アバンギャルドな牛
亀山ディピカは育ての父に「ロープの魔術師」と言われたことがあるほど、ロープの扱いが上手かった。亀山ディピカは別に取り立ててマッチョではなかったが、ロープを首に引っかけて絞めればだいたいの宇宙生物も野盗も仕留めることができる女だった。そして体幹がべらぼうに強く(母直伝のヨガで鍛えた)、どんな足場の悪い場所でもロープの扱いが狂うことがなかった。
その日亀山ディピカは、濃い霧の立ち込める浸水域の中を、木製ボートで進んでいた。水はいやにネバネバしていて、ボートの進みは遅かった。その水面の上に、木屑に混じって溺死死体らしきものがプカプカ浮かんでいるのを、亀山ディピカは見つけた。一応ゾンビであることも警戒した。対ゾンビ用の繊維を織り込んだロープを選び、その溺死死体じみたものに金具付きロープを投げて引っかけた。
なにしろ霧が濃いので、視界では人っぽい形がぼんやりわかるだけだったが、ロープの手応えは確かなものだった。引いている手応えもあったし、引かれている手応えもあった。どうやら生きているらしいとわかった。ボートの上であんまり力むとバランスを崩すので、亀山ディピカは少しだけ引く力を増やした。
水揚されたのは、どうやら五体満足な人間らしかった。それもアイドル歌手だったと思われる何かだった。ずぶ濡れになったアイドル歌手っぽい衣装はでかいクラゲに見えた。《でかくて可哀想なクラゲみたいだな》と亀山ディピカは思った。アイドル歌手だったと思われる何かは、水から揚がった途端に、あまりにも激しく咳き込みはじめたので、亀山ディピカは何だか声もかけられずボンヤリするしかなかった。数分とも思えるほどの咳き込みが終わったところで、アイドル歌手だったと思われる何かが、亀山ディピカに喋りかけた。
「ありがと、助かった、アタイは田中」「亀山ディピカ」亀山ディピカは田中と名乗る女と握手を交わした。その手がとんでもなくフニャフニャしていたので、亀山ディピカは驚いた。水揚げ直後とはいえ、人間の手はあんなに柔らかくなるものなのかと、亀山ディピカは不審に思った。そうして田中を観察すると、田中の肌の色はあまりにも白かった。
「白いね」と亀山ディピカは率直に言った。率直であることは亀山ディピカの基本だ。そのことで嫌がられることも幼少期より多かったので、直すべきかと育ての父に相談したこともあったが、「直すべからず」と言われたので、亀山ディピカは今も率直のままでいる。
「亀山は黒いね」
「インドの血、入ってるから」
「へえ、確かにそんな感じだ」
「なんで溺れてたの?」
「いやーそれがね、ひどい話でね」
田中の声は野鳥じみた高音なうえ早口で、そのうえちょっと鼻声っぽくてあんまり滑舌も良くなかったので、亀山ディピカは聞き取るのに苦労した。その田中の感情的な聞き取りにくい話によると、田中は見た目通りアイドル歌手だったらしい。
田中は三人組のアイドルグループ所属で、田中の他には中村と木下というメンバーがいた。中村はちょっと陰気な感じはあるが、まあ美人だった。誰がどう見ても青とか黒とかが似合うのに、ピンクでファンシーなものを愚直なほどに好んでいて、その謎のこだわりで、せっかくの美人さが微妙にチグハグになる女だった。低めの地声で可愛く歌おうとして変な感じにもなっていた。木下は中華料理屋の娘で、噂好きなところに目を瞑れば、陽気でいいやつだった。しかし木下は、あまりにも太りやすく、そして手足が短かった。木下のダンスはどうやっても滑稽になりがちだった。そして、中村と木下には、田中ほどの舞台(ステージ)への情熱というとのがなかった。中村と木下は、「緊張するねー」とか、いつも何かと言うわりに、いつも適当な感じで、自分に注目が集まりさえすればいいみたいな感じだったという。田中は歌が好きで、歌に命をかけていて、歌で世界を変えられるみたいな気質の人だったのに、レコード会社の采配で、かなり残念なアイドルグループに入れられていたのだ。
