ピリカの儚

草也

ピリカの儚
  

 万世一系の御門が二千五百年に渡って統治する単一民族の国だと、この列島の為政者は、久しく高らかに謳いあげてきた。その一方で、ある北辺の少数民族を土人と規定した法律までが、つい近年まで存在していたのである。
 だから、北辺の人々は西の王朝の理不尽な侵攻と支配に抵抗して、幾多の戦いを繰り広げてきた。学術の一部も、御門の男子一系の正統性や単一民族論を否定していた。そればかりか、この列島の西半分と東半分では、民族も文化も、DNAすら明瞭に違うと主張しているのである。
 だが、その北の国の悲壮で哀切な歴史は、全ての敗者の歴程の宿命として、時間の彼方に埋もれようとしていた。

-半島の女-

 北のある地方の県都。男がある大学に通い始めたその年の盛夏。未だ、異様に蒸し暑い夜である。
 ある公園で開かれた、半島の国に対する賠償協定と国防条約反対闘争の集会は、始めから不穏な雰囲気に包まれていた。激しい内部抗争を繰り返している学生の二つの極左組織が激突するとか、それは見せかけで、談合した両派が騒乱状態を作って全国に名を馳せたいのだなどと、風聞が飛び交っていた。そして、おびただしい機動隊員が配備されていた。
 デモ行進がスタートしたばかりから、あちこちで小競り合いが起きていたが、解散地点の駅前で、遂に過激派の一群が暴走した。駐車していた車を次々に横転させ、火炎瓶を炸裂させて炎上させたのである。制圧する機動隊にも投石したり火炎瓶を投げつけた。激しく火柱が上がる。学生も機動隊員も、どちらも若い。険しい殴りあいが始まった。
 男も隣にいた機動隊員に幾度も殴られた。その背後では写真を撮っている私服がいるが男は気付いてはいない。
 陰湿な殴り方だ。目があった。憎しみに満ちている。堪らずに、男が思いっきり殴り返すと隊員が転倒した。近くにいた数名の隊員が罵声を発しながら駆け寄ってくる。男は必死に遁走した。

 繁華街に紛れ込んで、路地の迷路の奥に身を潜めた。やがて、汗まみれの息も鎮まると、眼前に侘しい焼肉屋がある。突然に空腹を覚えた。喉も乾いている。ポケットを探ると裸のままの数枚の札は無事だった。男は古びた引き戸を引いた。

 客はいない。カウンターの奥で、青いワンピースの女が片付けをしていた。三〇半ばだろう。
 顔をあげた女の豊潤な笑顔が咄嗟に曇った。男が無言で問い返すと、眉間に怪訝な皺を刻んで、「血が出ているわよ」と言う。「目尻よ」男が、思わず拭おうとするその腕を、「駄目よ」と、勢いよく掴んだ。何かは知らないが甘い果物の香りがする。男を二畳ばかりの小上がりの縁に座らせると、「消毒をしないと」と、奥に消えて、足早に薬箱を持って戻る。慣れた手付きで消毒を終えると、豊かな乳房を揺らしながらガーゼを当てた。 
 「水が欲しいんでしょ?」女がコップを差し出す。微かだが特徴的な訛りがある。敢えて確かめもしないが半島の女だ。二杯目を飲み終えて、男は初めて礼を言った。
 男がウィスキーのオンザロックを飢えた喉に一気に流して、「手際がいい」と、呟いた。「若い頃は看護婦だったのよ。それに、すぐにわかったでしょ?」「そうよ。私は半島の生まれなの」「あの戦争中に家族でこの街に来たのよ。父親の知り合いに誘われたの」「今でもあるけど、町外れの化学工場で父親は働いていたわ」「戦時中は、魚雷などに入れる爆弾の原料などを造っていたのよ」「そのせいだか、敗戦の間際には酷い空襲で。社宅を焼け出されて-」「それから、もう少し北に私たちの民族だけの部落が出来たの。バラックばかりの粗末な暮らしだったわ」「でも、復興が進んんだら、跡形もなく取り壊されてしまったわ。だからといって、何の感慨もないのよ。何もかもが、惨めな思い出ばかりなんだもの」「戦後に、病院で働きながら資格を取ったの」
 「シャツも酷く汚れているし-。何があったの?」「-殴られたんだ」「誰に?」「デモだ」即座に納得した女が、「さっきも、お客さんが話してたわ。半島の人よ」「だから?」「この国の学生は愚かなほどに呑気だって-。ご免なさい」「それから?」「-俺達は、この国に散々に酷い仕打ちを受けたが、訴える術もない。故国は独裁政権で開発ばかりだ。人民の戦争中の補償などは微塵も考えていない。とりわけ、在外の俺達は全くの蚊帳の外なんだ、って-」「あの学生達は、半島から来た労働者の戦争中の実態を知っているのか、って-」「その通りだよ。あいつらは天下泰平なんだ。-俺もだな。わかっているつもりではいるが-。そう言われてしまうと-」
 その時に、騒がしい話し声を連れて、引き戸が勢いよく開いた。半島の言葉だ。女も同じ言語で迎える。常連らしい初老の三人が小上がりに腰を据える。すっかり別人に化けた女が慌ただしく動き始めた。

 あの戦争に敗れた後の保守政権は、戦勝国との間に、ある安全保障協定を結んだ。革新勢力が強固に反対したが押しきった。その改定が一年後に迫っていて、両陣営の対決が再び激しくなっていた。とりわけ先鋭だったのが学生で、学費値上げ反対や、民主化の独自の運動とあわせて、日毎に過激化していく。あちこちの大学が封鎖されたりもしていた。ある極左政党が作った学生組織が台頭して武装化に拍車をかけると、学生運動も分裂して陰湿な内部抗争が勃発していた。
 そんな時に、御門が倒れて病に臥したのである。後継の話がにわかに浮上した。御門には、三人の男子がいて、順当なら長子の太子が次期の御門なのだが、父に似て愚鈍なのだ。それに、あの戦争を挟んだせいで情況は輻輳していた。
 御門に年の離れた異母弟がいた。母親は北の国の女だ。あの戦争には強硬に反対をし続けていた。この弟君を御門の第二子が心酔している。皇室は、長い間、二分されていたのである。革新勢力は御門の戦争責任の追求を再燃させて弟帝を支持したから、国論にさらに激しい亀裂が走った。
 こうした最中に、野党第二党の党首が街頭で刺殺される事件が惹起した。犯人は、あの戦争を指導した軍人グループの残党だったから、対立に油を注いだ。こうした状況にあって、半島国の問題も闘われていたのである。
 男は、歴史の狭間の混沌とした政情の渦に飲み込まれて、格闘しながら我を失っているのだった。
 男は大学の現況を否定している。とりわけ、学生運動の内部抗争で死者が出る事態に、震撼しながら憤怒していた。
 そもそも、男には大学に進む明瞭な意思はなかった。街のごろつき等とも一戦を交えるほどに喧嘩に明け暮れていた。一方では、文学部の部員でもないのに、部長から頼まれて記念誌の巻頭の短編を書いたもりしていた。ある学科の成績が校内一だったりもしたが、他は振るわない。男は、担任とは馬が合わずに、浪人も覚悟をしていたが、校長が直々に声をかけて推薦してくれたのだ。校長はシンランを信奉していた。男はその時に初めて、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや、悪人おや」という思想を知った。「俺は悪人ですか?」と、問う男に、穏やかに笑みを浮かべながら、「そうなんだろ?だから、僕が救ってあげるんだよ」と、校長は言った。
 
 男にへばりつくこの状況の息づかいは、質の悪い亡霊のようなのだ。それと同じくらいに、男は矛盾の塊だった。この世界の全ては鵺なのかも知れないと、男は思った。
 突然に、雷が鳴り響いた。近い。小上がりがざわめいて、帰り支度を始める。
 そして、再び、男と女は二人きりなった。あの乱闘ですっかり困憊していた男は、女の留守に酔い始めていたのだろう。次第に饒舌になる。
 「トヨトミの侵略もそうだが、半島を併合したんだ。口火を切ったのは、英雄と称えられているサイゴウや自由の旗手だというイタガキなんだからお笑い草だよ。複雑な地政学の弱味につけ入って他人の国土を蹂躙したんだ。言語を奪い、名前を変えさせて。神社を建てて御門教を強制したんだ」
「私も酔いたくなったわ」と、女がグラスに手をかけて、「大丈夫よ。学生さんにはご馳走にはならないわ」と、ウィスキーを一口した女が真っ白い歯で笑った。
 「あの頃はいくつだったの?」「終戦の盛夏は一一だったわ」「八つの時にこの国に来たから、半島の事は覚えているわ」「あの頃は私の名前も半島のものだったんだもの」男は、その名前を聞かない。「御門を称える歌も随分と歌わされたのよ」「神社にも何かにつけて参拝したし-」「急ごしらいのお祭りもあったのよ」「この国と同じ国民だと思っていたのか?」「そうじゃないわ。生まれた時から半島の言葉で育ったし、幼い頃から真実を教えられていたもの。半島の歴史も教えられたし-」「他の民族を占領して統治するなんて、そんなに生易しく出来るものではないのよ。だから、あの戦争の後には、世界中の植民地で独立の闘いが起こったんでしょ?」「だが、総統などはこの国が半島や、大陸、南方まで侵略したのは、植民地の独立の一助になったんだなどと、ほざいている。盗人猛々しいとはああゆう輩を言うんだ」
 その時に、稲光が走ったかと思うと雷鳴が弾けて、寸分をおかずに土砂降りになった。どういう造りなのか、話しにも障るほどの雨音だ。女は、「こんな陽気の夏はいつものことなの」「こうなったら、もう駄目なのよ」と言って、ずぶ濡れの暖簾をしまった。

