雨傘

雨傘

 何を買うわけでもなく暇つぶしに漫画本や実用書を暫く読み漁った後、外に出た。見上げると、灰色の曇天は来たときよりも重苦しくのしかかってくるように感じられる。雨が降り始めていた。一つ息を吐いて視線を落とすと、店の前の傘立てに手を伸ばし、乱雑に挿され押し合い圧し合いしている中から自分のを引き抜く。点々と錆の浮かんだ留め金を外し、ボタンを押すと頭上に褪せた紺がたちまち開いた。

駅まで続く大通りの両脇を様々な色彩が行き交う。それは絶えることのない通行人の差す各々の傘である。平日の昼時にしては人通りが多いとは思う。しかし、明らかに朝から雲行きが怪しかったせいか、ビニールでなくまともな傘を持っている人が多いようだった。一人一人の持つ傘は、道を行き交うまた他の一人一人の傘に囲まれ、時に端を触れ合わせながらお互い精一杯主張しているようにも見えた。空に向かって大きく張り出しながら、目的地に着いて再び閉じられ、細く畳まれるまでの束の間に。そんな中を同じように傘を差して歩く。天気のせいもあるのだろうか、気分は上がらない。いや、乱高下するのもまた御免だが近頃はずっと低空飛行気味である。視線は自然と落ちて、雨に打たれる歩道のタイルとその上を踏んでいく前を歩く人の踵を追っていた。
最近、いろいろなことがうまくいかない気がする。周りでは次々と内定の決まった奴が出ている中で手応えすら感じることが出来ていない自分に焦りを覚えない訳がない。ついこの前は、大学に入ってから長いこと付き合っていた彼女とはつまらないことで喧嘩別れしてしまい、その後少し苛立ちもあって注意を欠き、自転車で車と接触して軽いものの利き手の骨に罅を入れてしまったのだ。考えてみれば八割がた自分に非があるのは明らかだし、そういう訳で周りのせいにはできないことは分かっている。しかし、分かってはいても最近ツイてないなあ・・・とまるで他人(ひと)のせいか運のせいかとでもしたいという衝動に襲われるのである。そして、そこまで思い巡らして再び気分は憂鬱に戻っていた。駄目だ、これではいつまで経っても堂々巡りだ。切り替えよう。そう思うのも、今朝から何度めであろうか。地面から視線を引き上げて傘をずらし、中空を仰いだが、空には相変わらず厚い雨雲が垂れ込めていて、その圧力で足取りが余計重くなっているようにすら感じられた
まもなく駅に着いた。役目を一旦終えた傘を畳み、ふと今駅まで来た道を振り返る。さっきより少し雨足が強くなったようだ。見通しの良い大通りの向こうの方は霧がかかったように僅かに白く霞む。広い車道にも車はほとんどなくて、辺りは静かだ。傘の色彩の群れは今もそこを揺れ、流れていた。流れは奥から手前、手前から奥へと次々に湧き出るように続く。ここから見る外は、そんな眺めが駅の屋根で四角く切り取られて、一瞬を切り取って無限に引き延ばした一枚の絵のようだ。
最寄りはここから二駅だった。雨を弾かなくなってしっとりと濡れた傘を手に乗り込むと、ここもやはり人が少ない。そして目の前の座席の肘掛には白い傘。ドア脇の傘の真向かいに腰を下ろす。定められたルーティーンのように携帯端末を取り出して、しばらくほとんど惰性でネットの浅瀬を漂っていたが、すぐにそれにも飽きる。焦点は既に端末の画面を通り越して、向い席の足元にできたとても小さな水たまりに結ばれていた。水たまりには時折滴る雨滴が落ちていた。ほんの少し前に置き去りにされたのだろうか、あるいはよく雨も弾かないまま急いで持ち込まれたのだろうか。

窓の外、空は相変わらず鬱屈した様子だったが、厚い雲は延々と続いているのではなく、向こうの方ではその流れが切れ切れになって控えめに透き通った蒼を覗かせているみたいだった。窓から肘掛の傘に視線を移した次の瞬間、白いその傘が強く輝いているのが目に入ってきた。それは一瞬の出来事で、思わず目を疑った。しかし、数秒の間傘は確かに強く光を発していたのだ。但し、実際に傘そのものが発光したのではなく、雲間から一瞬だけ伸びた光条を乱反射させていたのではあったが。それでも俄かに信じられない光景である。わずかに広がった露先と膨らんだ先端がなす曲線と、光を受けて輝く雨滴が相まってそれは露に濡れる花や開きかけの蕾を連想させる。そんな光景を草花に顔を近づけて見たことはないし、見ようとしたこともない。けれどもそこには刻一刻と姿を変える自然が偶然に創り出す光景に共通する、儚さと気高さが兼ね備えられていた。同時に、安いビニールが発したとは思えないほど暖かく柔らかい光だった。
電車が減速を始める。もう最寄り駅に着く。それにしてもあの輝きは何だったのだろう。窓の外を見るも陽光が差したのは先ほどの一瞬だけで、厚い雲に再び覆いつくされて太陽が顔を覗かせる余地は既になくなっている。やはり幻かなにかだったのではないかとも思えたが、どうしても置き忘れられた白い傘の佇まいは頭から離れなかった。
ドアが後ろで閉まるのを聞いてから、自分もまたあの傘を取り上げることなく置いてきてしまった、と気づく。