その状況にも、常日頃、田中は腹をたてていた。けれども、地元の占い師の婆さんに「あんた、癇癪持ちね!気をつけないと、そのせいで大事なものを失うことになるわよ!」と言われたのを思い出し、感情が暴発しそうになるたび、「やることをやるだけやることをやるだけ」と、怒る自分を切り捨てて、自分に求められるものを出すことだけに、意識を絞った。田中は「自分はアイドルソング職人」だ、と思うことで別に好きではないタイプの歌を歌う自分を鼓舞していた。得意ではないダンスも頑張った。
ある日、田中は廃校の敷地で開かれた音楽フェスに出ることになった。その廃校はだいぶ標高の低い土地の丘に建てられていたので、今では四方をほぼ水に囲まれているような場所になっていたが、作った建築家が有名な人だったとかで、建物としては堂々としていた。むしろ、周囲が浸水したことで、ちょっとお手軽なモン・サン=ミシェルというような雰囲気にさえなっていた。なので、色んなイベントが開かれ、注目の場所になっていたそうだ。
そのため田中はいつになく張り切っていた。田中の今まで出演した舞台の中では、その音楽フェスは最大のものだった。しかし、この田中の溢れる情熱が、おそろしい悲劇を呼ぶこととなったのだ。
田中たちのグループの出番は、芸人のバンドの後だった。半分ぐらい喋っていて、演奏というよりリズムネタだったが、とりあえず舞台が冷めているという感じにはなっていなかった。
「頑張ろうね!」と中村「頑張ろう!」と木下「おう!」と田中。そんなやり取りをするメンバーとの間に、気持ちにズレはあるのは知っていても、中村と木下のことは仲間じゃないとは田中は思わなかったし、舞台に出る前に励ましあうこの瞬間だけは、何だか嫌いじゃなかった。いざ舞台に立つと完全に気持ちのズレがわかってしまうのだけど、出る一歩前は、もしかしたら本当に気持ちが通じ合えているような気がしていた。
田中は舞台に立って、客の顔は見ないことにしていた。客席の向こう、遠くに見える、水面から突き出た巨大なコンクリートの柱、崩れたハイウェイの残骸か何かを眺めながら、歌を歌った。
途中までは結構感触が良かった。そして最後の曲はお気に入りの曲だった。田中は珍しく気分がのっていた。自分の気合いが空回りしていない幸福感があった。しかし、アクシデントはその最後の曲の途中に起きた。「ウォォォッ!!死ね!!」と叫ぶ男が、舞台の上に飛び上がり現れたのだ。田中がその男の来る方を見たときには、すでに中村の頭に斧が刺さっていた。男は黒いシャツに「活動家」とのおそろしい文言を書き付けていた。たいへんな事態だというのは、すぐにわかった。
「富士見坂53番地!!許さん!!」男はそう叫ぶと、木下の肩に斧を振り下ろした。木下の左腕が付け根から吹き飛んで、客席に転がり落ちていった。客席から悲鳴があがった。「待て!ちょっと待ちなさい!」と田中は叫び返した。「お前は誰だっけ」「田中」「田中なんてメンバー知らんぞ!!死ね!!」男は斧を振りかぶったが、田中はとっさに近くにあったマイクスタンドでその斬撃を防いだ。「聞け!」と田中が叫ぶが「うるさい!!」と男が返し、再びの斧の斬撃を受け流すには握力が足りず、マイクスタンドを手から弾き飛ばされてしまう。田中の額に汗が伝った。
「私たちはエモーションピクニックで、富士見坂53番地ではないです」
左腕をなくした木下が、男の背後から声をかけた。この指摘に、男は動きを止め、おろおろと露骨な動揺をみせた。田中は驚いた。間違いで殺されかけたのは初めての経験だったからだ。
富士見坂53番地は、田中のたちの次に出演するグループだった。最初は名前通り53人いたのに、メンバー間で内ゲバなどするうちにどんどんメンバーが減り、今は4人組になっている戦闘的グループだった。
田中は驚きが収まると、今度はふつふつと怒りがわいてきた。レコード会社と契約した時にあらゆる仕事に備えて不死身にされているとはいえ、中村と木下はだいぶ深手を負った。絶対メチャクチャ痛い。治るのにも二週間くらいかかるかもしれない。そして正直なところ、せっかく気持ちよく歌えていたのに、それを邪魔されたことが田中には一番腹が立った。
