夜を歌う
いつかの歌詞のない歌を歌っていると、水面が微かに揺らめいて、漣が覚束ない足取りで、わたしの方へ駆けてくるのが視えた気がした。遠い国からきみが、新しい姿になって迎えに来てくれたのだろうか。手に触れれば儚く融ける沫雪のような、歌詞のない透明な歌を、喉が枯れるまで、目の前が見えなくなるまできみと歌っていた、あの日。空は相変わらず冷たくて、相変わらず正直ではなかった。陽が沈み、あたりが暗闇と静寂に塗り潰されたときには、呼吸と足音を手綱にして、互いを見失わないように、並んで歩いていた。帰る場所なんかなくたって、きみといられたら、それでよかった。劫末を信じて新しい朝に抗い続けていたわたしたちは、日々の変わらない夕景に心を奪われ、時間を忘れているときが無上の幸せだった。噛みちぎった罪悪が聯亙して襲いかかってきても、歌に護られているあいだは、なにも感じなかった。ある日、きみはわたしの前から姿を消して、わたしは独りになってしまった。ふたりで歌っていたいつもの場所にいってみても、きみの気配はどこにも見当たらなかった。きみを忘れてしまうのが酷く苦しくて、わたしは新しい歌をつくって、そこにきみのことを閉じ込めた。一瞬が、永遠になった。どどめ色の空がわたしを見下ろしている。わたしは臆することなく、その歌を声が嗄れても歌い続けた。きみが隣にいる気がした。きみと出逢ったことがわたしのすべてだったのかもしれないし、もしかしたら最初からきみは存在しなかったのかもしれない。たとえ幻影のなかに消えてしまったとしても、わたしたちの歌のなかでわたしたちは絶えず息づいていて、わたしたちは果てない。腹が膨れたら、またふたりで海にいこうか。きみの姿が変わっても、わたしの姿が変わっても、だいじなことを見失わない限り、また巡り逢えるとおもう。水平線を掴んで、心臓が意志を萌す。生きていれば、また逢える。だからわたしはきょうも、歌詞のない歌を歌うよ。
夜を歌う