扉のナイ中庭 下

Saracaflora 作

書肆彼方 訳

扉のナイ中庭 下
  1. 一 夜明けぬバザール
  2. 二 家出した影
  3. 三 名のナイ
  4. 四 闇の門口
  5. 五 人と影による交唱
  6. 六 通路の消失点Ⅲ
  7. 七 もっとも近い
  8. 八 扉のナイ中庭
  9. 九 たりないもの
  10. 一〇 むかしむかし
  11. 一一 約束の力
  12. 一二 なぞかけ歌
  13. 一三 光と影による交渉
  14. 一四 干しわらの王子さま
  15. 一五 二重星
  16. 一六 帰路
  17. 一七 静かな凱旋
  18. 一八 湖畔のガゼボ
  19. 一九 ふたつめの夢
  20. 二〇 夜半〇時のらせん階段
  21. 二一 おはなしのおしまい
  22. 少し長めの追伸

一 夜明けぬバザール

一 夜明けぬバザール

 菖蒲とアルネヴは夜明(よあ)けぬバザールの大通りを歩いていました。夜明けぬバザールは名のとおり朝がやってきません。それで街はガス灯やお店の明かりで満たされ、おのおの個性的な光彩(こうさい)を放っていました。たくさんの商店が(のき)をつらね、服飾(ふくしょく)や陶器、貴金属にきらきら輝く宝石からなんでもない石ころまで売っています。へんてこりんな形の野菜や色とりどりの果物、工房や食堂も集まって、街全体がきらびやかで活気にあふれていました。
「ここでは朝や昼といった考えはなく、そもそも時計のサイクルで活動はしないんだ」
 アルネヴが言うには、わたしたちはふつう、日がのぼると起きて日が落ちれば寝ます。しかしこの街はいわばずっと夜更(よふ)けなので、眠くなったらいつでも眠り、おなかがすいたらいつでも食事をする、という具合に、それぞれが自分の生活リズムでのびのび暮らしているのです。それで、菖蒲のように外から旅してくる人はバザールの時間の流れがおどろくほどゆっくり、じれったく感じることすらあるでしょう。
「じゃあどうやって待ち合わせするの?」
 菖蒲の質問にアルネヴは当たり前といった顔で、「待ち合わせなんてしないよ。そもそも〝待ち合わせ〟という考えがない。会いたいと思ったらそのときに会いに行くし、いなかったらまた今度でいいやって」
 菖蒲は自分の領域(せかい)では正確に時間を知らせる時計を中心に生活が回っていること、決められたスケジュールで動くことや、どこでも居場所を知らせたり、みんなとつながるちいさな機械をポッケに入れていることを教えます。
「うわあ」と、アルネヴは顔をしかめて、「もしそんなめんどうな道具があったら、ここでは嫌われるし、効率(こうりつ)もわるいし、なにより窮屈(きゅうくつ)でどうかしてしまうだろうね」。
 ふたりが歩くバザールでは、おめかし(・・・・)しためんどりが子供たちをつらね、ヒョコヒョコ歩いて楽しみにしていたフルーツパーラーへパルフェを食べに行きます。中折れ帽にステッキを手にしたハシビロコウはウィンドウショッピングをしているのか、はたまたぼーっとしているだけなのでしょうか、ブティックの前でどっしり立ちつくし、オーナのヒョウ夫人がこまり果てています。秘伝スパイスで有名なカレーショップ『ピッグ』には匂いに誘われたクマの行列ができていますが、通りをへだてた向かいの同じくカレー屋『カウ』も負けていません。
「でもわたしは正直おすすめしないよミス・アヤメ」と、アルネヴは言います。「香りは悪くないけど、どちらも薄味なんだ」
 街の広場もたいそうにぎやかで、妻の買い物に付き合わされた哀れな夫のライオンは大きな箱と手さげ袋を両手に、なんとかバランスを保っていました。広場の中央にはスパンコールドレスでくるっとカールさせたまつ毛が魅力(みりょく)的な歌姫ホッキョクオオカミが、アコーディオニストのヤマネコの伴奏で『ポラーノの広場のうた』を歌いあげると皆が立ち止まって拍手を送ります。
「アルネヴ!」歌姫は聴衆をかき分け、シロウサギを抱きしめて、「帰ってくるなら手紙をくれると」
「ごめんよミセス・レイラ。常夜(とこよ)(かざ)るきみの歌声をまた聞けて幸せだ」
「あなたのためならいつでも」
 すると、近くのキリンやサイもアルネヴを見るなり抱きついて、古い友人との思い出ばなしに花を咲かせます。菖蒲は群集をぬうように近くのベンチに腰かけ、幾百もの動物たちがめいめい買い物や商談などで行き交うぎらぎらした河の流れに目をやります。そして影。彼らのことを気にするものは誰もおらず、街に自然と溶けこんで、人の影がたくさんいったりきたりしています。影の(かたち)から男の人、女の人、子どもやおとなと見わけられますが、だれがだれなのかまでは判別できませんでした。
 さて、もう少しアルネヴの時間がかかりそうなので、菖蒲が記憶の星を離れてから夜明けぬバザールにくるまでに起きた旅のお話しをしましょう。
 シロザトウクジラ・サトウ号の乗組員となった菖蒲は、ハンモックにゆられながら遠く広がる天の川で星座を結んだり、アルネヴの仕事のお手伝いもしていました。黒塗りのつづらにはアルネヴが買い集めた珍品(ちんぴん)がたくさん積まれています。それらを覚えた菖蒲はてきぱき整理してゆき、やってくる行商仲間や客との取り引きになると、好みの品をいくつかアルネヴに持っていきました。
「アヤメのおかげで商談がスムーズに成立するよ」アルネヴは満足そうに言いました。
 ティータイムになると手に入れた品を菖蒲に見せて説明します。菖蒲はそれをじっと聞き、ときには質問したりして楽しんでいたのです。
「アルネヴ。あなたがいれてくれたこのお茶、とってもおいしい。いい香りがして、さわやかな酸味も感じるわ」と、菖蒲は言います。
「これはねミス・アヤメ、特別にゆずってもらった花茶なんだ」アルネヴは人さし指を立てながら得意げにこたえます。「希少な星のかけらがどうしてもほしいという顧客(こきゃく)がいたんだ。はじめはどうしようか迷ったけれど、千年に一回しか咲かない花をブレンドした茶葉を出されてしまっては断れなくてね」
「香りの正体はその花だったのね」
「ああ、でもおいしさの秘密はそれだけじゃあない」と、アルネヴは玉虫色の筒を出します。「村に伝わる方法でね、この特別な茶筒で熟成(じゅくせい)させるんだ。初めはもっと酸味が強いんだけど、だんだんとミルクのようにまろやかになっていく。そしてほんのりハニーのあまみがあるけど、くどくならない」
「なるほど。たしかにいつも飲むお茶とはまったく別物ものね。でもアルネヴ、わたしはミルクというよりチョコレートのような滑らかさが正しいと思う」
「チョコレートか、いわれてみればまろやかの表現だとミルクチョコレートに近いのかもしれない」と、アゴをなでるアルネヴ。
「わたしのテイスティングはこうよ。口に含むとまず上品なローズ、酸味はそれほど強くないけど柑橘(かんきつ)よりも干しぶどうの深み。それにカカオティーのようななめらかさで、シナモンとか複雑(ふくざつ)なスパイスがあと引くの。きっとそれがこのお茶の魅力ね」
 菖蒲は身ぶり手ぶりいきいきと感想を語ります。
「すばらしい!」アルネヴは彼女をまじまじと見て、「ミス・アヤメ、わたしとお茶の商売をしよう。これほど豊かに表現できるのだから、きっとわくわくするような出会いがあるに違いない」
 出会い。アルネヴは口ぐせのようにこの言葉を使いました。彼が行商の仕事を選んだのも〝出会う〟ことだと話します。
「結局、わたしはせっかちということさ」
 オリオン座の南にある小さな星、アルネヴの故郷(いえ)で食事をしていた時のこと。アルネヴはスプーン片手にボルシチを食べながら菖蒲に言いました。
「手紙と同じでナマケモノにも出会いは届くだろう。しかしポストの前でそわそわしているキツネだっているし、郵便局まで行くコッカースパニエルもいるかもしれない。わたしの場合……」
「友人の家まで押し寄せてしまう、せっかちシロウサギね!」菖蒲の相づちにアルネヴの十人兄弟は大笑いします。
 菖蒲はそんな〝せっかちな〟シロウサギといろんな星に出会いました。かに座に住むカルキノスのふみつぶされた人生訓は涙なしでは聞けませんでしたし、こと座シェリアクで開かれた舞踏会はドレスを借りてワルツを踊りました。おひつじ座にある羊だけの星は思い出してもおかしな話しです。秘薬・ケムクジャラシを飲んだアルネヴが全身巻き毛モフモフになってふくれあがってしまい、毛刈りバサミで刈ったら今度はつるっつるの肌であらわれました。
 そんなこんなで気づいたら目的地の鑑定士が住むバザールに到着していました。旅の間にアルネヴは菖蒲のことが大好きになり、一緒に仕事をしようと何度も誘いましたし、菖蒲もアルネヴの闊達(かったつ)な性格が好みでしたので、すっかり意気投合し、心を許す知己(ちき)の仲となりました。もし、干しわらの王子さまの物語がなければ、あるいはアルネヴと行商の旅をしていたのかもしれません。しかし、どんなに長く続く長距離列車においても、ステキな人との相席はほんのわずかな時間だけです。

「ミス・アヤメ。待たせてしまってすまない。みんながどうしても離してくれなくって」
 アルネヴは申し訳なさそうに菖蒲に近づきます。
「ううん、いいのよ。久しぶりの再会は大切にしないとね」
「ありがとう。さあ、君との約束を果たしに行こう」
 商店街の間にのびる、迷路のような細い路地に入ると一転して静かな雰囲気のお店がみっしり並び、趣向(しゅこう)のかわった服やフェルト帽子、手織りじゅうたんを売っています。
 路地を進めばひとっけのないうす暗い道のつきあたりにジジジ、ジジジと音をたて、ついたり消えたりしている赤むらさきのネオンサインがあります。『定鑑レェシア』と、書かれた看板の下に、ひっそりとお店はありました。
「ここがわたしの修行先『アシェレ鑑定』だ」
 そう言って木の扉を開けると、店内のコレクションケースにアンティークなのかガラクタなのかわからないアクセサリーや食器などが雑然と積み重なって置いてあります。ほかに細工のほどこされた大きなつぼや、ホコリかぶったかっちゅうが今にも倒れかかってきそうなほどです。商品をくずさないよう横むきに奥へ奥へ進んでゆくと、大きなつくえで金色のアクセサリーをじいっと見つめる赤いセータを羽織り、フィンチ型メガネをかけたヒツジが座っていました。
「先生、おひさしぶりです」
「字がつぶれておるのぉ」アルネヴのあいさつにヒツジは気づかないようで、毛むくじゃらの頭をかきながらブツブツとひとりごとを言います。
「その幾何学模様(きかがくもよう)は、おそら百万年前、超新星爆発でなくなった幻の星ペイポンで作られたペンダントではないでしょうか?」アルネヴはヒツジのそばで言います。
「ふむ、わしもそう思うんじゃが、裏の刻印(こくいん)がすこし違うようでな。あとで打ったのか、それとも意図的なのか……」と、顔をあげアルネヴをまじまじと見つめて大きく目を開きます。「やあ、アルネヴか! ひさしぶりじゃのぉ」
「おひさしぶりです、先生。かわらず元気そうで」
 ヒツジはゆっくり腰を上げ、アルネヴとあく手と抱擁(ほうよう)もしました。
「わしのところにしばらく顔を見せないということは商売も上々ってことか。サトウは元気かい?」
「はい先生。サトウも先生によろしく、と。さすがにここに連れてくることはできませんから」
「イッヒッヒッヒ。わかっとるわかっとる」
「さっそくですが、今日たずねましたのは先生に鑑定していただきたい品があるからです」
 毛むくじゃらのヒツジはすこしおどろいたように、「わしにとな。いまやわしよりきみのほうが目が肥えておるじゃろうて」
「いえ、わたしは先生には遠くおよびません。鑑定の前に紹介したい人がいます」
「はじめまして、わたしはアヤメといいます」菖蒲は前に一歩出てから毛むくじゃらのヒツジにおじぎをしました。
「ほうほう、これはかわいい実体の子供か。わしの名はアシェレ、ここでずっと鑑定をしておる老ヒツジじゃ」アシェレは頭を下げて菖蒲の手にキスをします。
「先生に鑑定していただきたいのは、彼女が持っている記憶の結晶でできた小ビンです。ミス・アヤメ、見せてもらえる?」
「わかったわ」菖蒲はポケットに入れていた小ビンを取り出すと、アシェレに手渡します。アシェレはつくえにかがみ込むようにして、小ビンの鑑定をしはじめました。
 フタを開けてみたり底をのぞいたり、つくえの上で揺れるアルコールランプの光にあててコンコンと優しくたたき、なでてからことりと置きました。
「で、アルネヴ。おまえの見立ては?」
「はい。じつのところ、わたしはよくある透明な記憶の結晶だと思います。ただ……」
「ただ?」
「金色の流れ星から結晶化したと聞いていますので、透明であるにはなにか理由(わけ)があるのかと」
「ふむ。ではすこし見方を変えてみよう」先ほどまでのおっとりした老ヒツジ・アシェレとは打って変わって、心を見透かすようなするどい視線をアルネヴに向け、「もしおまえがなにも知らずにこの小ビンを出されたなら、サトウの背中に乗っとる全財産と交換するかな?」
 初めて見るアルネヴの表情。的確な言葉を探ろうと目が泳ぎ、緊張した空気が店内に流れます。
「いいえ、交換しません」
「理由は?」
「損失の可能性が高く、利益が見込めないからです」
「つまりアルネヴ、おまえにとってこれはそこらへんにある、平凡なガラスの小ビンというわけだ」
 アルネヴは思わず視線をそらします。
 アシェレのヒゲにかくされた口もとがニヤリとうごき、一息ついてからメガネをはずして、つくえにある茶色のトレイに置きました。
 短い沈黙ののち、数回まばたきをして、「おまえは一粒の真珠のために全財産を売った、かの商人にはまだまだ遠いのぉ」
「どういうことですか、先生!」
「アルネヴ、おまえが行商をはじめたいと言った時、わしが話したことを覚えているかね?」
「はい、アシェレ先生。よくおぼえていますとも。 それは 『近似値(きんじち)許容(きょよう)しない眼』、『そのものをのぞく眼』さいごに『フィルターをかけない眼』をやしなうようにとおっしゃいました。 わたしはそれをいつも心にとめて仕事をしてきたのです」
「そのとおり。おのおのは似ているが非なるもの、しかし本物は微妙な同異にあり。(しん)(おの)がそれによることよ」それから菖蒲に目を移し、「ではアヤメくん、きみはこの小ビンはなんだと思うかね?」
 菖蒲はアシェレをじっとまっすぐ見て、「これは王子さまの記憶で、わたしが結晶化と加工をした金色の小ビンです」。
 アシェレは笑顔でウンウンとうなずいて小ビンを持ち、それをアルネヴに渡して彼にもういちど、じっくり観るよう勧めます。しばらく鑑定しているとアルネヴの顔がみるみる紅潮していきました。
「先生まさか、これはもしかして……いや、そんな」
「おまえの思っておるとおりじゃ。そしてアヤメくんはまちがっておらん」
「これがあの()き通った純金……はじめて見ました。でも、あれは本の」
「アルネヴ、それが〝フィルター〟だよ。まったく未知なるものを前にするとき、それまでの知識や経験はむしろ邪魔になる。おまえは『透き通った純金』はたんなる言葉の表現にすぎず、透明な記憶は価値がないという常識にとらわれ、小びんを〝近似値〟で見た。しかもこの品のむずかしいところは質朴(しつぼく)とした外見。だがここで重要なのは〝そのもの〟がもつ性質じゃないのかね」
 息をのむアルネヴを教え諭してから、こうもつけくわえました。
「もっとも、わしもこの目で観るまでは、それが表現のひとつだと思っておったがの」
「あの、『透き通った純金』とはなんですか?」
 アルネヴが興奮(こうふん)をおさえるように声を震わせこたえます。
「『ガラスのような純金』とも言われてるけど、不純物をまったく受けつけない精錬されつくした金。性質の昇華(しょうか)……でも果たしてその説明が正しいのかどうかもわからない」
 アシェレがうなずきながらさらに説明をくわえます。
「ふつう、記憶を結晶化させると思いがのる。つまりもとの色にだれかの色が影響を与えるんじゃ。そのにごり(・・・)が価値を生むわけだが、この小ビンは金色の記憶を結晶化した際、おそらくアヤメ君の思いが精錬(せいれん)を加え純度を増した、と考えられるな」
「この小ビンが金色の結晶だったとしても、その希少性は後世(こうせい)語りつがれるものなのに、一生で『透き通った純金』を手にすることができるなんて」アルネヴは深いため息をつきます。
 すると、店の入りぐちのほうからコトッとなにか当たる音がして菖蒲は店内を見渡します。
「ミス・アヤメ、どうしたの?」
「ううん、なんでもないわ。気のせいかしら……」と、首をかしげます。
「この小ビンにはよほど深い意味があるんじゃろうて。なあアヤメくん」
 アシェレはメガネに手をのばしかけてから菖蒲の顔をうかがうと、彼女は扉のない中庭にある井戸の水をこの小ビンで()まなければならないことを伝えます。アシェレは静かに耳をかたむけていましたが、菖蒲がひととおり話しおえてからこう言いました。
「ふむ。扉のない中庭については、わしも古い言い伝えで聞いたことがあるの」
「わたしも行商で旅をしていたとき、うわさを耳にしたことがあります。しかし先生、どこかにある場所のようなものではないはずですが」
「それがね、アルネヴ」と、菖蒲が口をはさみます。「闇の門をくぐって中庭の近くにまで行ったことのある人がいるのよ」
「なるほど闇の門か。それは考えになかったの」アシェレは感心します。「だがしかし、そもそもあそこは光を受けつけぬ眠りに近いとされる領域。いったん足を踏み入れれば二度と後にはもどれぬ」
「はい。それでも、わたしはこの小ビンを持って闇の門へむかいます」
「ほお……」アシェレは菖蒲の目を見定め、それから笑顔で、「その思いが奇跡の小ビンを生んだ、というわけじゃなあ」。
「アシェレさん、教えてください。闇の門へはどのようにゆけばよいのでしょうか?」
 菖蒲の質問に、アシェレとアルネヴは不思議そうに言いました。
「なにを言っているんだいミス・アヤメ。きみがいるこのバザールこそが闇の門のまえにある街だよ」
「ええっ!」菖蒲は思わず声をあげ、おどろきます。まさか闇の門のすぐそばにいたなんて。
 そうです。なんと菖蒲は知らないうちに次の目的地にまで来ていたのです。

二 家出した影

二 家出した影

『アシェレ鑑定』を離れてすぐ、雨がしとしとふってきました。
 ガス灯やネオンの明かりがしめった水晶のような石畳(いしだたみ)()じりあい、虹色に揺らつきます。金色の小びんの秘密を知った菖蒲とアルネヴは、ひとまず帰ろうと頭を押さえながら小走りでザトウクジラのサトウのもとにむかっていました。大通りへ抜けようとしたその時、なにかが思い切りぶつかってきて、菖蒲は「きゃあ」と声を上げ、ぐっしょりぬれた地面に尻もちをつきました。前を走るアルネヴはすぐに気づいて足を止め、彼女に手をさしのべます。
「ミス・アヤメ、だいじょうぶかい?」
「ありがとうアルネヴ」菖蒲はアルネヴに支えられて立ちあがり、痛そうに腰をさすります。「女の子がお店の横から突然でてきてわたしにぶつかったみたい。雨だから急いでいたのかも」
 一言もなく立ち去るなんて失礼だと言っておこるアルネヴに、菖蒲はまあまあとなだめます。それから街はずれの大きな公園でサトウと合流して地面に張っておいたタープの下に身を寄せました。
「ないわ!」
 ランタンをつけてから白いふかふかのタオルを手にしたアルネヴは菖蒲の大きな声にびくりと肩をふるわせました。
「アルネヴ、どうしよう。小ビンがないの!」アルネヴを見つめる菖蒲は顔色をうしない、したたる雨水のことなど忘れ、両手でスカートをにぎりしめます。
「先生のお店に置き忘れたんじゃないのかい?」と、言ってアルネヴは菖蒲の頭にタオルをかけました。
「いいえ」菖蒲は大きく首を横にふります。「アシェレさんから返してもらって確かにポケットに入れたわ」
 体じゅう、隅々までなんども探しますが、やはりどこにもありませんし、もちろんアルネヴも持っていません。
「もしかして、さっきぶつかったときに落としたのかも」
「それは大変だ! いつも混雑するバザールで落としてしまったら見つからない」
 ふりしきる雨もそっちのけ、飛び出すように事故現場の交差点にもどります。
「ああどうしよう、どうしよう」菖蒲は人目もはばからず、ひざをついてあたりを必死に探しますがどこにもありません。「あの小ビンをなくしたら王子さまを助けられない!」
 アルネヴはひどく動揺(どうよう)する菖蒲の肩にそっとふれて、「落ちついてミス・アヤメ。だいじょうぶ、きっと見つかる。わたしは先生の店まで道をたどっていくから、きみはもうすこしこのあたりを探してもらえるかい」。
「うん」と、菖蒲はうなずき、アルネヴは路地の奥に消えていきます。
 カサをさす動物や雨合羽(あまがっぱ)を着た影でごった返すバザールでひとり腰をまげ、地をなめるように()くし物を探す菖蒲でしたが、頭ではあれやこれや心配や不安はつのるばかりです。キラキラひかるガラスの細片(さいへん)目地(めじ)に落ちるていると、まさか割れてしまったのではないかヒヤヒヤしてもうたまりません。
「お願いだから見つかって」ぶつぶつ念じるようにしばらくバザールの大通りをゆくと、遠くには大きな黒いアーチ門が望めますが、小ビンを探すことで頭いっぱいの菖蒲はまったく目に入りません。
 いつのまにか雨もやみ、にぎやかなバザールを離れてお店からちいさな屋台へ点々とまばらになっていきます、そのうち、夜のいなか道のように左右の景色は闇に溶けこみ、一本道だけがポツポツと弱々しい和ロウソクの(あかり)に照らされ、かろうじて見えるだけになりました。
「このサキにススんではイケナイ……」
 最後の屋台からひそひそ聞こえるささやきも通り過ぎて、ついに灯火すらなくなったとき、うつむく菖蒲はようやく道を歩きすぎたことに気づき、足を止めます。ときおり、影のような揺らぎが現れては消え、バザールのほうへ行ったり来たり、なんとも不気味な往来です。顔をあげると何十メートルの高さもある巨大な漆黒(しっこく)のアーチ門がバザールの反対側、菖蒲がむいている先にどうどうとそびえ建っていました。あまりの大きさに怖くなってひき返そうとした時、アーチ門のほうからチカチカと光が幾度(いくど)かまたたき、それは夜の海を照らす灯台のようにあたかも自分がここにいることを知らせ、菖蒲は光の源が金色の小ビンであることを確信します。なぜなら灯台の光が記憶の星であおぎ見た金色の流星だったからです。
 門に近づけば近づくほど、体の小さな菖蒲を向こうへ向こうへひっぱろうとするものですから、両ひざに手をしっかりつけて、ふんばりながら足を一歩ずつふみだします。黒い(きり)は体にまとわりつくようなねばり()()び、もがきつつ伸ばされて影の肉となり男と女の形、それらから子供が生まれ、淡々と老けてうつろいました。菖蒲は一生を逆巻き、重い足取りでわずかな光に向かって進みます。こおこおと吹く風にもまれていると、ふいに男女が菖蒲の両脇を歩き、それはまるで遠い日の失われた時間(かこ)影法師(かげぼうし)が菖蒲を取りもどそうとしているような、消え入る甘美な香りに思わず両手を差しだし、なんだか眠たくなってそのまま闇の中へさそわれます。
人間(あんた)が行ってはダメ」
 深い闇に一瞬、かすれた美しい声と少女の手が照らされ、菖蒲の手首をぐっとつかんで門柱に引き寄せます。はかない夢から覚めた菖蒲が見たのは金色の小ビンを手にしてうつむく少女の影でした。
「あなたは……」
 菖蒲ははたと気づきます。さきほどサトウのところへ走って帰る時にぶつかった人、それが目のまえにいる女の子で、彼女が菖蒲の小ビンを持っていったのです。大事な小ビンが無事だったことを知って菖蒲は胸をなでおろしました。それから女の子がおどろいて逃げないよう、おだやかに口を開きます。
「はじめまして、わたしはアヤメ。あなたとお話しがしたいの。いいかしら?」
 影の女の子は菖蒲に気づいているようですが、下をむいたままただ黙っています。
「ねえ、ここではしゃべりにくいから、よければもうすこし離れたところであなたとゆっくりお話しできるかな」
 しばらくして、影の女の子はコクリとうなずきました。

「おーい!」アルネヴとわかれたバザールの交差点でアルネヴは遠くから手をふりながらやってきました。「ミス・アヤメ、やっぱり先生の店までたどったけれど見つからなかった。これから管理局にもかけ合って……ん、その子は?」
 影の女の子の手に小ビンがあることがわかるとアルネヴはおどろいたように、「きみが持っているのはもしかして……!」
 菖蒲は口もとにそっと人さし指をあててから目くばせします。
 眉間(みけん)にしわを寄せるアルネヴは、けげんな顔つきでなにか言いたげですが、菖蒲は首をゆっくり横にふりました。
「優しいアルネヴ、わたしから大切なお願いがあるの。聞いてくれるかしら」
「わかったよ」アルネヴは、はあっと深いため息をつき、頭をかきながら「きみの願いは断らないと約束したからね」。
「ありがとう」と、菖蒲は笑顔でお礼を言いました。

「わたしはねサトウ。自分が度量の広いな聖人ウサギだとは言わないさ。でもこのたびのミス・アヤメにまったく、すこっしも同意できない」
 サトウの頭の上で腕と足をどっしりと組みながら寝そべるアルネヴは、ふてくされたように言います。
「宇宙に一つしかない歴史的価値をもつ、いいや、どんなに形容しても表せないほど貴重な小ビンを取られておこらないだけではなく、わたしの家でお茶をごちそうするなんて。し・か・も、あれだけ一生懸命探して先生のところまで行ったのに、わたしは自分の部屋にすら入れてもらえない」
 サトウは答えるように鼻息をフシューっとあげます。アルネヴと長いつきあいなので、商談がどうにもうまくいかなかったり、納得いかない時にはこうして頭の上で愚痴(ぐち)をこぼすことも心得ています。それで無口なサトウはアルネヴの機嫌がよくなるまで、いつもより静かに耳をかたむけていたのです
 いっぽう、菖蒲はアルネヴの部屋で影の女の子にあったかいお茶をいれてあげました。
「このお茶おいしいでしょ。とってもめずらしいお茶なんだって。あ、アルネヴっていうのはさっきの白いウサギさん。ここも彼のお(うち)なの。ふふっ、とっても紳士(しんし)でステキなシロウサギよ」
 菖蒲が楽しそうに話をしますが、うつむく影の女の子は黙ったままお茶を口にします。ティーカップをソーサーにそっとおくと、彼女はゆっくり口を開きました。
「あたし……味わからないの。においもなにもかも。影だから。影にはいらないんだって」
 少女の言葉は菖蒲の胸をしめつけます。わたしと同じ感覚を持っていないから、だけではなく、それに気づいてあげられなかったからです。菖蒲は口にすべき言葉をじっくり考えてみます。「ごめんなさい」とあやまればよいのか、それとも聞かなかったふりをすれば傷つけないでしょうか。
 すると女の子のほうから話しはじめます。
「門から外にでてはいけないって言われたから……あたし家出したの」
「あなたはあの門のむこうがわの領域(せかい)に住む人なの?」
 すると女の子は軽くうなずいてから、「影はみんなそう。ここにいる影もむこう側から来てるの。影はみんな同じ影。ただすこし、形が違うだけ」。
「ではなぜ、あなたはあの門から外にでてはいけないのかしら」
「あたしは自分がある影だから。自分をもつ影は、みんなに迷惑(めいわく)をかけるからでてはいけないって、お父さんが言ってた」
(この子にはお父さんがいるのね)
「そっか」菖蒲は気にせず女の子を見つめ、「ねえ、もしいやでなければ教えて。あなたのお名前はなんていうのかしら?」
 影の女の子はやっと顔をあげ、菖蒲のほうをむいてから首をかしげて、こう言いました。
「名前ってなに?」