「襲撃の相手を間違えるとか馬鹿すぎる」思わず口から出た言葉に宿った侮蔑の調子は、田中自身が言った瞬間やっちまったと後悔するレベルだった。でも謝りたくはないなとか田中が考えているうちに、案の定、「ウォォォッ!!」と男は激昂した。斧をその場に叩きつけて、放り捨てた。なんというか、男は自暴自棄そのものだった。田中は身構えた。
「そこからはあんまり記憶がないんだよね、とにかく取っ組みあいだよ、その活動家の黒シャツの男と。馬鹿にしやがって馬鹿にしやがってよぉ、とかずっと小声で言ってて、まあそりゃわけがわからなかったけど。そのうちに舞台のセットを突き破って落ちて、崖を転がっていって、周りは水だから水に落ちて、水中でも殴りあって、長い戦いの末、とうとうアタイは勝ったんだよ」
「おめでとう」
「ありがとう、それでさ、ここはどの辺?」
「栃木との県境の近くかなたぶん、霧がすごくてよくわからないけど」
「随分流されたんだなあたぶん」
亀山ディピカは木製ボートを静かに漕いでいた。田中は喋り続けるうちにかなり元気を取り戻したようだったが、顔色は白すぎるままだった。
「たいへんだったね」
「うん、死ぬかと思った。三途の川が見えたよね」
「三途の川どんなだった?」
「え?これが?って感じの細々とした川だったよ、市役所のおじさんみたいな眼鏡で髪の薄いのがひとり川縁にいて、渡し賃300円とか言ってたけど、現金じゃないとダメらしくて、アタイは全部キャシュレスで払う派だし、300円すら手元になかったから帰ってきた」
「それはガッカリだ」
「うん、ガッカリ、ガッカリ臨死体験」
そこまで喋ると田中はアンニュイな表情をし始めたが、そのアンニュイをぶち壊すように田中のお腹がぐーぐー鳴りはじめた。亀山ディピカは不死者でもお腹は減るんだなあと思った。
「燻製したカタツムリならあるけど食べる?」と尋ねると、田中はかなり微妙な顔をした。あんまり歯応えのある食べ物は好きではないのかもしれないなと、亀山ディピカは推測した。
「それは普通の人が食べてお腹が痛くならないものなのでしょうか?」と田中は変に丁寧に問い返した。
「全く問題はない」と亀山ディピカは保証したが、それでも田中はカタツムリに及び腰だった。なので亀山ディピカはまずは自分からいくことにした。ボートの船底に放ってあるエコバッグを漁って、何かの影響で巨大化したカタツムリを取り出して、食べた。
「フランス料理の味がするよ」
「エスカルゴ?」
「そう、それ」
「本当に?ただのその辺のでかいカタツムリじゃないの?」
「その辺のでかいカタツムリだけど」
「そうでしょ?フランスとは程遠いよ!食べるけど!メチャクチャお腹減ってるからありがたく食べるけど!」そうして田中は何かにキレながら、カタツムリをむしゃむしゃ食べはじめた。その様子を見ていて、亀山ディピカは微笑んだ。なんだか久しく感じたことのなかった安らかな気分になったのだった。
亀山ディピカは知り合いのヤクザから逃げているので、物音に敏感になっている。この感覚の変化には自分でも驚くものがあった。世界はやたらと物音に満ちていて、それをほとんどを無意識に取捨選択していたのだということに、亀山ディピカは気づかされた。
風の音や水の音に耳をすませていると、自然が出す音と、意識を持ったものが出す音の違いを拾えるようになる。そして今、亀山ディピカの耳に一番入ってくる音は、二段ベッドの上で寝る田中の寝息だった。田中の寝息は笛じみていた。
亀山ディピカはひとりなら野宿するつもりだったが、田中がいるので宿に泊まった。外国人バックパッカーを客層にしている粗末な宿で、狭い物置のような部屋に二段ベッドを押し込め、最低限の仕切りをしただけの寝床は、敷き布団が煎餅のようにカチカチだったが、一泊の料金がとても安かった。
