ワタリカラス

空付碧

  1. カラスは迷い込む
  2. カラスは悩む
  3. カラスは思いつく
  4. カラスは帰る

カラスは迷い込む

私がアパートに帰宅した時、男は我が家へ侵入している真っ最中だった。左の壁から、片足を出している。カーテンを割いたような穴から、ぬっと男は出てこようとしていた。

同時に顔を見合わせ、二人して表情筋が凍った。男は黒ずくめだった。ロングブーツにロングコート、リボンのようなネクタイに、瞳、髪と真っ黒だった。左の眼球は髪で隠れている。それより、男はナイフを持っていた。私は何も考えられず、何かしら叫ぼうとした時、男が先に口を開いた。

「いやいやいやいや」
驚いた。こちらのセリフだ。焦っている様子を見て、こちらが優勢だと余裕が出る。震える声を必死に抑えた。
「不法侵入ですね。警察を」
「いや待って、君に用はないから」
男はサラリと流し、床へ両足をおろすと、反対の壁に向かった。私は一歩前に出る。
「ちょっと!」
「待ってね。こっちもびっくりなんだよ」

男はナイフを壁に当てた。すっと縦に切れ目を入れると、壁に穴が開く。刃渡りは10センチ程度だ。しかも壁を触る程度でしかないのに、簡単に開いてしまった穴を覗き込む。

「えぇ、何これ何の冗談?」
男は切った時と同じ仕草で、ナイフを真っ直ぐなぞる。チャックが閉まるように、壁は傷一つなくピタリとくっついた。
「あ、こっち閉めるの忘れてた」
と出てきた穴を塞ぎに戻る男に、状況を把握でいないままでいた。

せめて何か一言、と思った瞬間に男は床を蹴って宙返りをする。そのまま床へ着地せず、男は天井へと両足を着いた。重力に反して逆さになったまま、ナイフで穴を開く。ついていけない。
開いた穴の中が見えた。パイプや電線は全く見えず、ただただ真っ黒なだけだ。

「なん、ですか?」
「出口探してるんだけど。とりあえずドアから出ていっていい?」
逆さのまま、男が聞いた。左目は黄緑色に発光している。
「どうぞ!速やかにお帰りください」
勢いのまま玄関を示す。
男は床へ降り、私とすれ違って出ていった。

後ろ姿が見えてドアが閉まり切る前に、ガラリと音がした。真後ろのベランダから、同一人物が入ってきていた。
「うわぁ。びっくり。終わった」
男がいう。
開いた口が塞がらない。ここは二階だ。天井に立った事といい、不可思議にも程がある。
「どうしたものかなぁ。とりあえず紅茶いれてくれる?」
男は悠々と私の椅子に座った。私は動けずにいる。

「あなた、誰ですか?」
「あー」
初めて気づいた、と男は立ち上がる。
「どうもこんばんは。ご機嫌いかがですか?今日からここが居場所になったカラスです。どうぞ宜しくはしませんが、見過ごしていきましょう」

「え、わかりません」
笑顔で並べられて、素の声が出た。男もポカンとしている。
「え、見てたでしょ?」
不思議そうに男は問う。あやふやに私は頷く。
「手品みたいな、奇妙なものを見ました」
「手品じゃないよ。種も仕掛けもない。この空間が、俺の居場所になっちゃっただけで」

「……化け物ですか?」
「失礼だなぁ。ヒトから逸脱しちゃったけど、化け物は言い過ぎだね。君は酷い奴だよ」
「あ、すみません。じゃあ、超能力者ですか?」
男は眉間にシワを寄せる。

「それも嫌な響きだなぁ。そういうの嫌い。何というか、色々あって変わった生き方を選んだだけだし。敢えていうなら、変人だね」
「へんじん」
「そうそう、変人」
何故か嬉しそうに頷いている。友好的な雰囲気を崩すことなく、男は言う。

「それで君は、ここの住民だよね。生きてるの?」
一瞬息を飲んだ。男はごく自然な態度だ。私の頬は引きつる。
「……生きてますねぇ」
「じゃあ引越しを検討してるとか」
「ないですねぇ」
男は不満そうな顔になる。

「引っ越した方がいいよ。じゃないと、俺と暮らすことになるよ?お互い不快だよ?知らない人とはいない方がいいよね?」
押され気味なのが、なぜなのか。引越しとは簡単に言ってくれる。

