本日、マスク2枚の配布が決まりました。
「それで布マスクにはどのような効果が期待できるんだ?」
畳に正座して真面目な顔つきで尋ねてくる和尚に、思わず小僧の顔が引き攣った。
「それが、えーっと、その、医療現場では使われてないもので、余ってるからとか」
「疫病は予防できるのか」
僅かな期待を抱く老人の眼差しに小僧は一瞬だけ、言うのをためらった。
その一瞬の戸惑いを和尚はすぐに察した。
「・・・そうか」
「でもまぁ、ないよりはマシですから」
この恩人たる和尚を安心させまいと言葉を選んだものの、小僧は内心ではひどい世の中だと嘆いた。日に日に迫ってくる病の影に、戦々恐々としていく老人の姿を傍にいれば否が応でも小僧は見なければならなかった。なんとか出来ないかと日々考えを巡らすも、入ってくる報せは不戦敗ばかりで、まるで先行きが見えずにいる。
今日の報せで尚一層顔が曇ったのを見て、昨日ぽつりと和尚が「まるで戦時中のようだ」と呟いていたのを思い出した。
「本当にないよりはマシなものなのか」
「え?」
和尚が神妙な面持ちでじっと小僧を捉える。
佇まいを直して、改めて向き合うように小僧は答えた。
「まぁ、しないよりはしたほうがいいんじゃないでしょうか。コロナは小さいから布じゃ完璧には防げないらしいんですけど、それでもまぁもしかしたら運よく防げるかもしれませんから。それに、最近はどこにもマスクが売ってないもので、寺にある分のマスクもあと十六枚です。だからまぁ、送ってもらえるのは有難いことですよ」
「村の人らには物は足りてるのか」
「ええ、まぁ。一応はあるみたいですが」
平然を装ったものの内心で困窮する。
十数人ばかりが暮らす小さな村であるが、都や街の物資の乱れの影響がまったくないとは言えない。さらに言えば、今どこか一つでも十分に準備が出来ているところなどあるのだろうか。疫病に本当の意味で備えるならば、薬や寝床が必要だろう。テレビを通して人工呼吸器が足らないという訴えが毎日聞こえてくる。疫病が流行れば働き手が減る、収入がなくなると人の声が聞こえてくる。こんな小さな場所ですら戦々恐々しながらマスクの数を1枚1枚に数えては、日に日に減っていくのを垣間見るのである。これらの問題は、村だけの話じゃなく国全体世界全土の問題で、今現在、物が足りている場所があるのだろうか。余っているところがあるのだろうか。
小僧が顔を伏せていると再び和尚が尋ねた。
「皆の様子はどうだった」
この質問にもやはり小僧は言いづらそうにする。
「えーっと・・・まぁ、その、なんていいましょうか。前に高橋さんには会いまして大丈夫だとは言っていました。ただまぁ、街のほうが大変らしいので、この辺もほら、こないだ無用の外出は控えろとかあったわけですから、まぁここ数日は見かけていないんですけども」
「子供らは学校に行くのか」
「それが・・・どうなるかは、まだよくわからないそうで・・・」
和尚はまた小さく「そうか」とつぶやいてから仏様へと手を合わせた。懸命に祈る姿に思わず小僧も倣って拝礼した。
しかし、内心の疑念がつい口から飛び出す。
「・・・どうして仏様はみなを疫病から救ってくれないのでしょうか」
寂しげな声がキンピカの石像が鎮座する広間に響いた。
小僧は自分が口にした言葉にハッとし、慌てて弁明するべく和尚の顔を伺う。
いったいどんな顔をしているのか。
信仰を馬鹿にするなと怒るのか、それともそういうものだと諦めながらに笑うのか。
一瞬の間に、小僧はありとあらゆる予測を立ててみるも、その全ては外れていた。
「・・・・・」
なんとも言えないその表情は小僧には到底名状することができない。
その上であえて口にするならば、あれがおそらく信仰の≪境地≫なのだろう。
