【鯉月】夜明けの訪れる場所

しずよ

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二次創作(腐)につきご注意ください。
本誌231、232話のコタンでの一週間のお話です。

1

 いつからこんな野望を持っていたのか鯉登は忘れてしまったのだが、隣で眠っている月島がいびきをかいていたならば、その鼻をつまんで止めてやるのがささやかな夢のひとつだった。
 しかし約三ヶ月間共に過ごした樺太ですら、月島のいびきで起こされることはなかった。杉元の寝言や谷垣の歯ぎしりで目が覚めた夜なら幾晩もあり、そんな時には杉元のすねを蹴ったり谷垣の手の甲の毛をむしったりして騒音を止めた。それから月島の寝顔をそっとのぞき込む。彼はそれらの音には動じず、いつもとても静かに眠っていた。物音に敏感にならずに軍人として命取りにならないか。鯉登はわずかに不安を覚える。
 顔を寄せると、かろうじてすうすうと小さな寝息が聞こえる。鼻が低いからいびきをかかないのだろうか? そんな取るに足らない想像をしながら、月島の寝顔を飽きもせず見つめた。そして寝息に自分の呼吸を重ねていると、まぶたは自然と重くなっていった。



 昨日インカラマッの出産が落ち着いてから、隣のチセで鯉登と月島は休んでいたのだが、実は鯉登は明け方まで起きていた。
 眠れなかったのではない。月島の呼吸が止まっていないか、確認するためだった。
 うつらうつらしても赤ん坊の泣き声でハッと目が覚める。そして月島の脈拍に触れ、鼻の前に手のひらをかざして呼吸を確かめ、そして体温が下がっていないか指先や首元に触れた。
 鯉登に「まだ遅くない」と説得された月島は、それ以降は心ここにあらずの姿で稲妻の子供を抱っこしていた。危なっかしいので子供の世話を交代した。
「なぜ馬で追わなかったのだ?」
「……家永に何かの薬を打たれて、落馬する危険性があったからです」
 鯉登は冷水を浴びせられた気がした。
「な、何かの薬って……、体は大丈夫なのか?」
「はい、体が重く感じる以外には特に体調の変化はありません。毒物とは違うと思います」
「ずいぶん腑抜けているなと感じたのはそのせいか……。息苦しいとか眩しさもないのか?」
「呼吸はできます。視力も問題ありません」
「そうか」
 確かに毒物ではなさそうだ、と鯉登も判断した。
 それは樺太にいる間に、谷垣から聞いた話だった。一年ほど前、刺青人皮を持つアシリパを山中で見つけた直後、アイヌの鹿捕獲用の罠にかかったことがあると言っていた。それにトリカブトが使われていて、アシリパの祖母の家で回復するまで滞在したと語った。
 そんなふうに日常的に使用される割合の高い毒物なら、家永もトリカブトを所持していた可能性は十分ある。神経性の毒物ならば、動けなくなるだけではなく息もできなくなると聞いた。だから月島に使われたのは、モルヒネではないか。が、鎮静剤であれ多ければやがて呼吸が浅くなり死に至る。
 芥子の花を携えた鶴見の顔が、不意によぎった。
 鯉登はかぶりを振る。
