原稿用紙
あるキャラクターに私の心情を読ませようと思って書いた文ですが。
そもそもあるキャラクターのイメージが湧かず、描くにつれて、自我が強く出てしまい、半端な目線の話になってしまいました。
まあ遊んで書いた文……遊文とでも言っておきましょうか。そういうものという認識でお願いします。
ではまた……お昼ご飯でも作ってきます。
空の原稿用紙を見ての手記
〇一人と独り
自分を小説家と名乗るようになってから25年の歳月を得た。
いまだ、本物になれていない私を皆は、嗤うのだ。半端者だから笑うのではなく、現実を逃避し、成れもしないその壮大な夢をあたかも成し遂げられるかのように語った末の姿がこれだから嗤うのだ。
しかし、どうだろうか。
いくらか、欲に流されてしまったが、この年月同じものに苦悩しながら、道を開拓し、普通一人ではできないものをたった独りで続けてきた。孤独の作業だ。
Wordソフトを購入し、プリンターも購入し、いいキーボードも買い、いい椅子も買って――
他人からすれば、それは有名になった輩が買い揃えるものだと言うだろう。謂わばそう言う人にとって、芸術を知らない、美術を知らない人間にイーゼルやら油絵の具やらを買い与える行為に等しいと思っているのだろう。
違うのだ。それは、昔の形式に囚われた哀れな意見に等しく、現代になって昭和時代の戦時の精神的な無理を強要する魂に、ほとんど似ている。
少なくとも私は、まばらではあるが勉強をし、創作に置いて何が重要か、作品の元ネタ、キャラクターが使う武器や、地理学や数学、言語や美術など、あらゆる学問を必要に応じて勉強しているのである。
それが、足りないという人間もいるだろう、そう言った者の意見も分からなくもない。現に、歴史だって、一つの論文の序章を読んだにすぎず、読んだ気になっていたなんて多々あることだ。
だが、それがどうしたのだ。
私は、もう筆の扱い方を知らない、色の置き方を知らない、パレットの使い方を心得ていない『全くの初心者』か? 私はそう批判する、全ての自分に言い聞かせる。
元々彼は、私の中にいて、私の外にもいた。
謂わばその意見は、私の中にもあったという事になる。
いつだって、人間は内に賛成と反対の意見を飼っている。そのどちらを放つか、熟考に熟考を重ね、ようやっと出た意見が賛成か反対かのどちらかなのだ。
そしてその賛成も、反対もわからないまま答えを描くのが、私達芸術家だと私は思っている。
違うかもしれない。
しかし、完全に否定することなどできない。
だって、これを読んでる貴方は私を理解していないし、私だって自分の全てを理解しているわけでもない。
思考の論理的解釈が苦手な人間ほど哀れなものは居ないし、逆にそれが得意な人ほどうざったらしいものも居ない
私達はその中で生きているのだ。ある意味、批判を受けやすい私たちの方が他の作家よりも何倍も凄いのかもしれない。
何物にも成れずにいる、人間の哀れな姿は涙するものさえある。
私はどうだろうか、多分哀れなのだろう。
そう否定する私が私を哀れみ慈しみ、そして激情に駆り立てる。その機関がぶっ壊れる人間ほど、いい作品を描くのだ。
それはそうだ。いつも時代を表明する作品は、激情に筆を乗せた迫力のある絵画だった。
平和な時はいつか訪れる、しかし、私の心の平穏はいつまでたっても訪れることは無いだろう。
幸せなんて来ない。私はそう思っている。
〇本文
時に、小説家は、一本の作品にするために最低何文字書かなければいけないか分かる人はいるだろうか? おそらくわかる人は、その道に詳しいものだけだろう。
10万文字だ。その数にピンとこない人もいるだろうから、原稿用紙一枚分は何文字か考えてみれば、その迫力はほとんどの人は感じると思う。
400文字だ。
今、私が書いているこの文章。
ここまでで1385文字だ。当人だって、気分によっては、こんなに書いたのかと思う。時だって、まだこれくらいしか書けていないのかと思う時だって様々だが、いくら表現の塊である、凝りに凝った文章を書いたとしても、それを考察する人間は2割しかしないだろう。
まあ、その数は適当だが、実質、それくらいしかいないだろう。
漫画だってそうだ、凝りに凝ったコマを書いたとして、誰がそれを細部まで読み解くか、それは読者は読者でも、ただの読者ではない。
漫画家になりたい読者なのだ。私にとってはそれが大変皮肉なものだと感じる。
まだ見ぬ、私のファンが、細部まで見てくれる私の読者が実は私とライバルになるかもしれない人間だったなんてとんだ皮肉だ。
しかし、作品を書く以上、それは付きまとう呪いなのかもしれない。ちなみに私は皮肉と書いたが、それは、私の周りにある空想の作家たちの総意であり、つまるところ、私が想像するうえでの作家たちの意見なので、五分五分で聞いてほしい所だ。
呪いと書いたが、それは真実なのかもしれない。
食物とは違って、アイディアとは食っては食われる形の無いものなのだ。
ある意味それが、円環の中にあって、それが普通なのかもしれない。
だから、その上に立つことすらできていない私は小説家と名乗ることと、この文章を書くことに恥じらいを覚えた方がいいのだ。
当然、食われるまでに装うアイディアの塊を世に正式に出していないのだから恥を感じているのは自身でもわかっている。
書きかけの原稿と数百のアイディア。
それを満足に装丁させてあげたことは一度も無い。
私は、その書きかけの原稿を胸に抱いて寝ることすらできていないのだから、私はそろそろ書くことすらやめてしまった方が良いのかもしれない。
そろそろ筆を置くことにする。
ここまで長い文章を書くつもりではなかった、実は一ページかければいいかぐらいに思っていたが少し筆が乗ったので、ここまで書いてみた。
そもそも、現在自主的に連載している『想像×創造』が書けないので、その慣れとしての落書きだ。
なんとも言い表せれない、落胆的な気持ちになるが、まあ、それも仕方がないのだろう。
原稿用紙