扉のナイ中庭 下

Sarasaflora 作

書肆彼方 訳

扉のナイ中庭 下
  1. 夜明けぬバザール
  2. 家出した影
  3. 名のナイ
  4. 闇の門口
  5. 人と影による交唱
  6. 通路の消失点Ⅲ
  7. もっとも近い
  8. 扉のナイ中庭
  9. たりないもの
  10. むかしむかし
  11. 約束の力
  12. なぞかけ歌

夜明けぬバザール

夜明けぬバザール

 菖蒲とアルネヴは夜明(よあ)けぬバザールの大通りを歩いていました。
 たくさんの商店が(のき)をつらね、服飾(ふくしょく)や陶器、貴金属にきらきら輝く宝石からなんでもない石ころまで売っています。へんてこりんな形の野菜や色とりどりの果物、工房や食堂も集まって、街全体がきらびやかで活気にあふれていました。
 夜明けぬバザールは名のとおり朝がやってきません。それで街はガス灯やお店の明かりで満たされ、おのおの個性的な光彩(こうさい)を放っていました。
「ここでは朝や昼といった考えはなく、そもそも時計のサイクルで活動はしないんだ」
 アルネヴが言うには、わたしたちはふつう、日がのぼると起きて日が落ちれば寝ます。しかしこの街はいわばずっと夜更(よふ)けなので、眠くなったらいつでも眠り、おなかがすいたらいつでも食事をする、という具合に、それぞれが自分の生活リズムでのびのび暮らしているのです。それで、菖蒲のように外から旅してくる人はバザールの時間の流れがおどろくほどゆっくり、じれったく感じることすらあるでしょう。
「じゃあどうやって待ち合わせするの?」
 菖蒲の質問にアルネヴは当たり前といった顔で、「待ち合わせなんてしないよ。そもそも〝待ち合わせ〟という考えがない。会いたいと思ったらそのときに会いに行くし、いなかったらまた今度でいいやって」
 菖蒲は自分の領域(せかい)では正確に時間を知らせる時計を中心に生活が回っていること、決められたスケジュールで動くことや、どこでも居場所を知らせたり、みんなとつながるちいさな機械をポッケに入れていることを教えます。
「うわあ」と、アルネヴは顔をしかめて、「もしそんなめんどうな道具があったら、ここでは嫌われるし、効率(こうりつ)もわるいし、なにより窮屈(きゅうくつ)でどうかしてしまうだろうね」。
 ふたりが歩くバザールでは、おめかし(・・・・)しためんどりが子供たちをつらね、ヒョコヒョコ歩いて楽しみにしていたフルーツパーラーへパルフェを食べに行きます。中折れ帽にステッキを手にしたハシビロコウはウィンドウショッピングをしているのか、はたまたぼーっとしているだけなのでしょうか、ブティックの前でどっしり立ちつくし、オーナのヒョウ夫人がこまり果てています。秘伝スパイスで有名なカレーショップ『ピッグ』には匂いに誘われたクマの行列ができていますが、通りをへだてた向かいの同じくカレー屋『カウ』も負けていません。
「でもわたしは正直おすすめしないよミス・アヤメ」と、アルネヴは言います。「香りは悪くないけど、どちらも薄味なんだ」
 街の広場もたいそうにぎやかで、妻の買い物に付き合わされた哀れな夫のライオンは大きな箱と手さげ袋を両手に、なんとかバランスを保っていました。
 広場の中央にはスパンコールドレスでくるっとカールさせたまつ毛が魅力(みりょく)的な歌姫ホッキョクオオカミが、アコーディオニストのヤマネコの伴奏で『ポラーノの広場のうた』を歌いあげると皆が立ち止まって拍手を送ります。
「アルネヴ!」歌姫は聴衆をかき分け、シロウサギを抱きしめて、「帰ってくるなら手紙をくれると」
「ごめんよミセス・レイラ。常夜(とこよ)(かざ)るきみの歌声をまた聞けて幸せだ」
「あなたのためならいつでも」
 すると、近くのキリンやサイもアルネヴを見るなり抱きついて、古い友人との思い出ばなしに花を咲かせます。
 菖蒲は群集をぬうように近くのベンチに腰かけ、幾百もの動物たちがめいめい買い物や商談などで行き交うぎらぎらした河の流れに目をやります。そして影。彼らのことを気にするものは誰もおらず、街に自然と溶けこんで、人の影がたくさんいったりきたりしています。影の(かたち)から男の人、女の人、子どもやおとなと見わけられますが、だれがだれなのかまでは判別できませんでした。
 さて、もう少しアルネヴがくるまで時間がかかりそうなので、菖蒲が記憶の星を離れてから夜明けぬバザールにくるまでに起きた旅のお話しをしましょう。
 シロザトウクジラ・サトウ号の乗組員となった菖蒲は、ハンモックにゆられながら遠く広がる天の川で星座を結んだり、アルネヴの仕事のお手伝いもしていました。黒塗りのつづらにはアルネヴが買い集めた珍品(ちんぴん)がたくさん積まれています。それらを覚えた菖蒲はてきぱき整理してゆき、やってくる行商仲間や客との取り引きになると、好みの品をいくつかアルネヴに持っていきました。
「アヤメのおかげで商談がスムーズに成立するよ」アルネヴは満足そうに言いました。
 ティータイムになると手に入れた品を菖蒲に見せて説明します。菖蒲はそれをじっと聞き、ときには質問したりして楽しんでいたのです。
「アルネヴ。あなたがいれてくれたこのお茶、とってもおいしい。いい香りがして、さわやかな酸味も感じるわ」と、菖蒲は言います。
「これはねミス・アヤメ、特別にゆずってもらった花茶なんだ」アルネヴは人さし指を立てながら得意げにこたえます。「希少な星のかけらがどうしてもほしいという顧客(こきゃく)がいたんだ。はじめはどうしようか迷ったけれど、千年に一回しか咲かない花をブレンドした茶葉を出されてしまっては断れなくてね」
「香りの正体はその花だったのね」
「ああ、でもおいしさの秘密はそれだけじゃあない」と、アルネヴは玉虫色の筒を出します。「村に伝わる方法でね、この特別な茶筒で熟成(じゅくせい)させるんだ。初めはもっと酸味が強いんだけど、だんだんとミルクのようにまろやかになっていく。そしてほんのりハニーのあまみがあるけど、くどくならない」
「なるほど。たしかにいつも飲むお茶とはまったく別物ものね。でもアルネヴ、わたしはミルクというよりチョコレートのような滑らかさが正しいと思う」
「チョコレートか、いわれてみればまろやかの表現だとミルクチョコレートに近いのかもしれない」と、アゴをなでるアルネヴ。
「わたしのテイスティングはこうよ。口に含むとまず上品なローズ、酸味はそれほど強くないけど柑橘(かんきつ)よりも干しぶどうの深み。それにカカオティーのようななめらかさで、シナモンとか複雑(ふくざつ)なスパイスがあと引くの。きっとそれがこのお茶の魅力ね」
 菖蒲は身ぶり手ぶりいきいきと感想を語ります。
「すばらしい!」アルネヴは彼女をまじまじと見て、「ミス・アヤメ、わたしとお茶の商売をしよう。これほど豊かに表現できるのだから、きっとわくわくするような出会いがあるに違いない」
 出会い。アルネヴは口ぐせのようにこの言葉を使いました。彼が行商の仕事を選んだのも〝出会う〟ことだと話します。
「結局、わたしはせっかちということさ」
 オリオン座の南にある小さな星、アルネヴの故郷(いえ)で食事をしていた時のこと。アルネヴはスプーン片手にボルシチを食べながら菖蒲に言いました。
「手紙と同じでナマケモノにも出会いは届くだろう。しかしポストの前でそわそわしているキツネだっているし、郵便局まで行くコッカースパニエルもいるかもしれない。わたしの場合……」
「友人の家まで押し寄せてしまう、せっかちシロウサギね!」菖蒲の相づちにアルネヴの十人兄弟は大笑いします。
 菖蒲はそんな〝せっかちな〟シロウサギといろんな星に出会いました。かに座に住むカルキノスのふみつぶされた人生訓は涙なしでは聞けませんでしたし、こと座シェリアクで開かれた舞踏会はドレスを借りてワルツを踊りました。おひつじ座にある羊だけの星は思い出してもおかしな話しです。秘薬・ケムクジャラシを飲んだアルネヴが全身巻き毛モフモフになってふくれあがってしまい、毛刈りバサミで刈ったら今度はつるっつるの肌であらわれました。
 そんなこんなで気づいたら目的地の鑑定士が住むバザールに到着していました。旅の間にアルネヴは菖蒲のことが大好きになり、一緒に仕事をしようと何度も誘いましたし、菖蒲もアルネヴの闊達(かったつ)な性格が好みでしたので、すっかり意気投合し、心を許す知己(ちき)の仲となりました。もし、干しわらの王子さまの物語がなければ、あるいはアルネヴと行商の旅をしていたのかもしれません。しかし、どんなに長く続く長距離列車においても、ステキな人との相席はほんのわずかな時間だけです。
「ミス・アヤメ。待たせてしまってすまない。みんながどうしても離してくれなくって」
 アルネヴは申し訳なさそうに菖蒲に近づきます。
「ううん、いいのよ。久しぶりの再会は大切にしないとね」
「ありがとう。さあ、君との約束を果たしに行こう」
 商店街の間にのびる、迷路のような細い路地に入ると一転して静かな雰囲気のお店がみっしり並び、趣向(しゅこう)のかわった服やフェルト帽子、手織りじゅうたんを売っています。
 路地を進めばひとっけのないうす暗い道のつきあたりにジジジ、ジジジと音をたて、ついたり消えたりしている赤むらさきのネオンサインがあります。『定鑑レェシア』と、書かれた看板の下に、ひっそりとお店はありました。
「ここがわたしの修行先『アシェレ鑑定』だ」
 そう言って木の扉を開けると、店内のコレクションケースにアンティークなのかガラクタなのかわからないアクセサリーや食器などが雑然と積み重なって置いてあります。ほかに細工のほどこされた大きなつぼや、ホコリかぶったかっちゅうが今にも倒れかかってきそうなほどです。商品をくずさないよう横むきに奥へ奥へ進んでゆくと、大きなつくえで金色のアクセサリーをじいっと見つめる赤いセータを羽織り、フィンチ型メガネをかけたヒツジが座っていました。
「先生、おひさしぶりです」
「字がつぶれておるのぉ」アルネヴのあいさつにヒツジは気づかないようで、毛むくじゃらの頭をかきながらブツブツとひとりごとを言います。
「その幾何学模様(きかがくもよう)は、おそら百万年前、超新星爆発でなくなった幻の星ペイポンで作られたペンダントではないでしょうか?」アルネヴはヒツジのそばで言います。
「ふむ、わしもそう思うんじゃが、裏の刻印(こくいん)がすこし違うようでな。あとで打ったのか、それとも意図的なのか……」と、顔をあげアルネヴをまじまじと見つめて大きく目を開きます。「やあ、アルネヴか! ひさしぶりじゃのぉ」
「おひさしぶりです、先生。かわらず元気そうで」
 ヒツジはゆっくり腰を上げ、アルネヴとあく手と抱擁(ほうよう)もしました。
「わしのところにしばらく顔を見せないということは商売も上々ってことか。サトウは元気かい?」
「はい先生。サトウも先生によろしく、と。さすがにここに連れてくることはできませんから」
「イッヒッヒッヒ。わかっとるわかっとる」
「さっそくですが、今日たずねましたのは先生に鑑定していただきたい品があるからです」
 毛むくじゃらのヒツジはすこしおどろいたように、「わしにとな。いまやわしよりきみのほうが目が肥えておるじゃろうて」
「いえ、わたしは先生には遠くおよびません。鑑定の前に紹介したい人がいます」
「はじめまして、わたしはアヤメといいます」菖蒲は前に一歩出てから毛むくじゃらのヒツジにおじぎをしました。
「ほうほう、これはかわいい実体の子供か。わしの名はアシェレ、ここでずっと鑑定をしておる老ヒツジじゃ」アシェレは頭を下げて菖蒲の手にキスをします。
「先生に鑑定していただきたいのは、彼女が持っている記憶の結晶でできた小ビンです。ミス・アヤメ、見せてもらえる?」
「わかったわ」菖蒲はポケットに入れていた小ビンを取り出すと、アシェレに手渡します。アシェレはつくえにかがみ込むようにして、小ビンの鑑定をしはじめました。
 フタを開けてみたり底をのぞいたり、つくえの上で揺れるアルコールランプの光にあててコンコンと優しくたたき、なでてからことりと置きました。
「で、アルネヴ。おまえの見立ては?」
「はい。じつのところ、わたしはよくある透明な記憶の結晶だと思います。ただ……」
「ただ?」
「金色の流れ星から結晶化したと聞いていますので、透明であるにはなにか理由(わけ)があるのかと」
「ふむ。ではすこし見方を変えてみよう」先ほどまでのおっとりした老ヒツジ・アシェレとは打って変わって、心を見透かすようなするどい視線をアルネヴに向け、「もしおまえがなにも知らずにこの小ビンを出されたなら、サトウの背中に乗っとる全財産と交換するかな?」
 初めて見るアルネヴの表情。的確な言葉を探ろうと目が泳ぎ、緊張した空気が店内に流れます。
「いいえ、交換しません」
「理由は?」
「損失の可能性が高く、利益が見込めないからです」
「つまりアルネヴ、おまえにとってこれはそこらへんにある、平凡なガラスの小ビンというわけだ」
 アルネヴは思わず視線をそらします。
 アシェレのヒゲにかくされた口もとがニヤリとうごき、一息ついてからメガネをはずして、つくえにある茶色のトレイに置きました。
 短い沈黙ののち、数回まばたきをして、「おまえは一粒の真珠のために全財産を売った、かの商人にはまだまだ遠いのぉ」
「どういうことですか、先生!」
「アルネヴ、おまえが行商をはじめたいと言った時、わしが話したことを覚えているかね?」
「はい、アシェレ先生。よくおぼえていますとも。 それは 『近似値(きんじち)許容(きょよう)しない眼』、『そのものをのぞく眼』さいごに『フィルターをかけない眼』をやしなうようにとおっしゃいました。 わたしはそれをいつも心にとめて仕事をしてきたのです」
「そのとおり。おのおのは似ているが非なるもの、しかし本物は微妙な同異にあり。(しん)(おの)がそれによることよ」それから菖蒲に目を移し、「ではアヤメくん、きみはこの小ビンはなんだと思うかね?」
 菖蒲はアシェレをじっとまっすぐ見て、「これは王子さまの記憶で、わたしが結晶化と加工をした金色の小ビンです」。
 アシェレは笑顔でウンウンとうなずいて小ビンを持ち、それをアルネヴに渡して彼にもういちど、じっくり観るよう勧めます。しばらく鑑定しているとアルネヴの顔がみるみる紅潮していきました。
「先生まさか、これはもしかして……いや、そんな」
「おまえの思っておるとおりじゃ。そしてアヤメくんはまちがっておらん」
「これがあの()き通った純金……はじめて見ました。でも、あれは本の」
「アルネヴ、それが〝フィルター〟だよ。まったく未知なるものを前にするとき、それまでの知識や経験はむしろ邪魔になる。おまえは『透き通った純金』はたんなる言葉の表現にすぎず、透明な記憶は価値がないという常識にとらわれ、小びんを〝近似値〟で見た。しかもこの品のむずかしいところは質朴(しつぼく)とした外見。だがここで重要なのは〝そのもの〟がもつ性質じゃないのかね」
 息をのむアルネヴを教え諭してから、こうもつけくわえました。
「もっとも、わしもこの目で観るまでは、それが表現のひとつだと思っておったがの」
「あの、『透き通った純金』とはなんですか?」
 アルネヴが興奮(こうふん)をおさえるように声を震わせこたえます。
「『ガラスのような純金』とも言われてるけど、不純物をまったく受けつけない精錬されつくした金。性質の昇華(しょうか)……でも果たしてその説明が正しいのかどうかもわからない」
 アシェレがうなずきながらさらに説明をくわえます。
「ふつう、記憶を結晶化させると思いがのる。つまりもとの色にだれかの色が影響を与えるんじゃ。そのにごり(・・・)が価値を生むわけだが、この小ビンは金色の記憶を結晶化した際、おそらくアヤメ君の思いが精錬(せいれん)を加え純度を増した、と考えられるな」
「この小ビンが金色の結晶だったとしても、その希少性は後世(こうせい)語りつがれるものなのに、一生で『透き通った純金』を手にすることができるなんて」アルネヴは深いため息をつきます。
 すると、店の入りぐちのほうからコトッとなにか当たる音がして菖蒲は店内を見渡します。
「ミス・アヤメ、どうしたの?」
「ううん、なんでもないわ。気のせいかしら……」と、首をかしげます。
「この小ビンにはよほど深い意味があるんじゃろうて。なあアヤメくん」
 アシェレはメガネに手をのばしかけてから菖蒲の顔をうかがうと、彼女は扉のない中庭にある井戸の水をこの小ビンで()まなければならないことを伝えます。アシェレは静かに耳をかたむけていましたが、菖蒲がひととおり話しおえてからこう言いました。
「ふむ。扉のない中庭については、わしも古い言い伝えで聞いたことがあるの」
「わたしも行商で旅をしていたとき、うわさを耳にしたことがあります。しかし先生、どこかにある場所のようなものではないはずですが」
「それがね、アルネヴ」と、菖蒲が口をはさみます。「闇の門をくぐって中庭の近くにまで行ったことのある人がいるのよ」
「なるほど闇の門か。それは考えになかったの」アシェレは感心します。「だがしかし、そもそもあそこは光を受けつけぬ眠りに近いとされる領域。いったん足を踏み入れれば二度と後にはもどれぬ」
「はい。それでも、わたしはこの小ビンを持って闇の門へむかいます」
「ほお……」アシェレは菖蒲の目を見定め、それから笑顔で、「その思いが奇跡の小ビンを生んだ、というわけじゃなあ」。
「アシェレさん、教えてください。闇の門へはどのようにゆけばよいのでしょうか?」
 菖蒲の質問に、アシェレとアルネヴは不思議そうに言いました。
「なにを言っているんだいミス・アヤメ。きみがいるこのバザールこそが闇の門のまえにある街だよ」
「ええっ!」菖蒲は思わず声をあげ、おどろきます。まさか闇の門のすぐそばにいたなんて。
 そうです。なんと菖蒲は知らないうちに次の目的地にまで来ていたのです。

