bloom wonder 3
誤字脱字等あったらごめんなさい。(イラストは三島です)
フローティング・スタンダード
七原が他人と目を合わせることは滅多にない。
もし合ったとしてもそれは意図的なものではなく、偶発的な接触事故の範疇だ。
いや。むしろこっちが脇目も振らずにガン見をしていたところで、接触の確率は天文学的に遠ざかっていくと見た。
俺だって、ものごとに必要以上の余剰をはさんだり、論点をずらしまくったりするのはどうかと思う。だけど、こうも徹底してビジネスライク(またはそれ以下)な相手だと、『レッスン1 ”コミュニケーションってなんだろう?”』というあたりまで、問題のレベルが引き下げられてしまう。
七原を見ていてわかったこと。
仕事ができることと、人間性はイコールじゃない。
それに、仕事と直接関係のないおしゃべりだからといって、すべてがイコール無駄話なわけじゃなく、仕事や人間関係における潤滑油としての役割りも大いにあるのだということ。
ガチで必要最低限の会話というのは、喩えるならば調味料のない料理のようなものだ。おでんで言うなら、大根、卵、こんにゃく、しらたき、ちくわ、はんぺん、がんも、厚揚げを鍋に投入して水で煮ただけのものを『おでん』として提供されるようないたたまれなさがある。
食うけど。
しかし学んだこともある。
七原に、飛躍した比喩表現────つまりはユーモアや冗談や、ジェスチャーのようなもの。”1+1ー=2”のような明快に答えの決まったものではなく、「わかるでしょ?」というような曖昧な笑顔や素振り────など、形式的な儀礼はいっさい通じないと思っておいた方がいい。
でないと、マット無しの平地で華麗に背面跳びをしようとして決め損ねた程度のケガは免れない。
以上を踏まえたうえで、丁重に接したい。そうすればいい感じとまではいかなくとも、無傷(※重要)で、開発初期段階のAIでももう少しマシだったんじゃないかという程度の情緒の乏しいコミュニケーションは構築できる。それ以上の何を望むというのか。
ものの考え方や価値観は国や文化圏によってことなったり、場合によっては反転することだってあり得るわけだ。そんな場合に必要なのは、”あ、そういうものなのね”という、ありのままを受け止める姿勢、そして妥協。これである。
肝心なのは、うっかり理解して同化しようなどとは決して思わないことだ。相手は異星人だと思って接するのがベスト。つまり、俺と七原に共通するスタンダードは存在しない。
以上が俺がこれまで対七原のため培った、踏まえるべきいくつかの基本事項だ。
それでもたまに考える。
あの一回きりの「ありがとう」は、いったい何だったのかと。
時間が経てば経つほど、空耳だったような気がしてくる。でもあれは確かに七原の声で、俺の聞き間違いなどではなかった。と思う。
たぶん。
「あのねーえ。三島っちはぁ、七原さんと仲良しなん?」
箸で人を指すなと親に教えられなかったらしい宮蔵青が、ミートボールを突き刺した箸を人前でぶんぶんと振り回しながら言った。
相変わらず無邪気なやつだ。
何を見たらそうなるのか。ひとまずそのミートボールを左右の鼻に詰めてあげようかと思った。どこかの島育ちだという宮蔵は、1人で飯を食うのが苦手らしく、人の顔を見るなりワンコのように毎度新鮮に俺の座るテーブルへと駆け寄ってくる。そして悪気はなくとも、声がでかい。
小柄なわりに燃費が悪く、弁当がでかいというのもひとつの特徴だ。自分としても年上の先輩ということで、最初のうちはなるべく敬語を使うよう気をつけていたのだが、あまりに頻繁に忘れてしまうので、敬うことを諦めた。
無垢なチワワのようにきゃっきゃと纏わり付いてくる宮蔵と話すたび、やはり先輩としての扱いをするには、ハードルの高すぎる相手だったのだと実感している。
「なんで。普通だろ」
いや、実際は普通以下なんだけど。と、わざわざ注釈を入れるほどのことでもないと思い、さらりと流す。
「だって三島っち、作業しながら七原さんのことすっげー見てるし」
「は?」
「つか、ガン見してる?────うがが、なにすっ…、俺のミートボオォオ……!」
あまりに不可解さに言葉を失った俺は宮蔵の両手をホールドし、左右にあるミートボールを順番に食べた。そして不可解な気分のままごちそうさまをして、突如としてお弁当のメインを失った泣きっ面の宮蔵を尻目に、従業員用の洗面所へと向かう。
