僕の落とした左手を
1
奇跡の右手
小さい頃からただ絵だけをひたすら描いてきた少年が、世界の大きな絵画のコンクールで優勝したというニュースは瞬く間に広がり僕は一夜で超有名中学生になった。
当時、僕にそんなに友達はいなかったはずだが、この日を境に昔から仲がよかったような口ぶりで僕に話しかけてくる奴が何人もいた。
急に話しかけてきやがって、と何度も思ったが、案外悪い気はしていなかった。
この時期は世界中の誰よりも人気者だったのではないかと今でも思う。
僕はこの右手を一生大事にしていこうと決めた。
この歳でこれだけの絵が描けるなら、将来大物画家になって絵を描くだけで生きて行けるだろうと確信していた。
先生も、友達も、父も、母も、世間も、それを期待していたことだろう。
そう決意してから一年後、僕の右腕は、きれいさっぱりなくなった。
原因は交通事故だ。犯人は世間から大バッシングを受けたようだが、そんなことはどうでもよかった。
父が命を落とし、母が命を落とし、そして僕はもう、絵が描けなくなってしまった。
現実に失ったものが大きすぎて、しばらくは放心状態の日々が続いていた。
久しぶりに学校に通いだした時の、周りの視線は痛かった。同情なのか、かける言葉が見つからないのか、
どれにしたって僕は世界からもこのクラスですらも見放されてしまった。
そんな冷え切った状況下でも、僕に話しかけてくれる奴が一人だけいた。
そいつは、残った左手で絵を描いてみたらどうだ、と言った。
手のひらをあっさりと返した周りの連中を見返してやれよ、と。
そうだ、まだ僕には左手がある。右手程の画力は無くても、同じ人間が描く絵なのだ。
きっとあいつらを見返す程度にはいいものが描けるだろう。
僕は必死で描いた。
思うように動かない左手に何度も苛立ちを覚えたが、ここで絶対に逃げ出すもんかとひたすら筆を滑らせ続けた。
そうして出来上がった絵は、ひどかった。
なんだこれは、左手ではこんなのしか描けないのか。意に満たないどころか絶望さえ感じる欠陥作品だった。
それでもただ一人の友人は、手を叩いて褒めてくれた。
僕はそいつみたいな感性の持ち主が絵画コンクールの審査員にもいることを信じて、町で一番小さなコンクールにそれを出した。
結果が返ってきた。僕はそれをじっくり眺めた。友人は僕の横で心配そうな顔をしている。
結果は、どうだった?
僕は、彼に笑顔を向けた。誰が見ても、引きつった笑顔だった。
その日から、僕は絵を描くことをやめた。
2
目を覚ましたのは、昼の二時だった。
重い体を左手で支えながら、ゆっくりと起き上がる。大量の寝汗でシーツの一部が湿っていた。嫌な夢を見ていたようだが、もう記憶に残っていない。ぴったりと体にはりついたスウェットが気持ち悪かった。
ふらつきながらも台所まで足を運ぶ。水道のノズルを上に向け蛇口をひねり、からからした喉に直接冷水を流し込んだ。あまりの冷たさに足先からぶるりと震えが伝う。すぐに止めて軽く口を拭った。目はすでに覚めていた。
朝飯、いや昼飯を食べようと冷蔵庫を開けて覗いてみたが、中にはこれといったものが入っていない。チルドに眠っていたチーズの塊を見つけ、口に放り込み空腹を紛らわせた。さすがにこれだけじゃ足りなかったのか、お腹は小さくきゅるきゅると音を立てた。しょうがない。ズボンのポケットに財布を入れ、床に脱ぎ捨ててあったダッフルコートを持って隣の部屋へ移る。
ドアを開けると、見上げるほどの絵たちが目に飛び込んできた。佑が幼稚園の頃からずっと描いてきた絵が全て飾られており、壁や天井までびっしりと絵で埋まっている。実際に数えたことはないが、ざっと百枚ほどだろう。この家は居住部屋とアトリエの二部屋があり、玄関はアトリエの奥につながっているため、この部屋を通らないと外には出られない構造になっていた。中学生だった当時、泊まり込みで、一人だけの空間で絵が描きたくて、自分専用の居住部屋付アトリエなどという高価なものを望むようになり、コンクールで得た賞金を迷わず放り込んでこんなものを買ったのだ。今はそのまま住み処として使っているが、なぜアトリエを奥にしなかったのだろうと常々昔の自分に腹を立てる。その頃は出入りするたびに絵に触れられる幸せとかなにかを感じていたんだろうけど、今の佑に幸福感は一切ない。
もう絵を見たいとも思わなかった。
電気もつけずに暗いアトリエをまっすぐに歩く。床にはキャンパスや筆などの画材があちらこちらに点在していた。それらを軽く足でよけながら、玄関のドアまでたどり着いた。
外は冷たい風が吹き荒れていた。十一月の始めだというのにもう真冬のような寒さが体を襲う。すぐに持っていたコートを羽織るが、すでに体は冷えており、早くには効果が表れなかった。コートの中の着崩れたスウェットを軽く手で直し、足早に階段を駆け下りた。
最寄りのコンビニには歩いて二十分ほどだ。そこは佑のバイト先でもある。休みの日に職場の人に会うのは気がひけたが、他に便利な店が近くにないので我慢する。
家からコンビニまでの道のりの途中に、東田公園がある。滑り台やブランコなどの遊具がどこよりも多いことから町で人気な公園で、近所の子供たちだけでなくわざわざ離れた場所からこの公園目当てにやってくる人も少なくなかった。彼も小さい頃は親に連れてきてもらったらしいのだが、記憶にはかけらも残っていない。平日の昼間だから、子供たちは学校に行っていてひと気がなかった。静まり返った公園を見渡しながら歩いていると、三つ横に並んだ二人掛けベンチのうちの一つに影が落ちていた。
女子高生だった。白いシャツに紺のブレザーを着、膝まである丈の長いチェックのスカート姿でぼんやりと座っている。制服はこの辺でよく見かけるものだったので、近くの高校の生徒だろう。横目で見ながらなんとなく違和感を覚えた。綺麗におりたショートボブの髪に、着崩すことなく整えられた制服、背筋をぴんと伸ばして姿勢よく座る姿は、どちらかというと委員長タイプに近い。とても学校をさぼる子には見えなかった。とはいえ、多感な女子高生だから大人には想像し難いことで悩んでいるのかもしれない。考えるだけ無駄だと、すぐに目線を反らした。
コンビニの押戸を押すと、カランカランと音が鳴った。奥の方から店員が「いらっしゃいませー」と眠そうな声を上げて出てきた。二つほど年上の先輩の西岡だ。茶色に染まった髪が外に跳ねている。充分に効いた暖房の下で、朝ごはんのしゃけのおにぎりと味噌汁を一つずつ、それから一週間分の食料を適当にカゴに放り、西岡にお金を渡す。西岡は慣れた手つきで会計を済ませた。
「水無瀬くん、また大学行ってないの」
そのまま帰ろうと試みたが、思った通り西岡は話しかけてきた。根っからのおしゃべり好きなのだ。バイト中でも所構わず、しょっちゅう話しかけてくる。
「さっき起きたから、今から行く気にはなれなくて」
「ふーん、単位落とすときついよー」
当事者の話は胸に刺さる。
「気を付けます」
軽く一礼し、その場を離れた。再び冷気に襲われる。コンビニ袋を軽く握り直した。
帰り道、またチラリと東田公園を覗いてみる。先ほどの女子高生は未だそこにいたが、今度は何かA5サイズほどの画用紙を手にしていた。それを、愛おしそうにじっくりと眺めている。
ただ、それだけだった。
じんわりと頭に熱が上り詰める不思議な感覚が佑を襲った。
足が地面に張り付いたように動かなくて、瞬きができなくて、佑はその場で彼女に目を向けたまま立ち尽くした。
あまりにも綺麗だった。
とても寒いはずなのに、気付けば頬はどこよりも熱かった。いままで味わったことのない感覚に戸惑いつつも、次第にそれに体を預けるようになった。
距離があるとしても呆然と視線を送り続けていたからか、やがて彼女はこちらの存在に気付いて顔を上げた。
やばい、見つめすぎた。
目があった瞬間、焦って逃げようとしたが、向こうも吃驚したらしく、
「あっ」
彼女は手に持っていた紙を離してしまった。風に乗って勢いよくこちらに向かってくる。そこでようやく縛られていた緊張感がほぐれ、手を伸ばして紙をなんとかキャッチした。代わりに持っていたコンビニ袋が足元に落ちる。鈍い音におにぎりの安否が気になった。
彼女は慌ててこちらにくると、サッと佑の足元のコンビニ袋を拾う。
「ありがとうございました」
彼女は下から見上げ、袋を手渡して礼を述べた。先ほどベンチで浮かべていたあの表情はすっかり消えている。ちょっと残念な気持ちを抱えながら、紙を彼女に返した。ふと、彼女が熱く見つめていたその紙が何なのか多少なりとも気になり、何か書いてあるほうを表に向けてみた。
正体はすぐにわかった。わかったと同時に、汗が噴き出そうなくらい動揺した。
「あ、あの、これどこで……?」
緊張で声がか細くなる。知らない人に声をかけることなんて、人見知りの彼なら普段は絶対にやらない行為だ。それでも、聞かずにはいられなかった。
彼女は途端に目を瞬かせて答えた。
「拾ったんです、小学生の時に。この公園で」
こんな偶然があるのだろうか、一驚するあまり短く悲鳴をあげた。とっくにこんなもの、廃棄されているものだと疑っていなかった。
あの日、持っていることさえ嫌で嫌で、泣きながらこの公園のごみ箱に破り捨てていた、左手で描いた最後の絵を拾い上げていた人がいたなんて。
「で、でも。破れてバラバラになってたんじゃ」
「あぁ、全部集めるの意外と簡単でしたよ。後は裏で貼りあわせて……というか、なんで知ってるの?バラバラになってたこと」
しまった、聞きたいことだけ聞くつもりだったのだが。後悔を顔に出さないように努めたが、彼女には簡単に見破られてしまった。
「もしかして、これ、あなたが描いたんですか?」大きな目が問いかける。
ここで友達が描いていたなどと誤魔化すことは容易だろうが、彼にそんな芸ができるはずもなかった。下手な嘘はつくまいと仕方なくうなずいた。途端に彼女は驚いたように口元に手を当て、一歩踏み出して近づく。
「わ、私、ずっと会いたかったです!」
嬉々とした面持ちでそう告げた。
その告白に、佑は一度考え込んだ。会いたかったということは、彼女は奇跡の右手を知っているということだろうか。つまり佑のファンで、この絵も右手で描かれたものだと……とんでもない勘違いをさせている。
彼女の勘違いをすぐにでも訂正しなければ。
「その絵は僕が描いたけど、左手で描いたやつ、なんだ」
この後ため息でもつかれたらどうしようかと思ったが、彼女はなぜか首をかしげた。
「それは……見たらわかります」
彼女は佑の右手があるであろう位置を眺めていた。あれ、再び頭を回転させる。そういえば、彼女はこの絵を拾ったのが小学校の時だと言っていた。するともしかしたら……。
「『奇跡の右手』って、知ってる?」
彼女は再び首をかしげ、「いいえ」と答えた。不思議そうに眉をひそめている。
彼女は単にこの絵が好きなだけなようだ。佑が賞を取ったことなんて全く知らず、奇跡の右手のファンですらない。勘違いをしていたのは僕の方だったようだと自嘲する。しかし、この絵を好きだという人がいるなんて。彼女の顔を疑い深く見つめた。
「あなたは、この絵が好きだから、小学生の時から今までずっと持ってたの?」
「はい!最初拾ったときは興味本位だったんですけど、絵を貼り合わせていったときの感動というか……衝撃は、忘れません」
複雑だった。何年も前の絵を未だに持っているというのだから嘘をついているとは思えない。だからこそ、この絵にいい思い出なんかないし、こんなに褒められるほどの絵でもないと思っていたのだから、どう反応していいかわからなかった。
「あのぅ、いま暇です、か?」
唐突な質問に、勢いで頷いてしまった。
「もし、もしよかったらなんですけど!」彼女は唇をなめ、深呼吸して言った。
「あなたの他の絵が、見たいです!」
彼女は佑のファンになったという。もう二度と見たくないと思っていたあの絵がきっかけで。
そして、あんなキラキラした目でお願いされて、彼が断れるはずもなかった。
3
彼女は、なしたにかなめ、と名乗った。
「果物の梨に、谷折りの谷」
「かなめ、の方は?」
要は少し俯いてから「不要の要」と小さい声で言った。
有要、とか必要、とか、いくらでもあるのに。
不要を選んだのが若干気にかかるが、要は考える間を与えず同じ質問をした。
「あなたの名前は?」
そう言って佑の顔を覗き込む。要の髪が、はらりと下に垂れた。
「水無瀬、佑」
要は途端に空を仰いでんんん、と唸ると、やがて少し照れたように、
「水無瀬さん、って呼んでもいいですか?」と言った。
「いいよ。僕は……」
「要でいいです」
さすがに出会ってすぐの女子高生を呼び捨てにするのはいかがなものか、と渋っていると、
「嫌ならちゃん付けで」
と、言われてしまったので、仕方なく要ちゃんと呼ぶことにした。
これでもだいぶ無理している。女性をちゃん付けで呼ぶことなんて、小学生以来かもしれない。
公園から自宅までの道中、何とか話を引き延ばすことに成功した。
見慣れた屋根が視界に入り、ほっと息をつく。
佑の家は二階建てだ。と言っても、一階が駐車スペースであるため住居兼アトリエは全て二階にあった。
だから玄関にたどり着くまでに二十段ぐらいある階段を登らないといけないのだが、普段家に引き籠ってばかりの彼には自宅ながら多少きつい。
白い息を上げながら階段を登り終え、玄関を開けてアトリエを覗かせる。
家の中は外と変わらないくらいキンキンに冷えていた。
腕をさすり、すぐさま暖房をつけた。
リモコンを探し、電源をつけるまでの間、要はずっと靴箱の前で茫然と突っ立っていた。
佑が振り返ると、思い出したかのように靴を脱ぎ始める。
誰かを家にあげることはほとんどないが、唯一の友人である宏斗を招いた時も、同じような反応をしていたなぁと思い出した。
右側にはこのアトリエ自慢の大きい円形の窓が一つあるのだが、そんなものなど目に入らないとでも言うように、みんな一つの小さな部屋に飾られたあらんかぎりの絵の圧迫感に驚きを隠せないようだ。
佑も初めて美術館に行った時、大きさとか量とか、とにかく目を丸くして眺めていた記憶があった。うちはそんな風に見えているのだろう。
要はそろりとアトリエに足を踏み入れ、絵を見上げた。
「すごい。絵で埋まってる」目の玉があちらこちらに飛んでいた。
「あれ、でも……」
口をぽかりと開け広げ驚いていたのかと思えば、途端に眉間にしわが寄った。
それから何も喋らなくなってしまったので、静かな空気に耐えられず佑も慌てて一面の絵を見る。
「全部、昔描いたものだけどね」
こいつらを見上げたのは何年振りだろう。
全体ではなく一つ一つの絵に注意を払って見ると、描いていた時の情景がくっきり頭に浮かんでくる。
懐かしい、そう思った。
「昔ってことは、今はもう描いてないの?」
ふいに痛いところを突かれた。
ファンと言ってくれる人に対して答えるのは少し気が引けたが、他に言い訳も思いつかなくて、素直にうん、と頷いた。
訊くなり要は目を細め、どこか悲しそうな表情をした。
「なんで、描くのやめちゃったの?」
どこから説明したらいいのやら、再び窮地に立った。絵を描き始めた頃からなら、口頭でも時間を食うことは容易に想像できる。
かといって腕を失ったところからだと、空気が重くなるのは避けられない。
今まで頑張って作ったこの雰囲気を壊す度胸はない。
なかなか言い出さない彼に、要はこうであろうという答えの一つを投げかけた。
「絵、嫌いになったんですか?」
判断に迷っていた佑は、この簡単な答えに飛びついた。
いや、これは本音だ。
きっとそうだと自分に暗示をかけ、肯定した。
「うん。嫌いになったから、かな」
自分の気持ちを言っただけ、何も間違ったことは言っていない。
それでも、今放ったことを後悔して、その言葉を取り消したくなった。
それほど要は、絶望という言葉がぴったりな表情を浮かべていた。
それから一時間ほど、要は絵を見ていた。しゃがんで下から絵を見上げたり、立ち上がって全体を見て回ったりしていた。
ちょっと崩れたおにぎりと味噌汁を口に流しながら、佑はそんな彼女をアトリエの端っこで座って眺めていた。
よく飽きないよなぁ、と思う。
やがて要は一枚の絵の前でしゃがみこみ、じっと見つめたまま動かなくなった。
どの絵を見ているのだろう。気になって後ろから覗きこんでみると、それは小学生の頃、図画工作の課題で描いた家族の絵だった。
題名は「大好きなパパとママ」となっている。この頃はまだ賞とは無縁の時期だった。
絵の右下には、「たいへんよくできました」と書かれた花丸シールが貼られていた。
十二年も前に描いたと思うと、線の不安定さにも笑みがこぼれる。
要は振り返り、絵の中央に描かれた二人を指さす。
「お母さんと、お父さん?」
「うん、僕の両親」
うなずきながら、要は視線を絵に戻す。
「なんか、仲良しな家族なのすごく伝わる。この絵、好きだなぁ」
要は公園のベンチでしていたような、柔らかい表情をしていた。
不器用な父と母の絵を、まるで憧れの人を見るように。
ほんとうに好きなんだなぁと、胸が熱くなる。
自分の絵一つでこんなにも表情が変わるなんて、なんだか魔法使いにでもなったようだ。
嬉しさの反面、熱心に絵を見つめられるとだんだん気恥ずかしさがこみ上げた。
「ありがとう」
下を向いてぼそっと言った言葉だから、絶対に聞こえていないはずだった。
はずだったのに、要は五秒ほどこちらを眺めてからクスリと笑った。
佑は再び彼女が絵に視線を戻すまで、顔をあげることができなかった。
「今日は、ありがとうございました」
要は靴を履きながら、礼を言った。
「こんなに長い時間絵を見てた人、要ちゃんがはじめてだよ」
「うそっ」
要は左手につけた新品の腕時計で時間を確認する。
すでに夕方の五時になっていた。
約二時間半も絵に夢中になっていたことに驚いて目を剥き、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、こんな時間まで付き合ってもらって」
ううん、と言って首を横に振った。むしろ楽しかったぐらいだということは言わないでおく。
絵を描くのが好きになったわけではないから、余計な勘違いをさせるのはかわいそうだと思ったのだ。
要はこほんと咳ばらいをひとつすると、佑と真正面で向き合った。
「水無瀬さん」
「はい」
「また、明日も来ていいですか」
「……え?」
一瞬反応が遅れてしまった。
明日も絵を見に来るという解釈であっているのだろうけど、このアトリエに二度も行きたいと思える何かがあるのだろうか。
どうしても気になって理由を聞くと、
「よくわからないです、好きな理由なんて」と、言われた。
「わからないけど、なにか強いものが心に響いて、手放したくないんです」
そういってビリビリに破れていたあの絵を小さな腕で抱きしめる。
また、あの顔だ。
要の言っていることは曖昧だけど、なんとなくわかるような気がした。
彼もその無邪気な笑顔に、すでに惹かれているからなのかもしれない。
「また明日」
佑はそう言って、彼女を送り出した。
4
カタカタと、やかん蓋が揺れだした。
それを合図に、あらかじめ茶葉を入れておいた急須にお湯を注ぐ。
湯気で台所は真っ白になった。白くなった空気を手で払い、視界が良くなったところで湯呑みを二つ取り出す。
それらを居間まで一つ一つ移動させ、全部終えるとコタツで足を温めながら急須のお茶を湯呑みに均等に注いでいく。
「ばあちゃん、はいお茶」
ばあちゃんはコタツの向かいに座り、新聞を広げ、老眼鏡をかけて読んでいた。声に反応し、目だけを湯呑みに向ける。
「はいはい」
新聞を半分に折り、老眼鏡を外して首から下げる。片方の湯呑みに手を伸ばして軽くすすった。
交通事故で両親を亡くした佑は、中学三年の夏から大学に入るまでの約四年間、ばあちゃんの家でお世話になった。
だからたいていの手伝いはできるつもりだ。
急須の入れ方も片手じゃ無理だと思っていたが、何度も練習するとできるようになるものだ。
今ではなんなくこなせるようになった。
久しぶりに訪れたばあちゃんの家は、昔と何も変わっていなかった。
部屋もそのままにしてあるし、和室の隅に置かれたそれっぽい熊の置物も相変わらずだった。
「で」と、ばあちゃんは湯呑みを置いて、真正面から向き直る。「あんたはいつになったら働くとね」
「大学卒業したらだよ」
「大学だってろくに行っとらんくせに」
やはりばれていた。あまり隠す気もなかったけれど。
「それは、ごめん」軽く目線を外した。
「それより、食事なんかはどうしとん。バイト代だけじゃ持たんやろ」
「まだあの時のお金残ってるんだよねぇ」
ばあちゃんは鋭い視線を向ける。外した目線が戻すに戻せなくなった。
そんな彼を一通り見つめてからばあちゃんは諦めたように湯呑みに視線を戻し、ふぅとため息をついた。
「過去に頼りすぎばい」
ずずず、と音を鳴らす。
あの時のお金、というのは佑が「奇跡の右手」で有名になってから事故に至るまでに絵で稼いできたものだ。当時中学生だった彼にはひとつ絵を描くたびに入ってくる収入があまりに大金すぎて、今までまともに使ってなかったのだ。アトリエを購入したところでいくつかケタは減ったが、それでも大学生にあがった今になっても余るほど持っていた。
「もう、絵は描かんのやろ?」
今度はばあちゃんは目を見ようとはしなかった。これが、この人なりの心配の仕方なのだ。心配されているとわかっていても、嘘はつけない。
「うん、描かないよ」
そうかい。と小さな声でつぶやき、ばあちゃんはまた新聞紙を広げた。
老眼鏡はかけていない。
佑はすでに冷めたお茶を飲みほした。
「そういえば」湯呑みを置いて一息ついてから話す。「昨日も、同じ質問された。知らない女の子に」
ばあちゃんは新聞紙をめくる手を止めた。
「知らない子?誰だい、それ」
「公園でたまたま知り合ったんだ。僕の、絵のファンだって」
要と出会ってから現在に至るまでの経緯をひとしきり話す。
聞き終えたばあちゃんは、片眉を吊り上げて変な顔をしていた。
「あんた、知らない女子高生を家にあげたと」
「断れなくて、さ。でもサボってたから、もっと不良っぽい子かと思ってたけど、普通にいい子だったんだよね。なんでサボってたんだろう。僕でも高校は行ってたし」
ばあちゃんは、今度は悲しそうな顔をしていた。
ころころと表情が変わるなぁといつも思う。
そういうところは、少し要に似ている気がした。
ばあちゃんはそのまま、ゆっくりと語りかけるように言った。。
「どんな家でも、思いがけない秘密を持っとるもんよ。うちみたいに」
ばあちゃんは後ろを振り返った。佑もつられて首を向ける。
両親の遺影と目を合わせた。
「そうだよね」
うちを例に出されちゃ、納得するしかなかった。
5
その日の夜、アトリエに戻ってからほどなくして、インターフォンが鳴った。
玄関の扉を開けると目の前には、要が昨日と同じ制服姿で立っていた。
違うところといえば今日はその上にコートを着ている。
どうぞ、と言って部屋に入れる。
よっぽど寒かったのか、入ってすぐドアを閉め、ふぅっとため息をついていた。
そして昨日と変わらず、絵を見続けていた。
佑はその傍らずっと本を読んだり携帯を触ったりしていたが、それも飽きてきて、
「学校帰り?」と聞いてみた。
要は振り返って小さく頷いた。今日は行ったんだな、と少し安心する。
「ほんとは最近学校行ってなかったんだけど、ここにまた絵を見に来れるって思うとなんか楽しくなっちゃって。一日、頑張れました」
そんなに楽しみにしていたのか。鼻歌を唄いながら眺めている姿に偽りはなかった。
「水無瀬さんは、行ったの?大学」
行ってない。と答えると、要は下を向いて笑った。
まつげ、こんなに長かったんだ。
ついついぼうっと見つめてしまい、顔を上げた彼女と目が合う。
ほんの十秒程度だったが、なぜかお互い見合っていた。
要はその間決して目をそらさなかった。
佑の場合は、ただ固まってそらせなかっただけだ。
白い肌と、長いまつげ。
さらさらした髪。
それ以上は見れなかった。
スピーカーから大音量で聴こえてくるような心臓の音が彼女にも聞こえているような気がして、胸が張り裂けそうだった。
「水無瀬さん」
はい、と返す声が裏返りそうになった。
「嫌じゃなかったら、ですけど」目を伏せる。
「絵を、見てもらえませんか?」
「え?」
特に何かを期待していたわけではないが、深いため息とともに一気に肩の力がぬけた。
体を楽な姿勢に戻す。
「要ちゃんの?」
「あ、私じゃなくて。また、拾ってきたんです」
「うん、いいけど……」
そう言うと要は学校の鞄からA4のファイルを取り出し、そこにちょうどおさまっていた厚紙を抜いた。
これです、と掲げる。
受け取った紙には、半分から下が緑の草で埋まっていた。
そして草の間から生えてきたように一本の小さな花が中央まで伸びている。
描かれていたものはそれだけだった。
おそらく描き方からして小学生の絵だろうが、空の色も無く、なんだか……
「寂しい、よね」
要は感想を訊くと、やっぱり、というように息をついた。
「どうしたら、いい絵になりますか。どうしたら、この花喜ぶと思いますか?」
なるほど。今までそんな気持ちで絵をかいたことなんてなかったので新鮮だ。
「要ちゃんは、この花を元気にしたくて拾ったの?」
そもそも、絵を拾う人なんてあまり聞いたことがない。
佑の絵を拾った時の彼女は小学生だったというからまだ納得できたが、もう高校生だ。
何か意味がないと普通は拾わない。
ましてや小学生が描いた絵なんて。上手くかけなかったからだとか、もしかしたら単に落としてしまっただけかもしれない。本人だってそんなに重要視してないはずだ。
「最初見たとき、なんだか絵が悲しそうだなって感じました。その時水無瀬さんのこと思い出したんです。私じゃ画力が無いから無理だけど、水無瀬さんならきっと元気にしてくれるだろうって。それで、あの」
口ごもる要を促すと、両手を顔の前で合わせて勢いよく叫んだ。
「ファンのためと思って!この花を元気にする何かを描いてもらえないでしょうか!」
こんなに熱心にお願いされたのは初めてで、圧倒されてしまった。
頼られているのは嬉しいことだが、描けと言われるとちょっと……。
垂れ下がった右の袖を見つめ返し、自分でも情けないと思うほど弱気な声を出す。
「ごめん、僕はもう描けない」
外を歩く人の足音が聞こえるほど、部屋の中は静寂に包まれた。
要は佑の目線の先を追っている。その顔は戸惑っているようだった。
「あの、えっと、絵は描けないけどアイディアぐらいなら出せると思うから、それで許してくれないかな……?」
再び視線がぶつかる。
逃れるように出した案は、どうやら上手くいったようだった。
要は気を取り直したように息を吸い、大きくうなずいた。
佑も息を吸って気持ちを切り替える。
すごく期待されているのがプレッシャーだが、今更文句は言えない。
その絵をもう一度手元にもってきて、眺めてみる。
考えている間、要がずっと絵の中の花を見つめていたのは、なんとなく視線で気づいていた。
ぽつんと一つだけ立っていた花は今にも枯れそうで、要のような感性の持ち主なら確かに悲しそうだと感じるだろう。我が子を心配する親のような目で見つめる彼女を見ていたら、佑の脳にピンとくるものがあった。
「ここに、この絵の中に、要ちゃんを描いたら?」
「えっ私?」
要は大きく目を開けて見返す。
その目に映るように彼はゆっくりと頷いた。
「絵の中で、この花を元気にしようとしてる要ちゃんを描いたらすっごく素敵な絵になりそう。花も元気になるよ。どうかな?」
こんな考えは初めてで、思わずふふっと笑みがこぼれる。
絵を元気にさせる、という彼女の表現を佑は気に入っていた。
昔だったらそんなこと……と思うかもしれないが、今は恥ずかしいとか、幼稚だとか、そんな気持ちには全然ならなかった。
アイディアは好評だったようで、要は同意したように頷くと目を閉じてその情景を思い浮かべていた。
佑も一緒になって目を瞑る。
いろいろと試行錯誤しながら一輪の悲しそうな花を必死で元気づけようとする要の姿が浮かんだ。次第に花にも活気がもどり、要の顔にも笑顔が咲いている。
うん、これなら絵の中の花も彼女も元気にできそうだ。
「楽しそう」
いつの間にか、目を開けてこちらを見ていた要は言った。
「今の水無瀬さん、今までで一番楽しそう」
え、と声が漏れる。思い描いていた情景がぱっと消えた。
嫌いなはずなのに、楽しんでたら矛盾してる。
いや、もしかしたら考えるだけは好きなのかも……。
あれ。そもそも僕は絵の何が嫌いなんだろう。
描くことが嫌い?見ることが嫌い?絵のアイディアを働かせるのが嫌い?
僕はどうして絵が嫌い?