家出した影

家出した影

『アシェレ鑑定』を離れてすぐ、雨がしとしとふってきました。
 ガス灯やネオンの明かりがしめった水晶のような石畳(いしだたみ)()じりあい、虹色に揺らつきます。
 金色の小びんの秘密を知った菖蒲とアルネヴは、ひとまず帰ろうと頭を押さえながら小走りでザトウクジラのサトウのもとにむかっていました。
 大通りへ抜けようとしたその時、なにかが思い切りぶつかってきて、菖蒲は「きゃあ」と声を上げ、ぐっしょりぬれた地面に尻もちをつきました。前を走るアルネヴはすぐに気づいて足を止め、彼女に手をさしのべます。
「ミス・アヤメ、だいじょうぶかい?」
「ありがとうアルネヴ」菖蒲はアルネヴに支えられて立ちあがり、痛そうに腰をさすります。「女の子がお店の横から突然でてきてわたしにぶつかったみたい。雨だから急いでいたのかも」
 一言もなく立ち去るなんて失礼だと言っておこるアルネヴに、菖蒲はまあまあとなだめます。それから街はずれの大きな公園でサトウと合流して地面に張っておいたタープの下に身を寄せました。
「ないわ!」
 ランタンをつけてから白いふかふかのタオルを手にしたアルネヴは菖蒲の大きな声にびくりと肩をふるわせました。
「アルネヴ、どうしよう。小ビンがないの!」アルネヴを見つめる菖蒲は顔色をうしない、したたる雨水のことなど忘れ、両手でスカートをにぎりしめます。
「先生のお店に置き忘れたんじゃないのかい?」と、言ってアルネヴは菖蒲の頭にタオルをかけました。
「いいえ」菖蒲は大きく首を横にふります。「アシェレさんから返してもらって確かにポケットに入れたわ」
 体じゅう、隅々までなんども探しますが、やはりどこにもありませんし、もちろんアルネヴも持っていません。
「もしかして、さっきぶつかったときに落としたのかも」
「それは大変だ! いつも混雑するバザールで落としてしまったら見つからない」
 ふりしきる雨もそっちのけ、飛び出すように事故現場の交差点にもどります。
「ああどうしよう、どうしよう」菖蒲は人目もはばからず、ひざをついてあたりを必死に探しますがどこにもありません。「あの小ビンをなくしたら王子さまを助けられない!」
 アルネヴはひどく動揺(どうよう)する菖蒲の肩にそっとふれて、「落ちついてミス・アヤメ。だいじょうぶ、きっと見つかる。わたしは先生の店まで道をたどっていくから、きみはもうすこしこのあたりを探してもらえるかい」。
「うん」と、菖蒲はうなずき、アルネヴは路地の奥に消えていきます。
 カサをさす動物や雨合羽(あまがっぱ)を着た影でごった返すバザールでひとり腰をまげ、地をなめるように()くし物を探す菖蒲でしたが、頭ではあれやこれや心配や不安はつのるばかりです。キラキラひかるガラスの細片(さいへん)目地(めじ)に落ちるていると、まさか割れてしまったのではないかヒヤヒヤしてもうたまりません。
「お願いだから見つかって」ぶつぶつ念じるようにしばらくバザールの大通りをゆくと、遠くには大きな黒いアーチ門が望めますが、小ビンを探すことで頭いっぱいの菖蒲はまったく目に入りません。
 いつのまにか雨もやみ、にぎやかなバザールを離れてお店からちいさな屋台へ点々とまばらになっていきます、そのうち、夜のいなか道のように左右の景色は闇に溶けこみ、一本道だけがポツポツと弱々しい和ロウソクの(あかり)に照らされ、かろうじて見えるだけになりました。
「このサキにススんではイケナイ……」
 最後の屋台からひそひそ聞こえるささやきも通り過ぎて、ついに灯火すらなくなったとき、うつむく菖蒲はようやく道を歩きすぎたことに気づき、足を止めます。
 ときおり、影のような揺らぎが現れては消え、バザールのほうへ行ったり来たり、なんとも不気味な往来です。顔をあげると何十メートルの高さもある巨大な漆黒(しっこく)のアーチ門がバザールの反対側、菖蒲がむいている先にどうどうとそびえ建っていました。あまりの大きさに怖くなってひき返そうとした時、アーチ門のほうからチカチカと光が幾度(いくど)かまたたき、それは夜の海を照らす灯台のようにあたかも自分がここにいることを知らせ、菖蒲は光の源が金色の小ビンであることを確信します。なぜなら灯台の光が記憶の星であおぎ見た金色の流星だったからです。
 門に近づけば近づくほど、体の小さな菖蒲を向こうへ向こうへひっぱろうとするものですから、両ひざに手をしっかりつけて、ふんばりながら足を一歩ずつふみだします。
 黒い(きり)は体にまとわりつくようなねばり()()び、もがきつつ伸ばされて影の肉となり男と女の形、それらから子供が生まれ、淡々と老けてうつろいました。菖蒲は一生を逆巻き、重い足取りでわずかな光に向かって進みます。こおこおと吹く風にもまれていると、ふいに男女が菖蒲の両脇を歩き、それはまるで遠い日の失われた時間(かこ)影法師(かげぼうし)が菖蒲を取りもどそうとしているような、消え入る甘美な香りに思わず両手を差しだし、なんだか眠たくなってそのまま闇の中へさそわれます。
人間(あんた)が行ってはダメ」
 深い闇に一瞬、かすれた美しい声と少女の手が照らされ、菖蒲の手首をぐっとつかんで門柱に引き寄せます。はかない夢から覚めた菖蒲が見たのは金色の小ビンを手にしてうつむく少女の影でした。
「あなたは……」
 菖蒲ははたと気づきます。さきほどサトウのところへ走って帰る時にぶつかった人、それが目のまえにいる女の子で、彼女が菖蒲の小ビンを持っていったのです。
 大事な小ビンが無事だったことを知って菖蒲は胸をなでおろしました。それから女の子がおどろいて逃げないよう、おだやかに口を開きます。
「はじめまして、わたしはアヤメ。あなたとお話しがしたいの。いいかしら?」
 影の女の子は菖蒲に気づいているようですが、下をむいたままただ黙っています。
「ねえ、ここではしゃべりにくいから、よければもうすこし離れたところであなたとゆっくりお話しできるかな」
 しばらくして、影の女の子はコクリとうなずきました。

「おーい!」アルネヴとわかれたバザールの交差点でアルネヴは遠くから手をふりながらやってきました。「ミス・アヤメ、やっぱり先生の店までたどったけれど見つからなかった。これから管理局にもかけ合って……ん、その子は?」
 影の女の子の手に小ビンがあることがわかるとアルネヴはおどろいたように、「きみが持っているのはもしかして……!」
 菖蒲は口もとにそっと人さし指をあててから目くばせします。
 眉間(みけん)にしわを寄せるアルネヴは、けげんな顔つきでなにか言いたげですが、菖蒲は首をゆっくり横にふりました。
「優しいアルネヴ、わたしから大切なお願いがあるの。聞いてくれるかしら」
「わかったよ」アルネヴは、はあっと深いため息をつき、頭をかきながら「きみの願いは断らないと約束したからね」。
「ありがとう」と、菖蒲は笑顔でお礼を言いました。

「わたしはねサトウ。自分が度量の広いな聖人ウサギだとは言わないさ。でもこのたびのミス・アヤメにまったく、すこっしも同意できない」
 サトウの頭の上で腕と足をどっしりと組みながら寝そべるアルネヴは、ふてくされたように言います。
「宇宙に一つしかない歴史的価値をもつ、いいや、どんなに形容しても表せないほど貴重な小ビンを取られておこらないだけではなく、わたしの家でお茶をごちそうするなんて。し・か・も、あれだけ一生懸命探して先生のところまで行ったのに、わたしは自分の部屋にすら入れてもらえない」
 サトウは答えるように鼻息をフシューっとあげます。アルネヴと長いつきあいなので、商談がどうにもうまくいかなかったり、納得いかない時にはこうして頭の上で愚痴(ぐち)をこぼすことも心得ています。それで無口なサトウはアルネヴの機嫌がよくなるまで、いつもより静かに耳をかたむけていたのです
 いっぽう、菖蒲はアルネヴの部屋で影の女の子にあったかいお茶をいれてあげました。
「このお茶おいしいでしょ。とってもめずらしいお茶なんだって。あ、アルネヴっていうのはさっきの白いウサギさん。ここも彼のお(うち)なの。ふふっ、とっても紳士(しんし)でステキなシロウサギよ」
 菖蒲が楽しそうに話をしますが、うつむく影の女の子は黙ったままお茶を口にします。ティーカップをソーサーにそっとおくと、彼女はゆっくり口を開きました。
「あたし……味わからないの。においもなにもかも。影だから。影にはいらないんだって」
 少女の言葉は菖蒲の胸をしめつけます。
 わたしと同じ感覚を持っていないから、だけではなく、それに気づいてあげられなかったからです。菖蒲は口にすべき言葉をじっくり考えてみます。「ごめんなさい」とあやまればよいのか、それとも聞かなかったふりをすれば傷つけないでしょうか。
 すると女の子のほうから話しはじめます。
「門から外にでてはいけないって言われたから……あたし家出したの」
「あなたはあの門のむこうがわの領域(せかい)に住む人なの?」
 すると女の子は軽くうなずいてから、「影はみんなそう。ここにいる影もむこう側から来てるの。影はみんな同じ影。ただすこし、形が違うだけ」。
「ではなぜ、あなたはあの門から外にでてはいけないのかしら」
「あたしは自分がある影だから。自分をもつ影は、みんなに迷惑(めいわく)をかけるからでてはいけないって、お父さんが言ってた」
(この子にはお父さんがいるのね)
「そっか」菖蒲は気にせず女の子を見つめ、「ねえ、もしいやでなければ教えて。あなたのお名前はなんていうのかしら?」
 影の女の子はやっと顔をあげ、菖蒲のほうをむいてから首をかしげて、こう言いました。
「名前ってなに?」