「確かに、そうですけど、本当に出ていけないんですか?」
「俺がベランダから入ってきた時、何考えてたの?
目が笑っていない。恐らく、馬鹿にされつつある。
「……悪い冗談かなって」
「俺も同じ意見だよ。気が合うね。じゃあもう一回やったら、引越し考えてくれる?」
「それは、難しい相談で」
「まぁいいや。今度は逆から行くから、玄関の鍵閉めといて」

男はベランダに向かう。私が鍵をかけたことを確認してから、男は柵を飛び越えた。何のためらいもなく、呆気なく落ちた男に衝撃を受けている間に、玄関のドアが開いた。

「じゃーん。どうも悪い冗談です。ご覧いただきありがとうございました。よし紅茶を飲もう。早く入れて」
もう一度、私の椅子に腰かけたので、私はふらりと台所へ向かう。
「……お湯を沸かします」
「俺、茶葉が好きだから買っといてね。あとチョコも必須」
「勝手な事を言いますね」

ヤカンを火にかけ男を見ると、足を組んで自慢げに列ねる。
「そうだよ。結構、我儘なの。でも、やる事はちゃんとやるよ。俺は今まで、色んな所で様々なことをやってきた。猫を拾ったり、宝探しを見物したり、それぞれの場所で居場所をもらう代わりに、役目を果たしてきたの。それが、俺の存在意義であり、仕組みだから」

カップを2つ、ティーパックは急須に。お湯を注げば、華やかな香りが広がる。
「チョコはないです」
「買ってね。俺の必需品だから」
「あの、いつまでいる予定ですか?」
カップを手にして、男は首を傾げる。
「俺の役が終わるまでだからなぁ。何すればいいかなんて、教えてもらってないし。自分で見つけて役目を果たすの。だから数日か、数十年か」
「数十!?」
驚く顔に、何度も頷いている。引越しを勧めているようにも見える。

「これまでは廃屋とか、路地とか、人と接点を持たない場所で、淡々とやる事やってきたの。それが今回、初めて他人の家に合致しちゃった。わかる?出来れば君を死人として扱いたい。でも君はこの世界の法に則り、家賃を払ってここに住んでる。だからここは俺の空間だけど、君にも権利はある。出来れば君が引越せば、お互い解決できるよね」
「死人、ですか」
「嫌でしょ?俺は嫌だなぁ。しんどいなぁ。でも手違いにしてもさぁ。喜劇か何か?向いてないよ。俺は端役で充分だっていうのにさ。嫌になるわ」

独り言の多い男は、紅茶を煽り飲み干した。私も紅茶を飲む。久しぶりに飲む気がする。追加の湯をいれて、男は二杯目にはいる。
「どう?引っ越す気になった?」
「困りましたね」
「うん、困ったよ」
「でも先週越したばかりで」
「あっじゃあ荷物まだ段ボールの中でしょ?」
「昨日全部開いたばかりで」
「うわぁ」
二杯目も簡単に飲み干し、男は部屋を見渡してため息をついた。

「俺の趣味に合わないなぁ。模様替えしていい?」
「いや、やめてほしいですね」
「俺の場所だけどね。うーんそれじゃここでいいか」
男は壁とクローゼットの間に嵌った。そのまま動かなくなり、私は挙動不審になる。
「え、何してるんですか」
「寝るんだよ」
「立って寝るんですか」
「うん。一番落ち着くし」
「はぁ」
そこで私は、不意に気づいた。

「名前は何ですか?」
一度閉じた瞼が、ゆっくり開く。
「元本名の偽名がいい?それとも元偽名の本名か、正真正銘の偽名」
「偽名だらけですね」
しばらく悩んで、聞いてみる。

「一番呼ばれたいのはどれですか?」
「え、特にないよ。干渉したくない」
「でもしばらくいるんですし、とりあえず何かひとつ」
男は考え込み、一言いった。
「アンでいいね」
「それはどれですか」
「正真正銘の偽名かな」
ニヤッと笑って、男は寝に入った。私もカップを洗うのは明日にして、手っ取り早く寝る準備をする。

「あんまり煩く騒がないのは高得点だなぁ。使えるなら、いてもいいねぇ」
男はそれきり、黙り込んだ。

カラスは悩む

アンとの共同生活は、絶妙に噛み合った。
まず互いが互いを干渉しない。ひとつ、アンが紅茶とチョコレートを要求することだけで、あとは一切お互いの口出しはしない。むしろする必要がなかった。

アンは端から私に興味はなく、動き回っていても目もくれない。私もアンが自分の役割を探すため、宙をぼうっと眺めていたり、天井をうろうろしたりを咎めはしない。ネズミとの同居に近い気もする。