頭のなかがぐるぐると渦巻く。
要はなにか二言ほど話しかけてから、帰り支度をはじめた。
玄関のドアを開けて外に出るまでの間、彼はぼぅっとしていて何も耳に入ってこなかった。
要もそれに気づいたのか、最後に放った声はメガホン越しに放つかのように大きな声で叫ぶように言った。
「水無瀬さんは、きっと絵が大好きです!」
頭で考えていたことがすっと消えた気がした。要は満面の笑顔を見せ、出て行った。
ドアが、がちゃりと音を立てて閉まる。いつも通りの静かな部屋に戻った。
――えくぼ、できてたな。
6
「は?女子高生が可愛い?」
「誰もそんな話してないんだけど」佑はベッドに座って、彼を見上げた。
目の前にそびえるように立つ宏斗は、眠そうにあくびをしている。
今は午前七時だ。そりゃ眠い。
「そうじゃなくて!隣のアトリエに最近毎日高校生の女の子が来るんだけど、この状況どう思うかって話で……」
宏斗は目を擦り、「なにそれ、誘拐してんの?」と真面目な顔で聞いてくる。
なぜか中学校からずっと一緒なのに、宏斗と会話が成立することはほとんどない。
僕の説明が下手なのか、単に宏斗がバカなのかと考えたってわかるはずもなかった。
もちろん誘拐の件はしっかりと否定する。
出会ってから一週間ほどがたった今でも、要は毎日アトリエに顔を見せていた。
すっかり日常となっていた。
最初に出会った時、こんな風になるなんて一ミリも思ってなかったが、慣れてしまうと家でも人と触れ合えることに少なからず喜びを感じていた。
一人が寂しかったのかもしれない。
「じゃあどういう関係?」
「なんか、僕のファン、らしい。絵の」
そう言ってチラッと隣のアトリエの方を見る。
昨日、要が拾ってきたという絵が置きっぱなしになっている。
持って帰らなかったようだ。朝になるまで気がつかなかった。
「それって、お前が右手あった時に描いた絵のファンってこと?」
宏斗は羽織っているジャージのチャックを上下にジージー言わせながら聞いてきた。
宏斗は結構、佑に対しては気を使わないことが多い。というかほとんど直球だ。
中学の時、いつも通り接してほしいと佑が言ったことを守っているのかと思ったが、最近そのことを聞くと、宏斗はスルメをかじりながら忘れた、と言った。きっと何も考えていない。
「いいや。あの子がファンになったきっかけは、僕が最後に描いたやつだよ。左で」
宏斗は目を閉じて、絵を思い浮かべた。
「あぁ、あれか。へぇ、賞取った時のやつとかじゃないんだ」
「あの子は昔のことなんてなにも知らないと思うよ。『奇跡の右手』、知らなかったし」
聞いた途端、ぶふっと宏斗が吹き出した。
「それ自分で聞いたの?ウケる」
「思い出すと恥ずかしくなるから笑わないでよ」佑は布団の中にもぐりこむ。
「無理無理、笑う」
宏斗はケラケラ笑いながら勝手に冷蔵庫を開け、中にあった残り一本のコーラをなんの遠慮もなく開ける。
「まあでも、お互いOKしてるんだし、今はいいんじゃね?高校サボってるぐらいなら親もユルそうだし。その子も絵見てるだけなんだろ?」
「まぁ、ね」
コーラを喉に通して一息つく宏斗を見る。
ペットボトルの中身はもう半分以上なくなっていた。
「お前が、理性ぶっ飛んで襲わない限り大丈夫だよ」
なんて失礼なことを……言ってることは、わかるけど。
「じゃぁ、今のところは気にしなくていっか」佑は上半身だけ体を起こす。
キッチンで、だな!と言って宏斗はコーラを飲み干す。
そういえば、今更気になったのだが。
「宏斗、なにしにうち来たの?」
「あ?決まってんだろ」空のペットボトルを流しに置き、口を拭う。「お前を大学に連れて行くんだよ。ほら行くぞ、佑」
すごくいい奴なのはわかるんだけど。聞かなきゃよかった。
スウェットのまま連れて行かされそうになるのをなんとか耐えて、長そでの白シャツにジーパン、そして紺のコートを引っ張り出し、かろうじて着ることができた。
引きずられるがままに体を預け、大学が姿を見せたところでふと思う。彼女は今頃高校にいるのかなぁ、と。
「気を付け、礼」
「さようなら」
要は教科書を鞄に詰め、すぐに教室から出ようとした。
黒板の前まで来たところで肩を叩かれる。振り返ると相変わらずのメンバーが立っていた。
「梨谷さん、学級日誌書いてくれた?」
自慢げにブロンドの髪を撫でまわしながら、同級生の仁科梨香は掌を見せた。
早く寄越せと言いたいのだろう。
要は鞄から取り出してその手に乗せると、途端に梨香はページをめくって確認作業を始めた。
他二人の取り巻きと共に要の書いたページを舐めまわすように見て、ふーん、と一言。日誌の氏名は、仁科梨香となっている。
「私急いでるから」
踵を返して教室から出る。背中からありがとーう!と甲高い声が響く。
やっときつい香水の匂いから解放されてほっと溜息をつく。
門を出たところで時計に目を向ける。午後四時だった。
今日は教科書の量が多いので、アトリエに寄る前に一度バックを置いてから行こうと家に向かう。
学校近くの国道三号線から左に曲がり、東田公園をさらに右に曲がると住宅街に入る。
家と家の間の細い道をいくつか抜けた先に、要の家はあった。
帰り道、要はずっと佑と出会った時のことを思い出していた。
ずっと会いたかった人に会えたことは、今年一番の出来事だった。
私の我儘をきいてくれて、絵も見せてくれて、想像していた通りの優しくて素敵な人だった。
だけど、もし会えたら言おうと思っていたセリフは、本人を前にすると照れくさくて言えなかった。
“あなたの絵に何度も救われました。私が今いるのは、あなたのおかげです。”って。
ちょっと、重いかなぁ。水無瀬さん、引いちゃうかもしれない。
それでもいいや。そして今度こそ、思いをぶつけよう。
頬を緩ませそんなことばかり考えていると、いつの間にか自宅にたどり着いていた。扉を開け、中に入る。
知らない男の靴が無造作に置かれていた。どきりと胸が鳴った。ドアを握る手が汗で滲む。
静かに靴を脱ぎ、廊下をひたひたと歩く。リビングにつながるドアをゆっくり開けた。
漂う匂いに思わず息を止め顔を背ける。床にはビールの空き缶やカップ麺の殻で溢れている。
低いソファの傍にはやっぱり、当然のように母と知らない男が裸で寝ていた。
部屋は薄暗い。
要はすぐに視界からその姿を消し、シャワー室へ足を速める。
「あんたこれからどっか行くの」
母の千賀子はだるそうに起き上がり、持っていた煙草に火をつける。「最近帰り遅いけど、男?」
声を聞いて足を止めた。後ろは振り向きたくなくて、前を向いたまま言った。
「友達の家」震える声を押し殺したから、低い声になった。
「へぇ、あんた友達なんていたんだ」
千賀子は鼻で笑った。要は言い返す言葉が見つからず、腕時計の下の手首をひたすら掻き続ける。
「シャワー使うんだろ、二時間ぐらい入ってな」
手首を掻く手を止め、振り返った。目に嫌なものが映る。
「なんで」
「まだ、終わってないから」
そういうと、千賀子は引き笑いをし、隣の男を指さした。そして、要の方をめがけてタバコの煙を吐き出した。
要は顔をしかめながら、再び手首を掻き毟る。
汚い。気持ち悪い。こんなのが母親だなんて、信じたくもない。
家のリビングで、子供の前で、こんな恰好で、どうして笑っていられるの?
「いいだろ、あんたの親父はいつ帰るかわからないんだし」
千賀子は、ニヤリと口角を上げて笑う。
ガリッと、手首に爪が食い込んだ。
「あいつの話はするな!」
吐き捨てるように叫び、千賀子の顔も見ず、要は脱衣所に駆け込んだ。
結局、泣いてしまった。泣き顔を見られたのが悔しくてたまらない。
手首からは血が滲みでていた。
袖口で目を擦ると、痛みとともに涙はおさまってきた。
濡れてよれたニットに気も留めず、よろよろとした足取りでシャワー室の扉を開ける。
ギシギシ、と音を立てながら開いた扉の向こうを見て、もう今更驚いたりなんてしなかった。
シャワー室の中は、使用済みのコンドームや出っぱなしのローションが散らばっている。
要は無表情でそれらを見下ろしていた。
気づけばまたがりがりと、手首を掻き毟っていた。
7
久しぶりの大学は、やけに広く感じた。
体が訛っているのを改めて自覚させられた。こんなに学内を歩くだけで汗を流すとは思わなかった。
家に帰って冷えた床の冷たさに浸り、十分ほどじっとしていた。
少しずつ瞼が閉じそうになっていた時、インターフォンが鳴った。
「今日は、大学行ったんだ」
要は絵を見ていた目をこちらに向けた。特に報告することでもないが、彼女がここに来たときはいつも、今日は味噌汁が上手く作れただとか、道端で五百円玉を拾っただとか、コンビニに来た客がめんどくさかっただとか、好きな作家の小説がまだ発売されていなかっただとか、とにかくそんな風にいいことも悪いことも一日の事柄をお互いに語り合っていた。
要は絵に向けていた目をこちらに向けた。やけに嬉しそうだ。
「本当ですか、よかったです!どうでした?久しぶりの大学は」
「講義室に行くだけで疲れたよ」息が漏れる。
「え、そんなでかい大学行ってるんですか?どこ?」
要は正座したまま、すすすっと距離を詰める。
「僕の体力がないだけだよ。岩城大学だけど、わかる?」
目の前で止まると、佑の顔を見て一層笑顔になった。
「岩城、すごい。水無瀬さん岩城通ってるんですね」
「でも僕文学部だからそうでもないけどね」
彼は笑いながら言っていたが、要は笑顔のまま、表情が動かなくなった。
「あ、そっか」要はゆっくり顔を下に向けた。なんとなく、彼女の言いたいことがわかった。
「ごめんね、美術学部じゃないんだ」
岩城大学はなにより美術学科が有名な大学だ。絵が大好きな人なら誰もが知ってる一流の。
もちろん、佑が行ったのは、文学部がある一番家から近い大学を調べたらたまたま岩城がヒットしたからだった。
もう描く気は全くないから、美術学科があるからといって避けることなんてないと思った。
ここに決めたのはただそれだけだった。
「ただ、それだけだよ」こんなこと、説明する必要なかったかな。
少しの沈黙の後、「水無瀬さん。ちがいます、よね」要は今にも泣きそうな声で呟いた。
佑は反射的に顔をあげる。
「ちがうって、何が」
「言おうか迷ったんですけど。私、ここで絵を見てる時、これ見つけたんです。妙に新しいスケッチブックだなって思って」
要が部屋の奥から出してきた少しだけホコリかぶったスケッチブックを見て、息が止まるかと思った。
何度も、何度も手にしたことがある、捨てようと。
「それ、は」口の中が乾ききっていて、言葉がうまくでてこない。
彼女は小さく肩を上げて息を吸い、佑の目をしっかりと捉えた。
すでに目には涙が零れそうなくらい溜まっていた。
「私、初めてここに来たとき、違和感を感じたんです。自分の持ってる水無瀬さんの絵と、ここに飾られてる絵は全然描き方が違うって。それで、水無瀬さんが最初に会った時に言ってた、『奇跡の右手』って、調べたんです。ここにある絵は全部右手で描かれていること、水無瀬さんが事故で、右腕を失ったこと……。いろいろ疑問だったことが繋がりました」
要は改めてスケッチブックに目をやる。
「水無瀬さんが事故にあったのは五年前、中学三年の五月ですよね。でも、このスケッチブックの最後の絵だけ、日付が事故から三年後になってました」
スケッチブックの最後のページをめくり、彼に向けて見せた。
手が震えていた。要も、佑も。
「受験を考えていた頃、ほんとは行きたいって思ってましたよね。だからこの絵、描いたんじゃないですか?」
「そんなの、絵って言わないから」
「鉛筆で描かれててもわかります。ここに描かれてるの、岩城大学の美術学部の教室の模写ですよね」
汗が、膝に零れた。要は話を止めない。
「水無瀬さんはホントは左手でも描けるんです。ただ右手と比べて少し劣っているだけで描けないって思いこんでるんです。だって私は、水無瀬さんの左手で描いたこの絵に惹かれたんですよ!誰かの気持ちを動かすことのできる絵を描くなんて、普通の人じゃできません。だから、あなたはまだ諦めなくても……」
「もうやめろ!」
ほぼ絶叫する形で彼の声が響く。同時に、左手でスケッチブックを思いっきり払い飛ばした。
こんな絵、もう見たくなかったのに。
絵をしっかりと握っていた要は、持ったままスケッチブックと一緒に床に倒れこんだ。
ゴン、と頭を打ちつけた音とともに床が揺れる。
彼は自分が何をしたか理解した。
「要ちゃん……?ごめ、ごめん」
要のもとに駆け寄り、起こそうと手を差し出した。
要はこけた拍子に制服のリボンが外れ、シャツの中がほんの少しだけ見える状態になっていた。
「え」
無意識に声を出してしまっていた。
要の鎖骨のあたりに、丸い火傷の跡が見えたのだ。
一つではない。
皮膚の色かと疑うほどのそれが、何か所も。
一瞬、体が固まった。
「はー、はー、は」
要は上半身だけ起き上がると、慌てて自分の胸元のシャツを握りしめて隠した。
肩で大きく呼吸を繰り返していた。
両手が震えている。顔は乱れた髪で隠れていて見えない。
「か、要ちゃん」
「はーっ、はーっ、はーっ…」
もう過呼吸状態だった。
佑は部屋を見渡した。どうしよう、たしか袋は使わないほうがいいって聞いた気が、
「ごめんなさい」
消えそうな声で呟いたと同時に、要はよろけながらも立ち上がりドアまで走って行った。
「あっ」
振り返ったときにはすでに、要は部屋から出て行っていた。
目に溜めた大量の涙を一滴も流すことなく、出ていった。
佑は足に力が入らなかった。
追いかけることもできず、ただドアを見つめて立ち尽くすばかりだった。
握りしめた左手に、さらに力が加わっていく。
8
毎週火曜と木曜の夜六時から十時までは、バイトの予定が入っていた。
彼はほとんどレジ業務だが、いまだに客から向けられる視線には慣れなかった。
片手だし、商品とか落とされたりしたらやだわ。とか、急いでるから他の人にやってもらおう。とか。目の前で堂々と言われたわけではないが、陰口は言われるとわかって聞いていると意外とすんなり聞こえるものなのだ。特別耳がいいわけではない。
ここに来て働くたびに、要がどれだけいい子なのかを実感する。
公園の前で会ったあの日、彼女は少しも顔を歪めることなく接してくれた。
彼女と話しているときは、右腕がないことを忘れるほど普通の人になれた気がした。
――それは……見たらわかります
あの言葉、結構良かったな。初めて会って話した時の、要ちゃん。
直球でぶつけてくるところ、宏斗に似てる。
要ちゃん、大丈夫かな。
突き飛ばしてしまったあの日から、二日がたった。毎日来ていたのがパッタリとなくなり、この二日間は静かなアトリエで、佑は一人で絵を眺めていた。そうやって一人でいるとふと、自然と絵に向き合っている自分がいることに気づいた。
今まであんなに絵を見ることが嫌で嫌で仕方がなかったのに。いつから自ら見上げることが当たり前になったんだろう。
こんなこと、昔の自分じゃ絶対にありえなかった。
あのとき要に出会ったことは、ずいぶん大きい。
でもどれだけ謝りたくても、どれだけ感謝したくても、彼女の家も、学校も、電話番号も、彼は何一つ知らなかった。
あんなに毎日話していたのに、要のことを何も知らない。
このままいつまでも来なかったらどうしよう。
そう思っても、ただ待つことしかできない自分が憎かった。
「すみません」
いつの間にか、困り顔のお客さんが目の前で商品を手にしていた。
「あ、はい」
だめだ、考えだすと止まらない。一度頬を軽く叩いて、頭を振ってから再び仕事へと切り替えた。
その数時間後、再び別の世界に思考が飛んでからは、お客さんは佑の前に現れなかった。
あっという間に就業の時間が訪れる。
「水無瀬くん」
裏のロッカールームで着替えをしていると、後ろから声を掛けられた。渋くゆったりとしたこの声は、店長だ。
もしかして、今日の業務態度について怒られるんじゃないかと目を伏せたとき。
「なにか、悩みでもあった?」
「へ?」
素っ頓狂な声が出てしまった。悩み?
「君はわかりやすいからね。今日の水無瀬くんを見て、なにかあるなと思ったんだけど、違った?」
店長が微笑むのがわかった。皺が増えていく。
「いや、何も」
佑の言葉を聞いて、店長はそうか、そうかと二度うなずき、隣の開いていたロッカーを優しく閉めてから、裏口に向かう。
彼は勢いよくロッカーを閉めた。ガコンッと音を立てる。
「あの!」
店長は足を止め、ゆっくりとした動作で振り返る。
唾を飲み込んだ。
「もし、もし、僕に謝りたい相手がいて、でもその人はどこにいるのかわからなくて、そんな時、どうしたらいいと思いますか」
店長は、しどろもどろにしゃべる彼の話を、相槌を打ちながら聞いてくれた。
だんだん心が落ち着いてくる。
「やっぱり、待ってるのが一番いいんですかね」
「確かに、待つのも一つの手かもしれない」
だけど、と言って少し瞼を上げる。
「私ならね、待つことをえらんでしまったら、相手がもし戻ってこなかった時、何もしなかった自分を責める気がするんだよ」
店長は皺を掻いて続けた。
「だから、足が棒になるまで探して探して、それでも見つからなかったとなったら潔く諦められると思うんだ」
もちろん探し出せることが一番だけどね、と店長は笑った。
佑は店長の考えに強く頷いていた。腰を折って深くお礼を告げると、弾かれたように走り出した。
店を出た時には、すでに時刻は午後の十時半だった。
こんな時間に女子高生が外に出歩くことはないだろうと思いながらも、東田公園や近所の住宅街など思いつく限りの場所を走って回った。
途中で分厚いコートも蒸し暑く感じ、脱いでいた。
結局、小一時間は探し回った。おぼつかない足取りで公園までたどり着き、ベンチに腰かけた。顔の前で白い息が広がる。
空を見上げた。無数の小さな星が光っていた。
突然、空っぽの頭に最後に見た要の後ろ姿がよぎった。
あのとき、無理にでも足を動かして追いかけていれば。
そんなことを考えて唇を噛み、また疲れ切った足を動かした。
熱い体に冷たい風が刺さる。
要ちゃんに会いたい。
9
五日が、立っていた。
「もう諦めたら?」
「しか、ないのか……」
全身筋肉痛の体を労わりながら嘆息をつく。
「こんだけ来ないんなら、もう会いたくないってことかもしれないし」
宏斗はお盆を適当なテーブルに置いて、腰掛ける。
「そうだよなぁ。そろそろ現実見ないとだめだよね」
目の前のカレーをつつく。
中には未だに克服できないピーマンが入っている。
「今日で終わりにするべき、かな」
宏斗はでっかいから揚げを頬張る。
「いいんじゃね」そう言って二個目を頬張った。
佑はルーを口に運ぶ。大学の食堂を使うのは今日で二日目だ。
ここの味はまだ慣れていなかった。
食事を終えてから何コマか授業を受け、課題を提出したりとやるべきことを終えて大学を出るころには午後の六時になっていた。
冬は六時でも立派に暗い。見えづらくなったバスの時刻表に目を凝らす。
帰りのバスは十分遅れで到着した。
いつもの運転手が開いているのかわからないような目でハンドルを回している。
彼は一番後ろの席に腰を落ち着かせた。車内には佑と運転手以外、誰もいない。
バスは国道三号線を通り、最寄りのバス停に近づいていく。停車ボタンを車内に響かせた。お金を払って下車し、アトリエに向かって歩き出す。その途中にある一軒の家から、びくりと肩が揺れるほど大きな物音が聞こえた。振り返りなんとなく目に留まった表札に、身が固まるような感覚が襲う。
「梨谷」と、表札には書かれていた。
うそ、もしかして。梨谷なんて名字あまり聞かないし、ここアトリエの近くだし。偶然、見つけてしまったのかもしれない。
家の前で立ちすくんでいると、玄関のドアが開いて、男性が一人出てきた。財布を広げて中を覗きこんでいる。
「あのババア、金取りすぎだろ。クッソ」
呟いて足元に唾を吐いた。財布をポケットに突っ込み、横を通りぬけていく。酒とたばこの臭いがした。
お父さん、ではない気がする。
とにかく、ここに突っ立っていてもしょうがない。今日は一旦帰ろう。
どうせインターフォンを押す勇気なんてないのだから。
アトリエに戻り、階段を上る。やっぱ、インターフォン押しとけばよかったかな。いやでも、家を特定したみたいになったら嫌だし、何もしなくて正解だったのかも……。いろんな考えが頭を回り回り、危うく足を踏み外しそうになったときだった。
「あ」
え。頭上で声がした。
顔を上げると、彼がずっと探していた顔があった。
「この間は、ごめんなさい!」
アトリエのど真ん中で佑は頭を下げた。
「いくらイライラしたからって、要ちゃんのこと突き飛ばすなんて最低なことをした。本当にごめんなさい」
あの、と言って肩に手を置く。
「顔、あげてください」
「でも、痛い思いさせたよね。傷とか、できてしまってるんじゃ……」
「ほら、なにもないですよ。だから大丈夫。私は全然気にしてません」
ゆっくりと顔をあげ、ほら、と促す要の姿を見回し、深く息を吐いた。
要は指をいじり、もごもごと口を動かす。
「私が絵を描いてほしいって自分勝手な思いで、ズカズカ踏み込むようなこと言ってしまいました。あんなの怒って当然です」
そして同じように頭を下げた。「ごめんなさい」
「今まで水無瀬さんに会いに行かなかったのは、」
そこまで言うと、要は深呼吸を繰り返す。
吐いた息は、若干震えていた。
ぎこちない動きで通学バックを床に置き、制服のブレザーを脱いでシャツの第三ボタンで開けた。
「あの日、私が倒れた時。この跡見たでしょ」
そう言って鎖骨のあたりを手で撫でる。
佑は少しだけそれを見ると、目線を反らして頷いた。
「これを見られたから、引かれてたらどうしようとかそんなことばっか考えて、会いに行く勇気がなかった、です」
久しぶりに会えた喜びだけで終われず、複雑な気持ちが絡んで胸苦しい。
火傷の跡を見た時おかしいとは思っていたが、彼女が頭を悩ます原因になっていたことなんてみじんも考えなかった。
浅はかな自分の脳みそを殴りたい。
目を反らさず、向き合わなければ。
距離を詰め、しっかりと目に焼き付けた。
「僕は引かないよ。絶対」
要は俯いたまま動かなかった。
こんな信用に欠けたセリフ、何度も言われたことがあるのかもしれない。
だけど、彼には彼にしか言えない根拠がある。だって、
「だって、僕も気持ちわかるから」
ようやく要は顔を上げた。
佑の立つ位置からは、アトリエの大きな丸窓に反射された彼の体が映っていた。
右腕がない不格好な姿に今更ながら苦笑した。
要もそれに気づき、窓の方を振り返る。
一緒に窓に映る自身を眺める。
「似てるのかもね。僕と要ちゃん」
「そっくり、ですね」
窓には火傷を負った女と、腕を失った男が、映っていた。
10
「はい」
佑は握った手を伸ばした。要は手の中の物を受け取る。
「これは?」
「アトリエの鍵」
しばらく瞬きを繰り返したあと、えええ!と要は飛び上がる。
「なんでなんで、私なんかに」
「今日、ずっと家の前で座って待ってたんでしょ。今は一番寒い時期だし、これからもそんなことあって風邪ひかれたりしたら困るからさ。僕もバイトで遅いときあるし。だからそれ、持ってて」
「いやでも、私一応他人っていうか知らない人っていうか。そんな簡単に渡したりしない方が……」
「え、なに、そんな変なことするつもりなの?」
「そういうことじゃなくて!や、変なこととかしないからね!?」
必死な姿をみて笑ってしまった。
「大丈夫。そういうこと言ってくれる要ちゃんだから、信用してるんだよ」
要は頬を膨らませた。ゆっくり鍵を握りしめる。
「水無瀬さん。詐欺とかすぐ引っかかりそう」
「そういう要ちゃんの方が引っかかったりして」
頭が横にふるふると揺れる。「私はないです!知らない番号から来た電話は出ませんから!」
「えっと、オレオレ詐欺だけが詐欺の全てじゃないからね?」
あっほんとだ。真顔で呟いた要についに吹き出してしまった。
「やっぱり、引っかかりやすいよ」
「改めて言わないでください」両手で顔を覆い隠した。指の間から赤い頬が覗いている。
また、見とれるところだった。要の表情には勝てない。
素早く目線を下に下げた。腕と、足と……。佑は今まで彼女の顔しか見ていなかったのかもしれないと自覚した。よく見たら胸元だけでなく、他にも数えきれないほど痛々しい跡が伺えた。動揺しているのか、佑の目が泳ぐ。
視線に気づいたのか、要はゆっくり手を顔から離した。
「水無瀬さん、見ますか?」
え。何を。
「全部」
そう言って、要は立ち上がった。佑は下から彼女を見上げる。
そのまま、静かにブレザーを脱いだ。リボンを取り、シャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していく。
佑は、ただ見ていた。急な提案に戸惑ったのは事実だが、止めなかった。
彼女の全てを受け入れると誓ったから。
要はシャツを脱ぎ終えた。水色のブラジャーがあらわになった。次にスカートに手を伸ばし、ゆっくりとおろしていく。
やがて下着以外のすべてを脱ぎ終え、要はこちらに目線を合わせた。
その体は、思わず目を瞑ってしまうほど酸鼻を極める光景だった。服で隠れる部分には至る所に火傷、変色した皮膚の色が。屈んだときに目にした背中には、掻き切られたような大きな切り傷が刻まれていた。
佑は立ち上がり、彼女の腕に触れた。なるべく色のないところを、優しく。
「痛い?」
「痛くない、です。今は」
要は触れられた部分に過剰に反応し、身を固まらせた。
もしかしたら今、我慢しているかもしれない。本当は誰にも触れてほしくなかったのかもしれない。
ずっと、苦しい思いをふさぎ込んできたのかもしれない。
「痛かった、よね」
要は唇を千切れそうなほど噛みしめた。
「痛かった」
震える手で佑のシャツを軽くつかみ、顔を埋めていく。
この時初めて、要が佑の前で泣いたのだった。
11
どうしよう。
冷蔵庫を開け、しばらく覗いてから卵を二つ取り出してドアを閉める。
どうしよう。
卵をキッチン台に置き、手を離す。卵が左右にグラグラ揺れた。
気になって何度もちらりちらりと横に目をやる。
いつものベッドには要が眠っていた。
家に、泊めてしまった。
正確にはあの後、泣き止んだ彼女がその場で爆睡してしまって、仕方なく泊めたのだけれど。
「女子高生だし、変な噂にでもなったら……」
「おはよう」
「うわぁあ!お、おはよう」
突然体を起こしたものだから、吃驚して膝を打ち付ける。
要はゆっくりとベッドから降りると、膝を抑える佑のほうへすたすたと歩いてくる。
この子、絶対寝起きいいよな。
「寝ちゃったみたいで、ごめんなさい」
寝起きの虚ろな目で上目づかい。
そんな顔で、謝られたら、
「や、全然!全然大丈夫!」大丈夫じゃなくても言ってしまう。
卵を手で転がしながら話していると、要はそれを見て首をかしげた。
「朝ご飯?何つくるの?」
「うん。た、卵焼き、とか」
「作れるの?」
「いや、えっと」
作れるわけがない。いつもコンビニの惣菜ばかり食べている奴が。
だが今日は要もいることだし、ちゃんとしたご飯を作ったほうがいいのかと思ったが、卵焼きはさすがに勢いでできるものじゃない。
「無理、です。卵焼きは」
弱気な声で呟く佑を見て、要は目の前の卵を手に取った。皿を取り出す。
そこに片手で卵を二つ割り、箸で慣れたようにくるくるとかき混ぜる。
「え、要ちゃん、作れるの?」
「卵焼きは得意ですよ」
砂糖と塩を適量加え、卵焼き用のフライパンを取り出し、火をかけてフライパンに流していく。
要はフライパンを斜めに傾けながら、話し始めた。
「昨日の、痣のことなんですけど」
いま話すのか、と思わず二度見してしまった。要はフライパンの中の卵を目で追っている。
「あの時、水無瀬さんの意見も聞かずに、勝手に見せちゃってごめんなさい」
「いや……」僕は眉を掻いた。
「逆に、ありがとう」
「え?」驚いた様子でこちらを振り返った。
「だって、僕から見たいなんて言えないし、でも、気になっていたから。勇気だして言ってくれたんだよね。ありがとう」
「あれは、ちがうんです」要は手を止めた。
「違う?」
「ただ、私が見せたかっただけなんです」ふう、と息を吐いた。「今まで、誰にも見せたことなかったから。ずっと、隠しながら生きてきたから。でも、水無瀬さんには見てもらいたいって思ったんです。なんでかわからない、ですけど」
「それって、さ」
佑は話を聞きながら、少しにやっとしていた。「要ちゃん、心開いてくれたってことだよね、僕に」
予想外の返しだったのか目を丸くし、すぐに卵に視線を戻した。そして、こくりと頷く。
「じゃぁ、要ちゃんの役に、立ってる?」
彼女は佑を見ると、ふふっと笑った。
火を止め、卵を華麗にひっくり返す。
「もちろん」
新たに皿を取り出して、卵を四角のまま落とす。
「すご、綺麗に四角くなってる」
「泊らせてもらったお礼です。どうぞ」
二人で丸テーブルに炊き立てのご飯と卵焼きを運び、向かい合って座る。
要の見守る中、卵焼きを一口食べる。
「おっおいしい!」
形は崩れていないのに、口に入った途端とろりと溶けだしていく。
その感触と卵のほんのりとした香りが鼻をつき、箸を持つ手が進んだ。
よかったです。と言って微笑んだ要の表情は、どことなく憂いを帯びていた。
そうだ、まだ残っている。彼女に聞きたいこと。だけど、想像はついていた。
どうしてあの傷跡が生まれたのか。
佑は箸で空中を掴んだ。
「親からの虐待、だよね」
佑の唐突な発言に、要は勢いよく顔を上げる。
手から箸が零れ落ち、茶碗に当たってキンッと音を鳴らした。
「ごめん、急に。でも聞いておきたくて。嫌なら答えなくてもいいよ」
要は諦めたように目を細める。「わかってたん、ですね」
「なんとなくだけどね。わかりやすい場所には傷つけないようにしてるとことか見ると、そうかなって思った。顔、とかさ」
「そっか」落ちた箸を拾いながら、頷く。
「お母さんは?」
体がビクッと反応するのがわかった。「家、です」
「お父さん、は?」
今度は反応しなかったが、代わりに手の震えが始まった。
唇も青ざめ乾ききっていた。
彼は要の震える手に自分の手を重ねた。
反射的にまた要が顔を上げる。
「嫌なら、言わなくても……」
「刑務所です」遮るようにボソッと言ったのが聞こえた。
やっぱり彼女の家を見つけたあの時、家から出てきた男は父親ではなかった。
「でも、なんで捕まってるの?要ちゃん、虐待のこと誰にも言ってないんだよね?」
要は、手首に爪をくいこませる。「あいつは、人を、殺したんです」
思いもよらない事実に声が出ず、一瞬たじろいだ。
「あ、あいつは、小さい頃から、暴力をふるう人だったんです。特に、酒を飲むと余計に暴れだして。私と母を殴るのは、習慣になってました。それで、私が小学校の時、あいつはまた酒を飲んで、酔った勢いで、人を殺した」
要は父親のことを「あいつ」と呼んでいるらしい。
それにしても、小学生までの間でこれだけの傷を作るなんて。
「わかった。朝からこんな話ごめんね、ありがとう」
重ねていただけの手が、急に繋ぐような形になった。
要が、縋るように佑の手を握ったのだ。
彼もそれに応えるように、優しく握り返した。
要の青ざめた顔は、消えなかった。
12
学校へ要を送り出し、佑は一人、広いアトリエの天井を見つめ悶々としていた。
彼女が心を開いてくれたことには内心飛び跳ねるほどの喜びを感じていたが、実際に痣に触れ、その背景を知って鉄砲で撃たれたような衝撃と胸苦しさを覚えた。
今でも痛みに堪えたようなあの表情は頭にこびりついて離れない。
その姿を目の当たりにしても、あの場でなんの上手い返しもしてあげられない自分はなんて無力なのだろうと悟った。
改めて自分に問う。要ちゃんのために、僕が今できることはなんだろう。
正直、一つしか思いつかなかった。
自分にしかできなくて、彼女が絶対に喜んでくれることなんて。
それはもうずっと前からわかっていたことだ。
今更必要ないからとか、そんな言い訳もうしなくてもいいかもしれない。
傷を癒す時間は充分にあった。立ち直る時間は充分にあった。
そろそろ僕は、変わってもいいのではないか。
腰を上げ、棚の上のコーヒーの空き瓶に入れられた筆を手に取った。
久しぶりの感触に背筋が伸びた。
息を吸い、ゆっくりと鉛筆を持つ形で固定させる。
そのまま空で、イメージのまま筆を動かした。頭の中では、それらはきれいな線を描いていた。
今なら、変われる気がする。
即座にアトリエの中を漁り、白いキャンパスを探した。描けるものなら何でもよかった。
夢中で探しているとき、彼の目を止めた絵があった。
これなら、この絵なら描ける。描いて見せる。
引き出しから大量の絵の具を出し切り、パレットの上に全部開けた。
対象の絵を床に置いて筆の入った缶で絵の端を固定する。
そしてまた、先ほどの筆を指にセットした。
人の絵に自分の絵を重ねることなんて初めてだった。
いくら知らない人の絵とはいえ、こんなにも緊張するものなのか。いや、単に久しぶりに描くからだろうか。
どちらにしても、最初の一筆がどうしても描けない。
イメージはできているのに、手が、腕が、震えていた。
その格好のまま、三十分ほどが経っていた。彼の頭の中は、要でいっぱいだった。でも、頭の中の要はどうしても、笑顔とは真逆の顔ばかりしていた。
要は今、変わろうとしている。彼女はつたないながらも虐待のことをすべて話してくれた。会わなくなった五日間、相当悩みぬいたのかもしれない。