そのカチカチの寝床で、亀山ディピカは一日中ボートを漕いで疲れている全身の筋肉をほぐすヨガをしている。ボートは昔の男に貰った指輪と交換で地域の住民から貰った。浸水域となり、どこがどう繋がっているのかわからないこの辺りをボートで進むことができれば、だいぶ追っ手を撒くことも出来るだろうと思われた。その試みが成功するかどうかはわからないが、何もしないよりはマシだったし、自分でも意外なほど遠くまで来れたことに、亀山ディピカは「我ながらよくやったな」と思った。乗り捨てたボートは藪の中にひっくり返しておいただけだが、朽木と紛れて簡単には見つからないはずだった。足跡を断てば、そのぶんだけ、自由になれる、亀山ディピカはそう思っていたはずだった。
《田中は置いていこう》亀山ディピカは、ヴリシュチカアサナ(サソリのように反りかえり自分の足の裏で自分の頭を踏むポーズ)をしながら、そう結論づけた。
田中は不死者であり、顔は真っ白だし、薄汚れたクラゲみたいな服だし、寝息もうるさいし、中々に目立つ。田中を連れていては、足跡を断つどころではない。ここまで一緒に来たのだって、特に理由はなかった。亀山ディピカはそう思った。田中を自分の危険に巻き込みたくなかった。なので、亀山ディピカは、田中に書き置きを書きはじめた。
『田中へ レコード会社との不死身の契約だけはどうにか解除したほうがいい。首だけになって海に沈められた知り合いを何人か知っている。不死身ならいくら殺しても平気だからといって不死者専門につけ狙う狂人もこの御時世いくらでもいるみたいだし、不死身である限り意味不明な不幸はあなたに降りかかり続けると思う。故郷に帰るのはさほど悪い選択ではない···』
紙に字を書くのが久々すぎるため、書き置きは、ミミズがのたうつような文字になってしまっていた。亀山ディピカは反省していた。《そもそも文面はこれでいいのだろうか。田中に帰る故郷があるのかどうかはわからない。待ってくれている家族がいるかどうかも知らない。田中は初対面の人間にペラペラと自分の内心や過去を赤裸々に語ったように見えたが、それでいて、家族のことも故郷のこともたいして話さなかった。話していいこと話したくないことを選んでいる。田中には故郷や家族といったものへの所属感を全然持っていないのかもしれない。どこにも行く場所がないから、レコード会社に不死身にされて、いいようにこき使われて、微妙な仲間と微妙な無関心を維持しあって、不条理なアクシデントに降りかかられ、こんなところまで物理的に流されてきたのかもしれない。》亀山ディピカはそんなことを色々考え出してしまったので、一度勢いで書いた置き書きを丸めて屑籠に捨てた。《自分には他人の人生に首を突っ込んで心配する立場にないし、哀れみで繋がる人間関係は不毛だ。》と亀山ディピカは思った。二枚目の書き置きには『話せて楽しかった、またどっかで会えるといいね 亀山ディピカ』とだけ大きく書いた。
寝床から這い出して、書き置きを紙飛行機に折って、その間に紙幣を挟んで、田中のベッドの枕元に投げる。《田中はこれを読んで困惑するかもしれないけど、田中には困惑が似合うかもしれない。》そういう意地の悪い推測することで、亀山ディピカは踏ん切りをつけた。そうして荷物をまとめて、ひとりで部屋を出た。廊下を歩きながら窓の外を見ると、夜明け間近の空に宇宙コウモリがたくさん飛んでいた。
亀山ディピカには欠点がある。それは機械の扱いが苦手ということだった。宿の支払いのためのタッチパネル式のロボ(何世代も前の旧式)を相手に、亀山ディピカは悪戦苦闘していた。何度支払いの操作をしても、上手く認識されず、「もう一度お願いします」という理性的なインコみたいな声が流れ出し、最初から操作するはめになる。それを繰り返すうちに、夜が明けてきた。亀山ディピカは滅多なことではイライラしない性格だったが、機械の不具合にだけは例外だった。アルカイックな笑顔を浮かべるロボのデザインも、イライラを煽った。そうなるともう、亀山ディピカは、パネルを連打するという所業にでてしまうのだった。
「連打しても!反応よくはならないよ!」