三 名のナイ

三 名のナイ

 名は何のためにあるのでしょうか。区別するため、意味や価値を持たせるため、それとも自分や他人を認識するため? 
 誰でも当たりまえのように自分の名前を持っています。そして多くの場合——好きか嫌いかにかかわらず——その名によって呼ばれます。だれかを知ろうとするとき、あるいは知ってもらおうとするとき、わたしたちはまず名前をたずねたり自己紹介します。同じように菖蒲も最初に自分の名前をつたえて、少女の名前をたずねたのです。
 でも影はそれらすべて必要としません。自分がだれか、またほかのものがなにかを知る必要はなかったのです。なぜならこの領域(せかい)で影は影として生みだされていたからです。バザールに行き交う影はうつろい(・・・・)であり、光と闇の均衡(バランス)に過ぎませんでした。街の住人たちも彼ら影を空気のようにあつかっていたのです。わたしたちだって影をいつも意識して生活することはないでしょう。菖蒲もおそらくこの少女と出会い、こうして話さなければ、それら影の存在について気にとめることはありませんでした。
 しかし、名前について問われた影の少女は今や自分に目ざめ、名前の意味を知る必要が生じました。つまり自分とはいったいなにが自分なのか、わたしはなにをもってわたしなのか、と。
 それで、菖蒲の前にすわる影の少女はこう言いました。
「あたしはあんたのいうナマエというものを知らないの……でも」
「でも?」
「あたしはあんたのようになりたい。それで家出した。兄みたいに」
「兄? あなたにはお兄さんがいるの?」
「兄があたしにおまえはあたしの兄妹(きょうだい)だと言ってたの。兄はいろいろ教えてくれた。でも、兄は闇の門から出てった。そして二度と帰ってくることはなかったわ」
「お兄さんはなんで出ていったのかしら」菖蒲がそう聞くと、女の子はうつむいてしまい、「わからない。でもほしいものがあると言ってた。そしておまえもいつかそれをほしくなるだろうって」
 菖蒲はお茶を口にしてから女の子にたずねます。
「どうしてあなたはわたしのようになりたいの?」
 少女は肩をひくっとゆらし、「あんたがめずらしいというこのお茶がなんなのか知りたいのよ。それにナマエだって。だから……」
「だから?」
 少女は人形のように固まってしまいます。
 菖蒲はうなだれる影をじっと見つめ、沈黙に耳を傾け、無言のひびきを感じ取ろうとつとめます。少女がなにを話せばよいのか、わたしに伝えたいことも知っていましたが、それを彼女の口から聞きたかったのです。そのためにはたくさんの時間と理解を犠牲(ぎせい)にしなければなりません。
「だから……だから……」女の子は独り言のように何度もそう言って小ビンをぎゅっとにぎりしめます。
 どうにもできない感情がこみあげたのか、少女の目から涙の影がポロポロとこぼれ落ち、菖蒲はとても悲しくなります。
——彼女は涙を流せることにすら気づいていない。ああ、わたしはこの子のためにいったいなにをしてあげられるだろう。どんなことをすれば彼女は満たされるのだろう。
 ついに少女は顔をあげて、ふるえる声でこう言いました。
「だから……あたしは……あたしはあんたの小びんを()ったのよ」
 少女のつたない告白は菖蒲の思いをゆさぶり、さっきよりも強く胸の奥がしめつけられ、いろんな思いがまるで噴水(ふんすい)のようにほとばしります。自然とまゆは中央に寄り、目にあふれる水を止めようと口びるをかみました。
 そんな菖蒲の気持ちなどおかまいなしに、少女の顔はパッと明るくなります。
「あんたたちがこの小ビンの話をしているのをあたし聞いてた。これがあれば、あたしがあんたのようになれると思ったの。だから、これの使い方をおしえてちょうだい」
 菖蒲は少女に強い愛を感じて、はっきりこう伝えます。
「なれない、なれないのよ。その小ビンをもってもわたしにはなれないの」
 女の子は首を横にふり、「そんなの(うそ)よ。だってこれには記憶と思いがあるって、あんたが言ってたじゃない」
「あなたの言うとおり、たしかにその小ビンは大切な人の記憶やわたしの思いがつまっているけれど、それを手にしたからといって、あなたはわたしのようにはなれないの」
「嘘よ!」
 少女の金切り声。菖蒲はじっと優しく、幼い子どもをさとすようにこたえます。
「ねえお願い、聞いて。あなたはあなたで、わたしはわたしなの。たとえあなたがそう望んでいても、ほかのものにはなれないのよ。なれないものになろうとしたって自分を傷つけるだけ。心はあなたの空腹を満たしてはくれないの。それにもし、誰かになったとしても、ほかのなにかに変われたとしても、本当に求めていたものがそれじゃないことに気づいたなら、それを知ったあなた自身は壊れてしまう」
「嘘つき!」女の子は首を横に強くふり続けます。「そうやってあんたは自分だけのものにしようと隠してるのよ! あたしはあんたのようになりたいの。あたしにはなんにもないんだから!」
「あなたにはあなたがある。ほかの人にはない自分だけの自分。それなのにあなたはなぜ、あなたであることに満足しないの?」
「大嘘つきのあんたなんかにわかんないわよ!」少女は手にある小ビンをぎゅっとにぎりしめ、責めたてるようにはげしく、「あんたはあたしにはない全部があるのだから、あたしにだってそれをもらえなきゃおかしい!」
 菖蒲はすっくと立ちあがり、興奮(こうふん)する少女のそばで手を差し出します。
「じゃあ交換しましょう。わたしはあなたが持っている小ビンがどうしてもほしい。その小ビンはわたしがとても大切に想う人を取りもどすためにどうしても必要なの。だからわたしはあなたにわたしの心の半分をあげる。そのかわりにあなたの手に持っている小ビンをわたしに返して」
 少女は少し考えてから首をたてにふり、にこりと笑顔で言います。
「いいわ。でもどうやってあたしにあんたの心をくれるの?」
 菖蒲は王子さまのつけていた首かざりから指輪をはずして右手の薬指にはめると、赤い宝石は炎のように石のなかでまっ赤にもえてかがやきはじめます。
 それから少女の目を見て。こう言いました。
「ただ、ひとつだけ約束して。あなたがもし、わたしの心を必要としなくなったなら、わたしがさっき言ったことの意味を知ったのなら、そのとき、半分の心をわたしに返してもらえる?」
「ええ、わかった」
 菖蒲が少女の肩に手をまわしたその時でした。
「アヤメは! アヤメは嘘つきなんかじゃない!」近くで身をひそめていたアルネヴがふたりのまえにでてきます。「きみがわがままなだけなんだ!」
 アルネヴはひどく取り乱し、大声で叫びます。
「アヤメ、アヤメ! ぜったい、絶対にそんなことをしてはいけない! きみの美しい心が分かたれるなら、アヤメはどれほど苦しむことになるだろう。欠けた心を探し求めアヤメはどんなにか辛い思いをするだろう。わたしはそんなの黙って見てはいられない! こんなのおかしい、間違ってるよ!」
 菖蒲は少女のうしろに立つアルネヴに母親のような優しい笑みをうかべます。でもアルネヴははっきりと見ました。菖蒲の右目から涙が一つぶこぼれるのを。
 それから菖蒲は目を閉じ、少女をいよいよ強く抱きしめました。
 産声(うぶごえ)のような、しかし耳をつんざく鋭い音が遠く天から聞こえ、菖蒲の薬指にある赤い宝石は心が流す血のようで、アルネヴは思わず顔をそむけます。
 心が半分に引き()けるとき、今まで人が誰も経験したことのない内奥(ないおう)の痛みを菖蒲にあたえますが、声をあげることなくただくいしばり、じっと耐え、受け入れました。
 菖蒲は息をすべて吐くと、指輪を指からはずし首かざりにしてもどしました。そして大好きなお義姉(ねえ)さんのことをわすれたのです。
「アヤメ!」くずおれる菖蒲のもとへアルネヴはいちもくさんにかけより、彼女の肩に手をあてます。「ああ……ああ、きみはなんてことを」
 ところが菖蒲はまゆをひそめ、「アルネヴ、約束やぶったわね。わたしはあなたに、この子と話しおえるまで外で待っていて、と言ったでしょ」。
「そんな、わたしはただアヤメが心配で、いてもたってもいられなくて、それで、それで……」
「外で待ってて」
 しょげかえるアルネヴの背に、菖蒲は小さな声で言いました。
「アルネヴ、ごめんなさい。わたしを信じてくれてありがとう」
 少女から約束どおり小ビンを返してもらい、菖蒲はひたいにあてて安堵(あんど)します。
「あなたには名前がなかったわね。わたしがつけてあげる。あなたの名前はミモザ。ミモザよ」菖蒲はミモザの両肩にふれて、強い眼差(まなざ)しでさらにこう言います。「よく聞きなさい、ミモザ。あなたはわたしが歓ぶとき喜び、わたしが悲しむとき哀しむの。わたしの痛みはあなたにとって(とげ)となり、わたしの辛苦(しんく)はあなたにとって(かせ)となる。わたしがあなたにあげたものは、わたしなのだから」
 菖蒲はミモザを残してアルネヴのもとへでてゆきました。
 ひとりになったミモザは手のひらを見つめてから胸にあて、目を閉じます。
 菖蒲の心を半分もらった影は、まえより心奥(しんおう)にずっしりと重みを感じました。これまでにない景色、かいだことのないにおい、おいしいと言っていた味、わきおこる感情、誰かを想うこと。それらすべてはきっとすばらしいものなのだろう、あふれるほど豊かなのだろう、ずっとそう考えていました。鳥の翼を背に、大空をどこまでも羽ばたき、魚の尾びれを足に、大海原を好きなだけ泳ぎまわれるんだ。なにより大好きな兄がほしくなるだろうって言い残したものはきっとこれだったんだ。そのために家出をして、菖蒲の大切なものまで盗んだのです。それとひきかえに得た自分のほしいもの、願いをついに手にしました。
 でも、菖蒲が伝えたように、そこにいた影はミモザです。
 菖蒲の心の半分と名前をもらってミモザがいちばん最初に感じたこと、それは空虚(むなし)さでした。

四 闇の門口

四 闇の門口

 ミモザは菖蒲とアルネヴが仲良くしている様子を遠くでそっとのぞいていました。すると、なぜだか胸がずきずき痛くなります。
——アルネヴはアヤメを心配しながらも尊敬して、彼女はそんなアルネヴが大好きで信頼している。でも、ふたりとも大事な言葉を口にしないのはなぜ? それは本当の友情をおたがい懸命(けんめい)に守っているから。だれからだろう? きっと嘘や疑念(ぎねん)、恐れ……友情を壊そうとするあらゆるものよ。
 ミモザはすこしずつ見えないことを理解できるようになりました。それは菖蒲の心を半分もらったからでしょうか。じつのところそうではありません。なぜならミモザは初めから自分をもっていたからです。それでも、ミモザはまえよりも自分を親しく知るようになりました。まるでミモザのなかで菖蒲と仲よくなるように。
 ミモザはいますぐにしなければならないことがわかりました。はやく自分の(うち)にあるこの痛みを取りのぞいてあげなければなりません。なぜなら放っておくと、いつまでも残ってしまうからです。
 ミモザは菖蒲のもとにいそいでかけより、胸に手をあてて言いました。
「アヤメ、ごめんなさい。あたし、あなたの大事なものを盗んでしまった。それにわがままばかり。どうかあたしを許して」
 菖蒲とアルネヴは目を合わせ、彼はやれやれっといった顔をします。菖蒲はクスッと笑い、それから不安そうにこちらを見つめるミモザの肩に優しくふれました。
「ミモザ、もちろん許すわ。だってわたしたちはもう、心をわかつ友達でしょう?」
 すると感じていた痛みはスッとどこかにいってしまいました。それでミモザは遠くへ去る痛みにむかってこう語りかけます。
——でも、あたしがもし誰かを傷つけていたり、嘘を言って悲しませたのなら、またもどってきてほしいの。あたしが(あやま)ちに気づけるように。
 菖蒲とアルネヴはミモザをティータイムに誘い、みんなでテーブルを囲みます。金縁の白磁カップとソーサー、銀製のティースタンドには下からキューカンバーサンド、スコーン、一口サイズのケーキやマカロンがのっていました。
「うん、これもまたいいね。まえよりもっとまろやかになっているよ」と、あたため直した紅茶をティーポットに持ってきました。
「なにを言っているのアルネヴ。お茶がもつ本来の香りはまったく消されているわ。ミモザにこんなお茶をだしてわたしたちのティータイムが嫌いになったら大変よ。すぐに新しいのと交換(こうかん)してちょうだい」
「ええっ、いれなおすのかいミス・アヤメ。だってこのお茶、すごく貴重だって言ったじゃないか」
 菖蒲はすんとした顔でこう言い返しました。
「大切なレディをふたりもおもてなししていますのよ、紳士のアルネヴさん。それとも、そちらのつづらの上から二段目の右奥に隠してある茶筒には、わたしの知らないもっとすばらしいお紅茶でもあるのかしら?」
 あきれたアルネヴはもうなにも言えず、しぶしぶお茶をいれかえました。
 そんなやりとりにミモザはクスッと笑い、ふわっと立ちのぼるゆげが鼻に近づくのを感じます。
「とってもいいかおり」ミモザは目を大きく開いて、思わずカップを口に近づけました。「それに落ちつく味。ああ……紅茶はこんなにステキなものだったのね」
 ミモザはなんだか体全体がふんわり満たされて、なぜだろうとテーブルを見まわします。
——この紅茶が貴重であったり、おいしい食べ物がたくさんあるからだけじゃない。すてきな友人と一緒に過ごせること、みんなで(いこ)いのひと時をより良いものにしようと願っているからよ。そっか、あたしはそれに気づきさえすればよかったんだ。
 ミモザはわきあがる幸せがやってくると、あふれんばかりの喜びを言葉に表してみんなに知らせたいと思うようになります。
「あたしのために大事な紅茶をいれてくれてありがとう、アルネヴ!」
「どういたしまして」と、アルネヴは笑顔でこたえます。
「アルネヴ、かわいい女の子に感謝されて照れてるでしょ」と、菖蒲がからかいます。
「ミス・アヤメ、かわいいレディにわたしがとられそうでやきもち(・・・・)焼いているのかい?」アルネヴが細目でニヤニヤしながら返すと菖蒲は顔をまっ赤にします。
「そんなことないもん!」
 みんなで大笑いするとミモザはもっとうれしくなります。そしてこの時間がずっとつづけばいいのに、と思いました。それで、わきあがる幸せにこうかたりかけます。
——あなたはあたしとずっと一緒にいてほしい。でももし、もしあたしがあなたを当たりまえのように思ってしまったのなら、素直にありがとうって言えなくなったなら、あたしから離れて。あたしが感謝を思いだすために。
 ティータイムを楽しんでからサトウとわかれ、三人はバザールへでかけました。
「見て、ミモザ。あそこで行列しているカレー屋さんは行列ができてるけど大味なんだって。そう言われるとならんで食べてみたくなるのよね。あっちも……」
 そう言うと菖蒲はミモザの腕を引っ張って近くのお店に走ります。
 どこまでものびる『スパゲッティ化現象アイスクリーム』、プカプカ浮かぶ『星の卵』を売るお店では誰よりも先に星の名前をつけることができます。ただし、みんなに自慢できるのは何十億年も先の話ですけど。
 宇宙のりものショップでは高速ロケットのほかにも、あの(・・)空気を利用した『クリーンヘネルギー新型バイク』がショーウィンドウに飾られていましたが、においの完全除去(じょきょ)については今後の課題(かだい)のようです。ちなみにそのとなりが焼きいものお店であるのは偶然(ぐうぜん)でしょうか。
 古着屋さんのマネキンには裸の王さまが着ていたらしい『バカには見えない服』、雑貨(ざっか)屋さんのおすすめはジャックが植えた『天まで届く豆』と『金のたてごと』で、今なら『金のたまご』もセットでお安くしてもらえるようです。
 ミモザに刺繍(ししゅう)入りのボタニカルブラウスをあてがい、菖蒲の首にきらきらのネックレスをかけてみます。ふたりはなんでも手にとって、においをかいで口にしてたくさん笑いました。すごろくでマスを進めたりもどったり、時には一回休みとなるように、このお店に入ったかと思ったらまたあの店と、いつになったらゴールにたどりつくのでしょうか。アルネヴは手をつないであちこちめぐるふたりの後ろ姿に、仲の良い姉妹の面影(おもかげ)を見ました。
 やがて大通りにならぶお店はぽつぽつと、あたりもうす暗くなっていきます。
「このサキにススんではイケナイ……」
 ついに、『ひそひそと聞こえるささやく屋台』まで着いてしまいました。
「きみたちにプレゼントしたいものがある」ほんのりと照らすロウソクのそばでアルネヴは足を止めて言います。
 ふたりは立ち止まってふり返ると、アルネヴは菖蒲に金色、ミモザには銀色のペアバングルをそれぞれ手渡します。
「それは一生分の輝きを終えた星の残りでできているんだ。最初はひとかたまりの鉄だったのが、小さなヒビにより割れてしまった。でも星細工職人(アルケミスト)の手によって新しい個性をもち、固く引き寄せあう金と銀に生まれ変わったといわれている。きみたちのこれからの友情に」
「アルネヴ、ありがとう」
 そう言って菖蒲はバングルを右手首に、ミモザは左手首につけます。
行商(わたし)はこの先に進むことは許されていない。市のあるところ、つまりあの屋台までがわたしの自由が許された領域(せかい)なんだ。だからここでおわかれだね」
「アルネヴ!」菖蒲はすぐに愛すべきシロウサギを強く抱きしめます。「あなたに会えて本当によかった。あなたはわたしの、とても、とても、とっても大切で心地良い最高の友人よ。またあなたのティータイムにわたしを招待してもらえるかしら」
「もちろんさ、ミス・アヤメ。きみを心から愛している。わたしたちふたりの(あいだ)には多くの言葉を必要としなかった。でもたくさんのすばらしい宝物に出会ったんだ。そしてこれからも見つけるだろう」
「うん」
「わたしの約束を覚えているね。どんなちいさな困りごとでもわたしは断らない。すぐにサトウとやってくるよ」
「ありがとう、アルネヴ。大好き」菖蒲はアルネブのほおに優しくキスをします。
 ミモザはいつまでも抱き合うふたりをながめて、胸がぎゅっとしめつけられました。
——ふたりはいつかわかれがくることを知っていたのに遠くへ追いやっていた。そっか、アルネヴはもっとアヤメとの時間を過ごしたかったけれど、彼は大切な惜別(せきべつ)のひと時をあたしにプレゼントしてくれたんだ。
 仲のよい友とのわかれや愛する人がいなくなると、互いに引き合う心が必死に止めようとします。どこにいってしまうのだろうか不安になるのです。それはさっき感じた後悔(こうかい)の痛みとはまったく異なるもので、痛みよりもっと苦しくてやっかいな、いやすことができない裂傷(きず)になります。
 ミモザは心を半分にしたことがどれほどなのか理解しました。そう、菖蒲が幼いときからずっとこの不安や苦しみを秘めていることに。
——それでもアヤメがあたしを友と呼んだのはどうして? なぜあたしを責めないのだろう。あたしを強く(しか)りつけて、たくさんなじって、もっと怒って、避けてくれれば。わがままで、大切なものを盗む、姑息(こそく)で汚い影だって(にく)み嫌えばよかったのに。そうすればアヤメはこんな傷を抱えないですんだはず。
 すると心はミモザに優しく語りかけます。
「それは違うわ、ミモザ。あのとき、わたしはあなたにただ分けてあげたかった。どうしても言葉では伝えきれない、あなたへの想いを。だから、わたしとの約束を守ると信じてる」
——ああ、あたしのうちにまかれた、たくさんの悲しみよ! いつかアヤメとの約束を果たしたそのとき、おまえたちは喜びの花となれ。カタクリがいくどもいくども厳冬(げんとう)()し、やがて早春(そうしゅん)の野山をひっそり(かざ)るように。わたしはその花を彼女に届けよう。だから待っていてほしい。
 アルネヴに手を振って、菖蒲とミモザは闇の門に近づきます。
 すいこまれるようなあの粘る強い力と深い闇を感じますが、ミモザは左手で菖蒲の右手をしっかりつかみます。
 ついにミモザは菖蒲のすべてを知ったので、こう言いました。
「アヤメ、あたしの手を離さないでほしいの。あたしはあなたが行きたい場所を知っているから。アヤメはあたしを信じてくれる?」
「ええ、もちろん」菖蒲はすぐに答えます。「ねえミモザ、わたしはあなたと出会うまえから信じてた。いつも、いつも。そしてずっと、ずっと」
 こうしてふたりは闇の門をくぐり抜けていくのでした。

五 人と影による交唱

五 人と影による交唱

 闇が濃い(きり)のように立ちこめていました。
 視覚の闇か、はたまた感覚なのかわかりません。目を開けていても閉じてもまっ暗だったからです。まえにいるミモザも、菖蒲自身でさえ認識できず、ただしめった空気が冷たくまとわりついて、ぶきみな風がほおをかすかになでます。
 コツンコツンとガラスの平面をたたいているような、ふたりの足音だけがどこまでも反響(はんきょう)して聞こえます。天井(てんじょう)の高いお堂にいるのか、それとも闇とは広いどうくつなのでしょうか。 
 まったくなにもわからない暗闇のなかで、唯一感じられるのはぬくもりです。ミモザと菖蒲は手をからめて、どこかへ向かっているのがわかりました。
「ミモザ、あなたはいまどこを歩いているのかわかる?」
 菖蒲がたずねると、ミモザの声だけが返ってきました。
「ええ、でもまえよりわからなくなってきている。たぶん……」
「たぶん?」
「あたしが光を知るようになったから。闇を知覚することがむずかしくなってきてるのだと思う。でもだいじょうぶ、あの場所はおぼえているの」
 そう言ってふたりはしばらく歩きつづけました。
 どれくらい時間がたったのでしょう。一分が一時間、一日が一週間過ぎているような、いや、その逆かもしれないと菖蒲は不思議な感覚にとらわれ、もしここでミモザの手を離したら暗闇の中で迷子になって、だれも助けてはくれず、永久に闇に閉じこめられてしまうのではないかすこし不安になります。
 闇の中での想像はいつもよりはっきりとしていて、恐怖におびえながらひとりさまよう自分の姿がありありと目に浮かびます。
 歩き疲れた菖蒲は地面にうずくまり、頭をひざにのせて休みんでいると、「わたしを助けて」。
 遠くから聞こえる少女のうわずる声に菖蒲は顔をあげます。
「どこ? どこにいるの?」
 菖蒲は立ちあがり、声のもとへ。
「わたし見えないの。なにも、なんにも」
 いくら探してもわかりません。
「わたしも助けて」と、菖蒲の声。
 すると、「どこ? どこにいるの?」
 遠くから響く少女の声。
「わたし、見えないの。なにも、なんにも」と、菖蒲の声。
「わたしを助けて」と、少女の声
「どこ? どこにいるの?」菖蒲の。
「助けて」わたしの。
「どこ」菖蒲の。
「見えない」わたしの……菖蒲(わたし)の?
「いけないアヤメ! あたしの手を疑わないで!」
 ミモザはぐっしょりぬれた菖蒲の手を強くにぎり、心臓(しんぞう)の高ぶる鼓動(こどう)が伝わり聞こえます。
「ミモザ、わたし……」
「しーっ、静かに。闇はアヤメを排除(はいじょ)しようとしている。そうよね、パパ」
 その瞬間(しゅんかん)、菖蒲は圧倒されるような力と視線を感じ、あまりに冷たい気配で全身がブルブルふるえました。それから低くて大きな音が上から響き、やがて音は混濁(こんだく)した言語となり、菖蒲にも理解できる音声へと変化します。
「我はおまえの父ではない」
 ゆっくり語る一声で地面はゆれ動き、押しつぶされるほどの威圧(いあつ)に、菖蒲はミモザの腕をにぎります。
「そうです。あたしはそれを兄から聞いたからです」
「影に兄弟などない。あれもこれも配列の誤差と調整であり、不完全と欠陥(けっかん)のできそこないにすぎん」
 菖蒲はムッとし、(うち)で気づかないほどちいさな火がくすぶりはじめます。
「それでも、あたしに自分をあたえてくれたのはパパです。あたしは友人をあの場所へつれてゆきます」
「好きにするがよい。しかし領域(りょういき)の調和をみだすものには相応(そうおう)のむくいを受けるのが定め。(おのれ)をもつ影よ、わきまえておろう」
「はい、知っています」
「愚かな影、名は己をあざむき続けるであろう。あれがそうであったように」
 干しわらの王子さまと対峙(たいじ)した黒く燃える影、それがミモザの兄であることに菖蒲は気づきます。でもミモザには……
 闇の(あるじ)はすかさず菖蒲に言います。
「人よ、定められた領域(りょういき)(おか)すに飽きたらず、同一の影に情を与え、(おの)がものにしようなどと。おまえたちの傲慢(ごうまん)が世界を破壊したことをもう忘れたか。それでなお口に甘く、(はら)には苦い言葉を吐きつづけるか」
「そうではない!」菖蒲はどこにいるかわからない闇の(あるじ)にむかって力強く答えます。「どんなものでも同じだから同じと見てはいけない。わたしはそう教えられた。だからわたしにとって同じものなんてない。影もまた」
「アヤメ、気にしないでいいのよ。もういきましょう」
 ミモザは闇の(あるじ)からしりぞくように菖蒲の手をひっぱり、ずんずん歩きます。すると大勢の影が菖蒲とミモザのまわりをかこみ、闇の(あるじ)がはなつ言葉を影がみなで反響させるように四方から声が聞こえてくるのです。

  おまえの下劣(げれつ)(うた)
   我らに浅く

  おまえの醜悪(しゅうあく)な形は
   我らにおぞましく

  おまえの低俗(ていぞく)な舞は
   我らにつたなく

  おまえの卑猥(ひわい)嬌声(きょうせい)
   我らに耐えがたく

  おまえの…… おまえの……
   我らに……  我らに……

 ふたりは黙って前へ前へ進んでゆきます。
——いいえ、ちがう。あの声はわたしじゃない、ミモザをこわそうとしている。
 菖蒲にはそれがはっきりわかりました。
——躊躇(ちゅうちょ)なく絶えざる非難と同調でミモザをぐしゃぐしゃにつぶそうと。感情をいとわず心を足でふみつけている、なんて卑劣(ひれつ)かつ凶悪で残酷(ざんこく)な者たち。わたしはどんなに傷つけられてもかまわない。どれほどののしられても受けいれよう。でもわたしの大切な友達だけは……ゆるせない! ぜったいにゆるせない!
 菖蒲のわずかな火は怒りの炎へと燃えあがり、やがて奥底から憎しみのマグマがふつふつとわきあがるのを感じます。
——こんなことしていいわけがない! ミモザのことなにもわからないくせに!
「お願い。あたしのために怒らないで。あたしはそんなアヤメを見たくはないの」
 ミモザはうなる犬と化した菖蒲の良心を懸命(けんめい)になだめようとします。菖蒲はいますぐにでも赤い指輪の力をつかって闇の(あるじ)を、いいえ、ここにあるすべてを、もうなにもかもめちゃくちゃにこわしてやりたいくらいだったからです。
 闇の(あるじ)菖蒲(ヒト)の弱点をよく知っていました。じつのところ、彼らは闇の門をくぐり、この領域(せかい)をうろつくふたりを必要価値のないものと判断し、体内に入った異物を無意識に除去(じょきょ)しようと、まったく機械的に、もっとも効率のよい仕方で排除(はいじょ)しようとしていただけなのです。それは愛する人を言葉で傷つけ、ひびをいれた友情を憎悪(ぞうお)でえぐる、という恐ろしい手段でした。
 ミモザはつながる手を通し、視界をうばわれた菖蒲に語りかけ、彼女をなんとかなだめようとしました。
「でも! だれも心を侮辱(ぶじょく)してはいけないのに。ましてあの闇は辛辣(しんらつ)な言葉でミモザ、あなたをこわそうとしている! そんなことしていいわけない!」
「パパもここにいる影もみんな言葉の使い方を知らないだけ。ねえアヤメ、あたしもそうだったでしょう?」
「でもあなたは……でもあなたは!」
「ううん、あたしも知らなかったのよ、アヤメ。火によって火傷(やけど)することもあれば、こごえる体をあたためることだってできるのと同じように、言葉にも包みこんだり、立ちあがらせる力があることをアヤメから教えてもらったの」
「でも……でも!」
 響きわたる罵詈雑言(ばりぞうごん)の反復と沈黙(ちんもく)応酬(おうしゅう)ののち、ふたりはついに目ざしていた場所につきました。下へとつづく、あのうす暗い階段です。
 しかし菖蒲は自分の(うち)で燃え広がる憎しみと、まとわりつく忿怒(ふんぬ)を消すことができず、目の前にある階段がまったく見えません。闇によって植えつけられた怒りはツルのようにまきつき、感情のおもむくままに行動するよう、彼女を誘惑(ゆうわく)しつづけていたからです。
——あの(・・)力で抵抗(ていこう)しろ。全身にためこむ怒気(どき)をぶちまけてしまえ。アノ力でスベテ破壊スレバイイ。気のムくままに。アノチカラデラクニナレ、サア、ユビワヲノコリノユビニ! サア!
 菖蒲は自然と胸元の赤い宝石に左手をやります。しかし、わななく菖蒲の右手をミモザはけっして離そうとしません。
「ミモザ、手を離して!」
「お願いやめて、アヤメ」
「離しなさい! ミモザ! ミモザ!」
 あばれだす菖蒲の怒声(どせい)。やけどするほどの炎熱(えんねつ)がミモザの左手を焼いても、力をゆるめることはありませんでした。
 こんなあたしのことを心から愛してくれる人がいて、信じてくれて、あたしのためにこれだけ怒って、悩んで、苦しんでくれて。そんな愛する菖蒲の手をとり、闇の領域(せかい)を導くことができて、ミモザはとてもうれしくて、なにより幸せでした。
——だから、大事なアヤメがそうであってはいけない。これはあたしの愛するアヤメなんかじゃない。
 ミモザはあきらめずなんども、くり返し菖蒲に優しく語りかけます。
「ねえアヤメ。あたしはあなたとの約束をずっとおぼえてる。おぼえているの。あたしはアヤメの美しい琴線(きんせん)を持っているから。あたし、アヤメのためになんだってしたい。いまはもう自分のすべてをあげてもいいとさえ思える。もう、あたしのぶんはなんにもいらない」
「でも、ミモザ!」
「ううん、だからこそ」ミモザは両手でアヤメの両手をぎゅっとにぎります。「わかれるときくらい、あたしの大好きなアヤメに笑顔でいてほしい。また会おうって、明日また遊ぼうねって」
 菖蒲はだまってうつむきます。
 怒りでこわばった菖蒲のほおにミモザは右手でふれてから優しくなで、じっと彼女を見つめ、いよいよ心に、交わすふたりの声はひとつの歌のようにつめたい闇全体に広がりました。

  あなたは聞くでしょう
  吹き(すさ)む非情な風を
   それでもあたしは越えよう
   あなたは清らかな琴の音

  あなたは歩くでしょう
  光届かぬ闇の(ふち)
   それでもあたしは望もう
   あなたは空にまたたくアメジスト

  あなたはつなぐでしょう
  凍てつく孤独(こどく)の手を
   それでもあたしは耐えよう
   あなたはあったかな暖炉(だんろ)の炎
  
  あなたは抱くでしょう
  (みにく)いわたしの本心を
   それでもあたしは愛そう
   あなたが与えてくれたわかつ心
     
  いつだって いつだって
   いつまでも いつまでも

「……よかった。いつものアヤメが帰ってきたわ」
「わたしのミモザ! また会いましょう。会って一緒にお買いものをして、一緒にお茶を飲んで、一緒に旅するの。あなたと見たいものや知りたいことがたくさんあるわ。いっぱい、いっぱいよ……」
 あふれる想いを伝えたとき、菖蒲が笑顔でいられたのか、それとも悲しい顔だったのか、菖蒲にもわかりません。まっ暗闇だったからです。でも、ミモザだけは知っています。ミモザが最後に闇で見えたのは、大好きな菖蒲の顔だったからです。
 菖蒲は手をふってうす暗い階段へ、彼女の背なかを見送るミモザはやがて深い闇へと消えてゆきました。

