獏の見る夢


 僕はほんの少しだけ運のいい人間だと自負している。例えば、電車やバスに乗り遅れそうになったとき、発車時刻を過ぎているのに僕とは無関係の理由でほんの数分止まっていたり、発売直後の人気小説を手に取ったらその本がその店に残っている最後の一冊だったり、自販機で飲み物を買ったら二本出てきたり。悪夢を一度も見たことがないというのも小さな幸せの一つかもしれない。それらは決して大きな出来事ではないが、そこに僅かな幸福を感じる程度には僕の心は正直で、たとえ父親がいなくても、自分自身の人生が他人に比べて恵まれている方だと思える程度には健全だった。
 しかし、それらの出来事を引き起こしていたのが僕の運ではなく、「彼女」の手助けの仕業であったことをずっと前から知っていたと知り、そしてまた忘れてしまうのは、今日が初めてではなかった。

 仄かに暖かい平穏を告げる風が菜の花を薙ぎ、桜の花びらが舞い散る中、大学の入学式が執り行われた。式の後は数多くのサークルの先輩達が新入生を迎え入れるために勧誘に勤しみ、会場前の広場がごった返す。スーツと見るや否や手当たり次第に話しかけられるため、僕の両手は数多くのビラで塞がっており、その上にまたビラが置かれるというある意味悪循環が起こっていた。もともと完全に興味のなかった活動のビラなどを受け取っても勿論興味が湧くはずもなく、ほとんどがメモ用紙や天ぷらを揚げるときの敷紙にでもなるんだろうなと考えつつも、先輩達にも配らなければならない事情などがあるのだろうと思慮してつい受け取ってしまう。などと綺麗事を宣って誰に言うでもなく心の中で言い訳をしてしまうのは、断ることができない人間の性だった。
「あの、これ落としましたよ」
 背後から突然肩を叩かれ、両手に抱えたビラの斜塔のてっぺんに一冊の小冊子が置かれた。美麗な少女を描いたイラストが表紙を飾っており、文芸部の新入生歓迎用冊子だと書かれている。僕はこんなものを受け取った記憶はないが、小説は好きなのでありがたく頂いておこう。礼を言おうと振り返ると、そこには同年代だと思われる可愛らしい女性が立っていた。僕と同じスーツ姿であることから、年齢はわからないが少なくとも同じ新入生だということだけは察することができる。もちろん、スーツを着てきた無関係の人が迷い込んだだけだという可能性もあり得ないことではないが、こんな学生でごった返す入学式の会場前に、わざわざ新入生と見間違われて誰彼構わず話しかけられるような格好で来る物好きなどそうそういないだろう。
「あ、ありがとう、ございます」
 放った言葉が辿々しいのは、彼女に見惚れたからでも僕のコミュニケーション能力が著しく低いわけでもなく、彼女の顔に猛烈な既視感を得たからに他ならない。
「あの、失礼ですが、どこかでお会いしたことはありますか」
 好奇心を抑えられず、つい口説き文句のようなことを口走ってしまう。周囲の騒めきが一層酷くなったような気がして全身が硬直する。
「……ないですよ。私達は今日初めて会いました」
 彼女は少し寂しそうに、目を細めて美しく笑った。しかし、初めてだと告げられてもなお既視感は消えず、彼女の顔をまじまじと見つめる。
「この後用事がなければ、少しお話しませんか」
 口をついて出た言葉は僕に似合うものでもなく自分自身でも気味の悪さを覚えるもので、今度こそまさしく口説き文句であった。女性は驚いたように少し目を見開いて数瞬停止し、そして嬉しそうに微笑んで(これは僕の希望的観測かもしれないが)「いいですよ」と快く返事をくれた。僕の少しだけ高い運がようやくこちらの方面へと手を伸ばしてくれたのかもしれない。