確信に満ちたその顔は怒るでも笑うでもなく、ただひたすらに真剣であった。
「あっ、いえ・・・その・・・」
なんと声をかければいいのか、一体どうすればいいか。
身の振り方に困っていると突如講堂の扉がひらかれた。
「お~い、いるかぃ」
この場にふさわしくない清涼な声と共に無作法な男が入ってくる。
見覚えのない顔につい首を傾げていると、和尚のほうが口を開いた。
「隆盛さん」
「よっ。元気してるか。とっちゃん」
その様子に思わず小僧は二人を見比べる。ずいぶんと親し気であるが年の頃はだいぶ離れている。皺だらけの和尚と違って、張りのある顔をしているこの男は、白髪一つない頭から察するに三十そこらか四十始めだろう。下手すれば二十代にも見えかねないほど若々しい。
和尚は気さくな男に礼儀正しく一礼する。
「弟子の岳太郎です。岳太郎、こちらは梓山隆盛さん。私の妹の旦那です」
「えっ!」
思わず素っ頓狂な声が出る。
そして二度ほどに和尚と梓山との顔を見比べては目をぱちくりとした。
「まぁ、歳はだいぶ離れているがね」
クスクスと笑いながら梓山は座布団を引っ張て来て和尚たちの横に座った。
「で、茶はでるかね」
「ここは飲食禁止ですよ」
「相変わらず固いねぇ」
「隆盛さんは相変わらず気さくで、安心しますね」
この無礼な男の態度から察するに和尚の言葉は皮肉である。
だが、小僧の想像とは裏腹に和尚の顔はどこか明るい。
「仏も相変わらず辛気臭い顔でいらっしゃる。まぁ元気そうでよかったよ」
梓山は仏様の石像を見上げながらにうんうんと頷いて笑う。
「まったく。今日はいったいどのようなご用件でしょうか」
「若い人はせっかちでいけないねぇ」
冗談交じりに言って梓山は懐から饅頭を取り出した。
「コロナの話は聞いてるかぃ」
「ええ。・・・もちろん、毎日ニュースになって入ってきますから」
「死人はでたかぃ」
何気ない一言に小僧はつい梓山を睨みつけた。
「いえ・・・、この辺ではまだそういう話は・・・」
そうか、と梓山は短く言って、仏壇へと饅頭を供える。
「ここが飲食禁止なら仏は一生ものが食えんね」
とぼけた顔で梓山はわざとらしく言って、丁寧に南無阿弥陀仏と拝んだ。
「そんなに深刻な病なのですか」
小僧が間に入って尋ねる。
「人が死ぬんだから深刻な病だろうねぇ」
呑気に返す梓山に反旗をあげるように小僧が言い返す。
「和尚のような高齢の方ならいざ知らず、私や梓山さんのような若い人には大げさのように聞こえてなりませんよ」
「若者だって死ぬときゃ死ぬさ。それにこの村には年寄りが多いだろう」
正論に小僧は口を噤む。梓山の言う通り、この村の平均年齢は高い。
数人の若者が平均を下げているだけでほとんど年寄りばかりである。
此処は、よくある地方の限界集落であり、高齢者ばかりの田舎村であり、若者が離れていくところである。
「こんなところまではいってきたら、ここの人らは死ぬしかないだろうねぇ」
あっけらんと言う梓山の一言に小僧の顔が赤くなった。同時に、和尚がなだめるように平常通りに答える。
「そうならないために日々気を張っておりますよ」
「まぁ、病は気からというからね。心棒が何より大事だねぇ、仏もそう思うだろう」
梓山が仏の返事を仰いでも石像は何も喋らない。
「実はね、今日。葬式の依頼があってきたんだ」
「え、こんな時期にですか」
「こんな時期だからだよ」
梓山が即座に返事をするものだから、思わず小僧が想像を膨らました。
「まさか、コロナの」
「いいや違うさ」
緩急いれずに返事がきて、小僧は胸をなでおろして安心する。しかし、すぐに梓山は言葉をひっくり返した。
「いや・・・、もしかしたらコロナのせいかもしれん」
「え」