六 通路の消失点Ⅲ

六 通路の消失点Ⅲ

 うす暗い階段をおりたら等間隔(とうかんかく)に窓が並ぶ白い壁の通路がずっと奥までつづいていました。あまりの長さで先は見えません。菖蒲は通路にたたずみ、しんみりと懐古(かいこ)の情に満たされました。
 干しわらになった王子さまを王座に残してからどれくらい過ぎたのでしょう。いつのまにか時はたち、いろんな仲間と出会い、わかれましたが、再びまっ白な通路に帰ってきたのです。まるで時計の針が12時から12時へ一周したように。
「それなら、アヤメは0時に出発したことにして、たぶんいまは12時ね。そうするとつぎは……24時にしよう。よかった、あなたもう一周できるわよ」菖蒲はくすりと笑います。
 やがて階段が小さくなって一つの点のように見え、前後の点はいつまでも大きくなることがありませんでした。菖蒲は右下、足元あたりに目をやると、やはり白い壁に文字が書いてありました。

  『ミエルモノガサキデワナイ
    ケレドミエナクバサキニワユケナイ
     ゼンポウチュウイ 
      アシモトチュウイ』

 菖蒲はこの壁の文字のナゾナゾについてじっくり考えてみることにします。
 まず〝ミエルモノ〟とはなんでしょう。
「それはきっと〝サキ〟よ。ここでいう〝サキ〟とは通路の先に見える点のことかしら。でも……」
 文字のつづきは〝デワナイ〟と否定しています。
「じゃあ通路に見える点が〝サキ〟ではない、ということよね」
 それはあの時にもわかっていました。ですから菖蒲は〝サキ〟を手で隠して進もうとしたのです。一度目は木の扉にぶつかり、二度目は地面の扉に足をひっかけましたが。
「考えてみれば二段落目の文字は〝ケレド〟とつづいているわ。〝ミエナクバ〟とは、どういう意味かしら?」
 見える消失点をかくし、見えないようにしながら先へ進むこと、それがこのナゾナゾの答えであると菖蒲は解釈(かいしゃく)しました。じつのところ、消失点をかくしながら進んでも〝ミエナクバサキニワ〟行けなかったので、実際にはナゾナゾの正しい答えではありませんでした。
「ということは、ここにあるいずれかの文字の意味をわたしはかん違いしてるってこと?」
 菖蒲はふと、おじぃの言葉が頭に浮かびました。
「おじぃは天体観測所で、闇の階段をおりた先の通路をぬけたところがおそらく『中庭にもっとも近い場所』と説明してくれたわ。だからわたしがいまいるこの通路の先がおそらく『中庭にもっとも近い場所』になるはず」
 菖蒲はこれまでの考えをまとめてみます。
 まず〝ミエルモノ〟とは『通路の消失点』でしょう。その消失点の〝サキデワナイ〟つまり、『中庭にもっとも近い場所』ではないというわけです。でも〝ミエナクバ〟『中庭にもっとも近い場所』にはいけません。ではどうやって〝サキ〟を見ることができるのか。
 菖蒲は文字をながめ、おじぃとの会話の意味をひとつずつ、注意深く思い返しました。
————
「むずかしい表現をすると、扉のない中庭は形而上(けいじじょう)のもの、形で表せない空間ということになる。つまり扉のない中庭は有るが無い場所といえるかもしれん。ところでアヤメちゃん、心とはどこにあると思うかね?」
「それはわたしの内にあって、胸のあたりでしょうか。でも考えることは頭のほうにあるような」
「はっはっは。とても直感的でいい答えよ。内にある、とはおそらく正しい。でも頭は心と呼ばれるものを認識しているにすぎん。また多くの場合、胸に知覚させたりもする。とどのつまり、心は有るには有るが実際にどこにあるか、そもそもあるかどうかすらだれも知らん、たとえば生命もそういえるかの。アヤメちゃんのいきたい中庭はまさに神秘的な園なんだよ」
「そこで、だ。若い時分、中庭に入るため記憶からたどってみた。心が〝存在する空間〟として、つまり扉のない中庭そのものを心、中庭の壁は時間軸内におけるあらゆる記憶と仮定する。思い返しても身震いするが、まったく記憶のない、いわば無垢(むく)の状態から心にゆけるか、わしはアプローチした。結果としては近くまで、といった具合よ」
————
 菖蒲は残りの〝ゼンポウチュウイ アシモトチュウイ〟という文字を指でなぞります。これはいわば菖蒲が通路を通るたびに(はな)った声が言葉として壁に書かれた文字でした。それでこの通路の白い壁は『言葉の描写(びょうしゃ)』というわけです。では最初のふたつの言葉を声に出したのはいったいだれなのでしょう?
「もしかしておじぃ、これはおじぃが書いた言葉なのね……そんな、まさか!」
 通路の仕組みを知った時、いなずまが走るように菖蒲の全身はぶるぶるっとふるえます。
〝サキ〟つまりなんと、この場所そのものが『おそらく中庭にもっとも近い場所』だったのです!
 菖蒲は旅のはじまりに目的地の一番近くにいたわけで、見えるけれど見えないとは、ただそのことに気づくこと、認識さえすればよかっただけでした。しかし、だれがあのとき通路に書かれている文字がおじぃの言葉だと、それに扉のない中庭にもっとも近い場所だとわかるでしょうか。
 では、菖蒲のこれまで旅した時間は無意味なまわり道だったのですか?
——そうさアヤメちゃん。大切な一瞬をすくいとれれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら(いと)おしく感じるものさ。
 遠くからおばぁが語りかけてくるようで、菖蒲は顔をゆるめました。
「おばぁ、わたしはいま、たしかにそう思えるようになりました。そしてこれからも」
 そうです。ここまで歩いた長い旅路はどれも菖蒲の愛おしい思い出となっていたのです。

七 もっとも近い

七 もっとも近い

 チン、チリン、チン……
 ガラスの器を指ではじいた音が不規則なリズムで聞こえたかと思うと、いつのまにか壁に書かれていた文字の羅列(られつ)窓枠(まどわく)は、白化(はくか)したサンゴの破片(はへん)のようにボロボロくずれてサラサラな砂の中へうまっていきます。
 菖蒲の目はごく自然に周囲の環境を知覚しようと天地の境界(きょうかい)や、ころがる石を線で印象(いんしょう)づけ、純度の高い石英のように透明な形にも見えますが、どこまでも広がる荒野に光の反射はなく、それぞれが視覚的に最小限の白があてられ、菖蒲だけぽつねんと色を(はい)していました。もちろん砂漠(さばく)のような照りつける暑さや()てつく寒さもなく、風すらふいたことのない、ただただ静かで不可知(ふかち)領域(せかい)でした。
 ぐるり見渡せば、まっさらなキャンバスと思っていた荒野(こうや)に同じ足跡(あしあと)(そう)方向、遠くに向かう足とこちらにやってくる足が菖蒲の前にくっきり描かれていました。風化することなく、まるでついさっき未開の地に上陸した旅人がきざみつけた記念のように。
「これはきっとおじぃのだ。ここを歩いた跡がそのままのこっているんだわ」
 菖蒲は長い旅のすえ、ようやく『中庭にもっとも近い場所』にたどり着きました。
 偉業(いぎょう)を成しとげた感慨(かんがい)にふけるのもそこそこに、やわらかい砂に足をいれ、歩きはじめます。どこまでもつづく白い荒野をはじめにふみ進めたおじぃはいったいどんな気持ちだったのだろうかと考えながら。がっしりした登山ブーツに大きなナップザックを背負い、カタンコトンとケトルやマグカップを打ち鳴らしながら、未知への好奇心にあふれた青年の幻影が前を歩いています。不意に青年がふりむき、こちらを見て何かを感じたのか目をきょろつかせ口元が数回動き、また新しい足跡をつけていきます。
 菖蒲は彼の足跡にそっくり足を重ね、踏みはずさないようついていきました。ほんのすこし前まで、暗がりの道をミモザに手をひかれ歩いていたときもそうでした。菖蒲が彼女の手を離したら文字通り暗中模索(あんちゅうもさく)、あの暗闇のなかでさまよい続けたことでしょう。
「そっか、いまもおんなじだ。もしおじぃの足跡がなかったなら、もっと怖かったはず」
——わたしはゆくべき場所にむかって導かれているのかな。それともわたしが選んでいるのかしら。あるいはどちらもなの? まっ白な世界に道がのびていることは本当に幸せなのかしら。でも、もし道筋がないとしたら、はたしてわたしは広漠(こうばく)とした荒野(あらの)にいずれかの意味を見いだすことができるの?
 人生の雑踏(ざっとう)。人はゆき(めぐ)り、風のようにあらわれては消えてゆく。わたしはいつもひとりぼっち。にぎられた友の手を離し、時針に背中をつつかれながら、それでも前に進めと。恐れてはない? ねえアヤメ。
 うん、そうだ。わたしは導かれることも自由に選べることにだって感謝しよう。ときに手をひかれ、偉大な足跡(そくせき)をたどることも、わたしが物語のおしまいをまっとうしなければならないとしても、ただありがとうって。そしてわたしは笑顔で「またね」と手をふるんだ。いつか会えるように。だれかがわたしをあざけったとしても、わたしは気にしない。わたしはアヤメを知っている。なによりアヤメはあなたを知っているのだから。
 新しく胸がいっぱいになった菖蒲はもうどこにでも飛んでいけそうなほど軽やかな足取りで歩き続けました。ゴールテープがすぐそこまでやってきて観客の歓声を一身にあびながら両腕をあげるような満足感で最後の足跡をふみしめました。
 はあはあと息をきらし、立ちつくす菖蒲。
「……やっぱり、あの中庭に扉なんてなかったのね」
 ポツリとそう言ってからひざを落とし、へたりこみます。
 なぜ反対をむく足跡もあったのか、やっとわかりました。これを目の当たりにしてひき返したのです。
 果てしない皆無(かいむ)。プッツリとぎれたように先はなにもありません。まったくなにも。
 菖蒲が遠くに見えたのは、地平線ではなく断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)のふちでした。前もうしろも左右どちらも、何もかも全部が(はし)だったのです。
 こんな(がけ)っぷちからどうしてあの中庭にゆけるでしょう。もう手がかりはすべてなくなりました。菖蒲の頭は地平線のかなたまで、いいえ、失われた境界から望める白妙(しろたえ)()てのようにからっぽになりました。
 終わりのなき遠景は菖蒲に挫折(ざせつ)を小声で伝え、かわりにかすかな希望(きぼう)を取り去りました。地面にあおむけになり、砂に身をしずめます。空とも雲とも呼べない無色の天はよけいに無力感をもたらし、はあっとため息をつくと、さっきまでの気まぐれな高揚(こうよう)は羽をつけてあっというまに飛んでゆきます。
 菖蒲は横にうずくまって顔を(おお)い、くつくつと笑いました。それから肩がゆれ、鼻をすすります。
——本能的な恐怖、というのが正しいのか……わしはなアヤメちゃん、好奇心と無謀(むぼう)は結びつかん性格なのだよ。
「おじぃ、あなたの言葉は正しかった。それでも(おそれ)は意地でなんとかできるものだと、わたしは本気で信じていたのです」

 菖蒲は赤い宝石のついた指輪を首かざりからはずして、しばらく指輪をいじっていました。彼女の力となってきたこの赤い指輪はグレエンが伝えたとおり、使うごとに記憶が消えてなくなる【忘失の約束】がかけられています。それで菖蒲は旅の始まりで【忘失の約束】に条件をつけました。
 まず右手を自分の領域(せかい)、つまり過去の記憶に、左手は王子さまの領域(せかい)つまり現在と未来の記憶にふりわけます。そうすれば何をすればよいか忘れることはありません。もし、右手の指すべてに指輪をはめてしまったなら、今度は王子さまが燃える影と交わした 『干しわらとなり、かわききった王子さまのくちびるを、この世界のものではないひとりの少女が心の井戸から汲んだ水によって潤す』 という【干しわらの約束】が守れなくなります。それで指輪の力を使えるのは多くとも四回までです。限られた回数でしたので菖蒲は指輪の力をできるだけ慎重(しんちょう)に使うよう気をつけていました。では、残る最後の右手親指の記憶はなんでしょうか。おそらく外の領域(せかい)からきた菖蒲であることです。それにしても菖蒲の記憶を代償(だいしょう)に菖蒲を失うなんて。
 菖蒲は起きあがってひざまずき、指輪とむきあいます。輪っかに親指を通そうとしても、右手は拒否するようにガタガタふるえ、どうしてもすれ違います。他のもののため、あれだけためらわずつけていたはずなのに、今回ばかりは自分の意志を指輪にゆだねることへのはかりしれない恐怖と戦わなければなりませんでした。
 しかしこれしか方法はありません。風がやんだ大海原のまんなかで、帆船(はんせん)がどこにも進めなくなるように、これからなにをすればよいのかわからなかったのです。いくら考えても答えはでません。ここにくればなにかがあると思っていました。針の耳ほどでも先は探せるはずだと。しかし菖蒲につきつけられたのは、ただのまっ白い何もナイ世界です。
——だったらいっそのこと指輪にわたしを。
「王子さま、みんな、わたしは約束を守れなかった。ごめんなさい」
 ついに指輪が右手親指の関節をくぐり、根元にピタリとくっついた時、赤い宝石は火花を散らし、こうこうと燃えます。すると純白の世界に一輪、大きなヒガンバナがゆっくりほころぶように赤く染めあげていきました。
「ねえミモザ」薄れゆく意識でぼんやり()える赤い花がなんだかとても美しくて、菖蒲はうれしそうに目をほそめます。「なんてきれいなんでしょう。いつかあなたと一緒に……」

八 扉のナイ中庭

八 扉のナイ中庭

 そこは中庭でした。
 ピンと糸を張った緊張(きんちょう)感につつまれ、風は息吹(いぶき)をやめ、しんと静まりかえり、ただ荘厳(そうごん)さだけが静謐(せいひつ)をまとって空間全体にただよっています。まるで高くつみあげられた積み木の尖塔(せんとう)に建つように、微細(びさい)な空気の振動ですら崩壊(ほうかい)へかたむこうとしました。
 中庭においてあらゆる形は均等に分け合い、長さと太さのそろった青草が一面に生え、縦横比約一対一・六一八の長方形の地面と相似(そうじ)である無機質な窓は四方をかこむ磁器のようになめらかな乳白の壁に等間隔(とうかんかく)でならび、上方までずっと続いて天井はなく、やわらかい光の粒がぽつぽつと中庭の井戸にむかって降りそそいでいました。
 長い黒髪の少女は生まれた時のままで、いつからまぶたを開けたわけでもなく、ただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)とあおむけになっていました。
 光の粒が目にとけこみ、まぶしくなって右手をひたいにあてます。親指にはゆらゆら赤く燃える宝石つきの金の()がはめてありましたが、彼女は気にすることなく、しばらくそのまま静止していました。やがて、右腕が重たくなったので、ゆっくり上体をおこし、周囲を観察しはじめます。
 オリバナムとミルラがほのかに(かお)る中庭の中心には空気のような大理石の白い井戸がうず巻き、ふきぬけからそそぐ光のつぶと混じりあってピカピカかがやいています。そのまわりを大きくかこむように四隅に4本とそのあいだに2本、まったく同じ(かたち)をしたリンゴの木が合計6本、整然とならんでいました。
 なぜここにいるのでしょう。少女にとってはまったく関心のないことでした。実際、少女は自分がだれであるかすらわかりません。そうした記憶がすべてないからです。そもそも〝わたし〟とはいったいなんでしょうか。なにをもって〝わたし〟といえるのでしょう。
 少女はむしょうに親指にからまる異物を取ってしまいたくなりました。この気もちわるい指環(ゆびわ)のせいでしめつけられ、息苦しく感じるからです。ハーネスをはずした馬のように自由になろうと——それにしても〝自由〟とは?
 不快な輪に左手をかけようとしたとき、少女の肩になにかがそえられ、顔を横にむけるとなめらかな手が、そこからふんわりとした心地よさで全身は満たされます。
 少女は体をひねり、手から腕へ視線をうつして、うすい(きぬ)をまとい、つばの大きな白い帽子をかぶった美しい女の園丁(えんてい)と顔を合わせました。 
 目を大きくして口元がゆるみ、今にもキャッキャと笑おうとする少女のぷっくりとやわらかなくちびるに、園丁の女はふうはり指をあて、右手の親指をにぎってから少女の目をのぞきこみ、首を横にふります。あたかも「それをしてはいけない」と伝えているかのように——でも、なぜ?
 園丁の女は少女から離れ、リンゴの木へ少しも音を立てずに空気のようにすうっと近づき、みきを優しくさすり、となりの木も同じく、そのとなりの木も、といった具合に6本の木を一本ずつ、ていねいに同じところを同じ回数なだめていたのです。

 どれくらい時間が経過したのでしょう。といっても、この中庭は時間に支配されてはおらず、物体に制約された、たんなる空間でもありません。あれから園丁は少女を気にもとめず、(えん)々りんごの木を愛撫(あいぶ)していました。もはや少女は指環への興味をなくし、笑みを浮かべながら丸い目がじいっと園丁を追いかけ続けました。まるで繰り返される音楽に合わせ動く機械人形のように。
 きっかけは本当になんでもないしぐさでした。少女が左手で右手首にふれ、金の輪っかが引っかかります。ふしぎそうに手首を曲げてきらりとひかる()っかを見つめると、少女の顔をうつし、こちらの目とむこうの目が合いました。そのときはじめて、これはなんだろう、なぜ見ているのだろうと考えはじめます。
——あなたはだれ?
 すると突然、たががはずれたようにいろんな感情がいっぺんに四方八方おそってきて、喜びがくすぐったかと思ったら、哀しみが引っぱります。怒りで熱くなったり、楽しくてうきうきしたり、むなしくなって沈んだり、恐れたり、安心したり落ちこんだり……もうへんな気分です。
——どうしよう、わからない。なんだろう。わめけば。
 しかしくちびるに残った園丁の指のぬくもりが少女の口をぴったりとくっつかせ、どうにも開いてくれません。少女はおなかをかかえ、眉間(みけん)にしわをよせてむせび、彼女の周囲にある青草たちがにわかにさわぎたちます。しぼりでるように雫がひとつこぼれると、夕立のようにボロボロ止めどもなく目からたくさん水が流れはじめ、ほおをつたって落ちていきます。でも悲しいのかうれしいのか、なぜこれほど水があふれ出るのかわかりません。
 少女は必死に滝をせき止めようと手でぬぐいますが、いくらやっても止まらないのです。どうしようもなくなり、金の腕環(うでわ)にひたいをあてて力をこめながら、目を閉じてしまいます。

——まっ暗な居場所。ああ、ここならだれも責めはしないなのね。でもここはどこかしら。
 ほっとする少女に、感情は余計からかって少女のまわりをかこみ、くすぐったり、おしたり引いたりします。
——やめて、やめてっ。
 闇の中で少女が苦しんでいると、ふいにささやき声が遠くから、やがてこちらに近づいてきて、はっきりと聞こえるようになります。
「あなたの大切な人のために水を」
——あなた?
「あなたの(した)う人の(かわ)いたくちびるに井戸の水を」
——人は?
「あなたの想う人のために水を」
——水は? わたしとはわたし?
「あなたの愛する人の乾いたくちびるにあの井戸の水を」
——わたしは……わたしは……

 少女はおそるおそるまぶたを開き、バングルにうつるゆがんだもうひとりの少女をじっくり見つめます。それから顔をあげて、なんの意図もなく自然に肢体(したい)が動き、そろりと立ちあがると、涙でかすむ中庭の井戸へ重い足どりで歩きはじめました。
 園丁は手を止め、少女の様子を心配そうに、はじめて立ち、ふらふらとこちらへむかってくる赤子を見守る母親のような面持ちでながめていました。それでも、感情をできるだけ表に出さず、あくまで中庭の園丁として少女の歩みを注視(ちゅうし)していたのです。
 言葉にならない言葉が飛びだしてきてはぐるぐるとまわり、少女をさらに悩ませます。なにかを果たそうとする強い意志と、それをさせまいとする抑止(よくし)力は彼女の限界を無視し、絶えずせめぎ合いました。
 ふみしめた青草はしなびて()れ、そこに多量の汗と涙がまじりポタポタ落ち、汚された地面は足から全身に切り()かれるような痛みを少女にあたえます。少女はなんどもなんどもくずおれてうずくまり、おきあがっては井戸に近づこうとします。なにもない少女にとって今やまったく意味をもたない行為(こうい)ですが、そこにむかって歩き、たおれるのです。
 はりさけそうな胸の内を誰かに理解してもらおうと叫びたいのに、思いきり吐きだしてしまいたいのに、両手を口にあて、ぐっとこらえます。あらゆる音の振動によって中庭の精緻(せいち)均衡(きんこう)をできるだけくずしてしまわないよう、ただそれだけの理由で静かに、ゆっくりと慎重(しんちょう)に歩かねばなりませんでした。
——でも、なんで? なんで?
 なさけ容赦ない疑問の言葉は針で少女の体をさし、また石をぶつけ、ついに少女は井戸の手前、すんでのところでもだえ、動かなくなります。
 それでも()むことなく、なんで? なんで? なんで? なんで、と。

「答えられないから辛いの。でも、あの声をたしかに知っている」
「おまえはなにも知らないくせに」
「確かにそうよ。でも、あの声は知っている」
「声はおまえに嘘をついているのだ」
「あの声が嘘をついているのなら、それでもいい」
「なにがいい、その嘘でおまえはこんなにも苦しんでいるのに」
「どうなったっていい。でも、あの声は知っている」
「なんとおろかな。嘘を信じて苦悶(くもん)するとは」
「それでいい、それでいいの。あの声を知っているのだから」
「そうやって自身を納得(なっとく)させ、なぐさめたいだけなのだ。身勝手な人間め」
「そう、奔放(ほんぽう)な女よ。だからりんごの木は1本なくなった」
「全部、全部おまえのせいだ。たったひとつの過ちでなくなった」
「だから井戸を、あなたにだれかをうるおす水を湧きあがらせたかった」
「ではそうするがよい。しかしおまえのことをけっして忘れはしないだろう。こうしておまえにいつも呵責(かしゃく)をあたえるのだ」
「わたしは願う。いつか、中庭の井戸にりんごの木を。こんどは豊かに実を結ぶように。そうしたら、どうか許してほしい。それまで、さあ強く()きあがれ!」

 中庭は雪が舞い上がるように分解していきます。
 少女は力をふりしぼり、白い井戸のふちに左手をからませ起きあがると、王子さまの記憶と少女の想いでかたどった金の小ビンを右手に持ち、ふたを開けてから息を止め、ふるえるその手をふちいっぱい、ひたひたに張られた透明な井戸の水のなかへ、そしてできるかぎり水紋(すいもん)を立てないようにそっと汲みました。温かくも冷たくもない空気のような水は自ら、ちょうど必要な量だけ小ビンにむかっていきます。
 水が入った小ビンのふたを完全に閉めると、最後に残った井戸もついにはらはら(・・・・)とくずれさり、少女を一緒に取り去ろうとしました。
 その時、うしろから優しく抱きしめられます。
 冷たくなった少女の肌を守るように慈愛(じあい)が、すべての息を吐いて肩を落とし、緊張(きんちょう)はほどけ、力なく目をすっと閉じます。
「ねえ、なぜ泣いているの?」
「それはね、わたしがあまりにも無力だったからよ」
「そんなことないわ。あなたはわたしを助けてくれた。わたし、知っているもの」
「あなたが井戸の水を汲むまで、わたしはすこしも手を出すことができなかった。これだけ近くにいるのに、あなたはなにもかも捨てたのに、たくさんの痛みのこれっぽっちも負ってあげられなかった」
「わたしは泡になってもいいとさえ思った。でも、あなたがわたしの肩に手をのせたとき、わたしのくちびるにそっと指をあてたとき、わたしの右手にふれてくれたとき、わたしが井戸にむかって赤ん坊のように歩いているときさえ、優しく励ましてくれたから、だからわたしはここにいる」
「ごめんなさい、アヤメ」
「ありがとう、リリィ」。

九 たりないもの

九 たりないもの

 数日、数十日……菖蒲は長く高熱にうなされ、ベッドで横たわっていました。
 菖蒲のそばに寄りそうリリィは、ひたいに氷をあてて汗をぬぐい、水や重湯を口にふくませ、ふるえる体を抱いて頭をなでました。
 来る日も来る日も懸命に世話を続けていたある日のこと。菖蒲は目をぱっと開け、ハアハア息をあげながら、もうろうとした意識のなかでリリィを見て言いました。
「はじめまして……わたしはアヤメ。干しわらになってしまった王子さまをもどすためにここへきたのよ」
「はじめまして」と、リリィは赤くほてる菖蒲のほっぺたにそっとふれます。「わたしはリリーフロラよ。リリィって呼んでね、アヤメ」
「……リリィ、わたしね……わたし、知りたいこともあるし、教えたいこともたくさんあるの。だから……ねえ聞いてくれる?」
「もちろんよアヤメ。でもいまはダメ。あなたはたくさん傷ついたから、ゆっくり休まないと」
「ありがとう。わたし、うまくやれたかしら? 王子さまもどるかなぁ……よくなるといいな」
 かすれる声を吐きだすように菖蒲は自然と目を閉じて、再び眠りに落ちます。
 こんなにちいさな女の子がたったひとりの王子さまためにここまでするとは。リリィは愕然(がくぜん)とします。
「あなたはなぜ、なぜ与えつづけるの?」
 リリィはその答えを探すように、衰弱(すいじゃく)してゆく菖蒲に対し、たっぷりの愛情をそそぎました。でも、穴だらけのふくろに水をたくさん入れても水はダラダラもれてしまうように、愛を受け入れる力を失った菖蒲にどれほど愛をそそいでも回復はしません。それでもこの方法しかなかったのです。
 菖蒲をいやす薬は世界中どこにもありませんでした。なぜなら彼女のたりないものは誰もがみな持っていますが、目には見えず、たったひとつしかない、とても、とても貴重なのものだったからです。菖蒲は指輪の大きな力でそれを分けあたえ、記憶のひびから強引に中庭へ足をふみ入れました。すると決壊(けっかい)した障壁(しょうへき)に意識や思いや感情などがどっと流れ、みるみるうちに菖蒲であることを壊してしまいました。
 中庭の井戸は何人(なんびと)たりともふれてはならず、近づくことも許されないほど繊細(せんさい)です。それで中庭にはじめから扉はありませんでした。枯れてしまった井戸は水を失い、もはやアヤメの花はしおれてゆくばかりです。
「わたしはどうなってもいい、お願いします。この子だけは、この子だけは助けてください。毎日、毎日、苦しみ弱り果てる姿をわたしは見ていられない」
 苦悩(くのう)吐露(とろ)するリリィは菖蒲を失う恐怖と焦りで胸がつまります。どれほど献身(けんしん)的に看病(かんびょう)しても、たくさん愛情をもってふれても、彼女の命はどう見ても風前の灯火でした。たりないものがリリィか、それとも菖蒲なのか、まったくわからないのです。
「いっそわたしを拒否してくれたら、むしろ憎んでくれたらいいのに、そうすればあなたはよくなるかもしれない。でもあなたがなにも求めていないのはなぜ?」
 自分の無力さを呪うようにリリィが問うと、菖蒲は不安げにリリィを見て、こう答えました。
「だって、そうしたらわたしに嘘をつくことになるから……わたしは約束したのよリリィ……わたしはわたしにもう嘘はつかないと。だから、井戸は手おけほどの水を汲むことをゆるしてくれた。わたしは王子さまを助けると決めたときからこうなることを受け入れたの。だから……お願いリリィ、わたしのためにわたしのこと嫌いにならないで」
 リリィは首を横にふり、たまらず目から涙が、ポタポタ菖蒲にこぼれ落ちていきます。
「わたしは好き、アヤメのことが大好き。わたし、中庭からあなたをずっと見ていたのよ。気づいていたでしょう? あなたがとってもステキな女の子で、どんなおどろくことだって成しとげる強い子だって、わたしは信じて待ってたわ。だからはやく元気になって、一緒に王子さまのところに帰りましょう、ね?」
「うん」菖蒲はうれしそうにうなずきます。それから目を閉じて耳をすませ、「今日はどしゃ()りね。じゃあ明日はきっ……」
 安心してふーっとおだやかに息を吐きました。
 リリィはわっと声をあげます。家の外まで聞こえるほど強く、大きな声で。
——わたしの(つゆ)でアヤメを返してくれるのなら、もし、幾万の涙がアヤメの慈雨(じう)となるならば、わたしはいつまでもふり続けよう。

 しばらくして、鍵がかけられているはずの家に見知らぬ訪問者が扉を開き現れます。それから走って急ぎ寝室へ、菖蒲にすがるリリィのうしろで息をきらし、立ち止まりました。
「リリィ!」胸に両手をおしつけ、強くこぶしをにぎりしめます。「あなたのことはアヤメから聞いています。あたしはアヤメのためにやってきました」
 リリィは涙で()らした顔でふり返ると、そこにいたのは菖蒲と同じくらいの女の子でした。
「あなたは」
 ふりしぼるようなリリィの声に少女はこくりとうなずきます。
「あたしはミモザ、ミモザといいます。大好きな友のさけびが闇でさまようあたしに、強く伝わってきました」
 ミモザは菖蒲に近づくと菖蒲の右手に左手を重ね、ふたりのバングルは再開を喜び、チリンと音を鳴らします。
「ねえ知ってる? アヤメ。中庭であなたにささやいていたのはあたしよ」耳もとでひそひそとミモザは話しました。「今からあなたとした約束を果たすの。こんどはアヤメからもらった大事なものを返して、あたしのをあげるばん。いいよね、ゆるしてくれるでしょう? もしいつか、天高くのびてりっぱにそびえ立つクスノキのように、あなたが元気になったなら、そのとき、あたしはあなたの木に宿る黄色い小鳥になる。ぜったい、約束よ」
 ミモザは優しくキスをし、おでこを菖蒲のおでこにあてました。
「あたしにミモザをくれてありがとう。ほんとうにうれしかった。だから名前だけはあたしのものよ、アヤメ。あなたには返さないから」
 菖蒲の両手をしっかりと強くにぎりしめ、ミモザはたりないものを菖蒲に返し、自分のすべてをなにもかも菖蒲にあたえました。こうして、陽がさした影は満足そうに消えていったのです。
 すると、菖蒲の右手の親指にはめていた燃える赤い宝石のついた金色の指輪は火花を散らして砕けさり、つむる左目から一しずく、キラキラとかがやく真珠のような涙がこぼれ落ちます。
 菖蒲はそのときから熱がひいて、もうすっかりとよくなっていきました。

