わたしがやりたかった死神

 窓を開けると、なだれ込むように風が入ってきた。車の中を一周して、また後ろの窓から抜けていく。汗で胸元に張り付いたTシャツを抓まんで通り道を作ると、からだの中にまで風が入ってくるようで気持ちがよかった。
 今日は一段と暑かった。朝のニュースでキャスターが熱中症予防を促しているのを見た。たしか38度を、超えるとか超えないとか。
 暑いからなにか冷たいものが食べたくなる。本能がからだを冷やせと言っている。できたら小豆のアイスがいい。小豆バー、おばあちゃん家でよく食べた。鈍器くらい硬いそれをぺろぺろと舐めて溶かすのが好きだった。
 運転席を見る。こいつは買ってくれそうにない。
 窓の外を見ながら、固まったからだをほぐすように伸びをする。天井に両手がぶつかって、ガンってすごい音がした。痛みに照れてヘラヘラ笑うも、無反応。もしかしたら見えてないのかもしれないと疑う。
 運転席に座っているのは、死神だった。だったというか、死神らしかった。今朝、本人がそう名乗っていた。ゴミ捨てに行って戻ったら部屋の前にスーツの男が立っていて、わたしに気づくと営業の顔をして名刺を渡してきた。そこに書いてあったのだ、死神と。えっと思ったのも束の間、意識は遠のき気付いたら助手席で揺られていた。死神が人連れ去る時に車なんか使うなよ。
 握られていた名刺にもう一度目を通す。思い出コンサルタント、死神。なにひとつわからない名刺を人は名刺と呼ぶのだろうか。人じゃないから呼んでいるのか。死神というのは死を擬人化したものとどこかの本で読んだ気がするけど、隣にいるのが本物だというのなら死は軽視されすぎだと思う。それにそのスーツ、もう少し格好というものがあるだろうよ。鎌くらい持っていた方がいいんじゃないか、わたしが心配することでもないだろうけど。
 もらった名刺をつまんで、ひらひらさせながら尋ねる。
「それで?どこ向かってんの」
 さっきから、なにを聞いてもただ前を向いているだけ。車は道の悪い森の中をガタガタと進んでいく。事件性があるものだったらどうしようとも考えはしたが、別に誰が待っているということもない。大人しくしておくことにした。
 不思議と怖さはなかった。行先はどこでもいいような気がしていた。
 額から汗が垂れてきたけど拭くものを持っていなくて、肩を額にくっつけるように拭くも、今度はTシャツが湿ってきて嫌な気持ちになる。助手席の前についている、引いて開けるタイプの物入れを探ると、ロープやライターに紛れてハンカチがあったので勝手に使った。おんなもの。
 彼は涼しい顔をして、汗ひとつかかずに運転を続けている。ワイシャツは一番上まで閉まっているというのに。
「暑くないの?」
 返事はない。
「死神って人死なせるとボーナスとか出んの?」
 縁起でもない。
「...どこでもいいけど、静かな場所にしてよね」
 うるさいところは、嫌いだから。
 目の前が暗くなる。トンネルに入ったんだ。お化けが出そうだけど、こっちには死神がついてるからと強気。
 オレンジの光を何個か追い越したところで、視界が開け、解放感と共に青が広がる。海だ。透き通った青。何千万もしそうな船が沖合に出ていて、ボードを持って波を待つ少年たちもちらほら。
「鳴いてるの、カモメかな」
 でも、それだけ。情報は、浅い層にしか届かない。どこまでも続いていく海に、開始五秒で飽きている。窓から顔を出すような好奇心も年と共に失われていったのか、そんなもの元々なかったのか。目頭を触って目脂をとる。その方が有意義な時間の使い方のような気がした。
 お刺身が半額で変えた時も、わざわざ行った雑貨屋が閉まっていた時も、きっと、オーロラを見た時でさえわたしは今と同じ顔で目脂を気にしているのだろう。興味を持ってほしいのなら、透き通った青じゃなくて赤い色にでもなるべきだと責任転嫁。潮の匂いもするはずだけど、鼻が詰まっているからなにも匂わない。
 ほんの少し、あばらの下あたりが痛む。
 海沿いをドライブ。サングラスでもしてきたらよかった。高速が近いのか、さっきからラブホテルが多い。学校や住宅街の近くに建てられないとなると、こういう車でしか来れないような場所に建てるしかないんだと聞いたことがある。人工的に作られたヤシの木が2本立ったホテル。入ったことある気がする。
 その後、どこまで行くのか、どこへ繋がっているのか、右にカーブしていて先が見えない道が続く。
「ねえってば、なんか言ったらどうよ」
 痺れを切らして立てつくと、彼ははじめてこっちをチラッと見て、でもまたそれっきり。死人に口なしとは聞くけど、死神もそういうものなのだろうか。
 赤信号で止まると、風が止み途端に熱くなる。死神はスーツの内ポケットから紙とペンを取り出すと、器用にハンドルを土台にしてなにやらゴソゴソ書き始めた。いいな、左利きなんだ。
 紙には「会いたい人がいる」とあった。読みやすくて、綺麗な字。どこで習ったの?と聞くと、死神にも学校というものがあるらしかった。
 十分ほど一回も曲がらず、車はまっすぐ進んでいく。わたしは雲と海の境を見ながら、ブルーハワイのかき氷が食べたくなっていた。
 しばらくしてまた顔色を窺うと、今度は彼の顔が曇っていることに気づく。眉間に寄った皺は、見るたびどんどん深くなっていった。
 もしかして、迷子とか言わないよね。
 疑って観察していると、急にハンドルから両手を離した。
「わ!」
 慌てて横からハンドルを掴む。
「ちょっとなにやってんの!」