アンは帰る場所を思えば、私の部屋に固定されるらしいが、街の探索などの出入りは自由にできた。玄関であれ、ベランダであれ、彼はふらりと出ていきふらりと帰ってくる。
変人と自称するならベランダから出ていくのは、いささかおかしいとは思う。
「大丈夫、人だってよく飛び降りるでしょ?」
「そうそう飛び降りませんよ」
「そう?簡単なのになぁ」
何がだろう。紅茶を入れて一服していると、ドアベルが鳴った。

友人が菓子袋を持って訪ねて来た。
「近くに用があったから寄ったの。あ、でも今日は彼氏さんがいるんだね」
飛び上がりそうになった。
勢いよく振り返ると、カラスも驚いた顔で固まっている。
「二人分入ってるからね。それじゃ」
彼女は簡単に挨拶をして去っていった。紙袋に、チョコレートケーキが二つ入っている。

「彼氏、に見えたんですかね」
「いや、彼氏なんだ。もうここでは、君は俺の彼女として成り立っている」
こそばゆい話に聞こえたが、彼は至極真面目に紙とペンを手にした。
「共同の空間を使っているから、世界自体が俺らをそう定義にしたのか、俺の役割に君が関わっているのか」
言って苦い顔をしている。

「ラブコメは勘弁して欲しいなぁ」
「厳しいですね」
ぐいと紅茶を飲んで、彼は久しぶりに私にまっすぐ向き合った。
「足掛かりになれば何でもいいけど」
「手がかりじゃないんですね」
「君の名は、モモンガにしよう」
「えっ私ちゃんと名前ありますよ!?」
これまでで一番大きな声が出た。彼は頷きながら、モモンガと書いている。

「こういうのは、形式が大事なんだよね。モモンガは何人家族?」
「……両親だけです」
「どこ出身?」
「この地区で生まれ育ちました」
「一番遠い旅行はどこ?」
「多分、3県先です」
「空と海と地はどれが一番好き?」
「えっと、地面ですけど飛行機は結構好きです」

まるで取り調べだ。彼はひっきりなしに質問をして、答えを書いていく。淡々と迷いない問に、私もテンポよく答えが出てくる。
「自分の人生に違和感を感じたことは?」
「ない、ですけど、現状はかなり違和感ですね」
「確かにねぇ」
彼は一息ついて、紙袋を漁る。私は黙って皿とフォークを用意した。私の分の皿を見て、え、お前も食べるの?みたいな顔をしたが、黙って分けてくれる。

「うーん、どっちかわからないけど、俺の利益を優先的に考えよう。君は、君が感じる何かを探して」
「……具体的にはどんな事でしょう」
「さっきの友達みたいなのでいいよ。自分が変だな、と思うことがあれば要相談だ」
ペロリとケーキを平らげて、私の方にもフォークを伸ばしてくる。私は遠くへやりながら、自分の分を食べていった。

アンは自分の居場所が安定したおかげで、私を引き連れてより活発に動くようになった。博物館、美術展、商店街、小道裏道袋小路。傍から見ればただのデートだ。けれどこんなにも真剣で、殺伐としたデートはあまり存在しないだろう。

「アンさんの格好って浮世離れしてて目立ってませんか」
「俺を変だと思う奴は、だいたい元が変な奴だね。俺は溶け込むために居場所を探して生きているし、現に誰も俺を振り返ってないでしょ?」
彼の言うことは正しかった。誰も、私たちが見えていないかというほど、目が合いもしなかった。

「モモは理系?文系?」
「モモって何ですか」
「モモンガって長いじゃない」
素直に名前を尋ねないのは、彼のモットーかもしれないとも思った。彼自身が偽名を名乗ったからだ。
「理科は好きでした」
「化学?物理?生物?地学?」
「うわぁ、何でしょう。地学には興味ありましたけど、習いはしなかったです」
「空は好きなんだね。でも、持は地面に生えてる」
よくわからない。
「きっと君はヤギに近いね。あぁでも君はモモンガだ」
「ややこしい事言わないでください」

プラネタリウムを見て、デパートの上階でケーキを食べ、石ころに目を凝らす。違和感なんてどこにもない。これだけ歩き回っているのに、お金が尽きないことくらいだ。

「仕方ない。奥の手で行こう」
男は諦めたふうに、言った。疲れ果てた、公園の鉄棒の上だ。家に帰ってお茶とチョコレート、私は晩御飯を済ますと、彼が着ていたコートを脱いだ。
ブーツさえ脱がなかったのに、ロングコートをこちらに差し出していて、戸惑いを隠せない。