名のナイ

名のナイ

 名は何のためにあるのでしょうか。区別するため、意味や価値を持たせるため、それとも自分や他人を認識するため? 
 誰でも当たりまえのように自分の名前を持っています。そして多くの場合——好きか嫌いかにかかわらず——その名によって呼ばれます。だれかを知ろうとするとき、あるいは知ってもらおうとするとき、わたしたちはまず名前をたずねたり自己紹介します。同じように菖蒲も最初に自分の名前をつたえて、少女の名前をたずねたのです。
 でも影はそれらすべて必要としません。自分がだれか、またほかのものがなにかを知る必要はなかったのです。なぜならこの領域(せかい)で影は影として生みだされていたからです。バザールに行き交う影はうつろい(・・・・)であり、光と闇の均衡(バランス)に過ぎませんでした。街の住人たちも彼ら影を空気のようにあつかっていたのです。わたしたちだって影をいつも意識して生活することはないでしょう。菖蒲もおそらくこの少女と出会い、こうして話さなければ、それら影の存在について気にとめることはありませんでした。
 しかし、名前について問われた影の少女は今や自分に目ざめ、名前の意味を知る必要が生じました。つまり自分とはいったいなにが自分なのか、わたしはなにをもってわたしなのか、と。
 それで、菖蒲の前にすわる影の少女はこう言いました。
「あたしはあんたのいうナマエというものを知らないの……でも」
「でも?」
「あたしはあんたのようになりたい。それで家出した。兄みたいに」
「兄? あなたにはお兄さんがいるの?」
「兄があたしにおまえはあたしの兄妹(きょうだい)だと言ってたの。兄はいろいろ教えてくれた。でも、兄は闇の門から出てった。そして二度と帰ってくることはなかったわ」
「お兄さんはなんで出ていったのかしら」菖蒲がそう聞くと、女の子はうつむいてしまい、「わからない。でもほしいものがあると言ってた。そしておまえもいつかそれをほしくなるだろうって」
 菖蒲はお茶を口にしてから女の子にたずねます。
「どうしてあなたはわたしのようになりたいの?」
 少女は肩をひくっとゆらし、「あんたがめずらしいというこのお茶がなんなのか知りたいのよ。それにナマエだって。だから……」
「だから?」
 少女は人形のように固まってしまいます。
 菖蒲はうなだれる影をじっと見つめ、沈黙に耳を傾け、無言のひびきを感じ取ろうとつとめます。少女がなにを話せばよいのか、わたしに伝えたいことも知っていましたが、それを彼女の口から聞きたかったのです。そのためにはたくさんの時間と理解を犠牲(ぎせい)にしなければなりません。
「だから……だから……」女の子は独り言のように何度もそう言って小ビンをぎゅっとにぎりしめます。
 どうにもできない感情がこみあげたのか、少女の目から涙の影がポロポロとこぼれ落ち、菖蒲はとても悲しくなります。
——彼女は涙を流せることにすら気づいていない。ああ、わたしはこの子のためにいったいなにをしてあげられるだろう。どんなことをすれば彼女は満たされるのだろう。
 ついに少女は顔をあげて、ふるえる声でこう言いました。
「だから……あたしは……あたしはあんたの小びんを()ったのよ」
 少女のつたない告白は菖蒲の思いをゆさぶり、さっきよりも強く胸の奥がしめつけられ、いろんな思いがまるで噴水(ふんすい)のようにほとばしります。自然とまゆは中央に寄り、目にあふれる水を止めようと口びるをかみました。
 そんな菖蒲の気持ちなどおかまいなしに、少女の顔はパッと明るくなります。
「あんたたちがこの小ビンの話をしているのをあたし聞いてた。これがあれば、あたしがあんたのようになれると思ったの。だから、これの使い方をおしえてちょうだい」
 菖蒲は少女に強い愛を感じて、はっきりこう伝えます。
「なれない、なれないのよ。その小ビンをもってもわたしにはなれないの」
 女の子は首を横にふり、「そんなの(うそ)よ。だってこれには記憶と思いがあるって、あんたが言ってたじゃない」
「あなたの言うとおり、たしかにその小ビンは大切な人の記憶やわたしの思いがつまっているけれど、それを手にしたからといって、あなたはわたしのようにはなれないの」
「嘘よ!」
 少女の金切り声。菖蒲はじっと優しく、幼い子どもをさとすようにこたえます。
「ねえお願い、聞いて。あなたはあなたで、わたしはわたしなの。たとえあなたがそう望んでいても、ほかのものにはなれないのよ。なれないものになろうとしたって自分を傷つけるだけ。心はあなたの空腹を満たしてはくれないの。それにもし、誰かになったとしても、ほかのなにかに変われたとしても、本当に求めていたものがそれじゃないことに気づいたなら、それを知ったあなた自身は壊れてしまう」
「嘘つき!」女の子は首を横に強くふり続けます。「そうやってあんたは自分だけのものにしようと隠してるのよ! あたしはあんたのようになりたいの。あたしにはなんにもないんだから!」
「あなたにはあなたがある。ほかの人にはない自分だけの自分。それなのにあなたはなぜ、あなたであることに満足しないの?」
「大嘘つきのあんたなんかにわかんないわよ!」少女は手にある小ビンをぎゅっとにぎりしめ、責めたてるようにはげしく、「あんたはあたしにはない全部があるのだから、あたしにだってそれをもらえなきゃおかしい!」
 菖蒲はすっくと立ちあがり、興奮(こうふん)する少女のそばで手を差し出します。
「じゃあ交換しましょう。わたしはあなたが持っている小ビンがどうしてもほしい。その小ビンはわたしがとても大切に想う人を取りもどすためにどうしても必要なの。だからわたしはあなたにわたしの心の半分をあげる。そのかわりにあなたの手に持っている小ビンをわたしに返して」
 少女は少し考えてから首をたてにふり、にこりと笑顔で言います。
「いいわ。でもどうやってあたしにあんたの心をくれるの?」
 菖蒲は王子さまのつけていた首かざりから指輪をはずして右手の薬指にはめると、赤い宝石は炎のように石のなかでまっ赤にもえてかがやきはじめます。
 それから少女の目を見て。こう言いました。
「ただ、ひとつだけ約束して。あなたがもし、わたしの心を必要としなくなったなら、わたしがさっき言ったことの意味を知ったのなら、そのとき、半分の心をわたしに返してもらえる?」
「ええ、わかった」
 菖蒲が少女の肩に手をまわしたその時でした。
「アヤメは! アヤメは嘘つきなんかじゃない!」近くで身をひそめていたアルネヴがふたりのまえにでてきます。「きみがわがままなだけなんだ!」
 アルネヴはひどく取り乱し、大声で叫びます。
「アヤメ、アヤメ! ぜったい、絶対にそんなことをしてはいけない! きみの美しい心が分かたれるなら、アヤメはどれほど苦しむことになるだろう。欠けた心を探し求めアヤメはどんなにか辛い思いをするだろう。わたしはそんなの黙って見てはいられない! こんなのおかしい、間違ってるよ!」
 菖蒲は少女のうしろに立つアルネヴに母親のような優しい笑みをうかべます。でもアルネヴははっきりと見ました。菖蒲の右目から涙が一つぶこぼれるのを。
 それから菖蒲は目を閉じ、少女をいよいよ強く抱きしめました。
 産声(うぶごえ)のような、しかし耳をつんざく鋭い音が遠く天から聞こえ、菖蒲の薬指にある赤い宝石は心が流す血のようで、アルネヴは思わず顔をそむけます。
 心が半分に引き()けるとき、今まで人が誰も経験したことのない内奥(ないおう)の痛みを菖蒲にあたえますが、声をあげることなくただくいしばり、じっと耐え、受け入れました。
 菖蒲は息をすべて吐くと、指輪を指からはずし首かざりにしてもどしました。そして大好きなお義姉(ねえ)さんのことをわすれたのです。
「アヤメ!」くずおれる菖蒲のもとへアルネヴはいちもくさんにかけより、彼女の肩に手をあてます。「ああ……ああ、きみはなんてことを」
 ところが菖蒲はまゆをひそめ、「アルネヴ、約束やぶったわね。わたしはあなたに、この子と話しおえるまで外で待っていて、と言ったでしょ」。
「そんな、わたしはただアヤメが心配で、いてもたってもいられなくて、それで、それで……」
「外で待ってて」
 しょげかえるアルネヴの背に、菖蒲は小さな声で言いました。
「アルネヴ、ごめんなさい。わたしを信じてくれてありがとう」
 少女から約束どおり小ビンを返してもらい、菖蒲はひたいにあてて安堵(あんど)します。
「あなたには名前がなかったわね。わたしがつけてあげる。あなたの名前はミモザ。ミモザよ」菖蒲はミモザの両肩にふれて、強い眼差(まなざ)しでさらにこう言います。「よく聞きなさい、ミモザ。あなたはわたしが歓ぶとき喜び、わたしが悲しむとき哀しむの。わたしの痛みはあなたにとって(とげ)となり、わたしの辛苦(しんく)はあなたにとって(かせ)となる。わたしがあなたにあげたものは、わたしなのだから」
 菖蒲はミモザを残してアルネヴのもとへでてゆきました。
 ひとりになったミモザは手のひらを見つめてから胸にあて、目を閉じます。
 菖蒲の心を半分もらった影は、まえより心奥(しんおう)にずっしりと重みを感じました。これまでにない景色、かいだことのないにおい、おいしいと言っていた味、わきおこる感情、誰かを想うこと。それらすべてはきっとすばらしいものなのだろう、あふれるほど豊かなのだろう、ずっとそう考えていました。鳥の翼を背に、大空をどこまでも羽ばたき、魚の尾びれを足に、大海原を好きなだけ泳ぎまわれるんだ。なにより大好きな兄がほしくなるだろうって言い残したものはきっとこれだったんだ。そのために家出をして、菖蒲の大切なものまで盗んだのです。それとひきかえに得た自分のほしいもの、願いをついに手にしました。
 でも、菖蒲が伝えたように、そこにいた影はミモザです。
 菖蒲の心の半分と名前をもらってミモザがいちばん最初に感じたこと、それは空虚(むなし)さでした。

闇の門口

闇の門口

 ミモザは菖蒲とアルネヴが仲良くしている様子を遠くでそっとのぞいていました。すると、なぜだか胸がずきずき痛くなります。
——アルネヴはアヤメを心配しながらも尊敬して、彼女はそんなアルネヴが大好きで信頼している。でも、ふたりとも大事な言葉を口にしないのはなぜ? それは本当の友情をおたがい懸命(けんめい)に守っているから。だれからだろう? きっと嘘や疑念(ぎねん)、恐れ……友情を壊そうとするあらゆるものよ。
 ミモザはすこしずつ見えないことを理解できるようになりました。それは菖蒲の心を半分もらったからでしょうか。じつのところそうではありません。なぜならミモザは初めから自分をもっていたからです。それでも、ミモザはまえよりも自分を親しく知るようになりました。まるでミモザのなかで菖蒲と仲よくなるように。
 ミモザはいますぐにしなければならないことがわかりました。はやく自分の(うち)にあるこの痛みを取りのぞいてあげなければなりません。なぜなら放っておくと、いつまでも残ってしまうからです。
 ミモザは菖蒲のもとにいそいでかけより、胸に手をあてて言いました。
「アヤメ、ごめんなさい。あたし、あなたの大事なものを盗んでしまった。それにわがままばかり。どうかあたしを許して」
 菖蒲とアルネヴは目を合わせ、彼はやれやれっといった顔をします。菖蒲はクスッと笑い、それから不安そうにこちらを見つめるミモザの肩に優しくふれました。
「ミモザ、もちろん許すわ。だってわたしたちはもう、心をわかつ友達でしょう?」
 すると感じていた痛みはスッとどこかにいってしまいました。それでミモザは遠くへ去る痛みにむかってこう語りかけます。
——でも、あたしがもし誰かを傷つけていたり、嘘を言って悲しませたのなら、またもどってきてほしいの。あたしが(あやま)ちに気づけるように。
 菖蒲とアルネヴはミモザをティータイムに誘い、みんなでテーブルを囲みます。金縁の白磁カップとソーサー、銀製のティースタンドには下からキューカンバーサンド、スコーン、一口サイズのケーキやマカロンがのっていました。
「うん、これもまたいいね。まえよりもっとまろやかになっているよ」と、あたため直した紅茶をティーポットに持ってきました。
「なにを言っているのアルネヴ。お茶がもつ本来の香りはまったく消されているわ。ミモザにこんなお茶をだしてわたしたちのティータイムが嫌いになったら大変よ。すぐに新しいのと交換(こうかん)してちょうだい」
「ええっ、いれなおすのかいミス・アヤメ。だってこのお茶、すごく貴重だって言ったじゃないか」
 菖蒲はすんとした顔でこう言い返しました。
「大切なレディをふたりもおもてなししていますのよ、紳士のアルネヴさん。それとも、そちらのつづらの上から二段目の右奥に隠してある茶筒には、わたしの知らないもっとすばらしいお紅茶でもあるのかしら?」
 あきれたアルネヴはもうなにも言えず、しぶしぶお茶をいれかえました。
 そんなやりとりにミモザはクスッと笑い、ふわっと立ちのぼるゆげが鼻に近づくのを感じます。
「とってもいいかおり」ミモザは目を大きく開いて、思わずカップを口に近づけました。「それに落ちつく味。ああ……紅茶はこんなにステキなものだったのね」
 ミモザはなんだか体全体がふんわり満たされて、なぜだろうとテーブルを見まわします。
——この紅茶が貴重であったり、おいしい食べ物がたくさんあるからだけじゃない。すてきな友人と一緒に過ごせること、みんなで(いこ)いのひと時をより良いものにしようと願っているからよ。そっか、あたしはそれに気づきさえすればよかったんだ。
 ミモザはわきあがる幸せがやってくると、あふれんばかりの喜びを言葉に表してみんなに知らせたいと思うようになります。
「あたしのために大事な紅茶をいれてくれてありがとう、アルネヴ!」
「どういたしまして」と、アルネヴは笑顔でこたえます。
「アルネヴ、かわいい女の子に感謝されて照れてるでしょ」と、菖蒲がからかいます。
「ミス・アヤメ、かわいいレディにわたしがとられそうでやきもち(・・・・)焼いているのかい?」アルネヴが細目でニヤニヤしながら返すと菖蒲は顔をまっ赤にします。
「そんなことないもん!」
 みんなで大笑いするとミモザはもっとうれしくなります。そしてこの時間がずっとつづけばいいのに、と思いました。それで、わきあがる幸せにこうかたりかけます。
——あなたはあたしとずっと一緒にいてほしい。でももし、もしあたしがあなたを当たりまえのように思ってしまったのなら、素直にありがとうって言えなくなったなら、あたしから離れて。あたしが感謝を思いだすために。
 ティータイムを楽しんでからサトウとわかれ、三人はバザールへでかけました。
「見て、ミモザ。あそこで行列しているカレー屋さんは行列ができてるけど大味なんだって。そう言われるとならんで食べてみたくなるのよね。あっちも……」
 そう言うと菖蒲はミモザの腕を引っ張って近くのお店に走ります。
 どこまでものびる『スパゲッティ化現象アイスクリーム』、プカプカ浮かぶ『星の卵』を売るお店では誰よりも先に星の名前をつけることができます。ただし、みんなに自慢できるのは何十億年も先の話ですけど。
 宇宙のりものショップでは高速ロケットのほかにも、あの(・・)空気を利用した『クリーンヘネルギー新型バイク』がショーウィンドウに飾られていましたが、においの完全除去(じょきょ)については今後の課題(かだい)のようです。ちなみにそのとなりが焼きいものお店であるのは偶然(ぐうぜん)でしょうか。
 古着屋さんのマネキンには裸の王さまが着ていたらしい『バカには見えない服』、雑貨(ざっか)屋さんのおすすめはジャックが植えた『天まで届く豆』と『金のたてごと』で、今なら『金のたまご』もセットでお安くしてもらえるようです。
 ミモザに刺繍(ししゅう)入りのボタニカルブラウスをあてがい、菖蒲の首にきらきらのネックレスをかけてみます。ふたりはなんでも手にとって、においをかいで口にしてたくさん笑いました。すごろくでマスを進めたりもどったり、時には一回休みとなるように、このお店に入ったかと思ったらまたあの店と、いつになったらゴールにたどりつくのでしょうか。アルネヴは手をつないであちこちめぐるふたりの後ろ姿に、仲の良い姉妹の面影(おもかげ)を見ました。
 やがて大通りにならぶお店はぽつぽつと、あたりもうす暗くなっていきます。
「このサキにススんではイケナイ……」
 ついに、『ひそひそと聞こえるささやく屋台』まで着いてしまいました。
「きみたちにプレゼントしたいものがある」ほんのりと照らすロウソクのそばでアルネヴは足を止めて言います。
 ふたりは立ち止まってふり返ると、アルネヴは菖蒲に金色、ミモザには銀色のペアバングルをそれぞれ手渡します。
「それは一生分の輝きを終えた星の残りでできているんだ。最初はひとかたまりの鉄だったのが、小さなヒビにより割れてしまった。でも星細工職人(アルケミスト)の手によって新しい個性をもち、固く引き寄せあう金と銀に生まれ変わったといわれている。きみたちのこれからの友情に」
「アルネヴ、ありがとう」
 そう言って菖蒲はバングルを右手首に、ミモザは左手首につけます。
行商(わたし)はこの先に進むことは許されていない。市のあるところ、つまりあの屋台までがわたしの自由が許された領域(せかい)なんだ。だからここでおわかれだね」
「アルネヴ!」菖蒲はすぐに愛すべきシロウサギを強く抱きしめます。「あなたに会えて本当によかった。あなたはわたしの、とても、とても、とっても大切で心地良い最高の友人よ。またあなたのティータイムにわたしを招待してもらえるかしら」
「もちろんさ、ミス・アヤメ。きみを心から愛している。わたしたちふたりの(あいだ)には多くの言葉を必要としなかった。でもたくさんのすばらしい宝物に出会ったんだ。そしてこれからも見つけるだろう」
「うん」
「わたしの約束を覚えているね。どんなちいさな困りごとでもわたしは断らない。すぐにサトウとやってくるよ」
「ありがとう、アルネヴ。大好き」菖蒲はアルネブのほおに優しくキスをします。
 ミモザはいつまでも抱き合うふたりをながめて、胸がぎゅっとしめつけられました。
——ふたりはいつかわかれがくることを知っていたのに遠くへ追いやっていた。そっか、アルネヴはもっとアヤメとの時間を過ごしたかったけれど、彼は大切な惜別(せきべつ)のひと時をあたしにプレゼントしてくれたんだ。
 仲のよい友とのわかれや愛する人がいなくなると、互いに引き合う心が必死に止めようとします。どこにいってしまうのだろうか不安になるのです。それはさっき感じた後悔(こうかい)の痛みとはまったく異なるもので、痛みよりもっと苦しくてやっかいな、いやすことができない裂傷(きず)になります。
 ミモザは心を半分にしたことがどれほどなのか理解しました。そう、菖蒲が幼いときからずっとこの不安や苦しみを秘めていることに。
——それでもアヤメがあたしを友と呼んだのはどうして? なぜあたしを責めないのだろう。あたしを強く(しか)りつけて、たくさんなじって、もっと怒って、避けてくれれば。わがままで、大切なものを盗む、姑息(こそく)で汚い影だって(にく)み嫌えばよかったのに。そうすればアヤメはこんな傷を抱えないですんだはず。
 すると心はミモザに優しく語りかけます。
「それは違うわ、ミモザ。あのとき、わたしはあなたにただ分けてあげたかった。どうしても言葉では伝えきれない、あなたへの想いを。だから、わたしとの約束を守ると信じてる」
——ああ、あたしのうちにまかれた、たくさんの悲しみよ! いつかアヤメとの約束を果たしたそのとき、おまえたちは喜びの花となれ。カタクリがいくどもいくども厳冬(げんとう)()し、やがて早春(そうしゅん)の野山をひっそり(かざ)るように。わたしはその花を彼女に届けよう。だから待っていてほしい。
 アルネヴに手を振って、菖蒲とミモザは闇の門に近づきます。
 すいこまれるようなあの粘る強い力と深い闇を感じますが、ミモザは左手で菖蒲の右手をしっかりつかみます。
 ついにミモザは菖蒲のすべてを知ったので、こう言いました。
「アヤメ、あたしの手を離さないでほしいの。あたしはあなたが行きたい場所を知っているから。アヤメはあたしを信じてくれる?」
「ええ、もちろん」菖蒲はすぐに答えます。「ねえミモザ、わたしはあなたと出会うまえから信じてた。いつも、いつも。そしてずっと、ずっと」
 こうしてふたりは闇の門をくぐり抜けていくのでした。

