時の流れ

 彼の奥様とは一度もお会いしたことはないが、季節になると送られてくる物がある。はるみちゃん、なつみちゃん、せとみちゃん。どれも美味しいみかんで私と孫娘の大好物。送られてくるのを毎年楽しみにしている。孫は果物が大好きで、一度に沢山食べるから注意するほどだ。
妻は奥様と電話で親しく話せるが、私は話すことが困難である。その代わり、妻に新潟の特産品を大島に送ってもらう。奥様は最近夫を亡くされた。寂しい思いをされているだろう。
私の大学時代の友人であるk君は山口県大島出身。スポーツマンでマラソンは学内一番、勉強もよく出来た。医学生がこれまでのインターン教育や医局制度に反対して起った大学紛争がやや落ち着いてきたころ、大学でも幾つかの案が学生側に示された。しかし双方の歩み寄りは困難で、紛争は長引いていた。
そんな混沌とした状況の中で行われた第一回内科専門医認定試験は全国で4人の合格者を出した。彼はその中の一人。内科疾患全般に渡って患者を受け持ち、カルテを指導医に見てもらいながら質問されたらしい。多くの病気をみるために彼は自衛隊中央病院で卒後臨床研修を始めた。そしてマラソンランナーらしくコツコツと努力して最良の結果を出した。私は彼の姿を思い描きながら合格祝いの電話をかけた。嬉しそうな彼の声を聴いたのは言うまでもない。
一方、私は内科専門医のコースをとらずに母校の内科教室で研究生となった。大学卒業後すぐに行われた医師国家試験をパスしたので少しの診療手当は支給された。しかし、みんなで分けるとわずかな額だった。相変わらず研究生の実態は従来通りの無給医と同じ様だった。このころ私は結婚して長男も生まれていたので若手医師が普通やるように私も他病院に勤務して生活費を稼がなければならず、加えて昼夜を問わずの研究実験もおこなったから結構まいにち忙しかった。疲労や苦労があったけれど、家族が待っている家に帰れば解消された。
私は論文を提出して一区切りがつき、今後のことを妻と話し合った時に妻は私が何処に行こうとついてくると言ってくれた。この嬉しい言葉を受けて、私は山の小さな病院に務めることにした。夜になると子供と連れ立ってカブトムシを獲った。その日々が忘れられない。
さて、彼と私は大学入学の日が初対面だったが、お互いに気が合い二人で酒を飲み、人生の話もした。私の家に泊り、妻と子供に会って貰ったこともある。その彼が先に逝ってしまったとは、すごくさみしい。
私は病気について彼から全く知らされなかった。ある時、海外旅行に行かないかと誘われたが、受けるべきだったと後悔している。彼は私に話したいことがあったのかもしれない。私も彼に聞いてみたい事があった。だがもう今となっては遅い。これは私の思いに過ぎない事だが、昔で言えば彼は長州藩、私は会津藩の人間だ。しかし二人共そのことを知ってか知らでか戊辰戦争の話は一度もしなかった。たとえ我々の先祖は幕末に戦っても、時は流れ、後の世代の我々は仲良しだった。それでいいではないかと思う。2020年4月1日

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