これからも彼女と一緒にいるのなら、安逸をむさぼっているわけにはいかない。ここで変わらなければまたあんな顔をさせてしまう。
僕はもっと、要ちゃんの笑顔がみたい。
佑は左手に渾身の力を込めた。震えを止めてくれる右手などない。
「動け動け動け動け動け動け動け動け!」
左手に、思い切り叫ぶ。
「怖くない。怖くないから。この絵は、この絵だけは!」
徐々に、筆は絵に近づいた。震えは止まらなかった。それでも必死で、前へ動かした。
最初の一筆は、大量の涙を流しながらだった。
13
アトリエのドアが開けられるまで、時刻が夜の七時であることに気付かなかった。
ぐちゃぐちゃした周りの物をぱぱっと片づけて、玄関に駆け寄る。
すぐ目の前には、息を切らし慌てた様子の要が立っていた。
どうかしたのか、訊こうとした佑よりも早く、要は口を開いた。
「あの、電話、電話貸してください。家の、壊れちゃって」ずいぶん早口だった。
「でっ電話?いいけど……携帯でも大丈夫?」
要は大きく頷く。尻ポケットからそれを取り出すと、要はすみません、と小さく断ってからボタンを操作し、すぐさま電話を掛けた。
なにがなんだかわからないが、とにかく手招きして暖房の効いた中に入れた。
要はずっと深刻そうな表情で携帯を耳にあてている。
やがて繋がると、これまた早口でまくし立てた。
「慶台七丁目五‐二の梨谷って家です。はい、家の中でです。母親です。四十五です。床に倒れて動かないんです。呼吸……してたと思います。……あっ今電話借りてて、お願いします。はい……わかりました」
電話を終了させ、携帯を渡される。
「ありがとうございました。今日はこのまま帰ります」
「お母さん、倒れたの」
要は小さく頷いた。佑は迷わずドアを開け放ち、共に外に出る。
コートすら羽織っていないトレーナーに風が吹き込まれる。
「一緒に行ってもいい?」
「走るけど……大丈夫ですか」
おそらく佑の体力を気にしてだろうが、彼は思い切り首を縦に振った。
二人で佑の家暗い路面を蹴って走り出した。
予想はしていたが、梨谷家の前に付いた時点で体力は想像以上に擦り切れていた。ガクガクの足を抑え、乱れた息を整える。案内された家は前にも見たことのある、住宅街に立ち並ぶ家の一つだった。
要はその中へ入っていた。その後から追って入る。
一礼してリビングを開けた先の、異様な光景に思わず顔を背けた。大量のごみが床に敷き詰められるかのように散らばっていたのだ。開けたドアも若干重かったように感じる。
そしてその中心には、要の母と思われる人物が横たわり、目を閉じていた。要はその傍に寄り、呼吸の有無を確かめている。しばらくしてからこちらを振り返った。表情から察するに息はあるようだ。
数分間、二人で声をかけ続け待っていると、サイレンの音が住宅街に到達した。二人で立ち上がり、玄関を開けて外を覗く。次第に音は近づき、家の前で止まった。要の母は運ばれ、要と救急隊員が二、三言葉を交わすと、そのまま救急車は病院の方へ走り去っていった。
「乗らなくてよかったの?」
「私が行っても、なにもできないので」
「そんなこと……」
「明日、様子を見に行きます。今日はゆっくり休みます」
そっか、と言って彼女の自宅を見上げる。
この広い家に女の子を一人で住ませていいものか、ふと心配になった。
「一人で、平気?」
要は顔をあげた。だがすぐに視線を反らし、辺りに彷徨わせている。
その目には不安の色が浮かんでいた。
当たり前だろう。
急に一人になる寂しさなら、佑だって充分に知っている。
「泊まる?僕の家」
いえっ、思い切り頭を振った。
「ま、前にも泊らせてもらったので、まただと、迷惑なので」
「僕は迷惑なんて思ってないよ。というかむしろ、要ちゃんがいたほうが安心するんだよね。なんていうか、僕も寂しい……のかな」
「寂しい……」小さな声で復唱する。
判断に迷う要の手を取った。重なった手は、冷たさを増す。
「だから、要ちゃんに来てほしい」
はっきりと、口にした。こうでも言わないと要は来てくれないと思ったのだ。
実際に来てほしいので、心から自然に言うことができた。
要は一度渋ったが、やがてその手を握り返し、大きく頷いた。
「お世話になります」
「前なんて料理も作ってもらったし、お世話になるのはむしろ僕のほうかも」
「また、卵焼き作りますよ」
「本当に?やった」
なんとなく自然にお互い手を離す。
常夜灯で照らされたアスファルトの上を、二つの影が静かに歩いた。
「電気消していい?」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
部屋が暗闇に包まれた。
ソファに横になり、分厚い布団の中に潜り込む。
家電の音がジーっと一定の感覚でぼやく。
ぎゅっと目を瞑るが、いつまでたっても夢に移ってはくれなかった。仕方なく目を開ける。
昼間、久しぶりに絵を描いたおかげで体が妙な脱力感に襲われた。
普段左手で生活しているから疲れることなんてそうそうないだろうと高を括っていたが、必要以上に力をいれて描いたからか、痺れるような痛みがなかなか消えない。右手と思い比べて白く、守られてきた左手を顔の前に翳し、苦く笑った。
左手に筆を握らせたときの感触が慣れていないせいか、描いている最中はどうしても気持ち悪くてしょうがなかった。
違和感だらけのまま描いた絵は果たして上手くいくのかと不安の気持ちでいっぱいだった。
思いのまま筆を動かせないこともまたストレスを生んだ。
まだ『奇跡の右手』の感覚を思い出せない。
布団の中に左手をしまい、また小さくため息をついた。
「水無瀬さん、起きてるんですか?」
唐突に発せられた暗闇からの声に返事をする。
「あぁ。要ちゃんも、起きてたんだね」
「寝れなくて」
「僕も一緒」
お互いの顔が見えるくらいまで薄く照明をつけ、要の寝るベッドの方に体を傾ける。
要は仰向けのまま、静かに呟いた。
「私これから、どうなるんでしょう」
そのか細い声には悲しげな色が混じっているように感じた。
佑は今日の一連の出来事を思い浮かべる。
「お母さんが帰って来なかったらとか、考えてる?」
「そうですね、考えちゃいます。そうしたら、私は本当に一人になってしまうんじゃないかって。あんな人がいなくなったところで、一人になったところで全然怖くないはずなのに、なのに……」
だんだんと消えていく声に、佑はおのずと昔の自分を重ね合わせていた。
「僕も中学で事故に遭って、急に両親を亡くしたから毎日明日が不安で仕方なかった」
自然に語りだし、自身でも吃驚する。
要は顔だけをこちらに向け、続きを待っている。
佑は軽く息を吸い、想いのままを口にした。
「ばあちゃんに引き取られただけ僕はマシだったと思うけど、それでも環境が変わってやっぱり戸惑ったよ。最初の頃はずっと部屋に閉じこもってたしね。あっ、でもそうだ!その時さ、毎日脅えてばっかで、明日が来るのが嫌で嫌で仕方なかった僕に、ばあちゃんがあるおまじないを教えてくれたんだ」
「おまじない?」
要は体もこちらに向けて、興味深そうに聞いた。
「そう。僕が絵を描いていたから、ばあちゃんはこれを思いついたんだろうけど」
「うん」
「明日の笑顔を描いてみろ、って」
「明日の、笑顔を描く……?」
ゆっくりと頷く。
「紙がないときは、指で宙に描いてもいいよ。絵文字みたいな簡単な絵でもいい。明日、すっごく楽しんでる自分の笑顔を想像して描いてみるんだ」
「明日の笑顔……私の笑顔……」
「毎日これをやり始めてから、僕もちょっとずつ笑えるようになったんだ。“明日”これだけ笑えてるんだって思うと、“今日”も頑張れるからさ」
要は自分の明日の姿を想像するように虚空を仰いだ。
かと思うと、ふふっと笑みをこぼした。
「なんだか、可愛らしいおまじないですね」
「効果ありそうでしょ」
「はい」
「なんなら、今二人で描いてみる?」
「いいですね!私も、明日は笑顔をみたいです」
「うん、僕もみたい」
二人で人差し指を空に向け、思い思いの笑顔を残した。
久しぶりに描いた佑の明日の笑顔は、皺くちゃになるくらい楽しさに満ちたものだった。
描き終わって指を離す。要の姿が再び瞳に映った。
なんだか照れくさくて、顔を見合わせてお互いに笑った。
「明日が、楽しみになってきました」
「ほんと?」
「はい。これからのことだって、今悩んでも意味ないですよね!……それに私は、一人じゃないです」
要がふとこちらを見つめた。佑も見つめ返し、優しく微笑みかける。
「うん。僕たちは、一人じゃない」
温かい空気に包まれながら、二人は深く眠りに付いた。
佑は夢に連れて行かれる前に、心の中でお願いをした。
明日は二人で、いい笑顔がみれますように。
14
「水無瀬さん」
頭上から降りかかった声に目を覚ます。体が陰で覆われた。
「ご飯、できました」
えっ、とソファから体を起こす。気づけば部屋中が美味しそうな匂いで満ちていた。
丸テーブルの上には、ご飯と、味噌汁、卵焼き、焼いたサバが綺麗に配置されていた。
まさに家庭科の教科書にお手本として乗っているような和食の朝ご飯だった。
「早く起きて、作ってくれたの?」
「泊らせてもらってるので当然です。食材は朝買い揃えてきました。あと、私が早く起きたんじゃなくて、水無瀬さんが遅かっただけですよ」
「え、いま何時?」
「八時です。私はもう学校に行くので、後片付けはよろしくお願いします」
気づけば要はすでに制服姿にマフラーを身に着けていた。
そうか、高校生からすれば八時は遅い方なのか。
「わかった、ありがとう。気を付けてね」
「こちらこそ。……あ、今日は病院に行ってからなので、ここに来るのは少し遅くなると思います」
「うん。いってらっしゃい」
「いってきます」
ドアを開けて外へ飛び出した要の背中は、どことなく緊張しているように見えた。
見送ってから目の前の卵焼きに手を伸ばす。
その味は相変わらずの美味しさで、彼は部屋で一人、頬を垂らして笑みを浮かべた。
バスに揺られながら、要は昨日の出来事について思い起こしていた。
もちろん、千賀子が倒れた場面だ。
以前のようにアトリエに行く前に家に寄ると、一人の男が要の家から飛び出してきた。
要は吃驚して身を縮めるが、男は要の存在を認めると、歩み寄ってきた。
「君、あの女の子供だよな。ちょっと、あいつやばいから、なんとかして。俺は関係ねェから!」
要の家を親指で示しながら、慌てた様子で言った。そのまま駆け足で要を残して立ち去った。
このときはまだ、男の言っていることがよくわからなかった。
首を傾げ、とりあえず中へ入り急ぎ足で廊下を抜ける。
先ほどの慌てた様子が頭の中で繰り返される。
嫌な予感がした。
恐る恐る戸を開けてリビングを覗く。
要の視界には、血を吐いて今にも倒れそうな千賀子が映った。
その光景に思わず目を見張る。
千賀子の弱った姿なんて、人生で初めて見た。
要は動けなかった。
痛みに耐える千賀子を目で捉えたまま、じっと見つめていた。
このまま何もしなければ、この人は死ぬのかな。
頭をよぎった考えに、自分自身でぞっとした。
すぐに頭を横に振り、固定電話から救急車を呼ぶ。耳にあてていくら待っても、無音が続くばかりだった。画面に目を落とす。何も表示していなかった。壊れているようだ。
諦めて受話器を戻し、再び千賀子に目をやる。
このまま見放すだけで人を一人殺してしまえることに気付いた。
何でこんなこと気づいてしまったの?
何でこんな考えばかり浮かぶの?
千賀子はついに背中から倒れこみ、床の上で蠢き、低い声を上げた。
それはまるで、昔の自分を見ているようだった。
あいつに殴られのたうち回る、芋虫みたいな私。
要は短く発狂した。
ちがう、ちがう、ちがう、私はあいつとはちがう、人殺しのあいつとはちがう、私は普通なの、あいつが狂っているだけ、私は普通、普通なら、普通なら助けなきゃ。でも電話は使えない、どうしたらいい、どうする、どうすれば、この人を助けられる?
ふと、彼の顔が頭の中に現れた。
「水無瀬さん……」
気づけば要は、地面を蹴って走り出していた。
彼はとても優しかった。突然電話を貸してくれと言った要にもすぐに応じ、様子を見に家までついてきてくれた。そんな彼に家の事情を見られることがなにより恥ずかしくてたまらなかった。思い切りスカートの裾を握りしめる。
二人で家に戻り、今度は千賀子の元に寄った。
軽く息を吐き出せるだけで、すでに体は動かせないようだった。
やがて救急車のサイレンが耳に届く。佑のあとについて要も様子を確認しようと立ちあがった。
瞬間、違和感を感じて千賀子を見返す。
千賀子は要の靴下をつまみ、引っ張っていた。
要は思わず二度見する。この人らしからぬ行動だったからだ。
千賀子の口が動く。要は聞き取れず再びしゃがみ、その口に耳を近づけた。
ありがとう。
額に汗を垂らしながら、苦悶の表情で囁いた。
要は目を見開いて立ち上がる。そのままふらふらと佑のあとに続いた。
病院の人からいろいろと話しかけられたが、頭の整理ができずに何度も聞き返す羽目になった。
なんだったのだろう、今のは。
心にもやもやを残したまま、救急車は走り去った――
「終点ですよ」
バスの車掌に声をかけられ、慌てて降りる。
見上げるほどの大きな病院に肩をすぼめて入った。
受付で名前を告げると、すぐに目的の病室まで案内してくれた。
ドアの取っ手に手をかける。
ごくりと唾を飲み込み、呼吸を整えてから、重い扉をゆっくりと引いた。
15
玄関先で立ち尽くす要は、うつむいて浮かない表情をしていた。
「どうしたの、大丈夫?」
少しだけ首が下がった。おそらくうなずいたのだろう。
「そっか。とりあえず入りなよ、寒かったでしょ」
だが要は動かなかった。何度もごくりと喉を鳴らしている。やがて拳を握りしめ、深く頭を下げた。
「今日も、ここに泊めさせてください」
やはり要は泊まることに申し訳なさを感じているようだ。佑は憂心を取り去ろうと、彼女の肩に手をあてしっかりと頷いてみせた。そのまま腕を取り、中に誘導する。要は力を抜いているのか、軽く引いただけであっさりとついてきた。
特に気にせず普段通り今日の出来事を話してみるが、どこか上の空の様子の彼女はひどく気になった。
要の顔を覗き込む。「なにが、あったの?」
はっとしたように佑に顔を向ける。少し間を開けたのち、「ちょっと、母のことで」と乾いた声をだした。
「僕が訊いてもいい?」
思い惑って少しの間要は口を閉ざしたが、咳払いをひとつすると落ち着いて話し始めた。
「母が、長期入院することになったみたいです。この間倒れたときの件では大きな異常はなかったみたいなんですけど、昔から睡眠薬に依存していたみたいで、この機会に本格的に治療するみたいです……あ、でも、そのことは全然気にしてません。そうじゃなくて」
要はこちらに体ごと向き直った。
「さっき、あの人の入院してる姿を見たんです。いろんな機械で繋がれてるとこ」
下唇は血が滲みそうなくらいきつく結ばれていた。
「母のことも殺したいほど憎んでたのに、あんな弱ってる姿見せられただけで私、泣きそうになってしまった。悔しい」
「それで赤かったんだね、目」
見られてしまった、とでもいうように、要は顔を手で覆いだした。
目どころか、鼻や口までも隠れてしまった。その状態のまま言葉を投げる。
「え、やっぱり、わかる?」
「うん、ちょっとだけ充血してると思う」目の前にいる要の顔を思い出しながら答えたから曖昧な返事になってしまった。
「そっか」
ゆっくりと手を離した。
赤がかった目が佑を見る。
「こんなのすぐ消したい」と呟いた。
彼は思い立って台所に向かった。
冷蔵庫から取り出した保冷剤を、綺麗なタオルでくるんで要のもとに戻る。
「これ、効果あるかも。座ったままでいいから上向いて。目閉じて」
不思議そうにそれを見つめたが、指示に従って上を向いてぎゅっと目を瞑った。
頭を軽くベッドに置く。
手の中でひんやりと冷たくなっていくタオルを、彼はそっと要の瞼の上に重ねた。
冷たかったのか体を少しだけ縮こませていた。
佑はその隣に座り、様子を窺う。
親への愛情の証のような赤い目に過剰に反応するのはわかる気がした。
虐待を受ける子供ほど親を庇い、執着するとどこかで聞いたことがあった。
要は自分が親に少なくとも情があると知ってしまって、自身で葛藤している最中なのかもしれない。
そして両親に愛されず、両親を素直に愛することもできないと知った子供はどう思うだろうか。
佑がその立場なら、自分の存在意義を疑うと考えた。自分が生きている意味なんてあるのかと。
もちろんこれは自虐的な考えしかできない彼だからこそ思うことで、要も同じ考えだという可能性はむしろ低い。
だが要にどうしても、佑にとっては生きる支えになっていることを伝えたかった。
「要ちゃんさ、公園で拾った僕の絵、今日も持ってきてるの?」
急な質問に要は一瞬焦った様子を見せたが、すぐに元に戻ると「今日も、というか、私はいつも鞄に入れてますよ。忘れたことなんてないです」と言った。
目にタオルを当てたまま答えた。
ちょっとだけ口角が上がったように見える。
聞くと通学バックの中に入っているというので、許可をもらって中から見慣れた絵を取り出した。
再び要の隣に腰を下ろす。
「こんなこと言ったらがっかりされるかもだけど、僕は要ちゃんがずっと大事に持ってるこの絵、大嫌いなんだ」
何か言おうとしていた要の口がピクッと止まった。
彼は目線を絵だけに集中し、気づかないふりをして続けた。
「最近になって、どうしてこんなに嫌っているのかわかった。上手く描けなかったからって言うのもあるけど、その絵は、賞が取れなかったなんだ。審査員が嫌いだから、僕も嫌っていた。ずっと賞を取ることがすべてだと思ってたから」
でも、と言って目隠しされた要を見る。
「誰にも共感されなかった自分の絵に感動して、ずっと持っていてくれる人が一人だけでもいることが、こんなに嬉しいことだなんて知らなかったんだ」
要はごくりと喉を鳴らした。
佑は絵の具が乗った、ざらざらとした表面を優しく撫でた。
「要ちゃんがいれば、僕はずっとこの絵が好きでいられるんだ。だから、さ」
今から告白でもするような緊張感を覚えた。
汗が溜まってシャツが気持ち悪かった。
この後沈黙がおそらく三十秒ほど続いていた。ようやく息を吸って決意を固めた時、
「水無瀬さん」
声がかかった。
突然呼ばれて思わず肩が上下に跳ねる。
はい、と言って要の方に首を回す。その口元には笑みが浮かんでいた。
「私はどんなことがあっても、ずっと水無瀬さんの隣にいたいです」
思いがけない展開に、頭が追いつかなかった。
まさに今言おうと思っていたことを先走りされるとは。
彼女は佑が思っていたよりもずっと、強かったのかもしれない。
「私も、あの絵だけじゃなくて水無瀬さん本人にも何度も助けられてるから。水無瀬さんは、どうですか?」
主導権を握られてしまった。正直に答えるしかない。
「隣に、いてほしい」改めて言うと結構照れくさい。
彼女の勇気に尊敬する。
要は隣で一息つくと、置いていたタオルを外して体を起こした。
「ありがとう」
タオルを受け取り、再び要の顔を見る。
目はまだ赤かった。というより、なぜか悪化しているように見える。
「お風呂借ります」
そしてそのまま風呂場まで直進した。
ドアを閉める時、隙間から覗いた紅潮した頬と嬉しそうな表情をみた佑は、たぶん今までで一番心臓が激しく揺れていた。
手渡されたタオルを眺める。若干、濡れた後があった。
氷、溶けたのかな。
16
「こんど四谷先生くるんだ?」
これから遊ぶ友達がなかなか来なくて暇だという宏斗の我儘で、夜の十一時だというのになんの予告もなく電話がかかってきた。
隣で要が寝ているので、声を抑えてアトリエに移動する。電気はつけないことにした。
アトリエに通じるガラス扉から透けた、隣室で薄く光るオレンジの常夜灯だけが頼りだ。
それにしても、四谷先生は各アーティストの中でもトップクラスの画家だ。そんな先生が普通に講師としてやってくるなんて、岩城大学じゃなきゃ実現できないだろう。
「あぁ、基本は美術学科の生徒が対象なんだけど、他の学科の生徒も見てもらえるみたい。ま、もうお前には関係ないかもしれないけど報告まで」
「そっか。ありがとう」
「おう。まぁそれより、あの子は元気にしてるか?」
「え、要ちゃんのこと?」隣の部屋を振りかえった。
「うん、今は落ち着いてると思う」
「ならいいけど。春にもその話した時、心配してたから」
「え、誰?」どこかで聞いたような名前だが。
「この前大学行った時会っただろ。俺の……」
そこまで聞いたところで頭の片隅に眠っていた記憶が引き出された。「宏斗のカノジョか!」
宏斗に無理やり大学まで連れて行かれた時、たまたま通りかかった春を紹介されたのだ。テンションが異様に高かったから宏斗と合いそうだと自然に思った。
「いや彼女じゃねぇっつーの!」
携帯の画面が割れそうなぐらい叫ばれた。即座に耳から離し、一呼吸置いてから元に戻す。
「でも幼なじみなんでしょ」
「幼なじみイコール彼女ではない」
さすがにさっきの声量は気が引けたのか、声が少し小さくなった。
「じゃぁ春さんにも伝えといてくれる?」
「おう」
後ろでかちゃりと音が鳴った。振り返るとパジャマのまま要がアトリエに来ていた。
「あ、要ちゃん」
携帯に声をかけた。「また掛けるね」
わかった、という宏斗の声を聞いてから電話を切った。蓋を閉じてズボンのポケットに押し込む。
「ごめん、声大きかったよね。起こしちゃった?」
「いや、寝れなくて」丸めた手で目を擦っている。
「そっか」
「ちょっとだけ、絵見てもいい?」
彼は頷いて、電気をつけた。要はトロンとした目で絵を眺めている。
四谷先生かぁ。ずっと会いたくて会いたくてたまらない画家の一人ではあったが、今更なにを話せばいいのか。
自身の絵なんか持っていければいいのだけれど。
夢中で考え事をしている間、要は座り込んでアトリエの端に立てかけられていた一枚の絵を手に取った。
「あれ、これって……」じっと絵を見つめたまま固まってしまった。
「ん?」現実に戻り、要の手元の絵を覗いた途端、顔じゅうが青褪めるのが分かった。
「あっそれはまだっ……」
「え?」
絵の前に覆い被さるが、もちろんすでに絵を見ていた要には遅かった。
「見られた……」
はぁ、と盛大にため息がこぼれる。佑が必死に隠そうとした絵に、要はぽかりと口を開け広げ目を丸くしていた。
一本の花だけが描かれ、悲しそうに捨てられていたあの絵に、にこやかな表情で水やりをする要が描かれていたからだ。
「これ、拾った絵。しかも、水無瀬さんが言ってたアイデア」
「あの、ホントはもっと細かい所とか描いてから見せようかと……」
彼の苦しい言い訳は、要にはあまり聞こえていないようだった。
ようやく絵から目を離したかと思うと、
「水無瀬さん……描いたんですか」小さな声をこぼした。
目を大きく見開き、佑の回答を待っている。
要がどう感じているのか、それを訊くのが死ぬほど怖くて声が震えた。
「う、うん」
肯定を示すのとほぼ同時に、要の右目からは涙が零れ落ちた。佑はぎょっと驚き、咄嗟に立ち上がった。
ハンカチを持ってこようかどうしようか焦っておろおろしていると、かすかに笑う声が聞こえた。
要は、頬に涙を流したまま柔和な笑顔を浮かべていた。
「ありがとう」
久しぶりに絵を描いた感想だが、「僕はこの絵を描いてよかった」と、ただその一言に尽きた。
賞を取った時よりも何倍も、この日ほど隠しきれない笑みを垂らしたことはないだろう。
よく見てみればいびつな箇所がいくつも目に付く。他の絵と比べれば一目瞭然だ。
でも、佑が描いたということに感動して泣いてくれる彼女を見たら、そんなこともうどうでもよくなっていた。
佑も、彼女の笑顔ただひとつで溺れるほどに満ち足りていた。
今までの疲れがようやく抜けた気がする。ふぅう、と長く息をつき、床にしゃがみこんだ。
「頑張って、よかった」
要はすかさず佑の隣に座った。先ほどの絵を掲げる。
「よかった、です!」
要の子供のような無邪気な笑顔は滅多に見ない。
佑はその貴重な光景を時間の許すかぎり眺め続けていた。
「あぁ、でもほんとは、要ちゃんに誕生日聞いてから渡したかったな」
まぁいっか、と笑っていると、要はたちまち飛び上がり、興奮気味に佑の腕を取った。
「み、水無瀬さん!私明日っ」
要の声を遮るように、ボーンと低い音がアトリエに響いた。お互いに音のする方を見上げる。
「いや。今日、誕生日です」
小さな掛け時計は、十二時を指し示していた。
彼らは反射的にお互いを見合った。
「え、うそ。ほんとに?」
「うん」徐々に要はにんまりとした顔をした。
佑もたちまち口元が緩んでいく。
「これ、偶然ですか?」
「偶然に決まってるじゃん。あ、じゃぁちょっと待ってて」
さっと立ち上がり、隣の部屋から蝋燭と小さな皿、ライターを取って戻った。隣の部屋の電気を完全に消し、再び要の前に戻る。
「えっ何で消すんですか?」
完全に真っ暗になったアトリエで声を上げた。
いいからいいからと言って、皿の上に蝋燭をのせ、ライターをつけたものを要の前に置く。
小さな蝋燭は微力ながらも、お互いの顔を照らす程度に輝いた。
「これって」
「簡単なものになっちゃったけど、はい」
佑の顔を見つめながら、要はごくりと喉を鳴らす。
「お誕生日おめでとう」
ずっとずっと、その言葉を待っていたかのように、みるみると目に涙を溜めだしたのがわかった。
それは今にも流れ出しそうだった。
「また泣くの?」
「な、泣かないよ!」
「でも泣きそう」要の顔を覗いた。
「なんでそんなこと……」
「見えてる、けど」
言われて要は顔を上げ、佑にチラリと目を向けると、得意げに蝋燭の火を吹き消した。
「あっ」
気づいて声を出した時にはすでに、辺りは暗闇に包まれていた。
暗闇の中から、要がくすくす笑う声が聞こえてきた。つられて佑も笑いだす。
目が慣れてきた後も、しばらく笑い続けていた。
途中で要がその場で寝転がったので、彼も真似して横になった。
お互い散々笑い終え、アトリエが静かになったところで要は言った。
「水無瀬さん」
「ん?」
寝たまま、彼女の方を振り向く。
「昨日のおまじない、今頃効果が出ちゃいましたね」
「そうだね、ちょっと調子が悪いのかな」
要はふふっと笑った。
「私、誕生日とか祝ってもらったの初めてで。だから今、最高に幸せです!」
暗闇で表情までは見えないが、彼女は今、笑顔で話しているだろう。
なんとなく雰囲気でわかる。
「それはよかった」
要は大きく頷くと、ありがとうと小さく呟いてそのまま眠ってしまった。
すぐに寝息が聞こえてくる。
佑の絵を大事そうに抱きしめながら眠る要の隣で、彼もゆっくりと目を閉じた。
17
「予定、ですか?」
卵焼きの前で箸を止めた。
「うん。学校が終わった後でいいんだけど。できたらお祝いしたいじゃん」
要が取ろうとしていた卵焼きをよけて、横の漬物を頬張る。
枕がなかったからか、床で寝たからか、お互い寝癖がついていた。
「お祝い……」もう一度唱えた後、照れくさそうに顔を上げた。「空いてます、放課後」
「よかった。じゃぁやりたいこととかある?せっかくの誕生日だから、遠慮しなくていいよ」
あくびをしていた口をすぐに閉じ、要は卵焼きを見つめたまま頬杖をついた。
同じ姿勢のまましばらく唸っていたかと思うと、ぱっと顔をあげる。
「じゃぁ、神良駅前で集合でもいいですか?」
神良駅は佑の家の最寄駅から二駅越したところにある駅だ。
ビルが立ち並び、人通りも多いから、佑は滅多に行かない。
ただ、若者向けのファッション店が豊富だから、高校生には人気なのだろう。
「わかった。でも私服で来てね」もちろん、変に疑われないためだ。
要は快くうなずき、残しておいた卵焼きをすべて平らげてしまった。
食器を片づけ、鼻歌を唄いながら制服のリボンを整えている。
やけに楽しそうだ。
提案した当人は言うまでもなく楽しみにしていた。
午前中、うずうず待ってるわけにもいかないので、今日は大学に行くことにした。
宏斗にメールを送ると、すでに講堂で待機しているらしかった。
最初からそこに向かう。宏斗を見つけて駆け寄ると、背後からぴょこっと頭が覗いた。
「こんにちは!水無瀬くん!」
宏斗のカノ……幼なじみの春さんだ。
「こんにちは。今日は一緒なんだね」
言うや否や、春はプレゼントをもらったかのように声を弾ませる。「そうなの!だって水無瀬くん、今日要ちゃんって子とデートなんでしょ?気になっちゃって」
来ちゃった、と言ってくるくると巻かれた長い髪を耳にかける。
「え、なんで知ってるんですか。ていうか、一緒に出掛けるとはメールに書いたけど、デートとは一言も書いてない」
「俺が教えたに決まってんだろ」当然のような顔をして宏斗は語りだす。
「お前なぁ、女子高生とはいえ女の子と外出するってことは、イコールデートなんだよ!」
そのイコールは違うと思う。
「違わねぇ!神良まで行くんだろ?女の子が好きそうなものとか知っといたほうがいいと思ってな。そのために春呼んできたんだよ。俺ってすごくいい友達だと思わないか」
短時間でこんなセッティングまでしてると思わなかった。
最後の一言は余計だったが、確かに何も知らないまま不慣れなところに行くのは不安かもしれない。
素直に二人に従った。
春は神良のファッションショップやら雑貨屋やら合わせると三十ほどの店をリストアップし、佑に紹介した。
彼はそれらをすべてメモに起こし、講義後の空いた時間でできる限り店の位置を把握した。
少し張り切りすぎなのではないかと恥ずかしくなるが、要の年に一度の誕生日のためだと思えばそんな考えもすぐに消えた。
18
神良駅に来る人は、ほとんどが制服姿の中高生ばかりだった。
慣れない人の波から逃れ一息つく。駅の時計塔を見上げた。
午後四時二十分。
無事に十分前に辿り着いたようだ。
ほっと胸を撫でおろし、改めて今日の服装に目を落とす。
相変わらず紺のトレーナーにパンツ、ダッフルコートという無難な格好に思わず苦笑した。
実は一時間ほど悩んだ結果なのだということは秘密にしておく。
駅前のシンボルである大きな木の下で待っていると、ショルダーバックを揺らし要が現れた。白いニットに合わせた落ち着いたロングスカートがふんわり膨らむ。
佑の姿を認めると、小走りで駆け寄った。
「待ちました?」
風で崩れた前髪を整えながら尋ねる。首を横に振ると、要は安心したように肩をすとんと落とした。
首筋に一筋の汗が光っている。急いできたのかもしれない。
とりあえず当てもなく歩いていると、彼女は元気よく今日の目的を発表した。
「水無瀬さん。今日は、食べ歩きがしたいです!」
「食べ歩き?」若者向けの服屋を主に教えてもらっていたので、意表を突かれた。
要は思い切り首を縦に振った。
「神良なら今どきの、美味しい食べ物いっぱいあるかなって思ったんですけど、どうですか?」
もちろん調べは少ないが、美味しいお店はいくつか記憶している。佑もそれに賛成した。
「どこから行く?」
あたりを見回していると、どこからか香ばしい匂いがただよってきた。二人で鼻をひくつかせる。
その正体がわかると、要は佑のシャツの裾を軽くひっぱった。
「あ、あんぱんだ!食べたい!」目が輝いていた。
「おお、あれ有名なお店じゃん」
「そうなの?」
少し得意げに頷く。確か神良のグルメランキングで三位以内に入っていたお店だ。
「へええ、詳しい。じゃぁ行こ!」
そういうと、要は裾から手を離し、彼の左手をしっかりと握って連れて行った。
握られた手が、熱い。
列に並んであんぱんを購入し、食べながらクレープやスイートポテトなど、目に付いたものを次々に買って行った。途中、美味しそうなフラペチーノを買ったので、二人でベンチに座って飲むことにした。
要は一口飲むと、「美味しい~!」と感嘆の声を上げた。佑も飲んでみる。上に乗せられた生クリームは甘すぎるんじゃないかと思っていたが、それがいい具合に溶け込んでストローに入り込む。予想より遥かに美味しいものだった。口の中でほんのり甘みが広がる。
「水無瀬さんのはチョコ?」
「うん。要ちゃんのは抹茶なんだね」
コクリ、とうなずく。「チョコ、飲んでみたい」
「あ、じゃぁ交換する?」
「する!」
交換するとすぐに要はチョコをするすると飲んでいく。あれ、そういえば。
「あ」
思わず出た声に、彼女は飲みながら、ん?と首をかしげる。
「あ、いや……美味しい?」
聞くと口角を上げ、「うん、美味しい!」と言った。
「それなら、よかった」
動揺が表に出そうで焦った。これは俗にいう関節キスになっているのだが、まだそんなことは気付いていないようだ。ストローを交換するのを忘れていた。
気持ちを落ち着かせようとする最中、要はさらに追い打ちをかけるように言った。
「水無瀬さん飲まないんですか?」
気づいた後に飲むことはどれだけ恥ずかしい行為だろう。
だがこれは打ち明けるよりもお互い気づかなかったという状態で終わらせた方がいいのではないかという結論に自分の中で至り、彼は気にしない気にしないと頭でリピートさせながらストローに口を付けた。
要は感想を聞こうと飲む瞬間を眺めていた。佑の中では「気にしない」から次第に「美味しい」のほうが膨らんでいく。
「ん、こっちもすごく美味しい!」
瞬時に振り向くと、要はなぜかフリーズしていた。
「要、ちゃん?」
「なん。でも、ない!」
「え?」
なんども下を向いて瞬きをした後、わざとのように遠くの方にきょろきょろと目を配りだした。明らかに様子が変だ。
もしかして、気づいた?