一〇 むかしむかし

一〇 むかしむかし

「おとぎ話にでてくる王女さまは王子さまといつまでも幸せだったって本当かな。リリィはどう思う?」
 ベッドで身を起こし、アイボリーカラーの厚いミルクガラスのマグカップを手に菖蒲は質問しました。
「そうねぇ」リリィはベッドそばのイスで菖蒲のブラウスに()しゅうをしながら「いつまでも(・・・・)幸せであることと、いつも(・・・)幸せであることはちょっと違うとか」。
「おもしろい考えね、つづけて」
「物語の余白(よはく)ではいざこざもあったんじゃないかしら。たとえば食事のとき、サラダとスープどちらから手をつけるか、タマゴが先かニワトリが先かって論争みたいな。わたしはグレエンと洗たくもののことでよく言い合いになるし」
「なにそれ」菖蒲は甘いホットココアを口にしてから、「どっちでもいいことじゃない」。
「それがね、夫婦のいざこざなんてまったくつまらないものなのよ、アヤメ。服と下着はべつにして洗ってほしい、とか。ああ見えてグレエンはめんどくさい人なんだから。まあでも、わたしが〝そんなに大事なパンツなら自分で洗いなさい〟って言うと、彼はしょんぼりしながらひとりでゴシゴシ洗うわ」
「ふーん、グレエンの意外な一面を知ったわね。わたしといた時はそんなわがまま一言も言わなかったもの」
「もちろんよ。だってアヤメはグレエンの王女さまじゃないから」
「そっか……ねえ、じゃあ、どうしてリリィはグレエンと結婚したの?」
「うーん」リリィはしばらく考えます。「たぶんおとぎ話の王女さまと同じ気持ちか、語り手の願いなのかな。もしくはそうあってほしいだけなのかもね」
「ちょっと、なにそれ」菖蒲は目をほそめながら、「わたしが子どもだからってごまかしてるでしょう?」
「ふふっ、だってアヤメも好きな人とおとぎ話のような恋であってほしいから」
「リリィずるい。いじわる!」
 ふたりは大笑いします。
 あれからリリィの介護もあって、菖蒲はベッドの上で楽しく話せるようになるまで元気を取りもどしました。
 リリィはよく山あいの国のお話を菖蒲にしました。グレエンや干しわらになった王子さまがまだ幼いころ、どれほど活発で手を焼く男の子だったか、それにキジ三毛のモルトは由緒(ゆいしょ)ある王族ネコだったという話も。
「彼自身はそういうのが(しょう)に合わないって、さすらいネコとして山あいの国に来たのよ」
「旅ネコの話は嘘じゃなかったのね」菖蒲はモルトのひょうきんな顔を思いだしてくすりと笑い、「それに王さまごっこをした時、従者役をいやがる理由も」。
 菖蒲とリリィのやりとりは、むかし落としてしまったものを探しにゆく旅と似ていました。ぶらぶら過去の森を散策(さんさく)しながら夢の広い草原に出て、見守るニレの木陰(こかげ)で休み、カサカサふく風とこすれる葉のおしゃべりに耳をかたむけます。菖蒲は寝っころがって草まみれのままリリィに抱きつき、手をつないで前に走ったり、ぴたり止まってぎゅうっと腕をひっぱり、家へ帰るまでリリィのかたわらではしゃいでいました。
 もちろん、中庭でのことやミモザが与えてくれたものを菖蒲は知っていましたし、リリィが口にしないよう気をつけていることだってわかっていました。それで、いつかそのときがくるまで、胸の引きだしのすこし奥に閉まっておこうと思ったのです。
 リリィとの旅も順調に、菖蒲はもっと良くなり、身のまわりのことがひとりでできるようになった日。菖蒲がベッドで考えごとをしているとリリィが近づいて、そばに腰かけます。
「どうしたの、リリィ。おやすみを言いにきたの?」
「そうね」と、菖蒲の頭をなでて、「菖蒲がよくなってわたしはとてもうれしいわ。だからいま、わたしたちのおとぎ話を話したいなって」
「リリィの?」
「そう。でもアヤメが知りたいなら、だけど」
 菖蒲はリリィをじっと見つめてから笑顔で「もちろんよ。大好きなリリィ」。
 リリィはほっとしたように菖蒲を胸に抱きよせ、ゆっくり話しはじめます。
「まずはそうね……いきなりびっくりするかもしれないけど、わたしたちはアヤメと同じ領域(せかい)に住む女の子だったのよ……」
 むかしむかし、菖蒲が生まれるまえの話です。ふたごの姉妹はお父さんもお母さんも知らず、施設(しせつ)()らしていました。ある晩のこと、姉妹は菖蒲のように招待されて干しわらになった王子さまの領域(せかい)にくることになります。
 招待したのは干しわらの王子さまのお父さん、つまり山あいの国の王さまで、もうひとりはグレエンでした。
「ふたりは兄弟なのよ。王さまが兄でグレエンが弟。それにわたしはふたごの姉妹の妹よ」
 菖蒲はたいそうおどろき、「でも、グレエンはわたしに〝王につかえる風車の監視役〟とだけ紹介していたわ」。
「もうひとつの役割を言っていたのね。おそらく【口止めの約束】の力を得るためアヤメにすべてを伝えなかったんだと思う」
「思い返せばモルトやアルビレオも、わたしに話すことを選んでいるみたいだった」
「興廃の丘のお話はグレエンから聞いたかしら?」
「うん、高い城壁に囲まれた王国が滅びたのよね」
「東の風車のあたりにとても大きなお城があって、もともと山あいの国の人々は戦乱(せんらん)から(のが)れた一部の王家と臣下(しんか)だった」
 領域(せかい)を巻きこむ大戦がはじまる前夜、争いを避けるように祖国(そこく)をあとにした人々がいたのです。当然、()える影は国に背を向ける彼らを見過ごすはずがありません。
臆病(おくびょう)な反逆者どもめ。おまえらがコソコソと逃げ隠れるのを(われ)が黙って見ているとでも思ったか。もしおまえらがただでこの城壁の大門をくぐろうものならどうなるかわかっているだろう!」
 燃える影にそうおどされた彼らは家族を守るため、しかたなく契約を結ぶことにしました。
 国を逃れ、燃える影が干渉(かんしょう)しないかわりに世界を統べる王国のため、何も知らない子供をひとり与えるというもので、【安寧(あんねい)の契約】と呼ばれ、燃える影は代々王家の長子を求めました。
「でも深い山あいに移り住んで最初の王子さまを送り出そうとしたとき、ひとつ大きな問題が起きた」
「王国が滅びたのね!」
「そう、そして世界を()べる王も側近(そっきん)の手にかかり……」
 戦争は領域(せかい)に大きな荒廃(こうはい)をもたらしつつ終わりました。山あいの国の民は災厄(さいやく)を回避することができたようにみえましたが、おとぎ話のように幸せな結末にはなりませんでした。なぜなら燃える影は【安寧の契約】の履行(りこう)を彼らにもとめたからです。
「王国の再興(さいこう)か、裏切り者への復讐(ふくしゅう)か。とにかく【安寧の契約】は山あいの国の民にとって、のみこんだトゲのように苦しみを与えるものとなった」
「ひどい! もともと領域(せかい)を滅ぼしたのは山あいに逃げた人々ではなかったのに」
「ええ」リリィは興奮(こうふん)する菖蒲の背中をなでます。「でも影は人間の弱さをよく知っていた」
 懐疑(かいぎ)絶望(ぜつぼう)憎悪(ぞうお)そして復讐(ふくしゅう)。燃える影は()えた月夜のおおかみのように人間がおちいる闇をむさぼり、世界を()べる王の意志を完璧(かんぺき)投影(とうえい)しました。なにも知らずに国を追放されたと王子さまが知ったとき、甘い言葉で誘惑(ゆうわく)し、たくみに(あやつ)ろうとしくんでいたのです。
 ところが燃える影のあてはむなしくはずれ、幾世代も平穏(へいおん)に過ぎ、ついに山あいの国の民が王に進言(しんげん)しました。
「王よ、あなたはわたしたち民のために犠牲となってくださいました。大事な子どもを影に差しだしてきたのですから。もう苦しむのはじゅうぶんです。父祖たちがここにやってきたのは、むなしい権威の束縛(そくばく)から()かれるためではありませんか。それにもかかわらず、朝、焼きたてのパンを食べても、夜にみなで音楽を(かな)で、ベッドに横になるときも、あなたの家の子が今、どこで、なにをしているのか、きょうをうらみながら、ひとりさまよっているのではないかと思うと、なにも楽しむことはできないのです。あなたの子はわたしたちの家族、あなたの痛みはわたしたちの苦しみなのです」
 山あいの民はゆがんだ連鎖(れんさ)を断ち切りたいと考えました。そして子供たちに自由を与えたいと。
「自由だと? (おろ)かな。束縛こそおまえらを律してきたのが事実」燃える影は彼らの声を聞きつけ、やってきておとなたちを翻弄(ほんろう)します。
(かせ)なき支配がどうして社会秩序(ちつじょ)をもたらすか。法と規則にしばられた(おり)のなかであれほどさわぎ、踊りくるっていたではないか。おまえらが残した歴史は争い絶えぬ嘘ばかりで変化もない回転草。幾年もの安寧を子一人で保証しているほうがずっと優しいとは思わんのか」
 王は民にたずねます。
「たしかに、謳歌(おうか)した自由の責務(せきむ)から目をそむけてきたのかもしれない。しかし、果たしてこのままで良いだろうか」
 民は力強くこたえます。
「わたしたちにとって自由は権利の追求(ついきゅう)ではなく、みなが分け合い、みなが(にな)い、みなが学ぶものです。なにより王よ、(そら)を見上げ、胸が高鳴るようなあの自由について語れる親となりたいのです」
「ああ、わたしの兄弟たち! きょうこの場に立てることを(ほこ)りに思う。では皆で約束しよう————」
 つぎの朝、湖畔(こはん)のガゼボで王はふたりの子どもにすべての真実を教えました。長かった【安寧の契約】をついに破棄(はき)した夜、燃える影は激怒(げきど)し、山あいの国の大人をすべて()みこんでいったのです。
「覚えておけ! これがおまえらが望むくだらん自由とやらへの(むく)いだ!」
 のこされた子どもたちを恫喝(どうかつ)するように、燃える影は彼方(かなた)へ消えていきました。しかし、彼らは恐れません。生きるためにどうすればよいか、親からしっかり聞いていたからです。そして、昔からひそかにねられた影を打ち破るための計画についても。
 ずるがしこく強力な燃える影とたたかうため、まずふたりの王子さまは外の領域(せかい)に仲間を探すことにしました。
 いっぽう、深夜の孤児院(こじいん)でのこと。おとぎ話が大好きなふたごの姉妹は、みなが寝静まったのを見て、ボロボロの人形とためておいたビスケットを数枚、お気に入りのカバンにつめ、施設(しせつ)をぬけだそうとこっそり玄関に向かいました。
 きしむゆか板をそろりと歩いていたらとつぜん、リリリン! リリリン! 
 線のはずれた使われていない古い電話機のベルがけたたましく鳴りだします。このままだと大人に気づかれて部屋に閉じこめられ、なにをされるか! ふたりはあわてて重たい受話器を持ち上げると、むこうから男の子の大きな声が聞こえました。
「どうかそのままで! あなたたち姉妹(ふたご)の助けが必要なのです」
 ふたりはびっくりして顔を見合わせます。なぜこちらにふたりいて、しかもふたごの姉妹だと知っているのか、また、どうして助けが必要なのでしょうか。
「つまり電話からリリィとお姉さんは招待を受けて王子さまの領域(せかい)にきたのね」
「そうなの。あと、これは秘密だけど」リリィは菖蒲の耳元で、「おとぎ話をつなげる交換手はシロゾウよ」。
「ほんとうに? リリィ、わたし今度会いに行きたい!」
「わたしたちはもうワクワクしたし、なによりうれしかった。姉さんとどうやって遠く広い世界へ旅に出るか、いつも本を読んでたくらんでた。あの日も、わたしたちは本気だったのよ」
 姉妹の願いどおり、山あいの国の子供たちに(むか)え入れられ、夢のような生活が始まりました。
「彼らはとっても明るくて、すぐに仲良しになったわ。わたしたちはすこしだけ年上だったから食事を作ったりお掃除に針仕事をして、大忙しの毎日!」
 菖蒲は目を輝かせリリィを見つめます。
「リリーフロラ、あなたはピーター・パンにでてくるウェンディね。わたしもあなたのような強い女の子になりたい」
「そう言ってくれてうれしい。アヤメ、あなたとはいい友達になれそうね」

一一 約束の力

一一 約束の力

 燃える影は山あいの国の子どもたちに【安寧の契約】がまだ有効であると嘘をつきました。大人が一方的に破棄しただけだ、というわけです。しかし子どもたちは、ほころんだ契約を逆に利用することにしました。
「闇は子どもたちの計画に気づかなかったのかしら」と、菖蒲がたずねます。
「彼らは【口止めの約束】より重い、【沈黙(ちんもく)の約束】をむすんだのよ」
「そっか、約束の力で燃える影に知られないようにしたのね」
「闇を打ち破るまで真実を()める約束。闇は人の(うち)なる言葉を読むことまではできない。子供たちは親をうしなった悲しみをふくめてぜんぶ記憶にとどめ、かわりに希望を取りだした。わずかでも真実がかすむことのないように」
 ですから、ふたごの姉妹が山あいの国へやってきたとき、なぜ呼ばれたのかまったくわかりませんでした。しかしふたりは子どもしかいない様子を見て、彼らと知り合い、打ちとけるうちにだんだん理解していったのです。
「へんな話よね。せっかくわたしたちは招待を受けたのに、なんで助けてほしいのか彼らに聞いても口をつぐんでしまうんですもの。でもね、わたしと姉はアヤメも持っているすばらしい力を使ったのよ」
「約束の力ではなく? わたしも持っている力……」
 リリィは両手で菖蒲の前髪をかきわけ、のぞきこみます。
「それはね、言葉にならない声を聴く力。きっとアヤメは自然に使っているから気づいていないけれど、とても美しい能力よ。もちろん、どんな力でも正しく使わなければいけないわ」
「リリィわたし、きちんとできているかしら」
「だからわたしたちはこうして会えたんじゃない」
 菖蒲は恥ずかしそうにリリィの(むな)もとに顔をうずめます。
「どんな境遇(きょうぐう)も人にいろんな力を与える。わたしたちはおとなになって結婚し、山あいの国の民となった日、聞かなければならない話をそれぞれ夫から伝えられた。約束の力についても」
「ねえリリィ、あなたたちは利用されたって思わなかった?」
「ぜんぜん」リリィは首を横にふり、「むしろ心がわき立った。これからおもしろいことが起きようとしている、きっと大変だけど絶対に手ばなしたくない物語になるって。アヤメも、あの異国の風をかいだでしょ?」
 菖蒲は納屋を飛びだしたあの日の興奮を思い出し、大きくうなずきます。
「でも愛はべつ。なにからも強要されたわけではないわ。時間を一緒に過ごして自然と、せせらぐ川のような恋をした。話しているうちに大きな川となって、どこまで続くのだろう、もっともっとグレエンの広さを知りたいから結婚したの」
「すてきなお話ね」
「ありがとう、アヤメ」
 燃える影を打ちやぶるチャンスは一度。国を旅立つ王子さまが燃える影と相対する時です。ですから兄弟のうち、どちらが王となるかはとても重要な問題でした。ふさわしいのは兄か弟か、ふたりの王子は悩みましたが、ついに決心をします。兄が王となることを。
「わたしはどうやって選んだのかグレエンに聞いたことがあるけど、彼はぜったい教えてくれなかった。姉さんも同じことを言ってたわ。ただ【王位の約束】とだけ」
 山あいの国に新しい王が即位(そくい)し、闇を打ちやぶるための準備がはじまりました。王さまと王妃さまは記憶の星に旅立つと【手つなぎの約束】で自分の記憶を採取し、青い剣とそれに力を加えるための赤い宝石の指輪も加工しました。記憶の結晶には『そのもの(・・・・)が役割を果たすまで決して壊れない』という性質があり、燃える影と戦うにはうってつけの道具です。
「記憶の星から帰ってすぐ、剣と指輪に、わたしたち姉妹が前の領域(せかい)へ二度と帰らない、という【不帰(ふき)の約束】の力を加えた。そのあと王子も誕生(たんじょう)し、あとは旅立ちを待つだけ」
「ちょっと待って、リリィ。何も知らない干しわらの王子さまはどうして剣と指輪で燃える影を打ちやぶろうと思うのかしら」
「そう、それが一番難しい問題ね。本当は【口止めの約束】で王子に伝えようとしたの。ただし【沈黙の約束】をおかす危険もあった。それに、約束の力も弱まってしまう」
「どういうこと?」
「アヤメは約束の力がどういうものか知っているかしら」
「うん、馬小屋会議でアルビレオが話してくれた。〝果たすのがむずかしい約束ほど力は強く、重いものとなる。でも約束は守らなければ大きな代償(だいしょう)がともなう〟でしょ」
 そもそもなぜ約束に力があるのでしょうか。それは誰も約束を守る人がいなくなり、なにが『本当のこと』か、わからなくなってしまったからです。人間の軽易(けいい)口約(こうやく)によって『本当のこと』を壊さないため、力をもつようになりました。
「グレエンが言うには、この領域(せかい)でない人の約束がより大きな力になるみたい。むかし、みんなが嘘で領域(せかい)を破滅させ、約束の価値をさげたからその代償にと」
「それでわたしやリリィの助けが必要だったわけね」
「約束は信じればそれだけ力が強化されるし、疑うと弱くなっていく。王と姉さんは王子が旅を通して真実を理解し、行動するのを信じようと決めた。もっとも王子は国を立つ前から多くのことを知っていたみたいだけど」
——ヘレムのことだわ——。はっと気づく菖蒲に、リリィはうなずきます。
 燃える影がいったいどこに身をひそめているのか、これも問題のひとつでした。転機(てんき)となったのは【安寧の契約】を破棄した日の夜です。大人を()みこんだあと、一匹のキジ三毛ネコが命がけで影の(あと)をつけていきました。なんて勇敢(ゆうかん)なモルト!
 灯台下暗し、影はずっと昔から住処(すみか)を変えていませんでした。王子が旅立つ少し前、リリィとグレエンは(ひそ)かにモルトの案内で東の風車へ向かいます。
 小麦畑の農夫として監視(かんし)を始めてからしばらくたってからのこと、ついに王子さまがアルビレオに乗って風車にやってきました。
 王子さまは青い剣に【干しわらの約束】を、赤い指輪に【忘失の約束】を加えてアルビレオに(たく)します。風車からでてきた燃える影は大蛇(だいじゃ)の姿で興廃の丘にいるグレエンとリリィを(おそ)いました。
「わたしは山あいの国を出る前に秘密の約束をしていた。それは燃える影に恐れず立ち向かう【覚悟(かくご)の約束】。結果はどうなったかわかっているでしょう?」リリィはニヤリと不敵(ふてき)()みをうかべます。「わたしたちの勝ちね、アヤメ」
 大蛇に呑まれたリリィは王子さまと燃える影が交わした【干しわらの約束】について知ることになります。
「心の水を()むために女の子はすべてうしなう。わたしはせめて中庭から出るための助けとなりたい。そう願ったら、おどろいたことに園丁として待つことが許された。おそらくこれは約束よりももっと強い力、わたしがあなたを見あげたときに……でも、わたしは中庭であなたを」
 リリィは言葉につまります。まるで深い穴の底にしずむような目で、菖蒲はリリィをはるか遠くに感じ、寂しさで胸が苦しくなりました。——だめ! いなくなってしまう——孤独(こどく)に足をつかまれる菖蒲は闇へと消えるリリィに手をのばそうとします。
「あの家で()しゅうの入ったカーテンも、モクレンのかおりがするフカフカのおふとんも、ぴったりなレースのワンピースやちょっぴり大きめのぼうしも、ドライフラワーやハーブ入りのお風呂も、かわいい食器もすてきな庭も、みんな、みんな、なにもかもリリィがわたしのために用意してくれたのよね?」
「それはね、それは……わたし、子を宿(やど)すことが」
「お願いよリリィ、アヤメのためと言って!」菖蒲はリリィの言葉を強く否定するようにさえぎります。「どんな境遇も力を与えるのでしょ? わたし、リリィを窓ごしに見たとき、ほほ笑みかけてくれたとき、どうしても会いたくなった。そしてわたしは今たしかに満たされてる。知らないところでさえたくさん。だからこんなに落ちついていられるの」
 うつむくリリィの長い髪はだらりとたれ、ふたりをへだてる金色の(まく)が顔をおおいます。
「わたしはもうずっと、ずうっとリリィ、あなたの気持ちに気づいているわ。そして宇宙で一番あたたかな力がわたしたちを引き寄せたことにも」それから手をぎゅっとにぎりしめ、「もう離さないで、わたしの————」。
「ええそう、あなたのためよ!」リリィはちからいっぱい菖蒲を、そのすべてを包みます。「全部あなたのため、アヤメのために」

一二 なぞかけ歌

一二 なぞかけ歌

 リリィとのむかし(ばなし)(きり)がかった木立(こだち)のあいだから()が差しこむように菖蒲の思いをさわやかな(つゆ)でみたし、前よりずっといきいきと、新たな活力や意志をすえました。いろんな人の考えや願い、複雑(ふくざつ)にからむ約束は、これからしなければならないことをはっきり告げていたのです。そう、井戸の水で王子さまをもとのすがたにもどし、あの燃える影を打ちやぶることを!
 そんなある日、「リリィのすてきなところは」と、菖蒲は食卓(しょくたく)のイスにすわって砂時計がさらさら下に落ちるのを見ながら指折り数えていました。「早くしなさいって()かさないとこ、あれこれしなさいって押しつけないところ、おかしいって顔をしかめないところでしょ。それに……」
 全部の指を折りたたんでニコニコしていると、リリィがパウンドケーキを持ってやってきました。
「リリィはいっつもいそがしそうね」足をバタバタさせ、ほおづえをついた菖蒲は言います。
「あら、そうかしら」と、リリィ。
「わたしが見るかぎり、三十人のリリィが前を往復(おうふく)していたわ」
「ああ、それは」と、リリィは四角いパウンドケーキを切り分けてから皿を菖蒲に渡します。「きっと、この家に住む小人よ」
「七人じゃなくて? ちょっと多すぎじゃない?」
「あら、うちのお姫さまにはたりないくらいよ」
「なんて世話が焼けるお姫さまなのかしら!」
 時間の砂はふりやみ、菖蒲はティーポットをかたむけ、紅茶を最後の一滴(いってき)までふたつのカップにそそいでいきます。
「ねえリリィ、どうしても気になることがあるの。聞いてもいい?」
 リリィは立ちのぼる紅茶の香りにうっとりしながら、「わたしが教えてあげられることならなんでもどうぞ」
「『干しわらになった王子さま』の本にある、王さまのなぞなぞがどうしてもわからないの。〝芯のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿〟の答えってなんだったのかしら?」
 リリィは少し考えてから思いだしたように笑い、「たぶん王は私たちがよく歌っていたなぞかけ歌をもじったんじゃないかな」。それから『愛する彼に苹果(りんご)を』の歌を歌ってあげました。

  愛する彼に(しん)のない苹果をささげよう
  愛する彼に扉のない家をささげよう
  愛する彼が過ごす宮殿をささげよう
   彼が開けるのに鍵はいらない

  わたしの想いは芯のない苹果
  わたしの気持ちは扉のない家
  わたしの心は彼が過ごす宮殿
   彼が開けるのに鍵はいらない

「リリィは歌がじょうずね、はじめて知った」
 菖蒲はリリィの歌声を〝すてきなところ〟のひとつに加えました。
「一番目になぞかけがあって、二番目に答えがあるのよ」と、リリィは説明します。
「子供のころ、わたしが一番を歌って姉さんが二番を歌い、王とグレエンにどちらが姉か妹かをあてる遊びをしていたわ。別の時は姉さんが最初、わたしが次を歌い、さてどちらでしょうって。わたしたち、顔の見わけがつかないくらい似ているから、姉妹逆転させて彼らによくいろんなイタズラをしたものよ」
「おもしろい遊びね」
「みんなおとなになって秋の収穫も過ぎ、冬支度(じたく)をしていたある日の朝、湖のほとりにあるガゼボで王が姉さんに、グレエンはわたしにこう言ったの。
——もしわたしが姉妹(ふたり)のイタズラを見やぶることができたなら、どうかあなたのリンゴをわたしにください。
 そこでわたしたちは悪だくみを考えた。わたしはサイドヘアにして姉さんのブラウスと花の()しゅう入りエプロンを身につけ、姉さんはツインテールにわたしの藍色のチュニックを着る。約束の日の夕方、ガゼボに集まった私たちは赤いリンゴをひとつ手に、その歌を歌ってみたのよ。それからリンゴをふたりの王子のまえに差し出し、あなたがほしいリンゴはどちらって」
 菖蒲はなんだか胸がほわほわと熱くなり、顔はリンゴのように、目を大きくして、「それから、それからどうだったの? リリィ」
「アヤメもわかっているじゃない。わたしたちのつまらないイタズラなんて最初からお見通し。彼らは容姿(ようし)で私たちを見てたんじゃなくて、声を聞きわけていたの。ずるいわよね、ふたりとも子供の時から知っていてわざとだまされたふりをしてたんだもの。まちがえたら姉さんとふたりで大笑いしようねって話していたのに。まじめな男の子はつまんないわよ、ねぇ」
「……」
「お人形さんみたいにかたまって。どうしちゃったの、アヤメ?」リリィは不満げな菖蒲のほっぺをきゅっとつまみます。
「いや! そんなおしまいはいやよ。どうなったかちゃんと聞きたいの!」
「どうなったかって、それはそれは幸せに暮らしましたとさ……」
「その前のお話よ、ほら、あの言葉があるでしょ」
 リリィは目をそらし、ティーカップを口につけます。でもなんだか菖蒲みたいに顔がまっ赤です。
「アヤメのいれる紅茶は最高ね。どこで覚えたのかしら」
「ごまかさないで」
 熱心にこちらを見つめる菖蒲。壁に追いつめられたリリィは観念(かんねん)してカップを置き、浅いため息をつきます。
「……いままで聞いたことのないくらいとっても甘くてとろけるような愛の約束をささやかれたわ。これいじょうは秘密! ぜぇったい教えない、もうおしまいよ」
「リリィのけち」
「ふぅん」と、リリィは目をほそめ、「アヤメも大人になって大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」
 思わぬ逆襲(ぎゃくしゅう)を受けた菖蒲のお城は火矢でみごと()ちぬかれ、心臓が飛びでそうなくらいどっくんどっくん鳴ります。考えれば考えるほど燃えあがる恋の炎を消火しようと、そばにあった水をゴクゴク飲みます。そんな様子がおかしくて、ふたりは目を合わせ、大笑いしました。
 なぞなぞの秘密は解決し、愛の約束もうまくはぐらかされたところで楽しいティータイムはおしまいとなって、食器をかたづけてから居間にむかいます。
「リリィ」菖蒲は落ち着いた、でも力のこもった声で言います。「やるべきことをはじめましょう」
 リリィはうなずき、くすんだ金色の鍵をつくえの上にことりと置きます。
「このカギは裏口の扉を開けるための(かぎ)よ。裏口扉の錠前(じょうまえ)は内側についていて、扉の向こうはどこへでも行ける階段があるわ。ただし、使えるのはわたしとアヤメの一回ずつ。なぜなら鍵穴にさしてまわしたら、外側から閉じてふたたび錠をおろすまで鍵がぬけないから。それに、外側はドアノブがないから開けられない」
「なるほど、これで王子さまのいる王の間に帰れるってわけね」
「そう、そしてアヤメ、私たちが今どこにいるかわかっているでしょう?」
 菖蒲はすぐに「もちろん」と、こたえて分厚(ぶあつ)いカーテンを思い切り開いてみせました。
 窓の外はどす黒い血のような液体がたれる空、ポコポコと音を立ててヘドロわく沼地、遠くでは切り立つ黒い山を紫色の雷がぶきみに照らしています。
 ここは干しわらになった王子さまのいる世界などではありません。リリィが興廃の丘で呑みこまれた大蛇の体内でした。
「わたしがうろうろしていたら影の男の子に手を引かれ、ここへ連れてこられたの。彼は時々家にやってきては中庭や【干しわらの約束】のことを教えてくれた。それに父親を待っていると」
「もしかしてイシュが」
 菖蒲は月明かりに照らされたあの夜、影の少年が(はな)つ深く(うれ)いた声を思い返し、心はうずきます。グレエンが伝えたかった羽根のまわり続ける風車、いつも穂をたらす小麦畑、納屋と古い農家の秘密は、イシュが〝父親〟と過ごした心象風景のことで、リリィと住むこの家も東の風車にある農家とまったく同じつくりだったのです。
「ねえリリィ、私たちへんよね。こんな最悪な景色のそばでぐっすり寝たり、おいしい食事をしたり、さっきまでお茶を飲んで笑っていたんですもの」
「私たちだれよりも強い女よ。断言(だんげん)できるわ、アヤメ」
 リリィは窓の前で腰に手を当て、どっしりかまえます。
「〝ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライムノムスメ・ナガクツシタ〟みたいに?」
「長い名前!」
「馬を持ちあげるくらいとっても強い女の子なのよ。わたしピッピのこと大好き」
「今のアヤメならアルビレオを持ちあげちゃいそうね」
「リリィ、わたしのお願い聞いてもらえる?」
「わたしがしてあげられることならなんでもいいわ」
「裏口の鍵、わたしたち一回ずつ使えるのよね? リリィがさきにむこうの領域(せかい)へもどってほしいの」
「そんなのだめ……」と、言いかけてリリィが顔を横にむけると、そばに立つ菖蒲は固い決意を秘めた目で窓の外のそびえる黒い山をじっと見つめています。
 リリィはしばらく考えてから、「わかったわ。じゃあわたしの右手にアヤメの手を重ねて」。
 菖蒲は言われたとおりにのせると、リリィはさらに左手をそえます。
「これから【母娘(おやこ)の約束】をしましょう。わたし、リリィは【覚悟の約束】で得た力をあなた、アヤメにわけます。かわりにわたしのもとへ必ず帰ってきなさい。それと、中庭の時のように無茶はしない」
「わたし、アヤメはお母さんの約束の言葉を聞きました。【母娘の約束】を守り、わたしはかならずリリィのもとに帰ってきます。中庭の時のような無茶もしません」
「もしグレエンに会ったら、あなたの家で待っています、と伝えてもらえるかしら」
 菖蒲は笑顔でうなずきました。