駅を出て、帰り道にあるコンビニに立ち寄った。レジの前でふと横を見やると背の丸まった一人の老人が出ていくところだったのだが、その後の挙動が少しおかしい。はじめ傘立てから自身の傘を取り出そうとしているようだったが一向に取り出さずに、傘立てに向かったままじっと立っているのだ。困ったな、早く行ってくれるといいけれど。関わりあうのは避けたいと思った。
会計を済まして店を出ると老人はまだ店の前に立っていて、さらに悪いことにさっさと傘を取ろうと横から手を出したときに振り返った老人と目が合ってしまった。店内から見たときより小柄なおばあさんだった。元々小柄なのと背中が曲がっているせいでかなり見下ろす感じである。
「な、どうされたんですか・・・。」
何をしているのか問い詰めるはずが、こちらが悪いことでもしているが如く狼狽した言葉が口をついて出てきた。それを聞いておばあさんは驚いた表情を見せた後少し困った顔をして、
「傘を持ってきたんだけど、今外に出て見たら無くなっていてね。」
天気はまだぐずついていて駅を出た後雨はいったん止んでいたが、またぱらつき始めたようだ。一度乾いたアスファルトに点々と染みができ始めている。
「だいぶ長いこと使っていたものなのよ。」
と続ける。そんな、傘ぐらいでと思ったが、その表情の実に残念そうなのに気づいた。見知らぬ人に用事もないのに憶する様子も見せないあたりも含めてやっぱり普通ではないなとも思われたが、意外にも穏やかな口調に少し安心するとともにこのまま傘を取って足早に立ち去る気は起きなかった。
「今、確かに長く使えるものって少ないって言われますよね。」
「そうそう。本当にそう思うの。」
その後、そんなに顔に出ていたのか、お兄さん何かあったのとうかない様子の訳を訊かれて気づくと一通り話してしまっていた。しかし、なにかしら頭の中をしゃきっとリセットできる教訓めいた答えでも貰えるのかとの期待はまたもや裏切られた。おばあさんは軽く相槌を打っただけで、その上聞き終わった後はさもおかしな話を聞いたかのようにすらみえたのだ。店内から誰かが出てきて傘立てからよく見もせずに傘を引っ張り出して歩いていった。本屋と同様に傘立ては無造作に挿された傘で窮屈そうで、骨が曲がったり穴の開いたりしたものもある。小雨に近い雨はまだ降り続いている。人通りは少なく濡れて色の変わった路面を走る車のエンジンの音も聞えない。湿った匂いは長雨を予感させた。
「なんか、雨傘って少しかわいそうな物だと思いません? 普段は細く畳まれてずっとしまい込まれたままで、雨の日の僅かな間だけ使われるけれど雑に扱われることも多くて壊れやすい。・・・もちろんこれは傘に限ったことではないけれどね。」
再びおばあさんは口を開いた。しかし、唐突な内容に初めに話しかけられたときのように口ごもる。そんな自分に構わず、おばあさんは遠くの空を見つめて続けた。
「でもただ不憫だ、というわけじゃなくて・・・本当に大事なのは、色々なところで雨が来るのを長い間じっと待っていて、役目を果たせるときが訪れると短い間に銘銘がその身を精いっぱい大きく開かせようとすることだと思うのよ。」
聞きながら、脳裏には駅に向かう道での傘の列や、車内の置き忘れられた白い傘が浮かんだ。白い傘が見せた、窓から差し込んだ光を受けた輝きも、持ち主に置いていかれた後、長いこと待った末の光景だったのかもしれない。いや、それは既に自分の中では確信に近かった。あの輝きは今思い出しても刹那の出来事で、目にすることができたのも恐らく自分ひとりではあった。しかしそれは一人の目を疑わせるほどの美しさで一人の心を動かしたのだ。そこには大きな意義があった。もちろん他の傘もまた同じだと思う。
気づくと雨はさらに弱まり、ようやく止んで本格的に陽が出始めていた。たいしたことはない。もう少し、待ってみよう。澄んだ空を見上げ、いくぶんか軽やかな気持ちで傘立てから自分の傘を引き出した。

雨傘

雨傘

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-04-05

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