「これ羽織って」
「え、なんか嫌です」
「俺も嫌だよ。とりあえず、被るように襟を握ってて」
うんざりしている様子に、渋々とぞろびくコートを羽織る。チョコレートの匂いが強い。もしかしてこの男はチョコレートで出来ているのかもしれない。

「そんな訳ないね。よし、一瞬我慢して」
コート越しに抱えられて焦る。男はベランダに出ると、塀に私を立って私を置く。星の見えない夜だ。
「えっ何でここに立たせるんですか!?降りますよ」
びゅうと足首を風が撫でる。不安定で、いつ落ちるのかと泣きたい。

「君はここから飛び降りるんだよ」
「死ねってことですか!?」
風でネクタイが揺れている。男は何も怖くないと、当たり前に言う。
「だってモモンガだし。モモンガは夜を滑空するんだよ?」
「知ってますよ。知ってますけど私はモモンガじゃないですし」
「モモンガだよ。君はモモンガだ」
彼は日常単語のように繰り返す。あまりに普通に言われて戸惑う。私は、モモンガなのか。洗脳というより、呪文に近い気がした。

「君には特別にコートを用意したんだよ。飛べない理由がないね?」
「私、死んだらどうしましょう」
震えながら聞けば、呆れたような返事があった。
「飛べずに死ぬモモンガは間抜けだと思うけど、万が一の時は埋葬するね」
「火葬じゃないんですか」
「俺手続きわかんないから」
いよいよ不安になってきたが、腹を括るしかない。袖の通っていないコートを引っ張って、男は道連れに近い形で私を落とした。
声を上げるまもなく、バサリとコートが凧のように広がる。風が真下から吹き上げて、部屋よりも高く舞い上がった。

「飛んだ」
「当たり前だって」
クラゲが漂うように、宙の一点に留まった。夜景が下に広がって、落下は怖いがこのまま落ちるという要因がなかった。男のお供に上がっているだけだからだ。

「よく見て。違和感はない?」
風で左目が見えている。
蛍のように発光する目のおかげで、視線の先には一時的に閃光が走る。私は初めて宙に浮いたのに、違和感とやらの難問を解こうとした。
黄緑色の光を目で追い、上を見上げ、後ろを振り向く。体が冷え切る前に、私は気づいた。

「アン、あれは何?」
「どれ」
左45度を指差す。彼はそちらを向いて、瞬きをした。
「南だね。黒が見える」
「あと赤い点が二つある。遠くて、見えにくいけど」
「ん、黒が揺れたよ。風になびいてるみたいだね」
「片方の赤が一瞬隠れたわ。髪か何かかしら」
「動じないねぇ。近寄っていくのも不用心だしなぁ。あれ、蹄があるんだけど」
しばらく検討会をして、結論が出た。

「黒い馬が、宙に浮いている」

アンは足を組んで頬杖をついた。私は夜闇に溶け込んだ、ずっと遠くの馬を見ている。
「同業者かなぁ」
「馬も、居場所を探したりするんですか」
少し落ち着いて、私はアンを見た。彼は馬から目を離さない。
「俺の知ってる馬は透明で、宙を駆けてたからねぇ。居ないわけじゃないと思うよ。でも、これはどうかなぁ。威厳がありすぎるよ」
「どうしましょう」
「じゃあ、とりあえず帰って紅茶を飲もう」

突然、浮力が消えた。急降下に脳が揺れて、混乱しているうちに家のベランダに戻っていた。
「お湯沸かして」
「気分が、悪くて」
「えーしょうがないなぁ。今回だけ俺が沸かすよ」
部屋で気分が良くなるまでに、男は紅茶を三杯も飲み干していた。

カラスは思いつく

アンが滞在して、二週間がすぎた。
彼は壁を昇り降りしながら、考え込んでいる。

「俺一人で見に行っても、位置がわからないんだよね。つまり君は、俺の目となり足となるって事で確定した」
側面に直立して、男は言う。私はココアを飲みながら、曖昧に頷いた。
「でも、あんなにでかい存在、どうしたものかなぁ」
「どうしましょうね」
「よし、考えに行こう」

ベランダの戸を開けられる前に、暖かい格好に着替える。コートは貸して貰えない。
「モモは滑ることを覚えたんだから、一人で来れるでしょ」
塀によじ登る私を見下ろしながら言ったアンに、驚きを隠せない。