 雑踏を抜け、僕は彼女と共に近所のファミリーレストランを目指して歩いていた。僕の隣を女性が歩いているというこの状況にどこか懐かしさを感じるが、しかし僕の記憶に同年代の女性と一緒に歩いている様子は残されていない。まるで昨日見た夢の雰囲気だけを思い出しているようなもどかしい気持ちになる。
 僕はこの既視感を覚えていた。それは僕の「小さな幸せ」の現場にいつも残されている淡い香りで、僕が一度も本質までたどり着いたことのない場所だった。
「私のことは詩音と呼んでください。君の名前は?」
「僕は──」
 他愛のない会話が心地良い。僕と彼女はまるで運命的な出会いであるかのように波長が合っていて、たとえ中身のないような話でも気まずい空気にならないし、無理に気を使う必要もなかった。もちろん初めて出会うわけだから当然ある程度の距離感はあるのだが、それでもまったくの初めてではないような感覚だ。
 それにしても「シオン」という名前にも聞き覚えがある。昔読んだ小説の登場人物という可能性もあるが、もう少しで何かが思い出せそうな気がしていた。
 ファミリーレストランに入ると店員に人数を確認され、二人です、と答えるのがなんだか気恥ずかしくて小声になり、上手く聞こえなかったときのために指でピースを作って顔を逸らした。きっと僕は迷惑な客だろうな。店員がどんな顔をしているかどうかなんて、怖くて確認できなかった。
 窓際の禁煙席に案内され、彼女にソファ側へ座ってもらう。僕は荷物を置くと一旦席を外し、二人分の水をコップに注いで戻ってきた。
「ありがとうございます」
 彼女は太陽のような笑顔で僕の手からコップを受け取る。そのとき僕の指と彼女の指が接触し、僕の中に突として全てのピースが復元された。
「詩音…?」
 つい先程聞いたばかりの名前ではない。六年前に確かにこの耳で聞いてこの口で発していた彼女の名前を、僕はあの頃と同じように呟いた。すると彼女は、コップを受け取った時とは違う表情で、そうだな、まるで悪巧みをする幼い子供のように笑った。
「思い出してくれたんだね」

 小学六年生になる春、僕は地元の神社前に広がる小さな公園の隅で彼女に出会った。この頃、僕は小説家になると息巻いて、チラシの裏に拙い文章と悪筆な字で物語を紡いでいた。しかし、自分の家で書いていて母親に見つかるのが恥ずかしいため、普段はなかなか人が来ないこの公園にある木造の四阿の机で、毎日学校が終わってから一時間ほど書くという生活を既に二年間続けていた。
 いつものように沢山のチラシを持って公園で小説を書いていると、いつのまにか少女が後ろに立っていて「何を書いているの?」と話しかけてきた。これが詩音との最初の出会いだった。
 その日以降、彼女は僕にとって世界で唯一の読者だった。彼女は僕の小説を読んで感想をくれたり、僕の夢を応援してくれたりしていた。
 だがある日、母親に小説を書いた大量の紙を見られてしまい、面白くない、才能がないと罵られた後に「小説家なんて才能がある人じゃないとなれないし、売れなければ生きていけないの。あなたは普通の仕事に就きなさい」と諭され、そして自分の父親が小説家を目指して挫折し自殺していたという事実を知らされた。父親は僕が幼い頃に事故で死んだのだと言われて育ってきたし、父の部屋は残されていないために真相を知る機会などなかったのだ。
 僕は絶句するしかなく、ただひたすらに母の言葉を反芻していた。
 いや、本当は分かっていたはずだ。売れない小説家が無職扱いされること、並大抵の売上では生活もままならないこと、自分に才能なんてないこと。
 それでも僕は夢を追い続けたかった。追い続ければ、努力すれば、夢はいつか必ず叶うと、心のどこかで信じきっていた。
 その日から、公園に行くのを辞めた。