亀山ディピカの背後から聞こえた声は、高くて早口で、どこか鼻づまり感があった。振り返ると田中がいた。田中はなんだか不機嫌そうな顔をしていた。亀山ディピカは、書き置きを残してクールに去ることに失敗し、ばつが悪かった。
「ちょっと見せて」と言うので、亀山ディピカはおとなしく脇にどいて身を縮めた。田中はロボのパネルをしばらく黙々と操作した。相変わらず「もう一度お願いします」という理性的なインコみたいな声が宿のしみったれたロビーに響き続けた。田中は首のあたりをやたら掻いていた。それが田中の深く考える時のポーズなのかもしれない、もしくはこの安宿で謎の虫に噛まれてかゆいのかもしれない。どっちだかはわからないな、と亀山ディピカは思った。
「宇宙コウモリのしわざだ」
「え?」
「だから宇宙コウモリのせいで、この機械おかしくなってるんだって」
田中はぼんやり突っ立っていた亀山ディピカを横目で見ながら、きっぱり断言した。
「宇宙コウモリが?」
「宇宙コウモリは仲間と話す時、超音波を出すんだ。この超音波が、電子機器をおかしくすることがある、前、野外ライブやった時、宇宙コウモリがいっぱいいて、同じ感じで古い電子機器がおかしくなった、最近のものはだいたい対策もされてるんだけど、こんな古いのだとね、宇宙コウモリが近くにいる間はまともに動かないよ」
「へええ、知らなかった」
「八時くらいまで待てばいい、宇宙コウモリはそのくらいの時間になると寝る」
「それはちょっとな」亀山ディピカはずんずんと歩き、店の外に出ていった。
「どこ行くの」田中が声をかけて後を追っていった時には、亀山ディピカの姿は忽然と消え失せている。辺りを見回してもどこにも姿が見当たらないので、まさかと思い、田中は顔をあげて見上げてみると、亀山ディピカは宿の屋根に既に登って、宇宙コウモリの群れを睨んでいた。壁登りもなんのその、亀山ディピカのロープの扱いはもはや達人の域といえた。
「何するの」「見てればわかる」宇宙コウモリの群れは青白い澄んだ空にわらわらと飛んでいた。亀山ディピカは、屋根の上で何かの鈴のようなものをロープの先に付けた。そしてそれを頭上でぐるぐると、回し始めた。亀山ディピカの体幹の強さが、その謎めいた動きに厳粛さを与えた。
鈴らしきもの音はほとんど田中の耳に聞こえなかった。しかし、わらわらと飛んでいた宇宙コウモリたちは明らかに動揺し始めたようだった。宇宙コウモリたちはギシギシと何かが擦れるような声で低く鳴いて、少しずつ、散り散りに、宿の周囲から一匹、また一匹と消えていった。
田中は黙ってそれを見上げていた。亀山ディピカは鈴のようなもののついたロープをぐるぐる振り回し続けた。朝の散歩に歩いていた爺と婆(どっちが爺でどっちが婆かよくわからない)も足を止めてその様子を見ていた。
そして数分後には、空には雲がゆっくりと流れているだけだった。
亀山ディピカは消防士みたいにするするとロープを伝って降りてきて、何もなかったかのように宿のロビーに戻り、タッチパネル式のロボを操作した。「もう一度お願いします」という音声は流れなかった。
田中は亀山ディピカの目の前のカウンターに、亀山ディピカに貰った紙飛行機を置いた。田中は静かに話し出した。
「すごかったよ、宇宙コウモリ追い払うの」
「ありがとう」
「自分とは違う世界を歩いてきたんだなってのが、すごくわかった」
「あんなの誰でもやればできるよ」
「嘘だ」
亀山ディピカはその言葉に言い返す方法がやっぱりわからなかった。思った通り率直に言ったことが、嘘などつくつもりは微塵もなかったことが、人に嘘だといわれたなら、その時自分はどうするのが適切なのか、亀山ディピカはわからなかった。
亀山ディピカが口ごもっていると、田中は紙飛行機を指差して、話題を変えた。
「あのさ、アタイは、人を置いていくのは好きだけど、人に置いていかれるのは嫌い、だから、このやり方は困る」
「···やっぱりそうだったよね」亀山ディピカは笑おうとした。しかし、田中の方は笑いそうになかったので、やめた。