宮蔵は基本的に善良な阿呆だ。自分で言ったくだらないジョークや人の失敗が春先の水たまりほどに浅いツボにヒットして、しつこく笑い続けるようなことはあったとしても、ありもしない事実をでっちあげて人の揚げ足を取るようなややこしい真似はしない。ということは、少なくとも”宮蔵の目にはそう映った”ととるべきなのだろう。
「へえ………。あれが?」
鏡の前で歯を磨きながら、思わず声が出ていた。”仲良く見える”が、どういう理屈なのかはわからなかったが、下手に悪く取られて勘ぐられるよりはまだいいかとも思う。悪気はまったくなかろうと、あの音量でスピーカーみたいに吹聴されたのではたまらない。
正直なところ、自分の七原への関心を成分グラフにしたら、訝しみや意地悪い好奇心が、好意的なものを上回るのは明白だ。だけどそんなことが周りに知れたところで、いいこともないであろうことも明白だ。
髪を結い直し、再びキャップを被る。宮蔵にはあとで七原の試作をいくつか与えておこうかと考えた。役割上というか役得というか、七原の作ったものを口にする機会が日常的に多いことについて、宮蔵はいつもブーブー文句を言っている。完成品ではないとはいえ、値段にしてみたら相当なものなのだろうし、奴の言い分もわからないでもない。
宮蔵が時々自腹で七原のショコラを買っているのは知っている。「だったら自分から七原に味見をさせてくれって頼めばタダじゃん」と提案したら、ほっぺを赤くさせながら「それは、なんか違うんだって」と言われた。単純なのか頑固なのか、よくわからないやつだな、とその時は思った。
面倒だから相手にしていなかったが、モニター用にと断れば、いくつかは貰えるはずだ。さっきは思わず弁当のメインを平らげてしまったが、過去よりも現在。未来よりも現在。常に”今”を生きる宮蔵の性分であれば、目の前のエサで元どおり以上に機嫌も回復するだろう。
そう考えたところで正午5分前となり、早めの昼休憩が終わった。入れ替わりに休憩に入る武蔵野糸鶴に代わり、これから1時まではフロアで接客の予定だ。
平日とはいえ比較的客の出入りのある時間帯であるはずが、店に出て10分もしないうちにそこだけぽっかりと隙間が空いたみたいに、人の入りが絶えてしまった。接客が得意とは言い難く、今日は接客のプロである信永さんがオフで不在なので、ラッキーといえばラッキーなんだけど、こうも暇だときまりが悪い。なんだか自分の存在が、招かざる猫みたいに思えてくる。
となりのカフェスペースでは若い2人連れの女の子たちがカウンター席で、お目当てのバリスタ・森見修の独占状態を楽しんでいる。
差し足の猫が鍵盤上を歩くような音の流れる店内で、彼らの声が木漏れ日と一緒にさざめいている。意味もなく商品をつつきまわし、立ち働くふりをすることにも飽きた俺は、開き直るようにレジカウンターで頬杖をついてふてていた。向こうでは森見がこちらを指差して、女の子たちとくすくす笑い合っている。まあ、”修さん”はそういう人だから、俺もこんな風にだらけていられるんだけど。
厨房に戻るまであと30分。七原のことを思い浮かべる。最近七原を見ると俺は、モヤモヤというか苛々というか、何ともいえない気分になる。
七原の失敗を待っている。
少しでも手が滑ったり、おもに”左手”が何かやらかしそうな場面では。だけど七原もそこそこ付き合いは長いであろう自分の左手の”クセ”については理解しているようで、そう簡単に失敗はしない。なぜかそれで、がっかりする。何も表情の浮かばない顔を見ても、つまらないと思ってしまう。
こいつ、泣けばいいのにと、わけもなく思う。もっとボロを出せばいい。いつか、手先に電流が走ったみたいにびっくりした顔をした、あの時みたいに。
面白がっているわけでもないのに、たとえば何かに蹴つまずいたり、思いもよらないなにかが起こって、困る事態に陥った七原を見てみたいと思ってしまう。こういうのはたぶん、あまり関わり合いにならない方がいい相性ってやつなんだろうなってことは、自分でもずっとわかっている。
それだって俺からの一方的なもので、あいつからすれば俺じゃない誰かでも、なにも変わらない。明日から、隣に居るのがまったくの別人に入れ替わっていたのだとしても、たいした違いなんて──────
戻る時間まであと10分。天啓みたいに閃いた。
違った。