 夢を捨てて約半年。僕は目的もなく学校の友達と遊ぶ日々を過ごしていた。小説を書かなくなってから、付き合いが良くなったとたくさんの友達ができた。以前までクラスメイトの誘いをすべて断って小説だけを書き続けていたからだった。同年代の馬鹿みたいな子供達と遊ぶことよりも、一人で小説を書いている方がよっぽど僕にとっては有意義な時間だったのだ。小説家になるという夢は、実質僕から「小学生らしさ」を奪っていた。夢を諦めて以降、こうして友達と馬鹿やってくだらないことで笑って悪戯しては大人に怒られる、ある意味健全とも言える「小学生らしさ」を体現したような生活も悪くはなかった。
 夏休みの終わり頃に、友達と遊ぶ場所を探していてどこか良いところはないかと聞かれた時に、ふとあの公園の場所を教えてしまったことがあった。あの公園にはしばらく近付いていなかったが、これはもしかすると未だに詩音が通っていて偶然出会ってしまう可能性もあるかもしれないと考えていたからだ。散々彼女に熱く語り応援してもらっていた夢を捨てた当時の僕は、彼女との邂逅にバツの悪さを感じており、公園に入ることはおろかその周辺すらも避け続けていた。
 久しぶりに、何の代わり映えもしない錆びれた公園に友達と一緒に行った。こんな田舎ではゲームなんか持っている子供はそれほど多くなかったので、必然的に外で体を動かす遊びが増えるものだ。その日はかくれんぼをしていた。僕は深い意味もなくいつも小説を書いていた四阿に隠れて、額の汗を拭っていた。心の奥では詩音に会いたいという気持ちがあったのかもしれないが、僕自身では客観的に自分を分析できないためその理由は神のみぞ知るというところだ。
「久しぶりだね」
 唐突に後ろから聞こえた詩音の声は、夏の暑さにやられて生み出された幻聴ではなかった。驚いて大きな声を出しそうになり、僕は自分が隠れていることを思い出して両手で口を塞いだ。
「しばらく来ないから心配してたんだよ。今日は小説書かないの?」
 詩音の口調は穏やかで、普通の人なら怒りなど微塵も感じないような一言だったが、当時の僕にとっては犯罪者への取り調べのように聞こえた。
「小説はもう書かない。小説家になんてなれないから」
 無意識のうちに小声で発していたのは鬼から隠れているから、というだけではない。
「どうして? あんなになりたいって言ってたし、小説も面白いのに」
「書かないって言ってるだろ!」
 つい声を荒らげてしまう。近くを歩いていた三羽の鳩が驚いてバサバサと大空へ飛び立っていった。鬼には見つかるかもしれないが、もはやそんなことなど頭になかった。
 何の罪もない詩音に対して強く当たってしまったことへの罪悪感から、少し呼吸を整えて静かに続ける。
「……もともと、才能なんてなかったんだ。詩音は僕に面白いって言ってくれたけど、作者の前で読んでいたら面白くないなんて言えないもんな。もし本当に面白いと思っていたとしても、きっと僕の小説なんて有象無象の小説の一つに過ぎなくて、いろんな本を読んでいる人にとっては面白味のない安っぽい物語なんだと思う」
 心の中に渦巻いていた泥水を吐き出し終えるまで、詩音は静かに耳を傾けてくれていた。僕の口が止まると、雲が流れていくように沈黙が揺蕩う。しばらくすると詩音は公園の西端に目を向けた。
「そっか。残念だな……」
 重苦しい空気が僕らの間を席巻し、遠くで友達の笑い声が聞こえていた。僕が何を言おうか戸惑い、口の中で音をもごもごと咀嚼していると、詩音は僕に向き直って弱々しい微笑をつくり、左手でおもむろに僕の左手を取った。
「獏って知ってる? 動物園にいる方じゃないよ」
 脈絡もない発言に、しばらく彼女の言葉が理解できなかった。
「……夢を食べるっていう空想上の生物? 突然どうしたんだ」
 彼女は僕の質問には答えず、淡々と続けていく。
「獏は人の夢を食べるって言うけど、本当は記憶を食べるの。記憶の中でもその人の深層心理が反映された夢は特に美味しくて、多くの獏が好んでいるから『夢を食べる生物』だと誤解されたの」
「話が見えないよ」
「私がその獏なんだ」
 謎の告白に脳がついていかず、僕は思わず怪訝な目で詩音の全身を睨め付ける。
「どう見ても人間じゃないか」
 詩音は自らの胸元に右手を当て、寂しそうに表情を曇らせた。
「今は人間の体を借りているだけで、本当はどんな動物の姿にでもなれるの。獏の本体は記憶だから」
「仮にそうだったとして、どうして僕にそれを言うの?」
 仄赤くなりつつある西陽に染めあげられた詩音の長い髪が、風になびいて彼女の右頬を撫で付けた。
「獏は人間と深く関わってはいけないんだ。もし関わりを持ったらその人間から自分の記憶を消さないといけないの」
 彼女は顔に張り付いた横髪を右手でゆっくりと払い退け、耳の後ろにかける。
「最近、そういう風に決まったんだ。去年くらいに人間と関わって大事件を起こした獏がいたみたいで、だから。……さよなら」
 口早に別れを告げると、彼女は左手に僅かに力を入れた。左手が微かな熱を帯び、そしてその熱が腕を走り、首を伝って頭部に届くと、僕の脳内に彼女の持つ僕との記憶が走馬灯のように駆け回った。