「うん。目が覚めて、いると思って声かけたのに誰もいなかった時の気分ってのが、困るんだ」
「ごめん」
「一方的にお金とか渡されるのも、何というか、反応に困るし」
「お節介だとは思った、けど、書き置きだけってのもアレかなと思って」
「親切だね、でも、アタイは親切でお金を貰うとムズムズするんだ、何か、親切にアレルギーがあるのかもしれない」
そう言われて亀山ディピカは田中とじっと睨み合った。お互いに沈黙を保った。心臓の音さえ聞こえそうなほどだった。田中の目に濁りはなかった。亀山ディピカは田中の黒目の中に自分の顔が映るのさえ見た。亀山ディピカは、どこにも行く場所がなくて流されてきたのは田中ではなく自分のほうだったということが、急にはっきりと心の底から感じられた。《何をどう言葉にしても、何にも仲間に伝えられず、知らぬ間に裏切り者の烙印を押されて、逃げ回っているだけの馬鹿が私だ》亀山ディピカは急に何もかもが嫌になった。宇宙コウモリなんぞがわらわら飛んで超音波を出していなければ、田中とはさっぱり別れて、こんな変な気分にもならなかっただろうにと思った。亀山ディピカは言葉を探した。自分の中には何もなかった。ふと、田中が歌手だということを思い出し、ため息を吐き出すように口を開いた。
「じゃあ歌聞かせて」
「え?なんでいきなり」
「田中の歌を聞きたいんだよ、お金の分、歌って」
田中は戸惑うように、首のあたりを掻いて、少し考えたが、返事ははっきりしていた。
「わかったけど、ここでは無理だよ、どっか広いところとか行こう」
《アバンギャルドな牛 作詞作曲・田中ツル
新しく買った冷蔵庫の前で私
白くてでかくて威圧感感じるので
牛みたいになるように願って
マジックで模様を描いてあげるよ
あなたが食い散らかした
昨日のピラフを足に踏んだだけの
感触を寂しさと呼ぶのなら
そんな心まで塗り潰してみせるよ
素敵な夜の始まりだ
マジックの蓋取るから
単なる毎日が怖いよ
私に奇跡をよこせ
モッモッモモッモッ
ズモモモモッモ
真っ黒な模様を描きたいだけ描く
もしかしたらこれが恋なの?
モッモッモモッモッ
ズモモモモッモ
真っ白な世界がチラチラ揺れている
もしかして全部幻?》
田中が歌った歌は以上のようなものだった。歌った場所は元家電量販店と思われる廃墟の中だった。
「いい歌だったよ」と、カウンターに腰かけた亀山ディピカは拍手した。田中は腰からの深いお辞儀をした。体に癖としてついているような反射的なお辞儀だった。
「本当にそう思ってる?ただのアカペラに?」
「そんなに上手くはなかったけど」
「じゃあどのへんが良かったっていうの」
「モッモッモモッモッ、ズモモモモッモっていう、スタッカート効かせたところ、声質とあいまって良かった」
「本当に?」
「本当に。耳にしみた」亀山ディピカは、歌なんてどうでもいいものだと思っていた。歌なんて何かの欲望の口実だと思っていた。しかし今は、そうは思っていなかった。そのすごさを全然上手く田中に伝えられないことが、とてももどかしかった。だから、亀山ディピカは涙ぐんで、鼻もすすった。
亀山ディピカがすんすんしているのを、田中は不思議そうに見ていた。元家電量販店の廃墟の中では、小さな音もやたらに大きく響いた。田中は足元の瓦礫を意味もなく三つ四つ蹴ったりしたあと、亀山ディピカの座っているカウンターの隣にやってきて座った。足をぶらぶらさせながら、ポツリポツリと田中は喋った。
「子供の頃近所にね、アバンギャルドな鳴き声を出すそれはもうアバンギャルドな牛がいたんだよね」
「そうなんだ」
「その牛の鳴き声を思い出して作った歌なんだ」
「いい歌だから、きっとその牛も喜んでいるよ」
「そうかなあ、もう死んでると思う」
「牛の天国に田中の歌は届いているよ」
「牛の天国って、どこ?」田中は笑いながら、亀山ディピカの肩をばしばし叩いてきた。亀山ディピカはそれよりは少し弱めに、叩き返した。
アバンギャルドな牛