散歩の境
「お母さん、しいたけと散歩に行ってきます」
遠くから、はーいというだらけた声が返ってきた。私はドアの前で今か今かと待ちわびている茶トラの猫を見て少し微笑んだ。ドアを開けると冷たい春の風が私の髪をたなびかせた。しいたけは一目散に昼下がりの日向の中に飛び込んでいった。私は遅れをとらないように日差しの中へと足を踏み出した。
散歩は休みの日の日課だった。まだ幼いしいたけを公園のベンチの下で見つけた時、私は何か不思議な運命を感じた。小学生だった私は年齢に見合わずわがままを全く言わなかった。そんな頃に私が猫を飼いたいと茶トラの子猫を持ってきたので母は喜んだ。それから、一緒に住むようになってしいたけと何とはなしに外に出ることが日課になった。休日の昼下がりは暖かくて気持ちがいい。しいたけは自由気ままに私の前を歩いていた。静けさが漂う住宅街の中を一匹と一人の影が動いていく。どうして、私のいる箱庭はこれほど窮屈でつまらないのだろうか。私は前で歩いている猫を見ながら思考にふける。進んでいくにしても狭く、外に出ようとしても鎖で繋がれて出ることができない。箱庭の住人たちと関わりたくなくても関わらなければいけない。私は退屈な世間を、ため息を吐いて頭の外に追いやった。
「しいたけは自由でいいね」
尻尾を揺らしながら歩く猫は自分の名前が呼ばれたからか、「にゃあ」と声を上げた。そして、こちらを一度見るとまたもとの様に歩きだした。言葉の意味は理解していないだろうがそうして振り向いてくれるのが嬉しかった。人と猫。互いに生き方は違うけれど通じ合えている気がした。
気づくと家からずいぶんと離れたところまで来ていた。いつもの散歩ならもう家の近くまで来ているはずだった。こんな道は通ったことないな。私としいたけが散歩のときに行く道は決まっていた。必ず家から一周して戻ってこれる道を彼は選んでいた。それは私がそうするように何かしつけをしたわけではなく、自然としいたけが家に戻る道を選ぶのだ。しいたけは私が知っているどの猫より賢い猫と自慢できる自信があった。今日はどうしたのだろう?私がそう思って前を歩くしいたけを注視すると
「ニャー」
と甲高い声を出して立ち止まり、耳をピクピクさせながら辺りを窺い始めた。
「どうした?」
私は不思議に思い、前でそわそわしだした猫に尋ねたが聞こえていないように見えた。彼はそのまましばらく動こうとはしなかった。数秒の間ピタリと静止し、突然しっぽと耳を上にピンとそばだてた。そして、私の方を振り向くとついて来いと言わんばかりに走り出した。
「えっ」
どうしようか、一瞬迷ったが気づいた時には足が前に出た。住宅街の角を横切って必死に後を追いかける。普段運動なんて全くしないから少しの距離でも息が上がってしまう。どこまで行くのかな。しいたけは先へ先へと進んでいった。
何度も角を曲がったり知らない道に入ったりして追いかけていると周りが木で覆われた長い階段が目の前に飛び込んできた。こんなところ近くにあったっけ。しいたけはその階段を軽い足取りで登り始めた。私は階段の前で立ち止まった。遠くから見た時よりすごい長く見える。長くて険しそうな階段だ。私は息を整えると階段を上る。足が重くなかなか前に進めない。しいたけはもう見えなくなっていた。上にいるといいけど。階段上ってるといると考えたくないことが頭の中に入ってくる。辛い、きつい、諦めたいな。私は鉛のように思い足を持ち上げっていった。
階段を上った先にしいたけは座っていた。
「私を待っててくれたんだね」
毛づくろいをし始めたしいたけの頭を私は撫でた。ゆっくりと撫でると気持ちよさそうに目を細めた。階段の上は木で囲まれた広場のようになっていた。中心には大きな木が枝を目いっぱい広げて立っていた。