「あれはアンさんの不思議パワーのおかげではないんですか」
「俺が止まり木だと思って目指せば問題ないから。俺行くよ」
男が飛び降りた。彼がこうだと言った事が全てなのだ。
私も慌てて、下へ落ちる。地面へ衝突はしなかったが、前回のような凧では無い。
ただ足元に風が吹いて、立ったまま空気の上を滑っていく。ジェットコースターのようだ。何もしないまま、アンの後ろを付いていき、気づけば例の上空に居た。息が上がっている。

「いいね。非常にモモンガっぽかったよ」
「景色と気圧で、クタクタですよ」
「大丈夫、気にしてないから。よし、馬を探して」
アンの隣で南を見る。遠く見えていた存在は、肘一本ほどに大きくなっていた。
「近付いてますね」
「近いの?」
「ほら、あそこにいますよ」
指さして、あぁと男は頷いた。
「本当だ。やっぱり威厳があるなぁ」
「無言の圧力というやつでしょうかね」

男が不意に私の襟足を掴んだ。南に近づいてるのはわかるが、如何せん首が締まっている。腕を叩いて意思を示せば、パッと引力が消えた。
「死に、ますよ」
「大丈夫大丈夫。これをどうにかするまで、君は死ねないから」
笑顔で言っている。グイグイ近づいていくうちに、寒気が走った。

「なんだか、寒いですね」
「そう?」
「どんどん冷えていく感じがします」
馬は二メートルを超えている。真っ黒な体は鍛えられて、たてがみが風に揺れるきり微動だにしない。まだ数キロ距離はある。この馬はどれほど大きいのだろう。

カラスは考えて、戸惑いなく急降下する。ほぼ引きずられて下に行くと、寒気が強くなった。震える私を見たあと、今度は急上昇する。脳がどうにかなりそうだ。
上にあがるほど寒いはずだけれど、馬より上に行くと震えは止まる。男は言った。

「わかった。冬だよ」
「ふ、冬ですか?もう冬ですよ?」
「冬将軍っていうの?強い寒気だよ」
納得するアンだが、よくわからない。
「玄冬ってやつも、黒だし。大方冬将軍だね」
「でも、冬将軍は北から来ますよ?」
「だから問題なんでしょ。馬だから南っていうのは安っぽいし、とりあえず聞こう」

アンはこれ以上は近寄らず、両手を口に添えた。
「もしもーし、何されてるんですかー?」
大きな声が通っていく。馬は動かない。
「もしもーし、カラスがお送りしていまーす。あなたは誰ですかー?」
返事はない。カラスはしばらくして振り向いた。

「俺の声聞こえてる?」
「私はつんざくように聞こえてますけど」
「よかった。じゃあアレには届いてないって事だね」
それからしばらくアンは何かを喋っていた。口元だけでもぞもぞ言っていたり、電波のような頭に響く音を発したり、どうにか馬との意思疎通を図ろうとした。

「ダメだ。全然、手応えがない。モモ交代」
「わ、わかりました」
私も真似して口元に手を持っていく。
「聞こえますかー?」
聞こえていない。少し恥ずかしい。

「なんか直感で、届きそうな音程とか試して」
カラスは空中に座り込んでいる。水筒に入れた紅茶を飲み優雅にくつろぐ横で、私は無茶振りを必死でこなした。寒いから早く終わらせて、一杯いただきたい。
馬は貼り絵のように動くことは無かった。紅茶はもうない。
「まぁ、仕方ないねぇ。帰ろう」
二回目も、すごすご帰る結果になった。

「昼間は下からじゃ見えないですね」
「上からでもわからないんだよ。行ってみる?」
二人並んでベランダから上空を見る。白っぽい空は肌寒い。
「昼は流石に、人に見られるんじゃないですか」
「まぁ見えないって保証はないなぁ」
塀に寄りかかって、アンは項垂れる。

「冬かー黒い冬ねぇーどうしようかなー」
「でも、季節がああいった形で存在するって不思議ですね。あれは本当に冬ですか?」
アンは短く息を吐いて、部屋に入った。もちろんブーツを履いたまま、こたつに入って机のチョコに手をつける。

「馬鹿だね。姿かたちなんて、見方によって変わるもんでしょ。君は人の皮を被ったモモンガなんだから、つまりアレは、冬の格好をした馬なんだよ」
「馬の格好をした冬じゃなくて?」
「どちらでも、境界線は曖昧だから。ただどうすればあの馬が消えるかが問題なわけだよ」
男は銀紙を量産していく。私は買い置きのチョコレートを補充して、ソファに座った。