 病院へ谷垣がインカラマッを奪還に来たと気が付いた時、鯉登に何か算段があった訳ではない。ただ、谷垣も月島も救いたかった。鯉登にとって谷垣は造反者ではなく、単なる途中離脱者だったからだ。裏切りとは違う。だから月島に谷垣を殺害させることだけは、どうしても止めさせたかった。その一心だった。
 自分で自分をなぜ追い込むのだ。鯉登は歯ぎしりする。こんな不器用な男は見たことがない。自分のことを蔑ろにする月島の態度だけは、鯉登はどうしても許せなかった。
 私がこんなにも大事にしたいと思っていると、少しは伝わっただろうか。
 すうすうと規則正しく聞こえる寝息に、自分の呼吸を重ねる。すると、急に体中の力が抜けて、腕や足が重たくなった。そう思った矢先、遠くからまた赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえた。
 鯉登ははっとして目が覚める。
 まるで母親のようだな。
 今晩、何度目かの覚醒で、鯉登は自嘲してひとりほくそ笑む。思わず頭を撫でてやりたくなって、手を伸ばした。
 こんな厳つい子を持った覚えはないが、信じていた者に騙されたと思い、十年間一歩も前に進めないでいた月島の手を引いて、日の当たる場所へ導いてやりたいと思う。明けない夜はないのだと、教えてやりたい。
 本人に伝えたら、きっと迷惑そうな顔をするだろうけれど。
 赤ん坊は約二時間おきに泣いて、周囲の大人たちを起こした。きっとあちらのチセでは、インカラマッや谷垣が赤ん坊の世話をしているのだろう。
 ヒトは頭が発達しすぎている。これ以上頭が大きくなれば産道を通れないから、自分では何もできない未熟な状態で生まれてくるしかない。誰かがいないと生きられない。だから月島にも、生まれたばかりの月島基を、大切に慈しむ誰かがいたはずなのだ。その母から、鯉登はたすきを引き継いだような気になっていた。
 いや、違うな。月島の母だけではない。これまで月島に関わったすべての人がいたからこそ、今の月島基なのだ。鶴見中尉殿だって、月島を育ててきた重要なひとりだ。だからその意味でも、私は鶴見中尉殿のことを真っ向から否定することはできない。彼がいなければ、私は月島と会うことはなかった。では私にたすきを渡したのは、鶴見中尉殿ということになるか。
 鯉登がとりとめなく来し方を考えていると、ふわりと空気が動いた。月島が寝返りを打つ。自分で動けるなら安心だな。寝返りひとつでこんなにも安堵して、親たる者の気持ちがますます分かった気がした。
 誰かに心を寄せてここまで親身になるなんてこと、この先一生ないかもしれない。まだ二十余年しか生きていないのだけれど、鯉登はそれだけは妙に確信できた。
 かすかに歌が聞こえてくる。アシリパの祖母が、子守唄で寝かしつけているんだろう。そういえば稲妻の子の名前は何というのだろう。明日聞いてみよう、と鯉登は思った。
「……基ちゅう名前はだいがつけてくれたど。月島に似合うちょっ、よか名前や」
 でもやっぱり自分は育ての親には向いていない。見返りがほしい。だから鯉登はそっと唇を重ねた。