 僕と初めて出会った日、君は夢を追って意気揚々と小説を書く僕に心底惚れていた。どうやら一目惚れらしい。僕の顔は普段鏡で見るよりも随分と美化されているように思えたが、それは彼女の心というフィルターを通して見た僕だからだろう。
 君は僕が公園に来なくなって酷く悲しみ、いつか僕が来るんじゃないかと思って、雨の日も雪の日も風の強い日もずっと四阿で待っていた。
「私、ずっとここで君を待っているよ」
 君の心の声が聞こえてくる。君はいつも僕が座っていた四阿のベンチを眺めていて、その席を空白にして隣に座り続けていた。時折僕の面影を作り出し、ベンチを撫でては溜息を吐いている。
 どうやら僕と無関係の彼女の記憶は感知できないらしく、眼に見える映像はすべて四阿でのものだった。とはいえ半年の間、君はほとんどの時間を四阿で過ごしていたようだ。週に一、二回ほどの頻度でどこかに向かっているみたいだが、向かおうとする時の心の声や周囲の音はまるでスピーカーのミュートボタンを押したように聞こえなくなるし、四阿を立ち去る瞬間テレビの電源を落としたようにプツリと途切れる。そして次に四阿を訪れた場面が降ってくるのだ。
「今日も来ないのかな…。もうこのまま会えないのかな……」
「こんなことなら早いうちに彼の記憶を食べて家の場所や学校の場所を特定しておけば……いや、そんなことしたら嫌われちゃうよね……私は人間として彼に会いたいし」
 僕の耳に入る心の声はいつの記憶でもこのようなものだった。寂寥と後悔が君の中でずっととぐろを巻いている。
 ある日の記憶を境に、君の再会を願う感情が大きく変わってしまった。彼女の言っていた、人間に獏の記憶を留めてはならないという決まりが出来た日だ。
「君から私の記憶を消さないといけなくなっちゃった。そんなの嫌だよ。でも決まりだから……」
「君の中から私を消したくない……」
 君の瞳からこぼれ落ちた涙が頬を伝ってスカートに落ち、色の濃淡によるまだら模様を作っていく。
 次に僕と会えば記憶を消さなければならないが、消そうとする行動を見せないと決まりを破ったことになる。それがその日から四阿に来る理由となり、君の中では再会を切望する気持ちと再会したくない気持ちがせめぎ合っていた。
 そして今日、僕が来たわけだ。僕を見た君は嬉しいような寂しいような感情が胸から迫り上がるのを押し殺し、いつものように僕に話しかけてきたのだった。
 僕が鬼の形相で小説を書かないと怒鳴ったとき、君は本当に絶望していたということを感じ取り、僕は自責の念に押しつぶされそうになった。君に謝りたいと思ったが、僕は今君の記憶の世界に囚われており、自分自身の体を動かすことは叶わない。
「ごめんね」
 謝りたいのは僕の方なのに、夕日に染まる君の口から謝罪の言葉が飛び出し、僕の胸を抉った。
 そして僕の小学生時代から、詩音は跡形もなく消えた。胸の痛みも綺麗さっぱり消失していた。