人と影による交唱

人と影による交唱

 闇が濃い(きり)のように立ちこめていました。
 視覚の闇か、はたまた感覚なのかわかりません。目を開けていても閉じてもまっ暗だったからです。まえにいるミモザも、菖蒲自身でさえ認識できず、ただしめった空気が冷たくまとわりついて、ぶきみな風がほおをかすかになでます。
 コツンコツンとガラスの平面をたたいているような、ふたりの足音だけがどこまでも反響(はんきょう)して聞こえます。天井(てんじょう)の高いお堂にいるのか、それとも闇とは広いどうくつなのでしょうか。 
 まったくなにもわからない暗闇のなかで、唯一感じられるのはぬくもりです。ミモザと菖蒲は手をからめて、どこかへ向かっているのがわかりました。
「ミモザ、あなたはいまどこを歩いているのかわかる?」
 菖蒲がたずねると、ミモザの声だけが返ってきました。
「ええ、でもまえよりわからなくなってきている。たぶん……」
「たぶん?」
「あたしが光を知るようになったから。闇を知覚することがむずかしくなってきてるのだと思う。でもだいじょうぶ、あの場所はおぼえているの」
 そう言ってふたりはしばらく歩きつづけました。
 どれくらい時間がたったのでしょう。一分が一時間、一日が一週間過ぎているような、いや、その逆かもしれないと菖蒲は不思議な感覚にとらわれ、もしここでミモザの手を離したら暗闇の中で迷子になって、だれも助けてはくれず、永久に闇に閉じこめられてしまうのではないかすこし不安になります。
 闇の中での想像はいつもよりはっきりとしていて、恐怖におびえながらひとりさまよう自分の姿がありありと目に浮かびます。
 歩き疲れた菖蒲は地面にうずくまり、頭をひざにのせて休みんでいると、「わたしを助けて」。
 遠くから聞こえる少女のうわずる声に菖蒲は顔をあげます。
「どこ? どこにいるの?」
 菖蒲は立ちあがり、声のもとへ。
「わたし見えないの。なにも、なんにも」
 いくら探してもわかりません。
「わたしも助けて」と、菖蒲の声。
 すると、「どこ? どこにいるの?」
 遠くから響く少女の声。
「わたし、見えないの。なにも、なんにも」と、菖蒲の声。
「わたしを助けて」と、少女の声
「どこ? どこにいるの?」菖蒲の。
「助けて」わたしの。
「どこ」菖蒲の。
「見えない」わたしの……菖蒲(わたし)の?
「いけないアヤメ! あたしの手を疑わないで!」
 ミモザはぐっしょりぬれた菖蒲の手を強くにぎり、心臓(しんぞう)の高ぶる鼓動(こどう)が伝わり聞こえます。
「ミモザ、わたし……」
「しーっ、静かに。闇はアヤメを排除(はいじょ)しようとしている。そうよね、パパ」
 その瞬間(しゅんかん)、菖蒲は圧倒されるような力と視線を感じ、あまりに冷たい気配で全身がブルブルふるえました。それから低くて大きな音が上から響き、やがて音は混濁(こんだく)した言語となり、菖蒲にも理解できる音声へと変化します。
「我はおまえの父ではない」
 ゆっくり語る一声で地面はゆれ動き、押しつぶされるほどの威圧(いあつ)に、菖蒲はミモザの腕をにぎります。
「そうです。あたしはそれを兄から聞いたからです」
「影に兄弟などない。あれもこれも配列の誤差と調整であり、不完全と欠陥(けっかん)のできそこないにすぎん」
 菖蒲はムッとし、(うち)で気づかないほどちいさな火がくすぶりはじめます。
「それでも、あたしに自分をあたえてくれたのはパパです。あたしは友人をあの場所へつれてゆきます」
「好きにするがよい。しかし領域(りょういき)の調和をみだすものには相応(そうおう)のむくいを受けるのが定め。(おのれ)をもつ影よ、わきまえておろう」
「はい、知っています」
「愚かな影、名は己をあざむき続けるであろう。あれがそうであったように」
 干しわらの王子さまと対峙(たいじ)した黒く燃える影、それがミモザの兄であることに菖蒲は気づきます。でもミモザには……
 闇の(あるじ)はすかさず菖蒲に言います。
「人よ、定められた領域(りょういき)(おか)すに飽きたらず、同一の影に情を与え、(おの)がものにしようなどと。おまえたちの傲慢(ごうまん)が世界を破壊したことをもう忘れたか。それでなお口に甘く、(はら)には苦い言葉を吐きつづけるか」
「そうではない!」菖蒲はどこにいるかわからない闇の(あるじ)にむかって力強く答えます。「どんなものでも同じだから同じと見てはいけない。わたしはそう教えられた。だからわたしにとって同じものなんてない。影もまた」
「アヤメ、気にしないでいいのよ。もういきましょう」
 ミモザは闇の(あるじ)からしりぞくように菖蒲の手をひっぱり、ずんずん歩きます。すると大勢の影が菖蒲とミモザのまわりをかこみ、闇の(あるじ)がはなつ言葉を影がみなで反響させるように四方から声が聞こえてくるのです。

  おまえの下劣(げれつ)(うた)
   我らに浅く

  おまえの醜悪(しゅうあく)な形は
   我らにおぞましく

  おまえの低俗(ていぞく)な舞は
   我らにつたなく

  おまえの卑猥(ひわい)嬌声(きょうせい)
   我らに耐えがたく

  おまえの…… おまえの……
   我らに……  我らに……

 ふたりは黙って前へ前へ進んでゆきます。
——いいえ、ちがう。あの声はわたしじゃない、ミモザをこわそうとしている。
 菖蒲にはそれがはっきりわかりました。
——躊躇(ちゅうちょ)なく絶えざる非難と同調でミモザをぐしゃぐしゃにつぶそうと。感情をいとわず心を足でふみつけている、なんて卑劣(ひれつ)かつ凶悪で残酷(ざんこく)な者たち。わたしはどんなに傷つけられてもかまわない。どれほどののしられても受けいれよう。でもわたしの大切な友達だけは……ゆるせない! ぜったいにゆるせない!
 菖蒲のわずかな火は怒りの炎へと燃えあがり、やがて奥底から憎しみのマグマがふつふつとわきあがるのを感じます。
——こんなことしていいわけがない! ミモザのことなにもわからないくせに!
「お願い。あたしのために怒らないで。あたしはそんなアヤメを見たくはないの」
 ミモザはうなる犬と化した菖蒲の良心を懸命(けんめい)になだめようとします。菖蒲はいますぐにでも赤い指輪の力をつかって闇の(あるじ)を、いいえ、ここにあるすべてを、もうなにもかもめちゃくちゃにこわしてやりたいくらいだったからです。
 闇の(あるじ)菖蒲(ヒト)の弱点をよく知っていました。じつのところ、彼らは闇の門をくぐり、この領域(せかい)をうろつくふたりを必要価値のないものと判断し、体内に入った異物を無意識に除去(じょきょ)しようと、まったく機械的に、もっとも効率のよい仕方で排除(はいじょ)しようとしていただけなのです。それは愛する人を言葉で傷つけ、ひびをいれた友情を憎悪(ぞうお)でえぐる、という恐ろしい手段でした。
 ミモザはつながる手を通し、視界をうばわれた菖蒲に語りかけ、彼女をなんとかなだめようとしました。
「でも! だれも心を侮辱(ぶじょく)してはいけないのに。ましてあの闇は辛辣(しんらつ)な言葉でミモザ、あなたをこわそうとしている! そんなことしていいわけない!」
「パパもここにいる影もみんな言葉の使い方を知らないだけ。ねえアヤメ、あたしもそうだったでしょう?」
「でもあなたは……でもあなたは!」
「ううん、あたしも知らなかったのよ、アヤメ。火によって火傷(やけど)することもあれば、こごえる体をあたためることだってできるのと同じように、言葉にも包みこんだり、立ちあがらせる力があることをアヤメから教えてもらったの」
「でも……でも!」
 響きわたる罵詈雑言(ばりぞうごん)の反復と沈黙(ちんもく)応酬(おうしゅう)ののち、ふたりはついに目ざしていた場所につきました。下へとつづく、あのうす暗い階段です。
 しかし菖蒲は自分の(うち)で燃え広がる憎しみと、まとわりつく忿怒(ふんぬ)を消すことができず、目の前にある階段がまったく見えません。闇によって植えつけられた怒りはツルのようにまきつき、感情のおもむくままに行動するよう、彼女を誘惑(ゆうわく)しつづけていたからです。
——あの(・・)力で抵抗(ていこう)しろ。全身にためこむ怒気(どき)をぶちまけてしまえ。アノ力でスベテ破壊スレバイイ。気のムくままに。アノチカラデラクニナレ、サア、ユビワヲノコリノユビニ! サア!
 菖蒲は自然と胸元の赤い宝石に左手をやります。しかし、わななく菖蒲の右手をミモザはけっして離そうとしません。
「ミモザ、手を離して!」
「お願いやめて、アヤメ」
「離しなさい! ミモザ! ミモザ!」
 あばれだす菖蒲の怒声(どせい)。やけどするほどの炎熱(えんねつ)がミモザの左手を焼いても、力をゆるめることはありませんでした。
 こんなあたしのことを心から愛してくれる人がいて、信じてくれて、あたしのためにこれだけ怒って、悩んで、苦しんでくれて。そんな愛する菖蒲の手をとり、闇の領域(せかい)を導くことができて、ミモザはとてもうれしくて、なにより幸せでした。
——だから、大事なアヤメがそうであってはいけない。これはあたしの愛するアヤメなんかじゃない。
 ミモザはあきらめずなんども、くり返し菖蒲に優しく語りかけます。
「ねえアヤメ。あたしはあなたとの約束をずっとおぼえてる。おぼえているの。あたしはアヤメの美しい琴線(きんせん)を持っているから。あたし、アヤメのためになんだってしたい。いまはもう自分のすべてをあげてもいいとさえ思える。もう、あたしのぶんはなんにもいらない」
「でも、ミモザ!」
「ううん、だからこそ」ミモザは両手でアヤメの両手をぎゅっとにぎります。「わかれるときくらい、あたしの大好きなアヤメに笑顔でいてほしい。また会おうって、明日また遊ぼうねって」
 菖蒲はだまってうつむきます。
 怒りでこわばった菖蒲のほおにミモザは右手でふれてから優しくなで、じっと彼女を見つめ、いよいよ心に、交わすふたりの声はひとつの歌のようにつめたい闇全体に広がりました。

  あなたは聞くでしょう
  吹き(すさ)む非情な風を
   それでもあたしは越えよう
   あなたは清らかな琴の音

  あなたは歩くでしょう
  光届かぬ闇の(ふち)
   それでもあたしは望もう
   あなたは空にまたたくアメジスト

  あなたはつなぐでしょう
  凍てつく孤独(こどく)の手を
   それでもあたしは耐えよう
   あなたはあったかな暖炉(だんろ)の炎
  
  あなたは抱くでしょう
  (みにく)いわたしの本心を
   それでもあたしは愛そう
   あなたが与えてくれたわかつ心
     
  いつだって いつだって
   いつまでも いつまでも

「……よかった。いつものアヤメが帰ってきたわ」
「わたしのミモザ! また会いましょう。会って一緒にお買いものをして、一緒にお茶を飲んで、一緒に旅するの。あなたと見たいものや知りたいことがたくさんあるわ。いっぱい、いっぱいよ……」
 あふれる想いを伝えたとき、菖蒲が笑顔でいられたのか、それとも悲しい顔だったのか、菖蒲にもわかりません。まっ暗闇だったからです。でも、ミモザだけは知っています。ミモザが最後に闇で見えたのは、大好きな菖蒲の顔だったからです。
 菖蒲は手をふってうす暗い階段へ、彼女の背なかを見送るミモザはやがて深い闇へと消えてゆきました。

通路の消失点Ⅲ

通路の消失点Ⅲ

 うす暗い階段をおりたら等間隔(とうかんかく)に窓が並ぶ白い壁の通路がずっと奥までつづいていました。あまりの長さで先は見えません。菖蒲は通路にたたずみ、しんみりと懐古(かいこ)の情に満たされました。
 干しわらになった王子さまを王座に残してからどれくらい過ぎたのでしょう。いつのまにか時はたち、いろんな仲間と出会い、わかれましたが、再びまっ白な通路に帰ってきたのです。まるで時計の針が12時から12時へ一周したように。
「それなら、アヤメは0時に出発したことにして、たぶんいまは12時ね。そうするとつぎは……24時にしよう。よかった、あなたもう一周できるわよ」菖蒲はくすりと笑います。
 やがて階段が小さくなって一つの点のように見え、前後の点はいつまでも大きくなることがありませんでした。菖蒲は右下、足元あたりに目をやると、やはり白い壁に文字が書いてありました。

