bloom wonder 2
誤字等あったらごめんなさい。(イラストは志村マネージャーです)
Daily time schedule
洋菓子店『paigue』の朝は早い。
まず、厨房・焼きもの担当の久慈継穂(28歳・男)。
まだ暗い早朝4時前に自転車で出勤。裏口から店に入り、電源や厨房の空調、焼き窯のスイッチ、水道やガスの元栓など、夜間に休眠状態だったあらゆるものをスタンバイしていく。
ショートケーキ、季節のロールケーキなど、店に置かれる多彩なケーキの基礎として使われるスポンジや、シュー生地、パイ生地、タルト、スフレ、焼き菓子など、その日製造する予定の品目の基礎を作る。焼き釜を通して供される品物は、彼の手によるものが多い。
七原とはまた別の意味合いで、朴訥で余計なことは喋らない、実直な性格。彼の作業姿を見ると、俺はなんとなく森の奥の山小屋でクマさんがハチミツ入りのケーキを捏ねている場面を連想してしまう。
『窯の守り番』といったイメージだ。
それから約1時間半後の朝5時半、店の若年メンバーの一人である宮蔵青(23歳・男)が、これも自転車に跨って元気に出勤。店の従業員用駐輪スペースの壁面には、奴が自転車ごと体当たりをかました痕跡がいくつもある。ブレーキの意味はあるのか。
宮蔵が店に来てまずやることは、焼きの作業で出た洗い物や、器具の片付けだ。久慈が自分のスケジュールをこなそうとすると、なかなかそこまで手が回らないのだ。担いできたショルダーリュックをロッカーに投げ込み、コックコートに着替え、久慈が製作したケーキの副産物を、片っぱしから片付けていく。宮蔵が自分のおもな担当区分であるガナッシュやムース生地、クリーム作りの作業に取り掛かるのは、それが終わってからのことになる。
小柄な体で手近なものを巻き上げるかのように、ぱきぱきと仕事をこなしていくさまは、さながらちびっこサイズの竜巻一過の様相だ。「早起きは超絶得意なので、もっと早く来てもいい」という主張を久慈がやんわりと退けたのが、ただの遠慮や思いやりからなるものかは不明だ。
俺はひそかに宮蔵のことを、『瞬発性バカ』と呼んでいる。
厨房メンバー最終便が到着するのが、午前6時。
新名昴(19歳・男)。新名晶(19・女)。ふたりそろって電車通勤。
彼らは二卵性の双生児で、他人の俺からすれば顔は瓜二つというくらいそっくりなのだが、髪型やファッションでわりかしすぐに見分けがつく。
兄のすばるは、¥1000カットをこよなく愛利用し、非常にシンプルな服装を好むので、ぱっと見棒人間とか全身タイツとそんなに変わりない感じだ。一方、妹のあきらは、それなりにこだわりがあるようで、ベリーショートに近い短髪で、どちらかといえばモノトーン寄りのモード系ながらも、ポイントにスタッズを取り入れるなど、ちょこっとパンチを効かせたボーイッシュなスタイルをしている。前に、高校の学園祭で2人で女装をしたと言っていたが、あきらの方は女装じゃねーだろ、とは誰も言わなかった。
2人はおもに洋菓子の組み立て担当。久慈と瞬発性バカが製作したパーツを、双子ならではのコンビネーションで、次々に組み立てていく。パティスリーの魅せ場と言っていい工程だ。実際、同じ顔が2つ並んでくるくると入れ替わるように立ち働く様は、妙なシュールさとライヴ感があって見応えがある。出来上がった際にポーズを決めてちょっとした編集でも加えれば、そこそこ視聴数の稼げる投稿動画が出来そうだ。
なお、2人の会話は特殊な周波数の早口で、常人には聞き取りにくいことが多いため、字幕は必須と思われる。
藤村蓮樹(23歳・男)。同じく、電車での出勤。
実家が金沢の老舗菓子店を営む社長御曹司。社長業見習い修行中ということで、5年の期限付き就労の滞在3年目。おっとりと人当たりが良く、立ちそうな角あらば丸めようと務めるあたりに、育ちの良さを感じる。
就労の趣旨上、すでに一通りのことは修了済みの彼に、決められた担当区分というものはなく、厨房でも接客でも、頼まれたり手が足りなさそうだったりするところへさっと行って、流動的に手伝いをする。隙間を埋める天性の才というか、入り方がナチュラルで、ちょっとしたエクスキューズにも嫌味がない。
ちなみに家から許諾をもらった5年の”ワーキングホリデー”だが、いずれ家督を継ぐその前に、目ぼしい店を何軒か漫遊する気でいたらしい。なんで居着きたくなったのかと軽い気持ちで話を振ったら、言葉を濁しつつ顔を真っ赤にしていた。ので、武士の情けでそれ以上の追求はしないでおくことにした。……というのは嘘で、正直あまり興味が沸かなかったというのが真実だ。御曹司はけっこう分かり易い。
名前からしてすでにイケメンだし、背もそこそこあるし、金だってあるし、品もよく声もいい。天は惜しみなく彼に与えたもうた。が、女にはモテない。きっと、むやみに人の反感を買うことにより不当な差別に身を滅ぼされないための、最後の配分というやつなんだろう。
彼を見ていると、神が思ったよりちゃんとしているのだということが、びしびしと伝わってくる。
七原千彰(29歳・男)。
パティシエ。職人の中でも変わり種。多分、天才肌といってもいいんだろうけど、カリスマ性や能動的なオーラは皆無だ。
七原の住んでいるところは店から程近い場所にあるとのことで、出勤は徒歩だ。ちょっと羨ましい。
朝一番に来てまずやることは、ショコラの在庫表確認。季節商品や発売日が決められているものなど、あらかじめスケジュールが組まれていることもあるが、基本的には常時取扱商品の動きを見て、都度マネージャーや販売担当者と確認程度の軽い打ち合わせをし、その上でその日の仕事内容が決まる。
最近ではちょっとしたことではあるものの、俺の意見を聞かれることもある。しかし七原の反応は限りなく薄く、もしかしたら自分はスポットライトを浴びながら独り言を言ってるんじゃないかと、不安に襲われることもしばしばだ。
『paigue』では俺の入る少し前から、店の方針でショコラ部門に力を入れている。実際に売り上げのパーセンテージもじわじわと伸びていて、現在では七原はほとんどショコラ専門職人のようになっている。その負荷が増えたために、俺が動員されているわけだ。
久慈のように30キロや40キロのものを持ち上げるような重量級の仕事ではないし、それでもたまに必要とされる力仕事はだいたい俺がやっている。仕事は忙しく、2人で効率良く回した上で、たまにアクロバティックに他の人間の手伝いをこなす。
一方で同じようにハードなペース配分であろうと、七原が決して急いだり、力んだりしているように見えないことが不思議だ。体力の配分法というか、力の使い方にそもそも違いがあるのか、七原は細身の体で、倒れそうで倒れない道ばたの草のように、変わることのない無表情でひよひよと仕事をしている。
ところで、最近俺は店の面々の七原に対する見方というか扱いが、村人とお地蔵さんとの関係性に類似しているということに気が付いた。
村の外れにあるお地蔵さんは表情もなく何も語りかけてはくれないが、村人たちは四季の折々に「昨夜風に飛ばされた枝葉で、お地蔵さんが汚れてはおるまいか」「お供え物は足りているだろうか」「雪が降ったが、地蔵様が寒がってはおられまいか」と常に気にかけている。何の予兆もなく、そんな図がありありと脳内に浮かんだ。
”七原地蔵説”発見の瞬間は、まさに本人と向き合って仕事をしている最中で、あれは、自分のイメージのビジュアルフラッシュ能力に屈服しかけた瞬間だった。なんとか真顔で堪えたが。
わずかに「ふすっ」と歯間から吹き出した時、七原がちょっとびっくりしたみたいな顔をしてバチっと目が合ったので、俺も驚いた。何、今の?って感じだった。静電気が走ったのに、ちょっと似ていて。ほんの一瞬ではあったけど。
三島一臣(21歳・男)
俺だ。
「俺だ」って。………ふっ。
───で、ここから接客等のフロアスタッフ組。
武蔵野糸鶴(25歳・女)。通称シズ。
仕入れ・配達・広報・ときどき接客担当。
通常の出勤時間は朝8時。店所有の軽トラでの通勤だ。
まず最初にすることは、宅配や予約状況の把握と、各担当者への確認。そして店内の清掃と、焼き菓子など常温菓子の補充。フリペ各種や『paigue』で発行する季刊チラシ(シズが製作する)を並べたり、店内ディスプレイ作業。使用前のグラスや食器類の、汚れや欠けの点検。
フロアの一角で野菜の直売を行っている火曜と金曜は、30分早く来て、運び込んできた野菜や果物とお話をしたり、POPを手作りしたりしている。さらにヒマを見つけてはシャッター音を鳴らしながら店の内外を徘徊し、店のブログの更新などもしている。………どうも、ちまちまとした作業が好きなようだ。店に野菜を置くことを挙手でハイハイと提案したり、この店でやる企画モノには、大抵シズが携わっている。
仕事としては、決まった仕入れ日以外農家さんに顔を出す必要は無いはずなのだが、出勤前に契約農家の畑に寄っているらしく、おそらく持ち物の総重量の8割以上が野菜と持たされた弁当だ。シズ、がちで戦力にされているっぽい。なので、そう遠くはないうちにあそこん家の子になるのではないかと、俺は踏んでいる。
森見修(33歳・男)。
おしゃれメガネ&パーマに私服&エプロン着用のバリスタファッションが様になっている、我が店の顔の1人。泰然自若&クールキャラのバリスタ担当。
『paigue』の各自の出勤時間はだいたい決まっているものの、繁忙期やイレギュラーな場合を除いては、周りの仕事内容を見てすり合わせるなど、それぞれの自主性に任せられることが多い。それが固定化した結果が、今の出勤時間となっている。そんな中、この人のみがどういうわけかのフレックス制で、フレキシブルな時間帯にシチリアン高級リゾートみたいな気だるい雰囲気を纏わせながらおもむろに歩いてくる。で、エプロンを結ぶ衣擦れの音とかをさせながらカウンターに立つなり、女の子に「何飲みたい?」とか聞いちゃうのだ。
この人はもう、格好いいというか、だるい。そしてエロい。以上だ。
信永さん(59歳・男)。
森見と並び、『paigue』フロアエリア双璧の一人。マネージャーの志村を除けば唯一、創業時からの最古参。ベテランフロアマネージャーだ。接客のスキルももちろんすごいのだが、どちらかと言うと、店そのもののコンセプトより、もっとハイソでアカデミックな方面出身の人なのではないかって気がしている。なにか、こう。明らかに人種が違う感じがするし。
とくに、シズと宮蔵なんかが、信永さんに懐ていてると、彼らの尊厳に配慮した上で控えめに言ったところで、英国紳士にサルが群がっているようにしか見えないのだ。画的に。
滑稽すぎて、俺はなんだか切なくなってしまう。
銀行だか省庁だかに勤めていたとか、満を持しての栄転出向だかを蹴ってここへ来たなどという、胡散臭くもそれっぽいウワサもある。本人に聞いたところで、ものすごく感じ良く躱されてしまうので、もし実際のところを知っているのだとしたらマネージャーかオーナーくらいなんじゃないかと俺は思っている。
修さんはサルな俺たちとは違い、なんだか次元の高そうな会話もしているように見受けられるが、そういったところへ何の迷いもなく乱入するのは、サンダル履きでエベレスト登頂を目指すようなアホだけだ。
とはいえ、下々の者と一線を画すような近寄りがたさというものはなく、あまりにもさりげなく紳士そのもののアルカイックな笑顔で迎えられているうちに、なんだか自分が特別な飴を貰える何者かであるような錯覚に陥り、実家にいるのとは別ものの『高級なおじいちゃん』と勘違いしている輩もちらほらといる。
親しみやすく穏やかで、おそらくは信永さんからしたら愚にもつかないものであろう、どうということもない世話話に、感心しきりといった風に耳を傾けてみたり、時にあまり性質のよろしいとは言い難い、いわゆる”自意識高い系”のお客様の、尽きることなく湧き出してくる噂話や自慢話を、火に油を注ぐこともなく穏やかにハイソな話に差し替えて、最終的には相手に花を持たせるような形で捌ききってしまう手腕はまさに、ザ・プロフェッショナル。接客業の鑑としか言いようがない。
しかし俺はひそかに信永さんの真骨頂は、接客中に自分個人のことを何ひとつ話していないことを、相手にまったく悟らせないという点なのではないかと思っている。
なおかつ、就職1年以上経っていまだに信永さんの下の名前を知らなかったり。もしかして”信永”の方が下なのか。なんならば本名をかすりもしない通称ってことだって、可能性としてはなくもないのだ。
志村という女
志村すみれ(31歳・女)は齢25にして『paigue』オーナー代理に就任すると間もなく、リスクを恐れない人材登用や、異業種間での提携など、実験的な計略をがんがん実践し、それまではテイクアウトが主体の”街の洋菓子屋さん”だった『paigue』が、現在の形態に至るまでの道筋をつくった。
代理とはいっても、『paigue』先代社長であり創業者でもある”オーナー”のリタイア宣言とともに、全ての権限は志村に譲渡してあるため、事実上、志村が『paigue』現最高責任者ということになる。
ちなみに、6年前のある日、ぱちぱちと手を叩いて「ハイみんな、注目注目〜」と全員の耳目をあつめたのち、唐突に突きつけられた、オーナー・荒木公太郎によるリタイア宣言は、『2・12ハム太郎トンズラ事件』として、実際にオーナー本人を見たことのないスタッフの間でさえあまりにも有名だ。
結果的には、先見の明から後進のための勇退を果たした功労者として称えられているとかいないとか、賛否両論併せ持つ、”『paigue』の立役者”であり、他にも彼に関する逸話は多い。
お世辞にも”立志伝中の人”と言い切ることができないのは、経営者としての最後のキメ台詞が「あのねボク、ハワイに住むことにしたから」だったのだから、仕方がないといえば仕方がない。大胆を超えて破壊的ともいえる経営戦略も、ただの思いつきとしか思えない現職の職場放棄により、オーナー業を押し付けられることとなった志村が当時それだけブチ切れていたせいだとも言われていて、本人も「この上あんなもんの名目まで引き継ぐなんて冗談じゃない」と口にしている。
そして、”オーナー不在”の『paigue』には、ちょっとした霊感の持ち主なら目を凝らせば物陰にアロハシャツのおっさんの残像を目視ることができるんではないかという程度に、オーナーが存分に垂れ流し、志村がついに拭い去ることが出来なかった、ゆるき良き時代の気風が、今もなお店のそこここに漂っている。
なお、荒木オーナーは妻とともに健在。現在はハワイで悠々自適の生活を送っているとのことだ。
そんなこんなで。
俺、三島一臣は、志村のことが嫌いだ。どれくらい嫌かというと、イクラのぎっしり入った丼にフリスクをトッピングして、チョコバナナシェイクをぶっかけたものを『店のサービス』と称して小粋に振舞われるくらいに気に召さない。
あの女とは、そもそも第一印象からして最悪だった。今だって初対面を思い出すだけでも脳が浜辺に打ち上げられて、座礁しそうなくらいのストレスを感じてしまう。
1年と少し前、とある人からの勧誘で俺は、現在勤める『paigue』の門戸を叩いた。『とある人』とはつまり、『とある人』だ。
で、顔見せとして挨拶に行った就職初日、執務室というのか、書斎のような仕様のオーナー室に通された俺は戸惑っていた。何でかというと、まさか若い女がオーナー室の、それもこの店の一番偉い人が座るであろう席に臆面もなく堂々と腰を掛け、歓迎というにはあまりにほど遠い醒めた目で迎え入れられるとは、夢にも思っていなかったからだ。それも、取りつく島もないような、”美人”に。
実態を知らなかったとはいえ、あの時第一に”美人”という印象を覚えてしまったことが、今もなおえらい屈辱を引きずり続けている所以だ。心の目を開いた今の自分には、美女の皮を一枚被っただけの無礼で粗暴な野人にしか思えないのに。
ともあれ、ある種の”美人”というのは特別何もしなくとも、居るだけで十分な威圧を放つ。
当時はあって然るべき通り一遍の儀礼文句すらないことにかなりな違和感はあったものの、立場的には雇われるこちらの方が下手に出るのがスジなのかとも思い、履歴書にも書いてある”通り一遍”の経歴を軽くなぞり、ふたたび会話が途切れ不自然な沈黙が落ちる前に、自分が勧誘を受ける決め手となった提示条件である、製菓専門学校への”奨学金半額返金制度”のことにも触れてみた。
店の制度の恩恵を受けたことに対し殊勝に礼を言っておくべきだろうと、その時は思ったのだ。しかし開口一番、志村が言い放った言葉は、
「はっ。ねえよ、そんな制度」
予断の隙など微塵もない、抜けるような声にギョッとした。
思わず「いや、でも授業料はもうとっくに………」いったものの、あとの言葉が続かなかった。今さら制度が存在しないと言われたところで、すでに受け取り、支払いが済んでいるものはどうすればいいというのか。面接の際に口先三寸で獲得した特待減額分を考慮したところで、かかった授業料は安いものじゃない。そもそも、それじゃあ詐欺じゃないのか。
生来無口ではないはずの自分が黙り込むほどに、混乱をしていた。そこへ、フンと短いため息が聞こえた。いや、鼻で笑ったという表現の方が近いか。
「おおかたジジイの口車にでも乗せられたんだろうが。心配しなくても、返す必要はない。こっちとしても、残り少ない余生の道楽にまで口を出すつもりは毛頭ない。というよりもあいつの言うことは、否定するより右から左に聞き流しておいた方が、苦痛と労力が最小限で済むってだけのことだけどな。ただ、ここへ来た経緯についても、店の───特に若い連中にはあまりおおっぴらにしないでくれないか。やっかんだあいつらに駄々をこねられでもしたら、ちょっと面倒だ」
尊大な美人は、目鼻をくしゃっと顰めるような顔をした。これはまさか、ウインクをした………のか?
「まあ、あとの細かいことはここへ案内してくれたノブナガさんにでも聞いてくれ。とりあえず、半年間はバイト扱いの仮採用って話は聞いてるよな」
「はい」と答える。それ以外、言うべき言葉が見つからない。というか、ヘタなことを口にする気は失せていた。なんなんだよ、こいつは。普通もっと、なんかあるだろう。親しみどころか、配慮も何もあったもんじゃない。”自分にまるで関心を払われていない”ということだけが明確にわかるだけの、無味乾燥なやりとりだ。
これが通過儀礼や何がしかの意味を含んだパフォーマンスなのだとしたら、かなり悪趣味だ。だとすれば、気を悪くする顔さえしたくない。間違ってもこういう人間にだけは、足元を掬われたくない。
そう思った。
頭をひとつ下げ、入ってきたドアへ振り返った時「ああ、そうだ」という声が背後からし、思わず鼻白んだ。まだ、なにか続きがあったらしい。
「辞めたくなったら、なるべく早いうちに言ってくれ。すぐに他を当たる」
──────接見は時間にして5分あったかなかったか、だいたいその程度のことだったと思う。
多少なりと、自分が面喰いであるという自覚は持っている。だけどたったそれだけの間に、そこそこ以上の容姿の持ち主に対し、これだけの悪印象を抱いたのは記録だ。とくに最後のひと言では、信管のピンが抜ける音がはっきりと聞こえたかのようだった。
志村に会って良かったことを、無理にでもこじつけるのだとすれば、自分は単に顔の美醜ばかりにとらわれているわけではないのだという、あらたな発見と証明があったことくらいか。
店で働き出すようになって幸いだったのは、『paigue』が志村との面接で警戒したような、ガチガチの独裁制とは違っていたこと。店員たちの間には、客前でもそれ以外でも、作りものめいた親しさを演じ合うような気配はまったくなかった。何より一番良かったのは、志村に顔をあわせる機会がほとんどないということだろう。どうやら志村のおもな仕事は、ネットや電話を介してのものだったり、外で人と会っての折衝ごとが多いようだ。そうで無かったのだとしても、自分に関わるのでない限り、志村のことなどどうでも良かった。
『paigue』では、一応の肩書きこそあるものの、それは単なる役割としての肩書きであり、こうあるべきという図式があってのものではないらしいということも、しばらく働いているうちになんとなく雰囲気で理解った。そして、志村はとてもエラそうな女だったが、偉そうなのは肩書きと態度だけで、店の人間に嫌われたり、煙たがられているわけではなさそうだということも同時に察せられたので、感情に任せた迂闊な発言は控えようということも、それとなく心に留めた。
bloom wonder 2
ありがとうございました。