 「あげくの果てに、従軍慰安婦や徴用工なんだ」「でも、この国の政府は事実すら否定しているわ」「そうだ」「自分がそんな目にあったら、いったい、どうするのかしら?」「子供だったから良くはわからなかったけど、あちこちに理不尽があったのよ」
 「近所の人が連れていかれるのを見たんだもの。綺麗な人だったわ。普段は座敷に幽閉されていたのよ。狂女だと、母親が言っていたの。恋人が出兵させられて。すぐに戦死して。狂ったんだって」「そんな人を見たことがある」「あなたも?」「豊潤だが陽炎のような女だった」「そうでしょ?あんな病気は魂が抜けてしまうから、余計に怖いんだって。母親が言ってたわ。魂はみんな清浄で、狂ってしまった肉体には棲めないから、北辺の泰山に飛んで行くんだって-。だから、泰山は聖の山なんだって。隣の県にも似たような伝説があるって聞いたわ」「怖いのはその女じゃない。そんなにしてしまった情況だよ」「そうね。-でも、真から狂った人は、やっぱり怖いわ」
 「-見てしまったんだもの」「どういうわけだったのか。その女がふらふらと歩いていたの。夏休みの暑い日だった。後をつけてしまったの」「御門の神社の鳥居を潜って。五〇段ばかりの石段を上るのよ。その中頃で、女が立ち止まって-。杉の大木の根本に蛇がいたの。白と青の-。二匹とも驚くほど大きくて。絡み合っていたわ。あの時は何をしているのかわからなかったけど-」「女もずうっと見続けていたわ」「階段を上りきると社があって-。その縁に腰をかけた女が何かを叫んだの。何度も何度も-。その声が深い森に木霊していたわ。そしたら-。スカートの中に手を入れたの」「一人だったのか?」「どうしてそんなことを聞くの?」「さぞかし怖かっただろうと思ったんだ」「-そうよ。一人だったわ」「そんな人が慰安婦にさせられたのよ」「そんな仕打ちを受けたんだもの。怨みは根深いのよ」「五〇年や一〇〇年で、忘れられる様なものじゃないな?」「そうだわ」「俺はカンムノ御門とタムラマロに侵略された、一山百文の隣県の生まれなんだ。エミシの子孫だよ。その上に、最近は原発まで造られてしまったから。略奪され、蹂躙され、支配された者の怒りがわかるんだ」「そうだったのね」「俺自身が世情の底辺の当事者なんだ」「俺そのものが怒っているんだ。義憤なんだ。腹の底からわかるんだよ。公憤なんだ。怒ってばかりで生きているんだ」
 「あの侵略戦争がいかに誤りだったかは、世界を敵に回して完敗したことで明らかなんだ」女か頷く。「保守党の総統が、普通の国になりたいとか憲法改正なんて言い募っているが。せめて、戦争体験者の全てが死に絶えるまで。まあ、戦後百年としても、あと八十年は待つのが礼儀だよ」「半島の恨みはもっと続くわよ。だって、トヨトミの理不尽で不条理な侵略から四〇〇年もたつのに、恨みは未だに消えていないんだもの」「だから、チンピラ右翼の総統に煽られて、あたふたと付和雷同するなって言ってるんだ」
 「この国の西半分は渡来人も多かった。というより、俺から言わしたら、御門を始め渡来人の国なんだよ」「そうよ。半島人は真底ではそう思っているもの」「御門はミマナが故郷だと口走ったことがあるし、総統なんかもクダラがご先祖かも知れないんだ」それなのに、何かといえば半島を敵呼ばわりして、どうするんだ」「歴史には少しは謙虚でいるがいいんだ。それが最低限の礼節っていうもんだよ」

 
 -不感症-

 気が付くと、男は布団の上にいた。薄い夏掛けもはだけて、汗にまみれている。ガラス窓の直ぐ向かいは隣家の古びた壁ばかりの景色だが、僅かな隙間から煌めく光が溢れている。日が高いに違いない。
 身体の節々が痛い。顔を撫でると右の目尻にガーゼが貼ってあった。何が起きたのか。男の記憶は茫茫と定まらない。
 隣に布団が並んでいる。鼻孔を熟れた桃の香が走り抜けた。すると、微かに歌声が聞こえ始めた。途切れ途切れに、階下からだ。耳を鋭くすると、暫くして、半島の歌に違いないと思った。その途端に、朧気に昨夜の記憶が蘇って、おずおず探ると下着は着けていた。だが、見渡す限りにはズボンもシャツもない。
 小さな卓袱台の上に煙草が置いてある。煙草を吸う青いワンピースの女の姿態が、紫煙のように過った。マッチも灰皿もある。豊かな乳房と尻の幻影のこまおとしが脳裏を掠める。手を伸ばして取り寄せて、数少ない両切りの煙草の一本を取り出すと、すっかり、湿っている。
 昨日もそうだった。今朝も、暑い上に酷く湿度があるに違いない。あの機動隊員のひきつった顔が浮かんだが、いったい誰の表情なのか、男は未だ気付いてはいない。
 喉が乾いている。卓袱台には水差しとコップもあった。水を飲み干すと、昨夜の激しい雷雨の記憶が蘇った。その合間、合間に女の姿態が浮かび上がってくる。煙草に火を点けて紫煙を深々と吸い込んだ。
 やがて、階段が軋んで女が現れた。弾んだ挨拶をかけて、「大丈夫かしら?」と、男の顔を覗き込む。記憶から抜け出てきた女に曖昧に頷くと、安堵の笑みを浮かべて、「みんな洗ったわ」と、言いながら、後ろ姿で軋む窓を開けた。
 大輪の花柄の半袖シャツに、ゆったりした紫紺のスカートだ。鮮やかな青いエプロンを着けている。夕べも同じ色のワンピースだった。こんな色が好きに違いない。
 あの人もそうだったと、男はこの女を初めて見た刹那の軽い衝撃を噛み締めている。妖しく揺れる尻が眩しい。
 「驚いたでしょ?」と、振り向かずに話しかけて、「本当は下着も洗いたかったんだけど。脱がせる勇気がなかったわ」と、振り返ると真っ白な歯で笑みをつくった。「後で着替えを買いに行ってくるわ。そしたら銭湯に行きましょ?」女が自分の極彩色の下着を何枚か干し始めた。
 男にようやく現実が蘇った。「-何時なんだろ?」「もうすぐ昼よ。店に食事の支度をしてあるわ」男は、この階下が夕べの店なんだと初めて悟った。
 洗濯物を干し終わった女が、重い乳房を揺らしながら卓袱台の脇に腰を下ろして、数個の煙草を取り出すと、「あなたのも買っておいたわ。ヘビースモーカーなんだもの」女が吐き出した煙が幻影の名残の様にたなびいている。
 「-ここでは、眠っただけなんだろうか?」「どうして?何を心配していたの?そうよ。すっかり、酔ってしまったんだもの」「私もだけど。階段を上がるのが難儀だったわ。でも、あんなに楽しかったのは初めてかも知れない」「この国に、あなたの様な青年がいるとは思っていなかったんだもの」「半島の男とも何となく肌が合わない気がして-」「どうしてこんな風になってしまったのかしら?」「あんな御門の同化教育を受けて。親には即座に否定されるし-。いつも、私の身体のなかで、異質の価値がぶつかり合っていたんだもの」「いったい、自分は何人なんだって-。幼い頃から矛盾に満ちた疑問を実感していたんだわ」「思春期にこの国に渡って-。酷い差別も感じたけど、その人達だって戦渦は等しく味わったんだし-。戦争が済んだら、忽ちの内に敗者になってしまって。虐げられてきた私達が、一夜で勝者なんだもの」「でも、それだからといって、ずうっと抱いてきた不条理の感覚が癒されたわけではないのよ」「いったい、民族って何なのかしら。自分のことさえ判然としないんだもの」「あの戦争が混沌としすぎたからなのかしら。いつでも無国籍の根無し草みたいな気分なんだもの」
 「夕べ、話題のあの小説の話をしたでしょ?『儚』の連作だわ」男が頷く。「貧しさの余りに、この国の歳の離れた男の妻となっていた半島の女が、闖入者の若い北の国の男と計らって、夫を殺害する話があるでしょ?」「余りに奇妙で現実離れした場面なんだもの。計らったって言ったって-。女は夫と閨の最中なんだもの。そんなことってあるのかしらって。疑っていたんだけど-」「夕べ、あなたと話をしていたら-。何となく、わかったような気がしたんだわ」
 男は女の短い浴衣を羽織されて、階下に降りて食事をした。女が買い物から戻ると男は着替えた。暫くしてして並んで銭湯に行った。戻ってきて女が男の下着を洗った。
 そして、再び、洗濯物を干す女の尻を男が眺めているのである。「喉が乾いたわ」と、女が言う。「あなたはどうするの?帰るの?」「もうすぐ、店を開けるんだろ?」「今日は日曜よ。定休日なの。どうするの?」「帰る用事も特別にはないけど。帰らない理由もないだろ?」「だったら、また、あの小説の話をしたいわ」

 同衾の後に、女は不感症なのだと呟いた。
 海外のある作家に、この二人のいきさつと似た短編がある。古の厳格な一神教に帰依する民族の不感症の大学生の娘と、中年の売れない異教徒で異民族の作家が、深夜の侘しいバーで出会う。豊満で男好きのする容姿のその娘が不感症だと呟き、作家が治癒してやろうと豪語して、二人は抱擁するのである。ところが、作家が痴戯を凝らして払暁まで悪戦苦闘しても、娘の不感症は重篤なのだ。だが、終に、娘の民族性を侮蔑するある単語で罵倒すると、娘が初めて愉悦に達するという小品だ。究極の体位は立っての後背位だと、作家は書くのである。
 男はそれを真似て、開いた貧しい押し入れの前に女を立たせて、こんな体位は初めてと、口走る女の背後から射精した。果たして、女のうわごとは真実だったのか、男には知る由もない。ましてや、女の症状が快癒したかなどとは、男もそうだが女にすら確信がないのだ。男は女の民族性はおろか性分すら、皆目、知らないのだ。不感症のなんたるかさえ判然とはしていないのではないか。ましてや、女の民族の恥辱を罵倒して陶酔に導く踏ん切りなどはある筈もない。第一、男そのものが性交の不思議に無知だったのである。全ては男の若さばかりの痴情であったのだろう。

 大学はロックアウトをしている。次の日の夕刻に安アパートに戻ると、温厚な大家が顔をしかめた。刑事が訪ねて来て執拗に尋問されたと言うのだ。逮捕されるかも知れない。アルバイトで得たばかりの僅かな金と着替えだけを持って、男は出奔した。当てはない。北に向かう夜行の鈍行に飛び乗った。
 さりとて、男には向かうべき新しい地平の目安とて、さらさらもないのだ。男は長い間、情況と交わりあえずに、時代の構成から取り残されていたのである。
 男は何をするのでもなかった。季節の移ろいに寄る辺なく身を任せて、思惟ともつかない夢遊に耽溺していたのである。男の神経は無闇と暑かったあの夏の日々と同じ様に、かなり病んでいたに違いない。或いは、あの盛夏から今まで、男の狂気の収まることはなかったのだろうか。
 男は十六の夏に初めて精神科で診察を受けさせられたが、爾来、虚蝉を漂う虚無の様に神経を病んでいたのである。
 だが、それにも増して世相が混濁していたからなのか、男の狂気は時代の風に紛れ込んでしまっていたのかもしれないのだ。