七原とは”目が合わない”のではなく、”合っていた”。話をしている間中、ずっと”目が合っていた”のだ。
ただ、合っていたのは方角だけで、焦点だけが遥か彼方────目の前にいる自分ではない遠くを見ていた。あいつの目はいつも、硝子玉みたいで、ここにある俺のことなど素通りをして、何も映していなかった。
だから、俺はムカついていた。だから、宮蔵の言葉に逆撫でをされたような気持ちになったのか。
あんな、愛想もクソもない七原のために。
ひた、と、頰に冷たい感触を押し当てられて物思いから目が覚めた。見れば森見が、水滴の浮いた、ラテらしきものの入ったトールグラスを手に立っている。
森見のつくるものは、基本はコーヒーで、人工的なフレーバーも極力使っていないらしいが、できるものは”カラフル”だと感じる。七原のつくるスイーツもそうだけど、森見も森見の、”魔法の手”を持っている。
「飲めば?つまんなそうだから、あの子たちからおまえにだってさ。ほら、礼言いな」
「あ………ありがとうございます」
条件反射のようにぴょこっと頭を下げる。虚を突かれ、間抜けな挨拶になってしまった。自分でも喉が渇いていたことに今さら気付く。
「”元気出して”。”彼女さんと仲直りしろ”。だって。今日は信永さんがいないから、特別」とカウンターにグラスを置き、引き返しざま俺の頭をゲンコツの中指で撫でていった。あー……、さすがにダレ過ぎでしたか、と反省する。
どうやらあっちで、的外れな憶測で盛り上がられていたらしい。
過剰な自意識は発揮するだけムダ。相手は森見ガールズなんだということをわきまえた上で、ストローを咥えちょっとわざとらしいくらいに、”がんばります”のランゲージを送ると、女の子たちが思いのほか砕けた声で、けたけた笑いながら手を振った。
ああ、金魚みたいだ、と俺は思う。こんなふうに屈託のない、気まぐれな優しさで、ふわっとささくれの上を撫でてゆく。外見や、つくられたものじゃなくて、内部にある可愛らしさみたいなものが、心を撫でる。つくづく男子にはない芸当なんだと思う。
そこでふっと、リセのことを思い出した。あれ?と、首をひねる。考えてみたら、今のアドバイスは的外れどころか、大当たりじゃないのか。なのに俺はなんで今、リセのことを思い出さなかったんだろう?
「七原さん、これ何度まで温めますか」
「34。終わったら湯煎80まで上げといて。あとはさっきのモールドと、キャレの型」
七原の声は掠れるようで柔らかく、対して指示は端的だ。きっと出す前に必要なこととそうでないことを分別し、切り捨てているのだろう。
「わかりました。あとは」
「カカオ35と85の計量たのむ。あと、2番と5番のガナッシュ、保冷から出して室温に。───三島」
目は手元。ボウルの中の生地に空気を含ませないよう、切り畳むような混ぜ方をしながら七原が口を開く。
「はい」
「プラリネ、落ちてた?」
「あー、………や。でも、ある分はすぐ出ると思いますけど」
「そうか」
俺がさっきまでフロアにいたからか。つか本当、ただの経過確認って感じなんだな。「全部売り切れちゃいました」って言ったところで、まったくおなじトーンの返事が返ってくるのだろうということは、容易に想像がつく。
『プラリネ』というのは、カード状に伸ばしたナッツのプラリネを、チョコレートでサンドしただけのかなりシンプルなものだ。名前も含め、シンプルなものであればあるほど味の想像がつきそうなものだが、七原のつくったものは必ずと言っていいほど、それを軽く裏切る。だから、今は動きが少ないように思えても、ここまでに売れた分のフィードバックは近いうち必ずあると思ったので、そう答えた。さすがに単位までは明言できないけれど。
まだ1週間ほど前に店頭に出したばかりなので、状況を見ないとルーティンには組み込みづらいといったところなのだろう。
賞味期限だけの問題であれば、ある程度作り置きしても問題はないはずなのだが、七原はロスを出さない以上に、客の口に入るのにベストなコンディションを見計らっているのだと思う。当然のようにその分の効率的なモノは落ちることになるのであろうが、そういったことについて七原や他の誰かが見咎められているのは、この店では見たことがない。
「あの、………七原さん」
七原がこちらを”見る”。俺は、自分が透明な水か空気になったような気がする。