「もしや肺炎の方が」
「いいや、それも違う」
梓山の顔から薄ら笑みが消える。
「電車だよ」
その一言に和尚の顔がどっと曇りを帯びて、どんよりとした空気が漂った。
「自分で命を絶つなんて病よりも惨い話だねぇ」
顔を伏せて小僧は黙り込む。
コロナの影響が大きくなるのに伴って経済も病気にかかったように停滞しているのは明らかだった。連日、自粛自粛と叫ぶ声が聞こえてくれば不況不況と反響する。世界全土の動きは目に余るものがあり、株価の暴落があちこちで起こっている。そして日本も類に洩れず、その波をくらっているのだ。
「株なんてやるもんじゃないですね」
小僧の何気ない一言に梓山はふっと鼻を鳴らす。
「なぁ坊主。禁忌ってのはなんで起きると思うかぃ」
ふいの言葉に小僧は面食らって返事に窮した。
「出来ると分かってることをやらないでいる、ってのは難しいことだよ」
梓山の悟ったような調子に高尚が弱く笑った。
「人間というのは、自制しながら育っていく生き物ですから」
「そりゃぁ、・・・・・そうだがね」
梓山は一瞬言葉に詰まり、改まった調子で尋ねた。
「なぁ和尚、自殺は悪かぃ」
「ええ。・・・最悪です」
即座に返事をしつつも、ぽつりと言葉を付け加えた和尚の顔は切なかった。
三人は少しばかり無言になる。
各々考えを巡らしては、何も言いださずにじっと座っている。誰も何も言わずにいると柔らかな日差しが室内に入ってきた。
心地よい日の巡りが仏の像に当たったとき、梓山が口を開く。
「その最悪を救ってくれる仏様はどこにいるものかねぇ」
梓山が喋らない石像を眺めて言うも釈迦も和尚も何も答えはしなかった。
ただ一人、小僧だけが言葉を返した。
「それでも、金がないだけで死んでしまうなんて罰当たりな話ですよ」
「ほぉ~。小僧は違うと」
やや恥ずかしながらに小僧が言う。
「ええ違いますよ。なにせ文無しでも生きていますから」
「そりゃぁまぁ」
「実をいうと私は金がなくてここに流れ着いてきたんです。まぁ、ホームレスといわれるぐらいには落ちぶれたことがありまして。世の中が嫌になって逃げだしたんです。・・・それでも、それでもねぇ、私のような人間でも助けてくれる人がおりましてねぇ」
小僧が恥ずかしそうに和尚を見れば、梓山が「へぇ」と眉を動かしながらに和尚と小僧を見比べた。
「だからまぁ、金がないってのは本当の問題じゃなくて、助けてくれる人がいないのが根本の問題だと思いますよ」
「そりゃぁ助けてくれる人に出会えるかどうかは運じゃないのかねぇ」
運勢に、小僧が反旗を掲げる。
「確かに運もあることでしょう。だけども・・・・。助けてくれる人に出会えるかどうか、それは確かに運ですけど、じゃぁ運がないからって、誰も助けずにただ死ぬことが良いことなのでしょうか。自分が苦しいからといって、それで助けられることだけを考えて、巧くいかなかったら運が悪いになって、誰かに責任があるかのように考えて、自分とか他人とかを責めて生きていく。人生ってそういうものなのでしょうか」
言葉足らずを補うように小僧がしっかりと前を見据える。
「梓山さんが言うように、自分を助けてくれる人に出会えるかどうかは分からない事です。けれども、自分は誰かを助けられる人になれる。それは誰もが、自分で選べることだと思います」
梓山が目を丸くしてから一気に表情を崩してクツクツと笑った。
「ずいぶん立派な和尚さんだことで」
「あっ、いえ」
照れた様子の小僧を見ながら梓山が和尚に目をやった。
「仏もきっと嬉しいだろうねぇ」
和尚は何も言わずに笑顔で応えた。
そうして一通り話を済ましてから梓山は帰っていく。
その日の夜だった。
小僧がなかなか寝付けずに夜の散歩に出た時である。