一三 光と影による交渉

一三 光と影による交渉

 くすんだ金色の棒鍵錠(ぼうかぎじょう)(かぎ)を差しこんでひねり、木製の扉を押し開けたら石階段が上へのびていました。奥からヒューヒューふきぬける風は階段を通る者の目ざす出口を知りたがっているようで、どこまででも運んでやるぞと自信たっぷりです。
 不安げな表情をしたリリィは菖蒲のほおを優しくなで、できるだけ早く帰ってくるよう言いのこし、暗闇の中に消えていきました。
 扉を閉めると(じょう)がひとりでにかかり、真ちゅうの鍵はくるんとまわってぬけ落ちます。菖蒲は鍵をひろい、ポケットにしまってから、だれもいない居間を通って玄関(げんかん)の壁にぶらさがる丸い姿見(すがたみ)の前で長い黒髪をまとめました。
「おねがい、わたしのミモザ」鏡にうつるアヤメは右手首についた金銀のバングルに言います。「ふたたび立ちあがる勇気を」
 そして、まがまがしい雰囲気(ふんいき)ただよう玄関扉をいきおいよく開き、外へ飛びだしました。
 生ぬるくべっとりした重みのある空気、ぬかるむ地面は底なし(ぬま)のように、一度でも足をすくわれれば、体ごとのまれる危険を感じます。もう芽をだすことはゆるされない灰色の枯木(こぼく)がいたる所に()っ立ち、絶望ときざまれた(ほね)はいくつも山とつみあげられ、時おり、ころがり落ちてしずみました。
 菖蒲は沼からわく腐臭(ふしゅう)にたえながら、大きな(けもの)がずるずる引きずられたであろう痕跡(こんせき)をずんずん歩きます。あちらこちらに隠れる面子(めんつ)をつぶされた欲深き四つ足の人影は、悪意にみちた表情で少女をうかがい、飛びかかって(むさぼ)ろうと一瞬(いっしゅん)の失敗をねらっています。しかし不思議なことに誰も手をだすものはいません。まるで短夜(たんや)にまう(ほたる)のように、ぽおっと白い光が(ころも)となって菖蒲を守っていたからです。うしろめたい闇はまっすぐな光をおそれてもいたのです。
 はき捨てられた偽りの騒然(そうぜん)がたえず耳についてもけっしてうろたえることなく、タールのような黒い雨でよごれても、まったく気にとめず、菖蒲はただ一点を目ざし、前へ前へと進みつづけました。
 やがて沼地を背にして、雷鳴(らいめい)とどろく黒い孤峰(こほう)のふもとまで近づきます。口をあんぐりあけた鍾乳洞(しょうにゅうどう)はするどいきばをむいて待ちかまえ、嫉妬(しっと)の風をはきだしていました。もし【覚悟の約束】の力がなければ菖蒲など紙切れのようにやすやすと遠くへふき飛ばしたことでしょう。
 山の中心に近づくほど焼けるような怨念(おんねん)による熱がおそい、菖蒲のひたいから(あせ)が流れ落ちます。それでも山の深奥(しんおう)へ、ついに広い空間でぴたりと立ち止まりました。
 眼前にはオニキスをけずりだした漆黒(しっこく)の王座で燃える影が胡坐(こざ)をかいています。ひじかけにどっしりとよりかかり、あくまで自分が王さまで、お前は民、いえ奴隷(どれい)だといわんばかりに菖蒲を見おろしていました。
「さて、おまえが賢良(けんりょう)人間(ヒト)だと(ひょう)して単刀直入に伝えよう」
 ゾッとするほど冷淡(れいたん)な低い声。
「井戸の水を我に。【安寧の契約】を破棄し、あの国にも手をださん」
 燃える影は腹話術のように菖蒲の耳元でも誘惑(ゆうわく)します。
——おまえの手中に大勢(おおぜい)のゆらめく灯火(いのち)がある。おまえの望みどおりにあつかうがよい。支配するも消すもおまえしだい。ただ水をこちらに渡しさえすれば。
 燃える黒い影は気づかれないほど小さく口角(こうかく)をあげます。対して菖蒲は口をつぐんで立像(りつぞう)のように固まっていました。
「我は辟易(へきえき)していたのだ」と、影はこまり果てたように弱々しく語ります。「自由と権利をふりかざし、()きもせず〝正義(せいぎ)〟をさえずる愚民(ぐみん)にな。だだばかりのなんとまあ、わずらわしい人形か」
 菖蒲のこぶしがすこし緊張(きんちょう)するのを影は見すごしません。
「いいかね、人形(にんげん)はな、真実であるほどよく疑い、嘘であるほど熱心に信じる。紳士淑女(しんししゅくじょ)よろしく常識(じょうしき)のドレスをまとわせ、舞台でおどらせるのが相応(そうおう)。さきの大戦もひとつの誤解で木偶(でく)はおもしろいように(えん)じはじめた。約束の力などとあいつらはぬかすが、そもそも約束を守らず、恥ずかしげもなく公然と嘘を見苦しい言いわけと共にはく。
 なるほど領域(せかい)(いつわ)りなどない。たんに人が(そむ)いたのだ。(けが)した体をイチジクの葉でおおい、せいぜい恥を隠そうとしたあのはじまりから。生の価値を低めたのはあいつらではないか」
——おまえはちがう。我はおまえが持つ小ビンにこめられた水の価値を知っている。手にするためさぞ苦心(くしん)したであろう。それを人間ごときにたれ流すのはなんともったい。干しわらになった王子などもう忘れ、我とともに歩め。
「我が水の力を使えば、新たな文化の黎明(れいめい)(はい)し、宇宙に高尚(こうしょう)秩序(ちつじょ)をもたらす瞬間(しゅんかん)にも立ち会えよう」
 じっと静かな菖蒲に、影はめんどくさそうにため息をつきます。
「金か、称賛(しょうさん)か、それとも平凡(へいぼん)な人生とやらか? そんなものにたかるはせいぜいハエくらいなもの、まあおまえが欲しくばなんでもよいが」
 洞穴(どうけつ)にぬける風だけがむなしく笛をふきます。燃える影の主張(しゅちょう)がたりないのか、条件がわるいのでしょうか、交渉(こうしょう)はいつまでも合意に達することなく、菖蒲のくちびるも微動(びどう)だにしません。
「つまらん、つまらん、ああつまらん!」我慢(がまん)限界(げんかい)をこえた影はうって変わってごおごお燃えはじめ、「おまえもやはりあの王子(あほ)どもと同じというわけか」と、ひじかけをたたき壊します。「オレはな、沈黙(ちんもく)がもっともきらいだ。なにもかも知っているようなうす(ぎたな)い目をむけやがって! いいか、よく聞け。おまえらがコソコソコソコソうろついていたことに気づいてないとでも思ってたのか、ひきょう者め。なにが井戸の水だ! なにが約束の力だ! そんなもの世を()べるオレの偉大(いだい)な力でいますぐうばいとってやる!」
 あびせる怒声(どせい)は、たけるライオンの咆哮(ほうこう)のように、影はいきおいよく立ちあがり、菖蒲に向かって左右に手を大きくふりながらつめよります。
「なにかこたえろ! こたえろ!」
——わたしはあなたの名を呼んだ。
「おまえをいますぐ!」
——何度も何度も。
「この場で!」
——大好きな友のたったひとりの家族だから。
「消しさってもいいんだぞ!」
——あなたを取りもどそうと。
「わかってるのか!」
——でも、届かないの。
「いいや、そんなのではすまさん! 泣きわめき、命ごいするまで痛ぶり続けてやる! なまいきな小娘(がき)め!」
 燃える影は菖蒲のほほを打ち、彼女がうしろに倒れます。
——なぜあなたには見えないの? なぜあなたには聞こえないの? なぜあなたには感じられないの?
 むくりと身を起こした菖蒲は燃える影から決して目を離しません。とてもふしぎな光景でした。どう(もう)野獣(やじゅう)が今や目のまえの少女から(あと)ずさりし、それはまるで鼻息(はないき)(あら)い動物をしつける調教師(ちょうきょうし)にも見えるのです。
 菖蒲はめいっぱい息をすうと、「いいかげんになさい!」
 ビリビリふるえる叱咤(しった)が洞くつじゅうひびきわたります。
「わたしはあなたと交渉するために来たのではない!
 聞け! (ちから)(かく)れ、(おのれ)を見まごう(あわ)れな人間の王よ。あなたのうぬぼれた野心によって、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)とみずからの役割をまっとうせんとする多くの高潔(こうけつ)をどれほど深くきずつけたか、知りなさい!
 ゆがめられ、にごされた軽薄(けいはく)な言葉によって、貴重(きちょう)な約束の数々は血と涙を逆巻(さかま)(かわ)へと流し、激動(げきどう)の海で真実と公正を()えずさけんでいる。そうして(つむ)がれゆく美しくも悲しい歴史(ものがたり)はあなたの玩具(おもちゃ)でないことを学びなさい!
 そして闇の子よ、あなたを兄と(した)う妹の愛を思いだしなさい」
子供(がき)が我に、我につまらん説教(せっきょう)をたれるか」燃える影はギリギリと食いしばり、菖蒲を指差し、金切り声をあげます。「ゆるさん、ぜったいにおまえをゆるさん! すべておまえが悪い、おまえが妹を利用し、苦しめたくせに! おまえなんかいなくなればいい! 消えてなくなってしまえ!」
「それでも」と、菖蒲は前方をしっかり見すえ、右手で友の手をにぎりながら「わたしにはミモザ(アヤメ)がいる。たとえすべてわたしが悪くても、わたしが許されなくとも」。
 絶句(ぜっく)した影は走りさるふたりのうしろ姿をただながめるしかできず、くだかれた王座に力なく腰を落とします。
「わたしにだって見えていた。わたしにだって聞こえていた。わたしにだって感じられていた。しかし、もどれなかった」
 そう言ったのは燃えつきた影の少年であり、みじめな自分にかわいた笑いを、うなだれると黒い水が目から流れ、「お父さん、助けて」。
 意識を放棄(ほうき)した影は四方八方に破裂(はれつ)し、ねぐらであった山をもくずすほどの力と怒りのなすがままに、おたけびをあげながら暴走(ぼうそう)します。憎悪(ぞうお)のかたまりはあらゆるものを、ここが自分の体内であることなどもう関係ない、といわんばかりに、なにもかも破壊(はかい)しはじめました。
 すぐ恐ろしい光景に気づいた菖蒲はできるだけ急いで家にもどります。制御不能(せいぎょふのう)な闇は、菖蒲が家に入っていくのを発見し、()れくるう波にのまれる小さな木造船のごとく、あっというまに家をひねりつぶしました。
 かろうじて(なん)をのがれた菖蒲は裏口扉の鍵を開けて、すぐさま閉めると鍵がかかります。しかし闇は力ずくで扉をぬけようと、ぐいぐい押しよせてきます。黄色に光るミモザは菖蒲の手を離し、いまにもやぶれんばかりのたわむ扉を背でおさえつけました。
「ミモザ!」菖蒲は思わずふり返ります。
「はやく行って!」と、ミモザ。
「でも」 
「あたしはいつもアヤメと一緒」
「うん」
 菖蒲が階段をかけあがってからすぐ、闇は扉をぶちやぶり、階段にどっとなだれこんできました。
 もう絶対に止まることはできません。背後(はいご)にはどす黒い蛇が菖蒲を()()きにしてやろうと、これ以上ないくらいの怒りをこめながら猛追(もうつい)していたからです。

一四 干しわらの王子さま

一四 干しわらの王子さま

 ぶきみなほど静まり返った直線の石階段。遠くで聞こえる小さな蒸気機関車(じょうききかんしゃ)のブラスト(おん)がこちらに近づいて、どおっと通りすぎていきます。
「おいおい、どこまで続くんだよ」重厚(じゅうこう)な鉄車輪は運転手にくり返し問いかけます。「こっちはもうヘロヘロさ!」そばで左右にふられる主連棒(しゅれんぼう)文句(もんく)たらたらです。いつまでたっても終わりの見えないトンネル、前からうしろへ流れる単調な黒い景色で息せき切らす運転手の菖蒲は、がたつく機関車(からだ)をなんとか説得して進んでいました。後方からせまりくる恐ろしいさけび声を聴きながら。
 ミモザの時間かせぎや、怒りをたくわえ過ぎた闇が多少緩慢(かんまん)になったとはいえ、ふつうの女の子が何十段もの階段を全力でかけているわけですから、差をつめられるのは当然でしょう。
 でも、どんなことにも終わりはあります。読めないとわかっていながら背のびして借りた字がびっしりのぶ厚い本にも、おやつのショートケーキをイチゴからつまんでも、クリームからなめても、シロップが染みこむスポンジからぱくついても。
 菖蒲は終わりが好きでした。本を閉じたあと、どん帳のむこうにいる登場人物がどんなすばらしい暮らしなのか、いつまでも想像していられたのです。食べ終えたケーキだって物語はありますし、ほろ苦い終わりにはたっぷりミルクと砂糖を入れてしまえばカフェオレにできます。たとえ毎日が長いトンネルの車窓(しゃそう)でも、彼女の王国はおしまい(・・・・)はじまり(・・・・)と仲よく腕をくみ、『誰のためのものでもない物語』を心に()える耳にいきいきと語り続けていました。
 そんな菖蒲の気持ちをほんのちょっぴりでも知っているあなたは、彼女にむかってこう(はげ)ますにちがいありません。
「あきらめないでアヤメ、出口はもう少し!」
 ほら、前方に四角(しかく)い明かりがやってきました! 菖蒲はあなたをちらっと見て目くばせし、つかむようにまっ白いカーテンのなかへ体を投げだします。
 あらわれたのは最初の部屋、干しわらの王子さまが待つ玉座の()でした。ついに帰ってきたのです。でも、感慨(かんがい)にふけってなんかいられません。暴走した闇も菖蒲を、いいえ、この領域(せかい)すべてを壊そうと飛びだしてきたのですから。
 菖蒲は息つくひまもなく部屋の中央、王子さまのいる王座へまっすぐ走ってゆきました。胸はバクバク、ひたいは汗でぐっしょり、息だってきれそうですが、重たい鉄の足をとにかく回転させ、前へ前へ。
 やぶれた水道管から噴出(ふんしゅつ)する水のように、闇は周囲(しゅうい)をいきおいよく()みこみながら、菖蒲目がけて、すさまじい速さでおそってきます。なんて執念(しゅうねん)(ぶか)いのでしょう! 彼らは(いか)るのに飽きたりず、憎しむことだって疲れを知りません。
 すぐ王子さまに水をそそぐため、菖蒲は小ビンをポケットからとりだし、フタを投げ捨てます。しかしなんとつぎの瞬間、信じられないことが。
 小ビンに気をとられ、よろけて石だたみのでっぱりにつまずいてしまったのです。
 汗ですべった小ビンは手からすっぽ抜け……
「あっ」
 目の前でゆっくり、ゆっくりと(ちゅう)にういて遠ざかる小ビン。手をのばし、ほんのちょっと、指先をかすります。
 たたき割れたガラスの音が部屋中ひびいて火花をちらし、小ビンはたちどころに消えました。
——————
 時間がピタリと止まります。
——まさか! なぜ? 目的を果たすまで割れないはずの記憶の結晶が! やっとここまでたどり着いたのに。なにもかもムダだったの?——闇はほんのりただよう挫折(ざせつ)の甘い空気を感じとり、喜びいさんで菖蒲の頭をかすめ、まとめていた髪がはらりとほどけます。
 地に軽く手をついた菖蒲は小ビンのそばまでかけよると、ひざをつき、こぼれた残りの水を口にふくんで王座へまっしぐら! 闇はするどい(やり)となり菖蒲の心臓にねらいを定めます。
 菖蒲は王座の階段を一段飛ばしで、干しわらになった王子さまに両手でふれると、その口に優しく口づけしてからこう(とな)えました。

「心から愛する王子さまがどうか、もとの姿にもどりますように」

 それからぎゅうっと抱きしめ、目をつぶります。
 菖蒲にできることはもうありません。だから、あとは干しわらになった王子さまにたくします。でも、扉のない中庭にいくため戦わねばならなかった失意や無力感などではありませんでした。これまでにないほどおだやかな気持ちで、安心してなにもかも、そう、なにもかもすっかりぜんぶ、愛している人を信じたのです。
 闇はみにくく下品な勝どきをあげ、ふたりをまるごと()みこんでいきます。
 こうして光は闇のものとなり、世界は暗転(あんてん)しました。


 でも、それは二行分ほど。
「……やみ……はなれる……に」
 ぽつりぽつりと音がどこからか聞こえてきます。
「わたしは……おまえとの約束を……果たした」
 少しずつ明瞭(めいりょう)になる声。
「干しわらとなったわたしに井戸の水を。そう望んだが、あたえられた水は、はるかにまさっていた」
 きれ()にはなつ光芒(こうぼう)があたりを()らし、「それにしても」と、王座からの声はつづきます。「おまえはこの水の価値をほんとうに知っているのだろうか」
 闇はひるみます。いちばん聞きたくない声だったからです。しかし言葉はやみません。
父祖(ふそ)たちよ。わたしたちの勝利です」
 ボロぞうきんのようにさかれる闇の中で燦然(さんぜん)とかがやく少年は菖蒲をしっかり守っていました。
 菖蒲は顔をあげると、ふんわりなびく小麦色の髪にサファイアの瞳をもつ少年がこちらを見つめています。
「もどれたのね。よかった」
 干しわらの王子さまは軽くうなずき、菖蒲にこう言いました。
「ありがとうアヤメ。きみがわたしのくちびるにそえた水は、どんな花よりも(かんば)しく、極上(ごくじょう)(みつ)よりなお甘かった」

一五 二重星

一五 二重星

 菖蒲はなんだか恥ずかしくなってきます。それも当然でしょう、なにせ王子さまのたくましい胸に抱きついているのですから。しかもわらたば(・・・・)とはいえキスまで……いてもたってもいられず離れようと体を引いたら、うしろによろけて階段をふみはずします。
 王子さまはころげ落ちそうになる菖蒲の手首をさっとつかみ、「どうしたの、アヤメ?」
 にぎられる手のぬくもりはビリビリ全身をかけめぐり、菖蒲はかーっと熱くなって目をそらします。
「あの、その、だから、うん、ごめんなさい」
 きょとんとこちらをのぞく王子さま。菖蒲はよけいに意識してしまい、手をふりほどき、背をむけます。——わたしなにやってるんだろう。納屋からここまで運んでも平気だったのに。あぁもう、おばぁがへんなこと言うから!
 感情は自分でもよくわからなくなる時があります。もちろん菖蒲は納屋で選んだわらたば(・・・・)が王子さまだと信じていました。だからこそもと(・・)の姿にもどすため、これまで必死にやってきたのです。しかし彼女の大きなかん違いは、干しわらでも人間でも同じだろうと思いこんでいたことでした。
——想像したよりもずっと強くて、おだやかで優しそう。どんなこと考えているのかな。ねえ、わたしのことは?——菖蒲の頭で『とりとめない楽団』による演奏会が始まり、満員の観客を前に指揮者はタクトをふります。ティンパニーのロールで最前列席の恋心は目ざめ、シンバル奏者が調子を合わせて打ち鳴らそうと両手を広げれば……
「アヤメ!」忍びよる不穏(ふおん)な足音にいち早く気づいた王子さまは菖蒲に言います。「闇と決着をつけなければ!」
 そう、戦いはまだ終わっていませんでした。闇は完全に消えうせていないのがわかるやいなや、すぐにでもふたりを始末しようと再び動きだしたのです。一刻(いっこく)猶予(ゆうよ)もありません! それにもかかわらず菖蒲はとんでもないことを口にしました。
「わたしのことはいいから先に行って!」
 菖蒲を見ると()れたほおに全身はススけてぼろぼろ、足は生まれたての小鹿のようにブルブルふるえています。闇に追われながら走りつづけ、階段をのぼりきった彼女の足はとうに限界を超えていました。この場でへたりこみたいほど、体力は少しも残っていなかったのです。王子さまをもどしたい一心でここまで来て願いがかない、ほっとして力がぬけてしまいました。そんなことなどおかまいなしに、ヌルヌルと寄せ集まった黒い水はだんだんといきおいを取りもどし、こちらにやってきます。
 王子さまは菖蒲を優しく横にしてふわりとだきあげ、両側からせまってきた闇を切るように正面の扉へ走ります。
「このままじゃおいつかれてしまう。わたしを置いてはやく!」と、もがく菖蒲。
「聞いてアヤメ。わたしは傷をおった動物をこうして家に連れ帰るんだ。山三つ越えたこともある。それにかけっこでだれにも負けたことがない」
 菖蒲をかかえた王子さまは木の扉をけやぶり、かるがると階段をかけあがります。負けじと闇はまっすぐ、狩りをするヒョウのようにしつこく追跡(ついせき)してきました。
 地下扉をぬけ、風車を出ようとしたまさにそのとき、大きな()ひびきを立てて噴出(ふんしゅつ)する黒いマグマが風車をこっぱみじんに、がれきは飛散(ひさん)して(ちゅう)を舞い、あっというまにのまれていきます。木切れが矢のようにバラバラと落ちて地面につき刺さり、爆発を逃れた王子さまは菖蒲をかばいながら穂をたらす小麦畑の中を走っていました。暴れくるう大蛇と化した闇はグレエンたちと過ごした家も馬小屋も納屋も、たがやした畑も、毎日水をまき、手入れした美しい庭も、いいにおいのギンバイカもすべて、なにもかもめちゃくちゃにします。確かに放縦な力はどんなものでもたやすく壊せるでしょう。でももとどおりにすることはできません。菖蒲は失われゆく景色に深く傷つき、それと同じくらい闇の領域(せかい)憤怒(ふんぬ)をしずめてくれたミモザに感謝しました。
「アルビレオッ! アルビレオォ!」
 王子さまは白馬アルビレオを何度も呼びますが、そこらじゅうであがる阿鼻叫喚(あびきょうかん)怒号(どごう)によってかき消されます。さらに大蛇は赤黒い月を目に、()ちた星たちを軍兵へと変え、王子さまにさしむけます。足を打ち鳴らしつつ背後にせまる大軍、上空ではうねる大蛇がふたりをつぶしてやろうと探します。
 一気に形勢(けいせい)は逆転し王子さまは(がけ)っぷちの状況(じょうきょう)でしたが、あきらめることなくアルビレオの名をひたすら呼び続けます。王子さまを心から信頼していた菖蒲はだまって身をあずけ、ゆりかごでゆられるように目をとじ、いままでの歩いてきた旅を思い返していました。
——本に誘われいつのまにか納屋に、モルトやグレエン、アルビレオとの毎日がわたしに力をくれた。フクロウ先生や生徒のスズメたち、働きアリさんはみんな元気かな。おばぁとまた会いたい。わたしの話をたくさん聞いてほしい。おじぃとシバは旅にでたのかしら、天体観測所でわたしたちをのぞいているかも。メレさんは今日もきっと記憶採取してるにちがいないわ。アルネヴ! あなたのいれるお茶は最高だった。わたしたちは古い友人のよう。なによりミモザ。あなたはわたし。わたしもあなたといつも一緒いる。リリーフロラ、わたしのお母さん。ぶたれたほっぺは怒られるかな。いつだってわたしは前に進むことができたもの。だからこれからも——
 菖蒲はまるで知っていたかのように王子さまの顔を見て、こう言います。
「来た」
 憎しみあふれた暗闇のむこうからチカチカ星がまたたき、希望がこちらにやってきたのです。そう、白い馬が!
「アルビレオ!」王子さまはおどろきと喜びがまじった声をあげます。
「わが主人、わが王よ! 深い闇の中であなたがわたしを呼んでいるのが聞こえました。ああ、どれほど待っていたことか!」
「おそくなってすまない、アルビレオ。大いに喜べ! わたしたちの勝利だ。さあわたしを青い剣のもとへ案内しておくれ」
 王子さまは走りながら菖蒲をアルビレオの背にのせ、彼女のうしろにまたがると、主人が帰ってきた白馬は土塊(つちくれ)をけり飛ばし、いつにもまして早く駆けだしました。
「グレエンが青い剣を持って興廃(こうはい)の丘にむかっています。モルトはアヤメさまが地下におりたすこしあと、ことの顛末(てんまつ)を王に報告するため国へもどりました」
「よし、よくやった。すべて計画どおりだ」
 おってくる闇の軍隊をぐんとひき離し、広い小麦畑は遠くにポプラが前から後ろへ流れ、興廃(こうはい)の丘手前、シラカンバの林が見えたところで青い剣を持った戦士がいました。
「グレエン!」
 待っていたとばかりにグレエンは青い剣を思いきり天高くほうり投げ、ふわりとうかぶ剣はするどい閃光(せんこう)とともにまたたくまに消えさります。彼方(かなた)の王子さまが青い剣を高くふりあげるうしろ姿を見るや、グレエンは血湧(ちわ)肉踊(にくおど)り、たまらずこう叫びます。
「ああ父祖たちよ、わたしはもう満足です! あなたたちが待望したこの時代、一片でもかかわることができたのですから!」
 それから腰にぶらさがる剣を右手でゆっくり(さや)からひきぬきます。完璧(かんぺき)()がれた長剣アトロポスは、後方で行進する十万の兵を鏡のようにうつし、彼らの運命を断ち切るため、かん高い声を鳴らしました。
背信(はいしん)虚言(きょげん)亡者(もうじゃ)どもよ」獲物(えもの)をとらえた(わし)の眼をして、ライオンが威嚇(いかく)するときの重々しいうなりは大地をふるわせます。「わたしがだれの子であるかおぼえているか。底知れぬ憎悪の応報、どのようなものか教えてやろう」
 そう言って、グレエンただひとり闇の大軍に突進していきました。
 いっぽう王子さまは、みるみるうちにシラカンバ林を越え、風を切って興廃の丘にでます。広い平原のまんなかには暗雲をつきやぶり、天までとどくほどの巨大などす黒い血のかたまりが毒々しくうねり、激しい鼓動で空気はひずみ、その重圧によって何者も近づくことを許しません。
 アルビレオは丘の上、見晴らしのきくところで一回りして止まります。まきあがる火の粉と熱風は菖蒲や王子さまの髪、アルビレオのたてがみもゆらし、恨みをぶちまける大蛇とついに対峙(たいじ)しました。
「アルビレオ!」王子さまは青い剣のきっ先をすらりと闇にむけ、こうたずねます。「あれを見ておそれるか。狼狽(ろうばい)するだろうか」
「わが主人、わたくしはいちどたりともふるえたり、おびえたりしたでしょうか。たとえ深い谷であろうと、切り立つ山であっても、あなたの命令とあらば喜んで駆けるでしょう!」
「よく言った! アルビレオよ、永遠に続く友情のしるしにわたしが強大な闇を打ちやぶる(さま)をおまえに見せよう。そして、それはかならず夜空にかがやく二重星となり、人々が()らしながめるとき、わたしとおまえとのあいだで()わした約束を思いだすこととなる。さあゆこう、強くあれ!」
 王子の高らかな宣言にアルビレオは武者(むしゃ)ぶるいし、ひづめを地面に打ちつけ、雄壮(ゆうそう)ないななきをみせました。
「アヤメ、こわくない?」と、王子さまは優しく言います。
「ううん、ぜんぜん。だってわたしはあの闇がなにか知っているんですもの。それにわたし、しかってやったのよ」
 王子さまとアルビレオは大笑いします。
「きみはなんて気丈なのだろう」
 アルビレオも王子さまに同意してこうつけくわえます。
「王妃やリリーフロラさまがもたれる気品にたいへんよく似ておられます」
「たしかに」と、王子さまはうなずき、「アヤメ、わたしの願いを聞いてもらえるだろうか」。
「わたしがしてあげられることならなんでも!」
「青い剣を共に持ってほしい。【干しわらの約束】にアヤメの信じる心をぜひくわえよう」
 菖蒲はさしだされた剣をにぎります。ゆるがぬ信念は青い剣をみごとなターコイズブルーに変え、重ねた王子さまの手はターコイズブルーをまばゆいばかりの透明な金へと高めます。
 アルビレオは迷わず丘を駆けくだり、闇は対抗せんと全力で強襲(きょうしゅう)します。光をまとう天馬の進む速さは放たれた矢のごとく、闇をまっぷたつにしました。
「先生、あれはなんでしょう。ボクはあんなに美しく、力強い流れ星を今まで見たことがありません」と、島の山頂でシバは言いました。
「むかし、闇の門を旅したとき」悲しげに夜空を見あげるおじぃはゆっくり口を開きます。「自分を持つ影に名を()し、彼は目となってくれた。彼が望むものはあまりに大きく、わしは与えてやれんかった。だがわしにとって今なお、おまえは心の美しい友人なのだよ、イシュ」
 黒煙(こくえん)の中でいよいよ明るく、紫色の星が砂金を散らして突き進み、(そら)の暗黒へ渾然一体(こんぜんいったい)となってぶつかると方々にさけ、白い輪っかがいっぱいに広がりました。それはすぐ一点に収縮(しゅうしゅく)してからぐるっとうず巻き、多様な色の光があちこち芽吹(めぶ)いたのです。
「なんてすばらしい」宇宙に咲きこぼれる花をアルネヴはサトウの展望台でながめました。「まるで銀河の終焉(しゅうえん)誕生(たんじょう)がひとときで起きているようだ。ミス・アヤメ、きみはついにやりとげたんだね」
 争いの終わりは静かなものです。雲ひとつない夜の丘に()がさすと、こぼれる(つゆ)は草の上でテラテラとかがやきおどり、いつもの朝のおとずれを告げます。消え入る灯火を昨日に残しながら。