-女医-

 高校ニ年の夏休みに入るとすぐに、男はある精神病院で診察を受けさせられた。男の急激で異様な変化に、我が身の危険をすら感じたであろう父親の半ば強制な説得に抗しかねたのだ。
 男は柱時計の秒針の進む音も気に障って眠れずに、夜毎に様々な妄想に浸るようになっていた。それでも耐えきれずに少しばかりは眠るのだが、その僅かばかりの安息も悪夢にうなされるのだった。
 それまでは夢などは殆ど見たこともなかったが、覚醒と幻覚の合間に次々と男を襲うのは、悍ましい夢ばかりだ。
 肉色の雲が脳裏一面に広がったかと思うと、忽ちの内に塊となり女体が現れる。義母だ。自慰をしながら手招きをしている。甘美な肉ではない。蒙昧で自堕落な姿態だ。この女は狂ってしまったに違いないと、男は思う。近くの巨木の陰には、やはり裸の義妹が息を殺している。あの女も狂気に取り憑かれているに違いないのだ。そして、男も裸なのである。義母や義妹へのおぞましく淫らな妄念はおろか、父親の殺害をすら妄執する有り様だから、見た目にも不気味だったに違いない。父親が危機感を抱いたのも当然の成り行きだったのだろう。
 昨夜からの熱波が冷めきらぬまま、追い討ちをかける様に、朝方から、かってない蒸し暑い日だった。
 男を迎えたのは女医だった。看護婦の姿は見えない。義母に似た爛熟した身体を白衣に隠した女は、幾分は若く見える。三〇半ばだろう。その女医が大きな瞳を更に見開いて男を見つめながら、問診を始める。時折には、真っ白い歯で笑みを創るのである。
 その瞳に映った自分をとらえながら、男は不可思議な気分に陥った。何故かは知らないが、この女が同類であるかのような錯覚に気付いたのである。男には生母の明瞭な記憶はない。父親とは疎遠が久しい。義妹はおろか、実妹とも反りが合わない。そんな男が、知らずにいた血脈の姉と突発に遭遇した類いの感性に捉われたのだ。
 女医は膝頭を組んだり外したりしながら、一通りの問診を済ませると、極彩色の水玉模様が散りばめられたカードを広げた。何に見えるかを言え、と言う。
 この時には、男の混乱は頂点に達していた。この検査に男は知識があった。精神状態を分析する常套の手法なのだ。
 男の不安は、入院の診断が下った場合にあった。今しがた、病院の駐車場に入りがけに、異状な集団と遭遇したのだ。十数人の似たような風貌の一群が、監視の男に導かれて無気力に歩いていた。
 ここの患者だと、侮蔑の視線を浴びせながら、父親が言う。皆、眼差しが虚ろだ。前の者の肩に両手を掛けたり腰に手を繋げたりして、とても一人では歩み得ない風情なのである。精神を病む人間を間近に見たのは初めてだった。悪寒が走った。もしかしたら、自分もあんな容貌になってしまっているのではないか。不眠などは単なる気のせいだったのではないか。精神病院の検診を高をくくっていた自分を悔いた。彼らはそれぞれが何かを、休むこともなしに呟いていて、時折には甲高く奇声を発する者もある。自己を全く失っている有り様なのである。狂えば自己を喪失する現実の恐怖を、男は初めて悟った。絶対に本物の狂気に陥ってはならないと覚悟した。 とりわけて、最後尾の女は異様だった。他の者達はくすんだ一団の塊と化しているのに、なぜか、この女だけが鮮やかな青いワンピースを着て、一人、途切れているのだ。三十路半ばの豊潤で艶やかな女である。
 男の眼前まで来た女が立ち止まった。稚拙な行進は女を取り残してぐずぐずと歩み去る。女が傍らのベンチに座った。宙をさ迷う大きな瞳が潤んでいる。すると、にわかに裾をめくった。無防備な下半身から一群の濃密な陰毛が現れた。そして、躊躇いもなく、女が股間に手を忍ばせて自慰を始めたのである。男は万華鏡の幻影の様な有り様に目が眩んだ。
 「どうかしたのかしら?」「見て、感じたままを正直に言えばいいのよ」女医の赤い唇が別な生き物の様に濡れている。「むしろ、正直に言ってもらわないと困るの」
 問診は難なくやり過ごしたつもりだが、これは勝手が違う。ここに至って、正常を装う答などは男に出来得る筈もないのだ。最早、感じたままを答えるしかない。
 入院は身震いするほどに恐怖だが、狂っている筈がない。あの後で、玄関のガラス戸に写した姿は、あの患者達とは明らかに違っていたではないか。目に力を入れてみた。焦点は定まっていて、むしろ険しいくらいだったのだ。あの者達は茫茫として、すっかり無表情だったが、俺は違う。笑顔までを写すことだって出来たじゃないのか。
 或いは、ノイローゼくらいの診断は下りるかも知れないが、服薬や通院程度であれば止むを得ない。そういえば、この女医はさっきの患者の女にも良く似ているではないか。この女とまた会えるなら、それもいいのではないかと、思ったりもした。
 
 「どうかしたかしら?」女医が、また、足を組み替えた。太股の奥までが覗けそうな風情なのである。
 「駐車場で奇怪な情景を見たんだ」「何を見たの?」「-自慰をしていた」「青いワンピースの女ね?私の患者なのよ。驚いた?当然だわね。でも、あなただってするでしょ?」「健康な青年なら当り前の事だものね?何故、するのかしら?いい気持ちだからでしょ?」男が頷く。「夕べもしたの?」「-あなたは?」「-私?」「そう」「-したわ」「今度はあなたの番よ?」男が頷く。「ちゃんと答えて?」「-した」「だったら、あの人も同じじゃないかしら?私も。あなただって、同じだわね?そうでしょ?」「違っているのは、あの人が人前でもすることだわ」「どうして、そんなことをするのかしら?」「あの人には禁忌が無くなってしまったの」「この社会にはタブーがあるでしょ?何だと思うう?」「-革命」「そう。それから?」「-御門制」「そうだわ」「-御門の戦争責任」「そうよ」「原発反対運動」「そうね。それから?」「性」「そうよ」「そして、自慰もそうだわ」「でも、あの人の禁忌は弾けてしまったの。精神に余程の衝撃を受けたに違いないんだわ。でも、何も言わないの。自己保全の記憶喪失に陥っているのか」「あの人は?」「ある門前で行き倒れのところを助けられたの。その人も手に余って入院させたんだけど。入院費もその人が払っているのよ。資産家の独り身の老人よ」「本人は巫女だと言っているわ。それ以外は何もわからないの」「周期的に暴れるのよ。そんな時はその老人に来てもらうしかないの。個室で二時間ばかり-。すると、おとなしくなるのよ。何をしていると思う?」「-性交?」「そうよ」「私は反対したのよ。そんなことが許される訳がないでしょ?」「でも、院長がその老人に頭が上がらないのよ。全くの言いなりなんだもの」「老人は、あの戦争中にはこの街の市長だったの。軍需産業を誘致して、戦争政策を拡大させたのもあの人よ」「だから、激しい空爆を受けて。工場ばかりじゃない。街の東半分が焼け野原になったのよ。死者は千人を越えて-」「戦後は身を引いたけど、院政をひいて-。だって、戦争中の政策が、この街を北の国随一の工業都市に発展させたのも事実なんだもの」「だから、今でも隠然と君臨する実力者なのよ。この前も、御門から勲章を授与されたばかりなんだもの」「戦後から僅かばかりなのに、あんな惨禍が、あっという間に忘れ去られてしまうんだわ。それとも、余りに凄惨な体験だから記憶にすら留めたくないのかしら?」「一種の防衛本能なのね」「虚言癖が自分がついた嘘を忘れるようなものだわ」「一番に卑怯なのは、御門だ」「そうね。あなたの言う通りだわ。この国の権力者は、きっと、狂ってい
るんだわ。あの戦争で取り付かれた狂気を、今だに引きずっているのよ。そればかりか、御門の世を作ろうとした時から気が触れていたに違いないんだわ」

 「だったら、始めましょうか?」女医がカードを広げて、男が答えるゲームが始まった。数枚目の模様は異様だった。「これは何に見えるかしら?」男が戸惑う。「どう?」「-蛇が-」「蛇?」「そう」「蛇がどうしたの?」「白い蛇と青い蛇が絡まっている-」「どんな風に?」「複雑だ」「何をしていると思う?」「思った通りに言って欲しいわ?」「-交尾-」「驚いたわ」「だって、あなたが初めてなんだもの」「実はね。私もそう思ったのよ」女医が姿態を屈めてくねらせた刹那に、白衣の下に隠れている乳房が覗いて、重厚な肉の塊が揺れた。「蛇の交尾って、見たことあるのかしら?」「ない」「そうよね」「あなたは?」「面白い人ね。知りたいの?」
 「読書は?」「好きだ」「今はどんな本を読んでいるのかしら?」「『原発の儚』」「あの覆面作家の最新巻ね。私も読んでいるところよ。今、あの海岸に建設しようとしている原発が、一〇年後には爆発するという話でしょ?」「近未来の予告だよ」「本当に原発が爆発すると思う?」「必ずするよ」「ここいら辺りはどうなるのかしら?」「ある学者なんかは、拡散した放射能は東の高原にまで降り積もると言っている」「すぐそこね?」「風速が平均の場合の計算だよ。風が強かったら、この街だって人が住めなくなるんだ」「あなたも建設には反対なの?」「推進している奴らの気が知れない。北の国を愚弄してるんじゃないか?首府の埋め立て地にでも作ればいいんだ」「過激なのね?」「公憤だよ」「公憤?」「そう」「儚シリーズは?」「みんな読んでる」「私もなのよ。何だか嬉しいわ。あのシリーズの何に共感するのかな?」「-論理、反骨、反権力、義憤。-公憤かな。それに-」「何?」「さっき、あなたが言った禁忌の暴露だな」「それって?」「御門制と性だよ」「作家が誰かわからないのも面白いわね?」「作品は独立するから、誰が書いたかなんてたいした意味はない」「あなたも書くんでしょ?」男が頷いた。「読んでみたいわ」

 「診断だけど-。そうね。あなたは正常だわ。あえて言えば、気鬱ね。気の迷いみたいなことよ。ニキビみたいなものだわ。悩み多い年頃なんだもの。悩まない青春なんて無意味でしょ?若さの特権なのよ。そうは思わない?」男が頷く。「そうでしょ?でも、不眠は困るわね。若いから余り勧めたくはないんだけど。睡眠薬を飲んでみる?」「そうね。薬は矢鱈に飲むものじゃないのよ」「あなた?簡単で覿面な治療法があるのよ。私が発見したの。聞きたい?」「毛を剃るの」「頭はもちろん。-あなたのは短いから。全身よ。脇の下も。-陰毛もよ。どう?」「毎日が暑いでしょ?今年は特別だわ。こんな陽気だもの。誰だっておかしくなるわよ」
 「あなた?秘密を守れるかしら?」「私だって、そうなのよ。鬱陶しくなると、剃るの。夕べも剃ったばかりだもの」「やってみる?」「ジクジク考えていたのが嘘みたいに、さっぱりするわよ」「どうしたの?」「そうね。初めてだものね」「どうしようかしら-」「いいわ。あなただったら。特別に手伝ってあげようかな?」

