憩いの木
夜も深まり日付も変わろうかという頃、俺は近くの公園に来ていた。その公園の中心に大きな木が一本立っていて、小さい頃はよくこの公園で鬼ごっこをしたりして遊んでいたものだ。今では社会に出てもう十年近く経つが、俺はしがないサラリーマンで営業に駆けずり回っている。最近この公園を通りかかるまですっかり忘れていたが、車の通りも少なく静かなので、飲みに行った帰りなどによくこの場所に来て酔いを醒ましている。
俺は木と向かい合うように置いてあるベンチに座り、独りで愚痴をこぼしていた。
「大変なんですね」
後ろから声がして振り返ると、そこには俺と同じくらいの年齢の女性が立っていた。
「すいません、いきなり。聞くつもりはなかったんですが。私、立花優香って言います」
辺りは静寂に包まれており俺の声が聞こえてきてもおかしくなかった。
「俺は黒田大輝です。こちらこそみっともないところをお見せしてすいません」
愚痴をこぼしているのを聞かれるとは思わなかったので恥ずかしかった。
「そんなことないですよ。私も上司にあれをしろ、これをしろ、って言われて大変なんで愚痴りたい気持ちも分からなくはないですから」
彼女も仕事が大変なようで、なんだか同志が出来たみたいな気がして少しだけ嬉しかった。
「そうなんですか。お互い苦労しているようですね。良ければ隣どうぞ」
「お言葉に甘えて」
そう言って彼女は同じベンチに座った。
「よくここには来るんですか」
「最近はよく来ますよ。この木はずっと独りで頑張っているんです。だからここに来てこの木をぼんやり眺めていると明日も頑張ろうって思えるんです」
「ふふっ、そうですね。どんなに暑くても寒くてもここにずっといるんですからね」
彼女は面白そうに笑っていた。
「黒田さんは前向きなんですね。私はそんな風に思えないかな」
「俺ってそんな前向きですかね。散々愚痴ってあとは気持ち切り替えて頑張るしかないって諦めているだけですよ」
「それだけでも十分前向きだと思いますよ。私の場合は引きずってばっかりですから」
「それは辛いですね。そういう時は溜め込んでいるものを全部吐き出した方がいいんじゃないですか。俺ならいくらでも聞きますし」
「うーん、それは何か申し訳ない気が」
「遠慮しなくていいですよ。ほら、袖振り合うも多生の縁と言いますし、これも何かの縁ですから」
彼女は少し考え込んでから返事をした。
「そうですね、そうさせてもらいます。あっ、でももう遅いですし」
「では続きは明日でもどうでしょう」
「構いませんよ。そのときは黒田さんの話も聞かせてくださいね」
この日はそこでお開きとなり、彼女の家もそう遠くないそうなのでそこでお別れとなった。
「それでは、ありがとうございました。明日、楽しみにしていますから」
そう言って笑った顔は、会ったときよりも明るく見えて少し安心した。
家に帰りついて、彼女のことを思い返していた。優しくていい人そうだった。似たような苦労を持つ者として親近感が湧くからとても話しやすく、彼女と話すのが少し楽しみになっていた。
次の日もいつもと同じように仕事に励み、昨日の約束の通り公園にやってきた。まだ彼女の姿はなかったので、ベンチに腰掛け木を眺めていた。この木は小さい頃よりもだいぶ大きくなっている。自分もこの木のように成長したのだが、果たして立派な大人になっただろうか。そんなことを考えていると、
「ごめんなさい。遅くなりました。仕事が長引いてしまって」
後ろから彼女の声がした。
「気にしないでください。それにしても本当に大変ですね」
「そうなんですよ。全く私にばかり仕事を押し付けて」
それからは立花さんの愚痴が長々と続いた。
「はあ、いろいろ言っていたら気が楽になりました」
「それはよかった」
「なんか不思議ですね。昨日初めて会ったというのに今こうやって愚痴を言い合ったりして」
「それもそうですね。でもいいんじゃないですか。こういうのも」
「そうかもしれません。あっ、そうだ。今度飲みにでも行きませんか。ここでしゃべっているのもいいですけど」
「ぜひ、行きましょう」
仕事、仕事で辛い毎日だが、こうした憩いがあるから明日もまた頑張れるのだ。
作:乃稀亜
憩いの木