一六 帰路

一六 帰路

 菖蒲と王子さま、そして影の間をつめたい風が通りすぎました。
()ければわたしは()くなるだろう」迷いのない表情をした少年の影は(たん)々とした口調で王子さまに言います。「王の子よ、右手に持つ剣でわたしを()ち、すべて約束を果たそう」
「イシュ」菖蒲は王子さまをさえぎるように彼の名を呼びます。「あなたはなぜ門をでたの? なぜミモザを妹と?」
「わたしはただ父がほしかった。自分を知ったとき、いちばんはじめに考えたこと、それは父のことだった。ずっと考え、今も思う。きっとこれからも」
「こんなに痛み苦しむ必要はなかった。あなたやミモザだって」
「その言葉を父から聞きたかった。わたしはわがままで、とても弱い」
「そんなことない! あの()、あなたはわたしを手にかけることもできたはず。それにリリィはあなたに感謝してた」
 イシュは目をほそめ、菖蒲に答えてみじかいおとぎ話を伝えます。
 むかしむかし、優しい農夫は地をさまよう少年の影をわが子のように受け入れ、親子なかよく暮らしていました。まわりの人々は知らない影を恐れ、遠ざけましたが、農夫は少年と手をつなぎ黄金の空、風車回る小麦畑を歩きながらたくさんの夢を語り、愛について教えたのです。ある時、少年は父を喜ばせようと少しばかりの力を見せます。それが人をくるわせるには十分なほどであることなど考えもせずに。農夫は〝少しばかりの力〟で世界を()べる王となり、風車に小麦畑、愛と夢、少年まで忘れてしまいました。楽しかった昔をいつまでも続けたい少年には理由がまったくわかりません。答えを知るため少年は父の影となり、やがて父そのものになろうとしたのです。
「……やはりわたしも多くの影と同じというわけだ。闇から出て闇へと(かえ)るうつろな影法師(かげぼうし)
 言葉をうしなう菖蒲に、王子さまはきっぱりとこう言いました。
「しばらくこっちをむいてほしい」
 ふりむく菖蒲の顔は異なる少女の必死な哀願(あいがん)に見えて、王子さまの決心はいっそうゆさぶられ、まゆが寄り、少し目をそらします。
——強くありなさい、息子よ。交わした約束はおまえの手で果たすように。半端(はんぱ)斟酌(しんしゃく)で誰も苦しめてはならない——そう心に語りかける父の言葉に王子さまはあくまでかたい表情をくずしません。菖蒲の頭を抱きよせると温かな水で胸元がしめるのを感じます。
「けーんけーんっぱ。けーんけーん、ぱっ」イシュの()んだ(ひとみ)()えるひとつ(ぼし)は彼を遠い過去へ、楽しかった昔に連れていってしまいます。「ああ、また父さんの負けだね、父さんの……」
 王子さまは右手の青い剣をふりかざし、陽光が刃先を天へとつたい、力をこめて————
 さわやかな朝に感じる重たい空気。気まぐれな風ですら意気消沈し、草花も目をそむけるように頭をたれました。
「アヤメ、おわったよ」
 王子さまは自分のすそ(・・)をかたくにぎりしめ、ブルブルふるえる菖蒲の肩に手をそえました。そして青い剣を地面に思いきりたたきつけようとしたとき、「お願いやめて!」菖蒲は王子さまの腕にすがりつきます。
「赤い宝石の指輪は約束を果たした時に役目を終えたの。だからきっと青い剣も同じように、だから、だから……」
 すると、青い剣はガラスが割れたような音を鳴らし、七色の火花となって散りました。
 王子さまは悲しげに広げた両手を見ます。
「わたしにはこうするしかできなかった」
 菖蒲はだまって王子さまの手にふれ、首を横にゆらしました。

 アルビレオがのんびり草を()んでいるところに菖蒲が手をふってもどってきます。王子さまはアルビレオの頭を優しくなでてから背すじをぐっとのばし、「さあ家に帰ろう、はやくやわらかいベッドにもぐりたい。もうあんなカチカチのイスはこりごりだよ」
「干しわらになってもイスのかたさ(・・・)は感じられるのね」と、菖蒲は不思議そうに言います。
「まさか」と、王子さまは腕を広げ笑いました。
「おーい!」シラカンバ林から漆黒(しっこく)の馬にのったグレエンが手をふってみんなのところに近づいてきます。「ぶじでよかった」
 王子さまはグレエンと固いあく(しゅ)をして抱き合います。
「あなたの助けに感謝します、グレエン」
「いえ王子、みなの協力あってこそ」
「王子はやめてください。グレエンにいわれるとなんだか恥ずかしいや」
 グレエンは高笑いしてから菖蒲の前でおじぎをします。
「アヤメさま、ありがとうございました。わたしやモルト、アルビレオもあなたと過ごしたひとときが大きな力となったのです」
「優しいご主人さま、わたしもあのときのすてきな毎日がまえにふみだす勇気となりました」それから菖蒲は思い出したように、「リリィからの伝言。〝あなたの家で待っています〟と。わたしも帰りますね、お父さん(・・・・)」。
 グレエンの顔はぱあっと明るくなり、目もうるんでいるみたいですが、まわりの視線を感じてすぐに頭をふり、せきばらいをします。
「すまないが急用だ。わたしはさきに国へ帰らせてもらう」グレエンは誰の返事も待たず、馬に飛び乗ってさっそうと駆けていきました。
「グレエンってあんな人だったかしら?」ぽかんとする菖蒲。
 王子さまとアルビレオは声を合わせて「うん、ああいう人!」
「おーい、アヤメちゃーん!」
 遠くから聞こえるたくさんの呼び声に菖蒲はぐるりを見回します。「こっちだよ、こっち!」なんと青空で羽ばたく鳥の群れでした。
「まあ! あなたたちは雨の教室にいたスズメさんたちね。それにフクロウ先生も。なつかしいこと」
 スズメたちは菖蒲の周りをくるくると、菖蒲も一緒に楽しく踊ります。
 菖蒲のそばにきたフクロウ先生は恥ずかしそうに、「教室で怒鳴(どな)()らしてほんとうにすまなかった。どうかわたしを許してほしい」と、あやまります。
 もちろん菖蒲はおちゃめなフクロウを許しました。
「アヤメちゃんが教えてくれたこの領域(せかい)は、自由に飛びまわれるすばらしい大空だよ。ぼくたちだけではもったいないから、いろんな鳥をさそったんだ。きっとにぎやかになるね。近いうち、アヤメちゃんの家にも遊びに行くよ」
「すてきね。楽しみに待っているわ。こんどはあなたたちの旅のお話、わたしに教えて」
 スズメたちは菖蒲を祝福してから遠くへ飛びさり、彼女は手を大きくふって見送りました。
 すると、こんどは地面から声が聞こえてきます。
「ワレらがジョオウ!」
 菖蒲はかがんでのぞくと、働きアリがたくさんならんでいました。
「あなたたちはコロニーを追われたアリさんたち」
「ジョオウがショウカイしてくださったこのコウダイなトチは、やりがいのあるドジョウです。でもワレワレだけでニンムはカンスイできません。ですからみんなでコロニーをツくることをケイカクしました。ミミズやモグラ、ネズミなどにもコエをかけ、キョウリョクしてシゴトをします。あなたのヤクソクをいつまでもワスれません」
「とてもよいアイディアね。きっとまえより美しい丘になるわ」
「すべてジョオウのおかげです。テイエンがカンセイしましたらショウタイジョウをオクりますので、ぜひピクニックにいらしてください」
「まあ! ぜったい行く。そうしたら、あなたたちがどうやってここを美しい庭園にしたのかわたしに教えて」
「アリ、アリ、サー!」
 アリたちは菖蒲を祝福して、穴のなかへせっせと入ってゆきました。
 王子さまには手をふる菖蒲がキラキラ輝いて見えます。
「わたしが干しわらになっていたあいだ、アヤメはすてきな出会いがいっぱいあったんだね。うらやましいよ」
「ええ、わくわくするような出会いだったわ」
 長く愛おしかった旅をかみしめるように、菖蒲は緑が波立つ丘全体をしばらくながめていました。
「さてと、わたしたちも帰ろうか。アヤメに見せたいものがたくさんあるんだ。山あいの国へ来てくれるかい?」
「もちろん。わたし、リリィに帰るって約束したから」
「そういえばアルビレオ」と、王子さまは思いだしたように言います。「アヤメがお前の背に乗ってもいやがらないね。小鳥一匹とまるだけでも大あばれしたのに」
「さてそうでしたっけ、ねえアヤメさま?」とぼけたように耳を動かすアルビレオ。
「どうだったかしら、ねえアルビレオ?」菖蒲は空を見あげ、肩をふるわせます。
 王子さまひとり首をかしげながらも、まあいいやとアルビレオを走らせました。


 丘陵地(きゅうりょうち)から西へ、山々をのぞむ大草原では綿雲(わたぐも)がぷかりとうかぶ空の下、ゆるやかにまがりくねった川や水車場を横目に、ふみかためられた一本道を進んでいきます。お昼ごろ、遊牧民の親切なもてなしを受け、天幕(テント)でパンとスープそれに甘いミルクティーまでごちそうになっていると王子さまは菖蒲に「少しだけ寄りたいところがあるのだけど、いいかな?」と、たずねます。できるだけ早く山あいの国に帰ることを約束して道を北にはずれ、血の荒野へとむかいました。
 衰退(すいたい)を終え、赤い砂の毛布(もうふ)をかぶった眠れる都市の廃墟(はいきょ)基礎(きそ)だけ顔をだし、大きな宮殿(きゅうでん)にむかって足をのばしていました。王子さまは大階段の前でアルビレオと菖蒲をのこしてかけあがります。くずれ落ちて屋根のないドーリア式の柱廊(ちゅうろう)を歩き、散乱する大きな石灰岩の石積みにからむつた(・・)や雑草に足を取られないよう飛びうつってさらに進みます。中央の広場にはボロボロの巨像、その足もとに粗布(ボロ)をまとった老人がつえを持ってこしかけていました。
 王子さまは老人のまえでひざまずきます。
「あなたの導きにより今日、闇を打ちやぶることができました。助言に感謝いたします」
「わしはなんもしとらん」
「あなたはただのもの知りではなく、山あいの国の安寧(あんねい)のため追放された王子です、ヘレム」
「……もう、むかしのこと」
「国を出て広い世界に旅立ったとき、わたしはおどろきました。各地であなたたちの評判(ひょうばん)がおとぎ話として伝わり、数珠(じゅず)のようにつぎの土地へとつながっていたのです。あるときは街全体に、ときには人知れず口伝えで遠い国の王子に助けられた、と。
 わたしは善行の軌跡(きせき)をめぐりながらここまでやってくることができました。あなたたちがどのような思いで国をでて、どのようなこころざしで歩み、旅の意味を問うてきたのか、わたしに与えられた試練とはそれらの答えを示すことだと」
 老人は満足そうにうなずき、ゆっくり立ちあがると王子さまの肩に手をのせて「お前はよくやった。それにグレエンの勇姿(ゆうし)もたたえよう」
「あなたが教えてくださった女の子に救われました」
「よし、約束どおり秘密を語ろう。顔をあげなさい」
 王子さまは目を丸くします。なんとそこに立っていたのは老人ではなく白銀の髪に琥珀(こはく)色の(ひとみ)をもつ屈強(くっきょう)な男だったからです。
「ヘレム、あなたはいったい」
「おどろいたな王の子よ。おまえは身なりで人を判別したか」と、腰に手をあて不敵な笑みをうかべ、ヘレムは続けます。「むかし、燃える影の誘惑をしりぞけ、命からがら廃墟の宮殿にたどり着いたわたしは倒れて深い眠りについた。目を覚ますと宮殿は栄光ある本来の姿をあらわし、美しい(にじ)がわたしに水をあたえてくれたのだ。わたしは彼女を愛し、彼女は将来を告げた。それは【口止めの約束】でお前に教えたとおりだ」
「では闇が打ち破られることをあなたは初めから?」
「いや、わたしの好奇心が許さなかった。おしまいを知った旅などなにがおもしろい? なるほどたしかに追放された王の子たちにとって一年のはじまりは冬であり、一日のはじまりも夜。しかし一度あの自由を手にした子どもがどうなるか、お前もわかっているだろう」
「広大な世界をもっとのぞきたくなる。良いものも、悪いものも」
 ふたりは顔を見合わせ、思い出すように笑います。
「ああ、だからどうかわたしをいじわるな子どもだと思わないでほしい。人は先を知らぬとも理解できることがたくさんある。そうでなければ信じる心とはいったいなにか。
 覚えておきなさい、この世界は『言葉』によってできていることを。そして、宇宙をゆきめぐる力と法則は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々の絆を解くことができるかな」
「わたしの手にあまる問題です。なにせ語り継がれた『物語』のひとりなのですから」
「よい心がけだ。今の話はあの()のため、胸に秘めておくように」
 王子さまは静かにうなずきます。
「さて、わたしたちを代表し、お前に国のみなへ言伝(ことづて)をたくす」
「ヘレム、あなたは帰らないのですか?」
「わたしたちは立ち止まっていられない。これから不当に失われし仲間たちを探しにゆく。非常に困難な旅となろう。忘れるな、わたしたちはいつもおまえと共にいる」
 ヘレムは王子さまと抱き合いわかれを告げて、つえを地面に二回打ちつけると七色の風が彼を運び去っていきました。一礼した王子さまは菖蒲と急いで故郷にむかいます。こののち、ヘレムと廃墟の宮殿を二度と再び見ることはありませんでした。

一七 静かな凱旋

一七 静かな凱旋

 星ふる夜空が渓谷(けいこく)合間(あいま)に広がり、山沿(やまぞ)いの道をくだってゆけば、やがて眼下(がんか)には明かりがともるちいさな町と山の斜面にかわいらしいお城が見えてきます。駿馬(しゅんめ)のアルビレオでも山あいの国についたときはすっかり真夜中になっていました。 
 王子さまはなつかしい故郷(こきょう)の変わらぬ情景を感慨(かんがい)(ぶか)げにながめ、「あそこがわたしの国だよ、アヤメ」と、遠くを(ゆび)さします。しかし返事はありません。王子さまは菖蒲の顔をのぞくと長旅でつかれたのでしょう、ぐっすり眠っていました。それで落ちてしまわないよう彼女の体をそっと自分の腕にもたせかけます。
 石づくりのアーチ橋を渡ってすぐ、低い石門の上部には大きなつがいの白鳥と白鳥座を中心にギンバイカの葉でまわりをかこみ、頂点にはその花があしらわれた逆ハート型のレリーフが彫られています。パチパチと燃えるたいまつのそばには『ようこそ、名もなき小さな国へ』という立て札と、いつか遊びで()んだ子どもたちの花冠がかざられていました。
 門をくぐると町で一番大きい講堂(こうどう)がどっしり構え、その前には噴水(ふんすい)広場もあります。人々は朝からつどい、芸術や思想、数学、建築まで自由に語り合いました。お昼には王さまと王妃さまが手をつないでやってきて、ふたりをかこみ歴史やおとぎ話やことわざを聞きます。そして夕方になると楽しい(うたげ)が始まりました。そんな広場も今はひっそりとして、にぎやかな明日を夢みているようです。
 心おどらせながらリリィの家にむかおうとしたとき、王子さまは目を見開きます。グレエンを先頭にして民全員がろうそくの灯火(とうか)を手にならんでいました。王子さまは立ち止まり、馬上からひとりひとりの名を呼ぶようにじっくり見まわします。山あいの国のおとなは誰も夜に外へ出たがりませんでした。こわかったからです。なにせおそろしい闇の大蛇に親が()みこまれたのは深い夜だったのですから。しかし彼らは記念すべき日に歓喜(かんき)(いた)みをあらわすため勇気をあらわし、王子さまの帰りを静かに待ち続けたのです。
 目頭熱くなる民の列に王子さまは何度かうなずき、ゆっくり歩きだすと、アルビレオの馬蹄(ばてい)が石だたみを打つ音を広場に鳴りひびかせます。ろうそくの炎がゆらめく厳粛(げんしゅく)なふんいきのなか、王子さまはまっすぐ背すじをのばし、そびえるお城に顔をむけ、敬意の思いで見つめる国民の灯火を威厳(いげん)ある姿勢(しせい)で堂々と過ぎていきました。
 町から少しはずれ、闇夜を照らす虫がふんわり舞う森にグレエンとリリィの家があります。白しっくいの壁にわらぶき屋根で、カーテンを閉じた木窓から灯がもれて白鳥の置物の影をぼんやりうつしだしていました。
 バラの門を抜けて玄関まで近づくと、王子さまにかかえられた〝眠れる森の美女〟は家で待つリリィにまかされます。お姫さまを見送ってから山の中腹にある城門までアルビレオと走り、一日の労をねぎらってわかれました。
 がんじょうな観音(かんのん)(びら)きの門扉(もんぴ)は最後に開けた者が閉め忘れたのか、それとも〝めんどうくさがり屋〟が仕事をしたのか無防備にも開けたままでした。彼のためにひとつ言いわけをするとしたら、今まで深い山あいの辺ぴな小国にわざわざ攻めようなどと考えるひまな国はひとつもなかった、ということでしょうか。
 王子さまはお城のアーチ扉の上方にあるちいさなのぞき穴を見て「よおし」と、手のひらにつばをペッぺと()きます。石壁のでっぱりに足をかけて軽々とのぼっていき、子どもひとり入れるくらいのせまい壁穴にもぐりこんでぐいぐい進み、城内にぬけました。これは『通りぬけの()』と呼ばれる山あいの国で代々行われてきた儀式(ぎしき)です。子どもたちがお城にある壁穴をどれか見つけて通りぬけたらひとつ〝おとな〟になるのですが、みんなあまりにくぐりすぎて親よりも年上になってしまい(ある女の子はなんと数日で一〇〇さいをむかえたのです)、年に一回だけとなりました。
 ほかにもお城に隠れて王さまと王妃さまが見つけにくる『かくれんぼの()』、地図を持って宝石を探す『宝探しの儀』、正門から屋上まで競争する『かけっこの儀』、お城に一泊する『お泊まりの儀』、みんなで作る『おやつの儀』など、それはもうたくさんの儀式があって子供たちはいそがしい毎日なのです。
 エントランスに飛びおりると、大きな赤いペルシャじゅうたんがしかれ、壁につるしてある王妃さまの大好きなドライラベンダーのかおりに、ますます郷愁(きょうしゅう)をかきたてられます。
 旅先ではいろんな場所に寝泊まりしました。大木の上、風がビュービューふくほら穴、ときにはりっぱな宮殿(きゅうでん)やお屋敷(やしき)にも。しかしどんないごこちのよいベッドだって、ここにはまったくかないません。山あいの国でおとながお城に入れるのは雑用だけという決まりがありました。ですから王子さまをはなばなしくでむかえる侍臣に兵、へつらう高官、なんでもしてくれる家令や侍女などいなかったのです。それでも王さまをふくめ、好きな仕事や休息をみながそれぞれもち、必要ならば助け合う、という簡単な約束を大切に守りつづけたので、温かい家族のような王国(おうち)となりました。
 王子さまはなんだかうれしくなって内階段をいっきにかけのぼり王の部屋のまえに立ちます。
「希望をもって国をでて、栄光をもってむかえ入れられよう、だなんて意気揚々と故郷(くに)を離れたのは誰かな。心ふるわせ将来の王としてふさわしく、父の目にかなった立派な大人になろうなどと、背のびした子どもはいったいどこにいるのか」
 父の声色をまねて王子さまはくっくと笑います。でもほんの一瞬、大志を抱きつつカバンを手に、悠久(ゆうきゅう)の世界へ白馬と旅立つ男の子が見えたような。ちょっぴりうらやましく思いながら、ひと呼吸して黒ぬりの扉をコンコンと手でたたき部屋に入りました。
 一歩ずつ王のもとへ、王子さまは片ひざを地につけ、頭を下げます。
「王よ、命令どおりすべて約束を果たしてまいりました」
 大きな窓を背に、王さまと角灯(ランプ)を持つ王妃さまがそばで立っていました。
「よくやった」王さまは、けわしい表情で王子さまをじっと見て、低い声でゆっくりと口を開きました。「山あいの国王として、父祖たちおよび民に変わり心から感謝する。おまえはわたしたちの(ほこ)りだ。非常に困難な旅であっただろう。契約とはいえなにも言えず苦労させたこと、心苦しく思う」
「ありがたきお言葉。わたくしは真実と徳、なにより無償(むしょう)の愛を父上と母上からじゅうぶん教えていただきました。ゆえに言葉なくとも歩むべき正道を知ることができたのです」
「うむ……」
 あまりにそっけない王の返答に王妃さまは首を少し横にむけると、夫がくちびるをふるわせています。
「それにしてもわが子よ、非常に残念だ」顔に影がさす王さまは深いため息をつきました。
——なにかまちがえたのだろうか? そんなまさか——王子さまの体はピクリとゆれ、緊張(きんちょう)した空気が部屋を満たします。
「おまえはわたしたちが考えているよりずっとりっぱな青年になってしまった。こんなに早く母の胸を離れ、父の腕から飛び立ってしまうとは。しかし、今夜だけはわたしたちの勝手をゆるしてくれ」
 そう言って王さまと王妃さまは手を広げ、王子さまを力いっぱいだきしめました。
「おかえり、わたしたちの愛する息子よ。この時をどれほど……どれほど待っていたことか!」
「ただいま、父さん、母さん!」
 これが【安寧の契約】によって国を追われ、家に帰ってきた王子さまの最初で最後の記念すべき静かな凱旋(がいせん)のお話です。

一八 湖畔のガゼボ

一八 湖畔のガゼボ

 山あいの国は式の準備で大いそがしです。町の噴水広場では親が長つくえに白いクロスをかけて、ドレスを着た子どもたちはつんできた野花で装飾(そうしょく)のお手伝いをしています。力もちの大工は木製の大きな演だんを鼻歌まじりにトントン組み立てたり、赤いカーペットや古いタペストリーを講堂から持ちだして広げました、近所の家からパンやケーキの焼ける甘い香り、じっくりコトコト煮こまれたシチューのこってりとした匂いに、みんな思わずおなかを鳴らします。
 今日は王子さまが闇を打ちやぶってから一月後、その記念セレモニーの日でした。式までまだ時間もあるようなので、にぎやかな彼らの声を遠くに聞きながら、凱旋(がいせん)の次の日について少しお話しをしましょう。
 晴れた朝、王子さまは菖蒲に早く会おうとボサボサの(かみ)のまま食事もせず、階段の手すりをすべりおりて正面扉をバンッと開けます。飛びだしてすぐがんじょうな壁にぶつかり、見あげれば王妃さまが立ちはだかり、王子さまをむんずと捕まえて有無(うむ)も言わさず王の()に連行していきました。
 それからまいにち部屋にこもって秘書官(ひしょかん)のお仕事です。闇を打ち破るまでの歴史、王子さまの旅程(りょてい)の記録や諸都市で聞いた歴代の王子さまのおとぎ話をすべて編さんしなければなりませんでした。朝から晩まで紙とにらめっこする王子さまの顔はみなさんの想像におまかせしましょう。ときどき、モルトがこっそりお城にやってきては菖蒲の様子を教えてくれました。セレモニーが終わるまで、さわがしい子どもたちの〝こうむ〟はリリィの家でおこなわれ、菖蒲がお姉さんのように相手していること、グレエンがかわいいひとり娘をまいにちピクニックに連れまわし、とうとうリリィに怒られて外出禁止になったことなど。
 王子さまはペンを置き、しけった部屋の換気に窓を開けると、さわやかな風はヒラヒラと紙をおどらせます。土と葉のまじった新鮮(しんせん)な山の空気を()い、ぐうっと腕をのばします。町に目を落としてリリィの家のあたりをあこがれるようにながめました。
 けっきょく王子さまの願いかなわず、セレモニーまで菖蒲に会うことはできませんでした。それでせめてあいさつだけでもしようと、式の当日、燕尾(えんび)服に着がえた王子さまは広場を通らずできるだけまっすぐグレエンの家にむかいます。しかし道中、町の人々は王子さまを見つけて次から次へと声をかけ、友人まで集まって質問ぜめに。グレエンの家どころか近くの森にすらたどりつかず、時間切れとなってしまいました。
 しかたなくあきらめ、町の広場にとぼとぼむかうと、そこには正装(せいそう)をした王さまと王妃さまが待っていました。
「なんて姿勢(しせい)ですか、王の子らしく背筋をのばしてしゃんと立ちなさい」と、王妃さまは強い口調で王子さまをしかります。
「まあいいじゃないか」王さまは妻をなだめるように「みんな知り合いだし、セレモニーという名の宴会(えんかい)みたいなものさ」と、王子さまに目くばせします。
「あなたがいつもそうやってあまやかすから、わたしが言っても聞かなくなるのですよ!」あきれたように王妃さまは言います。「だいたいあなた、昨日も寝室に本をちらかしたまま寝て……」
 なぜか怒りのほこ先は夫へとむき、強い母にたじろぐ父の背中に王子さまはほほ笑みました。こうして変わらない日常は闇との戦いを過去にし、やがては夢物語にでもするのでしょうか。そんな幸せにひたっているとセレモニーがはじまります。国中、といってもそれほど大きいものではありませんが、おとなから子どもまで噴水広場は(はな)やかなドレスを着た人でごった返し、王子さまを祝福しようとわき立っていました。
 ちいさな男の子がブルブルふるえながらトランペットを持ち、空気のまじる()のぬけたファンファーレが会場に鳴りひびきます。あたたかな拍手とともに王さまと王妃さま、王子さまにグレエンは登壇(とうだん)し、みんなの視線がいっせいにそそがれます。王さまは民の前で両手をあげ、いつものように国の歴史をすらすらと語りはじめました。
 むかしむかし、世界を()べる王となった農夫は三人の息子ができました。なかでも末子(ばっし)文武(ぶんぶ)(さい)にめぐまれ、人望(じんぼう)あつく、優秀(ゆうしゅう)家臣(かしん)大勢(おおぜい)もつようになりました。数多くの戦績(せんせき)をあげ、国の発展(はってん)にも寄与(きよ)すると自国はもちろんのこと、周辺諸国にまでその名は知られ、王の寵愛(ちょうあい)を受けるようになりました。しかし兄弟たちからねたまれるようになります。
 あるとき、かしこい末子は見えない影の存在に気づきます。強大な影の力によって王の考えがますますゆがみ、やがては無益(むえき)な戦争をおこし、領域(せかい)全体の大きな災厄(さいやく)につながることを(あん)じ、影と手を切るよう王に提言(ていげん)をしますが当然聞き入れられず、むしろ怒りをかいます。なお悪いことにねたみにつけいられ、影の傀儡(かいらい)となった兄弟の陰謀(いんぼう)、果ては流言飛語(りゅうげんひご)により反逆者と国民から迫害(はくがい)された末子は忠実な臣下(しんか)とその家族を守るため、いっこくも早く故国から逃げなければなりませんでした。そして大戦の前夜、復讐(ふくしゅう)に燃える影と【安寧の契約】を結ばされることになります。
祖先(そせん)臆病(おくびょう)でも反逆者でもなかった」と、王さまは言います。「国を、父を、人々を愛し守ろうとしたのだ。その証拠(しょうこ)に祖先が持ちだしたものはなにか、みなも知っているだろう。それは命と知恵だ。講堂(こうどう)書架(しょか)にならぶ、ぼう大な文書はわたしたちの祖先が衣服やパンを犠牲にし、荷車に乗せてここまで運んできたものだ。暴力と破壊によりこの領域(せかい)から消失した歴史や科学、そして賢者(けんじゃ)が夢見た数々のおとぎ話まですべて。わたしたちは今日(こんにち)、父母から読み書きを教えられ、だれでも自由に本から学び、じっくり考え、おだやかに語りあえる幸せな国である。
 たしかに心は人の苦しみを知っており、喜びすら()のものとまったくわかりあうことはない。まくらをぬらした()は長く、安らかな眠りはまばたきほどであることをだれが知っているのだろう。それでも理解し、なぐさめ、笑いたいと願うのは人がもつ本来の美しさではないか——これらもまた深い知恵があってこそ。
 兄弟たち、力で闇に勝利し、自由を勝ち取ったなどと思いあがりたくはない。この物語から学ぼう。なにより感謝しよう、美しい山あいの地を残してくれたわたしたち祖先に、身を()して真実をつたえてくれた父と母に、国を旅立った王の子たちに、わたしたちのため、外の領域(せかい)から助けにきてくれた勇敢(ゆうかん)な女性たちに!」
 王の演説(えんぜつ)賛同(さんどう)のはく手がおきます。
「王子、みんなにひとことを」
 グレエンにうながされ、王子さまは民の前に出て広場全体を見わたしました。すると噴水のむこうでリリィと、はにかんで立っている菖蒲を見つけます。複雑(ふくざつ)な花の()しゅうがほどこされた上質な(きぬ)のドレスに、ルビーやエメラルドのネックレスとイヤリング、 白鳥の羽が幾重(いくえ)にもかさなった銀細工のティアラにはダイアモンドをちりばめて、なめらかな黒髪を見事にかざっています。ときおり、()にあたると宝石やビーズやスパンコールがキラキラかがやいていました。
 あまりの美しい姿に王子さまは目をうばわれ、グレエンがそばによってきて耳打ちしました。
「ここにくるようお願いしたんだけど、アヤメちゃんがどうしてもいやだって」
 王子さまはかるくうなずいて民のまえに立ち、口を開きました。
「兄弟たち、わたしひとりでは成しとげられない、ひじょうにきびしい戦いであった。みなの信頼こそが力となったと心から感謝したい。わたしからひとつだけ、国王もまだ知らないことを伝えたい。それは旅立った歴代の王子たちからの言伝である!」
 王子さまの堂々とした一声で会場は水をうったように静まり、王さまやグレエンも息をのみ、続きを聞こうと緊張(きんちょう)が走ります。すると王子さまの顔はまるで宮殿にいたヘレムの優しいまなざしとかさなります。
「みなさんを心から愛しています。どうかわたしたちのことで苦しまないでください。いつまでも、いつまでも山あいの国に平和があるように」
 王子さまの簡潔(かんけつ)な言葉で民の目からは涙がほおをつたい、心にささっていたトゲを流すいやしの川となりました。王さまは自慢(じまん)の息子に抱擁(ほうよう)をあたえてから民衆(みんしゅう)に言います。
「わたしは思いだす。親たちが闇に()まれ、みなで涙しながら机をかこみ、自由を夢見て約束した朝を。われらだれもが好きなときに集まり、好きなときに話し、好きなときに歌う。朝に野山かけまわり、昼は美しき湖へ、夜は感謝し(とこ)につく。まちがえたのならあやまり許そう。われらは深い山あいに住むちいさな家族なのだから。名もなき国の名はわれらの名であり、おのおの名によって呼ばれることを望む。山の彼方(あなた)虚栄(きょえい)重荷(おもに)捨て。山の彼方(あなた)虚飾(きょしょく)重荷(おもに)捨て。
 わたしはここに宣言する。きょうをもってわたしは王ではなく〝お城のピートおじさん〟と呼ばれる。これは城に来る子どもたちが親しみをこめて呼ぶわたしの名だ。そして、こんなたいくつな式典はとっととやめて、早くさわぎたい! みんなも好きなだけ食べて、飲んで音楽に身をゆだねたいとは思わないか?」
 あぜんとする民衆にうやうやしく一礼してから〝お城のピートおじさん〟はにっこり笑います。民は歓声(かんせい)をあげ、しんみりした空気はどこへやら。王妃さまはあきれて顔をおさえますが、本当は知っています。王子さまが旅にでてから夫は食事と笑いをひかえ、まいにちまいにち、城の屋上から風車の方角(ほうがく)をむき、町の正門に出かけては息子の帰りを待ち続けていたことを。
 舞台(ぶたい)楽団(がくだん)演奏(えんそう)場面転換(ばめんてんかん)し、テンポの良い音楽とつくえいっぱいにならんだごちそうで大もりあがりです。王子さまはおどったり談笑(だんしょう)する人々のあいだをぬうように、菖蒲のもとへむかいました。
「ねえリリィ! アヤメは?」興奮(こうふん)して息をあげる王子さまにリリィはにやにやしながら自分の家をすっと指さします。
 いちもくさんにリリィの家へ、ひっそり静まりかえった庭でハーブに水をやる菖蒲のうしろ姿が見えました。
「とてもりっぱなスピーチだったわ、王子さま」
「ありがとう、アヤメも主役だったのに」
「ごめんなさい。わたし、どうしてもうまくできなくて」
「ううん」うつむいた王子さまは思いだしたように「そうだ、見せたいものがあるんだ、きて!」と、菖蒲の手をとり、ジョウロを落とし走ります。
「どうしたの? そんなにいそがなくても」ドレスのすそを持ちあげ、困惑(こんわく)する菖蒲。
「もう時間がない」
 うす暗い森のこけむした敷石道を進み、小川にかかる木橋の先、なだらかな斜面(しゃめん)に咲くスミレの群生(ぐんせい)を通ります。ナラの木立をぬけて道は石造りのガゼボで切れていました。
「ここだよ、アヤメに見せたかった場所」
 ガゼボのむこうは広い湖でした。いちめん、燃えるようなあかねにそまり、水鳥たちが優雅(ゆうが)に飛び立つと紫色の陰影(いんえい)水面(みなも)にゆれます。王子さまはガゼボのこしかけに落ちた葉っぱを手ではらい「どうぞ、お姫さま」と、菖蒲をエスコートしました。
「なんて美しいのかしら」
「今がとっておきなんだ。朝もいいんだけどね。この国ではみんな特別な時間と場所をもっているよ」
「すてき……わたしのために王子さまの〝特別〟を教えてくれてありがとう」
 湖の夕景を一望できるガゼボはだれもいない自然の美術館です。(こく)々とうつりかわる湖畔(こはん)はみごとな印象派の絵画で、ふたりは光にとけこむように鑑賞(かんしょう)します。
 ふと王子さまを見ると、ひたむきな顔は情熱(じょうねつ)の赤で照らされ、金色の湖水にむけられた(ひとみ)がどこか(うれ)いを感じさせます。やがて、彼のくちびるはここちよく止まった空気をにごさないよう注意深く動きました。
「最善をずっと探していたんだ」
 そよ風が王子さまの耳をなで、菖蒲はむっとします。でも彼女(そよかぜ)のほうが菖蒲より王子さまとのつきあいは長く、大事な彼を取られてしまうのではないかと心配していたのです。夕空はそんなふたりの女の子をなだめるようにだんだんと深く、とろんと山のまぶたすら閉ざして眠りつかせました。
「イシュは父を、ミモザは友をもとめていた。アヤメは赤い宝石で彼女に望むものをあたえたのに、わたしは彼になにができたのだろう。青い剣でなにをしてあげられたのか。どんなに(いさ)んでも、自分が無力なことを知る」
 菖蒲は王子さまの思いが濃藍(こあい)の湖にしずんでしまうのが苦しくて、星月夜に目をそらして言います。
「わたしたちはすべてあたえられはしないのよ、どれだけ望んでいても。だから悩むの。いつだって、できないことがたくさんあることを。こぼれ落ちてしまうほどちいさい赤子のような手のなかで、精いっぱいしてあげようって。なによりまず、あなたを愛してる、と」
「アヤメは優しくて強いね、安心した」
「ねえ、そうだ!」と、菖蒲は恥ずかしそうに目をおよがせます。「あなたの名前をまだ聞いていなかったわ。それとも、王子さまっておよびしたほうがよろしいかしら?」
「アサゼル」と、王子さまはためらわず答えます。「わたしの名はアサゼル」
「みじかいのね」菖蒲はクスッと笑みをこぼし、「もっとおごそかな名前かと思った」。
「しつれいな! じゃあ王子でいいよ、もう」
「えぇ……そんなことでいじけるの? 子どもねぇ」
「まったく、アヤメがそんな人だったなんて」
「女の子に〝そんな〟とか言うほうがしつれいよ」
「……ごめんなさい」
「すぐあやまるし」
 ふたりは目を合わせてぷっとふきだし、笑いました。それからアサゼルは顔を近づけ、こう言います。
「アヤメのこと、もっと知りたいんだ。どんなものを見て、どういう出会いがあったのか」
「いいわよ。じゃあ王……アサゼル、あなたの旅も教えてくれる?」
「もちろん!」
「そのまえに」と、菖蒲は大声で言います。「モルト! いるんでしょ、出てきなさい!」
 ザザッとしげみゆれて、「ニャア」。へたなネコなで声がどこからか聞こえてきました。アサゼルはわけもわからず、あたりをキョロキョロしますが菖蒲はひややかに「とぼけてもむだよ。足音でわかるんだから」。
 ついに観念(かんねん)したモルトはチッと舌打ちして姿をあらわします。じとっとした目で菖蒲のひざの上にうずくまり、鼻息をふんっと()きました。
「なんだモルト、いたなら声をかけてくれればよかったのに」と、アサゼルは言います。
「……かけるわけないだろ、こんなおもしろいのに」ぼそりとつぶやくモルト。
「リリィ!」菖蒲の声はまだつづきます。「それにグレエン!」
 同じ場所にかくれていたリリィとグレエンは気まずそうに頭をかいて登場しました。
「ええ、ふたりもいたのかい!」アサゼルは目を大きくします。「ぜんぜん気づかなかった」
「あなたそれでよく闇と戦えたわね」と、菖蒲はあきれ顔です。
「わたしたちは親として娘をあたたかく見守っていただけさ。なあみんな!」グレエンのつまらない言いわけにモルトとリリィはうんうんとあいづちを打ちます。
「うんうんじゃないわよ。娘の動きを心配して楽しそうにこそこそ監視(かんし)する親とネコなんてどこにいるの。ゆだんもすきもないんだから」
「おーい」ほどなくして森のほうからのんきな顔した〝お城のピートおじさん〟が大きめのピクニックバスケットを手に王妃さまとやってきました。
「アルビレオに聞いたらここじゃないかって」お城のピートおじさんはバスケットからろうそくをいくつか取り出して角灯(ランタン)の火をうつしていきます。「おなか()いただろう、食べ物をもらってきたんだ」
「おいおい。町は主催者(しゅさいしゃ)がいないパーティーかい? 兄さん」いぶかしげにグレエンは言います。
「気にするなグレエン」笑顔のピートは気にするでもなく、「わたしたちはずっと好き勝手してきたんだ。それに、そろそろこうれいのパイ投げがはじまってるだろうさ。被害(ひがい)を受けるまえに逃げてきた、前回の仕返しが怖いからね」
 みんな思いだしたように苦笑しますが、菖蒲だけきょとんとしてなんだかわかりません。
「やっと会えたわねアヤメちゃん!」王妃さまは菖蒲のほっぺに優しくキスをしてから手をにぎり、「はじめまして、わたしの名前はユリーフロラ。ユリィってよんでね」。
「はじめまして、ユリィ」
 王妃さまはリリィがもうひとりいるのではないかと思うほどそっくりな顔と声です。バラの香水がほんのりかおるユリィが太陽ならば、マグノリアのにおいがするリリィは夜を照らす月でしょうか——ふたごの太陽と月が花畑でわたしのまわりをぐるぐる回っているなんてとってもすてき!——菖蒲は考えるだけでうきうきしました。
「アヤメちゃんのドレスかわいい」目をかがやかせる太陽は菖蒲のドレスをうらやましそうに見つめ、「もしかしてリリィが仕立てたのかしら」
「はい」
「いいなぁ……リリィ! わたしにもつくって。ねえお願い、ねえねえ」と、太陽は月にベタベタすりよります。
「いやよ」なんとも冷たい月の返答。「わたしはこれからアヤメに服をたくさん仕立てなきゃならないの。それに、姉さんは衣装箱(チェスト)にお義母(かあ)さまの服がいっぱいあるでしょ」
「リリィのけち。あなたがいないとき、庭のお手入れまいにちしてあげたのに」
「そのことだけどね、姉さん」リリィはまゆをひそめて言い返します。「帰ってきてびっくりしたわ。庭が荒らされていたんだもの」
「いやいやめんぼくない」ピートがもうしわけなさそうに言いました。「あれでも必死に世話したんだ。植栽(しょくさい)やガーデニング、植物学の本までなんでも読みあさった。しかしがんばればがんばるほど、なぜか彼らは弱っていく。息子がわらになったとモルトから聞いたとき、せめて謝罪(しゃざい)の手紙でもしたためようかと思ったが……まさかリリィが闇に」
「ちょ、ちょっと待ってください」アサゼルはあわてて口をはさみ、「父さんはわたしが必死に旅をしていたとき、リリィの庭でずっと頭を悩ませていたんですか!」
「うむむアサゼル、聞いてくれ。人間などより草花の期待(きたい)にこたえるほうが難しいのだぞ」と、しみじみ語り、すっとぼけるピートおじさん。
「ねえねえそんなことよりあなた」あっけらかんとしてユリィは言います。「お義母(かあ)さまの別邸(べってい)だったリリィの家はいいわよね。お城にいるより(らく)だもの。わたしたちもそろそろ夢だった湖畔(こはん)のお(うち)、ふたりで建てましょうよ。あのお城、冬はさっむいし、じめじめするし、カビくさいし、移動も大変だし」
「おお、それはいい考えだユリィ。さっき王も()めたし、明日から新居探しを始めようじゃあないか」
「いいわね、あなた!」
「よおし、またひとつ楽しみができたね、ユリィ!」
「ほんとうにだいじょうぶかな、この国」両手をかさね、見つめあう父と母にアサゼルは肩をすくめました。
「山あいの国の王さまと王妃さまってこのようだったかしら?」と、菖蒲がたずねます。
 リリィとグレエン、それにモルトは声を合わせて迷わず答えました。
「うん、ずっとこう!」
 その日は灯火がゆれる湖畔のガゼボでおいしい食事やダンスを楽しみ、時間をわすれるほどすばらしい(ゆう)べとなりました。