「南に居ちゃいけないなら、空気ごと回転させて北へ配置するのはどうですか」
「奇抜さは採用するけど、無理難題だね」
「馬の天敵を送り込むとか」
「天敵って、ライオンか虎?獅子座か白虎あたりを呼ばないといけないんじゃない」
「大きな扇風機で追いやるのは」
「扇風機を持つ手がない。いやでも、そうだね。所詮冷気の塊だから、いい線いってるよ」
男は考えながらも手を止めない。

私はぼうっと天井を見上げた。それからアンを見て、彼がやってきた時のことを思い出す。
「アンさんはどうやって消えるんですか」
「馬鹿なこと聞かないでよ。俺はまだ死んだことないから」
「いや移動手段です。アンさんは、どうやって次の場所に行くんですか」
男は机に頬杖をつく。
「言わなきゃダメ?」
「アンさんもあの馬も黒いので、ヒントになるかなぁと思いまして」
カラスは少し考えて、コートの懐からナイフを出した。
例の壁を切ったナイフだ。

「ひとつの空間での役目を終えると、瞬きが見えるんだよ。光にこの刃を当てて切り開くと、もう次の居場所の隙間に入ってるって感じかな」
「何も光っていない時に切るとどうなるんですか」
「この間見たでしょ。真っ黒に繋がる」
念押しのためか、机に刃を当てた。直径5センチメートルの穴は真っ暗で、何も無いようで何かありそうな気になる。
「手を入れてもいいですか」
「噛まれるよ」
「……何に?」
にんまり笑って、黙って紅茶を飲む。

「この黒にあの馬を溶かすってどうですか」
「……なるほどねぇ」
男は人差し指を穴に入れた。私は指から目が離せない。
「でも難点はあの馬が微動だにしないことと、この黒に引力がないってこと。つまり、両方並べても何も起こらないし何も解決しないよ」
指が出てくる。けれど入れた部分から先は、綺麗になくなっていた。男は平然と続ける。

「確かにこの闇は無だから、溶かすって発想は限りなく解に近いね。奴は闇に紛れ溶け込んでいるだけであって、闇に溶けてはいない」
もう一度穴に指を入れれば、人差し指は元に戻っている。心臓がうるさく動いている私に、男は上機嫌で指を動かして見せた。

「黒に溶かして、冷気を分散させる……うん、いいね。いけるんじゃない」
男は嬉しそうに笑うと、テレビをつけた。
「どんな方法ですか」
「実行の直前に言うよ。すぐに結果を得られるかわからないから、張り詰めず気楽にやろうね」
「今晩ですか?」
「いや、明後日にしようか」
お天気お姉さんが週間予報を説明していた。しばらく冷え込みが厳しく、明後日まで雪だそうだ。

「まぁ滞在が延長できるなら、それもいいな。結構居心地いいしね」
ゆるく机に突っ伏す男は、不法侵入者だったとは思えない。こたつは変人もダメにするのか。
「居座る気ですか?」
「冗談言わないでよ。そんなに慌てなくても、俺は必ずこの空間から出ていくし、君が先ってことはもうないよ」
警戒心の薄れたカラスは、一粒チョコを渡してくる。

「俺の演目って多種多様なの。氷河期の終わりを見届けたり、少年の通り道にコインを落としたりさ。ただの一瞬で終わることもあれば、永遠に近い時間を一箇所に留まることもあるの。けど今回は春までというタイムリミット付きで、容易くはないけれど大役でもないミッションね。だから、心置きなく休憩が取れて、快適なわけ」
「そうしないと、アンさんの居場所っていうのは得られないんですか?」
「……そうだね」
男は口元で笑う。

「生きたいと思ったら、そういう形でしか生きられなかったんだよ」
私は受け取ったチョコレートを口に入れた。テレビはスポーツ報道をしている。
「もし、役を演じきれなかったらどうなるんですか?」
「すべてがゼロになる」
言って、男は声を上げて笑った。

「ただ原点に帰るだけさ。居場所という名の萎れたマスコットを見つけた日に巻き戻っていくだけ。どんな失敗も、やめたいなと思ったとしても、あの時の生きたいと思った気持ちに焼き尽くされるんだよ。全部が夢だったことになるの」
「死ねないんですか」
「死ねないよ」
「苦しくないですか」
「全部が舞台だからね。俺は人気の高い役者だから、それだけで楽しいの」
紅茶を飲み出すカラスを、なんとも言えず見ていた。