  『ミエルモノガサキデワナイ
    ケレドミエナクバサキニワユケナイ
     ゼンポウチュウイ 
      アシモトチュウイ』

 菖蒲はこの壁の文字のナゾナゾについてじっくり考えてみることにします。
 まず〝ミエルモノ〟とはなんでしょう。
「それはきっと〝サキ〟よ。ここでいう〝サキ〟とは通路の先に見える点のことかしら。でも……」
 文字のつづきは〝デワナイ〟と否定しています。
「じゃあ通路に見える点が〝サキ〟ではない、ということよね」
 それはあの時にもわかっていました。ですから菖蒲は〝サキ〟を手で隠して進もうとしたのです。一度目は木の扉にぶつかり、二度目は地面の扉に足をひっかけましたが。
「考えてみれば二段落目の文字は〝ケレド〟とつづいているわ。〝ミエナクバ〟とは、どういう意味かしら?」
 見える消失点をかくし、見えないようにしながら先へ進むこと、それがこのナゾナゾの答えであると菖蒲は解釈(かいしゃく)しました。じつのところ、消失点をかくしながら進んでも〝ミエナクバサキニワ〟行けなかったので、実際にはナゾナゾの正しい答えではありませんでした。
「ということは、ここにあるいずれかの文字の意味をわたしはかん違いしてるってこと?」
 菖蒲はふと、おじぃの言葉が頭に浮かびました。
「おじぃは天体観測所で、闇の階段をおりた先の通路をぬけたところがおそらく『中庭にもっとも近い場所』と説明してくれたわ。だからわたしがいまいるこの通路の先がおそらく『中庭にもっとも近い場所』になるはず」
 菖蒲はこれまでの考えをまとめてみます。
 まず〝ミエルモノ〟とは『通路の消失点』でしょう。その消失点の〝サキデワナイ〟つまり、『中庭にもっとも近い場所』ではないというわけです。でも〝ミエナクバ〟『中庭にもっとも近い場所』にはいけません。ではどうやって〝サキ〟を見ることができるのか。
 菖蒲は文字をながめ、おじぃとの会話の意味をひとつずつ、注意深く思い返しました。
————
「むずかしい表現をすると、扉のない中庭は形而上(けいじじょう)のもの、形で表せない空間ということになる。つまり扉のない中庭は有るが無い場所といえるかもしれん。ところでアヤメちゃん、心とはどこにあると思うかね?」
「それはわたしの内にあって、胸のあたりでしょうか。でも考えることは頭のほうにあるような」
「はっはっは。とても直感的でいい答えよ。内にある、とはおそらく正しい。でも頭は心と呼ばれるものを認識しているにすぎん。また多くの場合、胸に知覚させたりもする。とどのつまり、心は有るには有るが実際にどこにあるか、そもそもあるかどうかすらだれも知らん、たとえば生命もそういえるかの。アヤメちゃんのいきたい中庭はまさに神秘的な園なんだよ」
「そこで、だ。若い時分、中庭に入るため記憶からたどってみた。心が〝存在する空間〟として、つまり扉のない中庭そのものを心、中庭の壁は時間軸内におけるあらゆる記憶と仮定する。思い返しても身震いするが、まったく記憶のない、いわば無垢(むく)の状態から心にゆけるか、わしはアプローチした。結果としては近くまで、といった具合よ」
————
 菖蒲は残りの〝ゼンポウチュウイ アシモトチュウイ〟という文字を指でなぞります。これはいわば菖蒲が通路を通るたびに(はな)った声が言葉として壁に書かれた文字でした。それでこの通路の白い壁は『言葉の描写(びょうしゃ)』というわけです。では最初のふたつの言葉を声に出したのはいったいだれなのでしょう?
「もしかしておじぃ、これはおじぃが書いた言葉なのね……そんな、まさか!」
 通路の仕組みを知った時、いなずまが走るように菖蒲の全身はぶるぶるっとふるえます。
〝サキ〟つまりなんと、この場所そのものが『おそらく中庭にもっとも近い場所』だったのです!
 菖蒲は旅のはじまりに目的地の一番近くにいたわけで、見えるけれど見えないとは、ただそのことに気づくこと、認識さえすればよかっただけでした。しかし、だれがあのとき通路に書かれている文字がおじぃの言葉だと、それに扉のない中庭にもっとも近い場所だとわかるでしょうか。
 では、菖蒲のこれまで旅した時間は無意味なまわり道だったのですか?
——そうさアヤメちゃん。大切な一瞬をすくいとれれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら(いと)おしく感じるものさ。
 遠くからおばぁが語りかけてくるようで、菖蒲は顔をゆるめました。
「おばぁ、わたしはいま、たしかにそう思えるようになりました。そしてこれからも」
 そうです。ここまで歩いた長い旅路はどれも菖蒲の愛おしい思い出となっていたのです。

もっとも近い

もっとも近い

 チン、チリン、チン……
 ガラスの器を指ではじいた音が不規則なリズムで聞こえたかと思うと、いつのまにか壁に書かれていた文字の羅列(られつ)窓枠(まどわく)は、白化(はくか)したサンゴの破片(はへん)のようにボロボロくずれてサラサラな砂の中へうまっていきます。
 菖蒲の目はごく自然に周囲の環境を知覚しようと天地の境界(きょうかい)や、ころがる石を線で印象(いんしょう)づけ、純度の高い石英のように透明な形にも見えますが、どこまでも広がる荒野に光の反射はなく、それぞれが視覚的に最小限の白があてられ、菖蒲だけぽつねんと色を(はい)していました。もちろん砂漠(さばく)のような照りつける暑さや()てつく寒さもなく、風すらふいたことのない、ただただ静かで不可知(ふかち)領域(せかい)でした。
 ぐるり見渡せば、まっさらなキャンバスと思っていた荒野(こうや)に同じ足跡(あしあと)(そう)方向、遠くに向かう足とこちらにやってくる足が菖蒲の前にくっきり描かれていました。風化することなく、まるでついさっき未開の地に上陸した旅人がきざみつけた記念のように。
「これはきっとおじぃのだ。ここを歩いた跡がそのままのこっているんだわ」
 菖蒲は長い旅のすえ、ようやく『中庭にもっとも近い場所』にたどり着きました。
 偉業(いぎょう)を成しとげた感慨(かんがい)にふけるのもそこそこに、やわらかい砂に足をいれ、歩きはじめます。どこまでもつづく白い荒野をはじめにふみ進めたおじぃはいったいどんな気持ちだったのだろうかと考えながら。がっしりした登山ブーツに大きなナップザックを背負い、カタンコトンとケトルやマグカップを打ち鳴らしながら、未知への好奇心にあふれた青年の幻影が前を歩いています。不意に青年がふりむき、こちらを見て何かを感じたのか目をきょろつかせ口元が数回動き、また新しい足跡をつけていきます。
 菖蒲は彼の足跡にそっくり足を重ね、踏みはずさないようついていきました。ほんのすこし前まで、暗がりの道をミモザに手をひかれ歩いていたときもそうでした。菖蒲が彼女の手を離したら文字通り暗中模索(あんちゅうもさく)、あの暗闇のなかでさまよい続けたことでしょう。
「そっか、いまもおんなじだ。もしおじぃの足跡がなかったなら、もっと怖かったはず」
——わたしはゆくべき場所にむかって導かれているのかな。それともわたしが選んでいるのかしら。あるいはどちらもなの? まっ白な世界に道がのびていることは本当に幸せなのかしら。でも、もし道筋がないとしたら、はたしてわたしは広漠(こうばく)とした荒野(あらの)にいずれかの意味を見いだすことができるの?
 人生の雑踏(ざっとう)。人はゆき(めぐ)り、風のようにあらわれては消えてゆく。わたしはいつもひとりぼっち。にぎられた友の手を離し、時針に背中をつつかれながら、それでも前に進めと。恐れてはない? ねえアヤメ。
 うん、そうだ。わたしは導かれることも自由に選べることにだって感謝しよう。ときに手をひかれ、偉大な足跡(そくせき)をたどることも、わたしが物語のおしまいをまっとうしなければならないとしても、ただありがとうって。そしてわたしは笑顔で「またね」と手をふるんだ。いつか会えるように。だれかがわたしをあざけったとしても、わたしは気にしない。わたしはアヤメを知っている。なによりアヤメはあなたを知っているのだから。
 新しく胸がいっぱいになった菖蒲はもうどこにでも飛んでいけそうなほど軽やかな足取りで歩き続けました。ゴールテープがすぐそこまでやってきて観客の歓声を一身にあびながら両腕をあげるような満足感で最後の足跡をふみしめました。
 はあはあと息をきらし、立ちつくす菖蒲。
「……やっぱり、あの中庭に扉なんてなかったのね」
 ポツリとそう言ってからひざを落とし、へたりこみます。
 なぜ反対をむく足跡もあったのか、やっとわかりました。これを目の当たりにしてひき返したのです。
 果てしない皆無(かいむ)。プッツリとぎれたように先はなにもありません。まったくなにも。
 菖蒲が遠くに見えたのは、地平線ではなく断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)のふちでした。前もうしろも左右どちらも、何もかも全部が(はし)だったのです。
 こんな(がけ)っぷちからどうしてあの中庭にゆけるでしょう。もう手がかりはすべてなくなりました。菖蒲の頭は地平線のかなたまで、いいえ、失われた境界から望める白妙(しろたえ)()てのようにからっぽになりました。
 終わりのなき遠景は菖蒲に挫折(ざせつ)を小声で伝え、かわりにかすかな希望(きぼう)を取り去りました。地面にあおむけになり、砂に身をしずめます。空とも雲とも呼べない無色の天はよけいに無力感をもたらし、はあっとため息をつくと、さっきまでの気まぐれな高揚(こうよう)は羽をつけてあっというまに飛んでゆきます。
 菖蒲は横にうずくまって顔を(おお)い、くつくつと笑いました。それから肩がゆれ、鼻をすすります。
——本能的な恐怖、というのが正しいのか……わしはなアヤメちゃん、好奇心と無謀(むぼう)は結びつかん性格なのだよ。
「おじぃ、あなたの言葉は正しかった。それでも(おそれ)は意地でなんとかできるものだと、わたしは本気で信じていたのです」

 菖蒲は赤い宝石のついた指輪を首かざりからはずして、しばらく指輪をいじっていました。彼女の力となってきたこの赤い指輪はグレエンが伝えたとおり、使うごとに記憶が消えてなくなる【忘失の約束】がかけられています。それで菖蒲は旅の始まりで【忘失の約束】に条件をつけました。
 まず右手を自分の領域(せかい)、つまり過去の記憶に、左手は王子さまの領域(せかい)つまり現在と未来の記憶にふりわけます。そうすれば何をすればよいか忘れることはありません。もし、右手の指すべてに指輪をはめてしまったなら、今度は王子さまが燃える影と交わした 『干しわらとなり、かわききった王子さまのくちびるを、この世界のものではないひとりの少女が心の井戸から汲んだ水によって潤す』 という【干しわらの約束】が守れなくなります。それで指輪の力を使えるのは多くとも四回までです。限られた回数でしたので菖蒲は指輪の力をできるだけ慎重(しんちょう)に使うよう気をつけていました。では、残る最後の右手親指の記憶はなんでしょうか。おそらく外の領域(せかい)からきた菖蒲であることです。それにしても菖蒲の記憶を代償(だいしょう)に菖蒲を失うなんて。
 菖蒲は起きあがってひざまずき、指輪とむきあいます。輪っかに親指を通そうとしても、右手は拒否するようにガタガタふるえ、どうしてもすれ違います。他のもののため、あれだけためらわずつけていたはずなのに、今回ばかりは自分の意志を指輪にゆだねることへのはかりしれない恐怖と戦わなければなりませんでした。
 しかしこれしか方法はありません。風がやんだ大海原のまんなかで、帆船(はんせん)がどこにも進めなくなるように、これからなにをすればよいのかわからなかったのです。いくら考えても答えはでません。ここにくればなにかがあると思っていました。針の耳ほどでも先は探せるはずだと。しかし菖蒲につきつけられたのは、ただのまっ白い何もナイ世界です。
——だったらいっそのこと指輪にわたしを。
「王子さま、みんな、わたしは約束を守れなかった。ごめんなさい」
 ついに指輪が右手親指の関節をくぐり、根元にピタリとくっついた時、赤い宝石は火花を散らし、こうこうと燃えます。すると純白の世界に一輪、大きなヒガンバナがゆっくりほころぶように赤く染めあげていきました。
「ねえミモザ」薄れゆく意識でぼんやり()える赤い花がなんだかとても美しくて、菖蒲はうれしそうに目をほそめます。「なんてきれいなんでしょう。いつかあなたと一緒に……」

扉のナイ中庭

扉のナイ中庭

 そこは中庭でした。
 ピンと糸を張った緊張(きんちょう)感につつまれ、風は息吹(いぶき)をやめ、しんと静まりかえり、ただ荘厳(そうごん)さだけが静謐(せいひつ)をまとって空間全体にただよっています。まるで高くつみあげられた積み木の尖塔(せんとう)に建つように、微細(びさい)な空気の振動ですら崩壊(ほうかい)へかたむこうとしました。
 中庭においてあらゆる形は均等に分け合い、長さと太さのそろった青草が一面に生え、縦横比約一対一・六一八の長方形の地面と相似(そうじ)である無機質な窓は四方をかこむ磁器のようになめらかな乳白の壁に等間隔(とうかんかく)でならび、上方までずっと続いて天井はなく、やわらかい光の粒がぽつぽつと中庭の井戸にむかって降りそそいでいました。
 長い黒髪の少女は生まれた時のままで、いつからまぶたを開けたわけでもなく、ただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)とあおむけになっていました。
 光の粒が目にとけこみ、まぶしくなって右手をひたいにあてます。親指にはゆらゆら赤く燃える宝石つきの金の()がはめてありましたが、彼女は気にすることなく、しばらくそのまま静止していました。やがて、右腕が重たくなったので、ゆっくり上体をおこし、周囲を観察しはじめます。
 オリバナムとミルラがほのかに(かお)る中庭の中心には空気のような大理石の白い井戸がうず巻き、ふきぬけからそそぐ光のつぶと混じりあってピカピカかがやいています。そのまわりを大きくかこむように四隅に4本とそのあいだに2本、まったく同じ(かたち)をしたリンゴの木が合計6本、整然とならんでいました。
 なぜここにいるのでしょう。少女にとってはまったく関心のないことでした。実際、少女は自分がだれであるかすらわかりません。そうした記憶がすべてないからです。そもそも〝わたし〟とはいったいなんでしょうか。なにをもって〝わたし〟といえるのでしょう。
 少女はむしょうに親指にからまる異物を取ってしまいたくなりました。この気もちわるい指環(ゆびわ)のせいでしめつけられ、息苦しく感じるからです。ハーネスをはずした馬のように自由になろうと——それにしても〝自由〟とは?
 不快な輪に左手をかけようとしたとき、少女の肩になにかがそえられ、顔を横にむけるとなめらかな手が、そこからふんわりとした心地よさで全身は満たされます。
 少女は体をひねり、手から腕へ視線をうつして、うすい(きぬ)をまとい、つばの大きな白い帽子をかぶった美しい女の園丁(えんてい)と顔を合わせました。 
 目を大きくして口元がゆるみ、今にもキャッキャと笑おうとする少女のぷっくりとやわらかなくちびるに、園丁の女はふうはり指をあて、右手の親指をにぎってから少女の目をのぞきこみ、首を横にふります。あたかも「それをしてはいけない」と伝えているかのように——でも、なぜ?
 園丁の女は少女から離れ、リンゴの木へ少しも音を立てずに空気のようにすうっと近づき、みきを優しくさすり、となりの木も同じく、そのとなりの木も、といった具合に6本の木を一本ずつ、ていねいに同じところを同じ回数なだめていたのです。