 中学から高校に至るまでの記憶にもしばしば詩音の存在が復元されていた。小学生の時ほど大きな関わりこそないが、電車やバスに乗り遅れそうになった時に運転手に話しかけたりして少し時間を稼いでくれたり、僕の大好きな小説家の新刊が売り切れないように一冊だけキープしていてくれたり、喉が渇いていて自販機で飲み物を買ったが一本では物足りなく思っていた時にもう一本買ってくれたり。僕は数えきれないほどの悪夢を見てうなされていたことも思い出していた。
 彼女はさまざまな場面で僕を助けてくれて、そのたびに僕の中に生まれる詩音の記憶を食べていたのだ。彼女に虫食いにされて不自然になった記憶は、僕の脳内で自動的につじつまの合うように補完されていた。
 すべての記憶が正常に復元されると、彼女が僕の中の彼女に関する記憶に干渉しているとき、僕もまた彼女の中の僕に関する記憶に干渉していることに気付く。彼女の記憶に干渉することで、彼女の中の僕に関する記憶を把握したのか、それとも彼女の中の僕に関する記憶を覗いたという僕の過去の記憶を把握したのか、どちらが正しい表現なのか、あるいはどちらも誤った表現なのかはわからないが、ともあれ僕は瞬時に詩音がいつどの記憶に表れたのかを理解できていた。
 二度目に詩音と出会えたのは中学一年生の頃で、そのとき僕はようやく彼女に謝罪をすることができていた。彼女は、僕と会うたびに僕の中から自分自身の記憶を奪うという覚悟を決めてでも、僕と話したり僕を助けたりしたかったのだと言っていた。それ以降は結構頻繁に僕の前に現れていた。
 こうして大学一年生である現在の僕にすべての記憶が戻ったということは、つまり僕から今日の、そして今しがた復元された彼女の記憶が失われることを意味していた。彼女が僕の記憶に干渉したという合図なのだ。
「またいつか、会おうね」
 微かに震える詩音の声が頭の中を駆け抜けた。

 気が付くと僕は一人でファミリーレストランの禁煙席に座っていて、ちょうど大盛りフライドポテトが運ばれてきたところだった。そうだ、新入生歓迎が鬱陶しくて、一人で抜け出して昼食に来たところだった。しかしどうして大盛りフライドポテトなんか頼んだんだ?
 僕はしばしば考え事をしていて意識が飛んでいることがある。ふと我に返ったとき、自分がそれまで何を考えていたのか思い出せないのだ。そして考え事をしている間も普通に行動していたりするので、なおさら質が悪い。
 きっと適当に生きているからだろうな。
 おそらく、ビラの山の頂上でひときわ大きな存在感を示す文芸部の新入生歓迎用冊子を読みながらポテトを食べようとしたのだろうと解釈し、その通りに行動を開始した。
 新入生歓迎用冊子には、小説と詩が合わせて六作品掲載されていた。意図して短めに書かれたものだからか、それらをすべて読み終えるのにさほど長い時間はかからなかった。自分自身が執筆好きであることもあって、小説にはもともと興味を持っていたのだが、この冊子では特に一編の詩に引き込まれた。


  『少年の音』

  ありふれたおまじない
  僕達の失くした子供時代
  重ね合わせた指先の感覚を
  僕達はもう覚えていない
  割れた中古のレコード

  鳴らない。

  二人で裏面に名前を書き合い
  狂った円盤は僕達の音を奏でた
  指先で書いた名前が溝を埋めたから
  この音は世界に一枚の音だった
  君は憶えているかい? いや。

  レコードの破片が大人になった指先を切った。


 このページから手が離れず、何度も読んでしまうのは、おそらくこの詩の世界観が僕に郷愁を与えてくるからだ。どうしても思い出したい夢の雰囲気を掴み損ね続けるような、もどかしくも愛おしい感覚が僕の身体を包み込んだ。
 小説を書きたい。
 創作意欲に駆られるのは何年振りか。母親に罵られたあの日以来、僕はまともに小説を書かないまま過ごしてきた。だが、そんな言葉に囚われていたことが急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 あの頃は小説家になりたいと言っていたが、僕の本当の夢は売れる小説家になることじゃない。ただ小説を書くことだったのだと、今更ながら気付いた。当時母親の言葉に絶望したような気はするが、要は自分自身が納得できるかどうかが問題で、こうして吹っ切れるように思い立つと、無駄についた夢の肉は削がれ、心の奥底に根付いていた種がようやく芽吹いた。
 冊子の裏表紙を見ると、文芸部の部会は明日行われていると記されている。僕は入るサークルと明日の予定を決め、最後の一本になったフライドポテトを口の中に放り込んだ。
 小さな幸せの温もりは、もう僕の元から去っていた。記憶の中の幸福の香りは何か物足りなくて、しかしそれがどうしてなのかは今でも思い出せていない。


作:雪咲

獏の見る夢

獏の見る夢

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-15

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