 「私は、あなたのお父さんの教え子なのよ。国民学校の六年の時だわ。あなたの家にも何度も行っているのよ」「そうなの。あなたのおむつも代えたのよ。驚いたでしょ?」
 「離婚したばかりの先生が急な出張で困っていて、一晩だけあなたを預かったのよ。覚えてる?」「あなたがテーブルの角にぶつかって。余りに辛そうだったから。医師の卵だもの。診てみようと思って。脱がせたら、赤くなっていて。ここが痛いのって聞いたら、頷くから-。膨らんで。腫れてるみたいだったんだもの。可哀想で-。思わず、舐めてしまったの」「ご免なさい」「覚えてる?」「ねえ?覚えてる?」「あんなこと。忘れるわけがない」「ご免なさい」「謝ることなんてないよ。治療だったんだろ?」「勿論だわ」「だったら、いいじゃないか。また、ぶつけたら?」「どうして欲しいの?」「治療?」「-医者だもの」
 「思い出したわ。『儚』シリーズの第六巻だわ。女医と学生が蛇の交尾を見るシーンがあるでしょ?」「あのモデルになった場所は特定されているのよ」「鯉の大滝だ」「そう」「だから?」「行ってみたいわ。あなたと私の不思議な因縁が解明できるかも知れないでしょ?先生には絶対に秘密なのよ?」
 三日後の日曜にバスに乗った男はある寂れた史跡で降りた。そこの駐車場に女の車は既にあったのである。 

-ピリカ-

 出奔して十日後に、北国山脈の険しい峠の駅に男はいた。既に日は高い。高原でありながら異様に蒸す陽気だ。喘ぎながら汽車が入ってきた。
 車内に入った男の目に豊潤な青いワンピースが飛び込んできた。空いていた席に腰を下ろして女を窺った男は息を飲んだ。やはり、あの菩薩顔の女医と瓜二つなのだった。
 日に焼けた豊満な女達が汗を拭いながら声高に話している。同じ北の国の言葉でも特徴がきつくて聞き取りにくいが、最近の異様な暑さを嘆いているのだ。五十年振りの雨乞いをしたが何の益もない。昨日は日射病の死者が例年の三倍にもなったし、作物は壊滅だなどと、尽きることがない。男も感慨に耽る。
 あの日に夜行列車に飛び乗ったが、同席した初老の男に誘われれるままに、昨日まで建築の現場でアルバイトをしていたのだ。お陰で当座の旅費は手に入れたが、苛烈な日差しの下で大分痩せたほどの荒仕事だった。
 その時に女が立ち上がった。白杖を手にして歩みが覚束ない。盲メシイなのだ。忽ちの内に、男は我に帰った。明らかに、あの女医とは別人なのではないか。だが、男の脇を行き過ぎた女は、女医に似た霊妙な香りまで放っているのである。
 暫くして、女が戻って来て、男の席を通り過ぎる矢庭に、何の弾みか、均衡が崩れて身体が傾いた。眼前で穣ユタカな胸元が大胆に揺れる。咄嗟に立ち上がった男が女のありったけの重量を支えると、腕の中で贅沢な乳房がぞんざいに崩れた。熟れた桃色の乳首までが、あからさま覗いた。その豊穣さはあの盛夏の真昼に、男に与えられた女医の豪奢な乳房と、やはり、見間違うばかりなのである。
 身体を起こした女が男の顔を食い入るように見つめて、しみじみと礼を言いながら、怪しいばかりの柔らかな手で男の手を包んだ。再び、熟した桃の香りが立ち上った。
 そうして、女は席に戻った。甘く熟れた肉の残り香が息苦しい。言い知れぬ快感が男の体内に留まってしまっていて、神経が発酵するのである。男は声を殺して呻いた。

 ある県都の駅で、僅かばかりの乗客と共に、短い挨拶を残して女も降りてしまった。車両には男が一人で取り残された。この駅の待ち時間は一五分ばかりある。男は今まで女が座っていた席に移って腰を下ろすと、生温かい。女の妖しい温もりが消えていないのだ。そして、残り香が漂っている。熟した桃の香りではないか、或いは蜜に漬かった肉の薫りなのか、と思ったりもした。
 ふと目を落とすと、座席の片隅に傘がとり残されている。明らかに女物だ。夜来からの雨はすっかり上がっていた。あの女が忘れたのだと、男は確信した。その時、発車の案内が鳴り響き始めた。八月の日差しが男に督促をする。当て処のある旅ではないのだ。
 男は列車を降りてホームを走った。改札からもどかし気に外に出て、素早く視線を巡らすと、遥かに僅かばかりの女の後ろ姿があった。矢庭に男は後を追った。
 日射が突き刺すバス停の、日傘の行列の最後尾に女は佇んでいた。息を切らしながら男が話し寄った刹那に、振り返った女がよろめいた。傾いた熱い乳房の重圧を懐で支えながら、二人の汗が弾けるうちに、たちまちバスが来た。女の豊穣な尻の後に続いて男が乗り込んだ。

 乗客はニ〇人ばかりだ。何人かが女に柔らかな視線を送って挨拶を交わす。女に促されて最後部に身を沈めた。傘を受け取った女は短く礼を言いながら、柔らかい手で、再び、男の手を包んだ。熟した桃の香りが立ち上る。
 「私ったら、すっかり上ずってしまって-」「忘れ物をしたのなんて初めてなのよ」「-だって、あなたのような人だったんだもの」「そんなあなたに、二度も抱き抱えられるなんて-」「毎日が酷い暑さだったから、貧血でもあったのかしら-。ようやく動悸が収まった位だわ」女の頬が染まっている。この異様な暑さのせいばかりではない。
 バスが動き始めた。全ての窓が開け放たれていて、流れ込む風が女の豊かな髪を解かすが、人肌を越えているに違いない。
 「弱視なの。輪郭ぐらいしか判らないのよ。でも、声だけでも大概は判別出来るわ」「あなたは、きっと、理知な若者に違いないわ。少しは気難しそうだけど-。声音で判るのよ」「そんなあなたに何度もお世話をかけたんだもの」こうするのは視線の代わりなのだと、手を握り続けて身じろぎもしない。

 西の王朝から蹂躙と収奪を受け続けて、長い歴史を辿った北辺の国々。男が降り立ったこの県都は、一三〇〇年前の反逆の壮絶な戦いの拠点である。指導者のカムイはこの地方の始祖と崇められて、北の彼方の霊山に祀られている。
 あの忌まわしい戦時中には、行幸の御門の暗殺未遂などもあった。その事件の捜索を指揮した警察署長はこの男の曾祖父だったのである。だから、男にとってもこの地は因縁に満ちた古都なのだが、男は、未だ、その奇っ怪な廻り合わせを知らない。

 駅前を発ったバスが城下町に特有の鉤形の繁華街を抜けると、やがて、大川に架かる大橋を渡る。その橋の途上で、男は北の彼方に鎮座する一山をありありと見た。「霊山だわ。伝説の山なのよ」と、女が囁いた。
 「ここら辺りは古代の古戦場だったの。この川を挟んで、御門軍との最後の決戦が繰り広げられたんだわ」「カムイの戦いだ」「そう。だったら、『儚』の連作を?」「みんな読んでる」「良かったわ」「壮絶な描写だった」「直に映画にもなるんでしょ?」「素人の新人女優が話題になってるだろ?」「どんなシーンになるのかしら-」
 橋を渡り切って幾つかの停留所を過ぎると、風景が変わった。濃厚な緑に満ちた風がバスの中を渦巻く。乗客は前方に五人しか残っていない。二人が座る最後部は死角に変幻していた。
 その時に、バスの中に大きな紫の蝶が飛び込んで来た。番いだ。風に巻かれて危うげに乱れて飛び回る。「キタノオオムラサキだわ。ここら辺にしかいないのよ」と、女が言う。「番いでしょ?」「そう」「そんな光景は、なかなか見られないのよ。だから、見た人は幸せになるって言われているの」やがて、番いは二人に向けて飛び寄ってきて、二人の回りを旋回する。終には、女のワンピースのなだらかに盛り上がった下腹に止まって、羽を揺らして交尾を続けるのである。
 あの盛夏にもこんな蝶がいたと、男は思いを巡らす。
 古戦場を女医と散策していた時に、満開の夏ツツジの繁みに蝶の大群が舞っていた。「番いもいるわ。これを見た恋人は結ばれるというのよ」と、女が手を伸ばした途端に小さく叫んだ。
 「刺されたんだわ」二の腕に赤い跡がついている。「少しは痛いけど。小さな蜂だから大丈夫よ」と、言う女を遮って、男がその痕跡を吸うと、汗の後には甘い肉の味が忍び寄ったのである。

 男の回想をかき消す様に、女がしなやかな桃色の指を男の手に怪しく絡め始めた。バスが激しく揺れて二人は、さらに密着した。熱い肉の息吹が密やかに伝わってくる。こうして、二人には矢継ぎ早に新しい秘密が生まれてくるのだ。
 細くて荒い裸道がうねうねと、山脈の麓を北に辿っていく。正面に流麗な一山が見え隠れする。あの霊山に向かっているのだと、耳元で女が囁く。時折には濃い緑の洞窟にも進入する。この鬱蒼とした繁りの様に、女の身体もうっすらと湿ってくる。
 そうして、複雑に車体を軋ませながらバスが三〇分ほども走ると、寂れた停留所に二人は降り立った。

-白蛇-

 五分ばかり歩くと小川にさしかかった。酷く蒸す真昼なのに、この辺りばかりは清涼なのだ。水面からはただならぬ冷気が立ち上っている。男は何らかの結界に違いないと思った。欅の大木の影に身を潜めた女が汗を拭いながら、「あの霊山の深い森に降り注いだ雨が地中を潜って、二百年をかけて流れ落ちてくるのよ」と、病んだ視線を彼方に放った。その先に、男が今までに見ていたのとはすっかり趣を変えて、あの霊山が常磐色も豊かに迫っているのである。
 小川は底の白砂までが覗ける透徹な水が、淀みと見間違うほどたおやかに流れ下っている。両岸には見たこともない巨木が立ち並ぶ。椚や山毛欅、桜と様々だが、いずれも古代からの命をそのまま受け継いだ風情で辺りを圧していた。
 その時に、向かいの柳の大木の根方に、白い蛇がうねうねと現れた。三メートルもの大蛇だ。一条の光の様に流麗に煌めいている。雌に違いないと、訳もなく男は思った。「この土地の守り神なの。代々、一匹の雌だけが住み着いているのよ」と、平然と女が言い、由来を語り始めた。
 古代のあの反乱の折に、終いには、御門の圧倒的な軍勢に包囲されて死期を悟ったカムイは、恋人のピリカを始め、生き残った僅かばかりの一族をこの霊山の奥地に逃がして、自らは王朝軍に投降して惨殺されたのであった。その時に、ピリカに守り神として与えたのが白い大蛇だったという伝承があると、言うのだ。すると、未だに白蛇に守護されているこの女は、ピリカの末裔なのか。
 突如、鏡のような水面に細波が立った。覗くと、一面に赤い塊が泳ぎ下っている。「アカセという鮭の一種よ。ここだけの固有種なの」
 再び、男が目を見張った。その魚の群れを追うように、小川の上流から巨大な青大将がゆらゆらと流れ下ってきたのである。辺りを睥睨して雄に違いない威風を放っている。「あの霊山の奥から下ってきたの。この頃のいつもの習わしなのよ」と、女が言う。
 青大将は忽ちの間に柳の岸に泳ぎ着くと、あの白蛇が鎌首をもたげる根方に向けて這い登って行く。女が、「今が盛りの時なんだもの」と、頬を染めた。すると、瞬く間に二匹は絡み合って白と青の斑模様を作り始めた。女に伝えると、「これから十日間は休みなしに交尾をし続けるのよ」「眠る時も、決して、解かないんだもの」「そうして、あの蛇も私達も永らえてきたのよ」と、事もなげだ。
 男は息を呑んだ。だったら、この女の相手は誰なのか。そして、この女はどの様にして子孫を産んだのか。そこで男は初めて狼狽えた。この女には夫があるに違いないのではないか。子供だっているだろう。こんな肝心な現実を、なぜ、疑わなかったのだろう。終ぞ確かめもしなかった。露ほどの思慮もなくここまで来てしまったのだ。果たして、男は、またもや、あの狂気の幻想をさ迷い始めてしまったのか。