 どれくらい時間が経過したのでしょう。といっても、この中庭は時間に支配されてはおらず、物体に制約された、たんなる空間でもありません。あれから園丁は少女を気にもとめず、(えん)々りんごの木を愛撫(あいぶ)していました。もはや少女は指環への興味をなくし、笑みを浮かべながら丸い目がじいっと園丁を追いかけ続けました。まるで繰り返される音楽に合わせ動く機械人形のように。
 きっかけは本当になんでもないしぐさでした。少女が左手で右手首にふれ、金の輪っかが引っかかります。ふしぎそうに手首を曲げてきらりとひかる()っかを見つめると、少女の顔をうつし、こちらの目とむこうの目が合いました。そのときはじめて、これはなんだろう、なぜ見ているのだろうと考えはじめます。
——あなたはだれ?
 すると突然、たががはずれたようにいろんな感情がいっぺんに四方八方おそってきて、喜びがくすぐったかと思ったら、哀しみが引っぱります。怒りで熱くなったり、楽しくてうきうきしたり、むなしくなって沈んだり、恐れたり、安心したり落ちこんだり……もうへんな気分です。
——どうしよう、わからない。なんだろう。わめけば。
 しかしくちびるに残った園丁の指のぬくもりが少女の口をぴったりとくっつかせ、どうにも開いてくれません。少女はおなかをかかえ、眉間(みけん)にしわをよせてむせび、彼女の周囲にある青草たちがにわかにさわぎたちます。しぼりでるように雫がひとつこぼれると、夕立のようにボロボロ止めどもなく目からたくさん水が流れはじめ、ほおをつたって落ちていきます。でも悲しいのかうれしいのか、なぜこれほど水があふれ出るのかわかりません。
 少女は必死に滝をせき止めようと手でぬぐいますが、いくらやっても止まらないのです。どうしようもなくなり、金の腕環(うでわ)にひたいをあてて力をこめながら、目を閉じてしまいます。

——まっ暗な居場所。ああ、ここならだれも責めはしないなのね。でもここはどこかしら。
 ほっとする少女に、感情は余計からかって少女のまわりをかこみ、くすぐったり、おしたり引いたりします。
——やめて、やめてっ。
 闇の中で少女が苦しんでいると、ふいにささやき声が遠くから、やがてこちらに近づいてきて、はっきりと聞こえるようになります。
「あなたの大切な人のために水を」
——あなた?
「あなたの(した)う人の(かわ)いたくちびるに井戸の水を」
——人は?
「あなたの想う人のために水を」
——水は? わたしとはわたし?
「あなたの愛する人の乾いたくちびるにあの井戸の水を」
——わたしは……わたしは……

 少女はおそるおそるまぶたを開き、バングルにうつるゆがんだもうひとりの少女をじっくり見つめます。それから顔をあげて、なんの意図もなく自然に肢体(したい)が動き、そろりと立ちあがると、涙でかすむ中庭の井戸へ重い足どりで歩きはじめました。
 園丁は手を止め、少女の様子を心配そうに、はじめて立ち、ふらふらとこちらへむかってくる赤子を見守る母親のような面持ちでながめていました。それでも、感情をできるだけ表に出さず、あくまで中庭の園丁として少女の歩みを注視(ちゅうし)していたのです。
 言葉にならない言葉が飛びだしてきてはぐるぐるとまわり、少女をさらに悩ませます。なにかを果たそうとする強い意志と、それをさせまいとする抑止(よくし)力は彼女の限界を無視し、絶えずせめぎ合いました。
 ふみしめた青草はしなびて()れ、そこに多量の汗と涙がまじりポタポタ落ち、汚された地面は足から全身に切り()かれるような痛みを少女にあたえます。少女はなんどもなんどもくずおれてうずくまり、おきあがっては井戸に近づこうとします。なにもない少女にとって今やまったく意味をもたない行為(こうい)ですが、そこにむかって歩き、たおれるのです。
 はりさけそうな胸の内を誰かに理解してもらおうと叫びたいのに、思いきり吐きだしてしまいたいのに、両手を口にあて、ぐっとこらえます。あらゆる音の振動によって中庭の精緻(せいち)均衡(きんこう)をできるだけくずしてしまわないよう、ただそれだけの理由で静かに、ゆっくりと慎重(しんちょう)に歩かねばなりませんでした。
——でも、なんで? なんで?
 なさけ容赦ない疑問の言葉は針で少女の体をさし、また石をぶつけ、ついに少女は井戸の手前、すんでのところでもだえ、動かなくなります。
 それでも()むことなく、なんで? なんで? なんで? なんで、と。

「答えられないから辛いの。でも、あの声をたしかに知っている」
「おまえはなにも知らないくせに」
「確かにそうよ。でも、あの声は知っている」
「声はおまえに嘘をついているのだ」
「あの声が嘘をついているのなら、それでもいい」
「なにがいい、その嘘でおまえはこんなにも苦しんでいるのに」
「どうなったっていい。でも、あの声は知っている」
「なんとおろかな。嘘を信じて苦悶(くもん)するとは」
「それでいい、それでいいの。あの声を知っているのだから」
「そうやって自身を納得(なっとく)させ、なぐさめたいだけなのだ。身勝手な人間め」
「そう、奔放(ほんぽう)な女よ。だからりんごの木は1本なくなった」
「全部、全部おまえのせいだ。たったひとつの過ちでなくなった」
「だから井戸を、あなたにだれかをうるおす水を湧きあがらせたかった」
「ではそうするがよい。しかしおまえのことをけっして忘れはしないだろう。こうしておまえにいつも呵責(かしゃく)をあたえるのだ」
「わたしは願う。いつか、中庭の井戸にりんごの木を。こんどは豊かに実を結ぶように。そうしたら、どうか許してほしい。それまで、さあ強く()きあがれ!」

 中庭は雪が舞い上がるように分解していきます。
 少女は力をふりしぼり、白い井戸のふちに左手をからませ起きあがると、王子さまの記憶と少女の想いでかたどった金の小ビンを右手に持ち、ふたを開けてから息を止め、ふるえるその手をふちいっぱい、ひたひたに張られた透明な井戸の水のなかへ、そしてできるかぎり水紋(すいもん)を立てないようにそっと汲みました。温かくも冷たくもない空気のような水は自ら、ちょうど必要な量だけ小ビンにむかっていきます。
 水が入った小ビンのふたを完全に閉めると、最後に残った井戸もついにはらはら(・・・・)とくずれさり、少女を一緒に取り去ろうとしました。
 その時、うしろから優しく抱きしめられます。
 冷たくなった少女の肌を守るように慈愛(じあい)が、すべての息を吐いて肩を落とし、緊張(きんちょう)はほどけ、力なく目をすっと閉じます。
「ねえ、なぜ泣いているの?」
「それはね、わたしがあまりにも無力だったからよ」
「そんなことないわ。あなたはわたしを助けてくれた。わたし、知っているもの」
「あなたが井戸の水を汲むまで、わたしはすこしも手を出すことができなかった。これだけ近くにいるのに、あなたはなにもかも捨てたのに、たくさんの痛みのこれっぽっちも負ってあげられなかった」
「わたしは泡になってもいいとさえ思った。でも、あなたがわたしの肩に手をのせたとき、わたしのくちびるにそっと指をあてたとき、わたしの右手にふれてくれたとき、わたしが井戸にむかって赤ん坊のように歩いているときさえ、優しく励ましてくれたから、だからわたしはここにいる」
「ごめんなさい、アヤメ」
「ありがとう、リリィ」。

たりないもの

たりないもの

 数日、数十日……菖蒲は長く高熱にうなされ、ベッドで横たわっていました。
 菖蒲のそばに寄りそうリリィは、ひたいに氷をあてて汗をぬぐい、水や重湯を口にふくませ、ふるえる体を抱いて頭をなでました。
 来る日も来る日も懸命に世話を続けていたある日のこと。菖蒲は目をぱっと開け、ハアハア息をあげながら、もうろうとした意識のなかでリリィを見て言いました。
「はじめまして……わたしはアヤメ。干しわらになってしまった王子さまをもどすためにここへきたのよ」
「はじめまして」と、リリィは赤くほてる菖蒲のほっぺたにそっとふれます。「わたしはリリーフロラよ。リリィって呼んでね、アヤメ」
「……リリィ、わたしね……わたし、知りたいこともあるし、教えたいこともたくさんあるの。だから……ねえ聞いてくれる?」
「もちろんよアヤメ。でもいまはダメ。あなたはたくさん傷ついたから、ゆっくり休まないと」
「ありがとう。わたし、うまくやれたかしら? 王子さまもどるかなぁ……よくなるといいな」
 かすれる声を吐きだすように菖蒲は自然と目を閉じて、再び眠りに落ちます。
 こんなにちいさな女の子がたったひとりの王子さまためにここまでするとは。リリィは愕然(がくぜん)とします。
「あなたはなぜ、なぜ与えつづけるの?」
 リリィはその答えを探すように、衰弱(すいじゃく)してゆく菖蒲に対し、たっぷりの愛情をそそぎました。でも、穴だらけのふくろに水をたくさん入れても水はダラダラもれてしまうように、愛を受け入れる力を失った菖蒲にどれほど愛をそそいでも回復はしません。それでもこの方法しかなかったのです。
 菖蒲をいやす薬は世界中どこにもありませんでした。なぜなら彼女のたりないものは誰もがみな持っていますが、目には見えず、たったひとつしかない、とても、とても貴重なのものだったからです。菖蒲は指輪の大きな力でそれを分けあたえ、記憶のひびから強引に中庭へ足をふみ入れました。すると決壊(けっかい)した障壁(しょうへき)に意識や思いや感情などがどっと流れ、みるみるうちに菖蒲であることを壊してしまいました。
 中庭の井戸は何人(なんびと)たりともふれてはならず、近づくことも許されないほど繊細(せんさい)です。それで中庭にはじめから扉はありませんでした。枯れてしまった井戸は水を失い、もはやアヤメの花はしおれてゆくばかりです。
「わたしはどうなってもいい、お願いします。この子だけは、この子だけは助けてください。毎日、毎日、苦しみ弱り果てる姿をわたしは見ていられない」
 苦悩(くのう)吐露(とろ)するリリィは菖蒲を失う恐怖と焦りで胸がつまります。どれほど献身(けんしん)的に看病(かんびょう)しても、たくさん愛情をもってふれても、彼女の命はどう見ても風前の灯火でした。たりないものがリリィか、それとも菖蒲なのか、まったくわからないのです。
「いっそわたしを拒否してくれたら、むしろ憎んでくれたらいいのに、そうすればあなたはよくなるかもしれない。でもあなたがなにも求めていないのはなぜ?」
 自分の無力さを呪うようにリリィが問うと、菖蒲は不安げにリリィを見て、こう答えました。
「だって、そうしたらわたしに嘘をつくことになるから……わたしは約束したのよリリィ……わたしはわたしにもう嘘はつかないと。だから、井戸は手おけほどの水を汲むことをゆるしてくれた。わたしは王子さまを助けると決めたときからこうなることを受け入れたの。だから……お願いリリィ、わたしのためにわたしのこと嫌いにならないで」
 リリィは首を横にふり、たまらず目から涙が、ポタポタ菖蒲にこぼれ落ちていきます。
「わたしは好き、アヤメのことが大好き。わたし、中庭からあなたをずっと見ていたのよ。気づいていたでしょう? あなたがとってもステキな女の子で、どんなおどろくことだって成しとげる強い子だって、わたしは信じて待ってたわ。だからはやく元気になって、一緒に王子さまのところに帰りましょう、ね?」
「うん」菖蒲はうれしそうにうなずきます。それから目を閉じて耳をすませ、「今日はどしゃ()りね。じゃあ明日はきっ……」
 安心してふーっとおだやかに息を吐きました。
 リリィはわっと声をあげます。家の外まで聞こえるほど強く、大きな声で。
——わたしの(つゆ)でアヤメを返してくれるのなら、もし、幾万の涙がアヤメの慈雨(じう)となるならば、わたしはいつまでもふり続けよう。

 しばらくして、鍵がかけられているはずの家に見知らぬ訪問者が扉を開き現れます。それから走って急ぎ寝室へ、菖蒲にすがるリリィのうしろで息をきらし、立ち止まりました。
「リリィ!」胸に両手をおしつけ、強くこぶしをにぎりしめます。「あなたのことはアヤメから聞いています。あたしはアヤメのためにやってきました」
 リリィは涙で()らした顔でふり返ると、そこにいたのは菖蒲と同じくらいの女の子でした。
「あなたは」
 ふりしぼるようなリリィの声に少女はこくりとうなずきます。
「あたしはミモザ、ミモザといいます。大好きな友のさけびが闇でさまようあたしに、強く伝わってきました」
 ミモザは菖蒲に近づくと菖蒲の右手に左手を重ね、ふたりのバングルは再開を喜び、チリンと音を鳴らします。
「ねえ知ってる? アヤメ。中庭であなたにささやいていたのはあたしよ」耳もとでひそひそとミモザは話しました。「今からあなたとした約束を果たすの。こんどはアヤメからもらった大事なものを返して、あたしのをあげるばん。いいよね、ゆるしてくれるでしょう? もしいつか、天高くのびてりっぱにそびえ立つクスノキのように、あなたが元気になったなら、そのとき、あたしはあなたの木に宿る黄色い小鳥になる。ぜったい、約束よ」
 ミモザは優しくキスをし、おでこを菖蒲のおでこにあてました。
「あたしにミモザをくれてありがとう。ほんとうにうれしかった。だから名前だけはあたしのものよ、アヤメ。あなたには返さないから」
 菖蒲の両手をしっかりと強くにぎりしめ、ミモザはたりないものを菖蒲に返し、自分のすべてをなにもかも菖蒲にあたえました。こうして、陽がさした影は満足そうに消えていったのです。
 すると、菖蒲の右手の親指にはめていた燃える赤い宝石のついた金色の指輪は火花を散らして砕けさり、つむる左目から一しずく、キラキラとかがやく真珠のような涙がこぼれ落ちます。
 菖蒲はそのときから熱がひいて、もうすっかりとよくなっていきました。

