もう開かない二階の窓
もう開かない二階の窓
風のない夜だった。
息を吸うたび、冷気が肺に染み渡っていく。歩いていると、コートの隙間からも冷気が侵入してくる。
顔や耳は冷え切っていて、寒ささえも感じなくなっていた。
歩いているのは僕一人。時折、傍らの幹線道路を乗用車がスピードを上げて駆け抜けていく。そのたびに風圧が生じ、首筋から体温を奪っていく。
右手は工場で、古いコンクリートの壁が延々と続いていた。ようやく切れ目が現われ、右へ曲がる。街灯もない、真っ暗な道だった。こつこつと、ビジネスシューズの乾いた音だけが響く。
再び工場の壁が切れたところで左へ曲がった。住宅やアパートが建ち並ぶ一角へ入り込んだ。
ここも昔はミカン畑ばかりだったが、こんな風になったのは、いつ頃からだったろう思う。
しばらく歩き、角を右へ曲がると、不意に明かりが目に飛び込んできた。まぶしくて少し目を細める。
二十四時間営業しているスーパーの明かりだった。建物に赤い字で書いてある名称が、強い照明で照らされ、嫌でも目に入ってくる。
店の下にある駐車場は、数台の車が止っているだけだ。常夜灯が寒々しくコンクリートの床を照らしていた。
店内に入る。決して温かくはないが、それでも外よりはましだった。強ばっていた肩が、少しほぐれていく。
エレベーターに乗り、売り場のある二階へ行った。プラスチックのカゴを持って、最初に目に入った野菜の棚を物色した。
レタスは玉が小さい割に値段が高くて、買う気が起きなかった。きゅうりは安かったが、手に取ると妙に柔らかくて弾力もない。棚に戻す。
客はまばらで、従業員の方が目立つくらいだ。
野菜棚から魚、肉の棚へ移動していくが、空になっている棚が目立った。
牛乳の棚に行き、賞味期限を確認して五百ミリリットルパックをカゴに入れた。時計を見る。もうすぐ十一時半になろうとしていた。
ちらりとパンが置いてある棚を見る。誰もいないのを確認し、ソーセージやゆ冷凍食品の棚を物色した。
もう一度パンの棚を見る。従業員がやってきて、商品を調べながら、値引きシールを貼り始めていた。引き寄せられるようにして、数人の客が近づく。
客たちは蜜に群がる虫のように、どこからともなくやってきて、増えていった。
僕も虫になり、引き寄せられていく。
さっと棚を見回し、バターロールのある棚の前に付く。
隣で品定めをしている年配の女性の前に手を伸ばし、息子の好きなレーズン入りのバターロールをかすめ取った。
消費年月日と三割引のシールを確認して、カゴへ放り込む。
店内を一回りして、他に買うものがないか確認し、会計を済ませた。
店を出ると、暗闇と、凍り付くような空気が、再び体を包み込んだ。
照明で吐いた息が白くなっているのが見える。
歩き出す。
角を曲がり、スーパーの照明が見えなくなった。明かりの消えた住宅街が、目の前に現われる。
LEDの街灯が、道沿いに点々と連なっている。
あ……。
足を止めた。十メートルほど過ぎてしまった四つ角を振り返る。
工場の横へ行く道を行き過ぎたのは、疲れていたからなんだろうか。
戻っていつもの帰り道へ復帰するのは簡単だ。でも、このまま行っても同じように自宅へたどり着く。
前を見た。
ずっと続いている道の先は、暗い中、間隔を開けて、街灯が滲んだ光を放っていた。
まっすぐ歩いて行くのに、ためらう理由はあった。
ずっと避けていた。
何年も足を踏み入れてこなかった。
理由に意味がないとわかっていたが、あえてまっすぐ歩く義務もない。だからいつも工場方向へ曲がっていた。
ほんの十メートルを引き返せば、いつもの帰り道に戻れる。しかし、進むのをためらうのに意味がないなら、戻ることにも意味がない。
引き返さず、そのまま歩き出した。
僕以外、誰もいない道。こつこつと響く靴音。
わずかに緊張が高まっていく。
工場の裏手にある住宅街。子供の頃から見覚えのある場所。
家の前へ来た。
立ち止まる。
くすんだ白壁、すりガラスの引き戸。プラスチックのプランターには、枯れた植物が倒れている。
ただのくたびれた家だ。
一階の窓の奥から、残された者の明かりがわずかに灯っている。
何も起きない。起きるはずがない。
硬くなっていたものが、クシャリと押し潰された気がした。
今まで、そんなものが心の中にあるなんて知らなかった。
潰れて、始めて意識した。
小さく息を吐き、二階を見上げる。
もう開かない窓。
二度と見ることのない顔。
LEDの街灯がやけにまぶしかった。
背後の空には月もない、星もない。
水彩絵の具で塗りたくったような、ぼやけた黒があるだけ。
涙も出ない。悲しみも起きない。
いつのまにか、鉛のような疲労が肩へのしかかっていた。
もうすぐ日付が変わる。
早く帰って寝てしまおう。
僕は歩き出した。
もう開かない二階の窓