放課後

宇宙が好きな女の子と絵が上手な男の子の話。

 君は覚えているかな。私はきっと忘れない。放課後の教室は、春先の土の香りがしていたね。

 宇宙は私と同じ。地球や太陽といった「星」を構成する成分が、人間を構成する水素や酸素と同じであると聞いた時、私は世界が自分と繋がっているのだと実感した。眠たい理科室は、ビックバンの舞台だった。心臓の高鳴りを感じた。手のひらを見つめて、触ってみる。私を構成している成分は、宇宙と同時に生まれたんだ。
 ずっと疑問だった。なぜ人は生きて死ぬのだろう。人間という存在が生まれて死ぬことに意味があるのだとしたら、それは何だろう。そして、私が私であるという事に、果たして意味はあるのだろうか。七十億人分の一人がどんなふうに生きて死ぬのか、そのことに価値はあるのだろうか。そんな疑問が些細であるように感じた。私は星であり、宇宙であって、存在は、意味なんて無くても最大限に肯定されるべきなのだ、と。
「佐藤さんは、いつもそんなことを考えているの?」
机に座って脚をぶらぶらさせながら、君は言った。きっと三年間で思ったように身長が伸びなかったのだろう。ズボンの裾を折っている。
「いつもじゃないと思う。多分」
私は教科書を閉じた。君は教室だといつも黙っているから、私は放課後のこの時間が大好きだった。
「君は不思議な人だね」
「そうかな。あなたには言われたくないけれど」
だって私はあんな絵を描かない。そう。君は絵がとても上手だった。

「谷口君」
美術の先生は立ち止まって、小さく呟いたきり絶句した。その声はとても小さかったから、お喋りに夢中だった殆どのクラスメイトは気が付かなかっただろう。そして当の君も、画用紙に筆を走らせることに夢中で、彼女の声は聞こえなかったみたいだね。
 私はそっと視線を移して画用紙を盗み見た。そして、美術の先生と同様に息を呑んだ。

「あなたの絵を見た時も、ビックバンと同じ感動があったのよ」
ビックバン。隔絶されたかのように見える、世界の延長線上に再確認する、私、という存在。私が世界を肯定する事によって、世界のすべてが私になる。
「君に絵を見せたことなんてあったかな」
「私が勝手に見たのよ。美術の時。花の絵をかいていたでしょう」
「ああ」
君は漸く思い出した。
 それは、深い藍色の薔薇だった。花弁の一枚一枚には異なる世界が描かれていた。ある花弁は真夏の入道雲。ある花弁は夜の都会。そしてまたある花弁は、何種類もの魚が泳ぐ、海。
「とても素敵だったわ」
そして、その絵を見た瞬間、私は恋に落ちた。
「ありがとう」
君は少し言葉を探してからそう言った。
「宇宙って果てしなく外側にあるみたいだけれど、本当は手の届くところに広がっているのね。私、あなたの絵がとても好き」
「佐藤さんは、宇宙が好きだね」
帰り支度を始めた私に、君はそう言った。今度は私が少し考える番だった。
「宇宙が好き、というよりは、宇宙を無意識に肯定しているのかもしれない」
「どういう事?」
「そうね」
私は言葉を探した。昔から、私は私が自分の気持ちを表すのに最も適切だと思う言葉を選んできた。そのせいか、いまいち他人には言葉が伝わらなくて、時々こうして慎重に言葉を考えなくてはならなくなる。
「無限で、絶対的に正しいと私が思う存在を、私は宇宙と呼んでいるのだけれど、それは太陽系であったり、満天の星であったり、永久だったり、綺麗で完全なものなのではないかと思うの。もし私がそういった存在と繋がっているのであれば、私は自分がどんな存在であっても許せるような気がするわ。そして、そう思う背景には、無意識的に宇宙を肯定する私がいるのではないかなと思ったのよ」

 夕焼けの坂道は、もしこの世が果てるのであれば、きっと理想的で最も幸せな結末として映るのであろうと思われた。市街地の屋根はとろりとした光に抜き取られた影で、私たちは制服姿の影法師だった。
 私は君と別れた。君はいつも通り頭を下げて帰路に付いた。

放課後

放課後

懐かしくて温かい思い出を、慈しむ様な作品にしたいです。ささやかなやり取りを楽しんでいただければ幸いです。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-23

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