 男の脳裡には、数年前にあの女医と見た光景がまざまざと蘇った。やはり、こんな盛夏の狂気にも似た蒸し暑い真昼に、二人は白い大蛇の交尾を凝視していたのであった。まるで、あれからの時間が止まってしまったかの錯覚に男は襲われる。
 二人はある古戦場で初めて抱擁した。背後から男に抱かれながら女医が、「あの小説にも書いてあるけれど、ここいら辺は北の国と御門軍の最前線だったんだわ」と、囁く。「朝廷軍の侵入を阻もうとしたイワキ族は勇猛で、率いたのはアブクマだ」「きっと、あなたの様に威丈夫で精悍な若者だったに違いないわ」「アブクマには年上の恋人がいた」「アズマね?」「多分、あなたのように豊潤な人だったんだ」「アズマは祀り事を司る神女で、白い大蛇はイワキ族の守り神だったんだわ。二人もこんな風に、世にも妖しい交尾を眺めていたのかしら?」「奇妙な甘美だ」「性の本源だわ。性は魔性の世界なのよ。あなたには何もかもを教えてあげるわ」「イワキ族は随所に築いた砦を拠点に果敢に戦ったが、御門軍の最新鋭の軍備に、やがては敗退した。アブクマは、北の国の、さらに奥地で蜂起しているカムイと合流しようと決めたんだ」「アズマも同行を願ったんだけど、アブクマは許さなかったのね?」「死を決意していたアブクマは、恋人だけは助けたかったんだ」「アズマは身ごもっていたんだわ」「だから、二人の血脈は、この地に営営と続いているに違いないんだ」「私達もその一人なのね?」「そうに違いないよ」「アズマはアダタラの山に隠ったのね?」「そして、アダタラはカムイの元に走ったんだ」「その最期の別れの時に、アスマが白い大蛇を託したんだわ」

 「どうかしたの?」女の囁きが聞こえて、男は夢幻から引き戻された。だが、そこが現実なのか、新しい幻影なのかは、男には知る由もない。
 「-その後は?」「務めを終えたら、青大将は霊山に帰るわ。あそこの守り主なんだもの」
 樫の大木の木陰で呆然と佇む男を残して、女が歩み始めた。
 結界に架かる朽ちかけた木橋を渡ると、東にはなだらかな段々の田圃と、西側の畑に囲まれた牛小屋と棟続きの農家がその女の住まいだった。
 輪郭の明瞭な様々な大輪の花々が咲き乱れる庭の井戸には、木桶に瓜が冷やされている。軒の下には女の下着が数枚、鮮烈に震えている。牛小屋には大きな赤牛が慌ただしい。女が男に言い置いて、草を与え始めた。

-カムイ共和国-

 男は土間に佇んだ。人の気配はない。広い囲炉裏を切った薄暗い上がり座敷の縁に座って、煙草に火を点けた。背戸の竹林から蝉時雨が乱れ矢の様に降り注いでいる。時折には、開け放たれた玄関と続き間に繋がる廊下の広い間口から涼風が駆け入ってくる。その風が、途切れ途切れに、女の唄声を運んできた。

ピリカ、ピリカ、ピリカ
火の娘、ピリカ
神の娘、ピリカ
部族一の器量よし
働き者で優しい娘
それだけで幸せなのに
それだけだったら幸せなのに
傷ついた敵の若者を匿った女、ピリカ
裏切り者の女
悲しさに目覚めた女
里に帰れずに黒百合になった娘、ピリカ
朝露はピリカの夢の涙
ピリカ、ピリカ、風が渡るよ
戦だ、戦だ、血の臭い
ピリカ、ピリカ、また若者が傷ついている
ピリカ、ピリカ
ピリカ、ピリカ

 暫くして、汗を拭いながら入ってきた女が、「何もないところだけれど、この風のお陰で暑さの思いをしたことはないの」と言い、男の戸惑いを晴らすように、「誰もいないわ。一人暮らしだもの」と、真っ白な歯を溢した。
 「氷室って知ってる?」「地下に掘った室なのよ。冬に作った氷を稲藁にくるんで、そこに保存しているの。霊山の氷だもの。美味なの」「そればかりじゃないわ。珍しいウィスキーもあるのよ」
 支度に消えた厨から、また、女の唄声が流れてくる。

ホーイ、ホーイ、ホーイ
カムイ、カムイ、カムイ
戦だ、戦だ、戦だ
カムイ、森の神、カムイ
若者の神、カムイ
最強の勇者
弓と槍の達人
歴戦の強者
カムイ、ホーイカムイ、ホーイ
出でてピリカを救え
カムイ、ホーイカムイ、ホーイカムイ、ホーイ

 唄が止むと、女が蔦篭を抱えて現れた。
 「どう?」「旨い」「そうでしょ?自慢の氷とウィスキーだもの」「氷室はここいら辺ではみんなが作るの?」「そうよ」「あなたも?」「そう」「一人で?」「私だけでは無理だわ」女が囲炉裏の灰を掻いておこし直した炭火が勢いよくはぜ始めた。あのアカセや鹿の肉を焼きながら女が口ずさむ。

ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ
風祭り、花祭り、山祭り
ホーイ、ホーイ
熊、鹿、猪
ヨーイ、ヨーイ
野うさぎ、山鳥
ホーイ、ホーイ
風祭り、花祭り、山祭り
ホーイ、ホーイ、ホーイ
カムイ来い、カムイ来い、カムイ来い
ホーイ、ホーイ、ホーイ

 「カムイとピリカの話をしたでしょ?」「二人を祀った神社があの霊山の中腹にあるの」「兄が神宿なの。神主のことよ」「私はそこの神女なの。巫女だわ」「私はそこからここに嫁いだのよ。でも、今でも神女なの」「夫が死んで、すぐにこの目を病んでしまってからは、兄や氏子の村の人たちが助けてくれてるの」
 男が、「-ご主人は?」と、切り出した。「大雨であの川が溢れた翌日に、随分と下流で見つかったの。警察の結論は事故だったんだけど。洪水とはいえ慣れた地形なんだもの。それに、その頃にある人の行方が知れないの」「女よ。夫と噂があったって-。でも、私は今でも信じていないわ」「私とは同級生なの。小さい頃から何かにつけて私に張り合って-。殆どはたいした意味もなかったのよ。可哀想な子だったわ」「カムイの戦いの後にいち早く朝廷軍の軍門に下って、私の祖霊に変わって霊山を治めたのが彼女の先祖なの。古代から私の家とは奇異な因縁があったんだわ」「私より早くに結婚したんだけど。暫くしたら、様子がおかしくなって-。その内にご主人が突然に病死してしまったの。それからは、すっかり、変わってしまったんだわ」「あの頃は不審な旅の僧が出入りしていたと言う人もいて-。この二人が夫の死に関係があるんだって、言う人もいるけれど-。真相は未だに解らない-」
 「夫が死んだのは嫁いで三日目だったわ」「でも、それはみんな兄に聞かされた話で、私には全く記憶がないのよ。夫の記憶が、ある時からぷっつりと途切れてしまっているんだもの」「いつから?」「-何にも覚えていないの」「事故の時には?」「私がどこにいたのか、誰も知らないの。もう、五年になるわ」「子供はいなかった。三六なのよ。驚いたでしょ?」「目は?」「その時からよ。気がついたらこんな風になっていて-。原因も治療法も解らないの。ほうぼう、医師を訪ね歩いたわ。そしたら、首府の高名なある老医師が解明してくれて。突発的な強度の弱視だと言うのよ。心因性なんだって。何かの大きな衝撃を受けて視神経の一部が閉鎖されてしまったんだって。だから、失明した訳じゃないし、強度の弱視も一時的なものなんだって-」「だったら?」「同じような刺激を受けたら回復する可能性があるんだけど。でも、今の医学ではその刺激を与える方途がないの」「だったら?」「自然の衝撃でこうなったんだもの。その自然の成り行きを待つしかないんだわ」

 男がウィスキーを含む。「-聞いていいかな?」「何かしら?」「さっきの女の人-」「どうしたの?」「一時期は霊山を治めたって言ったね?」「私の家とこの地方の統治を巡って争いを繰り返していたのよ」「だったら、白蛇は?」「彼女の家にも棲みついていたわ。あそこには白蛇ばかりの巣窟があるって聞いたもの」「さっきのような交尾を見たかな?」「そうかもしれないわ。どうしたの?」「-その人は青色が好きだったんじゃないか?」「そうよ。いつも青の服を着ていたわ。私もだけど-」「あなたを真似たのかな?」「どうかしら。それがどうかしたの?」
 「-その人は狂ってたんだね?」「-そうよ」「どんな症状だっのかな?」「-色情狂だわ」「-自慰は?」「-していた」「-人前で?」「-そうよ」「見た?」「-言いたくない」

