昔に知っているよ、と訳知り顔の方もいれば、衝撃の事実に今すぐにでもネット等で調べたい欲に駆られていると一目で分かる方もいる。それが段々とざわつきとなって広がり、教室内を満たし、異様な雰囲気を生む。その様子を真正面から観察するセンセイは、こういう時に一番落ち着いた様子を見せる。予定通りの反応であり、講演の盛り上がり所と分かっているからであろうが、一方でこの知り合いのエピソード自体が大したものでないと判断しているというのもあると、アシスタントの私は考えている。
 出過ぎた真似であることを承知でつづけると、私の観察テーマに沿っていえば、殺人を行いたいとこれ微塵も思わないセンセイはその知り合いを、知り合いではあるが一人の個人として尊重すべき他人と認識し、その距離を実に的確に保たれる。雨が降れば傘を差し、風が強ければ遮蔽物の中に避難する等の日常生活における行動の一環として、殺人未遂を犯したい知り合いに対し、適切な対処をし、その事柄を終えている。ただそれだけのものとして片付けている。だから特に気にしない。その知り合いが殺人未遂を犯しているという事実を認識できれば、あとはこうして話題にあげたりするだけで、問題視していないのである。なお、知り合いの話が本当であるなら通報なり、私鉄会社の管理部に連絡するなりした方がいい点はセンセイも承知している。しかしセンセイがそうしない理由は、余計な累が及ぶのを避ける等いくつかあると思われるが、その主たる理由は、センセイ及び私が携わる職業の性であろう。答えは後ですぐに述べる。
 いまはアシスタントに徹しよう。
「信用、信頼を信じたい、しかし、信じるには不安が付きまとう。信用、信頼は観念であるからというよりは、その表象と捉えられる事実がいとも容易く否定されるために、弱い印象を拭えない。そういう側面は否定できない。そのことは、認めなければならないのでしょう。」
 では?から始まる質問の内容を、聴講生の誰かが手を挙げなくてもセンセイに伝わっている。ジャンケンから始まったその信用、信頼はどこに行き着く話になるのか。綺麗事はあなたが否定されたのだ。ではどうする、我々をどう満足させてくれるのか。
 センセイは勿体ぶらない。今日のセミナーは朝の二コマを使って行われている。昼食は丼ものを予定している。聴講生の方々の腹の空かせ具合も、センセイは考慮している。
「信用、信頼は日常の場面において用いる道具のように、手に取ることができるように存在しているとは言い難いです。しかし、信用、信頼は具体的になければいけないのでしょうか。実は信用、信頼の本領は具体的に存在しない方が発揮できる、とは言えないでしょうか。いや、ここでまた勿体ぶることはしませんよ、腹時計を気にするのは私も同じです(と、センセイに誘われる笑いは短い)。
 端的に言いますね。つまり信用、信頼は大事な選択をすべき場面において、そうかもな、あるかもな、という程度に頭の片隅に浮かぶぐらいでいいんじゃないでしょうか。考えられる選択の幅を広げる可能性として存在していれば十分。最悪の選択を容易く選ばない根拠になればいい。もうちょっと考えてみようか、と想像できる世界の端っこをパン生地のように先延ばしにする、頭の中で転がる麺棒のような物でいい。ボタンひとつ、ぽちっと押して、ミキサーみたいに短時間で全てをかき混ぜる機能までは必要としない。もしかすると、あるいは、と先走りそうな未来の決定を引っ掛けられるフックでいい。そんな便利なもの、ということです。」
 ピンとこない、それが聴講生のほぼ全員の感想だろう。セミナー終了後に集計するアンケートの意見欄にもよく書かれる、エセ哲学的意見。そう評価されることはセンセイ、そしてアシスタントの私も同意する。
 なぜなら、もともと本セミナーの目的は哲学することにはない。講座名も『哲学』ではない。
 さあ、ここで明かしても衝撃の事実になりはしないだろうし、聴講生の何人かは常連さんであり、口コミで本セミナーの評判を伝えてくれているため、今まさに参加している聴講生の過半数はセンセイと、私の正体を知っている。だからさっさと明かそう。
 センセイの本来の職業は活動弁士であり、私はその師事を受ける弟子一号である。
 本セミナーの正式な講座名は『セミナー漫談』である。要は漫談をする場所をセミナーとし、実質的な「お客様」に聴講生として参加してもらっている。ある意味教室を使ったコントであり、「お客様」たちもコントの中に参加できることを売りにしたイベントである。練りに練りすぎて、かなりお寒い結果にしかならないだろうと仲間内で予想していたが、センセイとなる師匠たちがまあその力を存分に発揮してくれるおかげで、また聴講生側からフリを行い、即興的に笑いを生むことが出来る楽しさも加わって、ハガキ職人ならぬプロ聴講生を中心にプチブームとなり、三年前に開催してから今もずっと続いている。
 ちなみに、本日の漫談は『あなた、それ、信じられますか』である。
 オレオレ詐欺で一つ、と話し出しそうなところを、教壇でセンセイする我が先生はジャンケンからとても奇妙な話へと『聴講生』の皆様を導いている。多分、オチはまだ決めていないんじゃないかと弟子一号は予想するのだが(センセイのオチは基本的に即興である)、しかしセミナーはまだ終わっていない。なので私も、アシスタントに戻ることとしよう。
 予定通りなら、センセイはこれから先の私鉄会社の知り合いを例にして、話の勘所を語るであろう。なお、かかる知り合いの話はコントの設定でなく、一応、本当の話である。興味がある方は調べてみるといい。
「あればいいな、ぐらいの便利な物。え、ていうか、じゃあ無くてもいいんじゃね?そんなもの、信じなくてもやれるんじゃね?