一九 ふたつめの夢

一九 ふたつめの夢

「楽しい日は退屈(つまんない)がいたずらして時計の針を早める」山あいの国で親は子供たちにお(はな)しします。「だから楽しい日に休息(おやすみ)をつくってごらん。すると時計はもとどおり時をきざむ。そうすれば気づくだろう。あなたがどれほど大きくなっているかを」
 菖蒲も楽しい日がつぎからつぎへとやってきては過ぎ、退屈が時計の針をぐるぐるまわしたので、自分がおとなになっていることなどすっかり忘れていました。
 友だちと山にのぼったり、湖で泳いだり、木の実を集めたり。グレエンと畑仕事のおてつだいをして、みんなで一緒にお茶をすることや、モルトとアルビレオに乗って遠くの町まで冒険へでかけるのも楽しい日でした。もちろん、大好きな王子さまにときどき会える日も。リリィはお母さんとして、いいえ、もっと菖蒲を愛してくれました。娘のためにすてきな服をぬい、おいしい食事だってかかしません。朝起きて庭の手入れを始めるときから寝るときまでよく話したのです。そのようにしてリリィお母さんは菖蒲との時間を宝物のように大事にしました。菖蒲が楽しい日の休息をわすれてしまったのもわかるでしょう。
 充実した日々が続き、約束が力を失い始めたころ、菖蒲はこの領域(せかい)で見た二つめの悲しい夢とむきあうことになりました。
 オリバナムとミルラのまじりあう香りで目醒(めざ)めるように、扉のない中庭では六本のリンゴの木は満開の花をさかせ、真ん中にひざたけほどのおさないリンゴの木が一本、ふりそそぐ光をあびてまっすぐのびていました。うれしくなった菖蒲はそばに近づいてかがみ、おさないリンゴの木を優しくなでました。するとおさないリンゴの木は菖蒲のためにちいさな実をひとつむすびます。菖蒲の目から自然とこぼれた真珠(しんじゅ)は小さな実に落ちてはじけ、天から井戸の声がひびきました。
「おまえのことをけっしてわすれはしないだろう。こうしておまえにいつも呵責(かしゃく)をあたえるのだ」
 菖蒲はすっと立ちあがり、周囲をへだてる白い壁と上方へ等間隔(とうかんかく)にどこまでもならぶ窓を下から順に見ます。すると五階の一室の窓だけ、明かりがぽおっと黄色に(とも)っていることに気づきました。(とも)る窓には手をそえた黒い(かみ)の少女が悲痛(ひつう)な顔をしてこちらをのぞいているではありませんか。助けて、助けて、と、くり返しわたし(・・・)にうったえているかのように——でも、わたし(・・・)とはだれなの?——
 あたりを見まわしても扉はなく助けにいけません。少女のためになにかしてあげたいのに、なにもできないのです。菖蒲は「ごめんね、ごめんね」消えかかる窓の(あか)りに何度もそう言葉を投げかけると中庭はくずれてなくなり、いちめん黄金(こがね)にそまる小麦畑を歩いていました。
 大きな白鳥はすいこまれるほど深い瑠璃色(るりいろ)の空へ飛び、遠くに燃えるような赤い風車がそびえ立っています。星を中心に白い翼はぐるぐるまわり、羽の音は消える少女のさけび声のようで、たまらず耳をふさぎ、うずくまります。
 二つめの夢は菖蒲に答えを求めました——このまま楽しい日をつづけるのか、おやすみを作るのか。——菖蒲は答えを知っていました。それがどれだけ悲しい結末になるかも。

 ある日の夜、リリィはいつものように化粧台(けしょうだい)のまえにすわる菖蒲の長い髪をとかしていました。
「ねえリリィ。あなたはわたしの大好きなお母さんよ」菖蒲は(かがみ)にうつるリリィに言います。「それにまいにちが幸せ」
「まあ、なんてうれしい言葉なの」と、リリィは顔をほころばせます。
「でももし、もしもだけど、わたしがここを出ていくとしたら、どう思う?」
 リリィは手を止め、じっと考えます。菖蒲は言わなければよかったと後悔(こうかい)して胸が痛みます。母親はなにかをさっしたように娘の頭をなでながら言いました。
「おぼえているかしら。何年も前に教えたわたしの秘密の約束」
「もちろん。【覚悟(かくご)の約束】、それに【園丁(えんてい)の約束】も」
「そうよ。わたしは約束をかたときもわすれなかったし、できるかぎり誠実でいた。あれからまいにちアヤメのことを考えてる。もちろん約束だから愛していたわけじゃないのよ。一緒にいればいるほどアヤメが好きになって、アヤメのためにもっともっとしてあげたいと思う。いまもこれからもね。でも……」
「でも?」
「あなたをどんなに愛しても、いつかは家をでていくときがくるでしょう。ヒナが成長して巣立ってゆくように。だからわたしはつつみこむ愛から、むかえいれる愛に変わらなければならないと思うのよ。あなたがいつでも安心して家に帰れるよう、わたしも成長しなければって」
「お母さん、とても怖いの。わたし帰ってこれるかな? またひとりになったらどうしよう」
「恐れないで、アヤメ」リリィはおだやかに、でも力強く言いました。「わたしはあなたから自信をもらえた。あなたはほこり高いグレエンとリリーフロラのひとり娘よ。だからわたしが窓をいっぱいに開け、あなたの帰りをいつでも待っていることを信じなさい」
「うん。リリィがわたしのお母さんでほんとうによかった。大好き」
「ただ、グレエンに話してはだめよ。あの人、あなたがいなくなるなんて言ったらすっごくめんどうなんだから」
 そう言ってリリィは笑顔の菖蒲にほおをよせました。

 明け方、菖蒲は白鳥の金糸が入った白いワンピースに着がえ、野鳥のさえずるほの(・・)暗い森を()しむようにゆっくり歩いてお城へむかいました。城門で草を()むアルビレオとあいさつし、湖まで乗せてもらいます。
 湖畔のガゼボは特別な場所でした。ふたりの王子に父は真実をつげ、王位継承(おういけいしょう)の場となり、この領域(せかい)招待(しょうたい)されたふたごの女の子は愛の告白を受け、凱旋(がいせん)セレモニーの夜にみんなで楽しくすごした思い出もあります。
 (きり)につつまれるガゼボでは紫根色(しこんいろ)の長い上着を着たアサゼルがこしかけ、湖を見つめていました。
 菖蒲はどんぐりをひろってから音を立てないよう背後にそおっと近づき、アサゼルめがけてなげるとすぐ、しげみにかくれます。どんぐりはアサゼルの頭にぼそりとあたりますが、彼は頭をかいて気づかない様子なので、どんぐりを持ってさらに近づきます。
「アヤメだ」アサゼルが彼女(わたし)を呼ぶチェロのような深みのある声には敬意、親しみ、それに……
「なんだ、気づいてたのね。つまんない」菖蒲ははぐらかすように少し顔を横にそむけ、アサゼルのとなりにすわります。
「だって」彼はさりげなく言いました。「マグノリアのかおりがしたから」
 湖は白い吐息(といき)湖面(こめん)にただよわせ、薄明(はくめい)の森をうつします。青の濃淡(のうたん)によって支配され、ひんやりとした空気が朝をにおわせる(つゆ)と草、甘い花の香りをまとい、まどろんだ感覚を少しずつさまそうと思いをゆすりました。
「夕やけもいいけど朝霧の湖もすてきね」菖蒲はぼんやりと言いました。「ぴんとはった緊張感、これからすばらしい舞台がはじまりそうな、前兆(ぜんちょう)の静けさ」
「セレモニーの日に教えたよ。どっちもいいって」
「もうおぼえていないわ、そんな何年もむかしのこと」
「うそだね」
「なんでよ」
「〝おぼえてない〟って言葉、アヤメの口から聞いたことがないから」
「そんなのわからないわ。わたしだって忘れることくらいあるもの」
「いいや、わたしは知っている。アヤメは大切なことすべておぼえているけど隠してるんだ。みんなのために」
「なによそれ。アサゼルがわたしのなにを知ってるのよ」
「うん、知らないかもしれない。だからきみのことを深く知りたい」
「……へんなの」
「最近ここで考えていたんだ」
「どんなこと?」
「アヤメに伝えたい言葉」
「…………」
「わたしたちはおとなになった。だからアヤメが許してくれれば、今この場で伝えようと思ってる」
「わかったわ」菖蒲は湖のしずんだ青から目を離さず、「そのかわり、あの小麦畑の風車へわたしを連れていって」
 ぽちゃんと魚が飛びはね、波紋(はもん)湖水(こすい)にそしてアサゼルまで広がります。
「もう風車はないはず」アサゼルは菖蒲の横顔を見て言います。
「いいから、わたしをつれてって」
 あくまでそうせがむ菖蒲に理解できませんが、アサゼルはとりあえずアルビレオを呼び、彼女の言うとおり白馬を走らせました。——家の窓からリリィがさびしそうにながめていることなど知らずに。
 彼方から太陽は顔をだそうと地平線に力いっぱいの朝陽をさします。広い渓谷(けいこく)()けぬけるあいだずっと、アサゼルのうしろで菖蒲は彼の広い背中をだきしめ、ほおもぴったりつけていました。
「ねえアサゼル聞いて。わたし、夢を見たの」
「どんな夢?」
「扉のない中庭の夢。ひとつだけ明かりのついた窓があって、そこから苦しむ少女がわたしに助けをもとめてた。もしアサゼルだったら、その子を助けにいく?」
 アサゼルはなにも答えません。菖蒲はつづけます。
「わたしなら迷わず行く。だって助けをもとめているんですもの。たとえわたしを失うとしても」
 菖蒲がぎゅうっと強くつかむのを感じ、アサゼルは離すまいと右手を彼女の手にかさねます。
「アサゼルの手、やっぱりあったかい」菖蒲は静かに目をつむりました。
 たわわに(みの)る小麦畑が遠くに、アサゼルはおどろきます。あの風車です! 闇がくずしてからだれも直していないはずなのに、どうして。
 ふたりは風車のまえでアルビレオからおります。逆光で影のようにうつる黒い風車は羽が左にまわり、ゴオンゴオンという、いかにもぶきみな音を鳴らしています。周囲では小麦がサラサラこすれあい、あおられる黒髪を手でおさえながら菖蒲は言いました。
「ありがとうアサゼル。ここでもうじゅうぶんよ。わたし、やることがあるから先に帰っていて」
 あまりにそっけなく風車へむかう菖蒲に、アサゼルがあわてて近づこうとすると、「来ないで!」
「でも、きみに伝えたいことがあるって」
 しかし菖蒲は足を止めません。ふり返りもしないのです。こんな忌々(いまいま)しい風車、いますぐこわれてなくなってしまえばいいのに。アサゼルはもどかしく感じます。——そうすればなにごともなく、このままいつまでも彼女と。
「ひとつだけ聞いてほしい!」
 遠くなる菖蒲との距離、両手を広げながらアサゼルは必死に呼びかけますが、彼女は無視して閉じられた風車の戸口へ歩いてゆき、うつむきかげんで扉の把手(とって)に手をかけました。
「いやよ」
「お願い」
「いや」
「なぜ?」
「いやだからよ。いやなものはいや!」
「お願い、どうかこちらをむいて」
「いやなの! だって……だって、ふりむいたら扉を開けられなくなるもの!」
「アヤメ、アヤメ。ほんのすこしでもいいから、わたしを見て」
 覚悟(かくご)の手をゆるめてしまう菖蒲。アサゼルの胸ははりさけんばかりです。山のようによせる(まゆ)、あふれるほど涙を瞳にため、唇が小きざみにふるえた彼女がいたのですから。
「わたし、あなたの言葉を聞いたら帰れなくなる」ふりしぼるような声で菖蒲は言います。「だって、ぜったい忘れたくないから。とっても楽しみにしてた、たいせつなあの言葉。ずっとこの日、この瞬間(しゅんかん)を待っていたのに。わたしは迷わず〝はい〟って、うなずきたいのに」
「だったらそれでいいじゃないか。もうすべて終わったんだ。リリィや母さんもここで幸せにくらしてる。だからアヤメも」
「わたしの約束がまだ残ってる! それを果たさなければいけないの。あの子は苦しんでいる。あの子はわたしなのよ! わたしなの……」
「そんなの」アサゼルは下をむいて()き捨てるように言います。「もうだれもおぼえてないさ」
 菖蒲は首を横になんどもなんどもふります。そう、なんどもなんども。それから天をあおぎ、ゆっくりと一息してから笑みをうかべ、優しく言いました。
「ねえアサゼル、約束は一度口にしたら、たとえ相手がおぼえていなくとも果たさなければならないのよ。(うそ)はせっかく打ち勝った闇の(かて)になる。この領域(せかい)で約束が力を持ってしまったのはわたしたちがついた、たくさんの嘘の代償(しるし)。わたしはもうミモザやイシュのような子が苦しむのは見たくないの。あなただってそうでしょう?」
「でも」と、アサゼルはこぶしをかたくにぎりしめます。「アヤメの中からわたしがいなくなるのは()えられない。そんなの考えることもいやだ。アヤメのいないまいにちなんて、からっぽの穴に落ちるのとおんなじだ。まるで干しわらになってしまったあのときのように」
「わたしだって同じよ、アサゼル。だけど、そうだとしても、たったひとつのちいさな約束を守ることは、わたしたちが乗り越えなければならない大きな悲しみよりもずっと大切なこと。お願いだからこれ以上わたしを苦しめないで」
 アサゼルはほとばしる想いがのどまで出ているのに、菖蒲を苦しめまいとする理性が強くおしとどめます。もちろんわかれのあいさつなどしたくありませんでした。いろんな〝最善〟をめぐらせますが、すべてアサゼルに心痛を与え、もはや言葉すら失ってしまいます。
 菖蒲はふたたび把手(とって)に手をかけ扉を開けると、ゴオゴオとすいこまれるような風に引きよせられます。王子さまはなすすべなく風車にうばわれるお姫さまをただ傍観(ぼうかん)するしかできません。見かねた白馬が思わず口をだそうとしたそのとき——
「わたしはこの約束を信じて疑わない」アサゼルはあらんかぎりの声で言います。「アヤメがわたしを助けてくれたように、こんどはわたしがアヤメをむかえにゆく。ちいさな約束を果たしたその日、その瞬間に!」
 もはや菖蒲がふり返ることはありませんでした。
「愛している、アヤメ」
 アサゼルのささやかな告白は西風でいともたやすくふき飛ばされ、流れゆく雲とともにどこかへ消えます。風車の扉は無情にも音を立てて閉じ、軽薄な男だとあざ笑うかのように菖蒲を連れ去ってしまいました。

二〇 夜半〇時のらせん階段

二〇 夜半〇時のらせん階段

「シンデレラだってくりぬいたカボチャの馬車で(うち)に帰ったのに、なんでわたしはじぶんの足なのよ。しかもけっこう長いし」
 ぶつぶつともんくを言いながら菖蒲は木製のらせん階段をぐるぐる上へのぼっていました。
 中央のふきぬけは水晶の原石がいくつも(ちゅう)にういて固まり、金のひもにつるされた丸いおもりがフーコーのふり子のように、いろいろな方向にゆれ、どこからかカッチコッチと一定のリズムで時をきざんでいます。
「それに」と、菖蒲はため息まじりで「おとぎ話にでてくるお姫さまはいつまでもしあわせにくらしておわるのに、さびしいおしまいもあるのね。まあでもアヤメ、ふつうはこんなものよ、なにかを期待してはいけないわ。金の馬車だとか、りっぱな身なりの従者だとか、まして、ガラスのくつだって落としてきたわけでもないし。盛大にむかえられず、送られもしない、ひっそり階段をのぼってお(うち)へ帰りましたとさ、おしまい、なんてのもアヤメらしくていいのかな」
 階段を一周めぐるたび、菖蒲の時間は逆行して助けをもとめていた少女の姿にもどし、体だけではなく記憶もだんたん遠くに、いきいきとした昨日までのできごとはまるで他人がめぐった旅行のような感覚にさえなりました。
 周囲はいつのまにか石づくりに、乳白色の壁には木の手すりがついています。電球色のあたたかな明かりになんともいえないなつかしさがこみあげて、菖蒲はあたりを見まわすとカサカサ、ノッソリノッソリ。やはりカメがいました! あいかわらずカメはのっそのっそと階段をおりつづけていたのです。ここはのんびりカメといたずら()きのアリアドネがいる『下に上がる階段』でした。
「ひさしぶりね、カメさん!」菖蒲はうれしくなり、カメの横に腰をおろします。「元気そうでなによりだわ。アリアドネとはうまくいってるのかしら?」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「安心した」菖蒲はほおづえをついて言います。「ねえねえカメさん、あなたとわかれたチョコレート色の扉のむこうはとんでもない部屋だったのよ。わたしのお話し、聞いてくれるかしら」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「じゃあ、まずはね」と、菖蒲は身ぶり手ぶりをまじえて、いきいきと語りはじめます。
「扉を開けたらほんとびっくりしたの。だって床がないんですもの。まっさかさまに落ちていたらお魚さんや鳥さんや、ながれ星さんまでわたしに話しかけてもうてんやわんや。ね、おもしろいでしょ。でも、じつは落っこちていたんじゃなくて……」
 どれくらい()ったのでしょう。今まで見てきたものや聞いたこと、しゃべったこと、かいだにおい、食べたものや飲んだもの、菖蒲の楽しい日々をただひとつだけ(・・・・・・・)のぞいて、ありったけカメにつたえました。おやすみまえ、たいせつな宝石を宝石箱にひとつひとつしまうように。そんな菖蒲の話をカメはさいごまでだまって聞いていました。なにせカメほど聞き上手(じょうず)な生き物はいないのですから。
「……それでね、風車のなかにある、らせん階段からここにたどりついた、というわけ。どう、すごい物語でしょう?」
 カメはゆっくり首をうんうんと、何度かふってからこたえます。
「……ここまで、よくやった……うむ……うまく、やった、よ……」
 カメの思わぬ返答に、さっきまで楽しそうな菖蒲はうつむいてしまい、なんだか雲ゆきがあやしくなってきました。
「わたし、カメさんの言うように、よくやれたのかな。ほんとうにうまくできたのか自信ないの。だってわたし、好きな人を傷つけてしまったし、自分の気持ちにも正直になれなかったから」
「い・い・や」と、カメは首を横にふります。「それでも……じゅうぶん、よくやった、さ……たくさん、がまんも……した……ね」
 菖蒲はおさえていた感情の大波がはるか遠く水平線からやってくるのがわかりました。「うん、ありがとう」と、笑顔を作りたいのですが、どうにもうまくいきません。なんだか嵐がやってきそうです。
「カメさん、わかってくれてとってもうれしい。わたしね……わたし、わたしお(うち)に帰ったら、きっと今のことぜんぶ、なにもかもわからなくなってしまうから、カメさんとのお話しもすべて。もう夜中の〇時なっちゃうから、だから、だからすこしだけ、時計の針がすべて上をむくまで、ほんのちょっとだけ、泣いてもいい?」
 カメはなにも言わず、みじかい手をのばして菖蒲をぽんぽんと優しくたたき、体をそむけました。すると菖蒲の目から涙がボロボロこぼれます。せきを切ったように、とめどなく。
 決めたことを後悔していたわけではありません。そのように選ばなければならなかったことが悔しいのでもなく、ただアヤメとアサゼルのために泣いてあげたかったのです。それが彼女にできる最後の精一杯だったから。たくさんの涙の片方は彼女のため、もう片方は彼のため。水は両方の目からそれぞれ同じ数ほど流れ、ほおをつたわり、あごでまじわると、やがて一緒に地面にポタポタと落ちます。——そっか、こうすれば大好きな人のそばにいられたんだ。
 たしかに菖蒲は今までよくやりました。自分のために泣くことはしませんでしたし、どうしてわたしがとか、なんでわたしだけ、などと考えないようにしていたのです。いじけてしまえばきっと前に進むのを恐れたり、なにもかもいやになってさじを投げ、せっかくのすてきな物語が台無しになるからです。でも、このときばかりはあふれる気持ちをおさえたくありません。
 そしてついに、言わないと決めていたはずの〝ただひとつ〟も口にしてしまいました。
「わたしも愛しているわ、アサゼル! あなたを深く、とっても深く。むりよ、こんなの()えられない。だってわたしはあなたに心をよせ、わたしの魂があなたを(した)っているんですもの。でも、こうするしかなかったの、こうするしか……
 ああ、せめてどこかちいさな村のおとぎ話にでもなればいいのに。むかしむかしあるところにって。そうすれば見知らぬ誰かに(おぼ)えてもらえるのに!」
 ついにおとずれた約束の時間。ゴーンゴーンと大きな(かね)()()ります。一回、二回……
「行かなきゃ」菖蒲は赤く()れた目に残る最後の涙をそっと指でぬぐい、立ちあがります。「アリアドネ、わたしの行かなければならない道を教えてちょうだい」
 階段はなにも変わりません。まさかアリアドネは約束をやぶっていたずらを始めたのでしょうか。いいえ、菖蒲がくりかえしアリアドネの名を呼びかけても、彼女は聞こえないふりをしているのです。鐘の音は五回、六回……カメが口を開こうとしたとき、菖蒲は言いました。
「なんて優しいアリアドネ。わたしはまちがっていたわ。だってあなたが覚えてくれているんですもの、わたしたちのおとぎ話。だから、もう満足よ」
 上階がふわっと光り、青白く無機質でつまらない階段に変わってゆきます。カメとアリアドネにさよならと手をふり、階段を一歩一歩ふんでいくと、はるか遠いむかしのように思える、あの小さな図書館がポツリと見えます。
 菖蒲は目をつむり胸に手をあてました。
 とくんとくん。——とろけるほど甘い夢からどうか覚めないで——鼓動は鐘の音とリズムをずらし、菖蒲に物語のおしまいを止めているような。
「そうよ。でもねアヤメ、あなたの選んだことは、わたしが選んだこと」
 十二回目の鐘の音が鳴りおえるとき、少女は深呼吸して足を前にふみだすと、ただ前だけを望み、力強い笑顔で堂々と図書館へ立ちむかっていきました。
————
「アヤメ、あなたが本借りたいってきたのに窓ばかりながめて。お昼はみんなで食べる約束でしょ、わたしもう帰るわよ」
 図書館の窓をじっとながめる菖蒲に、本をかかえたお姉さんが顔をしかめて言いました。
「でもお姉ちゃん、ここのたなにある本、もう読みおわってしまったの。だからどうしようかなって」
「あなたね、もうすこしむずかしい本読みなさいよ」
「ええ、ねむくなる。わたし、お姉ちゃんみたいにおかたい(・・・・)子どもじゃないし」
「なにを言ってんの。ほんとはぜんぶ読んでるくせに」
 菖蒲はベーっと舌をかるくだすと、お姉さんは口をいーっとしてふたりは笑いますが、せきばらいが聞こえ、口に手をあてて目を合わせ、わきをつつきあい、ふざけます。
 新刊とおすすめの本を何冊か借りてから司書さんにバイバイと手をふり、姉妹仲よく手をつないで図書館をあとにしました。
 こうして、菖蒲のすてきなおとぎ話の数々は雨となってすべてながれ落ち、干しわらになった王子さまをもどす物語は、静かに幕をとじたのでした。