-風子-

 戦後も大分経た盛夏の霊山である。風子は二六歳である。経済が全ての復興の世相にすっかり染まってしまったのか、類い希な執着の強い女に成り果てていた。とりわけて、性に関しては異様な程に妄執した。
 だから、この女の来歴は、とりわけて、性の端緒はいかなるものだったのか。生来ばかりの質なのか、或いは、この霊山の古代からの縁が深く関わっているのではないかと、思えてならない。
 首府の女子大に進んだばかりから男を遍歴して、勤めた会社では妻子のある上司との爛れた関係が発覚して騒動になった。郷里に連れ戻されて、有力者の父親の口利きで役場の事務員に就くことになった。 
 それから、一年後の盛夏なのだ。休日の気だるい昼下がりに、この女にとってこの寒村は余りにも味気ないのだ。
 女は幼い頃から首府に憧れていた。念願のその街で、中年の男の巧妙な性戯に身体を開いてからは、すっかり馴染んでしまった女の深奥は疼いて仕方ない。官能に満ちた数年の日々は、一年ぐらいの空白では、容易く忘れられる筈もないのだ。
 久しぶりに戻った女は、村人も見違えるほどに妖艶に変幻していたのだ。その上に、女には日記をつける習いがあったから、読み返す度に身体に刻まれた淫靡な記憶は、益々、濃密になるのだった。さりとて、こんな狭い村では破廉恥を求めるわけにもいかないし、県都に出掛けるのも父親からきつく禁じられている。
 それにつけても、忌々しいのはあのビリカという幼い頃からの同級の女だった。県都の大学に進むと同時に神女となったが、学業と両立させてきたから人々に敬愛されていた。地元紙などで短歌の才能が評価されたりもする。浮いた噂などは微塵もない。風子は、時折、嫉妬で歯を鳴らした。こういう思いは幼い頃からだった。母親からは、家同士が先祖の悪縁だと言われたりもしたが理由は知らされていない。
 余りの苛立ちに、風子は小さな車で霊山の中腹に向かった。初めてのことだ。
 この聖地は水の宝庫である。南側の斜面の一帯だけでも十指に余る大小の滝があった。女が向かったのは、足元が平坦で穏やかな流れの小女滝と呼ばれる、滝壺が六畳程のこの辺りでは最も小さな滝だ。そのすぐ上流は獰猛な毒蛇の住処なのだが、女は知らない。
 着くやいなや、女は、戸惑いもなく、自慢の桃色の裸体を滝壺に浸した。鬱陶しい暑さもまとわりつく執着も、たちまち、削ぎ落ちる気分だ。
 渓流が流れ落ちる以外は神秘の森は静まり返っている。女が立ち上がった。乳房があからさまに揺れて、豊かな漆黒の陰毛が飛沫を飛ばす。背を伸ばして両腕を突き上げると濃い腋毛が光る。女が歌い始めた。

ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ
オニサ、神の子
朱蛇、神の子
ホーイ、ホーイ
風動け、雨動け、山動け
ヨーイ、ヨーイ
朱蛇出れば山騒ぐ
朱蛇出れば山動く
朱蛇出れば山祭り
ホーイ、ホーイ
熊、鹿、猪も敵わない
カムイも敵わない
ヨーイ、ヨーイ
ホーイ、ホーイ、ホーイ
オニサ来い、オニサ来い
ホーイ、ホーイ、ホーイ

 唄い終わると、風子は意味もなく絶叫した。巨木の一叢から羽音を立てて一群れの小鳥が飛び立って、木霊が鳴り響く。思いの丈を吐き出した新しい木霊がそれを追いたてる。さらに、淫乱な叫びとけたたましい笑い声が、繰り返して灼熱の虚空に突き抜けていく。穏やかに保たれていた聖地の自然に、闖入者の狂気が放たれたのだ。いびつに歪んだ木霊は拡散して、息を潜めている者達に反響するのだ。そうして、女が陶酔に浸り始めると、再び、静寂が戻った。
 暫くして、妖しい木霊のありかを嗅ぎ付けた者がいる。聞いたこともない淫靡な叫びに導かれて辿り着いた巨木の陰に潜んで、光の中で乱舞する妖艶な女の姿態を発見したのは、山鳥を追っていた隣村の小学校に通う青年教師だ。
 その時、女の頭上の緩やかに流れ下る子滝の頂きに、鮮烈な赤い一筋が光った。咄嗟に、男が標準を定めた。
 キタノヤマアカという猛毒の大蛇だ。黒い岩盤にとぐろを巻いて鎌首をもたげている。真下の滝壺に断りもなしに現れた女を睥睨している。やはり、あの木霊に呼び寄せられたのか。そして、あの女が獲物なのか。男におぞましい妄想が過った。
 この滝のすぐ上流は赤蛇の生息地で、霊山で最も危険な場所の一つだ。赤沼という池の脇に洞窟があって千匹ほどが生息しているという。池の名の謂れは、池一面に広がった蛇の大群のおどろおどろしい朱色に由来する。昔、山仕事で迷い込んだ農婦が池の端で水をすくっている隙に襲われて、世にも悲惨な末期を迎えたというのだ。
 いつの間に飛来したのか、上空では、時には熊も襲うというキタノオオタカが旋回し始めた。それを見極めたのか、ついに、赤蛇は流れにぬったりと身を入れた。すっかり解れた体長は三メートルはある。あちこちの大小の岩に身をくねらせながら、ゆるゆると流れ落ちてくる。男の標準が翻る。女は何も気付いてはいない。煌めく日射を浴びて裸身をふしだらに曝している。
 男が、再び、捉え直した標準の中で、朱蛇は、瞬く間に、小さな滝壺に流れ落ちた。素早く岩陰に身を潜めて、女を窺っている。
 そもそも、この蛇は半島が原生地で、渡来した御門の先祖の守り神なのだ。カムイの戦いの時には、朝廷軍が武器としてこの地に持ち込んだのだ。カムイを裏切って朝廷側についたこの女の始祖も、この朱蛇を支配したに違いない。もとより紊乱な関係なのだ。だから、この毒蛇が眼前の女に対してどんな邪念を抱いているのか、知れたものではない。
 そうした陰謀などは知る由もない女が、水飛沫を煌めかせて立ち上がった。大振りな乳房が揺れて、臍まで繁茂した陰毛から滴が溢れる。尻を懶惰に揺らしながら白砂に仰臥した。重たい乳房が左右に別れることはない。朱紫の乳首が屹立している。
 女はその過去の、どんな淫行の場面を切り取っているのか。乳房の愛撫に耽溺した指が、やがて股間に延びていく。赤蛇も男も息を飲む。
 こればかりの狭隘な風景に官能と恐怖が同居しているのだ。その危うさに男の真髄に悪寒が走った。
 赤蛇の目が爛爛と、最早、淫らに崩れてしまった女体を見据えている。もたげた鎌首は、まるで、今しも性交に挑む巨根の有り様ではないか。或いは、このままにして見届けたい誘惑が男を襲うが、身震いをして頭を振って、大きく息を吐いた。
 突然に女の叫声が木霊した。赤蛇の鎌首が獰猛の極限に達した。男の標準はその頭を捉えて微動だにしない。蛇の上体が後ろにしなった。反動をつけて飛びかかろうとするのだ。その瞬間に男の銃が鋭い音を立てると、矢庭に、蛇の頭が吹き飛んで女の股間に叩き落ちた。血飛沫は震える乳房にも飛び散った。
 歩み寄った男に、「いつから見ていたの?」と、女が言った。

 次の秋口に二人は形ばかりの婚礼をあげて、男の家に新居を構えた。男の両親は病没している。兄弟もなく、遠くに住む僅かばかりの親戚とは疎遠なのであった。
 半年後のその夜、いつもの様に晩酌に酔った男が風呂敷を解くと、通信簿の束が現れた。手伝えと言う。戸惑う女に、父親を手伝って一三の時には通信簿を付けたと言うのだ。その時に一〇歳だった女はその父親の教え子だったのである。
 風子とピリカは学年の首位を争っていた。二人ともオール五だ。ところが、その時に限って風子の一科目が四に落ちて、母親に酷く叱責された恨みが未だに晴れないでいた。問い質すと、夫は覚えていた。
 五の比率は定められているが一人多かった。酔った父親が、面倒だ、お前が決めてしまえと、言う。命ぜられるままに、何の根拠もなく男が決めたと言うのだ。風子は驚愕して憤怒が身体の芯を貫いた。
 散々の口論の揚げ句には、最早、口にするのも煩わしいが、女はこの夫の仕打ちは決して許せない。三日後には身体を開いたが、染み付いてしまった情欲の為せる習癖に過ぎない。獣のように肉の喜びに耽溺しながら、真底から夫を憎んだ。女の身体と精神は分離して、次第にその精神は憎しみだけでしか制御できなくなっていった。
 異様に変幻する妻に耐えきれなくなった夫は、同僚の年の離れた戦争寡婦の女教師に癒しを求めた。
 そんな折りに、女の両親が旅行先の旅館の火災で急逝して、唯一の庇護者が消えた。一人娘の女は、いっそう、錯乱する。そして、賠償金と保険金が届いて僅かばかりの正気が戻った合間に、動物的な直感で夫の密通を悟った。女に殺意が芽生えた。
 その頃の盛夏の昼下がり。表から甲高い声が聞こえ始めた。自慰の中途の風子が耳を研ぐ。何かの呪文なのだろうか。怪しげな音波が身体の芯に侵入してきて、淫らに共鳴するのである。 法悦の身繕いをして玄関を開けると、屈強な僧が立っているのであった。
 それから、半年後に夫が死んだ。村にただ一人の医師が病死と診断した。
 
  
-新風土記-

 「ウィスキーが好きなのね?」「自然が編み出す不可思議な結晶だから-」「それって?」「大麦、水、ピート、木、霧、夜。自然の全て。人の叡知。そして、時間の結実なんだ」「ここには総てがあるんだわ。あの小川の上流はピートの原野だし。今はこんなに暑くても明日の朝方は冷えて。朝霧が立ち込めるのよ。霊山の森ははかり知れない古からの原生林なんだもの。霊を宿した様な巨木が林立しているわ。壮麗な景色なのよ」「職人の技も受け継がれているし。だから、このウィスキーは村の造り酒屋で作っているの。ここいら辺でしか飲めないのよ。密造なんだもの」
 男が煙草に火を点けた。「煙草もあるわよ」と、女が引き出しから煙草を出してくる。両切で、嗅ぐと甘い香りがする。「ウィスキーの香りがほんのりとするが。そればかりじゃない」「霊山にしか自生しない草花から抽出した香料なの」「芳しい」「紙も漉くのよ」「吸ってみて」男が火を点けると紫の煙が芳香を放ちながら揺れ上る。「どう?」「仄かに甘い」「気に入った?」「こんなに複雑な味わいなのは始めてだ」「良かったわ。私達は殆どのものを自活して暮らしているの。きっと、カムイの頃からの暮らしぶりを続けているんだわ」「それに、私達には特別なわけがあるの」

 「あの戦争が始まる少し前に徴兵令がひかれたのよ。私は五歳だった。私の祖父が反対して。あの国の戦争には絶対に荷担しない。村人を人殺しにはさせないし、殺させもしない。だから、誰一人も徴兵させない、って。祖父は村長で、霊山神社の神宿だったし。それに、命を守ることだもの。村人はこぞって賛同したんだわ」「それで、独立したの」「独立?」「そう。このこの御門の国から独立したのよ」「勿論、私たちだけの決意よ。御門や政府には通告もしていないもの」「全員がまとまって徴兵令を拒絶するんだもの、確固な態勢が要るでしょ?だから、御門の国と同等な国を創ったんだわ」「あの時と同じだ」「そうよ。あの英雄達にならって蜂起したのよ」「国名は?」「カムイ共和国よ」「徴兵は?」「すべて拒絶したわ。でも、カムイじゃないもの。真っ向から立ち向かった訳じゃないのよ。あらゆる叡知を絞って。出来ない理由を並べ立てたのね」「怪我や病気や、失踪も-。村のたった一人の医師も村人だもの。何人かは気もふれたわ」「どこに失踪させたんだ?」「霊山の奥深い森に隠したのよ。あんな原始の森があって、こんな小さな村だから出来たことなんだわ」「それに、祖父も父も何も残さずに死んだけど。きっと、軍や県の上層部にも極秘の働きかけをしていたんだと思う」「不正や不祥事の証拠をつかんでいて、取引もしたに違いないんだわ。駐在だって買収していたんだもの」「今は?」「昔から形の上は行政に組み込まれているわよ。独立だって何一つも公言していないし-」「見た通りののどかな寒村でしょ?でも、ここはあの時以来の独立国なのよ」