 きつい言い方になったからか、彼は驚いた顔をした。一瞬流れた沈黙の後、目を瞑り、両手を肩の高さに挙げる。わたしもそれに倣って恐る恐る手を離すと、それでも安全に走り続ける車。
 全自動。
「全自動なんかい」
 だったら、むしろどうして今までハンドルを握っていたというのか。
 死神はポケットからスマホを取り出すと(もうこんなことじゃもう驚かない)マップを開いて、道を確かめ始める。図星、ビンゴ、大正解。人を連れ去るならせめて目的地は把握しておいてほしいものだ。
 どうやら行きすぎていたらしい。Uターンしてさっき来た道を左に曲がった。途端にあたりは草木が生い茂り、森の中に引き戻される。
 その景色に、妙な既視感があった。使えない鼻の奥がつんとした。しばらく走って、そこが高校時代授業をさぼってよく来ていた、野原へ続く道だと気づく。すごい大きな木があって、その頃はなぜか、惹きつけられるように通っていた。
 どうやら、彼の目的地もそこらしかった。待ち合わせでもしているのだろうか。整備されていない駐車場にだいたいで止めエンジンを切ると、大きくひとつ息を吐いた。
 大木への緩い坂道をヒイヒイ言いながら登っていくと、後ろから日傘をさして優雅に死神がついてくる。そんな言い伝えはないけれど、影をふまれたくないという気持ちがわたしを急がせた。
 木の頭が見えた。小走りになる。バランスが崩れて転びそうになるも、なんとか持ち直して前へ前へ。
 ワクワクする。ドキドキする。早く見たい、早く、早く。
 大木は、堂々と。十年前と同じ姿でそこにいた。
 人の手が入っているとは到底思えないが、姿形に存在感。生命力。そのすべてが、データをセーブして今日まで開いてなかったみたいにそのままだった。
 彼が到着するまでの間に、木の周りを一周してみる。そういえばとあたりを見渡すも、誰の姿も見えない。遅れてやってきた彼は緊張した面持ちで大木に近づくと、日傘を閉じてその幹を愛おしそうに触れた。
 「まさか、会いたかった人って」
 彼が懐かしそうに撫でると、大木もそれに応えるようにさわさわと揺れている。
 まるで会話しているように、死神は微笑み、大木は揺れる。その目は潤み、時折涙を見せた。さっきまでの無表情が嘘みたいな喜怒哀楽。
 取り残されたわたしは、両手を広げて横になる。それだけなのにパズルがぴったりハマったみたいな感覚があった。
 ずっとこうしたかった。不覚にも、涙が移って恥ずかしかった。誰にも見られないように拭って、深呼吸。葉っぱ越しの空を見つめる。
 何の不満のない生活。人より恵まれている環境。吐きたくて飲み込んだ弱音たちを、大木は吸い取って浄化してくれるような気がした。
 いい人になっていく。今、望んだ姿になれている。思春期のわたしは、それが気持ちよかったんだと思う。それなのに、どうして今まで忘れていたんだろう。
 不思議だ。でも、思い出せてよかった。忘れたままでいなくて済んでよかった。
 溶けるように暑いはずなのに、木陰にいたらそんなことも忘れてしまえた。挨拶が終わったのか、彼もわたしのそばに寄ってくる。
「頭の方に立つのやめてよね」
 ごめん、を含んだ苦しい顔で笑って、左に、同じように横になる。わたしたちは瞼を閉じて、そうして大木と、野原と、自然と、一体化していく。
 知ってる、知っている。この感じ、この感じ。
 死神と大木。ふたりの間になにがあったのかは知らない。どんなことを話していたのかもわからないし、尋ねても教えてはくれないことだろう。でも、大木がわたしのことを覚えていてくれて、死神にその話をして、それで今回わたしが誘われたんだということは、なんとなくわかった。
 よそよそ揺れる木。空気を洗浄し、雨を凌ぎ、わたしたちを見守ってくれている大きな木木。覚えていてくれたんだ。随分前のことなのに。
「ねえ」
 スッキリした表情の彼と目が合う。
「ほんとうは喋れるんじゃないの?」
 とぼけた顔で返される。彼はゆっくり起き上がると、すました表情で木を見上げていた。
 わたしの右耳は、ほとんど聞こえていなかった。働くうちに、時間に追われるうちに、徐々に徐々に聞こえずらくなっていった。普通の会話には困らないけれど、突然発せられる右からの声や何人もの声の聞き分けは苦手だった。
 彼は大木から、そのことを聞いていたのだろうか。筆談するほどではないにせよ、一日中ずっと、気にかけてくれたように思う。
 あばらの下あたりがぎゅっとなる。さっきとは、違う痛み。
「生きてるうちに、来れてよかった」
 ボソッと呟かれたそれを、わたしは聞きとることができた。
 死神が生を語るなよ。
「死神が生を語るなよ」
 彼の肩に触れる。ビビビと電気が流れた。それでも手は離さない。風に吹かれて、スーツがなびく。彼は死んでなんかいない。
「帰り、アイス食べたいから、コンビニ寄ってよね」
 たぶん、すごく嬉しそうな顔をしている。
「小豆のやつが、見つかるまで、帰らない」
 彼は困った顔でわたしを見ていた。それでも気勢溢れたわたしを見て折れたのか、めんどくさそうに何度も頷いた。
 わたしは、小豆のアイスがこの世のどこにも売っていないことを祈っていた。

わたしがやりたかった死神

最後まで読んでくれてありがとうございました。

わたしがやりたかった死神

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-21

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