頬は確かに赤いのに、そんなことは知らないと言ったように平然を装って飲んでる要を見ると、ついつい笑ってしまいそうだった。
こぼれそうな笑みを押さえ、佑も真似して近くのお店を見ていると、少し前から気になっていたあるお店が目に入った。
「要ちゃん、ちょっと待っててもらえる?」
すぐにコクコクとうなずいてくれたので飲み物を預けてその店へと向かった。
目的を終えて早々に帰ってきた時には、すでに要のコップは空になっていた。
「なにかいいものありましたか?」
「うん。左手だしてくれる?」
「え?」
佑は要の左側に回って座り、先ほど買ってきたものを袋から取り出す。
すでに値札は切ってもらっていたので、そのまま要の手首にかけ、ぎこちない指先で留め金を付けた。
「はい。一応、誕生日プレゼント」
要の手首でブレスレットが光った。
小さなダイヤのようなものが散らばった、シンプルなものだった。
「わ、これ、買ってきたの?」
佑は頷き、左手首の赤みがかったところを優しく撫でた。
「要ちゃんさ、ずっと思ってたけど金属アレルギー、だよね」
「え」
聞きなれない単語に、要は首を傾げた。
「いつもここにつけてる腕時計、たぶんあってないと思う。よく手首かゆくなってるでしょ。癖ってのもあるかもだけど、左だけこんなに掻きむしった跡があるならたぶんアレルギーだよ」
要は改めて真っ赤に腫れ上がった左腕に注目した。
「だからそれ、アレルギーの人でも大丈夫なブレスレット。ごめんね、腕時計はちょっと高くて買えなかった」
自分がアレルギーを持ってる事なんて知らなかったのだろう。何度か納得したように頷くと、要はまじまじとブレスレットを見つめ、
「可愛い」
と、呟いた。
髪に隠れて表情は見えないが、気に入ってくれているようでほっと胸をなでおろす。
しばらく要はブレスレットを、佑は要を見つめていた。
19
未知の生物を見るような目で、手に持った小さな容器の中身を見つめていた。色とりどりの丸いものが敷き詰められている。
「これは、何ですか?」
「食べてみて」
そう促すと、要は慎重な手つきでそれらをスプーンですくった。
口に入れると、プチプチと一つ一つが溶けていく食感がする。
「あ。アイスだ!」嬉しそうに顔を上げる。
「正解!」
「こんなのもあるんだ。すごい」
「最近はやってるみたいだよ」
これは春さんから教わった時に佑が一番興味を持ったものだ。想像以上の反応を示してくれたので安心した。佑も同じものを買って一緒に食べる。
一粒一粒丁寧に食べるのを見ていたら、今更ながらこんな疑問が浮かんだ。
「そういえば、今日で何歳になったの?」
「十八歳です」
「てことは、高三?」
今まで気にしなかったことが不思議だ。高校三年生ならもう立派な大人じゃないか。
「はい。言ってませんでしたっけ?」
「うん、初めて聞いた」
こんなに一緒にいてまさか知らなかったとは自分でも驚きだ。
「水無瀬さんは、誕生日いつですか?」最後のアイスをすくいあげながら聞いた。
「三月二十八日だよ」
「じゃ、まだまだ先ですね」
「そうだね、要ちゃんが卒業した後かな」
うん、と言ってアイスを飲み込む。
「じゃぁその日は私が、お祝いします!」
「本当?なら期待してるね」
「いいですよ、期待を超えるものを用意してますから」
「なにそれ、嬉しい」
「でしょ?」
覗き込み不敵に微笑む要に胸を打たれ、佑もいつの間にか笑っていた。
「誕生日が待ち遠しいよ」
最近、笑うことが増えた気がする。
満足して帰るころにはすっかり暗くなっていた。
佑はぽっこりしたお腹をさすった。「いっぱい食べたね」
「全部美味しかったです!ありがとうございました」
「本当?よかった。でも要ちゃんが甘いものあんなに好きだなんて思わなかったな」
言いながら、帰り際に橋の下で流れる川を眺めた。
もともと彼のお気に入りのスポットなのだが、今は夕日が水面に反射していつもよりも幻想的な景色を見せていた。
ふと、要は橋の中央で立ち止まり、ブレスレットを掲げて眺めながら言った。
「大好きだよ」
佑は、声を上げることができず、ただ振り返って彼女を見た。
彼女もゆっくりと顔を上げ、佑に目線を合わせる。
「甘いもの、大好き」
この時僕がどんな表情で、どんなことを思っていたのか、自分自身もわからなかった。
でも要はそれもすべて見通しているかのように、温容にこちらを見ていた。
「水無瀬さんも、甘いもの好き?」
体温が上がっているからなのか、それとも茜色の夕焼けに照らされているからなのか、妙に頬が熱かった。
スポットライトを当てられているようで、緊張して、不安で、それでも悟られないよう彼女の目を見て答えた。
「大好きだよ」
20
チャイムが鳴り、教諭が教室から出て行くのを見送ってから佑はすぐに机に伏した。昨日は全く眠れず、今日は一日中睡魔に襲われながら授業に耐えていた。昼休みならゆっくり寝れる――
「なんで寝てんの?」
はずがなかった。宏斗が顔を覗き込む。
「お願い、寝かせて」
がらがら声で頼んだ。だが宏斗が聞いているはずもなく、
「昨日、なんかあったんだろ?」と言って佑の隣に腰掛けた。
佑はだらけた状態のまま、開き直るように言った。「あぁ、あったよ」
「なに、ついに告白?」
宏斗はいつになくにやにやしている。
「いや、だからあれは甘いものの話で……」
「は?なんのことだよ」
わかるはずもない。
告白まがいのことをして、でもそれは告白じゃなくて、ただ佑が自分の思いを自覚しただけの出来事だったなんて。言ってわかってもらえるほど軽い心情ではない。
あれは天然なのだろうか。それとも確信犯なのだろうか。確信犯であればあの場所で言わせたのも一つの手なのだろうか。実際にめちゃくちゃ緊張した。
もちろん佑が恋愛に不慣れなだけかもしれない。右手があった頃は告白もたくさん受けたが、まともに付き合った人なんて一人もいない。
だからこんな時どうすればいいのかすらわからない。
結局、あの後は迷惑だから家に帰ると言った要を何とか引き留めてうちに泊めたはいいが、昨日から今日大学に来るまでの計四時間ほど佑は彼女を意識しまくって、まともに話すこともできずまともに目を見ることもできず、ぎくしゃくしたまま過ごした。
だがその間彼女は何もなかったかのように佑に話しかけ、笑いかけていた。今回の事で彼女のことを意識するのもどんな顔で会えばいいのかも、佑だけが悩み続けることだと悟った。
ぼそぼそとこんな感じのことを一応宏斗に伝えてみると、宏斗は頭を掻き毟った。
「なんか、わかんねぇけどさ、気になるんなら直接聞けば?」
全力で首を振った。「いや、無理だって!そんなことできないから!」
「んー」と唸ると、宏斗はすぐにあっと声を上げた。
「じゃぁ、春に出張してもらう?」
「え、春さん?」
「女同士だったら話やすくね?」
それにはすごく納得した。
だけど、彼女が見ず知らずの女性に心開くだろうか。
「あいつ話上手だし、いけるだろ。じゃぁ日曜日な」
そんな簡単な問題ではないのだが、かといって他に案を出せるはずもないので、渋々頷いた。
春は「OK」の二つ返事で了承した。
不安を抱えたまま、春と要の初の出会いは当日を迎えた。
春を一目見た要は、思った通り佑の後ろに隠れて嫌悪の表情を浮かべていた。そんな彼女を佑から笑顔で引き離した春が連れて行った先は、呉橋にあるローウェル国立美術館だった。
全く乗り気ではなかった要が建物を見ただけで相好を崩したので、春はその場でガッツポーズをした。門から玄関まで歩いて五分もかける壮大な庭園を抜け、要の気分が乗って来たところで中に案内する。
場違いだと感じるほど装飾された受付を通ると、春は一階の絵画に見向きもせず、すぐに目に入ったエレベーターで三階まで上った。フロアに一歩足を踏み入れた瞬間に、要は息をのんだ。なぜ春がわざわざ要をここに連れてきたのか、その理由がようやくわかったのだ。
目の前には、「ローウェル絵画コンクール 受賞作」と書かれた衝立が置かれていた。
「お目当ての物、見たいでしょ」
春はいたずらを仕掛ける子供のように、要の耳元で囁いた。要は静かに春の後に続く。二十ほどの作品を通り抜け、右手にずんずんと進んでいくと突き当りに、例のそれがあった。
「第十八回大賞 “月下美人” 水無瀬佑」
大きな額縁に、壁いっぱいに飾られたその絵は、要の心を揺さぶるのに時間はかからなかった。絵は月下美人の花を擬人化させて描かれたものだという。
白いドレスのようなものを身にまとった女性を中心に描かれており、青く大きな月に照らされてドレスの一部が青に輝いている。指先はまだ人間になりきれておらず、花びらが零れ落ちていた。
こんなにも、綺麗だと感じる作品は今まであっただろうか。
要は一瞬で引き込まれ、見入ってしまった。
「日本で唯一ここだけ、水無瀬くんの絵を飾ってるんだって」
「これが、奇跡の右手」
「そ」春は要をちらりと見る。「受賞作品は初めて見るんでしょ?どう、感想は」
「美しい、です」
そう言った要は、少し戸惑っているような表情をした。
「美しいんです、けど、なんだかこの絵を見ちゃうと、水無瀬さんが遠くにいるように思えます」
「遠くに?」
春は復唱した。要はうなずく。
「手の届かない存在に感じて、寂しいです」
そうして再び絵を真剣にみる要を見て、春は思わず苦笑した。
「なーんだ、水無瀬くん。聞くまでもないじゃん」
「え?」
意味深な言葉に振り返るが、春はすでに出口に向かって歩き出していた。要はもう一度絵を目に焼き付けてから、春の背中を追った。
春は美術館を出ると、適当なカフェを選んで中に入った。要はぱっと昼食を食べて帰るつもりだったが、春の話術に乗っかってしまい、終いには次の遊びの予定を入れるまでに仲良くなっていた。
自分は流されやすいタイプなのかもしれない、と悟った。
「それで、このまま手ぶらで帰るわけにはいかないから、一応聞いておくんだけど」
春はカルボナーラを上手に巻いて食べながら聞いた。
「要ちゃんと水無瀬くんは、どういう仲なの?」
要は、少し困惑した。
今までそんな質問をぶつけられたことはなかったから、考えもしなかったのだ。いや、もしかしたら答えはもうすでにどこかで出ているかもしれない。でも、今の要には沈黙する以外の答え方がわからなかった。手元のビーフシチューを眺める。
しばらく黙っていると、春の方から口を開いた。
「んー、いきなり言われても難しいよね。例えば、私と宏斗の場合--あ、宏斗は水無瀬くんの親友ね?私たちは、幼なじみであり、親友ってところかな。別に男女だからって一線超えたことはないし、お互いそういう雰囲気にもならないから。水無瀬くんとは、どう?いい雰囲気になったなぁとか、ちょっとドキッとしちゃったこと、ある?」
春の例えは実にわかりやすかった。
要は思ったままにぶつける。
「いい雰囲気っていうか、不意に「どきっ」とすることは、よくあります。それがどういう意味の「どきっ」なのかは、わからないですけど……」
要の言葉に相槌を入れながら春は聞いてくれた。
「それって、具体的にどんな時になったとか、よかったら教えて」
要は思い当たる節を全てあげていった。
「水無瀬さんが絵のことで笑顔になってる時とか、必死に私を励まそうとしているときとか、私の作ったご飯美味しいって言って食べてくれた時とか、頭撫でてくれた時とか、ブレスレットつけてくれた時とか……挙げたらきりがないんですけど、でもやっぱり、私のために絵を描いてくれたことが一番嬉しかったなぁ」
一気にしゃべってから、“どきっとしたこと”じゃなくて“嬉しかったこと”に論点がずれていることに気づいた。赤くなった頬を隠す。
んふふ、と春が笑みを零す。「大丈夫よ」と言った。
「そこまで思い出せるんなら大丈夫。別に今無理して悩まなくても、結果はそんなに悪い方向に行ったりしないと思うよ。無駄なこと考えさせたみたいで、ごめんね」
口を拭い、ちょっとお化粧室に、と言ってふわふわと髪をなびかせながら奥に消えて行った。
春の背中を見送りながら、要は最後の一口を口に運んだ。
まただ、またもやもやする。前にも一度あったが、今回はそれ以上だった。
隣に腰掛けたカップルが談笑しているのを横目で見ながら、軽く頬杖をついた。
ちょっと、羨ましいのかも。なんて思ったりした。
21
二人を送り出してから約三時間が立ち、佑がそわそわし始めたころにアトリエのドアががちゃりと開く音がした。勢いよく玄関まで駆け寄る。
「今日も、お世話になります」
入るなり要は深々と頭を下げた。
とりあえず何事もなく、作戦は成功したようで一安心した。
彼女が部屋に入ったことを確認してからそっと玄関を抜け、外で待機している春のもとに向かった。なぜか結果を聞く前から春はやけににやにや顔を浮かべており、
「水無瀬くん、自信もっていいと思うよ。ファイト!」
ただそれだけを言い放って、軽やかに駆けて行った。呼び止める佑の声なんて全く聞こえていないようだ。いきなりそれだけ言われても。
遠ざかる背中にため息をつき、また今度詳しく問い詰めることにしようと決めた。諦めて部屋に戻り、上着を脱ぐ要に声をかける。
「どうだった?今日は」
特に返事に期待はしていなかったのだが、要は満点の笑顔を向けると、すっごく楽しかったです!と言い切った。いったい春さんはどんな魔法をかけたのだろう。お互いの距離も近くなっているようだし。はてなマークだらけの頭を宥める。
要は鼻歌を唄いながら今日一日さげていたリュックサックを開けた。
中からはお守りの絵が出てくる。
「やっぱり、この絵は手放せない」
そう呟き、優しく体で包み込んだ。何があったのかは知らないが、春には感謝しなければならない。それなのに、彼の中には嫉妬心が芽生えていた。
要のこんな嬉しそうな表情をたった一日で引きだすなんて、到底できない。
絵を描く以外には、到底。
22
春と仲良くなってから数日後、奇妙なことが起きた。
要は合鍵を持っており、宏斗ならボタンを押す前にドアノブを回す失礼な作法が身についているものだから、最近では佑の家のインターフォンは滅多にならないはずだった。特に目立ったイベントなんてものは記憶にないはずだが、不意にそれは鳴り響いた。
ベットの上でのんびりと過ごしていた矢先の出来事だ。机の上の置時計が夜中の十一時を指しているのをみて咄嗟に飛び起きた。
要がまだ帰って来ていない。
もちろん一緒に暮らしているわけではないが、最近ではもう要はあの家に戻らず、直接佑の家で寝泊まりしているのだ。
そしてこんな時間まで要が返ってこなかった日は今まで一度もない。
佑は慌てて玄関まで突っ走り、誰とは確認もせずに扉を開けた。
「こんばんは!」
目の前には春さん、と……
「よ!」
宏斗が立っていた。
状況が飲み込めずにいると、春の影に潜むように要がくっついていた。この面子はどういうことだろう。
どうしてこんな夜遅くに?
「あー、俺ら送っただけだから。詳しいことはその子に聞け」
そう言って要が突き出された。なにか、あからさまに後ろめたいことがあるとでもいうように、要は俯いている。ますます訳がわからなかったが、とりあえず二人にはお礼を言って、彼女を中に入れた。最初は入るのを躊躇っていたが、やがて諦めたかのように息をついて、部屋に入った。
「補導、されました」
経緯を聞き出そうと開きかけた口が、塞がらなかった。
補導と言うのは、あの補導か?