むかしむかし

むかしむかし

「おとぎ話にでてくる王女さまは王子さまといつまでも幸せだったって本当かな。リリィはどう思う?」
 ベッドで身を起こし、アイボリーカラーの厚いミルクガラスのマグカップを手に菖蒲は質問しました。
「そうねぇ」リリィはベッドそばのイスで菖蒲のブラウスに()しゅうをしながら「いつまでも(・・・・)幸せであることと、いつも(・・・)幸せであることはちょっと違うとか」。
「おもしろい考えね、つづけて」
「物語の余白(よはく)ではいざこざもあったんじゃないかしら。たとえば食事のとき、サラダとスープどちらから手をつけるか、タマゴが先かニワトリが先かって論争みたいな。わたしはグレエンと洗たくもののことでよく言い合いになるし」
「なにそれ」菖蒲は甘いホットココアを口にしてから、「どっちでもいいことじゃない」。
「それがね、夫婦のいざこざなんてまったくつまらないものなのよ、アヤメ。服と下着はべつにして洗ってほしい、とか。ああ見えてグレエンはめんどくさい人なんだから。まあでも、わたしが〝そんなに大事なパンツなら自分で洗いなさい〟って言うと、彼はしょんぼりしながらひとりでゴシゴシ洗うわ」
「ふーん、グレエンの意外な一面を知ったわね。わたしといた時はそんなわがまま一言も言わなかったもの」
「もちろんよ。だってアヤメはグレエンの王女さまじゃないから」
「そっか……ねえ、じゃあ、どうしてリリィはグレエンと結婚したの?」
「うーん」リリィはしばらく考えます。「たぶんおとぎ話の王女さまと同じ気持ちか、語り手の願いなのかな。もしくはそうあってほしいだけなのかもね」
「ちょっと、なにそれ」菖蒲は目をほそめながら、「わたしが子どもだからってごまかしてるでしょう?」
「ふふっ、だってアヤメも好きな人とおとぎ話のような恋であってほしいから」
「リリィずるい。いじわる!」
 ふたりは大笑いします。
 あれからリリィの介護もあって、菖蒲はベッドの上で楽しく話せるようになるまで元気を取りもどしました。
 リリィはよく山あいの国のお話を菖蒲にしました。グレエンや干しわらになった王子さまがまだ幼いころ、どれほど活発で手を焼く男の子だったか、それにキジ三毛のモルトは由緒(ゆいしょ)ある王族ネコだったという話も。
「彼自身はそういうのが(しょう)に合わないって、さすらいネコとして山あいの国に来たのよ」
「旅ネコの話は嘘じゃなかったのね」菖蒲はモルトのひょうきんな顔を思いだしてくすりと笑い、「それに王さまごっこをした時、従者役をいやがる理由も」。
 菖蒲とリリィのやりとりは、むかし落としてしまったものを探しにゆく旅と似ていました。ぶらぶら過去の森を散策(さんさく)しながら夢の広い草原に出て、見守るニレの木陰(こかげ)で休み、カサカサふく風とこすれる葉のおしゃべりに耳をかたむけます。菖蒲は寝っころがって草まみれのままリリィに抱きつき、手をつないで前に走ったり、ぴたり止まってぎゅうっと腕をひっぱり、家へ帰るまでリリィのかたわらではしゃいでいました。
 もちろん、中庭でのことやミモザが与えてくれたものを菖蒲は知っていましたし、リリィが口にしないよう気をつけていることだってわかっていました。それで、いつかそのときがくるまで、胸の引きだしのすこし奥に閉まっておこうと思ったのです。
 リリィとの旅も順調に、菖蒲はもっと良くなり、身のまわりのことがひとりでできるようになった日。菖蒲がベッドで考えごとをしているとリリィが近づいて、そばに腰かけます。
「どうしたの、リリィ。おやすみを言いにきたの?」
「そうね」と、菖蒲の頭をなでて、「菖蒲がよくなってわたしはとてもうれしいわ。だからいま、わたしたちのおとぎ話を話したいなって」
「リリィの?」
「そう。でもアヤメが知りたいなら、だけど」
 菖蒲はリリィをじっと見つめてから笑顔で「もちろんよ。大好きなリリィ」。
 リリィはほっとしたように菖蒲を胸に抱きよせ、ゆっくり話しはじめます。
「まずはそうね……いきなりびっくりするかもしれないけど、わたしたちはアヤメと同じ領域(せかい)に住む女の子だったのよ……」
 むかしむかし、菖蒲が生まれるまえの話です。ふたごの姉妹はお父さんもお母さんも知らず、施設(しせつ)()らしていました。ある晩のこと、姉妹は菖蒲のように招待されて干しわらになった王子さまの領域(せかい)にくることになります。
 招待したのは干しわらの王子さまのお父さん、つまり山あいの国の王さまで、もうひとりはグレエンでした。
「ふたりは兄弟なのよ。王さまが兄でグレエンが弟。それにわたしはふたごの姉妹の妹よ」
 菖蒲はたいそうおどろき、「でも、グレエンはわたしに〝王につかえる風車の監視役〟とだけ紹介していたわ」。
「もうひとつの役割を言っていたのね。おそらく【口止めの約束】の力を得るためアヤメにすべてを伝えなかったんだと思う」
「思い返せばモルトやアルビレオも、わたしに話すことを選んでいるみたいだった」
「興廃の丘のお話はグレエンから聞いたかしら?」
「うん、高い城壁に囲まれた王国が滅びたのよね」
「東の風車のあたりにとても大きなお城があって、もともと山あいの国の人々は戦乱(せんらん)から(のが)れた一部の王家と臣下(しんか)だった」
 領域(せかい)を巻きこむ大戦がはじまる前夜、争いを避けるように祖国(そこく)をあとにした人々がいたのです。当然、()える影は国に背を向ける彼らを見過ごすはずがありません。
臆病(おくびょう)な反逆者どもめ。おまえらがコソコソと逃げ隠れるのを(われ)が黙って見ているとでも思ったか。もしおまえらがただでこの城壁の大門をくぐろうものならどうなるかわかっているだろう!」
 燃える影にそうおどされた彼らは家族を守るため、しかたなく契約を結ぶことにしました。
 国を逃れ、燃える影が干渉(かんしょう)しないかわりに世界を統べる王国のため、何も知らない子供をひとり与えるというもので、【安寧(あんねい)の契約】と呼ばれ、燃える影は代々王家の長子を求めました。
「でも深い山あいに移り住んで最初の王子さまを送り出そうとしたとき、ひとつ大きな問題が起きた」
「王国が滅びたのね!」
「そう、そして世界を()べる王も側近(そっきん)の手にかかり……」
 戦争は領域(せかい)に大きな荒廃(こうはい)をもたらしつつ終わりました。山あいの国の民は災厄(さいやく)を回避することができたようにみえましたが、おとぎ話のように幸せな結末にはなりませんでした。なぜなら燃える影は【安寧の契約】の履行(りこう)を彼らにもとめたからです。
「王国の再興(さいこう)か、裏切り者への復讐(ふくしゅう)か。とにかく【安寧の契約】は山あいの国の民にとって、のみこんだトゲのように苦しみを与えるものとなった」
「ひどい! もともと領域(せかい)を滅ぼしたのは山あいに逃げた人々ではなかったのに」
「ええ」リリィは興奮(こうふん)する菖蒲の背中をなでます。「でも影は人間の弱さをよく知っていた」
 懐疑(かいぎ)絶望(ぜつぼう)憎悪(ぞうお)そして復讐(ふくしゅう)。燃える影は()えた月夜のおおかみのように人間がおちいる闇をむさぼり、世界を()べる王の意志を完璧(かんぺき)投影(とうえい)しました。なにも知らずに国を追放されたと王子さまが知ったとき、甘い言葉で誘惑(ゆうわく)し、たくみに(あやつ)ろうとしくんでいたのです。
 ところが燃える影のあてはむなしくはずれ、幾世代も平穏(へいおん)に過ぎ、ついに山あいの国の民が王に進言(しんげん)しました。
「王よ、あなたはわたしたち民のために犠牲となってくださいました。大事な子どもを影に差しだしてきたのですから。もう苦しむのはじゅうぶんです。父祖たちがここにやってきたのは、むなしい権威の束縛(そくばく)から()かれるためではありませんか。それにもかかわらず、朝、焼きたてのパンを食べても、夜にみなで音楽を(かな)で、ベッドに横になるときも、あなたの家の子が今、どこで、なにをしているのか、きょうをうらみながら、ひとりさまよっているのではないかと思うと、なにも楽しむことはできないのです。あなたの子はわたしたちの家族、あなたの痛みはわたしたちの苦しみなのです」
 山あいの民はゆがんだ連鎖(れんさ)を断ち切りたいと考えました。そして子供たちに自由を与えたいと。
「自由だと? (おろ)かな。束縛こそおまえらを律してきたのが事実」燃える影は彼らの声を聞きつけ、やってきておとなたちを翻弄(ほんろう)します。
(かせ)なき支配がどうして社会秩序(ちつじょ)をもたらすか。法と規則にしばられた(おり)のなかであれほどさわぎ、踊りくるっていたではないか。おまえらが残した歴史は争い絶えぬ嘘ばかりで変化もない回転草。幾年もの安寧を子一人で保証しているほうがずっと優しいとは思わんのか」
 王は民にたずねます。
「たしかに、謳歌(おうか)した自由の責務(せきむ)から目をそむけてきたのかもしれない。しかし、果たしてこのままで良いだろうか」
 民は力強くこたえます。
「わたしたちにとって自由は権利の追求(ついきゅう)ではなく、みなが分け合い、みなが(にな)い、みなが学ぶものです。なにより王よ、(そら)を見上げ、胸が高鳴るようなあの自由について語れる親となりたいのです」
「ああ、わたしの兄弟たち! きょうこの場に立てることを(ほこ)りに思う。では皆で約束しよう————」
 つぎの朝、湖畔(こはん)のガゼボで王はふたりの子どもにすべての真実を教えました。長かった【安寧の契約】をついに破棄(はき)した夜、燃える影は激怒(げきど)し、山あいの国の大人をすべて()みこんでいったのです。
「覚えておけ! これがおまえらが望むくだらん自由とやらへの(むく)いだ!」
 のこされた子どもたちを恫喝(どうかつ)するように、燃える影は彼方(かなた)へ消えていきました。しかし、彼らは恐れません。生きるためにどうすればよいか、親からしっかり聞いていたからです。そして、昔からひそかにねられた影を打ち破るための計画についても。
 ずるがしこく強力な燃える影とたたかうため、まずふたりの王子さまは外の領域(せかい)に仲間を探すことにしました。
 いっぽう、深夜の孤児院(こじいん)でのこと。おとぎ話が大好きなふたごの姉妹は、みなが寝静まったのを見て、ボロボロの人形とためておいたビスケットを数枚、お気に入りのカバンにつめ、施設(しせつ)をぬけだそうとこっそり玄関に向かいました。
 きしむゆか板をそろりと歩いていたらとつぜん、リリリン! リリリン! 
 線のはずれた使われていない古い電話機のベルがけたたましく鳴りだします。このままだと大人に気づかれて部屋に閉じこめられ、なにをされるか! ふたりはあわてて重たい受話器を持ち上げると、むこうから男の子の大きな声が聞こえました。
「どうかそのままで! あなたたち姉妹(ふたご)の助けが必要なのです」
 ふたりはびっくりして顔を見合わせます。なぜこちらにふたりいて、しかもふたごの姉妹だと知っているのか、また、どうして助けが必要なのでしょうか。
「つまり電話からリリィとお姉さんは招待を受けて王子さまの領域(せかい)にきたのね」
「そうなの。あと、これは秘密だけど」リリィは菖蒲の耳元で、「おとぎ話をつなげる交換手はシロゾウよ」。
「ほんとうに? リリィ、わたし今度会いに行きたい!」
「わたしたちはもうワクワクしたし、なによりうれしかった。姉さんとどうやって遠く広い世界へ旅に出るか、いつも本を読んでたくらんでた。あの日も、わたしたちは本気だったのよ」
 姉妹の願いどおり、山あいの国の子供たちに(むか)え入れられ、夢のような生活が始まりました。
「彼らはとっても明るくて、すぐに仲良しになったわ。わたしたちはすこしだけ年上だったから食事を作ったりお掃除に針仕事をして、大忙しの毎日!」
 菖蒲は目を輝かせリリィを見つめます。
「リリーフロラ、あなたはピーター・パンにでてくるウェンディね。わたしもあなたのような強い女の子になりたい」
「そう言ってくれてうれしい。アヤメ、あなたとはいい友達になれそうね」