二一 おはなしのおしまい

二一 おはなしのおしまい

 昼すぎ、菖蒲はとなり町で用事(ようじ)をおえ、夜ごはんの献立(こんだて)を考えながら家にむかっていました。とちゅう、お気にいりの和菓子屋さんを横目に、かき氷を食べようか、それともあんみつソフトに水ようかん、わらびもち、ところてん……献立を忘れて三時のおやつが頭の中でくるくる回ります。
 同じように〝もとどおり〟の時計もちくたくと時をきざみ、菖蒲をおとなにしました。お姉さんと取りとめもないおしゃべりはかかさず、本を読むのは好きだけど学校の勉強はまあまあ、友だちとわいわい遊ぶのは嫌いじゃない、といったぐあいに、笑ったりときにはおこられたり、泣いてしまったり、いやなことだってありました。でもなにかが欠けているとか、ものたりないなどとはすこしも思わなかったのです。
 菖蒲はアヤメを助けるために自分のおとぎ話をすっかり手ばなしたので、すてきな夢だったのにどうにも思いだせないモヤモヤする夢のように、ああでもないこうでもないとなやむことはありませんでした。もちろん、あのちいさな図書館には何度も足を運び、窓だってのぞきましたけど、扉のあるふつうの中庭など、とくに関心は持たず、読書のあいまにちらりと見るていどです。ひとつだけ変わったとしたなら菖蒲はアヤメに話しかけるへんなくせ(・・)がなくなったぐらいでしょうか。
 もみくちゃの日々は菖蒲にごくありふれた夢をあたえ、それなりの生活と満足も保証しました。気になる男の子がいたかどうかはわかりません。だって彼女に聞いても遠い目をして「そういうのよくわかんない」が口ぐせでしたから。
 青空に固まるは雲の(みね)、えんえんとくりかえすセミのフェイズ、アスファルトに逃げ水がゆらゆらゆれて、藍色(あいいろ)のリボンつきストローハットを頭にのせた菖蒲は肩にかけたクリーム色の帆布(はんぷ)トートバックからハンカチを取りだし、ひたいにながれる汗をぬぐいました。両わきにそびえるケヤキなみ木の大通りの中央には、熱気をおびた女性のブロンズ像が強くしなやかに立ち、菖蒲はあこがれ抱いて「おつかれさま」と、あいさつをします。
 足早にゆきかうオフィスワーカー、重そうなリュックを背おう外国人のバックパッカー、ベビーカーを押す母親はとなりではしゃぐわが子に「ちゃんと歩きなさい」と、注意しています。建物の影でぐったりするキジ三毛ネコの泣き声があんまりヘタで、二度見した菖蒲は立ち止まり、近づいてなでようとしたら、かすかに流れてくるのはさわやかな花の香り。
 それは駅近くのビル前に植えられたタイサンボクでした。ふと図書館の看板が目に入り、読みたい本を思いだしますが腕時計(うでどけい)を気にします。最近はもっと大きな図書館で本を借りていたため、わざわざ寄らなくともよかったのです。それでもまあ休憩(きゅうけい)ついでに本をすこしながめてから帰ることにしました。
 型の古い自動ドアがガタゴト左右にわかれ、人気(ひとけ)のないビルのエントランスをぬけます。壁にうめられた三角形のボタンを押すと2基あるエレベーターの左が先に到着し、くぼんだ丸い5を選択、ゴトンと音を立てエレベーターは中速で持ちあがりました。
 何年ぶりかの図書館。まるで大好きなお姉さんと手をつないでそわそわする少女がそこにいるような不思議な緊張感(きんちょうかん)。——子どものときはあんなに喜んででかけていたはずなのに。いつからだろう、わたしがおっきくなったのは。
 エレベーターの扉が開くとすぐ横に新聞や雑誌の閲覧席(えつらんせき)、開きっぱなしの扉のさきにてんじょうの低いこじんまりとした図書館はあります。子どもにはちょうどよい広さで、おとなにはちょっぴりせまい本屋さんみたいな。
「うわあ、なんにもかわってない」感慨(かんがい)(ぶか)げに菖蒲は煮つめたような濃い紙のにおいをくんくんかぎました。
 平日の人がいないかしきり図書館はなんともぜいたくで、うかれた菖蒲は雑誌を読むことなどわすれ、自然と児童書のある書棚(しょだな)へいそぎます。入り口すぐ左には歴史の本がならんで、その奥は植物や動物の図かんに芸術の本。少し進んで右に受付と前には紙しばいや絵本、児童小説がずらっとならんでいます。こし(たけ)ほどの低い棚、色あせたカラフルなフカフカの丸いこしかけ、よくながめていた青色の中庭が見える大きな窓。——本棚と本棚のあいだにはさまっていつも本を読んでたっけ。なんだかあのときから時間が止まっているみたい。
 菖蒲はバッグとストローハットをそこらに置いて、紙しばいをめくったり絵本を開いたりします。棚にならぶ本の背に一冊ずつ人差し指をのせ、「この本好きだった」と、クスクス笑い、「最後は王子さまとお姫さまがいつまでも、しあわせにくらしましたとさ、だったかしら。これは冒険活劇(ぼうけんかつげき)、これは漂流記(ひょうりゅうき)ね。この本は……ちょっとこわいの」
 本にふれただけでつぎからつぎへと物語が菖蒲の中で動きだします。〝おやすみ〟していた空想や夢がやかましくおどる目ざまし時計でベッドからいっせいに飛びおき、さあさあ早くと寝巻き姿のアヤメをせかすように腕をとり、カーテンを思い切り開くと、わだかまりで破裂(はれつ)すんぜんの風船星から彼女を連れ出だしました。言葉はアヤメの自由な想像でいろんな(かたち)に変わり、それは領域(せかい)をどこまでも広げ、ときには結んだりもします。空を飛びながら海で泳ぐことも、宇宙ではイワシの大群が空飛ぶ金色のおひつじを囲んで帆船(はんせん)アルゴー号の冒険について話すことも、夏野菜が冬野菜とオーロラスープを食べながら北極と南極は赤道を牛車で行き来するらしいとうわさしていることも、雲を突きぬける巨人が砂粒ほどの小人と仲良く肩をならべることも。おしまいとはじまりが結託(けったく)した菖蒲の王国ではなんでもできるのです。そう、信じていればなんでも!
 ただ、一冊の本で指が止まりました。
「これはなんだったかしら」菖蒲は本を手にとります。「もしかして新刊(しんかん)かな?」
 ラベルもなく表紙があかね色でタイトルが金色、作者不明の本の名前は『干しわらになった王子さま』です。
 菖蒲は靴をぬぎすて本棚と本棚の特等席にぎゅうぎゅう体をつめてすわると表紙をめくり、ページを開いて読みます。
 深い山あいの国の王子さまが燃えるような影と戦うため、約束によって干しわらになるところから物語は始まり、勇敢(ゆうかん)で優しいひとりの少女が王子さまを助ける旅のお話しでした。
 主人公の少女は干しわらになった王子さまを助けようと長い冒険のすえ、ついに扉のない中庭で井戸の水を()みます。同時にたくさんの傷を負いますが、弱り果てた少女を助けたのは親友でした。ふたたび力を得た少女は影をあやつる怒りくるった邪悪な王さまをしかりつけます。ところがなんと、王子さまに水をそそごうとしたとき小ビンを割ってしまいました。あきらめない少女は残りの水を口にふくんで王子さまにキスをすると、もとの姿になったのです。王子さまは彼女の力を借りて闇を完全に打ちやぶりました。
「とても強い女の子ね! 読んでいるだけでわかるもの。わたしだったらぜったいできなかったわ」
 興奮(こうふん)する菖蒲の目は時間をわすれて文字をどんどん追っていきます。
 闇を打ちやぶったふたりは王子さまの国に帰ると、みんなしあわせにくらしました。しかし、いつまでも(・・・・・)ではありません。なぜならとつぜん、おしまい(・・・・)がやってきたからです。大きくなった彼女は残してきた約束を守るため、お(うち)に帰らなければなりません。王子さまと彼女はいつまでも一緒にいたいのに……たくさんなやみますが、どうにもよい方法が見つかりません。
 ついに時は尽きて、彼女の言うがまま白馬で小麦畑に着くと、こわれたはずの風車がひとりでにたっているではありませんか。なんとかしようと王子さまは約束を宣言(せんげん)しますが、彼女はふりむくことなく風車のなかへと消えてしまうのでした。物語はそこでおわっています。
「女の子が誰にも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。残りだって全部白紙になっているわ。それに王子さまとの約束って……」
——鏡よ鏡、このおはなしのおしまいはなあに?——窓のむこうの(・・・・・・)アヤメは菖蒲につぶやきました。思わず顔をあげたとき、いたずら()きのだれかさんがフーッと息をふいて、そよ風はエレベーター横の階段から図書館の入り口へ、そして白紙ページをぺらぺらめくっていきます。
「へんな本、あとがきかしら?」
 菖蒲は自分に読み聞かせるように空白のつづきを黙読(もくどく)しました。
『少女とわかれたあと……
————————
 少女とわかれたあととつぜん、どしゃぶりの雨がふりました。
 それはまるで彼女の涙がこの領域(せかい)をぬらし、地面に打ちつける雨音は悲痛なさけびで、なまりのように重たくつめたい水ですが、王子さまは雨に目をそむけ、ただだまって立ちつくします。
「笑ってくれ、アルビレオ。わたしは彼女がそばにいてくれると信じてうかれおどるバカな道化師(クラウン)だ」
「……」
「彼女に大言(たいげん)()いて。きっと愛想(あいそ)つかしただろうな」
 王子さまはうなだれたままふり返り、とぼとぼ歩きます。
「わたしは」とアルビレオはそんな王子さまを強く見つめ、「あなたが命じるならどこへでも()けますし、なんでもするでしょう。それがわたしにあたえられた役割だからです。でも、どこへゆき、なにをすべきかは王子、あなたが決めねばなりません。そして、彼女があなたに望んだのは去りゆく背中を見送ってもらいたかったのではなく、あなたの助けを信じていたのではありませんか。だから彼女はあなたに手をふろうとしなかった」
「そんなのわかってる、わかってるさ!」
「わかっているのであればなぜ! なぜ、あなたはいつまでもぬれそぼり、しめった地に顔を落としているのですか!
 彼女はあなたをいやすためにこの領域(せかい)へやってきて、いつも前に進み、辛苦のとげをのみ、侮辱(ぶじょく)嘲笑(ちょうしょう)を受け止め、失望してもけっしてあきらめず、自分を犠牲(ぎせい)苦悩(くのう)し、もだえながら中庭で井戸の水を汲んだのではありませんでしたか。ただあなたのためだけに、愛するあなただけを思って! あなたのくちびるをうるおしたあの水は、きちょうなたった一杯の水は、心が流したうるわしい女の涙なのです。
 王子! いまは卑下(ひげ)しているときでしょうか。たとえ道がないとしても、いばらやアザミにその身を投げ入れねばならないとしても、彼女を取りもどすため顔をあげ、足をまえにだすべきときではありませんか」
——宇宙をゆきめぐる力と法則は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々のきずなを解くことができるか。
——わたしたちはすべて与えられはしないのよ、どれだけ望んでいても。だから悩むの。いつだって、できないことがたくさんあることを。こぼれ落ちてしまうほどちいさい赤子のような手のなかで、精一杯してあげようって。なによりまず、あなたを愛してる、と。
「それでもわたしは」王子さまは両手をながめ、「彼女をこぼしてしまうほど、ちっぽけな手なのだろうか、望むものを与えられないほど、みじかい腕だったのか」。
 大きな雨音。しばしの沈黙のあと、「いいや、ゆかねば」。

  遠くで白鳥がわたしの名を呼び
  わたしは彼女の声を知っている
  天地の(はざま)に白くほころぶ苹果(りんご)の花
  過ぎさる星々 明けの群青(ぐんじょう)
  わたしは彼方(かなた)をさすらい
  ついに彼女を見いだす
  湖水でおどる美しきその姿
  はためく春雪の羽つかみ
  なめらかなうなじに鼻を寄せ
  (ぬく)もる吐息(といき)を胸に
  うす桃色のくちびるは甘い約束の言葉
  いつまでも ともに()もう、
  銀の苹果と黄金(きん)の苹果

 生気を取りもどした王子さまはアルビレオを抱き、「おまえが友でほんとうによかった」。
 それから白馬に飛び乗って、いちもくさんに故郷(くに)へ帰り、王さまに近づくと、その前でひざまずきます。
「わが王よ。わたくしがふたたび国を旅立つこと、どうかお許しください!」
 王さまと王妃さまは、ずぶぬれの王子さまの唐突(とうとつ)懇願(こんがん)当惑(とうわく)しつつも、冷静(れいせい)にたずねました。
「なにゆえか」
「はい。約束のため、わたくしにすべてをささげてくれた深く愛する人の涙にこたえるため、自分を差しだしたいのです。王よ、いつ帰れるのかわかりません。いえ、もどることはないかもしれません。しかし、それでもやはり」
「息子よ」王さまは言いました。「むかし、【安寧の契約】のため国を旅立つまえに話した、あのなぞかけをおぼえているか」
「もちろんです。芯のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿。これらは幼いとき、毎夜ベッドで寝るわたくしの耳元で母上が歌ってくれた子守歌です。わたくしは母上の歌からゆだねる愛と、まったくの信頼こそがなにより強い約束であることを学び、闇を打ちやぶるための示唆(しさ)をえました」
「そうだわが子よ」と、王さまは満足そうに笑顔でうなずき、王子さまの肩にふれて顔をのぞきます。「では王として、なにより父としておまえに(めい)じる。いそいで出かけなさい。おまえの約束がすこしも遅れることのないように。そして愛する人から安心してゆだねられるにふさわしい大木となり、信じて待つ彼女をしっかりつかみ、けっして離してはいけない」
 王さまの(ゆる)しをえた王子さまはいきおいよく城をでて、翼を広げたアルビレオと共に地平線の果て、(よい)と明け、日の出と日没(にちぼつ)をこえて駆けていきます。王子さまがむかったのは父と母、少女もよった記憶が落ちる月でした。
 王子さまは記憶の断片を採取をしているバクのメレに会うと、こう言います。
「わたしに記憶集めの方法を教えてください! なんでもしますから」
 メレはとつぜんの訪問者におどろきを隠せず、「教えるのはまったくかまわないが、いったいどうしたというんだい?」
「心に思う人の記憶が欲しいのです。彼女から離れてしまったおとぎ話すべてを」
「なんと!」バクはますます目を大きくしてこたえました。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取ることなどぜったいできない。流れ星に個々の名前が書いてあるわけではないだから。それにまわりを見てごらん、無数に落ちている断片からその人のおとぎ話であると誰がわかるだろう」
 その日からまいにち、王子さまは無色透明のガラスのような長い棒を手に、朝から晩まですこしも休むことなく記憶採取を続けました。川辺に落ちるいく万もの小石の中からたったひとつのちいさな宝石を見つけるように、くまなく探しまわり、流れ星が落ちてくればいそいで走ってゆきます。しかしどれもちがいます。彼女のおとぎ話ではないのです。
 ひとり熱心に断片をひろう王子さまの姿にバクは心を打たれます。しかしどんなに望んでも彼女の記憶は見つかりませんでした。それでも王子さまの手は止まりません。まいにちまいにち、なん年もなん年も。王子さまは彼女のおとぎ話はここにある、と信じて疑いません。そうです、かならずあるのです。王子さまにとってだいじな彼女のおとぎ話を探すためについやした多くの年月は、まるで一日しかたっていないかのようでした。
 みんなも少女の帰りをいまかいまかと待っていたのです。父と母はいつも窓を開け、山あいの国の人々は星に願いを、スズメやフクロウは空を、バンドウやスルフファーは海を探します。たくさんの働きアリはほうぼう聞きまわり、おばぁにおじぃにシバにアルネヴにサトウだって宇宙を巡りました。
 そしてついにやってきた、その日、その瞬間。王子さまが断片を探していると、いつもは絶えず落ちてくるはずの流れ星がピタリとやんだのです。
 王子さまは立ちあがり、静かになった(そら)をゆっくりあおぎました。すると遠くにはひとすじの星が黄色い小鳥にみちびかれ、()をえがきます。まるで広い宇宙で(なが)(なが)いわたりをおえ、湖にもどってきた白鳥のように、王子さまのもとへやってきました!
「あれは」と、近くにいたメレはあまりの美しい光景に目を大きくしてうちふるえ、「まさか彼女はこのときを知っていて……でもそんな」もはや言葉を失ってしまいます。
 王子さまにはきらめく白鳥が深く愛する少女のおとぎ話であるのがすぐにわかりました。たしかにわかったのです。
 (そら)をおりなす星々はふたりの再会を祝福するため王子さまにむかって光の帯となり、美しい七色のカーテンも宇宙をかざります。ときめいた月はかつての色を取りもどし、記憶の断片すべてに呼びかけるといっせいに輝きはじめます。すみきった光の大合唱(コーラス)はいままでに聞いたことのないハーモニーとなってどこまでも遠くに鳴り響きました。彼らもこの日、この瞬間を待っていたのです!
「わたしは」と、王子さまは確信をこめて言いました。「しっかりとつかんで、もう離さない」
————————
……色とりどりにかがやくじゅうたんの上で、王子さまは長い棒をほおって手を大きく広げ、天の川を白鳥のようにまい、胸に飛びこんできた菖蒲色の星を全身でつつみこんだのです。
 王子さまはありったけの想いを重ねて結晶化させ加工するとバクに礼をいい、白馬にのって()せむかうのでした。早く彼女のもとへ』
 軽やかなひずめの音はあまりに懐かしく、心安らぐわたしの王子さまのにおいが、ああ、こちらにやってくる。あざやかに思いだし、ドキドキ高鳴る胸はむかえにきてくれた彼への想いがいっぱい、いっぱいこみあげて……
「わたしはもうけっして君を離さない、アヤメ。だから、アヤメが飲みこんだとげをほんのすこしでもわたしにわけてほしい。お願いだからどうか、ひとりで不安や悲しみをかかえて行ってしまわないで」
「ねえどうしよう、あなたの本が大雨でベシャベシャよ」
「ううん、もういいんだ、もう」
「アサゼルわたしね、やっとわかったの、あなたの気持ち。あなたがどんな思いで干しわらとなっていたか。信頼して待ち続けるのがこんなにも勇気のいることなんて。言葉にできない痛みをわたしは知った。そっか、干しわらだったのはわたしよ。どうしてもっとはやく気づかなかったのかな。そうすればあの時、わたしは素直(すなお)にあなたと」
「ちがうよアヤメ。わたしはそんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをずっとずっと知りたい。だからわたしたちの物語のはじまり(・・・・)は」
 アサゼルは菖蒲の両手を優しく取り、ふわりと立ちあがった彼女の耳もとで【いつまでもおしまいのない愛の約束】をささやきます。それからたがいに見つめあい、きらめく星を瞳にたたえた菖蒲はおだやかな()みをうかべ、もう迷わずこう言いました。
「はい。」
 返事を聞いたアサゼルはキラキラ輝く宇宙でたったひとつのアメジストの指輪をお姫さまの左手薬指へ、アヤメは王子さまの強くあたたかな胸に身をゆだねるのでした。

少し長めの追伸

少し長めの追伸

 秋も深まる湖は紅葉がいよいよ美しく、水鳥たちも少しあわただしいような。雲は高く、ときおり吹く風が冬にむかうひんやりした山のにおいを運んできます。湖畔にやってくる親子はあざやかな赤やオレンジ、黄色の落ち葉や大きな木の実を拾ってはポッケに入れたり、私に気づいた女の子はかけ寄ると収穫をわけてくれたりするのです。
 夜眠る前、まくらに頭をうずめ、ぬいぐるみを抱いて横になる幼いわたしの耳もとで、たくさんのおとぎ話や詩を話してくれた母との時間を思い出します。とりわけ『扉のない中庭』は週末の夜だけのお楽しみで、母が知っている果てしないおとぎ話の中でも一番の輝きをもつ物語でした。私はうれしくて目をきらつかせ多くの子どもが親を困らせてきたあの迷言、「ねえなんで、井戸の水を汲むのに王子さまの記憶の結晶が必要だったの?」とか、「ねえなんで、干しわらになった王子さまはアヤメのキスでもどったの?」身を乗りだすように〝ねえなんで〟を連呼していると母は私のおでこをなでてから笑顔で言いました。
「サラサはどう思う? あなたの考えを私に聞かせて」
 そうやっていつのまにか私が母に続きを話し、夢の王国へ出かけたのです。
 もう少し大きくなると母は恋の話やほろ苦い話もつけ加え、ドキドキしたりほおを赤らめたり涙したり、ふんわり温かい気持ちになったものです。きっとそうやって空想を離乳食のように与えてくれていたのでしょう。
 大人になった私は母のおとぎ話を本にしたいと考えるようになり、出演者に取材をしました。せっかくなので彼らの様子を皆さんにお伝えしますね。
 まず、闇との戦いについて〝由緒ある王族ネコ〟のモルトに聞いたら自分の武勇伝を本当なのか、はたまた大げさなのか、たくさん話してくれました。あの後、モルトは山あいの国にとどまらず、気ままの歌を歌いながら各地をふらふら旅しています。彼はアヤメと気が合うようで、たまに帰ってくると彼女のベッドで一緒に寝ています。
 十万の影の兵をなぎ倒す戦士グレエンは農夫のお仕事がすっかり気にいって畑仕事を楽しんでいますし、みんなの家や家具の修理をするなんでも屋さんとしても慕われています。アヤメがいなくなった時はものすごい落ちこみようで、リリィがそれはそれはものすごぉく、めんどくさかったって! そんなリリーフロラは温かくて優しいグランマです。リリィは今でも菖蒲の服をすべて仕立てているの。私は母のかわいい服をおさがりで着ています。
 ユリーフロラも大好き。さらにふたごの男の子を産んで、彼らは私と幼なじみです。山あいの国で手をつないで歩いているカップルを見たなら、みんな王さまと王妃さまだというほど有名よ。お城のピートおじさんと湖畔の別邸探しをしていますが、なかなか良い場所が見つからないと喜びながら嘆いていました。いつかすてきな新居に引っ越せますように。
 働き蟻さんのいる興廃の丘は美しい『ジョオウのテイエン』に変ぼうしました。スズメさんやフクロウさんに聞いたら、もっと魅力的なお庭にするのが目標なんですって。いったいどんなお庭になるのでしょうか。
 おばぁとおじぃの家には家族で毎年夏休みに出かけます。私は父とおじぃの島でキャンプを楽しむけど、母だけおばぁのせまい待合所に泊まるのよ。一回だけお泊まりしたけど、あんまり窮屈で泣いてしまったわ。でも母はおばぁと話したり、ぼーっと窓から外をながめ、ゆし豆腐すばを食べるのがいいんだって。なにやら菖蒲はせまい場所にはさまるのが好きなようね。あ、よだんですが、おばぁには姉妹が何人かいるらしくて、いろんな場所でそば屋さんを開いているらしいの。もしかするとあなたの街にいるかもしれません。おじぃとシバは、ずっと温めていた冒険に出かける予定で、実は私も誘われています。意識の穴をくぐって宇宙の始まりの領域(せかい)にある不可知の色を見にいくのだそう。とっても楽しみ!
 メレは月で記憶採取を続けています。輝きを取り戻した断片を加工できるのはわくわくすると言っていました。それとシバに言われた「二度あることは——」を思いだして、「記憶に名前がないから見つからない——」の文言はやめたそうです。ぜひ皆さんも月に立ち寄りの際は好きな人の記憶を加工してみるのはいかがでしょうか。
 アルネヴはサトウといろんな星で新しい〝出会い〟を見つけています。菖蒲をビジネスパートナーにする夢が砕かれてがっかりしているみたいなので、どなたか紳士のシロウサギと行商したい人はいないでしょうか。ティータイムを断らない女の子ならいつでも大歓迎だそうです。私がもっと成熟したならミセス・レイラとの淡い恋物語も書けるといいな。
 干しわらの王子さまについて。アサゼルになんで〝わら〟じゃなくって〝干しわら〟なのって聞いたら、思った以上にパッサパサだったから、ですって。それを聞いておなか抱えて笑ってしまったわ。アサゼルはいつも本気なのか冗談なのかわからないくらいユーモアのある父です。最初、この物語の題名を『干しわらになった王子さま』にしようか迷い、キッチンで食器を片付けている父に相談したら、彼はウィンドウシートにはさまって本を読むアヤメを今まで見たことないくらい愛おしい目でながめ、一言だけこう言いました。
「その本はもうなくなってしまったんだよ」
 みんなのことはこれくらいです。もっといろんな話を聞いたり旅して見たことを書きたかったのですが、いつまでも終わらないのでまたいつか。山あいの国の歴史、王子さまの旅の話とかおじぃとシバとの出会い、どうやっておじぃは扉のない中庭の近くまで行けたか、それに菖蒲とアルネヴが闇の門のそばのバザールに行くまでのこと。とっても面白いの。『正直でいたってまじめな嘘つき像』を手に入れたアルネヴとアヤメはクノッソスの迷宮から出られなくなった話とか、何度も挑戦した『流れ星の渋茶』を口に含んだまま、上を向いて三回願いを唱えるとなんでも叶う話とか……。
 最後に二つだけ。一つはミモザのこと。
 母はミモザのことをあんまり話したがりません。金と銀のバングルについてくわしく知ったのも最近で、父に一度だけ聞きましたが、結婚式で身につけているのを見たくらいだそうです。今、父と母はアルビレオを連れて遠くにいます。アヤメによるとそれは『クスノキに宿る黄色の小鳥を探す旅』だそうです。先日アルネヴが届けてくれた母の手紙にもうすぐ帰れるって書いてあったの。だからもしかすると、みなさんがこの本を読んでいる時にはミモザと会っているかもしれません。すっごく楽しみ。優しいママ! ミモザのこと書いてごめんなさい、どうか怒らないで。
 もう一つはそんな大好きな私の母のこと。
 母は山あいの国の講堂に収められたたくさんの本の分類や修復、筆写のお仕事をしています。「宝ものが見つかったの」と、埃かぶった書物を家に持ち帰ってはうれしそうにウィンドウシートで読んでいたり、忘れられた人々のおとぎ話を想像しながらアサゼルのそばでいきいきと話しています。そんな時、私には彼女が新しく広げた領域(せかい)を冒険する少女のようにも見えるのです。
 そして、絶対に教えてくれない【いつまでもおしまいのない愛の約束】のこと。
「ねえママ、アヤメは干しわらになった王子さまから耳もとでどんなことをささやかれたの?」
 母にくり返し聞いても、答えはいつも同じです。
「それはねサラサ、今まで聞いたことないくらいとっても甘くてとろけるような言葉よ。これ以上は秘密! 絶対教えない」それから目を細めて、「あなたも大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」


晩秋のある日、湖畔のガゼボにて
父アサゼルと母アヤメへ
たくさんの愛と感謝をこめて
あなたの娘サラサフロラより

扉のナイ中庭 下

Playlist
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1『花通り』服部克久
2『still life』坂本龍一
3『Lamentatio』Aquabella
4『Azwan』Pierre Bensusan
5『Spider Web Anthem』Meredith Monk Ensemble
6『B4b』William Ackerman
7『Epilogue』Meredith Monk
8『Mehmetio』Angelite
9『A Million Stars』Iona
10『Over The Rainbow』The Innocence Mission
11『The Flowers of Magherally』Altan
12『I will give my love an apple』
  アストリッド・リンドグレーン 作/大塚勇三 訳『長くつ下のピッピ』(岩波少年文庫)
13『La cathédrale engloutie』Claude Debussy
14『Obsolete Objects』Meredith Monk
15『Mist Covered Mountains』Scottish song
16『Moja Piesn』Janusz Prusinowski Trio
17『O'Donnell's Lament』Bill Whelan
18『Fanny』Väsen
19『Raphael's Journey』Joanne Hogg & Frank van Essen
20『Beth Yw’r Haf I Mi?』Siân James & T. H. Parry Williams
21『Bröllop』Tingvall Trio
  The Song of Wandering Aengus. By William Butler Yeats

扉のナイ中庭 下

アヤメがのぞいた扉のない中庭とは————

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-04-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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