たばことか、あるいは酒に手を出すような不良行為はしない子だということは、今まで一緒に暮らしてきたからわかっている。だとすると、寄り道などで夜遅くまで外をふらついていたから補導されたというのが一番自然だろう。
だがそれでも謎は残る。普段の要は学校が終わるとどこにも行かず、真っ先にここに帰ってくるのだ。最
近は前ほど早くは帰って来ないが、それでもせいぜい九時が限界だ。それ以上を超えたことはない。
学校を終えてから今まで約六時間、一体何をしていたのだろう。
高校生の身になって考えると、パッと思い当たるものが一つだけ見つかった。要がソファに腰掛けたので、佑もその隣に座る。
「もしかして、バイトしてる?」
「えっ」
今まで聞いた中で、一番高いんじゃないかというくらいの高音だった。こちらを見て目をぱちぱちとさせる。動揺が露わになっている。まさか一発で当てるとは思いもしなかった。
今回の件もバイトしていたからなのかと聞くと、要は少しの沈黙の後、「はい」と認めた。
彼女は一週間前から飲食業のバイトを始めたこと、今日は十時にバイトを終えてその後買い物をしていたので遅くなったことをつっかえながらも教えてくれた。
「なんで急に始めたの?」言いながら佑は要の母の容態について記憶を巡らせていた。
「えっと、お母さんの入院費とか……?」
要はかぶりを振った。
「あ、いえ、入院費はなんとかなっています。そうじゃなくて、水無瀬さんに」
「え、僕?」それは予想していなかった。
並んで座った狭いソファで、要は佑に向き合った。
「私が一人になりたくないっていう我儘のせいで泊めさせてもらってるのに、食費も、水道費も電気代も、なにもかも水無瀬さんに頼ってて。水無瀬さんだってバイトしてるのに私はなにもしないでただくつろいでるだけだなんて、本当に失礼なことだったなって思って。ここが居心地いいからって、甘えてました」
これからは今までの分も含めてしっかり返します。と宣言した。
要にこんなに近くに顔を寄せられては、次の言葉が出てこない。
こんな時だが内心、彼は少しほっとしていた。
ずっと彼女は佑と一緒に生活していて苦痛ではないだろうかと思っていたからだ。寝る部屋だけでなく風呂場もトイレも一緒で、しかも男となんて、と思われていたらどうしようと、改めて思い返すと自信がなかった。
でも居心地がいいと思ってもらえていたなら、こんなに嬉しいことはない。
「要ちゃん、僕実は、結構お金持ってるんだよね」
要はきょとんと目を丸くする。佑は話を続けた。
「正直言うと、大学に通ってる間は働かなくても食べていけるくらいある。僕がバイトしてるのは単に、僕のばあちゃんに働いてる姿だけでも見せておかないとダメだって思ったから。ばあちゃんはまだ見に来てくれたことはないけど」
自分なりに面白い話をしたつもりだったので笑いかけると、後から戸惑いながらも要は笑いかけてくれた。そんなに面白くはなかったかな……。
「だからバイト代もあるし、要ちゃん一人くらい全然余裕なんだよね。それに要ちゃんは洗いものとか効率よくしてくれてるみたいだし、シャワーだってほとんど使ってないでしょ。だから僕一人のときとさほど変わらなくて。要ちゃんが働く必要はないんだけど……」
要は少しむっとした表情を見せた。佑は笑った。
「要ちゃんがどうしても払いたいっていうなら……食費をお願いしようかな。もちろん一人分だけでいいからね。どう、かな?」
まだ払い足りないなんて言われたらどうしようとそっと要の顔を覗くと、満更でもなさそうだった。よかった、と胸の内で息を吐く。
「水無瀬さんがそれでいいなら……。頑張ります!」
「でも、無理はしないでね。今日みたいに補導なんてされて欲しくないし」
その点はしっかりと釘を刺しておく。
要は心に深く刻みつけたようで、拳をしっかりと握りしめた。
23
テレビはあまり見るほうではないが、ドラマ好きの宏斗がたまには見ろと推してくるので、その日は佑の家で久しぶりにタレントの声が流れた。
二人で鍋をつつきながら、チャンネルを適当に変えていく。
ある番組のボタンを押したところで要が「あ!」と叫んで彼の手を止めた。
「スーパームーン、見れるんだ」
画面内の女性アナウンサーがにこやかに伝えているのは、今日の十一時過ぎから普通の十四倍もの大きさの月、つまり「スーパームーン」が見れるという情報だった。
このテレビに要は珍しく釘づけになっていた。まだ、見たことがないのかも知れない。
ちなみに佑は中学生の頃に初めてスーパームーンを見たのだが、そのあまりの大きさと迫力に圧倒され、今にも落ちてきてしまうのではないかと焦った覚えがある。窓枠いっぱいに現れたそれは、彼の記憶に深く刻まれていた。
要はしばらく画面を見つめた後、鍋を勢いよく食べ食器を片付けると、すぐさま風呂に入り十分足らずで出てきた。どうやら月が現れる十一時までに全て済ませるようだ。歯磨きを終えて濡れた髪を軽く櫛で梳かす。
ドライヤーに手をかけた要に時刻が十時五十五分だと告げると諦めてアトリエに駆け込んだ。
窓の前で三角座りをし、じっと空を見上げていた。
佑も久しぶりに眺めようとアトリエに足を運ぶ。
ドアを閉めたところで掛け時計がポーンと十一時を示した。
要は静かに立ち上がり、引き寄せられるように窓の縁に手を掛けた。
佑も首を伸ばして覗く。
六年ぶりの感動が、今蘇った。
雲間から現れた月は、黄金色に光輝いていた。
それは希望に満ちた中学時代に見たものと何も変わっていなかった。もしかしたらいま、自分は将来に希望を抱き始めているのかもしれないと思うと、懐かしさと嬉しさで思わず笑みがこぼれる。
充分に思い出を堪能したところでそろそろ隣室に戻ろうとドアノブを握ったところで、なんとなく振り返った。
要が、月を眺めていた。
ただそれだけだったのだが、佑の中でまた別の記憶が引き出された。今目の前に見えている景色は、昔思い描いたあれと重なって見えた。
「月下美人」
たしか、ローウェル美術コンクールで十三歳の時に大賞を受賞した時の絵だ。あの絵の女性のように要は髪が長いわけでも、白いドレスを着ているわけでもない。
だが、これは僕がまさに描きたかった理想だと佑は興奮した。
表情だって全然違う。
あの絵ではつんとどこか遠くを眺めていたのだが、要はまるで待ち焦がれていた憧れの人に出会ったかのように頬をピンクに染め、キラキラとした目で見つめていた。その要を照らす月の光が相俟って、視界に映る景色が幻想的で、眩しかった。
愛おしい、と思った。
ごくりと唾を飲み込んだ。居ても立っても居られず、棚から真っ白なキャンパスと鉛筆を取り出していた。何も考えず、左手の指先に力を込める。
しばらくたってから、要が佑の行動に気づいて視線を向けた。口をパクパクさせている。そういえば、絵を描いている姿を見せるのは初めてだったな。
「動かないで」
キャンパスに目を向けたまま要に告げた。要は状況をすぐに飲み込んだのか、二度ほどうなずいて、また元の姿勢に戻った。
こんなにも欲に駆られて筆をとったことなどあっただろうか。今の佑にはただ一つ、彼女を描きたいというその欲だけが左手を動かしていた。
それから十分ほど、アトリエには鉛筆がキャンパスを擦る音だけが響いていた。キャンパスと要を交互に目に映し、線を描いていく。簡単な形を描いたところで、彼は鉛筆を離した。
「もういいよ、ありがとう」
「もうできたの?」
「下書き程度だよ」そう言って要の方にそれを向ける。
要は一目見て「すごい」と吐息のように声を漏らす。
「これが、形になっていくんだね」
期待に溢れた要の表情にほっと息をつく。
佑も内心、この絵がどのように進化していくのか、わくわくが止まらなかった。
「完成、させたいなぁ」
「私も、スーパームーンの光の優しさとか、私の表情とか、水無瀬さんがどんな風に絵で表現するのか、見たくて見たくてたまりません」
要が期待してくれていることに胸が高まる。
「でもスーパームーンって、十二時半までしか見れないって言ってなかったっけ」
「そうなんですか!?」
要は嘆息をついた。
「こんな短時間じゃ、厳しいですよね」
「うーん。確かに最後まで見ながら描き上げることはできないね。描くスピードも右手に比べたら明らかに落ちてる」
「そっかぁ。そうですよね」
要は立ち上がると、ぱたぱたと窓に駆け寄り先ほどと同じ位置に戻った。顔を上げ、踵を伸ばして月の光を浴びる。
「じゃぁ、いまのうちに目に焼き付けておかないと」
髪から滑り落ちた雫が首筋のあたりで光った。
このまま、未完成な下書きのまま、この絵を終わらせてもいいのだろうか。こんなにも筆を握りたいと思ったことなんてないのに。こんなにもこの景色を残しておきたいと思ったことなんてないのに。
どうしようもなく、いま君の絵が描きたいのに。
ふっと、笑いが吐き出す。
無理だ。止められない
「要ちゃん。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
乾燥した唇を舐める。
「スーパームーンが落ちる時間まででいいから、僕に、付き合ってください」
「え……」
要は瞬きを繰り返すと、慎重に言葉を放った。
「描けるところまで、挑戦するということですか」
「ううん。ちがう」
佑は立ち上がると、羽織っていたパーカーを脱いで要の背中に掛けた。
「絶対に描き上げるよ。約束する。たとえ時間が足りなかったとして、月が見えなくなってしまっても大丈夫。それまでに僕の目に、この景色を焼き付けておくから」
要はパーカーの裾を握りその温もりに顔を寄せると、また空を仰いだ。
「水無瀬さん、鉛筆を持ってください。……月は、待ってくれないんでしょ?」
佑も眩しい光に目を当てた。拳を握りしめ、大きく頷く。
キャンパスの前に再び戻ってからは、ただひたすらに、描き続けた。
どうか、少しでも長く。
近いようで遠い月に思いが届くのはいつだろう。
そんなことを考えながら、ともに静かな夜が始まった。
24
要は目を擦りながらアトリエを離れ、トイレへと足を運んだ。用を足して部屋の時計を確認する。ひたすら立っていたことで時間の間隔がなくなっていたが、まだ十二時であったことに目を丸くした。
台所へ向かった。昨日の残りのご飯をあっためて、熱さに片眼をつぶりながらラップの中のご飯を手の中でくるくると三角の形に仕上げる。おにぎり四つで、ご飯はなくなった。
お皿に乗せてアトリエの扉を開けようとしたとき、声が聞こえた。
背中を向けている佑の、ううう、と唸り苦しむような声。
一瞬、足が止まった。
きいたことのない声。湧き上がってくるような、痛い声。
要は目を瞑り、ゆっくりとアトリエの扉を開けた。
丸まった佑の背中が目に映る。
彼の隣に皿を置き、また窓の前に立った。佑は、要が戻ってきたことに気づかないのだろうか。
俯いている。
俯いてきっと、涙を流している。
いつの日か、質問したことがあった。絵を描いている人は、なにを思いながら描いているんですか、と。
「描いているものによって、描いている人によって、考えていることは全然違うと思うよ」
「じゃ、たとえば……」
要はアトリエの絵の一つを手に取り、佑の前に掲げた。
「これを描いていたときは、どうでしたか?」
遊園地のコーヒーカップで丸くなって眠る少年、少女の絵が描かれている。
柵の外には撮影に夢中な親たちの姿もあった。
「あぁ、これは中学二年のときに描いたやつだね。このときはすっごく感情が不安定で、荒れてたんだ。僕は本当に絵が上手いんだろうかって迷走しちゃって」
「反抗期、って感じですかね?」
「そんな感じ。そのときたまたま友達に遊園地に連れて行かされてさ、回るコーヒーカップをみて、思ったんだ。僕に似てるなぁって。おんなじ所をくるくるまわって、それを眺める大人たちの顔色を伺って。それがムカついてムカついて、でも感情をぶちまける方法が絵を描く以外に思いつかなくて、唇から血が出るほど噛みしめながら描き上げてたよ」
「私には計り知れないくらいの苦労が、この絵には詰まっていたんですね」
「でも、追い詰められて描いていたこの絵にも、楽しいって思う瞬間はたくさんあったよ。画家にかかわらずに、小説家とかアスリートにだって続けていたら絶対に壁にぶち当たることってあって、それは避けられないものなんだけど、自分の力で壁を壊して突き進んでいった先には尋常じゃないくらいの”楽しい”がこみ上げるんだよね。僕はきっと、その感覚にいつまでも浸かっていたくて、あのころ夢中で絵を描いていたんだと思う」
あの真っすぐな瞳が、今でも忘れられない。
時刻は十二時二十分。
彼はいま、壁にぶつかっている。月が消えかけるこの時間が、怖くて仕方がないのかもしれない。光がなくなってしまえば、あとは彼の記憶のみで描かなければいけないこの状況に、怯えているのかもしれない。
でも、いまここで止まったら――
「一生後悔しちゃう」
要のこぼした言葉に、佑はゆっくりと顔をあげた。
その潤んだ瞳は涙でいっぱいで、月も、要のことも、見えていない。
お願いします。私のことを見てください。
あと少しの時間で、あなたの記憶にこびりついて離れないくらい、見つめてください。
どうか。
佑はおおきく息を吸い込んだ。そのわずかな音ですら、震えていた。
それから、筆を置いて、袖で涙を拭いた。
みえるまで、なんども、なんども拭いた。
濡れた袖をさらに濡らす佑に、要は駆け寄り、ハンカチを差し出した。
やっと目が合った。
佑はハンカチを受け取ると、すべてを拭った重いハンカチを返した。
要はそれを握りしめ、なにも言葉をかけずただ頷いた。
佑も再び筆をとると、大きく頷く。
月に目を向けながら、要は初めて訪れた感覚にそわそわしていた。
キャンパスを擦る筆の音が心地いい。
なんだろう、これは。むず痒い。
チラリと佑の方へ目を向ける。必死な表情で、真剣な眼差しで、でもどこか楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。こんなに寒いのに汗を流してキャンパスに向かう佑の姿が、要にとっては何よりも綺麗なものにみえた。
時間はあっという間に過ぎていく。
雲が少しずつ影を作り、月に迫った。
「あっ」
最後は一瞬だった。なんの未練もないように、簡単に月は姿を消した。
アトリエの中が真っ暗になる。要は手探りで近くの玄関照明をつけた。
「私、まだ眠くないけど……」
だが佑は首を横に振った。
「ううん。ここまで本当にありがとう。ゆっくり休んで。明日には必ず、完成した絵を見せるから」
冷えた手に佑の汗ばんだ熱い手が重なる。
じっとりと濡れた要の右手は指先まであったまって、少しばかり感じていた心配が溶けた。
要は大きく息を吸い込む。
「また、あした」
25
鈍い音がして、目が覚めた。
布団を剥いで時計を確認する。深夜三時過ぎだった。
鈍い音が再び耳をつく。
要はベッドから降り、足音を殺してアトリエに耳を当てた途端、何かが床を打ち付ける音が五度六度と静かな部屋に痛ましく響いた。驚いて仰け反り、尻餅をついた。
「水無瀬さん……」
腰を引きずり、恐る恐るアトリエの扉に近付き中を覗く。
肩を震わせ暗涙に咽ぶ姿が窺えた。
佑の前には二つ目の壁が立ちふさがっているのだと気づいた。それよりも要が目を剥いたのは、懊悩する彼の左手が、確実に一本一本線を引いていたのだ。
見えない壁が、硬く冷たい壁が、少しずつ崩れていくのがわかる。要は胸の前で両手を重ね合わせ、目を瞑った。
祈ることしかできないのなら、せめて。
床を打ち付けては筆を握り、掠り声をあげて泣いては筆を握りを繰り返した。睡魔に襲われそうな朦朧とした意識の中で、要の頭にはこれまでの佑との思い出がぽつりと降ってきた。
*
最初に出会ったときの水無瀬さんは、とにかく絵から遠ざかることしか考えていなかった。
「絵、嫌いになったんですか?」
「うん。嫌いになったから、かな」
私の持っていた絵から目を背き、左手の可能性を見つけようとしなかった。それがすごく悔しくて、どうしても自分の魅力に気づいてほしかった。
胸を奥底を捉えた絵があった。だからこの絵すきですって伝えたら、照れた顔して小さな声でありがとうって言われた。
拾った絵を持ってきた。
「絵の中で、この花を元気にしようとしてる要ちゃんを描いたらすっごく素敵な絵になりそう。花も元気になるよ。どうかな?」
水無瀬さんは見たことのない笑顔でアイディアを出してくれた。
この人は鈍感で不器用な人なのだと知った。
だから大声で、水無瀬さんはまだ絵が大好きだって言ってやった。いわれた後の水無瀬さんの妙にすっきりしたような顔に、彼は正直で純粋な人だと、また知れた。
「誰にも共感されなかった自分の絵に感動して、ずっと持っていてくれる人が一人だけでもいることが、こんなに嬉しいことだなんて知らなかったんだ」
「要ちゃんがいれば、僕はずっとこの絵が好きでいられるんだ。だから、さ」
「隣に、いてほしい」
あの瞬間、私が感極まって泣いたことなんて、知らないでしょ?
きっとこれからもあの感動は、私だけが秘めておきたい。
「水無瀬さん……描いたんですか」
「う、うん」
はじめて描いてくれたとき。卒倒しそうなくらい喜びが溢れて止まらなかった。タイミングよく鐘が鳴って、こんなに幸せな奇跡があるんだって教えてくれた。
あの時佑の前に立ちふさがった壁は、きっと痣ができるくらい痛かったはず。
だってあの絵を私に見せてくれた時の声が明らかに跳ねていて、ふと描いたときのことを思い出してはにやけてた。
「頑張って、よかった」
あの言葉が反芻してやまない。
自分の力で乗り越えた彼に、私は深い愛に溺れたように目頭が熱くなって、視界から外すことができなくなった。
それくらい、恰好よかった。
また、見せてくれませんか。
*
手首につけた腕時計の文字盤をめくる。
皮膚の引っ掻き跡はだいぶひいていた。
回想が消えてふと思ったことがある。要はこれまで必ず、どんなときでも曲げなかった信念がある。
水無瀬佑を信じること。
これはきっと私の強みなのだと言い聞かせ、そして今日また、彼を信じることにめいっぱい体力を使おう。何時間たっても佑がめげそうにしていたら、私は何時間でもその分笑って過ごせる未来を信じ続けよう。
それが、私が存在する意味のすべてだとしたら。
私は幸せだ。
佑が汗を流して戦う時間が、要が祈る時間が、刻々と過ぎていった。
ゆっくりと空に明るい色が差していく。小鳥の会話がところどころで始まり、新聞配達のバイクが家の前を通り過ぎた。
わずかにかさりと紙が擦れる音がした。要は顔を上げ、アトリエに目を向けた。薄く日の流れ込んだアトリエで、佑はおにぎりを手にしていた。もう冷めてしまったであろう最後の一つを、大事そうに、噛みしめていた。
全部、食べてくれてる。
佑の背中の隙間から、ちらりと絵が覗いた。はっきりとは見えないが、右下の方に細く黒い線でサインが入っている。
「描き、あげたんだ……」
肩の力がどっと抜ける。
扉に背を向け、大きく息を吐いた。安堵の涙が零れ落ちる。頭がうまく働かない。
まただ。彼とともに一つ目の壁を破った後にもでてきた、この感情。
要は胸を抑え、漏れ出る口元の笑みはそのままに、重たい瞼をゆっくりと閉じた。
水無瀬さん、絵を描く人に”楽しい”感情がこみ上げるように、近くで祈っていた私にもきましたよ。脳が痺れて、ふわふわと浮いたような、いままで知らなかった感情が。
広くあたたかい夢の中で、要はその感情の名前を探した。
26
ふんわりと暖かいなにかに包まれる。
その心地よさの正体が知りたくて、要は目を開けた。
「あ、おはよう」
佑が要の体に毛布を被せようとしたところだった。慌てて体を起こす。どうやら床でそのまま突っ伏して寝てしまったようだ。
「おはよう、ございます」
疲労の溜まった重たい体を持ち上げる。
なんでこんなところで寝ていたんだっけ、と後頭部を掻く。
「僕もいまちょうど起きたばかりなんだけど……みる?」
佑はアトリエの方を向いてから、要に目配せした。
要の記憶は一瞬で引き戻される。
「み、みます!」
二人でアトリエへ移動する。緊張気味の佑の隣に座り、その絵に顔を近づける。
「どう、かな」
要の反応を窺うように佑は顔を覗き込んだ。
「僕は、すごく自信があるんだけど」
目に移りこんだ女性は、私なのだろうか。
疑いたくなるほど、それは綺麗だった。
絵の中の女性は透き通りそうなほど磨かれた丸い窓ガラスに手のひらを合わせ、まるで月に恋をしているように熱っぽく見つめていた。やんわりと部屋に光を落とす月が絵全体を優しく包んでいるようで、落ち着く空間になっている。
佑の感じていた左腕への不安感など、この絵には一切感じられなかった。確かにところどころ線が戸惑っているように見えるが、それがより夜の不穏さを醸し出していて好きだった。
「これ、本当に私……」
自分自身に見とれるなんて変な言いようだが、そうなってしまったのだからしょうがない。要はこの女性から、この絵から目が離せなくなった。次第に視界がぼやけ、絵が細部まで見えなくなった。
「要ちゃん、泣いてくれてる?」
じわじわとこみ上げてくるそれが、涙だとやっと気づいた。慌てて目の縁を手で拭う。再び周りが見え始めたところで、振り返っていた佑と見合う形になった。
あたたかさに満ちた佑の表情に、どきりと胸が鳴る。
「この絵、気に入ってくれた?」
要はめいっぱい首を縦に振った。彼は要の必死さに、照れながらも笑った。
その優しい表情がすきで、要も笑みが溢れる。
「水無瀬さん、絵ちょっとは好きになりました?」
そこで弱気な発言をしたら、要は言ってやろうと思った。絵を描いている時の時折みせる嬉しそうな表情だとか、描く前のわくわくするって言ってたあの言葉だとか、言いくるめる反撃のセリフならいくらでも思いつく。そこで今度こそ、絵が好きだと自覚してもらおうと思っていた。
だからこんなことされるなんて予想外で、要の体はカチンコチンに固まっていた。
強く、抱きしめられたのだ。
反射的に息が止まった。
佑は耳元で言った。
「僕から絵を取ることなんて無理だったみたい。この二日間、すごく楽しかった。もちろん苦しさの方がたくさん味わったけどさ、でもなぜか、喜びの方が大きいんだよ。達成感っていうのかな」
密着した体が、熱い。
だけどそんなことなんて一切感じさせなくなるほど、佑は要がずっと言ってほしくて待ち焦がれていた言葉を口にした。
「僕は、絵が好きだ。また好きになれたんだ」
ありがとう、と言って、佑はゆっくりと体を離した。
要はもう嬉しくて嬉しくて、変な声を上げて泣きそうになった。
やっと聞けた。
目を閉じ、心の中でその言葉を復唱する。
夢じゃない。
彼の少し低くて優しさの籠った声で言ったその一言を、一生忘れるものかと要は心に誓った。
離れたあとも、後ろに回った佑の手は解かれなかった。だからお互いの距離が五センチほどになったところで、彼のさじ加減で再び要の体は固定された。鼻と鼻の先がぶつかりそうだった。
こんなに近いのに、要は目を離せなかった。佑もじっと要の目を見つめる。
彼が何をしたいのかわからなくて、先ほどの感動が一瞬で不安へと変わっていった。どうしたらいいんだろう。男の人とこんな距離になったことなんてないから、余計に混乱した。
見つめられている緊張で、体中を熱いものがめぐるような感覚に襲われた。いつまでそうしていただろう。心臓がもたないと思いはじめた頃、彼は手を回したまま一定の距離に離してくれた。やっと普段くらいの間隔に保たれ、疲れて深いため息がこぼれる。
再び佑と目をあわせると、なぜかとても真剣な顔つきをしていた。そして、
「一緒に暮らそう」
と、言われた。
おそらく要はこの時、とんでもなくバカみたいな顔をしていたことだろう。唐突に告げられた言葉に、鼓動だけが早まる。何も考える隙を与えず、佑は二言目を発した。
「ずっと、考えてたんだ。あの時――要ちゃんのお母さんが入院した日から要ちゃんはずっとここに泊ってるでしょ。でも暮らしてるわけじゃないから、毎日「泊らせてください」って僕に毎回頭を下げてくれるけど、それってなんか堅苦しいっていうか。要ちゃんが楽になる場所がないんじゃないかなって思ってて」
その喋り方はたどたどしくて、でもどこか必死だった。
「あっでも!僕はもともと知り合いでもなんでもないただの大学生の、しかも男だから、一緒に暮らすって言われると抵抗があるって思うなら今までのままでいい!ただ、今まで要ちゃんの判断でここに泊ってくれてたから、僕もここに泊りたいって思ってくれてるのかなってちょっと自惚れてて。あー、考えまとまってなくて、ごめん」
佑は頭を振る。
「つまり、さ。この家が要ちゃんにとって、何のためらいもなく帰れる場所になったらいいなって思ったんだ。そうするには、一緒に暮らすって考えが浮かんだんだけど……要ちゃんは……」
次の言葉が、なかなか出てこないようだった。言いたいことはわかっている。彼は少し恥ずかしがり屋なのだ。要は佑の考えをすくって真っ先に答えを出した。
「一緒に暮らしたいです。水無瀬さんと、一緒に」
声が震えずに出せた。要もどことなく気恥ずかしかったのだ。佑はひどく驚いた顔をしていた。それをみて要はまた笑う。
前にも一度こんなことがあったと要は思い出す。彼がなかなか言い出せずにいて、要が先を越して言っちゃうこと。こういうときの佑は、初めて大きなステージに立った子供みたいに萎縮していて、なんだか守ってあげたい気持ちになるのだ。母性本能?と言うのだろうか。
「要ちゃんには、かなわないなぁ」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だよ」
くすくすと笑うと、佑は背中に回していた手をようやく離した。
じんわりと温もりが溶けていく。
佑は勢いよく息を吸うと、立ち上がり「さあ!」と言って手を叩いた。
「ご飯、たべよっか」
要も頷き立ち上がる。「はいっ」
「今日は僕が作るよ」
「ええ!だめですよ、水無瀬さん一日頑張ってたんだから」
「それは要ちゃんだって同じでしょ」
え、と佑の顔を二度見した。
佑は汗で濡れてよれた要の前髪をみて苦笑した。
「一緒に、頑張ってくれてありがとう」
要は慌てておでこに手を当てる。
「……気づいてたんですか」
「床で寝てる姿みてたらわかるよ。……あ、それと」
「それと?」
「おにぎり、美味しかった」
目にクマを乗せて、今日の空のように曇りのない晴れやかな微笑みをみせた。
胸が大きく揺さぶられる。
ゆらりゆられて要は視線を足元に移動させた。
「二人で、作りましょ」
「うん、そうしよう」
絵の中の要は、淡く光る月にいつまでも甘い感情を抱いていた。
27
無駄に広い多目的スペースの壁に貼られた掲示板の広告の一つを、食い入るように見つめていた。
上部に大きく「日本最高峰の画家、四谷影猪先生来校」と書かれている。
完璧に忘れていた。いつか来ることは聞いていたが、まさか今日だとは。
広告には、五時に美術学部の第一教室で講演その他作品の採点をしてもらうことになっていた。腕時計をもう一度確認する。何度見ても、時刻は六時を過ぎていた。
長いため息がこぼれる。どうして朝のうちに見ておかなかったのだろう。一時間も立っていればさすがにもう帰っているだろう。
昨日描いた絵は、宏斗に見せようと持ってきていたのだ。時間さえ間に合っていれば会えたかもしれないと肩を落とす。
仕方なく帰ろうとして回れ右をすると、真正面に立っていた誰かに激突してしまった。驚いて体をのけ反る。
背の高いその人を見上げて、声をあげそうになった。
「よ、四谷、先生……?」
何度も雑誌やテレビで見たあの顔が、目の前にあった。信じられない光景に目を疑う。
佑が呆然と立ちすくんでいると、先生は「失礼」と言って胸に手を当てお辞儀をした。慌てて佑も頭を下げる。
本物を目の前にすると何も考えられなくなるというが、まさに彼は今その状態に陥っていた。昔から聞きたいことなんて山のようにあったのだが、一つも出てこない。
何も言えずにただ見つめていることしかできない佑に、先生の方から質問が飛んだ。
「その大きな袋の中は、絵のようですね」
左の手に目を落とす。白いカバーの端からちらりとのぞいていたキャンパスを見てそう思ったのだろう。
佑は大きくうなずいた。
「よかったら見せていただけませんか?その絵」
どうやら興味を持ってくれているようだった。もちろんです!と言って袋をよけて絵を取りだす。
ふと、昨日の記憶が浮かび上がった。要が窓の前で外を見上げている映像。綺麗だと思ったあの衝撃。彼女の笑顔。二人だけの記憶。
すべてが美しかったあの空間を。
佑は掴んでいたキャンパスをもとに戻した。
「すみません。やっぱりこの絵は、見せられません」
先生は目を細めた。失礼なことだと思ったが、止められなかった。だが先生は怒ることなく、寛容に受けとめてからこう言った。
「大切な物が、できたようですね」
なんでもお見通しだというように佑に不敵に笑いかけた。先生が何を知っているのかわからなかったが、その通りだったから何も言えない。
はい、と頷き、袋をきゅっと握りしめた。
先生も十分に頷くと、
「会えてよかったです。水無瀬くん」
そう言って、柔らかい笑顔を向けると背中を向けた。
あれ、そういえば名前言ったっけ?そんな単純な疑問よりも何よりも、名前を呼ばれたことで佑は咄嗟にアトリエの隅に眠ったままの手紙が記憶から引きずりだされた。
「あっ、あの……、すみませんでした。以前お誘いを、断ってしまって」
か細い佑の声に、先生は振り返らず告げた。
「いいえ。私はあなたをお誘いしたこと、後悔していませんよ。もちろん、あなたがまたその気になっていただけたら、その時は全面的に協力させていただきたいですね」
「どうしてそこまでして、僕のことを……」
綺麗に伸びた背筋が、クスリと笑った。佑を振り返り、一言。
「私も貴方に憧れを抱く、ファンの一人なのです」
その口から発せられた言葉とは到底信じられず、佑は颯爽と歩き去る先生を呆然と眺めていた。やがて頭の整理がついたとき、消えかけた背中に深く一礼をした。
「ようやく会えましたね」
そう呟いた先生の声は、佑の耳には届かなかった。
夢のような時間から解放され、佑は一人多目的スペースでしゃがみこんだ状態のまま、ぼうっと記憶の中に浸っていた。
憧れの人に、会えた。
憧れの人から、ファンだといわれた。
たまらない喜びに胸がはちきれそうだ。
佑は再び絵を取り出し、絵の中の笑顔の彼女に微笑みかけた。
「また一つ、幸せに出会えた」
彼女の頬に小さく描かれたえくぼを、優しく撫でた。
28
季節は冬。街はイベントに向けて緑や赤に仕上げ始めた。
店内も普段に比べてずいぶんとにぎやかになり、サンタの赤服に身を包んだ佑はもちろん不満だらけの顔でレジ打ちに勤しんでいた。
バイト組の中でも恋人がいないのは佑ともう一人後輩の男の子の二人だけで、他の奴らがいちゃいちゃするのに忙しいという理由で押し付けられてしまったのだ。店長の今日バイト入ってくれたら時給上げるよ、という甘い誘いに先輩の西岡だけが乗り、クリスマスはイブも含めて三人で切り盛りする羽目になった。
恋人がいないのは認める。が、彼にだってクリスマスの日に共に過ごしたい人はいるのだ。恋人がいないからといって予定がないと決めつけられるのは腑に落ちない。だが店長の寂しそうな顔を見て彼が断れるはずもなく、そういうことも計算された上で佑を入れたのだというのならそれはコンビニ側からすれば正しい判断だったと言える。
とにかく、ただサンタの格好でレジ打ちするだけなら百歩譲っていいとしても、カップルが見せびらかすようにいちゃいちゃしながら、または可哀想な目をこちらに向けながら商品をよこしてくるのが一番苦痛だった。
佑だってバイトがなければ今頃要と一緒にいれたはずだった。
「水無瀬さん、二十四日って空いてますか?あ、そうです!クリスマスの日です!」
要から予定を聞いてくることなんて初めてだったものだから、あの時は面食らった。同時にクリスマスに二人で何かできると思うと楽しみで溜まらなかった。
それもこれも、バイトで全て崩れてしまったわけだが。
冬休み真っ只中の要はいま佑の家に一人でいて、何をしているだろう。クリスマスソングが流れる外を眺めながら寂しい思いをさせているのではないかと不安になる。実は今日のために佑もプレゼントを用意しているのだが、渡すタイミングがバイト終わりの夜のわずかな時間しかなく、このままサンタの格好に合わせて枕元にそっと置くのがいいのか、夜ご飯の後にスッと手渡しするか…。
「すみませーん、お願いしまーす」
客が途切れた一瞬のうちに考えてみるが、再び目の前には三、四と列を成していた。心の中でため息が止まらない。
そんなこんなで約五時間の仕事を終え、店を出るころには夜の十時を回っていた。公園までの並木道の木々は、季節ごとに色を変えている。今日は特別なのか全ての木の枝に隅々まで張り巡らされた小さなLEDライトが無数にきらめいており、佑が通るのを見越していたかのように一本道を華やかに照らしていた。
いつもの褪せた並木道が一変して、別世界に来ている気分だった。
童心に返り、光り続ける樹木をあちらこちらと感嘆の言葉を並べながら見上げる。彼女にも見せてあげたい。あの幸せそうな笑顔を振りまいてはしゃぐ姿を思い浮かべる。
あの家に帰れば要ちゃんがいる。
家に帰ろう。
もう一度この景色を脳裏に据え付け、彼は家路についた。
29
「おかえりなさい!水無瀬さん!」
同時にパァンッと破裂音が鳴り響く。何が起きたのか、ドアを開けたまま硬直する。肩に飛び込んだ色とりどりの細い色紙のようなものを見て、クラッカーが発射されたのだと気付いた。
上り框に仁王立ちし、「大成功!」といたずらに微笑む要を見て、自然と顔が綻ぶ。今日は一日中このための準備をしていたのかもしれない。
どうやらサプライズはこれだけではないようで、靴を脱ぐとすぐさま要に手を引かれて部屋まで誘導された。アトリエを抜けてドアを開けた先の、見慣れない光景に思わず目を丸める。
紺や青などの家具がならんだ無地だらけの質素な部屋に、色紙をふんだんに使った輪っか飾りが壁いっぱいに飾られていた。ベッドの脇の壁にはこれまた折り紙を器用に切り、“メリークリスマス!”の文字を作っている。
ソファと机の空いたスペースに目線を移すと、どこから持ってきたのか、佑の背の半分ほどのツリーがちょこんと鎮座していた。ツリーにはまだ何も飾り付けはされていなかった。
「すみません、勝手に部屋を変えちゃって。でも、誰かとクリスマス、こんな風に楽しんでみたくて、水無瀬さんのこと巻き込んじゃいました」
えへへ、と頬を掻いた要の横で呟く。
「いや、これはすごいよ。今日一日でこんなに……。大変だったでしょ?」
「いえ、水無瀬さんが帰って来た時のこと想像したら、楽しくて楽しくてしょうがなかったです」
はしゃぐ要の姿は、並木道の真ん中で思い浮かべた表情そのまんまで、佑も次第に嬉しくなった。未だにやにやする要を見て、彼は意を汲んで机の前に座る。
「要ちゃんのことだから、これだけじゃないんでしょ?」
試すように伺うと、要はよくぞ聞いてくれたとばかりに胸を張り、冷蔵庫に駆けつけ中にあるものを取り出した。
慎重に机まで運び、佑の前に置かれる。大きなお皿に被せられた蓋を開けると、真っ白な巨大手作りケーキが現れた。ケーキの淵にはイチゴが敷き詰められており、中央には四つのイチゴで花を形作られていた。
生クリームのムラも見当たらないし、絞られたいくつもの生クリームは一つも崩れることなくおいしそうに乗っかっていた。はたから見ればプロのシェフが作ったものにしか見えない。
要が真正面に回り込んで見つめる中、スポンジの弾力を感じながらひと口掬い取って口に入れた。ふわりと口の中で甘さが広がる。イチゴの甘酸っぱさは溶けた生クリームと相性がいい。
予想以上の美味しさにフォークを持つ手が止まらない。
要はその様子を見ると、机に身を乗り出した。
「美味しいですか?」
「うん、こんなに美味しいケーキ初めて食べたかも」また口に運ぶ。
「ひと口、ください」
えっ、思わず顔を上げる。近づいた要は佑の頭に浮かんだ思いを悟っているようで、クスリと笑いかけた。食べ歩きをしていたあの時とは違う、知ったうえでわざと言っている。
それが表情で読み取れたから、ますます混乱する。早く応えなければと焦り、微弱に震える手で何度も口付けたフォークにケーキの一部を乗せ、少しづつ彼女の口元に近づけていく。
こんなに近くに彼女の熱を感じるのに、伸ばした手はなかなか口までたどり着かない。
もどかしい気持ちが佑の体温をさらに上げる。
ようやく到達したところで、彼女の小さな口にケーキが入る。女の子にしてみれば少し大きかっただろうかと自分の気配りのなさを恥じた。
大きなケーキを頬張ると、佑の握るフォークを唇で滑るように抜き取った。
心臓が波打つ。
伸ばした手をすぐに引っ込めた。
「うん、美味しい」
確かめるように頷き、目を瞑って味を楽しんでいた。そんな要を硬い表情で見つめることしかできなくて、大学生にもなって呆れるほど恋愛に疎いことを自覚させられた。
好きな人が美味しそうに食べている姿を見るだけで、幸福感が伝わってくる。笑顔を見たらどんなに苦しんでいた過去も忘れられる。絵を好きになってもらおうと必死な姿をみたら抱きしめたくなる。一つ一つの感情が新鮮で、毎日が楽しい。
こうやって好きな人の前で息苦しくなるのも、全部。
「あ!」
突然、要が窓に向かって叫ぶ。何事かと後ろを振り向くと、外は何やらちらちらと見え隠れするものがあった。
一緒になって立ち上がった。少し軋んだ窓を開け、要は外に顔を突き出した。
「雪だ!」
隙間から佑も覗き込む。真っ黒の闇の中で見えづらかったが、確かにそれは真っ白な雪だった。久しぶりに降ったなぁ。ここ何年かは雪を見ていなかったから興奮した。しばらく二人で落ちていく雪を目で追いかけていた。
「寒くなりましたね、今年も」
窓から吹きこむ冷風に要の鼻は赤くなっていた。
佑も思わず身を縮こませる。
「そうだね。でも、去年よりはいくらかましな気がする」
未だ先ほどの熱を冷まし切れていないのもある。
彼女は佑の言葉に吹き出す。
「水無瀬さん、今年のクリスマスは去年に比べて六度も低いらしいですよ?」
「えっ、そうなの?」
「うん。水無瀬さん感覚がおかしいんですよ、きっと」
「えええ、そうなのか……」
「でも、大丈夫ですよ!」
要は雪の降る空を仰ぎ見る。
「なぜか今は、私も顔が熱いですから」
冷たい風が、頬を突くようにすり抜けた。
赤い鼻は健在なのに、変なことを言う。自分のいいようにしか変換できない。
これじゃまるで、要ちゃんは僕のことが――
そう思案すると、本当に好きでいてくれてるんじゃないかと胸の中で妄想が膨らみ始める。何度も隣の彼女をちらりちらりと見やるが、相変わらず降雪を追いかけるだけでなんの感情も読み取れなかった。
いつまでもこんな関係が続くとは思っていない。一緒に暮らそうと言ったものの、いつかは思いを伝えなければならない訳で、だけどこの思いが届かなければこの同居という形が確実に失われてしまうこともわかっていた。
告白は、今じゃない。
彼女がせめて高校を卒業するまでは、打ち明けてはいけない。
今告白して振られてしまったら、要は行き場を失くしてしまう。もちろん実家に帰って一人暮らしをするだろうが、寂しい思いをさせるのは相違ない。この関係を卒業まで続けることが、彼女のためだと思っていた。
たとえ彼女が僕のことを好きで、告白を待っているのだとしても。
さて、窓を閉めて要はパンッと手を叩いた。
「飾り付け、しましょう!」
「え?」
突然思考がピタリと止まり、現実に引き戻された。要がずらした目線の先に慌てて目をやると、あの寂しいモミの木が立っていた。駆け寄って、ツリーの下に設置された籠の中から要の身長よりも長いモールやら小さい飾りボールやらを取り出す。
「ツリーだけまだ手を付けていなかったんです。水無瀬さんと一緒にやりたいなって思ってて」
はい、と手渡された小さなサンタの人形を眺める。ふわふわした布の隙間から、同色の糸で玉結びされた跡が見えた。
これって、手作りなの?