 「どうしたの?何を考えているの?」「今、この国は御門が倒れて騒然としている。世情は不穏だ」「もう半年になるわね」「根源はあの御門だ。あの忌まわしい戦争の責任を何一つとっていないんだからね。でも、弟帝がいる。あの戦争に反対をし続けてきたから篤い支持がある。だから、御門の後継を巡って世論が真っ二つなんだ。-弟帝の生母は北の国の女だね?」「-そうよ」「-それは、ここじゃないのか?」「-どうして、そう思ったの?」「あなたの話を聞いていて思い付いたんだ。いかに小さな集落とはいえ、こぞって徴兵を拒絶するなんて、そう易々と出来るものじゃない。国民皆徴兵はあの戦争の根幹を支えた制度だ。官吏の買収や奇策を弄しても不可能じゃないのか-。だったら、もっと大きな力の決断と行使があったんじゃないか-。弟帝の生母とこの村は関連があるね?」「そうか-。-霊山だ。生母は霊山の女なんだ。あなたの神社の人なんだ。そうだね?」「-そうよ。私の祖父の妹だわ」「-やっぱり」「どうして、そんなことに思いが至ったの?」「-ずうっと考えていたんだ」
 「先帝が立太子だった頃に、首府の大学院で祖父が学友だったと聞いたわ」「誰から?」「祖父からよ。死期の床でに兄と私にだけは全てを話したの」「先帝は英明な人で、自らの始祖達が蹂躙し続けた北の国の歴史に責任を痛感していて。いずれは公に謝罪をして和解をしたいと思い続けていたの。その頃に、やはり、首府の女子大生だった祖父の妹と恋に落ちたのよ。二人ともが初めての恋だったんだわ」「ここにも、幾度か訪れて。二人は青春を謳歌した。でも、立太子には許嫁があって。勿論、こんな異民からは嫁げるわけもないんだもの。初めから叶う筈もなかった恋だったんだわ」「随分と時を経て、極秘に再会した時に懐妊したのが-」「弟帝?」「そうよ。だから、決して明らかには出来なかったわ。赤子の時にさる侯爵家に預けられて、帝王学を授けられたの。勿論、母親も納得したわ。それに、祖父達は将来の御門を夢見たのよ」「今の御門が立太子の頃に不祥事を起こして。余りの愚鈍さに非難が沸騰した折りを見計らって、反御門派の重鎮達が正式な皇子として公にしたんだわ」「その頃から、朝廷はおろか政財界も巻き込んで、兄帝派と弟帝派の相剋が始まったのよ」「御門が急な病で崩御して、兄帝が新しい御門に就くと、軍部と結んで一気に戦争政策に突き進んで行ったんだわ。それに対して、弟帝は一貫して反対し続けたのよ」「その弟帝がこの村の徴兵を禁じたんだね?」「そうよ」「だから、この村ではカムイの乱もあったしあんな朝廷でも、弟帝だけは敬愛されているんだわ」「でも、こんなに緊迫した事態だもの。若い人達が首府に出て弟帝の警護をしているのよ」「暗殺?」「そんな情報があるって。兄が言っていたわ。弟帝は幾度も命の危機にあっているんだもの。生まれた直後もそうだったし-」「北辺のこんな寒村だけど、私達はこの国の情況の最前線にいるんだわ。きっと、カムイの頃から、ずうっとそうだったんだわ。だって、御門の支配に抗って、ずうっと戦い続けてきたんだもの」
 男はアブクマの逸聞を話した。

 
-アブクマの乱-

 八世紀末の列島の、北への関門の盛夏。
 カムイ族の地、イズミの里からなだらかに繋がるナカ山の中腹。眼下に大川を見張らかしながらイバラキからの南風を受けている。
 烈しく繁る森の山毛欅のいつもの大木が二人を包摂している。二十歳の英傑のアブクマは、隣部落のイシイの娘で同い年の愛人、ノリの親しんだ芳醇な尻と蜜合しながら、猛将の友人イワキの報告を反芻していた。
 世間で秀でた女傑のノリが、湧水の溜まりの近くに、ずいぶん以前に石組みで作った竈には、先ほどアブクマが一帯では並ぶ者がいないという弓の技量で射落したばかりの山鳥の脂が、二人の情交の様に炎炎と焼かれている。
 ワ王権のオオキミの命を受けた先遣軍の到来が迫っていた。只今は氾濫したトネ川の水際で、鎮静を待って最新装備の精鋭、五〇〇の兵を留めているのだ。その背後には、勇将フジノマロが率いる五千の正規軍がムサシノ辺りまでに迫っている。ワ王権と列島の中央一帯を支配する由緒あるアカギのワカタケル王権とは、和議の折衝が煮詰まっていた。
 けたたましい欲情の名残で山鳥の脂を食みながら、円らな瞳を曇らせてノリが聞いた。「なぜワ人は攻めてくるのか?」「金の石や砂が欲しいのだ」「それは何だ?」「光る石や砂だ」「そんな物は見た事がない。ここいらでは採れないのではないか?」「北の奥のイワテ族の地のいたるところに、特に、キリキリという地には有り余るほどあると聞いた」「そんな石に何の価値があるのだ?」
「我々の馬や熊の胃、位のものか。或いは、ワ人にはそれ以上に貴重な宝玉なのかも知れない」「だからといって、争いを禁じた平和な我々の地を、居丈高に無慈悲に攻めるとは。抵抗した者は皆殺しと聞いた。なんと野卑な連中だろう」「そもそもワ人には獰猛な血が流れているのだ。海を隔てた半島から攻め上がり、列島の西の我々の同胞を無惨に攻め滅ぼして征服したのだ。鉄という物でできた石よりも硬い武器を持っている。老人や男児は容赦なく殺し、女は犯して孕ませ、女児はその為に奴婢として育てると聞いた。強欲なあの者達はカムイの血を根絶やしにして、この地を収奪して、思いのままに支配しようとしているのだ」

 次の日に、アブクマは久し振りに寡婦のハツを抱いた。夫は去年の春に手負いのヤヤマという大熊の一撃で打ち殺されていた。しきたりの一冬の喪が明けたこの春、自らアブクマに爛熟してしまった身体を開いたハツはイワテ族の女だ。寡婦が最も勇猛な若者の子を孕む事も、性が秘されるものではなく生きる活力の源泉として捉えられるこの地のしきたりだ。潤沢で豊満な乳房を持つハツの妖艶な交わりの姿態を想像して、ノリは微かな嫉妬を抱きながらも容認せざるを得ない。

 その後に、アブクマはかねて捕らえていたワ人の僧で、ソウリンと名乗る頑健な男の作業場を訪ねた。
四十に近い僧は新たに鍛造した鉄の矛を誇らしげに披露する。
 ソウリンは仏教の話をする。
ワのナラという都の模様や情勢も詳しく伝える。オオキミを始めワの武人達は、カムイの民を、倭にまつろわぬ者、エミシと侮蔑して呼んで、力での征服を壮語している。しかし、文人の多く、とりわけ仏教の僧は、民はみな等しいという仏法の法理で融和を説いていると言うのである。アブクマはこの男の利用価値以上に、その人品に興味をそそられていた。
 ソウリンは半島のクダラ国から渡ってきた。僧になる前はシラギ国で鉄を鋳造する職人だった。クダラとの戦いで捕囚となったが、仏法に触れて出家し布教の為に渡来したのだった。
 アブクマの総軍は各族から参集した勇猛な千人だ。最高指揮官はナスという最長老で、アブクマはそれに次ぐ実戦部隊長の位置付けだ。
 その年の初秋。ついに、北方のカムイと西方のワ軍の、列島を二分した初めての戦争の火蓋が切られた。
 アダタラがニ〇〇人で応戦したタナグラベツの激戦は、敵兵五〇〇を倒したが圧倒的な兵力に押されて、やむなく後退した。
 次いでアサガワを決戦の場としたが死闘の果てに敗退した。後退して、それから半年間の一冬を持ちこたえたイシカワの砦も、遂には撃ち破られた。
 その状況を見定めた様に、遠くイズモ族の異人の血統の、大川を挟んで北に隣接するイワセ族の裏切りが発覚した。オツジ大滝に渡した巨大な葛橋を、アブクマ自らが切り落として両岸で両軍が対峙している。イワセ族の背後にはワの有力武官のタムラマロとの内通が伝えられている、ミハル族の陰謀があった。必定、アブクマは二正面作戦を迫られたが、最早、その余力はない。
 ついに、アブクマはイズミを決戦の死に場と定めた。ノリやハツ、女子供、老人達を東方の奥深いゴサンショベツを越えてナコソの海に逃した。
 やがて、死を賭したイズミの戦いは熾烈を極めた。三〇〇人ばかりの残兵で三千人のワ軍を迎え撃ち、十〇に渡って激闘を重ねた。アブクマ一人が殴り倒し射殺した敵兵は三〇〇にのぼる。しかし、遂に、アブクマは絶命の危機に直面したが、イナワシロやアサカ、アダタラなどの側近に助けられた。ソウリンと数十名の同胞を引き連れナコソに退いたアブクマは、ノリやハツと合流し、他の者はナコソ族に託して、沿岸を火の玉の様に北上したのである。
 やがて、イワテの南部に辿り着いたアブクマは、この地の若き指導者、猛将で知と情の人、カムイと会合し、二人は肝胆を契り固い盟約を結んだのである。

 「なんて白い男なんだ」アブクマは息を飲んだ。カムイもアブクマも大男で頑健だ。容姿も似ているが、「やはり、俺とは違う部族なのだ」と、アブクマは改めて思った。互いに通じない言葉すら多々あるのだった。通訳をするのはカムイの叔父のオニだ。毛深い大男である。儀式用の装束なのだろうか、カムイもオニもきらびやかな衣装を身に付けている。アブクマが見たことのない原色の紋様が、金や銀の糸をふんだんに使って描かれている。
 カムイは三〇〇〇人程のア族の実質的な酋長である。父親が病に臥しているのだ。オニは後見人である。
 アブクマ達が辿り着いた五月のこの夜は満月だった。黄金の光が降り注ぐ広場の中央で、三人は対座している。薪の大櫓が組まれて炎が立ち上っている。その回りを、ニ〇〇名程の老若男女が踊りの輪を作っている。皆がとりどりの花で身体を飾っていた。
 アダタラ達の脇で、とりわけ優美な五人の若い女達が、炎に照らされて唄を歌い始めた。透明で潤沢な声だ。人々は掛け声をかけて和しながら、無心で踊り続けるのだった。