 この「じゃね?」って言い方、テンポ良くて結構好きなんですが、まあそれは置いといて。そう思う方も、中にはいらっしゃいますよね。でも無いと致命的になることもあるんです。これが。
 その要点を明らかにするために、先の知り合いに再登場してもらいましょう。彼が言うところに従えば、先の知り合いは勤める私鉄会社のある沿線の職員として、遊び半分の殺人未遂を実行中の共犯者です。彼その他の共犯者は特定可能な個人である以上、逮捕、訴追の可能性が高い。いよいよ事が本格的に露見した場合には、疑いようの無い実行者たる整備士を始め、末端のものから、トカゲの尻尾切りで犯人として祭り上げられていくことになるでしょう。そうすれば、私鉄会社の評判が深く傷付く危険、その程度を低下させられるからです。これは誰にでも予想がつく。なので、浅いながら知り合いと関係のある私としては、その知り合いに対してやはり止めろと助言したのです。しかし、それでも知り合いはその実行を止めそうにない。その理由も明白です。なぜなら、他の共犯者がそれを許さないからです。」
 突如のサスペンス的展開、ミステリー的要素が満載。耳を刺激され、手に汗をかき、唾をごくりと飲み込む。その様子がアシスタント席からもよく見える(そのリアクションっぷりはさすが、過半数を超えるプロ聴講生である)。では、こちらも負けていられない。センセイの側にいるアシスタントとして、私は上半身を前のめりにしてみる。どうであろう。アシスタントがその立場を忘れて、聴講生と同じように話に夢中になっているように見えるだろうか。どうだろう。姿見で確認したいところである。
「裏切りは許さない。なぜなら、共犯者は互いの犯罪の全てを証言できる証人という証拠です。先に犯罪を止めてもらっては困ります。外部に自らの犯罪を暴露される可能性が否定できないからです。自己保身から、他の共犯者に全てを擦りつけるために、捜査機関に都合のいい供述をする事だってあり得る。だから一抜けた、は絶対に阻止しなければならない。何だったら口封じに他の共犯者を殺害するかもしれない。そんなことはあり得ない、と仰いますか?既に遊び半分で無関係の第三者を殺害しようとしている彼らなのに、ですか?はい、そうです。勘がいい方ばかりで話が早い。彼らの中では信用、信頼が『可能性』という形で殺されています。フックが無いんです。引っ掛からない。そのため、彼らの選択肢から『悪戯に殺人するのを止める』という選択肢が生まれない。そのため、安全性よりも不謹慎な火遊びを優先し、公共交通機関の設備を自分勝手に弄くり回し、無関係な人を殺害しようと試みた彼らの行き着く先は、残念ながら、皆さんがいま想像したものでしかないでしょう。切られた尻尾としてのたうち回っても、時すでに遅し。彼らは救われる道を失います。世界を広げる、麺棒がどこにも無いんです。」
 センセイは、ここでペットボトルの水を飲まれる。長い口上で枯れた喉を潤すためでもあろうが、ここでひと呼吸置くのがやはり大切なテクニックになるからだろう。殺人未遂、逮捕、行き着く先。衝撃的といえば衝撃的な事実を心に馴染ませる。他方で、プロ聴講生側からのアドリブを待つという意味もある(アシスタントとしては、例えば始発、終点がある以上、電車が走れる道は限られているので問題ないのでは?と質問し、とんちを利かせて世界を広げる意味を問う等が考えられる)。ただ、後者に関しては話の展開が展開なだけに、ここでアドリブを入れてくる度胸のあるアマチュアが現れた事がない。今回のセミナーもそうだった。それを認めて、センセイは最後の段落へ向けて畳み掛ける。
「麺棒と口にする度に、段々と焼き立てのパンが食べたくなってきましたが、それはさておき、信用、信頼はここ、頭のこの辺りにあればいい」
 と、センセイは両手の人差し指をそれぞれクルクルと回し、左右の側頭部を差す。毎度思うことであるが、なぜあの動作は片手で行うときより、両手で行う方が賢く見えないのだろうか。ヘビメタロックを邁進する世界的に人気なあのユニットの、人気曲にも似たような振り付けがあったと記憶するが、彼女たちのそれは可愛く、格好良い。印象の成せる不思議である、っと出しゃばり過ぎた。アシスタントはここで黙ろう。
 発言の場を返された、センセイは言う。
「そうして首を左右に振れば、右にも左にも、美女が居たりするものです。いや失敬。今朝、シシドカフカ風の黒髪美人を見かけて、そこのアシスタントに声をかけさせに行かせたもので(本当である。無視する美人はやはり美人であった。おっと、失敬)。