「あ、それ私が作ったやつですよ」
「えええ!?」
「ツリーでお金使っちゃったので、モール以外の飾りは全部手作りにしたんです」
料理だけでなく裁縫までプロレベルだったとは。どれにおいても欠点がない。
慎重に優しい手つきで手作りされた飾りを一つ一つ木にぶら下げながら、クリスマスの飾りつけを誰かと一緒にやったのは何年振りだろうと思い立つ。中学の時は家族でそんな行事に参加するなんてダサいと威張り散らしていたから、おそらく小学生の頃が最後だろう。
母さんが嬉しそうにツリーを買ってきたと自慢して、二人でクリスマスの晩に今みたいに飾りつけて仕事帰りの親父を喜ばせたあの時。親父に肩車をしてもらって、てっぺんの星をつけて、完成した!と皆でハイタッチしたなぁ。
懐かしい景色だ。
隣で飾りつけをする要は、最近はやりの歌手が歌っているクリスマスソングを口ずさみながらくるくるとモールを木に巻きつけている。楽しげに準備している姿に母さんとは違う愛しさを抱いていた。
一緒になって唄うと、彼女は途中から合いの手を入れ始め、なんだかオリジナルの曲ができてしまった。変なメロディーに、顔を見合わせてお互い吹き出す。
最後はやっぱり大きな星でフィニッシュとなった。一緒に星の端を持ち、せーのでてっぺんに乗せ、ツリーは鮮やかにコーディネートされた。
「わああっ」
離れた場所からそれを眺め、嘆声をもらす要の横で彼は不思議な感覚を味わっていた。外で見た並木道の綺麗なツリーを思い出す。あちらは本格的に作られており、ライトアップも見事な物だった。それが密集していることで美しさは増していた。だがこのツリーは、照明も他の木もないのに何よりも立派なものに感じられた。
単純に、誰かと一緒に見る景色だからなのだろうか。
それとも、要ちゃんだからなのだろうか。
わからないけれど、今が幸せだからそれでいいや。彼女も、同じ思いでいてくれていたらこんなに最高な一日はない。
お互いに顔を見合わせる。要のあどけない笑みに佑もつられて笑った。
真っ白な雪が舞い降りる深夜のクリスマスに、佑の家からは楽しげな光が宿っていた。
30
風呂から上がると、要はすでにベッドに丸まって眠りこけていた。
今日も終わりかと息をつく。短い時間でこんなにもイブを楽しめたのは彼女のおかげだから感謝しなくてはならない。
それにしても、プレゼントを渡しそびれたのは痛い。こうなったら寝ているうちにサンタ流に置いておこうかと要のそばに寄ると、机の上には小さな包みがちょこんと置かれていた。中央には赤いリボンが乗っかっている。
もしかして、と期待を胸にリボンに挟まれたクリスマスカードを抜くと、「水無瀬さんへ」と書かれていた。高鳴る胸を押さえる。
今回のパーティーだけじゃなくて、プレゼントまで用意してくれているとは。腰を降ろし、すうすう寝息を立てる要の寝顔を眺めてからリボンをほどいた。
中から出てきたのは長方形の布で作られたキーホルダーだった。ポケットのような作りになっており、ちょうど鍵が入りそうな大きさだった。端には小さなニコニコマークが笑っていた。
試しに鍵を入れて留め具をすると、ぴったりと当てはまった。
そういえば家のカギは裸のままだといつの日か要に言った気がするが、今日まで覚えていたなんて思いもしなかった。しかも手作りにするところが彼女らしくて温かい。本人はお金がなかったからと言うだろうけど。
鍵を入れた状態でケータイのストラップホールに紐を通して括り付けた。目の前まで持ち上げてそれを眺める。要は今回のパーティーのために一体どれだけ時間をかけて準備したのだろう。数えてみればきりがないほどだった。ツリーにぶら下がる人形たちだけでも数十個は縫っているはずだし、その上プレゼントにケーキまで作っている。
最高のクリスマスを用意してくれた要の手を優しく包む。気づかずに気持ちよさそうに寝続けている姿をみて気持ちが緩んだ。
今日も彼女の笑顔が見れてよかった。
この温もりを感じとれてよかった。
どこにもない右手を見返すたびに、どんな当たり前なことでも特別な存在に感じられる。
あの時右腕以外無事だったおかげで、要に出会えて、笑顔にドキドキして、温かさを感じれて、絵をもう一度好きになれて、愛おしいと思える人ができた。
いつからこんなポジティブに考えるようになったのだろうか。昔なら、右腕がないせいで、と憤りなげいていたはずだ。きっと考えも含めて僕を変えてくれたのは――
柔らかいショートの黒髪を愛撫する。
「好き、だよ」
瞼を閉じてくれている間なら言えるのに。今はこれが限界だ。
電気を消し、ベッドの側面に背中を預けて眠りについた。
要の鞄には、佑のものと同じ手製のキーホルダーが揺れていた。
31
一月の半ばを過ぎ、未だ雪は相変わらず止め処なく降り注いでいた。
閉じた瞼の奥は、すでに日が昇っていた。カーテンのない部屋には、小さな小窓からほんのりと朝日が流れ込む。その日は極めて自然に目を覚ました。
状態を起こすと、右肩の捻ったような痛みを覚えた。座ったまま寝てしまったので、いつの間にか重心が右側へ傾いていたらしい。体の節々が悲鳴をあげている。
だがその代わり、佑の体は要が寝る際に使用した毛布で包まれていた。
真冬の朝にはありがたい厚意だ。
振り返ると、ベッドはすでにもぬけの殻となっていた。机の上にはいつものように美味しそうな匂い漂う朝食が丁寧に並べられている。佑は肩を押さえながら立ち上がり、部屋をふらりと歩いてみた。なにかぼそぼそと声がする。それはアトリエから漏れていた。
真っ暗な部屋の中を目をすぼめて見ると、確かに要はそこにいた。アトリエの電話を耳に当て、電話の相手に何度も頷く姿が窺える。特に気にも留めず、用意してくれた温かいご飯に手を合わせた。キッチンで食べ終えた彼女の茶碗を見つけたので、待つ必要もない。一粒残らず綺麗に片づけた。
洗い物を終え、水回りを済ませてから着替えに掛かったところで、ようやく姿を現した要はなぜか外に出る格好をしていた。どこかに行く予定があるのだろうか。
「あ、おはようございます。もうご飯、食べたんですね」
「おはよう。うん、美味しかった。ごちそうさま」
どことなくトーンの低い要の声に応えた。要は喋ることなく頷き、手櫛で髪の毛を整える。
佑はその様子をトレーナーを着る前の腕を上げた体制のまま眺めていた。何か変だ、と思ったのだ。具体的に何が、と聞かれれば困るが、なんだか元気がないように見えるというか、上の空な気がする、とかそんな程度の不思議さ。
だが要は質問より先に、その答えを発した。
「あの、水無瀬さん。この辺に、花屋さんとかありますか?」
拳を握りしめ、なんだか勇気を持って話しかけたような彼女に、少し圧倒された。
「花屋だったら……公園抜けた先の商店街にあったと思うけど。どうして?」
「お見舞い、行くんです。あの人の。……母の」
伏せた要の目は揺らいでいた。
佑の家に病院から電話がかかってきたことがないため、現状を全く把握していなかった。確かにそろそろ、調子を取り戻している頃かもしれない。
「さっき電話してたのって、病院?」
「はい。容態を聞いてみたら、そろそろ退院できるだろうって。今まで着替えを持っていくことくらいしかしていなかったから、最後くらいちゃんとしようかと」
「そうだったんだね」
「はい。それに……一度はまともに、話をしておかないと、と思って」
拳をきつく握りしめ、唇を噛みしめるその様子には覚悟の色が滲んでいた。
緊張感が部屋を伝う。
「わかった。花屋まで案内するよ」
「お願いします」
ジャンパーを手に取り、自然に羽織ろうとするが上手くいかない。ぎこちない手は思い通りに動いてくれなかった。内心不安に駆られていることを証明させられたようだった。ずっと、彼女の母親が落ち着いたら、言わなければならないと思っていた。
そしてそれは、きっといまなのだ。
佑は心して口を開いた。
「やっぱり、一緒に病院まで行こう」
「え?」
「お母さんに、僕の事ちゃんと説明しないといけないと思う。勝手に要ちゃんの事、預かってるわけだし」
聞いた要は、大きくかぶりを振った。
「いえ!そんなことしなくていいです!私、母にはあの家で独り暮らししてることになってるので。言わなくてもばれないならその方が……」
「言った方がいいと思うけどなぁ。僕は怒られるの覚悟してるから。……要ちゃんも、怒られるかもだけど」
「なんでわざわざ怒られに行くんですか!」
「なんていうか、けじめというか」
「あ、もしかして大学サボる口実だったりして……」
「や、違うから!」
お互い譲らない五分ほどの対決に、最終的に折れたのは要の方だった。唇を尖らせてしょうがなく、といった彼女の調子は、いつの間にか普段通りを取り戻しているようだった。
「だって、お世話になってるから。文句言えないですよ」
諦めて投げやりに放った要に、佑の頬は緩む。
「ふふっ、ありがとう。じゃぁ、行こうか」
なんとなく差しのべた手に、要は大胆にも自分の手を重ねて握りしめた。佑はびくりと反射的に腕を強張らせる。その感覚が伝わったのか、彼女は口角を上げ、意地の悪さを含んだ微笑みを向けた。
「水無瀬さん、行かないんですか?それとも、恥ずかしくて出れないとか……」
「そ、んなわけ、ない。けど、無理に、繋がなくても、みたいな」
言っていてカタコトな自分に余計に落ち込む。だれが見ても意識しているのが露骨にわかる。
当然要にも丸わかりなわけで、さらに強く握りしめられた。
「外、寒いから」
上目づかいって、女子の技だとか言われてる涙を流す行為よりもよっぽど男の心を正確に打ち抜く技だろうと彼は思った。実際胸に感じる締め付けられるような熱い痛みは否定できない。
先ほどとは真逆の、自嘲的な笑みが浮かぶ。
「これ、諦めなきゃダメなパターン?」
「ですね。もしくは病院を諦めてもいいんですよ?」
「それは困るなぁ」
知り合いに会わないことを祈りつつ、外へと踏み出した。結局この戦いに敗れたのは佑の方であったが、だからと言って嫌でしょうがないわけではない。というかどちらかというと嬉しすぎて倒れてしまいそうだったのだ。それを要に悟られたくない一心で否定をしていたが、どうやらもう隠す必要はないみたいだ。
横目で見た要は、鼻歌を歌いながら豊頬を揺らしていた。そんなに純粋に喜びを表に出されると面映ゆい気持ちが湧きあがってくる。気を紛らわそうとそこらにある電柱やら標識やらに目を逸らしていたが、要のくすくすと笑う声が聞こえてすぐにやめた。
32
公園を抜け商店街に突入すると、目当ての花屋はすぐ目の前にあった。
細長い店内の突き当たりには、数えきれないほどのの皺を浮かべてにこにこ愛想を振りまく八十ほどの店主が座っていた。
要は入るなりその人の姿を見つけると、その手を開放して色とりどりの花で囲まれた通路を抜け、駆け寄った。
要の手が離れた左手はすぐに冷えだす。
「あの、千円くらいで、花束を作ってくれませんか?お見舞いに持って行こうと思ってて」
「あぁ、いいとも」
店主は曲がった腰を叩いてゆっくりと立ち上がる。
「入れて欲しい花はあるかな?」
彼女は振り返ると、元来た道を慎重に引き戻した。途中で足を止め、一つの花に手を伸ばした。
「これ。この、赤い花がいいです」
店主は指さす先を覗き込むと、あぁと言って一本抜き、目の前まで持ち上げた。
「ダイヤモンドリリーだね。見舞いにはぴったり」
「そうなんですか?」
「花言葉は、また会う日を楽しみにしています」
えっ、と要が声を上げる。突然知識を挟んだ佑に驚いた目を向けた。
店主も関心したように目を細めて頷く。
「あら、お兄ちゃんよく知ってるねぇ。そうそう、色も鮮やかで、病室に飾る人は多いのよ」
「あ、じゃぁそれで……」
要の要望を受け入れ、店主は皺くちゃな手の中に、迷うことなく他の花をいくつかプラスし、落ち着いた雰囲気の花束を作り上げてくれた。
「どうして、知ってたんですか?」
支払いを済ませ、花束を抱えて再び歩き出す。花屋が見えなくなってきたあたりで、要から投げられた疑問に頬を掻きながら答えた。
「昔、ダイヤモンドリリーをテーマにした絵、描いてたんだよね。その時に調べたんだ」
「へぇ。……水無瀬さん、花好きなんですか?」
「え、なんで?」
「前に見た作品も確か、“月下美人”だったから……」
「本当だ」
考えてみれば、今まで描いた作品には花を題材にしたものが多かったように思う。
「別にすごく好きなわけじゃないんだけど、なんでだろう。想像しやすいからかな」
水無瀬佑の「花」作品は美術の教科書に取り入れられたこともある特に注目されたシリーズだが、中でもダイヤモンドリリーはその原点であったこともあり、佑にとって愛情の薄れない作品になっていた。
「水無瀬さんが、有名になったきっかけなんですね」
要の手の中で、ダイヤモンドリリーがふんわり跳ねた。
「うん。あれだけはすっごく大切なものだから、実はいくつかの美術館で飾ったあとに、僕の家に置いてもらうことにしたんだよね」
「うそ。じゃぁあの部屋にあったんですか?ぜひ見たいです!」
「いいよ。……要ちゃんは、なんでその花にしたの?」
すると顔を俯かせ、かと思えばすぐに彼を見上げた。ひたむきな表情で、じっと佑の双眼を捉える。
「母が好きだと言っていたんです。昔の話だから、今も好きかなんてわかりませんけど」
「この花を?それっていつの話?」
えっと、と少し考えるように空を仰いだ。「小学校の、六年生のころだったかと」
「それって、お父さんが事件を起こした……?」
「あ、そうです。その後です。よくわかりましたね」
もしダイヤモンドリリーの花言葉を要の母親が知っていたのなら、また会いたいと思っていた相手はきっと――。
そして要は、そんな母親のことを許そうとしているのだろうか。
佑には憶測でしか言えない。
だが、彼女が母親と向き合おうとしているのならば、二人の距離がまた元通りになるのであれば、佑は自分の身を引いてでもそうなってほしいと願うばかりだ。それは早くに両親を亡くした彼だから言えることだった。祖母に育ててもらったとはいえ、中学二年生から大学の今まで、実の親から教えてもらうことは数えきれないほどあるはずだ。
祖母との生活には満足しかなかった。甘やかすことなく片手でも家事ができるようしごいてくれたのも、今では感謝しかない。だがふと一人になると、もし両親が生きていたら一体どんな人生を送っていただろうと、そればかり妄想がはたらいてしまう。
だからもし母親が心を入れ替えてくれるのなら、そこに要が甘えられるのなら、ぎこちなくても家族の形を少しずつ取り戻してほしかった。
横を歩く要は、ただひたすら中央に咲く赤い火花を見つめていた。
その瞳には、若干だが不安の色が浮かんでいた。
石原総合病院にたどり着いたのは、午前十一時だった。家を出てから一時間が立っている。タクシーで走っても三十分はかかる、少し離れた場所に建っていた。庭の一角の鯉が泳ぐ池、病室から覗く大きなくすの木。佑はこの病院を知っていた。
久しぶりに訪れる白い建物を見上げ、額に汗が滲んだ。
受付を済ませ、面会票をもらってエレベーターに看護師とともに乗り込む。鍵のついた厳重な扉が開けられ、二人は“梨谷千賀子”と書かれたプレートの前にたどり着いた。
病室の前で足を止め、要はじっと引き戸を見つめた。
「水無瀬さん、最初、二人だけで話をさせてくれませんか」
一点の曇りもない表情を彼に向ける。佑はもちろん、と言って頷いた。
要も繰り返すように頷き、握りしめた手を少しずつ開いて取ってに手をかけていく。やがて病室に吸い込まれていった。
佑は廊下に一人、立っていた。
することもないのであたりを見回してみると、精神病棟の向かいの一般病棟の廊下を、車椅子で移動する少年が見えた。
遠くからでも十分わかるくらい、少年は静かに涙を流していた。包帯でぐるぐる巻きにされた片足を睨みつけながら、なにかぶつぶつと小さな声で呟きながら、泣いていた。
骨折でもしてしまったのか、それとももう使えなくなってしまったのか。もしかしたら少年の人生を大きく狂わせてしまったのかもしれない。彼の姿は、佑の少年時代を彷彿とさせた。
あの惨酷な一日を思い出すだけでも、気が狂いそうなほどの頭痛が襲いかかる。院内の匂い、真っ白な床、清潔なベッド……。すべて、あの時のままだった。
奇跡の右手があっさりと消え失せた、あの時のまま。
突然足ががくんと折れ曲がる。彼はそのまま床に突っ伏した。
激しい呼吸音を聞き、自分が脅えているのだと気付いた。自覚しても体の拒絶は収まらない。床の上を這いずり、目に付いたトイレに飛び込んだ。
個室に籠り、便器に顔を突っ込んで何度も嘔吐する。涙が溢れた。忘れかけていたあの記憶が再び脳裏に流れ込む。恐怖で、体が震えた。それでも容赦なく、あの瞬間の映像が引き出される。目を瞑っても、頭を振っても消えない。消えてくれない過去。
佑は狭い空間で、泣き崩れた。
33
個室に足を踏み入れた瞬間、久しぶりに鼻先をくすぐった千賀子の匂いに、私は背筋を強張らせた。他の部屋からは別の患者が騒ぐ声が壁を突き抜ける。
ゆっくりと近寄り、立ち止まると、ベッドに向かって声を掛けた。
「要です」
返事はない。
千賀子はこちらに背を向け、窓の方をつまらなさそうに眺めていた。
くすの木がすぐ近くに見える。
私はベッドの脇の丸椅子に腰かけた。
「起きて、るの?」
「……」
千賀子は返答の代わりに、頭の位置を少しずらした。
素直に言えばいいものを。思わずため息をこぼす。
話すことも思いつかないので、なんとなくあたりを見回した。せっかくの個室にはベッドが一つあるだけで、折鶴も見舞いの花さえない質素なものだった。心配して尋ねる友人も、親戚も、誰もいない、寂しい母親だ。
「花、買ってきた。ダイヤモンドリリーの花。……その辺に飾っておくから」
少しは華やかになればいいが。私は備え付けの花瓶に水を少々加え、そこに花束をばらして生けた。二、三歩下がって全体を確認し、なんとか様になっているのを認めると、再び丸椅子についた。
さて、これからどうしよう。一向にこちらを向く気配もなければ、向かい合って話をする気もないこの母親の前で、どんな話を始めよう。相手は聞いているのかさえ分からない。おそらく私の一人演説になるだろう。
そもそも普通の母と子は一体普段どんな会話をしているのか。私と千賀子の間にまともな会話なんて成立した覚えがない。大抵は男関係、それから金だ。
なにかこの場にふさわしいことを言えないものか。私は頭を最大限に捻った。絶対に伝えておきたいこと、言わなきゃ後悔するようなこと、私にしか言えないこと。……そうだ。
言いたいことはまとまっても、今度はなかなか声に出せない。五分ほど指を弄って口をパクパクさせて、ようやく言葉を放った。
「私はあなたのこと、一生許せない」
千賀子の痩せ細った腕が、ぴくりと動いた。
「あいつが私に暴力を振い続けた十二年間、あなたは一度も止めようとしなかった。私が殴られてる間、何度あなたのことを睨みつけてたかわかる?気づかなかったよね、全然興味なさそうだったもん。私はあなたのこと、殺したいほど憎んでる」
千賀子は動かない。
十七年間の思いを初めてぶちまけて、千賀子が弱っているとわかっていても内心びくびくしている自分がいた。まだ暴力男の横で嘲笑う女の姿が脳裏にはこびり付いていた。
それでも言えたことへの安堵感と、心に残っていた不透明なもやもやからの解放は、硬直した体を充分にほぐした。
安心から緩んだ口が、流暢に言葉を吐き出した。
「私は、あなたのこともあいつのことも絶対に許さない。それは今後も絶対に変わらない思いだけど、でも、もう逃げるのは嫌だ。まるであなたと同じことをしているようで、嫌だ。あいつと同じことをしているようで、嫌だ。……だからさ」
そこまでいっぺんに言い終えると、私は大きく息を吸った。佑に出会ってから抱いた新たな私自身の答えは、頭で構成しなくともするする飛び出した。
「向き合ってみる。私が変わらないと、あなたはいつまでたっても子供のままだから」
はっきりと口にしたその言葉は、千賀子の耳に一言の漏れもなく届いた。数秒後、私にとって懐かしい低音が聞こえた。
「向き合うって、なにするの」
聞きなれた千賀子の声はか細く、弱弱しいものだった。強く言い返す体力すら千賀子には残っていないようだ。
私はこの変わり様に、酷く呆れた。今まで自分が脅え、軽蔑してきた残虐な母親は一体なんだったのだろう。私は口を開くことさえ一苦労の母親に、人生を棒に振られたのか。そう思うと、悔しかった。悔しくてたまらないと思うと、涙が溢れてとまらなかった。
じゅるりと鼻をすする音に、千賀子は反応して若干首をこちらに向けた。泣いていることはばれている。今更隠すのも煩わしかった。ぐちゃぐちゃな素顔のまま、丸まった小さな背中に決意をぶつけた。
「退院したら、時間を作って。私との時間を、作ってよ。話すだけでもいいから……」
私はこのとき大泣きしながら、人生で初めて親に甘えた。千賀子の背中に顔を埋め、枯れた声を上げて盛大に泣きわめく。子供の頃、幼稚園で友達がしていたみたいに。
「ごめん。時間作る、から。ごめん」千賀子の震える唇が、ごめんを繰り返した。
私は拳でその背を何度も叩いた。
もっと社会に出る前に、教えてもらいたいことはあった。作りたい思い出もあった。お母さんと料理をしたり、家族で旅行に行ったり、そんな普通の生活にどれだけ憧れたことだろう。でも憧れ続けて、もう十八年がたった。一番楽しみたかった時期には、怨念の籠った自分の泣き叫ぶ声しか記憶に残っていない。
今さら謝られたって、遅い。
それなのに、どうして。どうして私は、潜ったシーツの中で、笑みを浮かべているのだろう。これから十八年願いつづけた望みが叶うから?でも本当に約束してくれる確証なんてない。まだ素直に、嬉しいとは思いたくない。
涙をシーツに染み込ませ、顔を離した。一旦深呼吸して興奮した心を落ち着かせて、丸椅子に座り直す。きっと目はウサギのように赤く腫れあがっているだろうが、そんなこと気にも留めなかった。
「こっち向いてよ」
二言目を発さずとも、千賀子は素直に上体を起こし、向き合った。その簡単な動きですら、支える腕がぷるぷると小刻みに揺れている。
久しぶりに対面して、私は変わり果てた母親の顔に息を呑んだ。真っ白な肌に目立つ青黒い痣、こけた頬、ぐにゃりと曲がった鼻、色味を失くした唇。どれもあの濃い化粧のにやり顔とは結びつかない。鏡でこの姿を目に映したのなら、私に電話を寄越さなかったのにも、いまのいままで顔を見せなかったのにも納得がいく。
千賀子はへそをこちらに向けているものの、俯いて指の間をじっと眺め、目を合わそうとはしなかった。もともとプライドの高い人なだけあって頷ける仕草だが、こちらに素顔を晒す行為がどれほど千賀子の勇気を奮い立たせたのか、想像では計り知れない。
私は下を向いたその瞳に見えるよう、眼前に小指を出した。当然千賀子は吃驚し、そこで目を合わせた。まつ毛がすべて抜け落ちていた。
「これ、してよ。してくれないとさっきの約束、信じない」
千賀子は私の小指に視線を戻し、再び顔を上げ目を合わせた。咄嗟のことに頭が追いついていないのか。私はもう一度強調するように、ん!と小指を振った。
納得したのか、千賀子は小さく頷くと、その指に自分の小指を絡めた。繋がったのを待ってから、私はわざと病室の重苦しい雰囲気を壊すかのように、アホっぽくでかい声で指切りげんまんを歌った。歌中にお互いの指をリズムよく振ることも忘れない。
指切った!でお互いの小指が離れる。病室は再び静寂が訪れたが、二人の間には、どことなく清々しい空気が流れていた。たった数十分の出来事で、私の抱えた十八年間の苦痛から解かれたような開放的な気分だった。千賀子もなんだか、ほっとした顔をしていた。
今はそれでいい。これで許されたとは思っていないだろうが、今はとにかく初めて味わった母子の温かい世界に、浸っていたかった。
私は席を立った。まだ言うべきことがもう一つあることを忘れてはいけない。千賀子には少し待っててと言い、廊下に出る。だが目の届く範囲には、佑の姿は見当たらなかった。
「水無瀬さん……?」
途端、背後の千賀子は弾かれたように顔をあげた。
はっと大きく息を吸う千賀子に吃驚して振り返る。
「ど、どうしたの?」
目に映る千賀子は、なぜか怯えていた。
全身の血を抜かれたように酷く青ざめ、乾ききった目を見開く。
心配になって駆け寄ると、千賀子は私の腕にしがみつき、小さな声で、なんとか私に届く声で言った。
どうして、その名前を知ってるの。
34
*
目を開けたら、真っ白な天井が広がっていた。
薬品独特の匂いが鼻をつく。俺はベッドの上に寝かされていて、隣を見れば大量の花束やメッセージカード、フルーツや菓子の盛り合わせなんかが乱雑に棚の上に並べられていた。中には高級そうなものもちらほら見当たる。
どうしてこんなところに、と上半身を起き上がらせようとするが、なぜか上手くいかずにベッドの上でころりと転がる。たったこれだけの動きで、肩が激しく上下していた。
なにが起きているのか、俺は激しく混乱した。思い当たるものは何もないはずだった。
だが現状を確認しようと、もう一度起き上がろうとして、体の異変に気付いた。普通両手を軸に体を起こすものだが、左手はしっかりと伸びているものの、右手はまるで動かない。というか、感覚がない。
このとき自分の中で恐ろしい考えが頭を過り、右を向くのが怖くてできなかった。やがて元旦で親族が集まった時に何度か見た顔が、個室にぞろぞろと入ってきた。皆俺を一瞥すると、可哀想、といった顔で胸のあたりを押さえて目を反らす。
最後に皺くちゃな医師が俺の前に立ち、言い放った言葉を俺は思わず繰り返した。
「腕が、ない?」
先生は大丈夫だよ、と言いながら淡々と現状を話し始めた。内心これはドッキリなのではないかとか、単なる悪戯に巻き込まれているじゃないかとか、そんなことばかり考えていた。先生の話など微塵も聞いていなかったが、話の途中で毛布を軽く剥がされ、露わになった切断面を見て、俺は咄嗟に悲鳴を上げた。
先生は慣れたように俺の興奮を止めるようとするが、俺はすべての声を遮断し、頭を抱えてその場で叫び散らした。頭の上には左手が一本、乗っているだけであった。
「嘘だろ。どういうことだよ!なんで俺の、腕が。こんなんじゃなんもできねぇじゃねぇかよ!何とかしてくれよ、なぁ、なあ!」
ガキみたいに泣きじゃくって、先生にしがみついた。先生は苦い表情で、下を向くばかりだった。涙は滝のように零れ落ちる。
「絵、絵は?俺もう絵描けないのか?うそだろ、やめろよこんな冗談……俺は、絵がないと、絵がないと……」
はっと振り返り、メッセージカードに目を向けた。表に向いているものを手当たり次第読んでいく。
「奇跡の右手、がんばれ!」
「水無瀬くんが元気になりますように。」
「水無瀬さんの絵が好きで、昔からファンです。交通事故に遭われたと聞いて、メッセージを送ろうと決めました。ぜひ元気な姿でまた絵を描く姿を楽しみにしています。早く良くなりますように!」
「体調はいかがですか?まだニュースでは現状が報道されていないので、どれだけ重症かわかりませんが、一刻も早い回復をお祈りします」
「あなたの絵に勇気をもらいました。画家の道は厳しいと思いますが、僕もあなたを目指して頑張ってみようと思います」
「佑、次学校に来たときは、この前の賞のお祝い会するからな!絶対来いよ!」
「災難でしたね。奇跡の右手は最も注目されている画家としてプレッシャーもあると思いますが、焦らずあなたのペースで、頑張ってください。」
「次回作楽しみにしています!応援しています!」
多くの人に期待されているのは一目瞭然だった。俺は絵を描かなくては。でも、どうやって?奇跡の右手が右手を失ったら、どうやって期待に応えるんだ?