2

豊原に逗留していた時のこと、ひとりで歩けるほどに首の怪我が回復してきた月島に、鯉登は自分の外套を差し出した。その右腕には穴があった。
「これは……」
「キロランケに刺された所だ。補修を頼む」
「……お待ちください」
 月島は荷物の中から針と糸を取り出す。
 入隊して初年兵が真っ先に覚えることは、戦い方ではなく裁縫なのである。訓練で衣服が擦り切れたり靴底が外れるなどは日常茶飯事であり、それはすなわち実際の戦場でも同じことを意味する。軍靴は本当によく壊れるから、何度も補修する。それができないと行軍もままならないし、怪我や病気にかかる危険性もある。繕いものひとつとっても、命に直結する場合がある。
 それで月島も例にもれずに裁縫はうまかった。樺太へ上陸した当初、クズリに襲われて背中に開いた穴も、月島に繕ってもらっていた。そして大泊港で杉元に刺された左胸の穴は、そのままで北海道へ帰ってきた。
 小樽の軍病院に入院してから、鯉登はみたび月島に外套を差し出した。
「月島、ここも頼む」
「もう樺太ではないのですから、この服を仕立てた店にお持ちになった方がよろしいと思います」
「お前もうまいじゃないか」
「……お褒めに預かり光栄ですが、私のはあくまで応急処置です。店できちんと補修してもらった方が、長く着られるでしょう。私が明日、仕立て屋にお持ちしますよ。店は旭川ですか?」
「……結構だ」
 月島の態度が冷たいのかいつも通りだったか、よく分からなくなっていた。インカラマッに「月島も占ってくれ」と頼んだ時に顔を背けたのにも違和感があったが、果たして月島は前からこうだっただろうか? 樺太ではこんなに素っ気なくなかった気がしたのは記憶違いか。それとも、私は大泊港で選択を間違ったのだろうか?
 傷が開いて血がじわりと染みてきた気がしたから、慌てて手で押さえた。
 押さえたそこに血はなく、乾いた病衣だった。
 はっとして鯉登が勢いよく上体を起こす。隣に月島はいなかった。
「しまった、寝過ごした」
 外に出ると子供たちが走り回って遊んでいた。隣にあるアシリパの祖母の家からは、子供の泣き声が聞こえる。泣き声と言うのは憚られるような、愛情を希求するその声。
 オソマがちらりと視線を向けるから「月島はどこに行ったか知らんか?」と尋ねた。
「軍人さん? 谷垣ニシパと山へ行った」
「山? どうして」
「ヒモにならないためだって」
「は?」
 麻紐とかの話ではないよな。あれか、婦女子に労働させ養われる情夫のことか。
 鯉登は顔をしかめる。確かにここにいてもすることは特にない。それなのに昨夜も食事を提供してもらい、寝床まで用意してもらっている。ヒモか。ヒモだな。それは嫌なので、鯉登も後を追って山に入ろうとしたが止めた。狩りの経験はないから、足手まといだ。
 そこにオソマの母が林から戻ってくる。背中には袋を背負い、絞り口からは大きめの丸い葉が飛び出していた。
「それは?」
 鯉登が尋ねる。
「トウレプよ。あんたらがオオウバユリって呼ぶものよ。本来の旬はもうちょっと先だけど、もうこんなに大きく育ったのを見つけたのよ」
 見れば一メートルくらいある。
「それをどうするんだ?」
「そこの川で土を落として、茎と根を分けるのよ」
「私にやらせてくれ」
「ふふ、助かるわ。昨日産まれたあの子の沐浴の準備もしなきゃいけないと思っていたから。じゃあお願いね」
 沐浴か。そうだな、新生児の世話を母親ひとりでこなすのは大変だろう。鯉登の家には母の他にばあやとねえやがいて、家事と幼少時の自分の世話を分担していたことを思い出した。
 鯉登はサラニプと呼ばれる背負い袋と小刀を持ち、小川へ向かった。そこにしゃがみ根っこの間にある土を丁寧に洗い流す。そして根と茎の間にある球根のようなふくらみーー鱗茎を切り取り、サラニプへ戻す。どんなふうに食べるのかは聞いていないが、玉ねぎに似ていると思った。そして切り離した根は捨てずに、小川のほとりに埋めるように教わった。来年もまた芽吹いて成長したオオウバユリを食べるためだ、と言う。
 洗い終わってコタンに戻ると谷垣と月島もちょうど戻ってきたようだった。
「ふたりとも山へ行っていたのか?」
「ええ」
「何か捕れたのか?」
「ええ、猪です。谷垣が一発で仕留めました。その場で解体したので肉だけがこれに入っています」
 谷垣と月島が袋を掲げる。そして谷垣が狩猟の話をする。
「今の時期は繁殖のあとだから痩せて食えたもんじゃないという猟師もいるが、脂が落ちて食べやすいと好む者もいるんだ。臭みも少ない」
「そうか、ふたりともご苦労だったな」
「少尉殿もどこへ行かれてたんですか」
「その先にある小川だ。植物の根を洗っていた」
 三人は食材をオソマの母へ手渡した。感謝されると月島は無表情になるから、スヴェトラーナの両親に再会した時と一緒だな、と鯉登は思った。まったく難儀な奴め。
「それよりも月島、もう薬は抜けたのか?」
「……はい、大丈夫かと」
「……」
 鯉登は無言でねめつける。なんだその間は。きっとまだ本調子ではないのだろう。とにかくここにいる間に、回復に努めさせなければ、と心に誓う。残り六日。
 午後は川漁で使うすくい網の手入れをオソマの父や兄弟から教わって過ごした。 
 そして夜が近づくにつれ、少なからず緊張している自分に鯉登は気が付く。ふたりきりになって、今夜も我慢ができるのだろうか。



