白い箱
地元を出るとき、母と祖母が言っていた。お金は貸さないこと、ハンコはむやみに押さないこと、そしてよくわからないバイトに手は出さないこと。
頭の隅に追いやっていた忠告が浮かんできたのは、午前4時に長い長い列に並んだときだった。
「いやー競馬でスっちゃったもんで。5日間ほど金が貯まるまで」
「俺はパチンコ。一応3日」
「俺は免許の金です。2日分ぐらいあれば助かるなって」
「お宅は?」
あまりの列の長さに、近くの知らない誰か同士どうでもいい会話が断続的に続いていた。今の話題は、金に困った理由、つまりこの短期バイトに応募した理由と働く日数。
会話に加わるつもりはなかったが、なんとはなしに聞いていただけで参加していることになったらしい。
「……俺は友達に金貸して。とりあえずは、来月の家賃分だけ働くつもりで」
ああ〜と憐れむような目が向けられて居心地が悪い。
いや、金は返ってくるという確信はある。長い付き合いだし、そんな適当なことをするやつじゃない。…しかし来月の家賃の支払いまでにはきっと間に合わないだろうから、一応と考えて来ただけだ。
「競馬」は、まあ家賃くらいなら今日だけで貰えるでしょと言った。今回でこのバイトは2回目らしい。
「バイトの内容って実際どうなんすか」
「パチンコ」が聞く。
仕事内容は、荷物の運搬としか書いていなかった。しかも応募者全員採用、バイト代は見たこともないほど高額。そして働く日数を自由に選べるなんてどう考えてもあやしい。
「いやー単純作業としか言えないな。ほら契約書にハンコ押すからさ。一切、口外しないことってやつ」
あやしいが、親に相談できずに目先の金に釣られてこうして列に並んでいる。
郊外に建つでかい真っ白な箱のような建物に人間が次々と吸い込まれていくのを見ながら、自分の愚かさを心から反省した。もう遅い。
ようやくたどり着いた白い箱の中で、持参したハンコを契約書に押す。…これで、母と祖母の忠告を3つとも見事に破ってしまったわけだ。
仕事内容は、確かに単純作業だった。
自分の持ち場にある真っ白なダンボール箱をひたすらトラックに積んでいくだけ。
注意点は3つ。荷物は絶対に開けないこと。揺らさないように丁寧に1つずつ運ぶこと。箱が汚れていたら社員を呼ぶこと。
箱はそれほど重くはなかったが、運ぶ際に中でブヨッと弾力ある何かが揺れるのが気味悪かった。
「朝、列で一緒になった人ですよね」
昼に配布された弁当を適当な所に座って食べていると「免許」が話しかけてきた。一緒に食べていいかと聞かれて、別に構わないと答える。
「あの荷物の中身、なんだと思います?」
さあ。
「俺は、なんか生き物じゃないかと思うんですよ」
あの感触。ゾッとしますよ。そんで、俺、見たんです。隣の人が運んでた箱、汚れてて。白い箱にシミがついてたんです。なんていうんですか、茶色? 赤茶? サビた鉄みたいな色。血が乾いた色、みたいな。社員の人呼んだら、飛んできてすぐ荷物奪って仕事に戻れって。なんですかあれ。俺達、何運んでるんだろ。おかしいですよ、ここ。
元から、まともだとは思っていない。
昼からの作業も全く同じ。真っ白な箱を運んで、トラックをいっぱいにしてはまた空のトラックが到着する。
後半、さすがに疲れてうっかり大きく揺らした箱からは、ブヨンブヨンと波打つ感触が返ってくる。白い箱を塞いでいた透明テープの端が剥がれ、隙間からドス黒い何かが見えた気がした。その頃にはもう何も感じなく、考えなくなっていた。
隣の隣の男は、箱が動いたと叫んでいる。
茶色いシミがついた箱が夕方になるにつれて増えていった。無言で手を上げると社員がやってくる。
単純作業で意識が朦朧としてくるが、体は勝手に動いた。
持ち上げて、歩いて、トラックに積み込んで、持ち場に戻る。
持ち上げて、歩いて、トラックに積み込んで、持ち場に戻る。
持ち上げて、歩いて、トラックに積み込んで、持ち場に戻る。
持ち上げて、歩いて、トラックに積み込んで、持ち場に戻る。
持ち上げて、歩いて、トラックに積み込んで、持ち場に戻る。
声が聞こえた。やっぱり保たないですよ、これ。減らした方がいいんじゃないですか。
これ、死んでるじゃないですか。
死んでる? 何が?
気づけば、金の入った封筒を握って自分の部屋に立っていた。
どうやって帰ってきたのか覚えていない。
結局、貸した金は返ってこなかった。
白い箱