一つ読むたびに涙を十こぼし、また一つ読むたびに涙を百こぼした。どうして俺がこんな目に、どうして俺がこんな目に。俺はだんだんと、この悲劇を呼び起こした事故の瞬間を思い出していた。家族三人で企画した旅行。行きたいスポットを挙げ、楽しみだねと口を揃えた車中。なにもかも、幸せな時間だった。
ふと、あたりを見回した。
「……母さんと、父さんは?」
「そのことだけど、ね」急に、先生の顔が強張った。
話を聞いた俺は、頭が真っ白になった。
嘘をつくな、そんなわけない。そう喚いて止まない俺を宥めようとする周りの大人の青ざめた顔が、事実を物語っていた。
俺は全員の視線を浴びながら、静かに毛布に体を縮めて泣いた。
*
おちつけ、おちつけ……。胸元の服を掴み、大きく息を吸って、吐いた。
たまに想起することはあっても、ここまで鮮明な映像は初めてだった。想像以上に体力を奪われ、しばらく動けなかった。
まだ頭はくらくらしている。ここが現実なのか夢の中なのかどうかも判断できない。めまいがおさまるのを待ってから僕はゆっくりと立ち上がった。最初に視界に映りこんだのは、便器だった。どうやら戻ってきたようだと深く息を吐いた。
個室を出て、嘔吐による口元の不快感を洗い流すべく、廊下の水道で手を受け皿に、うがいを繰り返した。ハンカチで軽く口元と、ついでに噴き出た額の汗を拭き取り、個室前の廊下に再び立った。
もしトイレにいる間に話が済んでいたらどうしようと、僕は内心焦っていた。おそらく十分はあの場にいたのだろうから、ありえない話ではない。相手に見えないが繰り返し頭を下げ、そっとドアに聞き耳を立てた。
会話はなかった。要の声も聞こえない。ただ、要の母と思われる声が、唸り声をあげてどうやら泣いているようだった。その様子は非常に荒く、過呼吸でも起こすのではないかと心配した。僕には何が起きたのか全く理解できない。だがなんとなく、要はもうそこにはいないような気がした。
追い返されるのを覚悟で、僕はそのドアを引いた。
要の母であろう女性は地べたにペタリと座りこみ、床に水たまりを作っていた。僕が来たことにはまだ気付かない。見たところ要は確かにいないようだった。一歩、二歩と歩みを進め、ようやく千賀子は顔をあげた。
僕は千賀子の前でしゃがみ、涙で濡れた顔に聞く。
「突然、すみません。要……さんの連れですが、どこに行ったかわかりますか?」
母親の手前、ちゃん付けだといろいろと変に疑われそうな気がして、言い換えた。そもそもの話、僕の話がまだ母子の間でされていないのなら、不審者か何かと思われても仕方ないくらい不自然な話しかけ方だった。
だが千賀子はそんなことは全く気にしていないようだった。それどころかめいっぱい広げた目に僕を映し、赤ちゃんの発する喃語のように意味のない言葉を繰り返していた。
やがて千賀子は呼吸を挟むと、額を床にくっつけ、今度はしっかりと聞き取れた。
「ごめんなさい、水無瀬佑さん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「ちょ、やめてください!急にどうしたんですか!」
このときなぜ千賀子が僕の名を知っていたのか、まるで疑問に思わなかった。
千賀子は鼻水を垂らし、ぼさぼさの髪をさらに乱し、続ける。
「あの子が、要が、ずっとお世話になっていたというのに、それなのに、本当のことを告げずに、ごめんなさい……こんな形で再び会うことになって、ごめんなさい……」
あなたの両親を、右腕を奪ったのは、うちの主人なんです。
はっきりと、そう聞こえた。
35
拳銃で撃ち抜かれたように声も立てられず、ただ呆然と千賀子の謝るさまを見ていた。先ほど頭をあげてもらおうと伸ばした左手が、あと数センチというところで硬直して前に進まない。拭き取ったはずの汗は簡単に滑り落ち、水たまりに加わった。
僕は何も考えず、開けたままの口を強引に動かした。
「それって……あの事故の、犯人……?」
千賀子は苦虫を噛み潰したように顔を歪め、わずかに首を縦に振る。
「じゃぁ、酒に酔って、人を殺したって……僕たちの、こと……?」
また、縦に振る。その後、縋るように僕に弱弱しい声で懇願した。
「でも、要には教えていなかったんです。あの子はまだ小学生だったんです。だから今まで知らなかったんです。どうか責めないでください、お願いです。お願いします、どうか……」
少しずつ我を取り戻していく。むしろ取り乱しているのは千賀子の方で、僕はその姿を見て逆に落ち着き始めていた。
当然この件に要は全く関わっていないことは、要のこれまでの話でも理解している。だから要のことを責めるつもりも非難するつもりもない。だけどすごく、複雑な気分であることは否定できずにいた。
要の父親の引き起こした殺人事件に、まさかこんなにも自分が密接に関わっているなど微塵も考えてはいなかった。思えばあのとき僕も受験が迫った中学生であった。どうしても、とせがまれない限り、周りの大人が積極的に犯人を教えるようなことはしないだろう。たとえせがまれても、上手い具合に言い逃れて耳打ちしなかったかもしれない。
当時の僕は気になってはいたものの、訊くことはしなかった。一番大きな理由は、両親と右腕を失ったショックに押しつぶされ、それどころではなかったからだ。過去を引きずる性格だからか、その考えは今に至るまで一度も変わったことはない。
千賀子の泣きじゃくる声を耳でぼんやりと聞いていると、いつの間にか彼の中で先ほどの衝撃が嘘のように消え、気づけばこれを知った要はいまどうしているだろうと、どんな顔をしているだろうとそればかりを考えていた。
「要ちゃんとは、上手く話せましたか?」
「へ……?」
千賀子は一瞬遅れて反応を示した。なにがなんだかわからない、といった様子で目を点在させている。それでも返事が来るのを粘り強く待っていると、やがて唇を痛くなるほど噛みしめ、二度頷いた。涙はこの瞬間も絶えず流れ落ちる。
「そっか。ちゃんと、わかりあえたんですね。……要ちゃん、笑ってましたか?」
「……はい。すごく、いい笑顔でした」
激しい涙声は語尾を曖昧にさせたが、僕にはなんとなく伝わっていた。報告を聞いて、思わず頬が緩む。明らかに状況と表情が違うことはわかっているが、それでも嬉しいと思わずにはいられなかった。
伸ばしかけてひっこめた左手は、今度はすんなり千賀子の背中まで届いた。その背をさすり、千賀子の情緒を安定させる。
「要ちゃんのこと、もっと大切にしてあげてください。僕のことは気にしないで」
若干これでいいのか、と揺らぐ気持ちもあったが、言ってしまえば後悔など一つも残らなかった。
この対処は正しかったのだろうか。世間的に見れば非難を浴びるかもしれない。だがそれでも、すでに変わろうと必死な要ちゃんを、これから変わろうとする母親を、責めることなんてできなかった。やっと手と手を掴めた親子が共に前進しようとするところを、僕への気遣いでまた互いが離れるなんてこと、あってほしくない。僕にとってはそちらの方が苦痛だ。
大切にします、涙声を吹っ飛ばして放った千賀子の言葉を信じ、彼女の手を握る。手を離すと、一礼して病院を抜け出した。ただ走って、走って走って走って、足が棒になるまで会いたい人影を、探し続けた。
どれくらいの時間が立っただろう。白い息を振りまいてひたすら走り、気が付けば見覚えのある住宅が立ち並んでいた。さらに先へ進み、要の誕生日祝いの帰りに寄ったお気に入りの橋の上で一度立ち止まった。
運動不足の僕はすでに体力の限界を超えていた。痙攣でも起こしそうな勢いで足が震えている。静かに呼吸を整え、再び一歩一歩前へ進む。うるさかった呼吸音が小さくなると、今まで遮断されていた周りの音が次第に聞こえ始めた。自動車の発信音、鳥の鳴き声、波の跳ねる音……。
ふと立ち止まった。雑音に交じって、飛びぬけて鼓膜に触れるなにかがあった。そのなにかを聞こうと、止めた足をまたゆっくり前進させる。十ほど歩みを進めた時点で、耳に届くものの正体が明らかとなった。
欄干にもたれ掛かり、要が声を上げていた。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああ」
悲鳴にも聞こえるその声は涙を含んでおり、次第に声は弱弱しくなって消えた。
僕はその場で動くことができなかった。慰めに行くことも離れることもできず、ただ突っ立ってその声を見ていた。
腕が通るはずの、ぶら下がった右袖が冷風に当たって虚しく揺れていた。
十分ほど、そのまま立っていた。要は泣き続けた。やがて泣き果て、ゆっくりと濡れた顔をあげた。
そばにいた僕を目にし、要の顔は一気に真っ青になった。
「要ちゃん」
「あ、あの私……」
小さい声で口をもごもごと動かす要の近くまで寄り、僕はめいっぱい笑ってみせた。
「帰ろう」
要は勢いよく顔をあげた。
「え……」
「一緒に、帰ろう」
そう言ってアトリエのほうをちらりと示した。
困惑したように視線を彷徨わせる要に、なにも言わず、大きく頷いてみせた。
「なんで、怒らないんですか」泣き叫んだ後だからか、その声は掠れていた。
「要ちゃんのせいじゃないってわかってるよ。聞いた時はホントに驚いた。だけど、それで今の僕たちの関係を変える必要なんてないし……それにさ、今の僕たちには過去よりも、明日の笑顔のほうが大事でしょ。僕は明日も、要ちゃんと笑っていたい」
だから、ほら。
不格好に左手をのばす。こんなときにへらへら笑っていられるのはきっと僕だけかもしれない。
要は差し出された手を前に、大量の涙を零した。僕は手の甲で頬を流れる涙をやさしく拭う。
「要ちゃんはよく泣くよね。それってなんの涙?」
ひっく、としゃくりをこぼしつつも、要は丁寧に言葉を発した。
「水無瀬さんとこれからも一緒にいられることが嬉しくて……だからこれは、そういう涙です」
そう言って、首筋に汗を滲ませえくぼを浮かべる。
僕は思わずその華奢な体を抱きしめた。
わっ、と吃驚して声をあげた要だったが、次第に自らその背中に腕を回した。
あったかい幸せを、お腹いっぱいに飲み込む。
橋の欄干には、要が泣いている最中何度も指で書いたにこにこマークが、日の光に照らされて優しく微笑んでいた。
36
「そっか……じゃぁあまりアトリエ来れなくなっちゃうか」
僕は寂しさ半分、喜び半分の気持ちで、これからアトリエを出ようとする要を見送る。
要は鞄を背負い、靴を履いて頷く。
「今は退院した母との時間を作ろうと思います。高校を卒業するまでは、あの家で暮らすので」
表情の硬い要の顔を覗き込む。「……不安?」
「……ちょっとだけ」
「そうだよね。親との楽しい生活なんて、僕も昔の記憶からしかイメージできない」
「はい。……でもとりあえず、母のことを信じてみます」
そう言って小指を目の前にかざした。
「水無瀬さん」
「ん?」
「あの、卒業したら、わ、私のこと……」
どことなく恥じらいを見せる要に、僕は大きく頷いて見せた。
「うん。待ってる」
気持ちが和んだのか、強張らせていた要の頬が緩んだ。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
首を傾げる彼女をおいて部屋に駆けた。綺麗に包装された長方形の箱を手に要のもとへ戻る。照れくささとともに渡し、後頭部をポリポリ掻いた。
「これ、は……?」
「ずっと、持ってたんだよね。……渡しそびれたクリスマスプレゼント、ってことで」
「え、ほんとですか!」
途端に要の目が輝いた。
「開けても……いいですか?」
「う、うん」
結ばれたリボンをそろりと解き、中を覗き込んだ途端、要は一気に明るい表情をみせた。
「あ、これって!」
「ほんとはクリスマスには違う絵をあげようって用意してたんだけどね。いま渡すならこっちのほうがいいなって思って」
「この間のこと、覚えてたんですね」
箱に収められたキャンパスには、ダイヤモンドリリーの花が揺れていた。花瓶の奥では男の子が自身を抱きかかえしゃがみこんでいる。ぼかしているが、この男の子はきっと涙を流しながら笑みを浮かべている。
要は絵に目を留めたまま、ぽつりと呟いた。
「このとき、この瞬間、水無瀬さんはたくさんの人に慕われて、たくさんの人を笑顔にしていたんですね」
「……昔の僕にちょっと会いたかったとか、思う?」
「いえ、叶わないことを願ってもしょうがないです。でも」
要はすうっと息を吸い、僕に思い切りぶつけた。
「水無瀬さんはまだ諦めなくてもいいと思います!」
ふと出会った頃の映像が湧き上がり、思わず笑みが零れた。いつだってまっすぐに背中を押してくれるその姿が、最高にかっこよくて好きなのだ。
「諦めないって……なにを?」
「また有名になること!」
服が皺になるほど握りしめる要の右手が目に映る。
震える声が耳に残る。
あぁ、そっか。きっと彼女は、叶わない夢を願ってる。
「だけど、私はこれ以上なにも言いません。だってもう水無瀬さんは、」
要はアトリエの絵ぜんぶと目をあわせた。「この絵たちに笑顔を向けられるようになったんですから。私はそれだけで十分です」
要はじゅるりと鼻を鳴らす。
一歩下がり、目に涙を溜め込んでゆっくりと頭を下げた。
「いままで、たくさんの幸せをもらいました。ありがとうございました」
僕の目にも熱いものが溜まっていく。彼女の左手をとると、要は濡れた顔をあげた。
「僕も右腕を失って、希望も未来も、なにもないと思っていたから。手を差し伸べてくれて、立ち上がらせてくれて、なにより楽しい時間を、ありがとう」
要は首を横に振る。
「水無瀬さんがまた立ち上がれたのは、私じゃないです。恋のちから、ですよ」
「え?」
要はふふっと、甘い笑みを浮かべた。
「初恋って、そのあといろんな経験を重ねても意外と覚えてるものみたいなんです。絵に置き換えてみても、一緒じゃないですか?」
そういうことか。僕は相変わらず、要の想像する世界が好きみたいだ。胸がどきどきと大きく音を鳴らし、締め付けてくる。息が苦しいはずなのに、口角はあがってゆく。
「僕は、絵に二度も恋をしたんだ」
要がぎゅっと目を瞑る。涙の粒がはじけて広がった。
二人の温もった手が離れる。人差し指が求めようとするのを咄嗟に堪えた。
要はごくりと飲み込むと、袖ですべて拭い去り、思いきり笑ってみせた。
「それじゃぁ……行ってきます!」
「いってらっしゃい!」
笑顔で手を左右に振る要に、僕もちぎれそうなほど強く手を振り返した。要は真っ赤な頬にえくぼをのせ、名残惜しそうに静かに扉を閉めた。
佑は振っていた手をゆっくりと降ろす。頭に残った要の笑顔に心で何度も言った。
大丈夫、要ちゃんなら大丈夫。だから、頑張って。と。
アトリエを振り返った。飾られたたくさんの絵たちは、まるで僕と要を見守ってくれているように感じて、僕はその絵たちに笑いかけた。傍に寄り、真っ白なキャンパスに手をかける。
「僕も、もっと前に進もう」
左手は、すぐにでも筆を握りたい気持ちでいっぱいだった。
*********************************************
私は重い扉を開け、久しぶりの家に帰った。深呼吸を二度繰り返し、大きく一歩を踏み出してリビングに入った。リビングの扉は、すんなり開いた。
中では母の千賀子が、ごみ袋を片手に床に落ちた食べかすやらを拾い上げていた。千賀子は私の姿を認めると、気まずそうに目を伏せた。
「お母さん」
千賀子は手を止める。
「それ、手伝うよ。……終わったら夕飯、一緒に作ろう」
痩せ細った腕が伸ばしかけた手を引っ込める。げっそりした頬を向け、千賀子はほっと穏やかな表情を見せた。こんな風に優しい顔ができるのだと、私は初めて母親の綺麗な表情を目に映した。
37
桜の蕾が木々の間から覗いていた。昨日の雨で、蕾には雫が乗っかっている。日の光が当たってきらりと輝いていた。
「もうすぐ春だ」
僕はその光景を記憶に焼き付けると、急いでアトリエまで歩みを進めた。扉を開け、すぐさま大量に買い込んだ白いキャンパスの一つを取り出し、筆を握る。さっきの景色を要にも見せてあげたい、その思いで左手をキャンパスにぶつけた。
いままでは何かと描きあげた絵に対して気になる部分が浮かんでいたが、最近では少しずつ理想の形を表現できるようになっていた。右腕で描いたものとはまた違う雰囲気を帯びており、比較することも楽しみの一つとなっていった。
夢中で色を描き、気づけば朝になっていたなんてことも最近では多い気がする。そうやって一つ絵を描き上げ床に寝そべると、必ず頭に浮かぶのは要と過ごした日々だった。
最初に出会った時のこと、アトリエで話した他愛もない話、二人で寝る前におまじないをして。そうだ、神良に出かけたなぁ、クリスマスのお祝いもした。要をモデルに絵を描いて、橋の上で何度も告白みたいなことをして、抱きしめあって。
「いろいろ、あったなぁ」
朝の光に目をしばたかせ、ゆっくりと硬い床から体を離す。指先に触れた絵に目線を落とす。蕾のふんわり丸い形、今にも滑り落ちそうな雫。うん、よく描けてる。
腰を上げ、アトリエの絵と一つ一つ目を合わせていく。中二で初雪を見たときに描いたもの、中三の体育祭の後に描いたもの。最近描きあげたものもいくつもある。その絵を見ただけで、描いたころの映像が鮮明に頭の中に流れ込む。楽しかった記憶から、苦しかった記憶まで、全て。
僕から絵をとることなんて、できなかったんだ。
だってこんなにも、ここは愛情に包まれてる。
ここで浮かべた笑みを、流した涙を、無駄にするところだった。
僕は顔の前に左手を掲げた。真っすぐに伸びた指先、ペンのタコ。以前に比べて自身に満ち溢れているようだった。それは、右手なのではないかと錯覚してしまうほど、かっこよかった。
「……って、自分で思うのは変か」
思わず一人で苦笑する。
あぁでも、早く三月まで時が進んでほしい。だってきっと彼女なら、こんなときに真剣な顔で言うんだから。
そんなことないです。水無瀬さんは、かっこいいです!って。
僕はしゃがみこみ、転がった筆を握る。
どうせかっこいいって言われてしまうのなら、今のうちにかっこよくなろう。離れている時間はその準備期間なのだと自分に言い聞かせ、再び買い溜めておいた白いキャンパスの一つに手を伸ばした。
********************************************
「あぁ、久しぶりやね」
振り返ると斜め後ろで、よく美術館にくる顔なじみのおばあさんが立っていた。佑の作品「月下美人」を春に紹介してもらってから、月に二、三度は足を運んでいた。絵の中の女性の醸し出す雰囲気にのみこまれているのかもしれない。
私はおばあさんにぺこりと頭を下げた。
「最近来ていなかったけん、どうしたんかと思っとったよ」
「ちょっといろいろ会って、会いにいけなかったんです……。おばあさんは、水無瀬さんのファンなんですか?」
おばあさんは自慢げに大きく頷いた。
私もその反応に胸が躍る。
「私も、大ファンなんです。彼の作品にしかない魅力に、もう何度も引き寄せられちゃって」
うん、うん、とおばあさんはにこやかに話を聞いていた。
「好きな気持ちが十分に伝わってくるよ」
「おばあさんは、ファンになったきっかけの絵とか、あるんですか?」
「そうだねぇ。海外の美術館で、代表作『エール』を目にしたときは心を動かされたね。あのときは特に騒がれて有名な絵やったけん」
「『エール』ですか……」
題名は聞いたことがあったが、どのような作品なのか、詳しいところは何一つ知らなかった。どれだけネットや本で調べてみても出てこないものは数多くある。自分の知らない彼を知っているおばあさんが、羨ましくてたまらなかった。
「見たかったなぁ。水無瀬さんが輝いていた瞬間を」
水無瀬さんが、残した足跡を、ぜんぶ。
「あんたは……」
おばあさんはなにか言おうとして、目を逸らした。眼鏡を外すと、レンズをふき取りながら私に目を向けた。
「なんで、笑っとるとね。悲しいはずなのに」
言われて初めて、なぜか自然に笑えていることに気づいた。矛盾に首を傾げつつ、余計に笑みがこぼれる。
「変ですよね、こんな場面で笑ってるなんて。きっと水無瀬さんに期待しちゃってるからなのかもしれないです。あとは」
部屋の隅で、何度も描いたにこにこマークをが頭に浮かぶ。
「笑顔のおまじないの効果、です」
それはなんだと聞き返されたらちょっと恥ずかしいなぁなんて思いながら、堂々と言ってみる。ちらりとおばあさんの顔を覗くと、なぜか驚いていて、喜んでいた。
「あぁ、そうやったんか。あの子はいつまでたっても、子供だ」
おばあさんの目に輝きが増えたような気がする。
38
耳元でしつこく鳴り響くアラームの音に、脳が覚めた。瞬時に音を止めて体を起こす。まだ目が半開きの状態で時計に目をやる。午前十一時だった。
正直寝る前までの記憶はほとんどないのだが、完成した絵は確かに意味の籠った線を描いていた。一通り絵を眺めて頷くと、他の絵に加えてアトリエに飾った。頭を掻いて立ち上がり、部屋で水をひと口運ぶ。呑み込んでから長い息をつき、なんとなく部屋の中を歩いてみた。ベッドにソファ、キッチン、風呂場、机のまわり、窓の傍。どこに行っても、要の香りが残っていた。
僕は咄嗟に首を振った。だめだ、いまなら目を瞑っただけで過去にタイムスリップしてしまう。そうなったら確実に、寂しさしか残らない。
洗面所で顔を洗い、無理やり目を覚ました。ポケットの中が小さく震えた。取り出して携帯を開く。宏斗からただ一言、大学来い。とそれだけだった。
ふたを閉じ、なにも考えずすぐにコートを羽織った。こんな時は気を紛らわせるしかない、それが一番だと思ったのだ。アトリエを抜け靴を履いている最中、背後でカタンッとぶら下げられたたキャンパスの一つが落ちた。
「え?」
天井近くの高い位置に飾られたもののようだ。もとに戻そうと靴を脱ぎ捨て駆け寄った。うつ伏せになった絵を拾い上げる。絵を目隠しする布も一緒に落ちてきたので、なんの絵なのかはすぐにわかった。
あぁ、これか。
手に取ったそれは、僕がもともと用意してあったクリスマスプレゼントだった。ほんとうは十二月二十五日にこれをあげるつもりで見えない様にして飾っていたが、タイミングを見失って結局そのままになっていた。
「これ、やっぱりあげるべきだったかな」
それは奇跡の右手の代表作の下書きに当たる絵。要が会いたいと言っていた昔の僕が描いたものだ。これを渡せばもちろん要は喜んでくれるだろう。
だけど、それで彼女が昔の僕に会えたことになるのだろうか。
ふと、最後に要と話をした時に、彼女が残した言葉が頭を過った。
「水無瀬さんはまだ諦めなくてもいいと思います!」
有名に、なること。
確かに有名になれば、要は泣いて喜んでくれるかもしれない。
右腕を失った『奇跡の右手』が、再び返り咲くことができたら。事故にあったその日から、当たり前のように諦めていた道を、堂々と歩くことができたなら。
「最高、なんだろうなぁ」
脳内で妄想を繰り広げる。レッドカーペットなんか歩いたりして。……いや、それはちょっと恥ずかしい。だが、緩む口角に気づいてしまった。
僕は、また有名になりたい、と。
コンクールに出したいわけではない。賞がもらいたいわけではない。ただあの頃の輝きに触れたいという穴だらけの欲望を、どう埋めればいいんだろう。
頭を悩ませながら絵をもとの位置に戻す。少し奥に踏み入ったからか、なにかつるつるとしたものを踏んづけた。これは……便箋だ。拾い上げるまでもなくわかってしまうのは、心の中でつっかえていたものだったからだろう。
「四谷先生からの、手紙」
僕が事故で右腕を失くした数日後、つまり六年前にもらった手紙だった。何度も読みこんだために内容は濃く覚えている。たしか……。
記憶を一文ずつ蘇らせていく過程で、半開きだった口がみるみる大きく広がっていく。四谷先生のその言葉は、今の僕にとってとても重要で、必要なものだった。そして先生が大学に訪れた際に掛けてくれた、
「あなたがまたその気になっていただけたら、その時は全面的に協力させていただきたいですね」
これを信じるのなら、四谷先生にすべてを託すのなら。
気が付けば僕は手紙を握りしめ、扉を開けて駆けだしていた。もしかしたらもう、間に合わないのかもしれない。だけど、今は走りださなければ掴みかけた希望すら手放してしまいそうで、息を切らした。
駅へ向かう途中、近くで鳴る足音にふと振り返ると、目にしたものに思わず声を上げそうになった。
要だった。どうやら僕の存在には気づいていないようで、母親の千賀子とともに二人で歩いていた。お互い荷物を持ち合い、満面の笑み、とは言い難いが、穏やかな表情で語り合っていた。そのまま住宅街へ消えていく。
「要ちゃん、うまくいってるんだな」
ほっと胸を撫で下ろす。寂しさと嬉しさが入り混じる感情に、もう一つ大きな勇気が加わった。
四谷先生に会いに行こう。
僕の諦めていた夢が、彼女の叶えたい夢が、現実になるかもしれない。
39
電車を乗り継ぎ、聞いたこともない駅で降りた。手紙の最後に書かれた住所と照らし合わせながら少しづつ歩を進めていく。見上げるほどのビルがいくつも立ち並ぶ景色を目の当たりにし、浮いてないかと服装やらなにやら気になってしまうのを抑えた。
十分ほど歩いたところで、一面鏡張りのような高級感漂う建物が現れた。どうやらこの中の一室が、四谷先生の仕事場だという。引きつった頬をほぐし、一歩踏み出した。
広いエレベーターの端っこで時が過ぎるのをひたすら待ち、ようやく部屋の前へたどり着く。震える指で呼び鈴を押すと、中から出てきたのはやせ細った眼鏡の男性だった。
「はい、どちらさまでしょう」
「え、ええと……」
この場合、何と答えればいいのだろう。考えればアポイントすらとっていない、非常に失礼な訪問だ。
「水無瀬、佑です……」
よっぽど絵画の世界に詳しい人でなければ、突然名乗られたところで『奇跡の右手』だ、とはならないだろう。少しでも男性が首を傾げるようなら、一度引き返そうと心に決めた。
だが、向かい合う男性は眼鏡がずり落ちるほど目を見開き、勢いよく息を吸い込んで一歩あとずさりをした。首を傾げたのは僕の方だった。
「少々お待ちください」
言うなり男性はそそくさと部屋へ戻ってしまった。あれは僕のことを知っていての反応だろうか、と待ち時間にあれこれ考えだす。
男性はほどなくして再び顔をみせた。この時にはなぜか、僕よりも男性のほうが明らかに緊張しているようだった。額が軽く濡れている。
「ようこそおいで下さいました。どうぞ、お入りください」
最初の態度と比べて、やけに丁寧だった。あまり気を使われたくはないが、肩をすぼめて素早く中へお邪魔した。
「お待ちしておりました。お久しぶりですね」
玄関を抜けた先で僕を出迎えたのは、四谷先生だった。
「お久しぶりです。……すみません。突然押し掛けるようなこと」
「いえいえ」四谷先生は嬉しそうに首を振る。「貴方がお越しになることは、おおよそわかっていました」
えっ、と声をあげる僕に椅子を進め、四谷先生は向かい合うように腰かけた
「決心が、ついたのでしょう?六年前の」
「どうして、それが……」
四谷先生は目の周りの皺をふやした。「以前大学に伺ったとき、初めてお会いしましたね。その時思ったのです。六年前のあの日以降、絵に対して目も向けることのなかった貴方が少しづつ、向かい合っていることを。だから、あの手紙の相談もそろそろなのではないかと勝手ながら期待を寄せていました」
「そう、だったんですね」
先生と僕の目の前にコーヒーカップが置かれる。たちまち香ばしい匂いが鼻先まで立ち昇った。四谷先生はカップを手に取ると、香りを楽しんでからゆっくりと口へ運んだ。
僕はカップの中身を眺めながら、率直に思いを打ち明けた。
「一度断ったことを頼むなんて、非常識なことだと思います。四谷先生に悲しい思いをさせておきながら、再びお願いする身勝手な僕をお許しください」
僕はごくりと唾を呑み込むと、先生の目を見てはっきりと告げた。
「もう一度僕に、チャンスをいただけないでしょうか」
「チャンス、と言いますと」
四谷先生の口角は上がっていた。きっとこの瞬間の感情はお互いに一緒のものだろう。わくわくしていた。
「右腕を失った僕に、手を貸してください」
今の、あるべき姿の水無瀬佑で挑戦して、輝きたい。
「やっと、決断してくれました」
満足そうに四谷先生は大きく頷くと、ある一枚の紙を差し出した。僕は一礼して宣伝用のチラシと思われるそれに目を通す。一番に目に飛び込んできた大きなフォントに、心臓が飛び出るくらいの衝撃を受け思わず立ち上がった。
「よ、四谷先生、これは……」
「私は自身の勘を信じていますからね。貴方が今年、私の元を訪ねて頂けると。その為に準備を重ねているのは当然です」
「だからって、こんな大胆なこと……。僕が決心しなかったら、どうするおつもりだったんですか」