「おっ!茶トラじゃん」
「茶トラだ!」
私がしいたけを撫でていると遠くから子供の声が聞こえた。声のした方を見ると小学生くらいの子供が7人こちらを見ていた。しいたけは私の元を離れると彼らに近づいていった。他にも人がいたんだ気づかなかった。
「また来たんだ」
少女が笑いながらしいたけを撫でた。家の猫も嫌がる素振りも見せずに撫でられていた。あれだけ懐いているなら初めて会うわけじゃなさそうだ。しいたけは茶トラってあの子たちの間では呼ばれてるのか。それに、いつの間かあんなに友達出来たんだ。私は遠くから子供たちと遊ぶ猫を眺めた。
「お姉さん、どうやってここに来たの?」
一人の少年が私に気づいて話しかけてきた。
「しいたけを追いかけたらここに」
私は目の前で遊んでいる猫を見ながら答えた。
「しいたけ?ああ、茶トラのことね。連れてきちゃったんだ」
「ねぇ、お姉ちゃん。一緒に遊ぼうよ」
さっきまでしいたけと遊んでいた少女が手を引いてきた。
「遊ぼう」
他の子供たちも遊ぼうと寄ってきた。私はその子供たちの圧力というかエネルギーに蹴落とされて頷いていた。
かくれんぼや鬼ごっこなんてもう二度とすることないと思っていた。誰かとこういう風に遊ぶことなんてもう二度とないと思っていた。私は最初こそ戸惑っていたが次第に彼らと遊んでいると楽しくなっていた。一緒に駆け回り、木の裏に隠れたりし、時間を忘れて遊んだ。子供のように先のことを考えずに夢中になることができた。しいたけは木の下で薄っすらと目を開けてその光景を眺めていた。
気づけば夕暮れ時になっていた。もうこんな時間か。私は橙色に染まった空を見上げた。子供たちも帰る時間だろう。
「そろそろ、終わりにしようか?」
私はまだまだ元気が有り余っている様子の彼らに尋ねた。すると、一人の子が立ち止まり笑いながら
「まだ、大丈夫だよ。まだたくさん遊ぶよ」
と言った。
「でも、もう夕方だし帰らないとお父さんとかお母さんが心配するでしょ?」
「心配いらないよ。ここはいつまでもいれるから」
近くにいた子がそう言って私の手を引っ張った。いつまでも。私はその言葉が胸に引っかかった。いつまでもいれるなら案外いいかもしれない。嫌なことを考えず、ただ楽しいことをしていればいい。それは夢のような場所ではないのか。私はもう少しここにいてもいいかもしれないと思った。
「でもね。お姉ちゃんはもう帰らないといけないよ」
私の手を握っていた子がそのまま階段へと続く場所の前まで手を引いて来るとそう言った。
「私だけ?」
「そう。もう時間だからね」
気づくと他の子たちも集まってきていた。
「お姉ちゃんと遊べて今日は楽しかったよ」
子供たちはみんな笑顔で私に楽しかったと言った。足元にはしいたけがいつの間にかやってきていた。
「茶トラ。ちゃんとお姉ちゃんを家まで案内するんだよ」
そう子供の一人が言うとしいたけは鳴いて返事をした。そして、階段の方へとすたすたと歩き始めた。
「みんなそれじゃあ、またね」
私は先に行ってしまったしいたけを追いかけるため、彼らに別れを告げた。
「さようなら」
彼らは手を振ってそう言った。
私は気づいたとき家の前に佇んでいた。あれ、どうしてこんなところに立っているんだろう。たしか、散歩に出てそのままそれから家まで戻ってきたんだっけ。足元にはしいたけが私の方を見て座っていた。私はそれを見て微笑んだ。忘れるほど無意識に散歩をしてたのかもしれないな。まあいいか。
「ただいま」
私は玄関の扉を開けた。春の風が私の体を押すように後ろから吹いてきた。そのとき、なぜかわからないが私はこう思えた。
もう少しだけ楽に生きてみようかな。
作:うるふ
散歩の境