約束の力

約束の力

 燃える影は山あいの国の子どもたちに【安寧の契約】がまだ有効であると嘘をつきました。大人が一方的に破棄しただけだ、というわけです。しかし子どもたちは、ほころんだ契約を逆に利用することにしました。
「闇は子どもたちの計画に気づかなかったのかしら」と、菖蒲がたずねます。
「彼らは【口止めの約束】より重い、【沈黙(ちんもく)の約束】をむすんだのよ」
「そっか、約束の力で燃える影に知られないようにしたのね」
「闇を打ち破るまで真実を()める約束。闇は人の(うち)なる言葉を読むことまではできない。子供たちは親をうしなった悲しみをふくめてぜんぶ記憶にとどめ、かわりに希望を取りだした。わずかでも真実がかすむことのないように」
 ですから、ふたごの姉妹が山あいの国へやってきたとき、なぜ呼ばれたのかまったくわかりませんでした。しかしふたりは子どもしかいない様子を見て、彼らと知り合い、打ちとけるうちにだんだん理解していったのです。
「へんな話よね。せっかくわたしたちは招待を受けたのに、なんで助けてほしいのか彼らに聞いても口をつぐんでしまうんですもの。でもね、わたしと姉はアヤメも持っているすばらしい力を使ったのよ」
「約束の力ではなく? わたしも持っている力……」
 リリィは両手で菖蒲の前髪をかきわけ、のぞきこみます。
「それはね、言葉にならない声を聴く力。きっとアヤメは自然に使っているから気づいていないけれど、とても美しい能力よ。もちろん、どんな力でも正しく使わなければいけないわ」
「リリィわたし、きちんとできているかしら」
「だからわたしたちはこうして会えたんじゃない」
 菖蒲は恥ずかしそうにリリィの(むな)もとに顔をうずめます。
「どんな境遇(きょうぐう)も人にいろんな力を与える。わたしたちはおとなになって結婚し、山あいの国の民となった日、聞かなければならない話をそれぞれ夫から伝えられた。約束の力についても」
「ねえリリィ、あなたたちは利用されたって思わなかった?」
「ぜんぜん」リリィは首を横にふり、「むしろ心がわき立った。これからおもしろいことが起きようとしている、きっと大変だけど絶対に手ばなしたくない物語になるって。アヤメも、あの異国の風をかいだでしょ?」
 菖蒲は納屋を飛びだしたあの日の興奮を思い出し、大きくうなずきます。
「でも愛はべつ。なにからも強要されたわけではないわ。時間を一緒に過ごして自然と、せせらぐ川のような恋をした。話しているうちに大きな川となって、どこまで続くのだろう、もっともっとグレエンの広さを知りたいから結婚したの」
「すてきなお話ね」
「ありがとう、アヤメ」
 燃える影を打ちやぶるチャンスは一度。国を旅立つ王子さまが燃える影と相対する時です。ですから兄弟のうち、どちらが王となるかはとても重要な問題でした。ふさわしいのは兄か弟か、ふたりの王子は悩みましたが、ついに決心をします。兄が王となることを。
「わたしはどうやって選んだのかグレエンに聞いたことがあるけど、彼はぜったい教えてくれなかった。姉さんも同じことを言ってたわ。ただ【王位の約束】とだけ」
 山あいの国に新しい王が即位(そくい)し、闇を打ちやぶるための準備がはじまりました。王さまと王妃さまは記憶の星に旅立つと【手つなぎの約束】で自分の記憶を採取し、青い剣とそれに力を加えるための赤い宝石の指輪も加工しました。記憶の結晶には『そのもの(・・・・)が役割を果たすまで決して壊れない』という性質があり、燃える影と戦うにはうってつけの道具です。
「記憶の星から帰ってすぐ、剣と指輪に、わたしたち姉妹が前の領域(せかい)へ二度と帰らない、という【不帰(ふき)の約束】の力を加えた。そのあと王子も誕生(たんじょう)し、あとは旅立ちを待つだけ」
「ちょっと待って、リリィ。何も知らない干しわらの王子さまはどうして剣と指輪で燃える影を打ちやぶろうと思うのかしら」
「そう、それが一番難しい問題ね。本当は【口止めの約束】で王子に伝えようとしたの。ただし【沈黙の約束】をおかす危険もあった。それに、約束の力も弱まってしまう」
「どういうこと?」
「アヤメは約束の力がどういうものか知っているかしら」
「うん、馬小屋会議でアルビレオが話してくれた。〝果たすのがむずかしい約束ほど力は強く、重いものとなる。でも約束は守らなければ大きな代償(だいしょう)がともなう〟でしょ」
 そもそもなぜ約束に力があるのでしょうか。それは誰も約束を守る人がいなくなり、なにが『本当のこと』か、わからなくなってしまったからです。人間の軽易(けいい)口約(こうやく)によって『本当のこと』を壊さないため、力をもつようになりました。
「グレエンが言うには、この領域(せかい)でない人の約束がより大きな力になるみたい。むかし、みんなが嘘で領域(せかい)を破滅させ、約束の価値をさげたからその代償にと」
「それでわたしやリリィの助けが必要だったわけね」
「約束は信じればそれだけ力が強化されるし、疑うと弱くなっていく。王と姉さんは王子が旅を通して真実を理解し、行動するのを信じようと決めた。もっとも王子は国を立つ前から多くのことを知っていたみたいだけど」
——ヘレムのことだわ——。はっと気づく菖蒲に、リリィはうなずきます。
 燃える影がいったいどこに身をひそめているのか、これも問題のひとつでした。転機(てんき)となったのは【安寧の契約】を破棄した日の夜です。大人を()みこんだあと、一匹のキジ三毛ネコが命がけで影の(あと)をつけていきました。なんて勇敢(ゆうかん)なモルト!
 灯台下暗し、影はずっと昔から住処(すみか)を変えていませんでした。王子が旅立つ少し前、リリィとグレエンは(ひそ)かにモルトの案内で東の風車へ向かいます。
 小麦畑の農夫として監視(かんし)を始めてからしばらくたってからのこと、ついに王子さまがアルビレオに乗って風車にやってきました。
 王子さまは青い剣に【干しわらの約束】を、赤い指輪に【忘失の約束】を加えてアルビレオに(たく)します。風車からでてきた燃える影は大蛇(だいじゃ)の姿で興廃の丘にいるグレエンとリリィを(おそ)いました。
「わたしは山あいの国を出る前に秘密の約束をしていた。それは燃える影に恐れず立ち向かう【覚悟(かくご)の約束】。結果はどうなったかわかっているでしょう?」リリィはニヤリと不敵(ふてき)()みをうかべます。「わたしたちの勝ちね、アヤメ」
 大蛇に呑まれたリリィは王子さまと燃える影が交わした【干しわらの約束】について知ることになります。
「心の水を()むために女の子はすべてうしなう。わたしはせめて中庭から出るための助けとなりたい。そう願ったら、おどろいたことに園丁として待つことが許された。おそらくこれは約束よりももっと強い力、わたしがあなたを見あげたときに……でも、わたしは中庭であなたを」
 リリィは言葉につまります。まるで深い穴の底にしずむような目で、菖蒲はリリィをはるか遠くに感じ、寂しさで胸が苦しくなりました。——だめ! いなくなってしまう——孤独(こどく)に足をつかまれる菖蒲は闇へと消えるリリィに手をのばそうとします。
「あの家で()しゅうの入ったカーテンも、モクレンのかおりがするフカフカのおふとんも、ぴったりなレースのワンピースやちょっぴり大きめのぼうしも、ドライフラワーやハーブ入りのお風呂も、かわいい食器もすてきな庭も、みんな、みんな、なにもかもリリィがわたしのために用意してくれたのよね?」
「それはね、それは……わたし、子を宿(やど)すことが」
「お願いよリリィ、アヤメのためと言って!」菖蒲はリリィの言葉を強く否定するようにさえぎります。「どんな境遇も力を与えるのでしょ? わたし、リリィを窓ごしに見たとき、ほほ笑みかけてくれたとき、どうしても会いたくなった。そしてわたしは今たしかに満たされてる。知らないところでさえたくさん。だからこんなに落ちついていられるの」
 うつむくリリィの長い髪はだらりとたれ、ふたりをへだてる金色の(まく)が顔をおおいます。
「わたしはもうずっと、ずうっとリリィ、あなたの気持ちに気づいているわ。そして宇宙で一番あたたかな力がわたしたちを引き寄せたことにも」それから手をぎゅっとにぎりしめ、「もう離さないで、わたしの————」。
「ええそう、あなたのためよ!」リリィはちからいっぱい菖蒲を、そのすべてを包みます。「全部あなたのため、アヤメのために」

なぞかけ歌

なぞかけ歌

 リリィとのむかし(ばなし)(きり)がかった木立(こだち)のあいだから()が差しこむように菖蒲の思いをさわやかな(つゆ)でみたし、前よりずっといきいきと、新たな活力や意志をすえました。いろんな人の考えや願い、複雑(ふくざつ)にからむ約束は、これからしなければならないことをはっきり告げていたのです。そうです、井戸の水で王子さまをもとのすがたにもどし、あの燃える影を打ちやぶることを!
 そんなある日、「リリィのすてきなところは」と、菖蒲は食卓(しょくたく)のイスにすわって砂時計がさらさら下に落ちるのを見ながら指折り数えていました。「早くしなさいって()かさないとこ、あれこれしなさいって押しつけないところ、おかしいって顔をしかめないところでしょ。それに……」
 全部の指を折りたたんでニコニコしていると、リリィがパウンドケーキを持ってやってきました。
「リリィはいっつもいそがしそうね」足をバタバタさせ、ほおづえをついた菖蒲が言います。
「あら、そうかしら」と、リリィ。
「わたしが見るかぎり、三十人のリリィが前を往復(おうふく)していたわ」
「ああ、それは」と、リリィは四角いパウンドケーキを切り分けてから皿を菖蒲に渡します。「きっと、この家に住む小人よ」
「七人じゃなくて? この家にはちょっと多すぎじゃない」
「あら、うちのお姫さまにはたりないくらいよ」
「なんて世話が焼けるお姫さまなのかしら!」
 時間の砂はふりやみ、菖蒲はティーポットを手に、ふたつのカップに紅茶を最後の一滴(いってき)までそそぎました。
「ねえリリィ」菖蒲は紅茶の香りにうっとりしているリリィにたずねます。「どうしても気になることがあるの。聞いてもいい?」
「わたしが教えてあげられることならなんでもどうぞ」
「『干しわらになった王子さま』の本にある、王さまのなぞなぞがどうしてもわからないの。〝芯のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿〟の答えってなんだったのかしら?」
 リリィは少し考えてから思いだしたように笑い、「たぶん王は私たちがよく歌っていたなぞかけ歌をもじったんじゃないかな」
 そう言ってリリィは歌を歌いました。

『愛する彼に苹果(りんご)を』

  愛する彼に(しん)のない苹果をささげよう
  愛する彼に扉のない家をささげよう
  愛する彼が過ごす宮殿をささげよう
   彼が開けるのに鍵はいらない

  わたしの想いは芯のない苹果
  わたしの気持ちは扉のない家
  わたしの心は彼が過ごす宮殿
   彼が開けるのに鍵はいらない

「リリィは歌がじょうずね、はじめて知った」
 菖蒲はリリィの歌声を〝すてきなところ〟のひとつに加えました。
「一番目になぞかけがあって、二番目に答えがあるのよ」と、リリィは説明します。
「子供のころ、わたしが一番を歌って姉さんが二番を歌い、王とグレエンにどちらが姉か妹かをあてる遊びをしていたわ。別の時は姉さんが最初、わたしが次を歌い、さてどちらでしょうって。わたしたち、顔の見わけがつかないくらい似ているから、姉妹逆転させて彼らにいろんなイタズラをしたの」
「おもしろい遊びね」
「おとなになって秋の収穫も過ぎ、冬支度(じたく)をしていたある日の朝、湖のほとりにあるガゼボで王が姉さんに、グレエンはわたしにこう言ったの。
——もしわたしが姉妹(ふたり)のイタズラを見やぶることができたなら、どうかあなたのリンゴをわたしにください。
 そこでわたしたちは悪だくみを考えた。わたしはサイドヘアにして姉さんのブラウスと花の()しゅう入りエプロンを身につけ、姉さんはツインテールにわたしの藍色のチュニックを着る。約束の日の夕方、ガゼボに集まった私たちは赤いリンゴをひとつ手に、その歌を歌ってみたのよ。それからリンゴをふたりの王子のまえに差し出し、あなたがほしいリンゴはどちらって」
 菖蒲はなんだか胸がほわほわと熱くなり、顔はリンゴのように、目を大きくして、「それから、それからどうだったの? リリィ」
「アヤメもわかっているじゃない。わたしたちのつまらないイタズラなんて最初からお見通し。彼らは容姿(ようし)で私たちを見てたんじゃなくて、声を聞きわけていたの。ずるいわよね、ふたりとも子供の時から知っていてわざとだまされたふりをしてたんだもの。まちがえたら姉さんとふたりで大笑いしようねって話していたのに。まじめな男の子はつまんないわよ、ねぇ」
「……」
「お人形さんみたいにかたまって。どうしちゃったの、アヤメ?」リリィは不満げな菖蒲のほっぺをきゅっとつまみます。
「いや! そんなおしまいはいやよ。どうなったかちゃんと聞きたいの!」
「どうなったかって、それはそれは幸せに暮らしましたとさ……」
「その前のお話よ、ほら、あの言葉があるでしょ」
 リリィは目をそらし、ティーカップを口につけます。でもなんだか菖蒲みたいに顔がまっ赤です。
「アヤメのいれる紅茶は最高ね。どこで覚えたのかしら」
「ごまかさないで」
 熱心にこちらを見つめる菖蒲。壁に追いつめられたリリィは観念(かんねん)してカップを置き、浅いため息をつきます。
「……いままで聞いたことのないくらいとっても甘くてとろけるような愛の約束をささやかれたわ。これいじょうは秘密! ぜぇったい教えない、もうおしまいよ」
「リリィのけち」
「ふぅん」と、リリィは目をほそめ、「アヤメも大人になって大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」
 思わぬ逆襲(ぎゃくしゅう)を受けた菖蒲のお城は火矢でみごと()ちぬかれ、心臓が飛びでそうなくらいどっくんどっくん鳴ります。考えれば考えるほど燃えあがる恋の炎を消火しようと、そばにあった水をゴクゴク飲みます。そんな様子がおかしくて、ふたりは目を合わせ、大笑いしました。
 なぞなぞの秘密は解決し、愛の約束もうまくはぐらかされたところで楽しいティータイムはおしまいとなって、食器をかたづけてから居間にむかいます。
「リリィ」菖蒲は落ち着いた、でも力のこもった声で言います。「やるべきことをはじめましょう」
 リリィはうなずき、くすんだ金色の鍵をつくえの上にことりと置きます。
「このカギは裏口の扉を開けるための鍵よ。裏口扉の錠前(じょうまえ)は内側についていて、扉の向こうはどこへでも行ける階段があるわ。ただし、使えるのはわたしとアヤメの一回ずつ。なぜなら鍵穴にさしてまわしたら、外側から閉じてふたたび錠をおろすまで鍵がぬけないから。それに、外側はドアノブがないから開けられない」
「なるほど、これで王子さまのいる王の間に帰れるってわけね」
「そう、そしてアヤメ、私たちが今どこにいるかわかっているでしょう?」
 菖蒲はすぐに「もちろん」と、こたえて分厚(ぶあつ)いカーテンを思い切り開いてみせました。
 窓の外はどす黒い血のような液体がたれる空、ポコポコと音を立ててヘドロわく沼地、遠くでは切り立つ黒い山を紫色の雷が不気味に照らしています。
 ここは干しわらになった王子さまのいる世界などではありません。リリィが興廃の丘で呑みこまれた大蛇の体内だったのです。
「わたしがうろうろしていたら影の男の子に手を引かれ、この家へ連れてこられたの。彼は時々やってきては中庭や【干しわらの約束】のことを教えてくれた。それに父親を待っていると」
「もしかして、イシュ」
 菖蒲は月明かりに照らされたあの夜、影の少年が(はな)つ深く(うれ)いた声を思い返し、心はうずきます。グレエンが伝えようとした羽根のまわり続ける風車、いつも穂をたらす小麦畑、納屋と古い農家の秘密とはイシュが〝父親〟と過ごした面影でした。そして今、リリィと過ごしている家も東の風車にある農家とまったく同じつくりです。
「ねえリリィ、私たちへんよね。こんな最悪な景色のそばでぐっすり寝たり、おいしい食事をしたり、さっきまでお茶を飲んで笑っていたんですもの」
「私たちだれよりも強い女よ。断言(だんげん)できるわ、アヤメ」
 リリィは窓の前で腰に手を当て、どっしりかまえます。
「〝ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライムノムスメ・ナガクツシタ〟みたいに?」
「長い名前!」
「馬を持ちあげるくらいとっても強い女の子なのよ。わたしピッピのこと大好き」
「今のアヤメならアルビレオを持ちあげちゃいそうね」
「リリィ、わたしのお願い聞いてもらえる?」
「わたしがしてあげられることならなんでもいいわ」
「裏口の鍵、わたしたち一回ずつ使えるのよね? リリィがさきにむこうの領域(せかい)へもどってほしいの」
「そんなのだめ……」と、言いかけてリリィが顔を横にむけると、そばに立つ菖蒲は固い決意を秘めた目で窓の外のそびえる黒い山をじっと見つめています。
 リリィはしばらく考えてから、「わかったわ。じゃあわたしの右手にアヤメの手を重ねて」。
 菖蒲は言われたとおりにのせると、リリィはさらに左手をそえます。
「これから【母娘(おやこ)の約束】をしましょう。わたし、リリィは【覚悟の約束】で得た力をあなた、アヤメにわけます。かわりにわたしのもとへ必ず帰ってきなさい。それと、中庭の時のように無茶はしないで」
「わたし、アヤメはお母さんの約束の言葉を聞きました。【母娘の約束】を守り、わたしはかならずリリィのもとに帰ってきます。中庭の時のような無茶もしません」
「もしグレエンに会ったら、あなたの家で待っています、と伝えてもらえるかしら」
 菖蒲は笑顔でうなずきました。

扉のナイ中庭 下

Playlist
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1『花通り』服部克久
2『still life』坂本龍一
3『Lamentatio』Aquabella
4『Azwan』Pierre Bensusan
5『Spider Web Anthem』Meredith Monk Ensemble
6『B4b』William Ackerman
7『Epilogue』Meredith Monk
8『Mehmetio』Angelite
9『A Million Stars』Iona
10『Over The Rainbow』The Innocence Mission
11『The Flowers of Magherally』Altan
12『I will give my love an apple』
  アストリッド・リンドグレーン 作/大塚勇三 訳『長くつ下のピッピ』(岩波少年文庫)

扉のナイ中庭 下

少女がのぞいた扉のない中庭とは———— 12/22

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-04-25

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著作権法内での利用のみを許可します。

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