 寝転がって間もなく、月島が静かに話し始める。
「枕がありませんね」
「ああ、この集落では普段使わないのかも知れないな」
 月島が足りない物を口にするのは珍しいことだった。これまでならその種の不平不満を口にするのは鯉登で、月島はそれを諌める立場だったのに。
 樺太で地元の住人に泊めてもらった際にも、枕を使う習慣のない家はあった。その時には何も言わなかったし、だいいち、枕ひとつで不満を述べるようでは軍人など務まらない。外であろうと黙って眠るものである。
 本当に、月島らしからぬ言葉をこぼすものだから、鯉登は月島の目の前に腕を差し出した。
「腕枕ならしてやれるが」
「……」
 月島は大げさに目を見開き、しかし何も言わなかった。これまでなら冷徹な視線と大げさなため息とで「必要ありません」と、拒絶していたに違いないのに。
 月島は黙って頭を持ち上げた。「お願いします」
 鯉登は目をむく。今までならこんなことはなかった。しかし驚いている場合ではない。鯉登は素早く腕を床に横たえる。すると月島はその上に静かに頭を乗せた。
「……」
「……」
 ふたりはしばらく何も話さなかった。だから鯉登は猛烈に心配になっていた。月島は内心呆れてるんじゃないか、と。
 それから五分経っただろうか。これは、結構重たい。正座なら剣術の稽古で、子供の頃から慣れている。しかし腕を圧迫する鍛錬はしたことがない。すぐに痺れて根を上げてしまいそうだ。世の中の男は一晩中この試練を耐えているのか? やはりヒトの頭部は発達しすぎている。鯉登はさっそく痺れ始めた手を結んだり開いたり忙しなくしていると、月島が静かに話を始めた。
「少尉殿」
「なんだ」
「昨夜はあまり眠れませんでしたか? くまがあったので……」
 月島が自分の目の下を指さす。昨夜のことを正直に話したら、月島のことだから恐縮するかもしれない。何か別の言い訳をしようと、頭を巡らせようとした。でも、この先どんな些細なことでも、月島に隠し事をするべきではないと思った。
「一晩中、わいを見ちょった。薬のせいで呼吸が止まっちょるんに気づかんかったや、後悔すっじゃろうが」
 それでも正直に伝えるのは恥ずかしいので、早口の方言になる。それでも月島の表情が変わったから、鯉登はおそるおそる尋ねてみた。
「いま何と言ったか分かったのか?」
「はあ、だいたいは」
「……薩摩弁もわりと聞き取れるようになったんだな」
「はい、あなたの補佐について、もう一年になりますからね。それにロシア語より分かりやすいですよ」
「ロシア語と比べるな月島ァ……」
 しかし月島が謝罪を口にしなかったことに安堵した。そうだ、それでいいんだ。やっと分かったか。生まれや育ちは関係ないのだ。我々は同じ高さの地面に並んで立つ同胞(はらから)ではないか。
「少尉殿」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「うん」
 鯉登にとってはそんなのは当たり前だけれど、ひょっとして鶴見と月島は違ったのだろうか。同志を募るのは簡単ではないだろうから『目的を達成するためには月島を失っても致し方ない』という暗黙の了解があったのなら、鶴見もまた健全とは言えない。月島は鶴見にとっても、かえのきかない腹心のはずなのに。ふたりの間に横たわる歪みが、鯉登にはどうにも納得できない。だから考える。大泊で月島の悪夢語りに出てきた第二師団の男は、本当に鶴見の仕掛けなのか。違うのではないか。
 ああ、何かーー。
 鯉登の頭の中で、点と点が繋がろうとする。その時に月島の声が不意に割り込む。
「……明け方、あなたに呼ばれた気がして目が覚めたんです。でもまぶたがとにかく重くて、またすぐに眠ってしまいました。ーー少尉殿、あれは何とおっしゃったのですか?」
「ああ、あれか……」
 鯉登が視線を逸らすから、月島は眉をひそめる。
「起きている私にはとても言えないことなんですか?」
「いや、そうじゃないが……」
 実は下の名前を呼んでみたかっただとか、さすがにそれを言えるわけないではないか。
「少尉殿」
「なんだ」
 今晩、三度目。月島がとりとめもなく自分を呼ぶことが、珍しくてくすぐったい。
「あの、腕が痺れて感覚が無いのではないですか?」
 月島はそう言って、掌をつねる。が、痛みはなかった。
「そ、そんなことはない! まだいける!」
「いや、痩せ我慢なさらずとも。痺れにくいやり方があるのです」
「そ、それを最初に言わんか月島ぁ!」
「すみません」
「というか腕枕の仕方も知らん子供だと思っただろう?」
「思いませんよ」
 そう断言した月島は、少し笑っていた。
「腕は私の首の下に置くんです。そうしないと、なかなかの拷問でしょう」
「首の下? それだとお前の首だけ上がるから、返って辛いのではないか?」
「そうです。首の下に腕を置くには本物の枕も必要なのです」
「それは腕枕の意味がない気がするな……」
「ええ、なのでもう一つの方法は、腕の付け根に頭を乗せるのです」
そして月島は、鯉登の腕の付け根辺りに頭を乗せた。「ここだと痺れにくいです」そうして月島は横向きに寝て、頭のおさまりのいい位置を探って少し動き、やがて右腕を鯉登の胸に回して病衣をつかんだ。
 なんだこの近さは。月島の頭がすぐ近くに見えるし、突然の積極性にうるさく騒ぐ心臓の音が丸聞こえではないか。恥ずかしい。
 それにしても月島は誰かに腕枕をした経験があるのだな。そう思うと胸のうちが妬けてもやもやとする。昔のことは聞かないのが鉄則だと鯉登も分かっているけれど、本当はどこの誰にしてあげたのか聞きたくてしょうがない。
 まさかしてもらった側ではないよな? もしそうならさらに別の何かが生まれてしまうぞ月島……。
 規則正しい呼吸が聞こえて、月島が寝入ったのだと分かった。まったく、こちらの気も知らずに。また今夜もしばらくは眠れないかもしれない。

【鯉月】夜明けの訪れる場所

【鯉月】夜明けの訪れる場所

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-04-24

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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