カラスは帰る

冬至を過ぎた某日。
天気は晴れ、気温は冷蔵庫より一度低く、町灯りを消せば満天の星空が広がっているはずだ。私の部屋、彼の空間で私たちは向き合っていた。
彼はいたずらっぽい笑顔で、私に言う。

「モモは馬を見つけるのはうまいけれど、暗くて輪郭まではっきり見えないでしょ?」
「そうですね。探すにも少し時間が必要です」
「そんな君に、とっておきの逸品を」
彼は左手を自身の肩甲骨の方へ持っていく。手を戻したときには、一枚の黒い羽根があった。

「これを目に張れば、暗闇も真昼のように明るくなる」
そう言って、彼は羽を目隠しに張り付ける。驚く前に、目の前の男が黒いシルエットにしか見えず、声が出なくなる。
「君が見て、俺が対処する。モモと協力することが、今回の大舞台だからね」

彼はそのままベランダに行き、塀の上に立つ。私は外を見て驚いた。すべてが真っ白に見えるのだ。灰色がかって建物や街灯は見えるけれど、ただ白い世界だった。
「立てる?」
「はい、どうにか」
彼は口角を上げて飛び降りた。私もあわてて、後につく。ただ目の前の黒い存在に向かって滑っていった。ふいに止まったところで、あっと声がでた。

「います。くっきり見える」
真っ赤な目と目が合う。向こうはカラスの羽しかみえないだろうが、睨むほどの迫力で、身体が凍る。視界には全身が映らない。馬は近いのか大きく膨れ上がっているのかわからない。
「早いね。どれ」
カラスは私の後ろへ回り込む。

「ああ、本当だ。これは恐ろしい」
くすくすと笑い声が首筋にかかる。
「よし、後ろへ下がるから」
彼は例のごとく私の襟をつかんで、どんどん後ろへ引きずっていく。苦しかったが、馬の目が遠ざかるにつれて、硬直は溶けていく。
日常生活であんなに厳かなものに出会うことはないだろう。

「よし、いいね。じゃあモモ、親指と人さし指で長方形を作って」
「はい?」
「そんなことも出来ないの?両手を使って、人さし指と親指をくっつけるの」
「……はぁ」
私は言われた通り作って見せる。自分の指も黒く見えて、多少ショックを受けた。
この黒は、何の黒だろう。

「腕を伸ばして。馬の頭と足にピントを合わせる感じで」
私は遠くなった馬に向けて四角を合わせた。馬は四角に収まったが、数センチ小さかった。
「あーダメ。きっちり収めるのがコツだから」
背中を押されて、されるがままだ。でもどうでもよかった。私は馬の頭、強いて言うならぴんと立った耳と蹄に指を合わせることに集中する。

「あった」
「いいね」
すると私の背中に、男の胸が当たる。彼との距離がゼロになった。
「えっ何!?」
「俺もモモの指に合わせて馬を捉えるの。こんなことで焦らないでくれる?」
公言通り、彼は私の手の外から腕を伸ばし、指を四角へ合わせる。
「モモ、前へ足伸ばして」
「はぁ!?」
「安定しないから、さっさと足伸ばして」
私はおそるおそる足を延ばした。彼も即座に私の太ももに足をかける。空気中でアンの上に腰掛ける格好になった。

「よし、大丈夫」
「何が大丈夫なんですか」
「俺たち恋人同士だから大丈夫大丈夫。いい、絶対ピントを外さないでね」
彼の頭が動く気配はない。つまりは、彼は私の目を通して、左目で馬を捉えているのだろう。

「そのままゆっくり指をスライドさせて、長方形を小さくしていって」
「う」
近い。じわりと指を動かし、両手の人さし指へ近づけていく。追うように、アンの指の影も動いた。
すると、馬の輪郭が歪んでいく。長方形から、馬がはみ出すことはない。なるほど、マジックのようだ。ただ緊張から力のバランスが取れず、ぶれてしまう。

「集中しろって」
イラついた声が聞こえて、腹が立つと同時に目が覚めた。運転席のシートに身を預けるように、彼に背を押し付ける。彼は微動だにしなかった。
馬はどんどん横へ広がり、枠の中で黒い塊になる。
「人さし指をくっつけて」
「潰していいの?」
「潰すんだよ。それから、合わさった指をスライドさせて指先から離して」