曖昧な質問や、ただ名前を呼ばれただけでは七原は答えない。答えが欲しいのであれば、七原が明確に答えられるよう、質問の仕方を考えなければいけない。声をかけた時点で何を訊くのか考えもしなかった、空白の頭で。
「宮蔵。これ、試作だけど食べるか?」
夜8時過ぎ、タイミングよく行き合った帰りのロッカールームで、試作のチョコレートをいくつか適当に詰めた袋を差し出すと、着替えの手を止めた宮蔵は「なになに?三島っちのつくった爆発物処理的な〜?」とにやけながら、失礼なことを言い放つ。「俺はまだそこまでやれてねーよ。これは、七原さんの。いらなかったらべつに」と皆まで言い切る前に、袋がざばっと手から消えた。こいつ、途端に浅ましいな。
「あ。そいえば、七原さんはまだ帰んないの?一緒に居残ってたみたいだけど」
宮蔵がようやく薬物にありついた中毒患者のように、袋内の空気をすーはー吸いながら上目遣いで聞いてくる。
誰かに見咎められて困るようなことをしていたわけではないが、自分が周りの状況にほとんど何の注意も払えていなかったということに、うっそりと冷えるものを感じながら、取り繕うようにあとを継ぐ。
「あー……。うん。ちょっと、イートイン向けのオリジナルショコラの試作を。っても、まだアイディアの段階だから想定の試行って感じなんだけど」
自分が発端ではあるものの、作ったのはほぼ七原だ。軽い口調で自慢するべきか卑下するべきか、説明の立ち位置に迷う。
「へえ〜、そうなんだ?」
袋の中に光る石を見つけたかのように、宮蔵の目が自分の内側の好奇心を反射して、きらきら光る。
『paigue』では、新製品開発のひとつの手法として、敷居を低く間口は広く、常時店内コンペのようにアイディアや企画を募っていて、行けるんじゃないかいう判断があれば、それに見合った人選なりをコーディネートして企画自体をより現実に近付けるための改善点や妥協点を探し、ブラッシュアップを行なう。もっとも、実際に商品化するのは簡単なことではないらしいが。
手の中にあったのは、ほんのさっき転がり出たような、アイディアの卵だ。
「えっと……昼に修さんとフロアに出てて思い付いたんですけど……」
七原の名前を呼んだ後、言葉に詰まったつもりが、気付けばそんなセリフが口から出ていた。
口から出まかせで場を取り繕ったまでは良かったが、てっきり七原は、「ふーん、そう」くらいな反応で、たいした興味も示さずに聞き流されるものだとばかり思っていた。しかし意外にも「それで、どういうものを考えている?」と、その先を続けられてしまったのだった。
で、なんだかんだで引っ込みがつかなくなってしまい、出まかせに出まかせを重ねた結実が、宮蔵の手の中にあるビニール袋と相成ったわけである。
俺のあやふやな表現やイメージを七原は拾いあげ、端的で的確な質問でさらに引き出しては補って、具現のものとして示してみせるその手つきや視点は呆れてしまうくらいに無駄がなく、結局2時間ほどでそれはそれなの”形”を持った。イレギュラーな作業は当然のごとく通常の業務が終わってからのものになったけれど、七原は文句もなく付き合ってくれた。
”これ”という確固たるイメージがあって、たとえ手元には立派な絵の具や絵筆があったのだとしても、誰もが頭の中にある”ビジョン”をそのまま具現に落とし込めるわけではない。それを、七原は淡々とやってみせた。現時点での圧倒的なスキルの差、もしくは才能の違いというものをまざまざと体感するような出来事だった。
不思議なほど、嫉妬という気持ちは芽生えなかった。憧れ、というのとも少し違う。あえて言葉にするのなら、それは”楽しい”ものだった。俺のなかに生まれるイメージが、俺のことば一つ、もしかしたら声のニュアンスひとつで、七原の手によって色を変え形を変え、再現されてゆく。その中でも、もっとこうしたらどうかという、新たなイメージを付加される。これが楽しくなくて、何が楽しいのか。────そんな風に思ってしまった。
だけど、そんな風に浮き立ってしまう心を、七原にも、ほかの誰にも見咎められたくなくて、作業中は務めて冷静を装っていた。
そして七原が「おまえのだ」とざらざらと無造作に手の中に与えた、試作の中でも一番出来が良かったものは、渡した袋の中には入っていない。
「試作だし、続けるかどうかもまだ決まってないから、あんまり言うなよ。あと七原さんが俺より遅いのは、いつもだし。あの人、始末にこだわりあるみたいだから」
