未完書簡

拝啓 葉桜が冬の足跡を攫い、滑らかな風が頬をやさしく撫で、大変清々しい気持です。久闊を叙すと共に、御清穆の段お慶び申します。こちらでの諸々が一段落致しましたので、その御報告と寡し些末ない文章ですが、したためさせて頂きました次第です。お時間の許す際にご拝読頂けましたら幸甚に存じます。

『今のわたくしに、綺麗なものを見たときに、美しいと素直に感ぜられる心があるというのも、それだけ穢いものを見てきたからでございます。美しいものしか御覧になっていない方は、それが真にもっている美しさを見過ごされているのと同然のことのように、わたくしには感ぜられます。如何なる艱難辛苦に遭ったときでも、自戒教訓として心に刻み込んでいるのです。なにか過ちを犯してしまったときに、わすれることでじぶんだけが楽になるのか、苦しいと判っていても二度と同じことを繰り返さないためにわすれずにいるのか、両者を天秤にかけ、二十余年もの果てしない懊悩煩悶の末に、わすれずにいることを、みずからの意思で漸く撰び取ったのです。後悔などしていません。している筈など、あるわけがないじゃありませんか。わたくしは、せめてわたくしにだけは嘘をつかないようにするのだと、心に固く誓ったのです。じぶんに嘘をつかない、これは素直に、正直になるということです。いつかわたくしが御目に掛かった方は、このようなことを申し上げておりました。「嗚呼、如何したものか。おれが正直に謂えば謂うほど、友に親戚、周りの奴等、みんな離れていっちまうのさ。おれは元来そういう人間なんだ。穢いものを綺麗だと法螺を吹いたり、綺麗なものを穢いと偽ったりできるほど器用じゃ無えし、そうなろうだなんて微塵も思わねえんだがな。周りの顔色ばかり窺っていたら、自我なんて疾うに腐っちまう。感性もなにも、あったもんじゃねえさ。」わすれていません。わたくしの魂を使うのは、他ならぬわたくしなのです。』

わたくしは又、大切なことに気が附けたようです。

未完書簡

未完書簡

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-16

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