「自粛自粛といっても田舎じゃ普段から自粛してるようなもので、誰もいないなぁ」
いつも以上に静まり返っている民家の横を通り過ぎてから畑ばかりが続く光景を眺める。
夜風はひんやりとして冷たい。まだ寒い日が続いており、風が吹くたびに小僧はぎゅと上着を握った。
ここ最近、風が強いのもあってか夜空がとてもキレイである。星々が燦燦と輝いている。夜空を見上げながら何気なく歩いているとちょうど神社の桜が目に留まる。境内の桜は満開を迎えて徐々に散り始めているようだ。風情ある光景に思わず小僧の足も止まった。
淡い桃色の花びらは夜風で舞って星月の光を帯びる。高木が揺れれば一枚踊って散っていく。決して抗うことなく、風が吹けば一枚、また一枚と落ちていく。ゆらゆらと舞うその様はどうも踊っているようにさえ感じられた。
幽玄な光景に目を奪われていると突如、神社の鐘の音がなった。心臓が飛び出るほどに小僧は驚いて慌てて社へと目をやる。お化けにでも出くわしたかと必死になって人影を探すと、そこにいたのは見覚えのある人物であった。
梓山がこんな時間に参拝していたのだ。
「よかった・・・」
お化けなどいない事実を改めて認識してから梓山へと近寄る。
「梓山さん、まだいらしていたんですか」
小僧が近寄って声をかけるも梓山は拝んだままで何も言わない。
「梓山さん」
もう一度声をかけるも何も言わない。
不思議に思って徐々に近づいていくとブツブツと何やら呟いている声が聞こえてくる。
「・・・・を、・・・・ま・、・・・・・え」
背筋が凍った思いがした。同時に、正気の沙汰だとは思えなかった。
「梓山さん!」
思いっきり肩を揺さぶれば、梓山が振り返る。
「あ、ああ・・・。和尚さんかぃ。どうしたんだ、こんな時間に」
急に我に返ったような様子の梓山からはだらだらと冷や汗が落ちている。
「それはこちらの台詞ですよ、こんなところで何してるんですか」
強引に引っ張って帰ろうとする小僧の手を梓山は振り払った。
「・・・・なぁ、和尚の小僧さん。今日はなぁ、なぁ、今日はなぁ、祈っていたいんだ」
「どうしたんです、急に」
「頼むよ、止めないでくれ。お願いだから止めないでくれ。今の俺にはこれしか出来ないのだから」
錯乱した様子の梓山の目からぽたぽたと涙が零れだした。
呆気にとられている小僧を見とめてか、梓山が不自然な笑みを浮かべる。
「ハハハ、本当どうしたんだろうな、・・・どうしたんだろうなぁ。でもなんだか、今日はなぁ、祈っていたい気分なんだ。どうしても神様というやつに祈っていたい気分になったんだよ」
静寂とした境内で二人を照らす月は煌々と輝いている。
「最近なぁ、どうも、だめなんだよ。よく夢を見るんだ。奇妙な夢ばかりみるんだ」
それきり何も言わずに梓山はまた祈り始めた。
小僧はぼんやりと憐れな梓山を見ながらしみじみと思う。
祈ってばかりいても誰も救われない。
コロナが無くなるわけでもないし、経済が回復するわけでもない。
こんな夜中に神社で祈っていたって何にもならないのに・・・。
それでも、必死になって祈ってる梓山に何も声をかけられずにいた。
――――その翌日である。
日本は緊急事態宣言が発令された。
台湾からはマスクの洗い方が伝わってきた。
アメリカは医療防護品の輸出禁止の方針を明らかにした。
ウクライナでは、チェルノブイリ原発付近の火災が発生した。
そして、世界保健機関は三十~五十代の人の死亡リスクについて伝えたのであった。
世界は、徐々にだが、確実に変動しつつある。
四月四日のとある日へ。
本日、マスク2枚の配布が決まりました。
そして、私の街ではコロナ感染者がみつかりました。
感染した人の一日も早い回復を心からお祈りします。
それから梓山は自粛してください。