意味もなく饒舌な自分が、なぜだか言い訳をしているように思えてくる。
「で。宮蔵は、明日の仕込みが多かったんだっけ?」
「ウン、そうそう。あさって予約入ってるカンコンソウサイおめでとうのやつ。数があるから大変なんだよ。今日は仕込み組だけだったけど、明日は全員残業けってーだかんな。いいか、絶対休むんじゃねーぞ。もし三島っちが休んだ場合は、たとえいかなる理由があろうと、俺にミートボール100個相当の素敵な食べ物を奢るんだぞ」
「はいはい」
もう忘れろって。
こいつは、砂漠でヘトヘトになってさ迷っている際に、もし龍の神様が現れて「何でもいいから願いをひとつ……」みたいなくだりがあった場合、間違いなく「アイス100本おくれ!」とか叫ぶタイプだ。なぜならば彼はとても前向きで、人の期待を裏切らない馬鹿だからだ。
などとくだらないやりとりをしているうちにまもなく、宮蔵の帰り道と駅へ向かう道との分岐に差し掛かった。「じゃっあね〜ん!」とペダルを漕ぎ出しながら「100個だからねー」としつこく繰り返す宮蔵に、「だから、おまえは前を見ろよ」と言いながら、バッグのポケットを手探りした。
そこで自分がロッカーにイヤフォンを置き忘れていたことに気が付いた。すでに駅近くまで来ていたなら諦めただろうが、歩き出して3分も経っていないこともあり、迷わず店へと踵を返す。自宅アパートまで30分を音楽もなしで、電車の走行音のみで過ごすのは嫌だった。
「───あ。七原……、さん」
ロッカールームの扉を躊躇することなく開けたところで、着替えている七原にばったりと出くわす。就業時間もとっくに過ぎて最後に残っていたのは七原だけなのだから、ばったりも何もないようなものだが、なぜかそのことが念頭からすっぽり消え失せていた。やっぱり今日の自分は色々とおかしい。
一度こちらを振り向いたかに見えた視線は合わさることもなく、滑るようにどこかへ流れた。当然のように、相手からの返事はない。
仕事をしていた時は特に違和感なく過ごしていた”ふたり”という状況に、急に気まずいものを感じはじめている。このまま前を通り過ぎて、ロッカーから目当てのイヤフォンだけ取り出して、「じゃあ、失礼します」とでも言ってさっさと帰ればいいのか。それが、正解に近い気がする。
「一回出たんですけど、ロッカーにイヤフォン忘れちゃって。今日は、付き合ってもらってありがとうございました。あと貰った試食、さっき宮蔵に渡したら、すごい喜んでました。あとでちゃんと感想言うように伝えときますね」
結局、苦し紛れの折衷案、”独り言のミックスコラボ”を採用することにした。2人っきりであろうとも適当な体面を取り繕おうとするあたりは、なんだかんだで実に自分らしい対応だと思う。
そそくさと七原の背後を回り込み、左隣にある自分のロッカーを開け、イヤフォンを取り出してから立ち上がり「じゃあ」と言いかけたところで、自分が何をしようとしているのか、するべきだったのか、その一切が頭から飛んだ。
視線の先に、七原の白衣がはだけて肌が露出していた。
ここへ入って来てから、七原はどうしていた。ただの無表情だったか。本当に何も無かったか。目は、態度は。無言の意味は。仕事中はどうだった?今日は、昨日は、その前は………これまでのこいつは?頭の中に答えを待たない疑問の羅列が、次々と並ぶ。
それは、肩───肩甲骨の下あたりから肘の手前内側にかけてを走る、致命的にも思える裂傷の跡だった。まるで、千切れることも厭わないかのような。それは、相手に対し人間性のかけらも認めない暴力や、否も応もなく振り下ろされる、自然の力を思わせた。
誰が、いったい何のために?
俺は、七原の左腕に傷があることは知っていた。そのせいで動きに不自由が残っていることも頭では判っていたはずだ。だけど、それがこんなにひどい傷だなんてことは……。
考えもしなかった。自分のこれまでの経験を全部引っ張り出したところで、何があったらこんな傷あとになるのかすら、想像もつかない。
「七原さん。………腹減りません?駅の近くに、すごいうまい定食屋さんがあるんですけど。あの、そこって、値段も安くて、すごく安くて味もうまいんですけど、なんか一人だと微妙に入りづらくて、こ、………困ってるんですよね」
おいおい、俺は何を言ってるんだ?
bloom wonder 3
ありがとうございました。