 再度、本題に戻りましょう。信じるも信じないもあなた次第と定番のように言われますが、信じないのも選択、信じるのも選択です。選択、選択。選択。いい加減、乾いた物から取り込んで、何もかもを畳んで片付けて仕舞いたくなる。だがしかし、なのでしょう。散らかる部屋の宇宙の豊かさ、片付けた後の部屋の秩序。あり得る部屋の有り様を両端に置いて、そこに流れる時間を生きてみたいと思いませんか。
 私たちの四角い世界はそんなに狭い物ではない。そう思いたくありませんか。そう思うように、選んでみたくなりませんか。あなたは『そう』、信じたくありませんか。
 さて、そろそろ締めといきましょう。」
 センセイはここで破顔される。
「後出しジャンケンをする方はいらっしゃいますか。いらっしゃるのなら、私の答えは簡単です。はい、あなたとはジャンケンなどしません。私はあなたとジャンケンをする可能性を殺します。気を付けてお帰り下さい。今日は本当に、有難うございました。」
 センセイは、ここで教卓に額をつけて礼を述べる。そして、顔を上げてからこう仰られる。
「そうしない方もいらっしゃいますか。いらっしゃるのなら、はい。喜んで。では、ジャンケンといきましょう。我々が信じる三竦みの世界の中で、互いの勝ちを得るため、互いに選べるその手を尽くして、存分に遊び尽くしましょう。では、ジャーンケーン!」
 ポン!と鳴るか鳴らないか。おあとはなかなか宜しいのでしょう。まばらな拍手から、大きな拍手へ、そして一人か二人のスタンディングオブベーション。なかなか宜しい光景だと過大にも、過小にも評価するのがアシスタントの私の役目である。
 さて、ここからはアシスタントがメインとなる時間である。参加特典の握手会やら、プチジャンケン大会やらに次回の公演表の配布、予約の受け付け。これらを仕切る、合いの手を入れる、プライスレスなスマイルを魅せる。忙しいたらありゃしない。てんてけてんのとんのとん。
 からくりかたかた、月曜日っとね。



 さてさて、帰りの道中、時間通りの昼食を頂くために私たちだって一回勝負をした。もちろん、例のアレである。その勝敗はすぐに決し、アシスタントかつ弟子一号としては申し訳ないが、センセイの目の前で小躍りした。センセイは笑顔でぶつくさと文句を言っていた。もちろん、アシスタントかつ弟子一号としてその一言一句をこの耳に入れた。しかし、嬉しさが勝つあまりにその意味内容が記憶に残らなかった。至極情けない。そのときの私は、黄身の目立つかつ丼で頭が一杯、もとい、いっぱいだったのだ。致し方なし。じゅるっと涎を飲み込み、もう一度。致し方なし。
 嗚呼、致し方なし。
 予約をしていたお店を前にして、お値段の下限についての駆け引きが別にあったが、それも結局は入店を押し切る形で暖簾をくぐり、ご主人の「いらっしゃい!」という威勢の良い声に迎えられ、案内された席に座ったのだ。そしてすぐさま、センセイの分も合わせて、アシスタントの私がそれぞれの注文を手早く済ませ、差し向かいで熱いお茶をすすった。濁す物をすべて飲み干して、センセイと私は初めて無言となる。緊迫しているのではない。二人して、猫舌の辛い我慢比べを競っているのだ。
 意地は張るべし。歯は食いしばって、二つの目をかっと開くべし。
 暑さ寒さも何とやら。すっかり人に戻った舌を動かし、センセイはオチについて話し出す。同じく人に戻った舌を動かすアシスタン兼弟子一号の私は控え目ながらも意見を言う。遠慮はするな、という師であるセンセイの教えである。センセイの発想の仕方を盗むいい機会であり、自分の感覚を確認し、鍛えることも出来る。一石二鳥のいいとこ取り。このやり取りをセンセイのセンセイも行っていたらしく、互いにだんだんと熱くなり出した頃に、
「お待ちどうさま!」
 と差し出された丼ぶりの湯気がそれぞれ二つ、こうして並べられるのだった。
 歯応えのありそうな付け合わせ、透き通ったお吸い物。湯気たつ黄身に包まれて、厚きお肉が底で待つ白米を隠して唆る。唾はこうして飲み込まれるのである。
 割るべき箸を二膳取り、センセイの分を手渡す。裏返された伝票が二人の真ん中あたりに置かれるが、なに、迷うことはない。その勝負はすでに決している。鍔迫り合いが無用の二人。あとは火傷にご注意よっと。
 曇る眼鏡にのたうち回る、舌を尽くして打つ鼓。
「うまい!」
 と互いに言い合いたい仲なのだ。

セミナー

セミナー

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted