溺れる信号

 この家に戻るのは一体何度目だろうと思う。
 海沿いに建った白い壁と青い屋根の家の横に車をつける。近くの街から車で2時間、山間の舗装されていない道の凹凸を乗り越えて、やっと見えてくる。遮蔽物のない広い青空と、どこまでも広がる大海原と、そこにポツンと建つ白い家。
 ここは私の叔父が住んでいた家だった。海の好きな叔父が釣りや遊泳をするために、海のすぐ近くに家を作ったらしい。叔父は亡くなったので、もういない。そして、なんでか相続権が私に回って来たので、今は私の別荘になる。
塩で曇った窓を横目に、扉の鍵を開けて中に入る。中はがらんとした人気のなさと埃と潮の香りに満たされている。ひとまず、荷物を置いて、窓を開け放つ。ざあざあと漣の音が新鮮な空気とともに流れ込んだ。茶色の木目で統一された室内で、はためく白いカーテンと外の青い景色がよく映えている。
 ひとしきり、家の中を掃除して、ソファに体を沈める。窓から差し込む陽光で暖かい。あるのは海の音と私の呼吸と、実に静かな、質素な時間だった。私は叔父のように海を特別好きではないが、嫌いでもなかった。ただぼんやりと過ごすにはお誂え向きなので、この家に時々戻っては、時間の許す限り呆けていた。こういう時に、ちょうどいい場所だった。
 私の人生で、あと何度この家に戻るのだろうと思う。きっと、これからも時々来るのだろう。そして、その度に同じように、『あと何度』と思うのだろう。つくづく私はサメでなくて良かったと思った。幼き日に聞いた叔父の言葉を借りると、サメの寿命は未だに謎が多い上、400年以上生きたサメも発見されているらしい。私には400年など、耐えられない。そもそも、こんな広い海で生きられない。スマホが遠くで鳴っている。ラインの着信音なので放置した。ただ、じっと窓を見つめる。逆さまになった空の青と海の青、まるで絵のような一幕。風に前髪を撫でられる。心なしか風は塩辛い。
 ここは海の傍だからか落ち着く。生命の源、母なる海。包容もなければ拒絶もない。それがいい。変化は嫌いだ。私は何も変わらないというのに、周りはどんどん変わっていく。関係も、状態も。私の出来、不出来に関わらず。
 あの人は、元気にしているだろうか。あの人も、あの子も、あの人達も。すべてを覚えているわけでもないのに、どうしても惜しく感じる。ぷつりぷつりと何かが消えたり、途絶えた時なんか、特に。今回だってそうだ。私はつくづく、社会サイクルに乗り切れない。これでは海でも陸でも生きて行けない。いつだって波に揺られるだけだ。足には降ろされた錨が繋がっている始末。
 はあ、と息が口から溢れ伸びていく。狼煙のように白くはない。外では、カモメが飛んでいる。

溺れる信号

溺れる信号

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-07

CC BY-NC-ND
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