言われた通り、親指と人さし指の付け根がくっついた。馬の姿はもうない。そのあと、指を滑らせじりじりと、人差し指の関節をなぞっていく。指先が離れた時、空気に黒い粒子が散り、消えていった。

「大成功!」
キンと耳が痛い。足場がなく、自分から離れることができない。アンは両腕を天へ上げて、何度も歓喜の声を上げた。
「ミッションコンプリート!やったね!一発で成功なんて俺って本当に冴えてる!さすが!」
「ちょっと、離れて」
「あぁそうか」

彼は上機嫌で、何事もなかったように体を離し、私の前へ回り込む。べりっと、目の羽を剥いだ。途端に世界は黒く、街灯は白とオレンジの光が地面に広がって、にっこりと笑うアンと目が合った。
「これで終わり。モモお疲れ」
そして高笑いをして、彼は部屋へと急降下していった。

彼の帰り支度は早かった。ポケットにあるだけのチョコレートを詰め込み、紅茶を飲む。
「ここの世界のチョコレートって本当においしいよね。次どうなるかわからないから缶で持っていきたいな」
「ないです」
「だよね」
ここ一番の声で返事がある。私はソファに座って様子を見ていた。
「本当に、終わったらあっという間なんですね」
「そうだよ。俺にしかないルール」
彼はこちらを見ない。

「アンさんは、」
言おうとして飲み込んだ。あまりにも馬鹿馬鹿しい質問だった。無表情で、紅茶のおこぼれをもらう。
「覚えてられるわけないよ。俺今のところ万単位で移動してるし」
知ったように彼は言う。口が歪んだ。
「しんどくないんですか」
「覚えていようとすると、潰れるんだよ。終わったことはそれ以上にはならないし、世界はさっさと俺を忘れる。何の利益にもならないんだから、俺は俺を信じて、生きるため目の前の役に没頭するね」

彼は絨毯の上に座る。笑顔が憎たらしかった。
「こっちとしては、永久的に残る出来事ですけど」
「知ったこっちゃないね」
大声で笑ったカラスを足でける。
「まぁ、モモは異例中の異例だし、少しは覚えてられる可能性はあるけど」
「別に覚えてなくていいです」
「はーそう」
にやりと笑って、例のナイフを取り出した。彼の出口が見えたのかと、私は部屋を見渡す。

「モモは勘違いしているよ。俺のように移動しなければ生きられない存在や、生まれ変わっても一つのものに執着する運命や、ひたすら生き続ける神もいる。それは不幸でもなければ幸福でもきっとないね。モモは輪の中に入っているんだから、いつまでも記憶に縛られなくていいんだよ」
「……何の話ですか?」

「まぁ、巡りあわせってあるって話。ただ、俺に覚えておいてほしいんなら、目印をつけておくけど」
思わず眉間にしわが寄った。彼は良心的な顔をしている。なんだろう。私はそんなにも置いていかれる動物のような顔をしているのか。
「アンさんが、どうしてもっていうならいいですけど」
「馬鹿だなぁ。最初から思ってたけど、モモって本当に馬鹿だなぁ」
「ここから出られない間抜けに言われたくないですね」
「世界がそうしたんだから、仕方ないって何度言えば」

ピタリと彼の動きが止まった。真下を見た。私もつられて絨毯を見る。チカリと、小石が光ったような瞬きがある。彼はナイフを動かした。
絨毯に切れ目ができる。男が当初入ってきたときのような、真っ暗ではなく光り輝いている。
アンはするりと入り込んだ。私はとっさに穴を覗いた。狙ったように男はナイフを振って、左の首筋に傷をつけた。皮肉気に男は笑う。

「ばーか」
そう言って、男は完全に光に埋もれ、絨毯の切れ目は閉じていった。呆然と、私は首を触る。血は出ていない。
「……そんなに、馬鹿かなぁ」
私はしばらく座り込んでいた。

彼の言ったように、世界は男を忘れていた。私には彼氏の影なんてなく、私は空を滑らないし、日はのぼり季節は巡る。唯一、私の部屋には茶葉が残っていた。同じように、首筋に小さな傷が残っている。

絨毯の光の中で、目を凝らしたとき目の五つある生き物が一瞬見えた。カラスはマルチに演劇をしているらしい。
彼が生き残れるのか、必要のない心配を数分して、私は紅茶を飲んだ。

ワタリカラス

ワタリカラス

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-04-24

CC BY-NC-ND
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