 
ーピリカの唄ー

ピリカ、ピリカ、ピリカ
火の娘、ピリカ
神の娘、ピリカ
部族一の器量よし
働き者で優しい娘
それだけで幸せなのに
それだけだったら幸せなのに
傷ついた敵の若者を匿った女、ピリカ
裏切り者の女
悲しさに目覚めた女
里に帰れずに黒百合になった娘、ピリカ
朝露はピリカの夢の涙
ピリカ、ピリカ、風が渡るよ
戦だ、戦だ、血の臭い
ピリカ、ピリカ
また若者が傷ついている
ピリカ、ピリカ
ピリカ、ピリカ

ホーイ、ホーイ、ホーイ
カムイ、カムイ、カムイ
戦だ、戦だ、戦だ、カムイ

森の神、カムイ
若者の神、カムイ
最強の勇者
弓と槍の達人
歴戦の強者
カムイ、ホーイカムイ、ホーイ
出でてピリカを救え
カムイ、ホーイカムイ、ホーイカムイ、ホーイ

 カムイがアダタラの杯に再び酒を注いだ。それで口を湿したアダタラは、故郷でのワ軍との奮戦をさらに語り継ぐ。カムイは北方民族の血を引く白い顔を赤らめて、アダタラの果敢な戦記に引き込まれている。カムイは戦略家だ。大局を把握して鋭い質問を投げ掛ける。カムイは、やがて迫り来るであろうワ軍の戦力の分析に気を注いでいるのだ。
 オニも時おり、通訳以外に話に割り込む。彼も老いたとはいえ、近辺に鳴り響いた勇者である。一七歳でイワという伝説の手負い熊を打ち倒した武勇は、今なお語り継がれている。酒も強い。オニもアダタラの勇猛に魅されているのだ。
 彼らの傍らで、山鳥や猪、鹿の肉がふんだんに焼かれていて、ひときわ麗しい女がいそしんでいた。オニの娘でリンドウという。
 その時、一人の老女が甲高く叫んだ。すると、火の竜巻に一斉に薪が放られて月を焼くほどに火炎が立ち上ぼり、女達の唄はいっそう調子をあげた。

-花祭り-

ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ
風祭り、花祭り、山祭り
ホーイ、ホーイ
熊、鹿、猪
ヨーイ、ヨーイ
野うさぎ、山鳥
ホーイ、ホーイ
風祭り、花祭り、山祭り
ホーイ、ホーイ、ホーイ
カムイ来い、カムイ来い、カムイ来い、カムイ来い
ホーイ、ホーイ、ホーイ

 ババは自分達の故郷の話をする。海を越えた北の大地シルベはモンゲ族が支配している。モンゲは大陸や半島と戦い続ける騎馬民族である。彼らは大陸中央の草原から遥か北方のカチャ半島まで侵攻していた。ナホトの港から海を越えカムイのサカツの港に渡るのである。この航行で様々な文化と技術が伝えられる。モンゲは遥か西の国とも盛んに交易している。モンゲの若者のアルカンは鉄の技術に秀でていた。

 さっそく、カムイは偵察隊を急派することにした。命じられたのは、腹心イチノセを長とする五名である。全員が狩りの名手で、それぞれが特別な技量を備えている。彼らは一日で一〇〇キロを移動できる。山野に雌伏し疲れを知らない。聴力、視力は獣にも勝る。
 彼らは二昼夜の行程で戦いの最前線に辿り着いた。イワシロの霊山で熾烈な攻防が繰り広げられていた。天然の要害の絶壁に立てこもりワ軍と対峙しているのは、イワシロ族の残党の一部である。断崖への昇り口はワ軍によってことごとく閉ざされ、兵糧も絶えた。
 イチノセキ達はワ軍の背後に回り込んで、戦力を詳細に見極めた。
 残るイワシロ族の全てはクニミ峠に結集している。シノブ川を塞き止めて堀にして、最終決戦を図る作戦だ。だが、この闘いも、遂には、ワ軍によって打ち負かされたのである。
 
 
-異民の群れ-

 聞き終えたピリカは、「あなたの国の御門軍との戦いの叙事詩は、私の神社にも伝えられているわ。朝廷軍の侵攻に抗って、北の国で初めて反旗を翻したのはアブクマなんだもの。私達にとってもあなた方の始祖は英雄なのよ」「戦いに敗れたアブクマは白蛇とともにこの地に辿り着いて、カムイと強靭な絆を結んだのよ。北の国でも南端と北辺の二つの勢力が、史上で唯一の同盟を築いたんだわ」「アブクマの白蛇は、さっきのあの白蛇の始祖なのよ。それ以来、白蛇はこの地の守り神になって。あの蛇を自在に扱うのがこの地の統治者の証しなの」
 「アブクマが戦いに破れると、各地で裏切りも相次いだんだわ。北の同胞が次々と分断させられて-。卑劣な御門は、裏切った者達を戦いの最前線に立たせたの。だから、北の国の民族同士が争う、陰惨な事態になったんだわ」「その無惨な傷は、未だに疼いている気がしてならないの」
 「一年後には、遂に、イチノセキの冊を破られ御門軍の侵攻を許してしまって。カムイとアブクマの軍勢は孤立した上に、数でも圧倒的に劣っていたけれど。でも、地の利と昂る士気で易々と退けたの」「北の奥地の蛮族に体面を汚されて激怒した御門は、改めて大軍を募って。それから二年後には、その圧倒的な軍勢が押し寄せてきたんだわ。カムイとアブクマはその大侵略にも、誰よりも勇猛に戦ったんだけど-」「終に捕らえられた二人は、御門の都に連行されて。北辺の野蛮人として侮蔑の晒し者にされた上に、並んで首をはねられたんだわ」「戦いの合間に、ピリカの妹がアブクマの子供を産んだのよ。二人よ。驚いた?」「だから、私のカムイ族とあなたのイワキ族は血脈も一つになったの。あなたと私には共通の血が流れているのよ」
 「『儚』の連作は?」「みんな読んでいるわ。目が悪くなってからは姪に助けて貰って-」「アブクマやカムイの戦いを書いたのはあの小説が初めてなんだ」「そうね。だって、これまでは北の国の歴史自体が禁忌だったんだもの」「あらゆる歴史は勝者のものなんだ。時折、告発する者もいたけど、即座に圧殺された。そうして北の国は蹂躙され続けてきたんだ」「でも、あの小説がそれを打ち破ったのよね?」
 「『儚』には北辺の先住民の拠点が何ヵ所か描かれているが、ここがその原点なんだね?」「どうしてそう思うの?」「あの霊山を間近にした時に感じたんだ。あの小説の全ての物語がカムイ伝説を原点にして、ここから放射されているような気がしたんだ」
 「-不思議だわ。どうして、あなたにそんな霊力が備わっているのかしら?アブクマも様々な奇跡を起こしたって伝えられているけれど…」
 「『霊山風土記』という歴史書があるの。カム神社にだけ伝わる奇書だわ。門外不出の秘物よ。
 私達の歴史は、始めは伝誦されていたの。文字を持たなかったからよ。御門に支配されて文字を知ってから記述が始まったの。皮肉な話だわね?」「それからは、歴代の神宿や神女が書き連ねてきたものなの。今も兄が書き継いでいるわ」
 「祖父の代に、ある異人の男が真冬のただ中に行き倒れになったという記述があるのよ」「その人は文章に秀でていて、得手ではなかった祖父が随分と教えを受けたと感謝しているの。これは、その異人の詩よ」

権力よ、忘れないがいい
至る時に 
至る所に 
異人は潜んでいる
ある風を受けると強靭な魂が受胎するのだ
権力がある限り反作用の異風は吹く
時おり、反逆の烈風だ
状況の迫間のその風を浴びて異人は蘇生するのだ
かつて異議は少数で破れはしたが、決して、死滅はしない
沈黙もしない
状況を変える為に闘い続けるのみだ
反逆の大道にお前達の城門は建てられない
権力よ、心するがいい
忍従する人民にも、やがて、異風は届く
彼らもそれとは知らずに胎動する
季節に似せて、彼らは自然に変化するのだ
その時、あの日、私に殺意を抱いた権力よ
思い起こすがいい
私は人民の先陣で旗を翻すだろう

 「その人の名が草也なのよ」女の話は驚きの連続なのであった。男が抱いていた謎に次々と迫ってくるのだ。「あの奇談の著者は誰なのか、明かされていないでしょ?」「草也というペンネームだけだ」「祖父の記述は偶然なのかしら?」「その後にも、祖父や父の記述には不可解な訪問者の記録が何ヵ所かあるのよ。ところが、どれも名前が書かれていないの」「最初の草也だけなのよ。不思議でしょ?最初のは消し忘れたのかしら?」
 「-この前には、初老の女の人が兄を訪ねて来たわ。きっと、『儚』シリーズの作者の一人だと思うの。ずうっと考えていたの。きっと、あの小説の作者は一人ではないんだわ」「神社の書庫には『儚』の連作が全て揃っているのよ。私家版もあるわ。知らなかったでしょ?最初の三巻は私家版なのよ。出版社版の三巻も過激な表現で話題になったけど。私家版は遥かに想像を絶するわ。それに、私家版も出版社版も、みんな初版なのよ。数冊ある巻もあるのよ。神社にはかなりの蔵書があるけれど、そんなのは『儚』だけなんだもの」「子供の頃はなんとも思わなかったけれど-」「-著者から、直接、贈られたんだ」「そうでしょ?」「間違いない」「あなたの言葉で、何だか胸の閊えがおりたみたいだわ」

 柱時計が頓狂に時を告げた。「最終のバスまでには二時間しかないのよ」と、女が呟いた。「この先は霊山で行き止まりなの。草也という人が辿ってきた険しい獣道があるだけよ。でも、そこの支配者はキタノオオクマなの。森の神だもの。闖入者は許されないわ。あなたが旅を続けるなら戻るしかないんだわ」
 二人は黙したまま存外に冷えた瓜を食んだ。女の紅い唇が汁で艶かしく濡れる。
 「あなたの顔を知りたい」と、女が声を震わせた。青いワンピースの裾が乱れている。男が女の隣に座り直した。
 女の全神経が濃やかに男の顔を這う。豊かな乳房が弾んでいる。すると、女の目から、一粒の涙が溢れた。身体の深奥から熱いたぎりがこんこんと湧き上がってくる。味わったことのない清浄で甘美な感覚なのだ。
 やがて、その指が男の唇を撫で始めた。その唇が白い指を捉えた。女の瞼の凍結していた神経の僅かが、ピクリと動いた。その時、遠くから雷鳴が聞こえた。

  
   -了-

ピリカの儚

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