四谷先生はなんの問題もないといったように、穏やかに微笑んだ。「その時は、すべて私が責任を取るつもりでしたよ。でもほら、貴方はこうやって現れた。勘というものを信じるのも、悪くはないでしょう?」
四谷影猪は真の天才だ。
世界中が口にしたその言葉は、やはり正しかった。
「貴方がここにサインを入れるだけで、多くの人間が最終形態に向けて取り掛かります。さあ、どうぞ」
左手にペンが握られる。僕は責任の詰まった片腕を眺め、サインをする前に長年引っかかっていた疑問を投げかけた。
「あの、事故後頂いた六年前の手紙を見た時から思ってたんですけど。どうして今の僕を、使ってくれるんですか。”奇跡の右腕”に右腕はもうないというのに」
要とは違い、僕の過去を知っているのだ。普通なら、売れていた頃にするようなことを、どうしてこの人は今になっても続けようとするのだろう。どうして左手で描いた絵を見てもいないのに期待しているのだろう。
「貴方は自分自身のことをよく理解できていないのかもしれませんね」
「え?」
四谷先生はカップを机に置いた。その中身は、もう入っていなかった。
「貴方が右腕を失ったところで、あなた自身の魅力はなにも変わっていないのですよ。そしてそれをわかってくれる人は、この世界にたくさんいる」
「たくさん……」
「一度は世界を虜にさせたんですから。昔も今もあなたのファンだと胸を張って言っている人が大勢いるんです」
そう言ってスマートフォンを取り出すと、SNSを開きある一枚の写真を僕に見せた。
「これは?」
「一年前のものです。あなたのファン同士で集まりあって、あなたの魅力を語り合う会、だそうです」
写真には男女合わせてざっと五十人ほどが、仲良く写真を撮っている姿が映っていた。中には外国人の姿まである。みんな、僕のファン。
だが僕が胸を突かれたのは、写真の下に寄せられたファンのコメントだった。
奇跡の右手はもう終わったと世間はため息をついているようですが、私たちはそうは思いません。先生はこれまで数々の作品で私たちを感動させてくれた絵画の天才です。また機会があれば、先生が挑戦する意思があればどんな形でも脚光を浴びると信じています。
事故以来、水無瀬先生がどれだけの苦悩を背負ってきたのか、とても想像できません。ですがただ一つ先生に伝えたいことがあるとすれば、私たちはいつまでもあなたのファンでいるということです。どうか先生のペースで、歩き出してください。そしてまた世界を見つめる時間があれば、その時は全力で応援させてください。
水無瀬佑ファン一同
「かつて一世を風靡した画家、水無瀬佑の新たな挑戦を、誰もが期待していますよ」
―――なんだ、僕はとんだ、幸せ者じゃないか。
手紙の最後の文が脳内で繰り返される。それに覆いかぶさるように、四谷先生は再び繰り返した。
「貴方がデビューした三月二十八日、水無瀬佑個展を開催しませんか」
40
最終講義を終え、僕は息を吐いた。
講義中のノートをまじまじと眺めるが、きちんとメモは取れているもののどんな内容だったのか何も思い出せない。
三月まで時間がないということもあり、今まで描いた絵の選別や会場内部の確認作業などで睡眠時間を大幅に削られていた。そのこと自体はサインする前から薄々気づいていたし、僕自身も徐々に開催へと近づいていく興奮で疲れなど感じもしなかった。
それよりも、僕はひどく焦っていた。
今日のうちに、どうしても要に会わなければいけないのだ。どうやって時間を作ってもらおうかと、そればかりがもやもやと頭の中で浮かぶ。直接会いに行くのは……なんだか気が引ける。だからと言って電話番号を持っているわけでもない。じゃぁ、どうしよう。
頭をぼりぼり掻いた。
「覚えてる?いつの日か、要ちゃんが補導された日のこと」
隣に座っていた春は香水を振り撒きながら、突然そんなことを言い出した。いつの間にか講義中に爆睡していた宏斗は消えている。
「あぁ、ありましたね。宏斗と春さんが僕の家まで要ちゃんを送ってくれて……」
「そうそう。あれさ、警察のほうから私の携帯に迎えに来てほしいって電話があったからなんだよね」
「そう、だったんですか」
「うん。後で聞いたら水無瀬くんに迎えに来てもらったら、また心配かけちゃうと思ったからなんだって。ま、そこはどうでもいいんだけど。私が驚いたのはそのあと」
「そのあと?」
「要ちゃんが補導された理由聞いて吃驚しちゃった。水無瀬くん聞いてないでしょ?」
「いや、バイトで遅くなったからだって聞きましたけど……」
「じゃぁそれは嘘だね」
「えっ」断言されて瞬きする。
「や、バイトしてたっていうのは本当なんだけどね。あの時補導されたのは、バイトの帰りに起きたことが原因なの」
春は僕を横目で見ると、真正面を向いて静かに応えた。
「前に水無瀬くんと要ちゃん、神良でデートしたでしょ。あの時に、要ちゃんの同級生が二人のこと目撃したらしいの。しかもいじめっ子。それで「障がい者と遊んでる」って馬鹿にされて、要ちゃんは許せなくて突き飛ばしたんだって。そしたら向こうは三人で殴り掛かって来て、そのままケンカに発展しちゃったってわけ。驚いたでしょ」
僕は閉じかけていた瞼を全開にして体を起こした。
「驚いたな……知らないところで要ちゃんは、僕のことを守ってくれていたんだね」
「そうね、水無瀬くんよりカッコいいとこあるじゃない?」
「うん、ホントだ。要ちゃんばっかりかっこいいなぁ」
春はため息をついた。
「要ちゃんだって、同じ思いのはずだけど」
「そんなことないですよ」
「そんなことあるの」
ホントにもう、と頬を膨らませる春に、僕はふと疑問を抱いた。
「どうしていま、そのこと教えてくれたんですか?」
「んー」春は天井を仰いだ。「なんとなく」
「そうですか……」
「別に“水無瀬さんが寂しそうにしていたら、励ましてほしい”って誰かから頼まれたわけじゃないわよ」
「ちょっ、それって!」
春は唇に人差し指を当て、不敵に微笑んだ。
「私は知らないから。気になるなら直接聞いてみれば?どーせ頭には一人しか浮かんでないだろうし」
「だけど、要ちゃん携帯持ってなくて……」
「携帯なら買ったって聞いたわよ。ほら」
春はポケットから一枚の紙を抜いて差し出す。中には数字の羅列が並んでいた。
僕ははっと息を吸う。
「これって」
「久しぶりに声、聞いてきたら?」
しばらく紙を見つめ、それから僕は居ても立っても居られず講義室を飛び出した。
***********************************************
佑の背中から感じる溢れんばかりの喜びに、春はにやけがとまらなかった。
「あれ、佑は?」
スキップで現れた宏斗はコーラを二つぶら下げて、きょろきょろとあたりを見回した。
「要ちゃん絡み」
「あぁ、中学生の恋愛かよってな。じゃぁこれやるわ」
「ありがと。……宏斗はさ、恋とかしないの?」
「んー」宏斗は近くの机に腰かけ、コーラを半分まで喉に流した。「まぁ、春とこのまま友達付き合いでいられるとは思ってないけど」
そう言って、残りの半分を飲み干した。
「へぇ、それって告白?」
「そんなカッコいいもんじゃねぇよ」
春は冷たいコーラを握り直した。
「なんかあの二人見てたら、純粋な恋愛も悪くないかなって思ったんだよね」
「だったら」宏斗はコーラをゴミ箱にシュートさせ、春の手を取った。「手ぇ繋いでデートとか、するか」
「いいかもね。でも……」
言うと春は宏斗の首に手を回し、軽く口づけをした。
「私に告白するならここまでやってくれないと」
宏斗は苦笑した。
「俺らじゃ純粋な恋愛なんて無理だろ」
41
僕はバスに飛び乗ると、たどり着くまでにがらがらの座席にも座らずひたすらソワソワしていた。ちょうど彼女に、話さなければならないことがあったのだ。電話がつながってもいないのに、手に汗が滲んだ。
バスを降りると、その場で握りしめた番号を開き、携帯に打ち込んだ。だがいきなり掛けても大丈夫だろうかとか、いま出られない状況だったらどうしようだとか、いろんな考えが頭を過る、なかなか発信ボタンが押せずにいた。足は無意識に自宅までの道のりを歩き続ける。
「あ」
我に返り足を止めたそこは、お気に入りの橋の上だった。要とのたくさんの思い出が詰まったこの橋に、今日は月の光が流れ込んでいる。暖かい光に包まれているようで、緊張ぎみだった肩がすとんと落ちた。
川に背を向け、発信ボタンを押して耳に当てる。
「はい、梨谷です」
少しだけ低くて、だけど透き通った、何度も聞いたことのあるあの声が耳に流れ込んだ。胸がドキリと音を鳴らす。
「あ、あの、……水無瀬です」
言うなり電話の向こうからは、「ええ!」と大声が鳴り響いた。
「ご、ごめんなさい、大声出しちゃって……」
「いや、僕もいきなりでごめん。いま大丈夫?」
聞いた直後、電話の奥で車の通過音が聞こえた。どうやら外にいるようだ。
「はい。ちょうど学校帰りなので」
「そっか、よかった」
電話で話すことなんて初めてで、普段会って話すときよりもぎこちなくなってしまった。
「あの、久しぶり、だね」
「はい。……ほんとに、水無瀬さんなんですよね。なんか不思議な感じ」
「うん、ちょっと恥ずかしいよね」
「そう、ですね」
受話器の奥で足音が聞こえる。
「お母さんとの生活は、どう?」
要の息を吸う音が耳に入る。
「最初は、私があれやろうとかこれやろうとか、提案したのを全部引き受けてて、お母さんは罪悪感からかなんだか服従しているみたいになっちゃって。だから、このままで大丈夫かなって心配だったんです。
でも、ちゃんと自分の想い伝えることができて、そしたらお母さんも納得してくれて、今では結構お互い言い合ったりしてるんです。他の家とはちょっと違うかもしれないけど、私はお母さんとの今の関係、すごく満足しているんです。それもこれも、水無瀬さんのおかげなんですけどね」
「そんなことない、要ちゃんは一人で頑張ったんだから」
「そんなこと、あるんですよ」
要はクスリと笑った。
「え?」
「本当に水無瀬さんって、自分のことを卑下しますよね。私が水無瀬さんに助けられたのは事実だし、もっと自信を持てばいいのに」
以前の四谷先生の言葉と重なり、笑みが増す。
「うん、そうだね。天才にでもなれたら、自分を褒めてみるよ」
「なんですかそれ。……それより水無瀬さんは、最近どうですか?」
「どうって」
「大学ちゃんと行ってるとか、絵を描いてたり……?」
「あぁ」次第にまた口角が上がっていく。「大学は行ってる。それから絵も描いてるよ。毎日」
「もうすっかり、絵が手放せなくなりましたね」
ふふっと要の喜びがこぼれる。
「うん。最近、余計に楽しくなっちゃってさ」
「そうなんですね、見てみたいなぁ」
僕はどきりと胸を鳴らした。そうだ、言わなきゃ。宣伝が始まるのは今日の六時から。
その前に、誰よりも早く、伝えたい。
「あの、さ。実はこの電話で、要ちゃんに伝えたいことがあるんだけど」
高鳴る胸に手を当て、大きく深呼吸をした。要は静かに僕の言葉を待っている。
「アトリエにもう来なくなるって話をしてお別れした時、要ちゃんが言った言葉、覚えてる?」
「えっと、いろいろ言ったんですけど……印象に残っているのはやっぱり、また有名になることを諦めるな、ってやつですかね」
「そうそう。かっこよく放っていた、あのセリフ。僕あれからすごく気にかかってさ。見上げるくらいでかい夢を、今から目指そうなんて無謀だって、当たり前のように諦めてたから」
「うん。そうだろうなって、思ってました」
「でもさ、右腕を失って、要ちゃんに出会って、絵がまた好きになって。僕に新たな希望が生まれたんだ」
僕は振り返り、川に映る自分に笑いかけた。
「左手で、奇跡を描こうって」
なんで左手が残ってしまったんだろう、そんな悔し涙ばかり流すのはやめることにした。事故で何事もなく助かった『奇跡の左手』で、水無瀬佑の名を世界に轟かせたい。僕はたとえそれが何年かかろうと、追い続けると決断したのだ。
目を瞑り、心を落ち着かせた。
「その最初の一歩が、決まったんだ」
「決まった……?」
息を吸い、言いかけたところで、鼻先を辿る風にほんのり甘い香りがした。
知ってる、この香り。耳を澄ませば聞き慣れた足音が、声が、近くに感じる。僕は目を開き、迷わず振り返った。
「要、ちゃん……」
「なにが、決まったんですか?水無瀬さん」
制服姿で、携帯を耳に当てる要が、目の前にいた。
衝動で涙が出そうだった。会いたくて溜まらなかった思いがじんわりと溶けだす。久しぶり、なんて挨拶を呑み込み、再び激しく鳴らす心臓に気づかないふりをして話をつづけた。
「三月二十八日、僕の個展が開催されるんだ」
「個展……。ほんとう、ですか」
僕は大きく頷いた。一歩前に踏み出し、左手を差し出した。
「一緒に、フランスへ来てくれますか」
この瞬間、虫も車も、世界中が示し合わせたかのように静かな時間が生まれた。
月の光だけでもわかるくらい、要の頬はピンク色に染まっていった。握りしめていた拳を広げ、僕の左手を優しく包み込んだ。
「ぜひ、お願いします!」
そう闇夜に響かせると、途端に僕の胸に飛び込んだ。要がきつく抱きしめながら何度もおめでとう、おめでとう、とこぼした。僕も要の体を強く抱き寄せ、ありがとう、と何度も伝えた。
六時を知らせる鐘の音が、町中に轟いた。
42
「おい、気持ち悪いぞ」
宏斗が冷たい目線を注ぐ。
「ど、どこがだよ!返信を待ってるだけじゃん」
「だからって付きっきりになることないだろ。しかもなんだよ、お前は一向にガラケーの上に、新しく買ったって言う彼女もガラケーって。俺は昔の恋愛ドラマでも見させられてるのか?」
「うるさいなぁ、これが一番使いやすいんだよ……あ、来た!」
手の中で震える携帯をすぐさま開き、メールを確認する。
すごい!桜の蕾をもう見つけたんですね!とても綺麗です。ほんのり桃色で、今にも咲きそうな膨らみにわくわくが止まらないです。また好きな絵が増えちゃいました。今日も素敵な絵をありがとうございます。
私はいまお母さんと一緒にチョコレートを作っています。鈍感な水無瀬さんでもわかりますよね?バレンタインだからです!明日の朝、家のポストに入れておくので受け取ってください。その時少しでも逢えたらいいんですけど……水無瀬さんは朝が苦手だから無理はしないでくださいね。
要より
僕は携帯を握りしめ、目を見開いた。
「やばい宏斗……目覚まし時計がいる!」
「はぁ?」
最近の寝起きの悪さは異常で、結局目覚まし時計五個を駆使しても起きれなかった僕を、宏斗が一日中慰めることになった。高級店並みに美味しいチョコレートをひと口ひと口大切に頬張りながら、また絵を描き、メールを送り、ベッドの上で返信をいまかいまかと待ち侘び、メールが届くとまたにやけ、そんな日々を繰り返していた。
いま僕は世界中の誰よりも幸せだ。
十日、二十日と時は進み、思っていたよりも一か月はあっという間に過ぎて行った。辛いときだけじゃなく、幸せなときにも部屋で一人、宙に笑顔を描き続けた。きっと要も、同じものを描いていると信じて。
そして、卒業式の日が訪れた。
43
私は満開に咲き誇る桜の並木道を駆け抜けた。手には一輪の花。卒業式で生徒全員に配られたものだ。
ローファーで地面を蹴り、何度も通ったアトリエの前で足を止める。明りがついていた。長い階段を登りきり、鍵を解除する。ドアを開けるなり中に飛び込んだ。
「水無瀬さん!」
勢いよく上がりこんだ先で、水無瀬佑は座ったまま壁にもたれ掛け、首を垂れていた。
「寝てるの?」
返事はない。そうっと近づき、佑の前で腰を降ろした。下から顔を覗く。目を瞑っていた。思わずふふっと笑みがこぼれる。
もっと寝顔をみようと思った。視界を遮る彼の髪をゆっくりとはらい、さらに近づく。愛おしい顔が、目の前にあった。頬が熱くなるのを感じる。もっと、もっと、もっともっと近づいて、その唇に――
ふと、目があった。
「わあっ」
私は反射的に跳ね除け、尻餅をついてしまった。どうやらあのタイミングで目覚めてしまったらしい。佑は目を擦り、大丈夫?と微笑んだ。
「だ、大丈夫です……」
きっと顔は真っ赤になっているだろう。恥ずかしくて顔も背けてしまった。
この後どうしようかと頭の中をぐるぐる巡らせていると、背けた視線の先に、部屋の壁にギリギリ収まるくらいの大きなキャンパスを見つけた。
「え、これって」
「あぁ、要ちゃんの卒業祝いにと思って。ちょっと大きすぎたかな」
そう言って笑う佑の横で、私はごくりと喉を鳴らした。
三角座りで頭を埋める絵の中の少女。その背中には今にも飛び立ちそうな大きな翼が生えている。背景には桜の花びらがあらん限りに舞っていた。視界いっぱいに広がる鮮やかな景色は幸せなくらいずしりと重い感動に沈んだ。
少女にはたくさんの可能性が秘められているのだと感じさせるような一枚だった。約束されていない未来が輝き、希望の入り口が見える気がした。
もう立派に飛べるよ。
そんなことを、言われているようで。どうしようもなく笑顔が絶えなかった。
「張り切ってこんな大きいもの描いちゃった。今日が待ち遠しくてさ」
「水無瀬さん」
佑は首を傾げる。私は振り返り、力強く言い放った。
「さいっこうに感動しました!」
そうして満面の笑みを向ける。佑も笑みを返してくれた。
「うん。要ちゃんの笑顔も含めて、最高の作品になった」
私は照れつつも静かに頷き、そしてまた絵に視線を戻す。彼がこの絵を書いているとき、どんな表情だったのだろう。わくわくしていたのか、それとも真剣に向き合っていたのか。知りたくて知りたくて、また絵に夢中になった。
しばらく眺めていると、ふいに右手に触れるものがあった。吃驚して振り返る。
彼が私の手を握っていた。
何度も繋いだことのある手なのに、一瞬で顔が沸騰したようにまた熱くなった。お互い見つめあったまま、佑はさらに手をゆっくりと引く。握られた手は熱く、優しかった。
だんだん二人の距離が近づいていく。私は引き寄せられるままに体を預けていた。息があたるくらいまで顔が近づいて、すでに彼がなにをするのか想像できた。想像できたから、心臓がうるさく音を鳴らしていた。
寸前で目をあわせる。佑の頬も赤く染まっていた。
唇が触れ合う。
ぎこちない二人のキスは、長く続いた。握られた手はいつの間にか、お互いを求めあうように絡められていた。
やがて唇が離れる。
「ただいま」
佑の耳に囁く。
嬉しくて嬉しくて、なかなか口元に現れた笑みは抑えられない。佑は握られた左手をそっと離し、私の頬に浮かんだえくぼに手を添えた。それはとても幸せに溢れた表情だった。
「おかえり」
そう言って、あたたかく私の体を包み込んだ。
抱きしめあって顔いっぱいに浮かんだ二人の笑顔は、いつの日か宙に描いた笑顔とそっくりだった。
44
窓ガラスに顔を寄せはしゃぐ彼女の可愛さは、いつになっても慣れないものだった。
「ねえ、みて!あんなおっきい建物立ってる!前はなかったよね?」
僕も横から覗き込む。「ほんとだ。新しくできたんだね」
「明日、時間あるかな?行けそうかな?」
輝いた眼でこちらを振り返る。期待で胸を膨らませる姿に思わず頬が緩む。
「確認しておくね。たぶん行けると思う」
要は大きくガッツポーズをし、ベッドに寝転がった。鎖骨のあたりまで伸びた髪を撫で、ごろりとベッド越しに僕を見上げた。
「久しぶりだね、ここも」
上目遣いが僕の心を探る。隣に腰かけ、艶がかった黒髪に触れた。
「うん。あの頃、要はまだ十八だったからね」
「あー、若かったなぁ。今はもうおばさんだ」
「まだ三十前半でしょ。全然……」
「やめてー!戻りたくなっちゃう」僕の声を遮り、要は赤くなった頬に手を当てた。
全然、かわいいのに。
僕はふわふわのスリッパのつま先を整える。なにやら足の甲にあたる部分にフランス語の詩集がされているが、なんと書いてあるかまではわからない。
パリの一角にある少し値段の張るこのホテルを利用するのは、今日で二回目だ。朝ごはんが美味しいのと、眺めがいいのとで、僕も要も結構気に入っていた。
「あ!でもね。あの頃から変わらないものも、あるんだよ?」
「たとえば?」
ふふん、と鼻を鳴らし、要は上体を起こした。
「佑さんの個展はいつまでたっても緊張しちゃうし、佑さんの描く絵はなんど見たって涙が出るほど感動するんだよ」
そして僕の手に自分の手を重ねると、嬌笑を浮かべた。「知ってました?」
咄嗟に僕は顔を背けた。彼女は年を重ねるごとに僕の扱い方がわかってきている。毎回きゅううと締め付けられる胸を抑えるのに大変だ。
「……知ってるよ。こんなに一緒にいるんだから」
目の前の鏡に映った要は満足げに頷いた。
「あぁ、でも、いっちばん最初の個展は鮮明に覚えてるものですね」
「うわぁ、懐かしい。僕も忘れられないよ」僕は改めて座り直し、苦笑した。「あれは、最高潮の感動と、最大の苦悩の始まり、だったからね」
「その表現、すごくあってる!」
要は自然に僕の肩に頭を乗せた。要の香りがふんわりと鼻の上にのっかる。
「たった一枚だけ出展した左手の絵。賛否両論、でしたもんね」
「うん」
僕は知らず知らずのうちに筆を握る形で固定していた左手を眺める。
「個展は集客数も想定以上で大成功だったし、あの絵の良さを語る人で溢れてたけど、SNSじゃあの絵は右手とは比べる価値もない、なんて批判の嵐だったよねぇ」
あの絵、というのは、僕が要に出会って二度目に描いた、スーパームーンをバックに要を描いた絵のことだ。
「でも批判もあったおかげで、注目されまくったんですけどね」要は思い出し笑いをこぼす。
「あのときはきっと、世界中が佑さんのこと考えてましたよ」
ニュースで毎日のように報道され、仕事の電話が鳴りやまず、一日五十通近くの手紙がポストに詰まっていた。まさに一日で人生が変わった、とはこのことだろう。
「あぁ、そうか。うん、そうかも」
素直に思う。あのときの僕の注目度は桁違いだったと。
要は頭を起こして目を丸くした。
「佑さんが、自分の才能を認めるだなんて」
僕は頭を振る。「いや、ちがう。僕は努力しかできないから。つまり平凡」
「じゃあ、努力の天才ですね」
「え?」
「本気で努力できる人なんて、なかなかいないですよ」
それに、と言って要は腰に手を当てた。
「平凡な人は、あんな大復活劇を起こすことなんてできませんよ」
僕は自慢げな要の顔をじいっとみつめる。
「それって……”要”のこと?」
にやりと口角を上げ立ち上がると、要はくるりとその場で回って見せた。
「正解!」
四谷先生の家でサインをした日から、必ず成し遂げなければならないミッションが僕にはあると思っていた。一つは個展。そしてもう一つは、個展を開いたことで注目されている時期に、どれだけ人を惹きつける絵が描けるか。
これが復活するためにとても重要なことで、僕の今後の画家人生にかかっていると考えた。
その二つ目の勝負で、僕は「要」を描いた。
「まさか、”エール”を超すことになるなんて思わなかったなぁ」
「ほんとうに、左手で奇跡を起こしちゃったんですね」
「うん。なんか……夢みたい」
僕はベッドの脇に置いてあった鞄を引き寄せ、中から四つ折りの紙を取り出した。要が不思議そうに首を傾げる。僕が紙を開いたところで中身を覗いた要は、途端に悲鳴を上げた。
「ちょっ、ちょっと!なんでそんなものまだ持ってたんですか!?」
必死で紙を取り上げにきたので慌てて交わし、窓のほうへと逃げ込んだ。
「だってこれ、僕の大事なものだから」
「大事なもの!?ただのアンケートじゃん!」
要は顔を真っ赤にして手を伸ばす。
「ただの、なんて言わないでよ。僕のはじめての個展で要が書いてくれたものなんだから」
「た、大したこと書いてないじゃん……」
だんだんと恥ずかしくなったのか声が小さくなる。
僕は会場の景色を頭に思い浮かべた。数多くの名画家が集い、日本だけでなく世界中からファンが足を運び、たくさんの機材を持ったメディアに囲まれ、僕はあのとき、尋常じゃないくらい緊張していた。
その僕があがりきった肩を下ろせたのは、要の後ろ姿が見えたからだった。
「要ちゃっ……」
その背中だけで、子犬のように駆けていこうとしていた僕に振り返った要は、静かに微笑み、一礼した。
あつい熱が体中を巡り巡る。足も、頭も動かなくて、心臓だけが激しく揺れる。
あ、懐かしい。確かこの気持ちは。
初めて出会ったときに味わったもの。
僕の絵を眺めて、愛おしそうに目を細める。昔は綺麗だ、以上の言葉が浮かばなかったが、いまは彼女に問いかけてみたいことができた。
その瞳の先に、僕が映っていますか。
この後、僕の心を読んだかのようにこの問いの答えが、アンケートに書かれていた。
要の頬に手の甲を当てると、冷えた手がじんわりとあったまった。
「冷たい」要は右目を瞑り、僕の腕をぎゅっと掴む。
「ひとつ訊きたかったんだけど」
「なに?」
「あのとき、要はわざと僕のことを避けて、他人のふりをしてたよね?あれって……」
「ん、誤解しないでね。あれはその……佑さんの作った世界に、純粋にひとりのファンとして飲み込まれてみたくて」
「なるほどね」
僕は要の頬から手を離し、窓ガラスに背を預けた。
「どうだった?僕の世界は」
チラリと要をみて、すぐに手に握られたアンケートに目を落とした。感想などご自由にお書きください、と書かれた枠にはびっしりと文字が詰まっている。
「ずるいです。今更言わせるなんて」
「僕だってちょっとはいじわるさせてよ」
要は下の方で指を弄ったあと、ふうっと息を吐いた。
「以前、あなたと出会う前の私は、あなたの描いたたった一枚の絵をひたすら眺めては、この人はどんな人なんだろう、どんなことを考えてこれを描いたんだろう、とわくわくとドキドキでいっぱいでした。遊園地に行くような感覚に近いのかもしれません。
だけどあなたと出会って、あなたと共に時間を過ごして、いろんな経験を経た今絵を見たら、全然違う見え方になりました。
どの絵にもあなたの影を見つけて、あぁこの絵にはこんな思いがつまっているのか、こんなに汗を流して描いたのかって、更に絵の魅力に気づきます。絵画の世界はあまり詳しくないけれど、あなたのことを知っていくほどに絵の鑑賞が何倍も楽しくなっていきました。
この個展は、あなたの人生が描かれています。なんとなく見ていて思ったことですが、
あなたは、たくさんの方に愛されていますね。
絵の前で水無瀬さんの良さを語り合う人、眩しいくらいの笑顔で帰っていく人、この個展を支えるスタッフ。
愛に溢れたこの世界が、私は大好きです。
『水無瀬佑の奇跡 展』開催おめでとうございます。
そしてこの場にお呼びいただき、誠にありがとうございます。
これからのご活躍を、心より期待しております」
もう何度も読んだこの文を、彼女の口から聞けるとは。嬉しさを口元に浮かべる。
要は長い息をつき、僕の隣でもたれてそのまま座り込んだ。僕もかがみ、要のほうへ文字を傾けた。
「すごい、一言一句あってる」
「本音だから。間違えるわけないです」
窓の外のクラクションの音が部屋に響く。廊下のほうで家族連れの声が聞こえる。隣で要の小さな吐息がきこえる。
「今日まで、ほんとうに長かったね」
「長かった、ですね」
「でもやっと、ここまでこれた」
「……はい」
僕は紙を折りたたみポケットにしまいながら、天井の豪華なシャンデリアを眺めた。「もう、今のところ表舞台にでる予定はなかったよね?」
「ん?まぁ、そうだね」
「じゃぁ、今のうちにさ」僕はごくりと息を呑み込んだ。「式、あげとこうか」
え、と小さく呟く要に、僕はほら、と掌をみせる。
「外してた指輪、貸して。今までカメラが入るところじゃ外してたでしょ。そろそろ発表してもいいと思って」
掌に汗が渡っていくのがわかった。
「要には僕と一緒の指輪、堂々とつけてもらいたい」
要はぱちぱちと瞬きしたあと、ぎこちない動きで鞄から手に収まるサイズの箱を取り出した。はい、と言って緊張気味に手渡す。
箱のさらさらとした表面を撫で、中を開く。十年前アトリエで渡した指輪は、いまも変わらず光っていた。僕は慎重に手に取る。
「左手だして」
要の小さい手が差し出される。その薬指に、指輪はするりとはまった。
「待っててくれて、ありがとう」
要は首を振る。左手に輝く光を目に映し、懐かしい、と笑みを垂らした。しばらく堪能してから、あっと声を上げた。
「佑さんも、持ってきてください!つけますよ」
「そうだね、ちょっと待ってて」僕は鞄を漁り、要に同じ箱を差し出した。「どうしても、指輪をはめるのだけは苦手で……」
要は横に首を振り、箱を開けた。「大丈夫ですよ、私がいるんだから」
差し出した左手に、ゆっくりと指輪がはめられる。僕たちは指に収まった指輪を重ねた。
右腕を失くした奇跡の右手。
残った左手の可能性を、僕はいままで見逃していた。
それを拾ってくれたのは―――。
『要』は、彼女にしかない色、僕の人生に必要な色で染められていた。
僕の落とした左手を